高瀬川と角倉了以
1.
高瀬川
2.
高瀬舟
3.
角倉家
【高瀬川】
京都と伏見を繋ぐのは、竹田・伏見の両街道と高瀬川。高瀬川は全長10km、幅7m、川底の浅い(数十cm程度)
物流を目的とした小運河である。
二条(現、がんこ高瀬川二条店辺り)で鴨川から分水し
鴨川の西を並走する。東山区
福稲(東福寺)辺りで鴨川と合流し途切れている。この辺りから鴨川が大きく西に曲がり、高瀬川は
東高瀬川となって竹田街道に沿って南下し(
現在の地図)、新たに整備された
新高瀬川となり、宇治川と合流する。
かって、京都と伏見を結ぶ運河であった頃の高瀬川は、現在の鴨川合流点のやや上流側で鴨川を東へ横断したのち、竹田街道と並行南下し古地図上部に現れ、太い黒線(伏見奉行領分線)とが上杉景勝屋敷の北西角で重なり、後に真南に下る。
現在の地図では、新高瀬川の東に旧高瀬川があり、ここに繫がっていたのが予想される。さらに、ここを南下し、
濠川(伏見城外堀の部分)と合流し
伏見港(現、伏見港公園)を経て宇治川に注いでいたようだ。
さて、濠川だが、明治になって
琵琶湖疎水ができ、今はなき「
伏見インクライン」の地点で、西へ流れるもの(暗渠?)が、残された
伏見城外堀(1624年廃城)に流れ込み合流したもので、これも伏見公園などへ南下し宇治川に合流している。疎水ができるまでにも、濠川(堀の中)が物流に利用されたことだろう。
江戸時代を通して、京都と伏見の間で、約300年間利用されてきた高瀬川だが、大正9年(1920)に、電車等の交通網の整備によりこの水運は廃止された。(明治10年2月6日、京都駅が開業。明治10年11月20日、京都-大坂間で貨物営業を開始。)
・全水域の土地は了以が自費(約七万五千両)で買収したという。、、高瀬川の完成で西国から京に運ばれる年貢や諸物資は
伏見経由で京都市中に達し、荷揚場として内浜・米浜・富浜などができ、終点の樵木町には、木材・
薪炭(たきぎ・すみ)・米の問屋がならんだ。木屋町の称はこれより興った。
◎
鴨川の西の高瀬川が、同年に角倉了以・素庵(そあん)父子によって開削され、京都中心部と伏見を結ぶ水路として利用された。
【高瀬舟】高瀬川の舟に限らず。
日本各地で使用される川舟をいう。吃水の浅い小船。初出は、平安時代前期に編纂された歴史書『日本三代実録』の元慶8年(884)9月16日条、「近江と丹波兩國に高瀬舟を造らせ、神泉苑に送らせる」
【角倉家】本姓は吉田氏。佐々木氏の分家。もともとは近江国愛知郡吉田村(滋賀県犬上郡豊郷町)出身とされ、室町時代中期に上洛し室町幕府お抱えの医者としてつとめた。その後、医業で得た財を元に
土倉を営むようになる。了以の祖父・吉田宗忠は土倉業は長男に継がせ、次男に医者を継がせた。この次男・吉田宗桂が了以の実父である。角倉家は茶屋四郎次郎の茶屋家、金座の後藤庄三郎の後藤家とともに「
京の三長者」といわれる。
・ところで、角倉了以は
朱印船貿易(1592年に朱印状を発行)の開始とともに安南国との貿易(1603年から18回渡航)を行い、山城の大堰(おおい)川、高瀬川を私財を投じて開削、また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行った。
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