播磨国鵤荘

 1.播磨国鵤荘は
 2.法隆寺から僧侶の派遣
 3.2度の逃散
 4.宛行は法隆寺
 5.一、逃散
 6.二、解決は守護方が
 7.三、荘園内の身分構成

 応永5年(1398)~天文14年(1545)の法隆寺の播磨国鵤荘いかるがしょうの記録が、『鵤荘引付』に記されている。これは鵤荘政所まんどころの僧達の記録である。鵤荘は法隆寺創建時からの同寺の所領とされ、面積は361町歩(361ha、約2km2)で、現在は姫路市の西部の太子町から龍野市にまたがる、法隆寺の22ある荘園の一つであった。赤松満祐が将軍足利義教殺害(嘉吉の乱1441年)の後、追討を受けたので守護が山名氏に変わり(※1)、応仁の乱の後は、また赤松氏が播磨守護に復帰した。その後、守護代浦上氏との抗争、戦国大名尼子氏の侵入(1538年)などがあった。1580年には、秀吉が播磨国を平定した、とある。

 法隆寺(寺門じもんとも寺家じげともいう)は鵤荘を支配するため現地に政所を置き、交代で僧侶を派遣し統治させた。僧侶は実際に荘園に滞在したので「在庄ざいしょう」と呼ばれ、これを筆取が補佐した。時期により多少違うが東西2カ所の政所で、都合4人の僧侶が法隆寺から派遣された。もちろん、鵤荘は荘園領主である法隆寺の支配を、政所を通して直接受けるが、そればかりか時代が下るにつれ守護赤松氏の支配が、守護役・反銭たんせんの賦課・守護の成敗権(検断権)の行使などのかたちで、徐々に領内に浸透していった。150年ほどの間に、鵤荘内の農民の逃散が応永25年(1418)と永正14年(1517)の2度ほど起きようだ。

 応永25年の逃散は政所による「検断」(没収)が原因あり、永正14年のものは法隆寺の借金返済のため、鵤荘内の平方村の名田を武士に「売却・宛行」(名主職の売却)したことによる。いずれも農民らは稗田神社で集会をもち、全会一致(一味神水)で各人の意思を固めた上で、逃散に及んだのである。しかし、その逃散の様子は、我々が思いつく、山に逃げ込むとか、隣村に逃げ込むとか、村を捨てるとかいった、ものとは大分違っていた。家の外側を囲って中に住み「しのを引いた」り「しばを引いた」りした。また、五人の沙汰人さたにんをはじめ寺庵じあん神子みこ神人じにんらは、家を囲うこともなかった。沙汰人などは逃散に加わらなかったのである。政所による「検断」や「売却・宛行」に及んだのは、農民らが年貢を納めなかったり、何らかの犯罪を犯したためとしたが、農民方にもいい分があったであろう。逃散に及ぶまでに、農民達は政所に、さらには寺家(法隆寺)に、理由説明や軽減・撤回を嘆願していた。応永25年の逃散は農民の要望が一部認められ、永正14年のものは、荘内六カ村が呼応し逃散の状態が30日に及び、寺家は仕方なく土地を買い戻し元の耕作権のある農民に宛がった。
 一件落着となった後は、政所の筆取が、仲裁の謝礼に、守護方に樽と銭二貫文、寺門方に一貫文を届けている(応永25年)。
 このような問題が生じても、領主である法隆寺は曖昧な発言「難儀である」を繰り返すだけ。実際に調停に駆け回ったのは、配下の政所と公文(東西の政所に各1名いた)で、寺家と地下じげ・守護方の間を何度も行き来し意向を問うた。結果的に、解決に至るのは寺門が守護の赤松氏に相談を持ちかけ「武威」を借りたところにあった。

 年貢の上納先が寺門であれば、当然、その土地は寺門の管理下に置かれる。よって、誰にその耕地を耕す権利を与えるか、すなわち、誰を名職みょうしきまたは名主職に補任するかは寺門がおこなった(名主に耕作させたものを「みょう」「名田」という)。耕作の権利は勝手に相続・譲渡されるものでなかった。宛行あてがいは法隆寺が行い、政所が代行することもあった。宛行を受けた者は、忠実に義務(耕作を実行して、年貢を納めること)を誓った請文うけぶみを提出した。請文は寺門あるいは政所のひつに厳重に保管された。一方、年貢を納めなかった場合、その権利を取り上げる「点定てんじょう」は寺門が行った。


 この記録で、特に注目するのは、次の三点です。
一、逃散が「家の外側を囲って中に住んでいた」
二、解決には守護方が身を乗り出した
三、荘園内の身分構成

 一の逃散については、鎌倉幕府の貞永式目四十二条で「百姓去留の自由」が、年貢などの課役を領主に完納していることを前提に認められていて(『一揆』(勝俣鎮夫))、「篠・柴を引いて」家にこもる、名田畠を捨て「山林に交わる」「山野に入る」の場合があった。いずれも、一定期間を家や山に「こもり」、要求が聞き入れられれば元に戻るものであった。ここの篠(笹)・柴(特定の樹種でない雑木やその枝)は神の「依代よりしろ」(憑代:神様が寄りつくもの)としての性格を持っていたことが民俗学の多くの研究者で確認されている。よって、家・田畑や村の周りに「篠・柴を引き」中に「こもる」行為は「立ち入りを拒否する」を意味する。家の面、おそらく出入り口に柴を引いて、家のなかに籠居していた(『一揆』(勝俣鎮夫))、という。

 二は、後からやって来た国の支配者が、国内の寺院に対してその領国を「安堵する」というものだった。それが秀吉以降は、全国的にも寺社の検断権を認めない方向になっていくだろう。

 三の、著作があげた法隆寺荘園内の身分構成をあげておく。①荘園領主の法隆寺、②法隆寺から派遣された政所・筆取、③現地鵤荘の住人で政所の指示に従う下級荘官である公文くもん図師ずしなど(※2)、④現地に居住しながら逃散には参加しなかった寺庵・神子・神人、⑤逃散の実行主体である名主・百姓、⑥守護赤松氏およびその被官、である。これが、法隆寺(①、②)と農民(③、④、⑤)と武家(⑥)の三者が基軸と、著者はまとめる。
 上記、三者の基軸の状態が、荘内の有力農民であった公文・図師などが徐々に武家方に従ってゆき、武家(守護方)は荘園領主法隆寺と鵤荘の地下(名主・百姓)との争いに介入していく。公文・図師は現地の有力な農民でありながら法隆寺の鵤荘支配の末端につらなっていた。また、彼らは既に武士化しており、このときあるいは後に赤松氏の末端につらなる者たちでもあった。
 その他に、沙汰人・役人が登場するが、両者は同じで下級荘官で、政所が地下に賦課をおこなう時の伝達の役割も担った、とある。また、「寺庵・神子・神人」は、名主・百姓とは区別される存在であったことは疑いないが、どう違うのかなどは、はっきりしない。おそらく、彼らが神や仏に関わる存在であったがゆえに、敬意と畏怖でもって名主・百姓より、ちょっとだけ優遇された、そういう身分であったと思われる。

※1. 山名氏が勝利をえ、鵤荘全体が山名誠豊によって給人田結庄右馬助に与えられたのである。種々の嘆願の結果、鵤荘は法隆寺に還付された。しかし、それは本来的所有権の権利をそのまま認めたものではなかった。あらためて右馬助から法隆寺に鵤荘が寄進されたのであった。鵤荘内には従来から実質赤松方の被官がいた。彼らが持っていた名主職は山中方に没収された(守護が山名氏に変わる以前に、既に赤松氏の被官者が鵤荘領内に居住している)。「鵤荘が法隆寺領である」とする支配者山名氏の安堵状は、法隆寺の鵤荘支配の根幹に関わるもので、現地政所には写しを櫃にしまい、正文は法隆寺に保存した。
※2. 公文・図師の下に沙汰人・役人、その他に、定使・公人・国元・真次・桑名、後見・中間・小者がいたようである。定使は法隆寺と地元の連絡の役割を担った。真次・桑名は名前なのか役柄なのか不明。中間・小者は、どの組織にも現れる強制執行の際の実行者で戦闘も交え、名主・百姓でなく四六時中、政所に奉仕した。沙汰人・役人が定使以下と重なる部分があるのか不明(別記されているが)。
  『片隅の中世 播磨国鵤荘の日々』(水藤 真)

◎以上、水藤 真氏の書籍をつまみ食いしたわけで、著者の本意からそれてしまったならお詫びするしだいです。
・寺院の領国支配は、守護の「安堵状」というかたちで引き継がれていくのだね。
神社の湯立祭で、巫女さんが「笹(篠)」をふりふりしたうえ、大釜の湯をかき混ぜるところ、またその湯を氏子が有り難くいただくところ、「笹(篠)」が依代ということで、納得がいきます。
・京都石座神社の神祭で、過去におこなっていました「よみさし」、当屋が氏子の家々を回り玄関屋根の軒に榊(依り代)を投げ上げたのは、一年間の邪気を払う儀式だっのでしょう。