京都や近江国などの農村

 京都の農村
 1.山科は長く禁裏御料の地域でした(1468年)
 2.庶民の祭りの原点が上久我荘菱妻神社に(1450年頃)
 3.江戸期の西京区、長岡京市の多くは禁裏御料、宮家領です
 4.江戸期の洛北、岩倉地区はほぼ禁裏・法皇御料です
 5.江戸期の「リサイクル事業」(1723年)
 6.江戸期の京都 旧御土居内外の村(1727年)
 7.江戸期の伏見奉行預かり地に「八ヵ村」がある
 8.江戸期の京都守護職の役知

 近江国(滋賀県)の農村
 1.検地のやり方(彦根藩下平流村 1602年)
 2.中江藤樹が民衆教育のはしり私塾を開く(1634年)
 3.譜代筆頭 彦根藩の領知高辻帳(1745年)
 4.農民と町方商人との接触を嫌った(彦根藩 1756年)
 5.松原村の老分「渡世のはなし」(彦根藩 1812年)

 播磨国(兵庫県南西部)の農村
 1.鵤荘いかるがしょう逃散の原点かも(法隆寺領 1418年)

 その他 :年貢の取り立て


慶長7年(1602)8月~11月 家康、近江一国の惣検地を行う
*愛知郡下平流(しもへる)村の検地帳では、
①測量には六尺三寸竿(さお)が用いられ、六尺三寸を一間、五間×60間の区画を面積300歩=一反とした
②田畠の様子を検地役人が実見し、上・中・下の等級に区分
③畦や水路などは検地の対象から外す
④検地帳が村に渡された
⑤検地役人からの無理な要求なく、謝礼の授受もない村人が検地に立ち会い、土地を上中下のランクに分け、検地帳として記録に残す。  『新彦史2巻』247


寛永11年(1634) 中江藤樹 郷里の小川村(現、滋賀県高島市)、私塾・藤樹書院を開く
*近世の近江で庶民が「学問」にふれた先駆けは、藤樹書院でした(寛永16年(1639)、藤樹32歳の頃には塾としてもひとつの形ができあがっていた)。藤樹のいる青柳村(現、滋賀県高島郡 [の地図]安曇川町上小川225の地)では百姓の物腰や顔つきまで違うそうだといううわさが、遠い他国まで評判になったそうです。寺子屋庶民の中から自然発生的に学びたい者と教える者との集まりという形態で始まりました。近江ではその数460といわれ、、彦根藩下では寺子屋数159軒、、師範には農民身分もいて読書、算術、裁縫が教えられました。『庶民からみた湖国の歴史』123


享保8年(1723) 京都、下肥しもごえ争奪戦
*京都は正徳2年(1712)には30万をこえる大都市に、、同年、京都近郊の152ヵ村から、京都町奉行所に対して庄屋衆連判の訴状が提出される。、、他国(江戸中期には摂津・河内農村にまで)への販売の結果、下肥値段が高騰し山城農村では農業活動に支障をきたす、、高瀬舟などを使っての他国への下肥販売を禁止するように取り計らって欲しいという願である。、、この訴えは受けいられ、
①屎尿売買の専業問屋を構成する「屎屋」を22軒、「買子」を80人と定め、鑑札を渡す
②牛馬歩行の荷物は自由とするが、下三栖みす村から下流の積み越しは禁止する
③152ヵ村は、洛中の寺社・町方の屎尿がいっぱいにならないように、確実に汲み取りに廻ること
といった仰せ付けがなされた。
 そこで152ヵ村の代表者たちは相談の上、汲み取り責任区域を設定し、毎月10日に神泉苑にて寄合を行う、など申し合わせを行っている。申し合わせの中には、百姓相応の格好をすること、町方にて喧嘩公論はいうまでもなく、がさつがましい行動は慎むことなども取り決められている。このように、近郊農村は、肥料問題を通じても洛中町々と密接な関係にあった。
【汲み取り責任区域】まず北は鞍馬口通、南は七条通までを、二条通で二分する。その北地域を新町通で東西に二分する。その東側を「京東廻り村々」、西側を「西廻り・嵯峨辺村々」とする。南地域は、柳馬場通で東西に二分し、その東側を「山科郷村々」、西側を「西岡・中筋村々」とする。『京都と京街道』149
◎岩倉では、町へ行き野菜と交換して屎尿を持ち帰ったという話があるようです。場所は御所(含む)廻りでしょうね。

享保14年(1729)  旧御土居内外の村
 応仁の乱にて京の町は荒廃。その後、秀吉による町の大改造が行われる。家康も引き続き、禁裏御料・仙洞御料を山城国内で付与する政策をとります。[つれづれ本文 天正15年(1587)9月参照] [秀吉・家康の政策参照]
・山城国高八郡村名帳による旧御土居内外の村をいくつかあげる『京都市の地名』(数値の単位は「石余」)
村高領主
西ノ京村(内)1669曼殊院宮領422、幕府領354(後、守護職役知)、併せ17の領主
聚楽第村(内)510伏見宮領331、広橋家42など
壬生村(内)1224青蓮院宮402、梅園・橋本両家149.6、など35領主
中堂院村(内)877天領568(1862年以降に京都守護職役知)、残り13の領主
東塩小路村(内)1781634年までは239石余すべてが天領天領31
西塩小路村(内)142すべてが天領で京都代官の支配地
西九条村(内)1317天領1047(幕末には京都守護職役知)、東寺領261など
上鳥羽村(内)3095玉虫左兵衛代官領2843、毘沙門堂門跡216、今宮社36
三条台村(内)139建仁寺領98、大聖寺宮領2など
西七条村(内)1006天領351、医師岡本玄冶の知行500、松尾御旅所145、岩倉領10
八条村(内)778遍照心院領229、東寺領349、四辻家領110など七領主
木辻村(外)273大乳人領167、麟祥院領50、池上氏15、代官領41
大将軍村(外)400近世(1615~)より幕府直轄領、1861年より京都守護職の管轄
八瀬村(外)271禁裏御料71、御免許高208(1336年八瀬童子の記載あり)
西賀茂村(外)1431仙洞御料107、大聖寺宮領234、正伝寺領107、建仁寺領154、他
松原村(外)112幕府直轄領7、実相院宮領61、金地院領24、他
修学院村(外)872禁裏御料300、仙洞御料272、林丘寺宮領300
田中村(外)947禁裏御料36、同増御料57、玉虫左兵衛代官所30など
吉田村(外)774吉田家領593、玉虫左兵衛代官所60など
聖護院村(外)438すべて聖護院門跡領(438)
下鴨村(外)1323下鴨社領のほか上賀茂社領371、禁裏御料46、15の公家・寺社領
浄土寺村(外)443麟祥院(春日局)領150、真如堂領105、禅林寺領43など
鹿ヶ谷村(外)158妙法院宮領95、青蓮院宮領13、富小路家領50
高野村(外)800すべて禁裏御料800
高野河原村(外)30高野川東で寛文11年に開墾された新田村、禁裏御料30
朱雀村(外)373円光寺領96、相国寺領48をはじめ19の領主に分割
唐橋村(外)1244禁裏御料1000、油小路家・裏辻家、七条家、倉橋家各50、他
[ 平清盛時代 12世紀後半] [ 桃山時代 1573-1603] [ 延宝・元禄期 1673-1704] [天明・文化期 1781-1818] 後の2つの地図に、大きな社会的な変化は見られないので、村の位置、村高については同一と考えてよい。[お土居廻り12カ村]


享保14年(1729) 京都、岩倉村などの村高と領主
◎山城国高八郡村名帳[山口泰弘家文書] 享保14年 『史料・京都の歴史』8巻 より「下記の表」
・岩倉村は八郡の中の愛宕おたぎ郡にあり、愛宕郡は蓼倉たでくら、栗野(栗栖野くりすの)、上・下粟田、大野、小野、錦織にしごり、八坂、鳥戸とりべ、愛宕、賀茂、上・下出雲の13郷よりなる。この13郷は古代の郷であり、大宝令の成立時期には存在していたようです。岩倉村は賀茂郷に含まれた(『京都市の地名』)。つまり、大雲寺の前は賀茂氏の影響下にあったと伺える。(ただし、栗野郷に属したというのもある『史料・京都の歴史 8巻』(平凡社))
 江戸時代の岩倉村では全ての領土が禁裏・法皇御料だから、京都代官から代官がやってきて庄屋の協力のもと年貢の収納・蔵入りが行われた、と予想できる。
村高領主
長谷村551.000石 聖護院御門跡領476.0石・若王子院家領75.0石 外 聖護院御門跡領山役25.777
中 村188.190石 禁裏御料
花園村624.014石 禁裏御料132.476石・宝鏡寺宮御領27.95石・伏見宮御領7.251石・安井門跡領124.892石・広橋殿家領18.855石・今城殿家領10.584石・西洞院殿家領14.985石・中院殿家領84.0石・養命坊領11.753石・相国寺領71.321石・壬生地蔵院領10.289石・光雲寺領98.781石・禁裏御料(是は実相院御領岩倉村御屋敷替えに而上る)5.093石・法皇御料(是は実相院御領岩倉村御屋敷替えに而上る)1.4石・同断非蔵人4名の松室相模守知行、赤塚土佐守知行、北小路信濃守知行、羽倉延順知行行計4.384石 外 光雲寺領山役1.219石、安井門跡領同2.678石、禁裏御領同 銀31匁2分2厘
岩倉村1900.000石 法皇御料947.206石(1706年までに)・禁裏御料952.794石(1601年) 外 法皇御領 銀397匁6分、同断新開1.1石
幡枝村715.430石 禁裏御料20.935石・東寺領263.0石・安井門跡領172.43石・中院家領116.0石・竹田慶安知行100.0石・大炊御門殿家領30.0石・法然院領13.065石 外 惣山役 柴400束、惣藪役 竹14束
合計3、978.634石 (岩倉村は全体の47.8%)
 『岩倉村史』(明治38年)によると、岩倉村は「中古以来御料となり、寛文年間(1661-73年)に女院及び仙洞御領に分かれ、その後、380石余りが幕府領となり、文久年間(1861-64年)にその幕府領は京都守護職会津領となった」としています。「女院」が法皇御料に、「仙洞御料」が禁裏御料に相当(?)します。

[岩倉村、領主の変遷]
 応永13年(1406)、大雲寺の岩倉をも含む寺領が「甲乙人」(近隣の土豪)に侵犯され取り分が減少(『実相院文書』)してきたとあります。
 長禄3年(1459)、実相院・大雲寺の『実相院門跡領目録』に岩倉村をも含むものが上げられています。それが1502年に細川政元により没収されました。実相院はその没収の範囲が北岩倉西人郷までなのかが心配で、幕府にお伺いを立てています。その幕府の返答が[これ]です。
 1538年の山本氏による岩倉村支配があります。本能寺の変のあと、1582年の「山崎の合戦」の勝者秀吉が山本氏の領土を没収(岩倉村が含まれる)します。その後の秀吉の政策(※)により、岩倉村が実相院・大雲寺の支配から完全に離れたといえるようです。
 1601年に岩倉村に禁裏御料953石が当てられ、残り法皇御料947石は1687年から1706年のある年からです。よってこれ以降、岩倉村の1900石全てが御料となります(詳しくは[こちら])。なお、1695年の元禄郷帳には「北岩倉村1900.107石」とあります。
 江戸時代になると岩倉、長谷、中、花園、幡枝の五ケ村が行政単位としてできあがります。享保年間に木野が幡枝村から分村しました。
※1593年から、実相院や大雲寺領は秀吉や家康の蔵入地から順次御料になり、その代替え地は洛外へ移ります。花園村にもその形跡が窺えます。『京都市の地名』には、実相院門跡領としての北岩倉は、実相院文書によれば天正末年(1592年)までつづいている、としています。ここでの「北岩倉」(北岩蔵)は岩倉村を含む地と考えてよいでしょう。[岩倉村の村高を考える]

[祭りの形態]
・八所・十二所明神の祭りの主催者であった実相院・大雲寺の領主としての立場がなくなっていき、村の構成も変化し、祭りの実施形態も変わっていきます。


享保14年(1729) 京都、伏見奉行預かり八ヵ村
 伏見奉行(このとき北条遠江守氏朝は河内狭山藩で伏見奉行(1720-1734))は伏見周辺の幕府領(天領)の八ヵ村を預かり支配している。下表は安永8年(1779)刊の『伏見鑑』より
現地区村高庄屋
1.堀内村伏見桃山の地域1,500石余庄屋甚兵衛
2.向島村淀川南側一帯 向島(ただし巨椋池干拓前)604石余庄屋小平次
3.六地蔵村淀川北で伏見区と宇治市にかかる502石余庄屋吉兵衛
4.三栖村伏見京阪中書島駅西で淀川北122石余庄屋嘉左衛門
5.毛利治部村旧毛利輝元・石田三成の屋敷地479石余庄屋久右衛門
6.景勝村旧上杉景勝屋敷地265石余庄屋久右衛門
7.大亀谷村明治天皇陵の北452石余庄屋吉左衛門
8.深草村伏見稲荷大社の南577石余庄屋忠左右衛門
享保年中 開発 葭島新田伏見区葭島:金井戸町・矢倉町・渡場島町604石余庄屋長蔵
 合計: 5,105石余 
・庄屋は各村に1名、ただし、毛利治部村と景勝村は兼任。村役人と奉行所の間にあって「御触れの伝達という業務を行っていたのが惣代である。年貢の取り立てについては、村役人と「伏見奉行から出す代官」とで業務を遂行する。
※古くの六地蔵村はすべて宇治郡に属したが、伏見城下の編入によって、伏見奉行の支配下となる。天保郷帳(1834年頃)では、宇治郡に高30.754石、紀伊郡に高513.495石と両郡に分けて記されている。
▼上記の農村は秀吉時代の伏見城下の屋敷地や農村由来のものであろう。向島は秀吉の伏見城築城前、淀川・山科川などによる巨椋池に浮かぶ自然の砂州であった。伏見城築城に伴い淀川の改修工事が行われると、ここに向島城が築かれたこともあった。よし島は巨椋おぐら池中に浮かぶ島の一であった。享保年中(1716-1736年)に開発した葭島新田は淀川沿いの土地である。葭島渡場島町は淀川西岸で京都競馬場北東の位置、葭島金井戸町や矢倉町は淀川北側で三栖の南側である。なお、巨椋池の干拓は昭和8~16年である。


寛保3年(1743) 『岩倉村差出明細書』
一、田方六分通谷川用水懸リ、壱分通出水掛り、三分通天水而養申候。当村谷水並長谷村領山谷水内、右川筋ハ請申候。当村ニ溜池亦はハ何川筋と申程之川、無御座候。(6割が用水路の水、1割が湧き水、3割が雨水)
一、田畑質地大概直段附ケ(田畑を質に出した場合に借りられる値段)
  上田壱反歩ニ付、銀弐百五拾目位。(匁は文目)
  中田壱反歩二付、銀百五拾目位。
  上畑壱反歩ニ付、銀八拾目位。
  中畑壱反歩ニ付、銀三拾目位。
 下田、下畑ハ質物等之取やりニ成不申候。
一、屋敷売買直段壱反歩ニ付、(銀?)百五拾目位。
一、田畑小作人(次の表にしました)
1743年の[年貢][収穫](太平洋戦争の前)
上田(良い田)1反につき1石5斗よい田1反あたり2石5斗
中田〃  1石2斗普通の田〃  2石2斗
下田〃    7斗悪い田〃  1石8斗
上畑(良い畑)1反につき1石1斗  
中畑〃    9斗  
下畑〃    6斗  
 以上、『片岡(与)家文書』『洛北 岩倉誌』76 など
◎上田の「1石5斗」、中田の「1石2斗」が石盛に相当する。[岩倉村の村高を考える]


延享2年(1745年) 彦根藩 「領知鄕村高辻帳」(1612年と比較のためここに上げる)
伊香郡之内 19,125.812石39 カ村小谷、柳瀬、下余呉
浅井群之内 24,555.201石41 カ村東野、今西、河原、八日市
愛知郡之内 61,022.640石104 カ村鯰江、薩摩、柳川、栗田、金田、石寺、高野瀬
犬上郡之内 60,464.596石119 カ村堀、三つ屋、佐和町、彦根、松原、多賀、久徳、八坂
坂田郡之内 67,028.366石134 カ村百々、磯、米原、蓮花寺、番場、新庄、箕浦、下坂中
神崎郡之内 30,567.492石55 カ村 福堂、田付、今村、乙女浜、愛知川、新堂、本庄
蒲生郡之内 17,235.893石40 カ村奥之嶋、沖之嶋村之内、今里、石塔村ノ内、一色
 彦根合計280,000.000石532 カ村 
下野国安蘇群之内17,693.401石15 カ村 
武蔵野国荏原郡之内1,459.658石11 カ村
武蔵野国多麻郡之内846.941石8 カ村
 他合計20,000.000石34 カ村 
『彦史』上P492
以上、彦根28万石と他2万石、都合30万石。右欄に主な村をあげた。郡にまたがって同じ名称のものがある「蓮花寺村」「本庄村」「今村」など、石高は違うが不明。また、犬上郡佐和町は「村」が付かず、城下町の佐和町とどういう関係か不明。
・1745年、犬上、愛知郡の六ヵ村の石高(1612年の石高と比較するために)
 犬上郡の松原村: 369.850石
  同  八坂村:1165.430石  松原、八坂村は1612年と同石高
  同 蓮台寺村: 379.180石  蓮台寺は1612年と同石高
  同  高宮村:2925.620石  高宮は1612年と同石高
 坂田郡の 磯村: 558.822石
  同  米原村: 157.589石  磯村、米原村も1612年と同石高
 愛知郡の柳川村: 99.445石
  同  薩摩村:517.928石  柳川・薩摩村2つの合算値は、1612年の薩摩村と柳川村の合算値と同じ石高

安永7年(1778)4月、岩倉村内の家数と人数
棟数合百九拾八軒
  内
 六拾八軒    本郷高持百姓
 拾軒      寺庵高持寺
 三軒      隠居之寺庵
 四軒      本堂
 壱軒      客殿
 三軒      角殿
 弐軒      隠居
 弐拾九軒    土蔵
 九軒      請作 
 六拾九軒    小屋
 - - - - 
人数合四百弐拾人 内 男百九十九人 女弐百弐拾一人
  内
 三百八十四人 男 女 (不明か)
 六人      高持百姓 (?、下と別記載の理由不明)
 壱人      高持百姓
 三人         (?)
 廿六人     請作    (橋本(健)家文書)『史料京都の歴史』

◎上記の原文に水呑とあるものを「請作」としました。[近江国の松原村と比較]
・「本郷高持百姓」68軒は本百姓、「侍分中間」「明神宮役中間」「公人中間」の合計と考えてもよいのでしょうか。35年前の1743年には、八所・十二所明神(石座明神)の祭りで鉾五本、神輿二社がでています。
・農村自体は領主の違いもあり本来閉ざされた社会です。ですが、商人や他村からの流入もあるでしょう。その違いを「本郷」の文言で表現したものでないでしょうか。
 1690年には参詣人相手の茶屋が114軒出ていて、地方からの出店もあるでしょうが、定住する人も現れるでしょう。また岩倉と中、花園は領主に共通の部分があり、特に岩倉村は中村との関係が深いようで請作(小作)があり、「ひよっとして、祭りにも応援があったのでないか」と考えるのは私だけでしょうか。
▼上記の数値は、岩倉村の純農村の部分だけのようで、寄留や町屋(他郷から来て(?)つくられた、門前町)を除いているように見えます。100年後の、明治10年(1877)代の「京都府地誌」によれば岩倉村は、戸数132、人数1049と戸数は約2倍になっています。明治14年(1881)、「京都府郡政御役所」の寄留などは差し引いて227戸です。【長谷八幡宮


【年貢の取り立て】
皇室・公家領) 京都代官には、皇室・公家領の支配と租税徴収の代行という仕事がある。年貢の取り立てについては、村役人と「京都代官から出す代官」(私見)とで業務を遂行する。
幕府領(天領)) 伏見奉行の例をあげる。伏見周辺の天領八ヵ村を預かり支配している。庄屋は各村に1名。村役人と奉行所の間にあって「御触れの伝達という業務を行っていたのが惣代である。年貢の取り立てについては、村役人と「伏見奉行から出す代官」とで業務を遂行する。
私領) 聖護院領の場合をあげる。聖護院領に詰めている代官衆(数名)がいる。年貢は、代官立ち会いのもと、庄屋を通じて年貢の収納、蔵入れを行う。白川村の村役人は庄屋2名、年寄4名、頭百姓若干名である。(←これは、寺社・大名・旗本でも同様か)
以上、『京都の歴史(第六巻)』を参考 [石高と年貢(成物)]


【京都守護職の役知】
山城国八郡の行政区分が出来た頃は古い。ほぼ同じであろう幕末期の「京都守護職の知行地」(112村・50,184石余)が参考になるので、その京都の郡と58村名(?石)をひらう(国立歴史民俗博物館所の『旧高旧領取調帳データベース』)。50,184石余はどこの分を宛がったものか。表の幕府領の合計は37,964.6石だが。
京都の58村
■愛宕郡 5村: 田中村、西賀茂村、岩倉村、市原村の各一部および原地新田
■葛野郡 11村: 西京村、壬生村、西九条村、中堂寺村、西七条村、鳴滝村、木辻村、小北山村、生田村の各一部および西塩小路村、大将軍村
■乙訓郡 9村: 上久世村、築山村、菱川村、久我村、神足村、古市村、勝竜寺村、大原野村の各一部および長野新田
■紀伊郡 5村: 上鳥羽村、冨森村、上三栖村、中島村の各一部および新田村
■[宇治郡:0村]
■久世郡 11村: 小倉村、久世村、観音堂村、中村の各一部および槙島村、伊勢田村、新田村、長池町、高尾村、白川村、安田村
■綴喜郡 10村: 岩田村、内里村、薪村、江津村、天王村、上村、市辺村、井手村の各一部および上奈良村、美濃山新開
■相楽郡 7村: 林村、椿井村、乾谷村、鹿脊山村の各一部および北河原村、梅谷村、石垣村

他の地域の役知54村(詳細は省略)
・河内国、■河内郡:8村 ■国讃良郡:13村 ■交野郡:8村 ■若江郡:6村
・和泉国、■南郡:4村 ■根郡:15村