名付け方
1.
彦根藩の特定名の使用禁止、その庶民の対応
2.
名付け方
3.
庶民の名前
【彦根藩の特定名の使用禁止、その庶民の対応】
◎
庶民は規制の方向に甘んじて(?)受けているようです。嘉永4年(1851)に先んじて、「庶民のものが兵衛・衛門(左衛門)を称すること身分不相応」の触れを出したようだ(上記「宗門改めにあわせて触れられた」と(未確認))。「左衛門」は家老に「木俣清左衛門」がいます。
とりあえず藩への提出書類には、「○左衛門」を止めるか「○右衛門」に変更、「○○兵衛」(へい、べい)→「○○平」で対応したんでしょうか。
つまり、彦根藩ではある時期(文政5年(1822)辺り)を境に「○左衛門」や「○○兵衛」の使用が激減し、その代わり「○○平」が増えています。数少ないが「○左衛門」を止め「○右衛門」に変更したものもあります。庶民にとって「よからぬ詮議となること」を避けているようです。
・明治3年(1870)11月19日には、『国名・旧官名使用禁止令』が全国に布告された。名前に国名(例えば但馬守や阿波守)や旧官名(衛門や兵衛)の使用が禁止されます。
【名付け方】
「名前」(通称)には、大別して、①正式官名、②疑似官名、③一般名称という三ランクある。
①は勅許を経て得られるもので、「大岡越前守」「榊原主計(かずえの)頭(かみ)」など大名・旗本の通称、公家では「森中納言」森左衛門権(ごんの)大尉(だいじよう)」など古代律令制下の
官名を朝廷より与えられて「名前」として名のった。、、江戸時代には実態としての職掌を原則として持たない。、、なお戦国時代には、勅許を経ない正式の自称が蔓延したが、江戸時代には秩序の整備・形成に伴い、徐々に遠慮・禁止されたため、一部の例外を除き、それらはほぼ消滅している。
②の
疑似官名は、国名と百官(京百官、東百官)である。国名は「越前」とか「陸奥」などで、京百官は「掃部(かもん)」とか「内膳(ないぜん)」などである。「
上野介」「
掃部頭」「内膳正(かみ)」なら①の正式官名になるため、「山城正(かみ)」(①なら山城守(かみ))、「主税之介(すけ)」(①なら主税助(すけ))など、①の正式官名とは訓読みは同じでも異なる表記にした。以上の①、②を除くもの③の一般名称といってよい。
ただの「右衛門」「左衛門」「右兵衛」などなら、②の百官名だが上に一字を付けた「源右衛門」「仁左衛門」「次兵衛」などは、一般的に百官名とはみなさず自由に使用された。
『壱人両人』 P52
【庶民の名前】相模国三浦郡八幡久里浜村の「宗門改帳」。 家数は153、寺、修験などを除いた百姓家は148軒、人口は男477人、女419人、合わせて897人である。
この名前を調べてみると、、
男性はすべて漢字、女性の名前はすべて二文字の平仮名(彦根城下でも)である。、、戸主は148軒の百姓のうち、同名はわずか1件、二人だけであった。ほぼ六〇%の農民が同名を付けているのに、戸主だけがほとんどすべて違った名前を付けている。戸主の名は、家を代表し、家族を含めた人間関係を表現するもので、戸主になる可能性をもつ、つまり家を相続する条件をもつ者の名前を付ける場合には、
戸主になった時に同じ村の中に同じ名前が重ならないように配慮されていたものと考えられる。、、
一方、町人の場合は、百姓と異なり行動半径も広く、屋号を付けることが多く、苗字をもつ場合にも屋号を名乗ることが一般的であった。
町人の屋号は、家業とその信用を表すものであり、苗字よりも大切にされたのである。
・文政12年(1829)の関東の旗本領、嶋野村(現千葉県市原市)の組頭が冥加金五十両を献金した功により苗字帯刀御免および割元次席・名主上席を命じられている。こうした傾向は諸藩にもみられ、熊本藩では、献金をした額に応じて、百姓・町人に郷士という武士分につらなっていく金納郷士制度を考え出し、資金の調達を行っている。
・幕末期になると金の力によって苗字帯刀を許され、苗字を名乗る百姓や町人が著しく増加してくる。その背景には、、身分的・家格的欲望や憧れがあったことを物語っている。、、由緒のないものが苗字を名乗り、苗字帯刀御免の特権を与えられることは、それまでの村秩序の否定、身分制度を揺るがすことでもあった。、、藩から苗字を与えられても、苗字を返上する者もいたのである。、、先でみた嶋野村では、苗字帯刀を許された組頭が村秩序が混乱するとの事由で、割元から帯刀を「
御屋舗様用之節」に制限され、また名主の支配を受けることを誓約させられている。
上記3つ 『名前と系図・花押と印章』P18