北前船

【北前船】18世紀中頃から明治30年代にかけて、荷物を積んで船を港へ回す「廻船」(回船)で利益を得るものが流行り、京や大坂の人はこの帆船ことを北前船と呼んだようです。■この船は、寄港地で安いと思う品物があれば買い、船の荷物で高く売れるものがあればそこで売るという「商売」をしながら、北海道から瀬戸内海を経由し大坂までを往復しました。この経路を西廻り航路といい、この船を「買積船」ともいいます。
・北海道から三陸沖を経由し江戸までの東廻り航路もありましたが、江戸まで近いという利点はあるものの、東北沖の速い潮の流れに船が流されてしまう危険があるため、あまり使われませんでした。北前船は帆船で漕ぎ手なしに風だけで進みます。反面、風が吹かないと何日もその場所から動けないという欠点があります。風が強いと荒波に押し流され、万が一のときは、船の中の荷物をすべて海に投げ捨て、帆柱を切って、転覆しないようにしたそうです。
・全国にはさまざまな航路があり、その中でも多いものは大坂から江戸へ向かうものです。何でも運ぶ菱垣廻船(元和5年(1619))が登場し、後に酒樽を運ぶ樽廻船(享保15年(1730)が登場します。しかし、北前船と違い、寄港地が少なく、多くは片道運賃で稼ぐほかありませんでした。
・千石船(弁財船)で大坂と北海道を1往復すると、北前船では千両もの利益を得ることが出来ました。今なら6千万円~1億円と考えられます。はじめは年に1往復でしたが、丈夫な帆布が発明されてからは2往復が可能となりました。
・戦国時代から松前に進出していた近江商人(松前藩と契約)は、北海道の産物を敦賀で商品を陸揚げし、琵琶湖を経由し大坂へ運んで売り捌いていました。近江商人が北海道で活躍を開始した当時、北陸諸浦の船は、船を提供して船賃を得る「賃貸船」となっていました。近江商人には自前で船を持つものがいましたが、多くは共同で船を仕立て、船乗りを雇いました。その多くが北陸の船乗りです。近江商人の数も増えてくる頃、この北陸の船乗りの中から近江商人の手法を学び、自ら船を得て、北海道の産物を大坂で売る人達が現れます。それが北前船です
・北前船の最盛期は明治になってからといいます。それは、江戸期の松前藩が松前、江差、函館しか廻船の入港許可を出さなかったからです。一方、その衰退は、明治20年代の価格情報が電信でなされるようになること、明治24年から鉄道北陸本線の開通などが原因です。
【北前船が運んだ品々】(夏)に北海道の昆布、鰊(ニシン)を積んで、山形の酒田では米、紅花などを積んで、(秋)に瀬戸内海に入り、各地で売却し、大坂で一(冬)越した後、翌年(春)には米、塩、砂糖、干鰯(ほしか:干したイワシ)、木綿、古着、畳表、米、煙草など産物を買い入れて北国へ向かう。晩秋には北国に戻る船もあった。北前船の最大の特徴は、それぞれの寄港地で積荷を売り、新たな仕入れをもする点です。
・北前船の有名な船主として、敦賀の高嶋屋久兵衛、若狭の古河屋嘉太夫、淡路国出身廻船商人の高田屋嘉兵衛(1769-1827)、金沢藩の御用商人・銭屋五兵衛(1774-1852)がいます。後者の2名は、北前船が買積船として航行するようになった時代に登場した商人でした。