「魚市場遺跡魚魂碑由来」
草津の港(現在の横大路)には桃山時代から多くの鮮魚問屋が軒を連ね、また、江戸時代には幕府から公設の魚市場の建設を命じられるなど水上交通の拠点として大いに栄え、現在の京都中央卸売市場のルーツと言われている。
当時は、淀川の三十石船は常に200~300隻が出入りし、
瀬戸内などからの引き船が夜を徹して淀川を上がり、卸されたばかりの鮮魚などを「走り」という問屋の仲士が威勢のよい掛け声をかけながら、京都をはじめ近畿各地に運んだとされている。
明治十年、京都~神戸間に鉄道が開通されるに至り、物資の集積地は京都駅にと移り、隆盛を誇っていた「草津の港」は徐々に寂れていき、現在の農村地区へと姿を変えていった。
大正八年、当時の水産関係者が往時の繁栄を後世に伝えるため石碑を建立したが、昭和九年の室戸台風、また、その後に起きた南海道沖地震で石碑が割れそのまま放置されてきた。
石碑建立から半世紀以上たった昭和五十八年、当時京都水産物商業協同組合が中心となり、市場水産関係者等から寄付金を集め、昭和六十一年六月に二代目の石碑を再建した。
再建後は「魚魂碑顕彰会」の組織を発足させ、以後今日に至るまで毎年4月の第一日曜日には、京都の水産関係の方々を招き、盛大に魚魂碑魚供養の式典を行っている。
魚市場遺蹟魚魂碑顕彰会
会長 岡本勲