京の風水害など 平安京遷都~1300年頃
律令制の統治機構

・鴨川の「洪水・氾濫」、「衆徒・神人」を取りあげる(数字は年、月、日)
 1.風水害のみ(疫病の年表)
 2.寺社の衆徒・神人(僧等強訴の年表)
 3.全般
 4.語句の解説

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1.風水害のみ(鴨川の氾濫による疫病がテーマ、火災・大風の被害は省略)
750年~:
763.6.27山背と摂津二国に疫病発生し賑給する10.4天皇、山背国に行幸する
794.10.22天皇、新京に車駕を遷す
797.1.25愛宕・葛野両郡の人が家の傍らに死者を埋葬すること禁ず8.9大風によって京中の百姓の家屋が多く破壊される8.14地震と暴風により左右京坊門、百姓家屋など多く倒れる、799.9.7暴風により京中家屋の多くが破壊される
800年~:
800.4.9王臣や毫民が山林を伐採すること禁止ただし東寺・西寺の用材は例外とする10.4山城・大和などの国民を徴発し葛野川(参照本文)の堤を修理させる
807.12.25京中に疫病が流行し病人に賑給する
815.7.25水害により左右京と畿内の今年の田祖を免じる
810.1.7左京飢餓にて賑給する
813.6.1京畿において路傍に餓死する人を放置することを禁じる
818.4.23左右京職に行路の死者を埋葬させまた飢餓者に賑給する
819.11.5左右京職に職掌各二名をおく、この日、京中閑地を願い出た人に払い下げる
822.1.26左右京職大夫の官位を従四位下相当とする
824この年、防鴨河使・防葛野河使が置かれる、826.8.27左右京(参照本文)の飢民、病人、水害の被害者に賑給
828.5.23京中洪水激しく左右京に賑給する
831.5.25京中の飢餓百姓に賑給
833.5.28左右京の京戸に東西堀川杭料として檜柱一万五千株を出させる
838.8.28大雨により上賀茂社、下鴨社、松尾社、乙訓社などに奉幣する
841.9.1洪水により京中の民屋、橋梁など多く流失する
850年~:
850.1.26群盗横行によって左右京職、五畿内諸国使らに捜捕させる、2.3六衛府の官人に京中の盗賊を捜捕させる
857.3.16衛府・検非違使・馬寮を京南に遣わし盗賊を追補させる10.23夜、女盗が蔵殿に入り捕らわれる
858.5.22大雨により洪水死者多数でる
860.8.27盗人、神祇官西院斎戸神殿に入り衣などを奪う9.15大洪水にて被害多く出る
861.8月赤痢が流行し十歳以下の男女が多く死ぬ
862.3.8左右京職に命じ兵士を置き朱雀大路の各坊門を守らせる3.15京内の保の制度を強化し貴族・皇族たちにも保長を出させる9.17京中の人家の井戸涸渇し神泉苑の水を汲ませる
863..1.27京畿、畿外に咳逆病流行し、死者が多く出る、京内の飢民、病人に賑給5.20神泉苑において御霊祭を行う
869(年表にないが)御霊会は祇園会となる祇園祭の起源
871.3月、京中に盗賊多く近衛府官人に夜警させる8.11雨止まらず左京35家138人右京630家3995人が水損に会い、穀、塩を与える
873.6.22京中飢餓により倉廩を開いて賑給
874.8.24大風と大雨により京中の道橋・官舎・民屋多く破損
877.1.27京中畿内飢餓により左右京中に常平司を設けて官米を売りまた賑給
879.9.25鴨川唐橋(九条通、鴨川に架かる)が大半を焼失する
887.8.20大風雨により民家多く倒れ鴨川や葛野川など洪水
884.9.16近江国と丹波国に高瀬舟を造らせ、神泉苑におくらせる
889.6月洪水により京中に餓死者多くでる
891.9.11京戸の子弟が諸国に居住することまた諸国の百姓が京戸に入ることを禁止する
894.10.5左右検非違使庁を定めて毎日政を行わせる11.30検非違使に大井、予度(淀)、山崎、大津等を巡察させる
896.4.13鴨川の東西の堤を耕作することを許す
900年~:
907.10.13京戸口分田の地子徴収の例を定める
908.7.9左右京職に路辺の骨を埋葬させる
909.6.19公卿たちに鴨川堤を巡検させる
911.6月霖雨やまず洪水氾濫
915.7月鴨川と東堀川をせきとめて、材木を運漕することを禁ず、9、10月疱瘡(参照本文)が大流行
917.11.20渇水により神泉苑を解放し庶民に汲ませる、この年、京中の井泉が涸渇する
918.8.17洪水で淀川があふれる
923この年、咳病が流行する
924.5.7鴨川があふれる
926.5.7防鴨河使を廃して検非違使に付す
929.7.26鴨川の決壊などの被害多く出る8.15洪水により七条南は人馬不通、京南の田も海のように冠水
938.4.15大地震により京中の官舎や民屋が多く倒れる6.20鴨川氾濫して、西堀川以西は水浸しになる8.6再び大地震が起こる
947.8.17疱瘡・赤痢の流行により京中に賑給
948.8.1鴨川・大堰川が氾濫する
962.5.27鴨川堤破れ京路不通
966.8.19桂川氾濫五、六条以南が海のように
968.5.26京中が海のようになる9.9洪水により京中、畿内の人々に賑給する
974.5.7祇園社感神院を天大別院とする
979.5.13内裏に盗賊が入る、7.15大雨による洪水で京中が大河のようになる
987.8.5朝廷の手ではじめて北野社を祀る
989.8.13大風雨により殿舎や民屋が多く倒れて鴨川堤が決壊
994.5.3堀川の水が死人によりあふれる
995この年、前年に続き疫病が大流行する
996.6.13囚人の飲料水を得るため東獄門の前に井戸を掘る、閏7.10鴨川の水が氾濫
998.9.1大雨により一条堤が破れ鴨川が大反乱する
1000年~: 1000.8.16大雨により鴨川が決壊、洛中が洪水
1002この年、夏より十一月までの炎早のため四条以北の井水が尽きる。人々、藤原道長の批杷(びわ)殿の水を用いる
1004.3.12.鴨川を改修し、珍皇寺と清水寺を修理6.2鴨川の新堤が決壊
1015.6.25疫病が流行し京都の庶民たちが右京花園に今宮社を建立、この日、同社において御霊会が行われる7.15大雨により紙屋川、堀川、東洞院川などが氾濫
1016.6.28越前敦賀の群盗が入京するという噂が流れ検非違使が京中を警備する
1017.2.27盗賊が道長宅に入り金二千両を取る7.2大雨により鴨川が氾濫し富小路以東が海のようになり悲田院の病人300人流される
1022.4.1魃大雨による洪水、民屋多く流される
1028.9.2鴨川氾濫、富小路以東、海のようになる
1029.4.21大雨にて鴨川が氾濫する
1032この年、春から夏にかけて早魃が激しく宇治川や淀川が歩いて渡れる
1040.5.22盗賊が内裏に入る11.2京中に放火が多く検非違使に夜行させる
1044この年、春から夏にかけ疫病が流行し死者が多くでる
1046.5.27洪水が起こり、堀川、洞院川などが氾濫する
1050年~:
1073.5月この月、20年来といわれる大洪水が発生する
1093この冬、疱瘡が流行し小児が多く死亡する
1094.5.20少納言藤原家俊が青侍を率いて田楽を行い京中を横行する
1096.6月この月京中に田楽が大流行する、11.24大地震により大極殿・法成寺などが損壊する
1098.6.3鴨川が氾濫
1099.2月、早魃により京中の井水が涸渇する
1100年~:
1105.5.14鴨川桂川が氾濫し、鳥羽殿が浸水する
1106.6月、京中下人の間に田楽が流行する、春頃からにわかに飛礫が発起する
1107.5.27前年より京中に飛礫が流行し検非違使が禁止する
1114.3.9京内で飛礫をする者を捕らえる4.24京中飛礫輩10人を捕らえる
1127.7.12鴨川氾濫し被害多く出る
1129.閏7.7京中に殺人・強盗が横行する、この年、白河上皇没す
1132この年疫病が流行し、死者が多く出る
1134.5.17鴨川桂川、西堀川などが氾濫し、家屋・人命に被害多く出る、この年、大雨、洪水、悪疫、飢餓が流行する
1135.この年、疫病が流行し飢餓者が道路にあふれる
1136。3.12観音院が焼亡するこの年飢餓が流行し、餓死者が多く出る
1137.2.10南都興福寺七千余人が京都に強訴する
1138.3.8京中に大火事あり公卿の邸宅が多く焼ける
1142.6.18鴨川が未修理のため水害が起こり、そのため修理宮城使、防鴨河使を任命9.2鴨川が氾濫し民家などが流出する
1149.8.10大雨により桂川浮橋が流失する
1150年~:
1150.8.28洪水のため交通が所々で絶える、この月、咳(がい)病が流行し死者が多く出る
1151.7.8大雨によって洪水となり、宇治橋が流失する
1170.6.2大雨により洪水起こる
1173.5.9鴨川が氾濫する
1182この年、年来の飢餓で数万人の餓死者が出る
1190.8.16大風によって鴨川桂川などが氾濫する
1192.8.28大雨によって鳥羽辺に洪水が起こり、法成寺も浸水する
1193.1月疱瘡が流行する
1199.5.10洪水によって八条北の民家が多く流失する、7月京都に瘧病(おこりやまい:マラリヤに近い熱病)が流行する
1200年~:
1207この年夏疱瘡が流行する
1226.12.24京都大地震
1227.1.10群盗横行のため、武士を洛中各所に配して夜警を行う
1228.7.20暴風雨のため洛中が洪水となり鴨川氾濫し、四条・五条等の橋梁、賀茂社端垣、貴船社拝殿初め民家が多く流出する
1230.5.21暴風雨のため賀茂川氾濫し人々衣を脱して渡る10.20延暦寺衆徒入洛し狼藉働く
1231.2月群盗が横行し疫病もまた流行する4.6飢餓が極頂に達し、各地の流民が多く京都に達するが餓死し、死人が道路に充満する5.22洛中の飢餓が甚だしいため、党を組んで富家に侵入し、飲食し、借銭・借米を強請する者ある。よってこの日、武家をしてこれを取り締まる6.4これより先、 霖雨のため賀茂川溢水(いっすい)し、川原に死骸が散乱する。祇園御輿迎えにより、この日、川原の清掃を行い、また止雨奉幣を行う7月飢餓甚だしく餓死者、日とともに増加する
1234.8.3七条と八条の間の富裕の商人街に火災あり9.16大地震あり
1237.6.1大地震あり
1243.6.14祇園御霊会で武士と宮仕法師が闘争する
1244.1.27松尾山崩壊し大堰川を防ぐ
1245.7.26大地震あり
1250年~:
1252この年大飢饉で、米1升が百銭となる
1256.6.16祇園社僧、清水寺僧徒と闘争する
1268.2.5去月以来蒙古襲来の風説あり
1281.7.14これより先一日の大風雨にて元の兵船転覆没し元兵多く溺死する
1284.閏4.17洪水、町通、西洞院通の小屋等が多く流出する
1288この年、夏以降疫病流行し宣旨を下して法勝寺以下五カ寺をしてこれを祈祷する
1289.6月ごろ疫病の流行のため南都七大寺および延暦寺において大般若経を修する
1295.5.14霖雨、洪水数日におよび河東との交通が途絶する
1300年~:
1312.5.23賀茂川洪水、六波羅門外に至る。今出川第の門流失し市民も多く溺死する(以後は省略)
京の人が風水害に苦しんだこと、為政者が庶民救済の施策をしていたことがわかります。

2.寺社の衆徒・神人
750年~:
794.9.28遷都と征夷のため諸国名神に奉幣する
796この年東寺・西寺・鞍馬寺を創建する
800年~:
800.4.9王臣や毫民が山林を伐採すること禁止ただし東寺・西寺の用材は例外とする
802.2.6神泉苑で舟を浮かべて宴遊がある、このころより天皇や廷臣の宴遊の場となる、この年、清閑寺が創建
811.2.3先に没した坂上田村麻呂の墓地として宇治郡の地三町を与える
818.5.8愛宕群貴船社を大社とする
821.7.23新銭二万銭を空海に施す、この年、藤原冬嗣、三条北・坊域東に勧学院を創設
824.11.17山城国地五町九段を大学寮に与える
836.2.1遣唐使のため天神地祇を北野に祀る
838.8.28大雨により上賀茂社、下鴨社、松尾社、乙訓社などに奉幣する
850年~:
859.8月宇佐八幡宮を綴喜郡石清水男山に勧請する
863.9.6僧真紹、愛宕群道場一院を定額寺とするを請い禅林寺という
873.8.23神護寺の銅鐘が造られる
890この年、珍皇寺焼亡する
894.10.5左右検非違使庁を定めて毎日政を行わせる
900年~:
907この年、醍醐寺を御願寺とする、京中に深紅色の衣服が流行する
953この年、上賀茂社を造営する
959.3.13祇園感神院が清水寺と乱闘し検非違使が制止する
967.8.1延暦寺僧兵の乱暴(参照本文)を禁止する(武士の胎動はまだで僧が乱暴する)
974.5.7祇園社感神院を天大別院とする
980.1.24岩倉大雲寺観音院を御願寺とする
985.2.22皇太后昌子内親王が観音院を供養する
987.8.5朝廷の手ではじめて北野社を祀る
9982.15た太皇太后昌子が荘園を岩倉観音院に寄進する
1000年~:
1002.7.17僧観修が岩倉長谷の解脱寺常行堂を供養する
1004.3.12.鴨川を改修し、珍皇寺と清水寺を修理
1046.5.27洪水が起こり、堀川、洞院川などが氾濫する
1050年~:
1050.1.20伊勢神宮禰宜等、神民を率いて入京
1063.2.16源頼義が安倍貞任の首を携えて入京、、検非違使が西獄門に梟す
1066.5.15四条釈迦堂の僧文豪が鳥辺野で焼身自殺する
1081.3.25多武峰僧が洛中に入り強訴を企てる
1093.3.18熊野山僧が内裏に乱入8.22興福寺大衆が数千人春日神人を率い、鋒神木を捧げ鏡鈴を随身して入京勧学院に集合、強訴する(春日神木入洛の最初)
1094.5.20少納言藤原家俊が青侍を率いて田楽を行い京中を横行する
1095.10.24美濃守源義綱、美濃国山門領荘園にて山僧と合戦し殺害する。これによって、この日、山門日吉神人、日吉社神輿を動座する。これについて朝廷、西阪本に軍兵を布陣する(神輿動座の最初)
1096.6月この月京中に田楽が大流行する、11.24大地震により大極殿・法成寺などが損壊する
1100年~:
1102.8.18興福寺大衆が蜂起入洛する噂により12日宇治橋を破壊し、この日に復旧する
1104.10.6ころ法楽禅師という悪僧が武士を率いて京中を横行する
1105.1.1延暦寺大衆強訴し、また祇園神人神輿を舁いでこれに参加する10.30延暦寺衆徒、日吉神人、石清水神人が陽明門に強訴し、闘争する
1106.6月、京中下人の間に田楽が流行する
1108.2.21延暦寺、園城寺の衆徒が入京し強訴を企てる。検非違使、武士等にこれを防がせる
1113.3.21興福寺大衆が入京して強訴3.29延暦寺大衆が清水寺の房舎を破壊4.24軍兵を宇治南坂に派遣し興福寺大衆の入京を防がせる4.29延暦寺と興福寺が対立して戦わんとする検非違使平正盛・源光圀らを宇治、西坂本に派遣してこれを鎮圧せんとする
1114.6.8逢坂の関山で院御領臥見(伏見)下人と日吉社大津下人が乱闘、大津下人七人が飛礫をもって相手を打つ
1123.7.18延暦寺衆徒等鴨川原に神輿を打捨て帰山
1129.閏7.7京中に殺人・強盗が横行する、この年、白河上皇没す
1135.この年、疫病が流行し飢餓者が道路にあふれる
1136。3.12観音院が焼亡するこの年飢餓が流行し、餓死者が多く出る
1137.2.10南都興福寺七千余人が京都に強訴する
1147.7.15延暦寺衆徒の入京を防ぐために如意山路、今道を警固する
1193.3.25右獄から囚人十四人が脱走する7.4宋銭の流通を禁止する
1150年~:
1150.8.5興福寺の衆徒、春日神人ら数千人が入京し、勧学院に至る
1157.6.14公家によって奉仕されていた祇園御霊会の馬長、洛中の富家を差定してこれに当たらせる
1158.8月醍醐寺が宇治部の寺領坪付を勧注する。また、山城国が小野郷と石田郷の地六十六町一段余を醍醐寺領として認可する
1163.7.10延暦寺僧と日吉神人が京内で出挙する(利子付き貸借する)ことを禁ず
1185.4.25義経が凱旋し、翌日、敗軍平氏の将が入京する
1192.8.28大雨によって鳥羽辺に洪水が起こり、法成寺も浸水する
1194.3.30醍醐寺桜会の時をきっかけに延暦寺・興福寺の僧が蜂起する
1200年~:
1228.6.19醍醐寺住僧200余人が勧修寺を襲い客舎および在家を焼く7.20暴風雨のため洛中が洪水となり鴨川氾濫し、四条・五条等の橋梁、賀茂社端垣、貴船社拝殿初め民家が多く流出する
12304月、六波羅が僧徒の兵具を帯する者を捕らえて鎌倉に押送する10.20延暦寺衆徒入洛し狼藉働く
1231.2月群盗が横行し疫病もまた流行する4.6飢餓が極頂に達し、各地の流民が多く京都に達するが餓死し、死人が道路に充満する5.22洛中の飢餓が甚だしいため、党を組んで富家に侵入し、飲食し、借銭・借米を強請する者ある。よってこの日、武家をしてこれを取り締まる6.4これより先、 霖雨のため賀茂川溢水(いっすい)し、川原に死骸が散乱する。祇園御輿迎えにより、この日、川原の清掃を行い、また止雨奉幣を行う7月飢餓甚だしく餓死者、日とともに増加する
1234.10.1山伏数百人が法成寺辺りに集まる摂政九条実第に強訴する
1235.7.23延暦寺衆徒、宮仕法師を殺害した佐々木高信の断罪を迫る、12.12幕府、六波羅に山門悪僧交名を注進させる
1237.6.1大地震あり
1239.9.11諸国地頭、延暦寺僧および商賈の債権者をもって代官とすることを禁ずる
1243.6.14祇園御霊会で武士と宮仕法師が闘争する
1245.7.26大地震あり
1250年~:
1256.6.16祇園社僧、清水寺僧徒と闘争する
1268.2.5去月以来蒙古襲来の風説あり
1269.1.10延暦寺梶井青蓮院の僧徒、日吉神輿三基を奉じ入洛する、六波羅、兵を発してこれを防ぐ。僧徒神輿を途に捨てる。命じて祇園社に遷す6.14祇園御霊会で兵士と神人が闘争し死者が出る
1274.1.27逢坂関において督使等が園城寺衆徒等の狼藉をうける、10.18これより先、十月五日、蒙古の兵三万が対馬に来る。この日、太宰府の飛脚が六波羅に至り、このことを告げる
1278.1月建仁寺焼亡3.5八幡神輿入京5.12園城寺の金堂供養があり勅会に準ずる。延暦寺の衆徒これを怒り日吉神輿を奉じて入洛しこれを妨げる5.16日吉神輿が帰座する、この日、延暦寺衆徒三井寺長吏隆弁の鹿谷坊を焼く
1281.6.23石清水八幡にて異国降祈願のため一千法華経の転続を行う7.14これより先一日の大風雨にて元の兵船転覆没し元兵多く溺死する10.4春日神木入洛せんとする、この日、宇治橋。稲荷辺りに武士等これを拒ぐが六日に至り入洛し法成寺金堂に入る
1282.3.28石清水の神人蜂起する。神輿を内裏に振るとの巷説あり8.8石清水神人、兼平第の門前に群参して嗷訴する
1283.1.6延暦寺、日吉。祇園等の神輿を奉じて禁中に乱入し四脚門を破壊し常御所に入って狼藉するまたこの責を在京武士に問うが弘安の役の海防の旨をもって幕府その咎を免除する2.2日吉および北野社の神輿再び入洛するとの巷説がある。そのため京中騒動する8.17延暦寺、神輿の入洛に際して狼藉におよぶ官仕六人等、四条橋詰めにおいて使庁に引き渡され直ちに禁獄される
1284.閏4.17洪水、町通、西洞院通の小屋等が多く流出する
1284.閏4.17洪水、町通、西洞院通の小屋等が多く流出する
1285.3.18松尾社が焼亡12.17東寺の塔成る
1286.3.20醍醐寺に桜会がある
1288この年、夏以降疫病流行し宣旨を下して法勝寺以下五カ寺をしてこれを祈祷する
1289.6月ごろ疫病の流行のため南都七大寺および延暦寺において大般若経を修する
1291.3.16山門の衆徒二人、北野社において狼藉し殺害される
1294この年、日蓮の高弟日像が入京し以後、法華宗が京都に広まる
1295.5.14霖雨、洪水数日におよび河東との交通が途絶する
1297.6.19多武峰神人、神木を奉じて入洛し鷹司兼忠第に群参する
1299この年、清水寺焼亡する
1300年~:
1313この年、日吉神輿造替につて京都の土倉に課税するも「山門気風」の土倉は課税から除外する。そのため土倉ら、その喜びとして七百五十疋を納める
1314.3.17興福寺衆徒、春日神木を動座し入洛、閏3.4石清水八幡神人、神輿を奉じて入洛5.1新日吉神人ら六波羅北方の武士と闘争する5.7延暦寺衆徒、六波羅北方の武士と合戦する
正和年間(1312~16)このころ京都の土倉三百三十五軒を数えるという
1317.1.3大地震1.5再び大地震、内裏の梁棟傾く、人家の転倒も多い、清水寺塔が焼失する、以後、数ヶ月余震やまず2.13石清水八幡の神人、神輿を奉じて入洛を企てるが武士等これを大渡橋上に防ぐ。神人、神輿を捨てて去る
1318.2.18醍醐寺三宝院が炎上
1319.1.19東大寺八幡神神輿入洛し、塩小路河原に振棄る2.7東福寺炎上する(以後は省略)
僧と僧との乱闘、僧と武士との乱闘、僧・神人と武士との乱闘などいろいろありました。「蒙古襲来」後にも、衆徒(大衆)・神人は神輿・神木を奉じて入洛しています。幕府が疲弊しているときに「何をしてんの」「ようやるわ」といいたいです。ただ、寺社の焼亡が多く、僧・神人による祠堂金というかたちで「銭集め」するのも理解できないこともありませんが

3.全般
750年~:
763.6.27山背と摂津二国に疫病発生し賑給(しんごう/しんきゅう)する10.4天皇、山背国に行幸する
792.1.23山背国の地四十町を大納言紀船守に与える8.4山背国紀伊郡深草山西面での埋葬が京城に近いという理由で禁止される
794.6.25諸国の役夫五千人を徴発し新宮を掃除7.9山背、河内、摂津、播磨等の国稲一万一千束を王臣十五人に与え新京の家を作らせる9.28遷都と征夷のため諸国名神に奉幣する10.22天皇、新京に車駕を遷す10.28都に近いことから鴨神・松尾神に階を加え諸人に官位を与える11.8山背国を山城国とさだめる、この年に平野社を建てる、この年岩倉・栗栖野瓦窯がようや摂津・古志部瓦窯などで緑釉瓦を生産
796この年東寺・西寺・鞍馬寺を創建する
797.1.25愛宕・葛野両郡の人が家の傍らに死者を埋葬すること禁ず3.17造営のため遠江、駿河などの国から夫二万四十人雇う5.8宇治橋を作らせる8.9大風によって京中の百姓の家屋が多く破壊される8.14地震と暴風により左右京坊門、百姓家屋など多く倒れる
798.8.9大風によって京中の百姓の家屋が多く破壊される10.4左右京や畿内の夜祭に事寄て男女が会飲・歌舞して淫奔(いんぽん)すること禁止する
799.9.7暴風により京中家屋の多くが破壊される
800年~:
800.4.9王臣や毫民が山林を伐採すること禁止ただし東寺・西寺の用材は例外とする7.19天皇神泉苑(神泉苑の初見)に行幸10.4山城・大和などの国民を徴発し葛野川の堤を修理させる
801.4.27左右京職の健児(参照本文)を停止し兵士を復活させる
802.2.6神泉苑で舟を浮かべて宴遊がある、このころより天皇や廷臣の宴遊の場となる、この年、清閑寺が創建
805.10.19坂上田村麻呂、官符をもって寺地を得、清水寺を創建する
807.5.4宮城の北野に新たな馬埒(ばふ)を開く12.25京中に疫病が流行し病人に賑給する
808この年、疫病大流行し死者多くしばしば賑給する
810.1.7左京飢餓にて賑給する
811.2.3先に没した坂上田村麻呂の墓地として宇治郡の地三町を与える
813.6.1京畿において路傍に餓死する人を放置することを禁じる
814.閏7.27天皇、嵯峨院に行幸(嵯峨院の初見)
815.1.21尾張、参河(三河)等七国の役夫一万九千八百人を徴発して朝堂院(参照本文)を修理させる7.25水害により左右京と畿内の今年の田祖を免じる
818.4.23左右京職に行路の死者を埋葬させまた飢餓者に賑給する5.8愛宕群貴船社を大社とする
819.11.5左右京職に職掌各二名をおく、この日、京中閑地を願い出た人に払い下げる
821.7.23新銭二万銭を空海に施す、この年、藤原冬嗣、三条北・坊域東に勧学院を創設
822.1.26左右京職大夫の官位を従四位下相当とする
弘仁年間(810-824)神泉苑は遊宴の場として最盛期を迎え、三月観花、七月納涼、九月菊酒が恒例化する
824.11.17山城国地五町九段を大学寮に与える、この年、防鴨河使・防葛野河使が置かれる
826.5.8渤海の使入京し鴻臚(こうろ)館に入る8.27左右京(参照本文)の飢民、病人、水害の被害者に賑給
827.1.19天皇の不予は稲荷社の樹の伐採によるトしこれにより稲荷社に神位を贈り謝す
828.5.23京中洪水激しく左右京に賑給する
831.5.25京中の飢餓百姓に賑給
829.10.10天皇、泥濘池(みぞろがいけ)と紫野の紫野院に行幸する
833.5.28左右京の京戸に東西堀川杭料として檜柱一万五千株を出させる
834.10.7嵯峨院の寝殿が新造される
836.2.1遣唐使のため天神地祇を北野に祀る
838.8.28大雨により上賀茂社、下鴨社、松尾社、乙訓社などに奉幣する
841.9.1洪水により京中の民屋、橋梁など多く流失する
850年~:
850.1.26群盗横行によって左右京職、五畿内諸国使らに捜捕させる、2.3六衛府の官人に京中の盗賊を捜捕させる
853.4.25疱瘡の流行により賀茂祭を中止する8.1右京に失火、民家百八十余焼失する
857.3.16衛府・検非違使・馬寮を京南に遣わし盗賊を追補させる10.23夜、女盗が蔵殿に入り捕らわれる
858.5.22大雨により洪水死者多数でる
859.8月宇佐八幡宮を綴喜郡石清水男山に勧請する
860.8.27盗人、神祇官西院斎戸神殿に入り衣などを奪う9.15大洪水にて被害多く出る
861.8月赤痢が流行し十歳以下の男女が多く死ぬ
862.3.8左右京職に命じ兵士を置き朱雀大路の各坊門を守らせる3.15京内の保の制度を強化し貴族・皇族たちにも保長を出させる9.17京中の人家の井戸涸渇し神泉苑の水を汲ませる
863.9.6僧真紹、愛宕群道場一院を定額寺とするを請い禅林寺という
864.9.4市籍にある者が司諸家に仕えるのを禁ず
866.6月、旱魃により飢民多く京中の人々が東堀川の鮎魚を捕らえて食する9.25下鴨社に近接することから愛宕群神楽岡辺に葬歛(そうれん)することを禁ずる
863..1.27京畿、畿外に咳逆病流行し、死者が多く出る、京内の飢民、病人に賑給5.20神泉苑において御霊祭を行う
869(年表にないが)御霊会は祇園会となる祇園祭の起源
870年~:
871.3月、京中に盗賊多く近衛府官人に夜警させる8.11雨止まらず左京35家138人右京630家3995人が水損に会い、穀、塩を与える
872.5.22京師人や市人が渤海(国の)客と交易すること許す
873.6.22京中飢餓により倉廩を開いて賑給
873.8.23神護寺の銅鐘が造られる
874.8.24大風と大雨により京中の道橋・官舎・民屋多く破損
876.2.25嵯峨院を大覚寺と号する、3.3泉橋寺、寺や船橋を監督するための浪人の配分を請う
877.1.27京中畿内飢餓により左右京中に常平司を設けて官米を売りまた賑給
879.9.25鴨川唐橋(九条通、鴨川に架かる)が大半を焼失する
884.9.16近江国と丹波国に高瀬舟を造らせ、神泉苑におくらせる
887.8.20大風雨により民家多く倒れ鴨川や葛野川など洪水
889.6月洪水により京中に餓死者多くでる
890この年、珍皇寺焼亡する
891.9.11京戸の子弟が諸国に居住することまた諸国の百姓が京戸に入ることを禁止する
894.10.5左右検非違使庁を定めて毎日政を行わせる11.30検非違使に大井、予度、山崎、大津等を巡察させる
896.4.13鴨川の東西の堤を耕作することを許す
898.4.10賀茂祭の騎兵役を拒否する土人や浪人(武士の興り?)を罰する
900年~:
907.10.13京戸口分田の地子徴収の例を定める、この年、醍醐寺を御願寺とする、京中に深紅色の衣服が流行する
908.7.9左右京職に路辺の骨を埋葬させる
909.6.19公卿たちに鴨川堤を巡検させる
911.6月霖雨やまず洪水氾濫
915.7月鴨川と東堀川をせきとめて、材木を運漕することを禁ず、9、10月疱瘡が大流行
917.11.20渇水により神泉苑を解放し庶民に汲ませる、この年、京中の井泉が涸渇する
918.8.17洪水で淀川があふれる
920.5.8渤海使が入京し鴻臚館に入る(これまでにも複数回ある)
923この年、咳病が流行する
924.5.7鴨川があふれる
926.5.7防鴨河使を廃して検非違使に付す
929.7.26鴨川の決壊などの被害多く出る8.15洪水により七条南は人馬不通、京南の田も海のように冠水
938.4.15大地震により京中の官舎や民屋が多く倒れる6.20鴨川氾濫して、西堀川以西は水浸しになる8.6再び大地震が起こる
942.4.6鴨川の改修成る6.29京中に群盗が起こり滝口の武士に諸衛府、検非違使を副えて夜行させる
947.8.17疱瘡・赤痢の流行により京中に賑給
948.8.1鴨川・大堰川が氾濫する
951.10月醍醐寺の五重塔が完成する
953この年、上賀茂社を造営する
959.3.13祇園感神院が清水寺と乱闘し検非違使が制止する
960年~:
962.5.27鴨川堤破れ京路不通
966.8.19桂川氾濫五、六条以南海のように
967.8.1延暦寺僧兵の乱暴を禁止する、(武士の胎動はまだで僧が乱暴する)
968.5.26京中が海のようになる9.9洪水により京中、畿内の人々に賑給する
974.5.7祇園社感神院を天大別院とする
979.5.13内裏に盗賊が入る
980.1.24岩倉大雲寺観音院を御願寺とする7.15大雨による洪水で京中が大河のようになる
985.2.22皇太后昌子内親王が観音院を供養する
987.8.5朝廷の手ではじめて北野社を祀る
989.8.13大風雨により殿舎や民屋が多く倒れて鴨川堤が決壊
994.5.3堀川の水が死人によりあふれる
995この年、前年に続き疫病が大流行する
996.6.13囚人の飲料水を得るため東獄門の前に井戸を掘る、閏7.10鴨川の水が氾濫
9982.15た太皇太后昌子が荘園を岩倉観音院に寄進する9.1大雨により一条堤が破れ鴨川が大反乱する
1000年~:
1000.8.16大雨により鴨川が決壊、洛中が洪水
1002.7.17僧観修が岩倉長谷の解脱寺常行堂を供養する、この年、夏より十一月までの炎早のため四条以北の井水が尽きる。人々、藤原道長の批杷(びわ)殿の水を用いる
1004.3.12.鴨川を改修し、珍皇寺と清水寺を修理6.2鴨川の新堤が決壊
1015.6.25疫病が流行し京都の庶民たちが右京花園に今宮社を建立、この日、同社において御霊会が行われる7.15大雨により紙屋川、堀川、東洞院川などが氾濫
1016.6.28越前敦賀の群盗が入京するという噂が流れ検非違使が京中を警備する
1017.2.27盗賊が道長宅に入り金二千両を取る7.2大雨により鴨川が氾濫し富小路以東が海のようになり悲田院の病人300人流される
1022.4.1魃大雨による洪水、民屋多く流される
1026.7.15薬王品尼と称する尼が鳥辺野で焼身自殺する
1028.9.2鴨川氾濫、富小路以東、海のようになる
1029.4.21大雨にて鴨川が氾濫する
1032この年、春から夏にかけて早魃が激しく宇治川や淀川が歩いて渡れる
1040.4.29京中に盗賊、悪僧が多くそれにつき朝廷で議論す5.22盗賊が内裏に入る11.2京中に放火が多く検非違使に夜行させる
1044この年、春から夏にかけ疫病が流行し死者が多くでる
1046.5.27洪水が起こり、堀川、洞院川などが氾濫する
1050年~:
1050.1.20伊勢神宮禰宜等、神民を率いて入京
1063.2.16源頼義が安倍貞任の首を携えて入京、、検非違使が西獄門に梟す
1066.5.15四条釈迦堂の僧文豪が鳥辺野で焼身自殺する
1073.5月この月、20年来といわれる大洪水が発生する
1081.3.25多武峰僧が洛中に入り強訴を企てる4.10稲荷祭見学のため七条南、町尻西に桟敷が設けられる11.18二十二社の制が成立する
1086.6.26検非違使に右京の田三百余町を苅らせ牛馬の飼料とする、この年より没するまで、白河上皇の院政(四十年間)始まる
1093.3.18熊野山僧が内裏に乱入8.22興福寺大衆が数千人春日神人を率い、鋒神木を捧げ鏡鈴を随身して入京勧学院に集合、強訴する(春日神木入洛の最初)、この冬、疱瘡が流行し小児が多く死亡する
1094.5.20少納言藤原家俊が青侍を率いて田楽を行い京中を横行する
1095.10.24美濃守源義綱、美濃国山門領荘園にて山僧と合戦し殺害する。これによって、この日、山門日吉神人、日吉社神輿を動座する。これについて朝廷、西阪本に軍兵を布陣する(神輿動座の最初)
1096.4.8白河上皇が鳥羽殿以南、伏見以北を院領と定める6月この月京中に田楽が大流行する、11.24大地震により大極殿・法成寺などが損壊する
1098.6.3鴨川が氾濫
1099.2月、早魃により京中の井水が涸渇する
1100年~:
1102.818興福寺大衆が蜂起入洛する噂により12日宇治橋を破壊し、この日に復旧する
1104.10.6ころ法楽禅師という悪僧が武士を率いて京中を横行する
1105.1.1延暦寺大衆強訴し、また祇園神人神輿を舁いでこれに参加する5.14鴨川桂川が氾濫し、鳥羽殿が浸水する10.30延暦寺衆徒、日吉神人、石清水神人が陽明門に強訴し、闘争する
1106.6月、京中下人の間に田楽が流行する、春頃からにわかに飛礫が発起する
1107.5.27前年より京中に飛礫が流行し検非違使が禁止する
1108.2.21延暦寺、園城寺の衆徒が入京し強訴を企てる。検非違使、武士等にこれを防がせる
1113.3.21興福寺大衆が入京して強訴29延暦寺大衆が清水寺の房舎を破壊4.24軍兵を宇治南坂に派遣し興福寺大衆の入京を防がせる29延暦寺と興福寺が対立して戦わんとする検非違使平正盛・源光圀らを宇治、西坂本に派遣してこれを鎮圧せんとする
1114.2.14京内で摺衣(すりごろも)を着ること博戯(はくぎ:博打)を行うこと禁止じる3.9京内で飛礫をする者を捕らえる4.24京中飛礫輩10人を捕らえる6.8逢坂の関山で院御領臥見(伏見)下人と日吉社大津下人が乱闘、大津下人七人が飛礫をもって相手を打つ
1120年~:
1123.7.18延暦寺衆徒等鴨川原に神輿を打捨て帰山
1127.7.12鴨川氾濫し被害多く出る
1129.閏7.7京中に殺人・強盗が横行する、この年、白河上皇没す
1132この年疫病が流行し、死者が多く出る
1134.5.17鴨川桂川、西堀川などが氾濫し、家屋・人命に被害多く出る、この年、大雨、洪水、悪疫、飢餓が流行する
1135.この年、疫病が流行し飢餓者が道路にあふれる
1136。3.12観音院が焼亡するこの年飢餓が流行し、餓死者が多く出る
1137.2.10南都興福寺七千余人が京都に強訴する
1138.3.8京中に大火事あり公卿の邸宅が多く焼ける
1142.6.18鴨川が未修理のため水害が起こり、そのため修理宮城使、防鴨河使を任命9.2鴨川が氾濫し民家などが流出する
1147.7.15延暦寺衆徒の入京を防ぐために如意山路、今道を警固する
1149.8.10大雨により桂川浮橋が流失する
1150年~:
1150.8.5興福寺の衆徒、春日神人ら数千人が入京し、勧学院に至る8.28洪水のため交通が所々で絶える、この月咳(がい)病が流行し死者が多く出る
1151.7.8大雨によって洪水となり、宇治橋が流失する4.11一条北、京極東西の数町が焼亡する同日鴨川六角で僧侶が入水往生する
1156.7.11平清盛・源義朝らが崇徳上皇の白河御所を攻め保元の乱起こる
1157.6.14公家によって奉仕されていた祇園御霊会の馬長、洛中の富家を差定してこれに当たらせる
1158.8月醍醐寺が宇治部の寺領坪付を勧注する。また、山城国が小野郷と石田郷の地六十六町一段余を醍醐寺領として認可する
1159.12.9藤原信頼・源義朝等が挙兵し後白河上皇の三条烏丸御所を襲い平治の乱が起きる
1163.7.10延暦寺僧と日吉神人が京内で出挙する(利子付き貸借する)ことを禁ず
1170.6.2大雨により洪水起こる
1173.5.9鴨川が氾濫する
1177.4.28樋口富小路より出火し勧学院、大極殿、八省院以下百十余町が焼亡する(太郎焼亡)
1182この年、年来の飢餓で数万人の餓死者が出る
1184.2.7義経一ノ谷合戦で勝利し、平氏一門の首級を京中にもたらす
1185.4.25義経が凱旋し、翌日、敗軍平氏の将が入京する
1190.8.16大風によって鴨川桂川などが氾濫する
1192.7.12源頼朝、征夷大将軍となる8.28大雨によって鳥羽辺に洪水が起こり、法成寺も浸水する
1193.1月疱瘡が流行する3.25右獄から囚人十四人が脱走する7.4宋銭の流通を禁止する、1
1194.3.30醍醐寺桜会の時をきっかけに延暦寺・興福寺の僧が蜂起する
1199.5.10洪水によって八条北の民家が多く流失する、7月京都に瘧病(おこりやまい:マラリヤに近い熱病)が流行する
1200年~:
1207この年夏疱瘡が流行する
1212.7.7賀茂川堤の修理が幕府により命じられる。幕府九か国の御家人に命じその費用を徴収する
1220.3.26清水本堂・塔、釈迦堂が焼亡する4.13祇園社が焼亡する
1221.5.14後鳥羽上皇が鎌倉幕府追討の兵を集め京都守護伊賀光季を殺害し同時に西園寺公経・実氏父子は召し籠められる。また五畿七道に宛て、北条義時追討の宣旨を下す(承久の乱)6.13幕府軍が勢多(今の瀬田)、宇治、芋洗、淀より入京せんとす
1226.12.24京都大地震
1227.1.10群盗横行のため、武士を洛中各所に配して夜警を行う
1228.6.19醍醐寺住僧200余人が勧修寺を襲い客舎および在家を焼く7.20暴風雨のため洛中が洪水となり鴨川氾濫し、四条・五条等の橋梁、賀茂社端垣、貴船社拝殿初め民家が多く流出する
1229.7.2一条辺の民家に賊盗が侵入を企て侍と斬合い街上が合戦のごとし
1230年~:
1230.4月、六波羅が僧徒の兵具を帯する者を捕らえて鎌倉に押送する.5.21暴風雨のため賀茂川氾濫し人々衣を脱して渡る10.20延暦寺衆徒入洛し狼藉働く
1231.2月群盗が横行し疫病もまた流行する4.6飢餓が極頂に達し、各地の流民が多く京都に達するが餓死し、死人が道路に充満する5.22洛中の飢餓が甚だしいため、党を組んで富家に侵入し、飲食し、借銭・借米を強請する者ある。よってこの日、武家をしてこれを取り締まる6.4これより先、 霖雨のため賀茂川溢水(いっすい)し、川原に死骸が散乱する。祇園御輿迎えにより、この日、川原の清掃を行い、また止雨奉幣を行う7月飢餓甚だしく餓死者、日とともに増加する、9.19近日、家屋を壊して薪とし売買する者があり検非違使と六波羅をしてこれを停止させる
1234.7.15東北院で相撲界がある。喧騒を極め解散に際して狼藉がある8.3七条と八条の間の富裕の商人街に火災あり土倉等多数が焼失する9.16大地震あり10.1山伏数百人が法成寺辺りに集まる摂政九条実第に強訴する
1235.7.23延暦寺衆徒、宮仕法師を殺害した佐々木高信の断罪を迫る12.12幕府、六波羅に山門悪僧交名を注進させる
1237.6.1大地震あり
1239.9.11諸国地頭、延暦寺僧および商賈の債権者をもって代官とすることを禁ずる
1238.閏2.16鞍馬寺が炎上する6.19洛中の群盗に備え二条大宮辺、八条政所跡等要所四十八カ所に篝屋を設け警固に当たらせる
1243.6.14祇園御霊会で武士と宮仕法師が闘争する
1244.1.27松尾山崩壊し大堰川を防ぐ
1245.7.26大地震あり
1246.6.1大火あり三条南、八条北、東洞院東、朱雀西の間が焼亡7.26大地震により所々の屋舎が多く破損する、この年、多くの地震あり、廬山寺を再建する
1250年~:
1250.12.29幕府、閑院内裏遷幸の時の滝口衆を名のある氏族の子弟より選ぶ
1252この年大飢饉で、米1升が百銭となる
1256.6.16祇園社僧、清水寺僧徒と闘争する
1268.2.5去月以来蒙古襲来の風説あり
1269.1.10延暦寺梶井青蓮院の僧徒、日吉神輿三基を奉じ入洛する、六波羅、兵を発してこれを防ぐ。僧徒神輿を途に捨てる。命じて祇園社に遷す6.14祇園御霊会で兵士と神人が闘争し死者が出る
1274.1.27逢坂関において督使等が園城寺衆徒等の狼藉をうける、10.18これより先、十月五日、蒙古の兵三万が対馬に来る(文永の役)。この日、太宰府の飛脚が六波羅に至り、このことを告げる
1278.1月建仁寺焼亡3.5八幡神輿入京5.12園城寺の金堂供養があり勅会に準ずる。延暦寺の衆徒これを怒り日吉神輿を奉じて入洛しこれを妨げる5.16日吉神輿が帰座する、この日、延暦寺衆徒三井寺長吏隆弁の鹿谷坊を焼く10.13内裏焼亡する
1280年~:
1281.6.23石清水八幡にて異国降祈願のため一千法華経の転続を行う7.14これより先一日の大風雨にて元の兵船転覆没し元兵多く溺死する(弘安の役)10.4春日神木入洛せんとする、この日、宇治橋。稲荷辺りに武士等これを拒ぐが六日に至り入洛し法成寺金堂に入る
1282.3.28石清水の神人蜂起する。神輿を内裏に振るとの巷説あり8.8石清水神人、兼平第の門前に群参して嗷訴する
1283.1.6延暦寺、日吉。祇園等の神輿を奉じて禁中に乱入し四脚門を破壊し常御所に入って狼藉するまたこの責を在京武士に問うが弘安の役の海防の旨をもって幕府その咎を免除する2.2日吉および北野社の神輿再び入洛するとの巷説がある。そのため京中騒動する8.17延暦寺、神輿の入洛に際して狼藉におよぶ官仕六人等、四条橋詰めにおいて使庁に引き渡され直ちに禁獄される
1284.閏4.17洪水、町通、西洞院通の小屋等が多く流出する
1288この年、夏以降疫病流行し宣旨を下して法勝寺以下五カ寺をしてこれを祈祷する
1289.6月ごろ疫病の流行のため南都七大寺および延暦寺において大般若経を修する
1291.3.16山門の衆徒二人、北野社において狼藉し殺害される
1294この年、日蓮の高弟日像が入京し以後、法華宗が京都に広まる
1295.5.14霖雨、洪水数日におよび河東との交通が途絶する
1297.6.19多武峰神人、神木を奉じて入洛し鷹司兼忠第に群参する、1299この年、清水寺焼亡する
1300年~:
1303この年、伊予弓削島からの塩、淀津止まりとなるが運上船が淀魚市場で騒動に巻き込まれる
1312.5.23賀茂川洪水、六波羅門外に至る。今出川第の門流失し市民も多く溺死する
1313この年、日吉神輿造替につて京都の土倉に課税するも「山門気風」の土倉は課税から除外する。そのため土倉ら、その喜びとして七百五十疋を納める
1314.3.17興福寺衆徒、春日神木を動座し入洛、閏3.4石清水八幡神人、神輿を奉じて入洛5.1新日吉神人ら六波羅北方の武士と闘争する5.7延暦寺衆徒、六波羅北方の武士と合戦する
正和年間(1312~16)このころ京都の土倉三百三十五軒を数えるという
1317.1.3大地震1.5再び大地震、内裏の梁棟傾く、人家の転倒も多い、清水寺塔が焼失する、以後、数ヶ月余震やまず2.13石清水八幡の神人、神輿を奉じて入洛を企てるが武士等これを大渡橋上に防ぐ。神人、神輿を捨てて去る
1318.2.18醍醐寺三宝院が炎上
1319.1.19東大寺八幡神神輿入洛し、塩小路河原に振棄る2.7東福寺炎上する
1341.12.23足利直義、夢窓国師等と協議し元との交易によって天竜寺造営の資を得るため造天竜寺船を元に派遣することを定める
1342.3.20法勝寺が炎上し、金堂、講堂、九重塔を初め堂塔が多く灰燼に帰する (以後は省略)
公家・僧侶の記録を基にしている。

4.語句の解説
【賑給】(しんごう/しんきゅう) 賑恤(しんじゅつ)ともいう律令制において高齢者や病人、困窮者、その他の身寄りのない人々に対して国家が食料品や衣料品を支給すること。
【賀茂川】鴨川との違いは、どうも現・出町柳辺りで名称が変わるようで、これより北を賀茂川、南を鴨川といっているようです 賀茂川と合流する東の川は高野川です。因みに、上賀茂神社と下鴨神社との違いもあります。
【京職】(きょうしき) 律令制において京内の司法、行政、警察を行った行政機関である。左京と右京にあった。なお、江戸幕府の京都所司代の別称を、京職(きょうしょく)といった。
【防鴨河使・防葛野河使】鴨川、葛野川がよく氾濫するから役人を置いた。防鴨河使は926年以降に検非違使がこの任務を吸収。
【京戸】(きょうこ)京に戸籍を持つ者と考えてよい。
【霖雨】(りんう) ながあめ。
【予度】淀のこと。
【大堰川】(おおいがわ) 葛野川、桂川あたりの古名。
【飛礫】(ひれつ、つぶて) 石を投げること。
【咳病】(がいびょう)咳が止まらない病
【検非違使】(けびいし)朝廷の役所
【六波羅(探題)】(ろくはら)幕府の役所
【芋洗】(いもあらい) 巨椋池の西で久御山町の北辺り、草津湊辺りと重なる(不明)。
【早魃】(かんばつ)干ばつのこと。

『京都の歴史』十巻年表より、取り上げる。『京都の歴史』は『続日本紀』『日本後紀』『日本紀略』『類第三代格』『類衆国史』『清水寺縁起』『続日本後紀』『三代実録』『本朝世紀』『日本紀略』『扶桑略記』『小右記』『歴代皇紀』『吾妻鏡』『醍醐寺新要録』『春記』『殿暦』『百練抄』『明月記』『外記日記』、、等による。


【律令制の統治機構】
白村江の戦(663年)の大敗後に、唐の律令制を取り入れて強力な中央集権国家を目指した。祭祀を司る神祇官と、政務一般を統括する太政官に大きく分けられていた。太政官の下には、実際の行政を担当する八省(宮内、大蔵、刑部、兵部、民部、治部、式部、中務)が置かれた。太政官に適任者がいなければ左大臣、右大臣が国政を統括した。その下に大納言、少納言があった。701年の大宝令には、風俗の取り締まり、官吏の監察をする弾正台、宮城などの警備の五衛府(衛門府、左,右衛士府、左,右兵衛府)がでた。811年以降には左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六衛府制として定着した。また京内に司法、行政、警察を行った行政機関で左京右京の京職があった。その長官を大夫といった。
検非違使は、当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務していた。895年、左右衛門府内に左右の検非違使庁(役所)を置くようになったが、947年に統合されて左庁だけに検非違使庁が置かれるようになった。司法を担当していた刑部省、警察、監察を担当していた弾正台、都に関わる行政、治安、司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。(wiki)
▼後世の名前の付け方に、主から、石田治部少、左衛門、右衛門、兵衛、大夫の名前をいただいたもの。自らこれらを名乗るもの、その中に少し憚る気持ちがあると、左衛門、右衛門、兵衛などの前に、数字(三、五、七、九)や三郎、四郎、五郎、また甚、菊、松、竹、梅などの漢字を付けるものが続出しました。