彦根商家 中村家
*中村家は、彦根城下町が開かれた当初から平田町に住み、町代役をつとめたいわゆる草分け町人の家である。もともとは六角氏の家臣であった。全前(みちやす)は、その九代目。安永四年(1775)に生まれ、天保14年(1843)に六九歳で没した。寛政10年父亡き後、父の始めた酒造業を成功させ、田畑を増やし、平田町と東新町に10数軒の貸家を営んでもいた。、、酒造をあきらめ醤油醸造のみを営む。"こと"は四人目の妻で、二十六俵三人扶持切米取の彦根藩士・野田三平の娘で、全前より16歳年下であった。、、全前と"こと"との間は子供にめぐまれなかった。ただ、この時代は、子どもにめぐまれたとしても、育てあげることが困難な時代であった。たとえば、全前の甥や姪は十三人の内五人が早生しているし、"こと"の実家でも九人の子どもが幼いうちに亡くなっている。、、全前の日記で養子の件が出てくるのは、文政2年(1819)で、、、彦根藩士・横関(よこぜき)主馬(しゅめ)が「養子の事など知らせに来たり」とある。、、全前は、親戚の早崎雅四郎にも世話役を頼んでおり、今須(現岐阜県)近くの山中村高木又左衛門、膳所近郷の葉栗村・片岡吉右衛門、水口西町の奈良屋甚蔵、日野の山中与兵衛らの男子が候補にあがっている。早崎の紹介した高木家と片岡家はともに百姓の家で、前者は酒造業を営み、後者は代官役をつとめる家柄であったという。横関の伝えてきた奈良屋は質屋、山中は日野の豪商・山中兵右衛門の分家であった可能性が高い。いずれも縁がなく、ようやく京都壬生の八木平八郎の息子・鉄太郎と縁組みが決まった。、、八木家は専業の家相見である。親戚や地域の人に頼まれて家相を見ることのあった全前の師にあたる。、、叔父の八木藤馬に連れられて中村家を訪れた十一歳の鉄太郎は、、親戚あげての大歓迎ぶりであった。、、鉄太郎は、文政8年、恒三に改名している。 『新修彦根市史2巻』P669
◎江戸末期、城下町にいながらの人脈の広さに驚く。下級武士の娘とは云え、後添え(16歳年下)にもらうなぞ町人の財力は大きかった。彦根城下、酒造業・醤油醸造という地域限定でありながら、京都、岐阜、膳所でも養子を捜す(友人の伝手だが)、当時の情報網の広さに認識不足を思う。
・全前と"こと"の間に子がなかったから、血筋がない完全に家を継ぐ養子である。全前の実の妹がいるのだが、そこから養子を迎えていない。養子を迎えるのは、縁戚以上にその人物がふさわしいかを考える。それゆえ、全前の妹が帰ってきたときなど、妻の"こと"は三味線を弾いて場を和ませている。当然、全前の妹にとっては、よそから養子を迎えるのは不満なのであろう。
・有力商人(町人)ほど人脈が広い。それ故、学問の大切さを知っているし、人間関係を大切にしている。日々の心遣い・思いやりが、その人をつくる。
・家を繋いで行くとは、今で云う、株式会社の社長を継ぐ感覚か。
・全前は最初、内片村から久兵衛の娘を、次には高宮村の谷沢新介の妹"ゑい"を、その五年後には長浜町の下村藤右衛門の養女"のふ"を妻に迎えた。

(※上記の続き   「、、」とあるは中略である)
*全前は、息子の教育に熱心であった。恒三が中村家へ来て五日目の記事には、「今朝より大学を教えけり、鉄太郎へ手習いも初めけり」とあり、まずは全前がみずから教えはじめた。文政六年(1823)正月になると、沢町(佐和町)の本屋を兼業とする西村甚三郎の寺子屋に入れている。自宅での教育はその後も続き、テキストは、「論語」、「礼記」などの儒学の書であった。、、中村家には大量の本を収納する「文庫蔵」があり、、、文政七年(1824)十一月十五日、恒三は十三歳のとき、、下帯の祝いとは、褌(ふんどし)祝いともいい、褌を締めて成人を祝う行事である。十五歳がふつうだが、十三歳で行う地域も少なくなかった。恒三は、この年の暮れから年明けにかけて、父の代わりに、関係先への寒気見舞いに出かけ年始回りをするようになった。翌八年五月には、彦根藩家老・脇家当主の出迎えに、病気の父の名代として初めて出向いている(文政8年5.15)。 、、天保元年(1830)の暮れ全前は、翌年の隠居を決意する。翌天保二年は、恒三が養子に来て十年目。全前が五七歳、恒三が二十歳になる年であった。京都をあきらめきれない養子に対して、全前の親戚や友人が説得を試みたりもしたが、、五月六日に彦根を発った恒三は、二度と中村家に戻ることはなかった。天保五年四月十日、中村家は坂田郡の旧家下坂氏から二十歳の養子を迎えた。十代目義乗である。 『新修彦根市史2巻』P675
◎成人するのも早い、親父の名代をするのも早い。今の5~10才早い。今は20代でもまだ子供か。