〓 | 自発的治癒(自然治癒ではない)の重要性を説いた本。多くの症例と治癒力を高める為の食べ物の解説、そして現代医療との共存について書かれており、そのバランス感覚は抜群だ。多くの医者に見放されたが、奇蹟的に回復したというのもについても、うまく治癒系が働いたからだ。そして、いかにしてうまく働かせるかがポイント。まずはライフスタイルの改善から。私はこの本を読み始めてから、トーストにバターは塗らないことにした。面白いのは、医者はいろんな症状に効く薬は嫌がるらしい。 |
〓 | フロストシリーズの1作目。クリスマスっていうことだったみたいで、読んでみた。お話はほとんど関係なく、クリスマスの6日前に終わる。そして、世間がクリスマスの時には、フロスト警部は病院で生死の境をうろつく事になる。去年の10月に『フロスト日和』(フロストシリーズの2作目)を読んだ覚えがあるので、どうやらこの時は助かったようだ。2作目の『フロスト日和』にくらべると、キザなマレット署長への態度がいくぶんおとなしい。悪態つくのも署長の姿が見えない時だが、2作目のほうは面と向かってやってたような気がする。この1作目は、少女が行方不明になったり、32年前の事件の真事実が出てきたり等、休む間もなく事件が起きる。フロスト得意の感がさえたり、さえなかったりだが、最後はそれらがビシッと決まる。しかし、まあ何でも灰皿にするクセはよくない。 |
〓 | このタイトルの本を読むのも小学生の時以来。今やルパンと言えば、ルパン3世ってことになるのか。そのお祖父さん、ルパン1世、アルセーヌ・ルパンである。もちろん、作者のルブランよりも有名だ。このシリーズ最高傑作と言われる『奇巌城』では、ライバルはなんと現役高校生のボートルレ。この少年はただものではない。物語はほとんどこの少年を中心に進められる。ルパンとボートルレ、この2人が世界を左右するようなフランス歴代の王家の財宝をめぐり、古くはシーザー、マリー・アントワネットをも巻き込んだ「エギュイク(針)・クールズ(穴)」の謎に立ち向かう。あのガニマール警部、そしてシャーロック・ホームズも出てくる。本書でのホームズはカッコ悪い。事件の解決にのりだした早々、なんとルパン一味に誘拐されてしまう。最後はホームズとの一騎討ちになるが、悲しい結末となる。何はともあれ、愛した女性の為につくすルパンはかっこいい。訳者は江口清。 |
〓 | コード化された原始共同体、超コード化された古代専制国家、脱コード化された近代資本制。それぞれを幾何学的に解説し、近代社会以降における課題について述べる。古代専制国家では、絶対規範というものが外から与えられていたが、近代社会の規範は自分自身にある。近代社会では静的な構造は壊れ、<パラドックスを飛び越えながら>(先送りにしながら)、<こけつまろびつ進行して>いたが、これからの社会は、ニーチェ&ドゥルーズが言うように、<舞踏する>ことを薦めている。<笑いとともに享受する>ことである、と言う。著者の示す図としては【クラインの壷からリゾームへ】ということになる。理想的極限としてのポストモダンだ。先日読んだ『ニッポンの知識人』において、<すごくよくできている社会思想史>とあったので、再読してみた。確かに詩的表現も多いが、図で示してあるところがイメージを得る助けになっいる。著者は1957年、兵庫県生まれ。 |
〓 | 先日読んだ『ニッポンの知識人』の中に登場し、けっこう評価が高く、ちょっと気になる人物であった福田和也の本を見かけたので買ってみた。本書は、辻仁成、島田雅彦、町田康、田中康夫、車谷長吉、柳美里、そして同じ評論家仲間のすが(漢字が出ん)秀実、浅田彰、東浩紀についての評論。辻仁成はあまりに文学的すぎて反発を買っており、島田雅彦は遊び人で誠実。町田康は物腰がやわらかく、田中康夫は公明正大で、滑稽で、哀しく、車谷長吉は紋きり型の人間像を、文章のサービスで読ませ、柳美里は純文学領域で無敵の無頼派であるらしい。浅田彰は洗練された趣味人で、すが(漢字が出ん)秀実はもっとも文芸評論家らしい批評家で、東浩紀は論理的であるがその行方は?って感じであるらしい。著者の独特の文体(「、」読点でつないでいき、「。」句点がなかなかでてこない)はけっこうねちっこく、話がおもしろい時はいいが、つまらない時は妙にわずらわしい。最後の冥界座談会では、今東光、柴田錬三郎などが出てくるし、最初にも今東光が登場する。きっと今東光が好きなんでしょう。その辺りは親しみがわく。1960年、東京生まれ。 |
〓 | チャンドラーの長編3作目にあたる。私が読むのは4作目(途中で最後の長編『プレイバック』を先に読んだので)になる。毎度のことながら、私立探偵マーロウと警察の関係もよくできていると思う。事件をとりあえず、そういうふうに片付けておくという警察と、あくまでも納得のいくことにこだわるマーロウだ。その為なら相手がどんな大物であろうとひるまないし、あえて真犯人を警察につき出すことはしない。まあそこら辺がマーロウの大きな魅力の1つでもあり、自分の職域(探偵であること)を守ることに対する頑固さである。警察だけでは上面で、マーロウだけでは世間が納得しない。今回の依頼人の秘書マール・デイビスはかわいく、いじらしい。彼女があまりにも純なのでさすがのマーロウもイライラしていたが、最後は根気よくアフターケアも行い、カッコよく去っていくのであった。ちなみに訳者の清水俊二さんは、本書を訳し了える寸前で亡くなり、その続きは字幕スーパーでもおなじみの戸田奈津子さんが訳されたそうである。 |
〓 | <本書は、そのポストモダン以降のなかの知識人の地勢を、今あるがままに猟歩しようとした。>ものである。第1部は『ポスト近代の超克』という著者3人による鼎談。『朝まで生テレビ』に出てくる人たちは皆、大衆知識人。世界で通用する文学は谷崎、川端、三島どまりで、安部公房、大江健三郎は例外(『知識人と日本の変容』)。「ホロン、カオス、フラクタル」はバカ科学の三題話、浅田彰と中沢新一の分かれ目は癒されたいかどうか、そして『ソフィーの世界』への堕落(『平成知識人の診断書』)。第2部の『知識人ミシュラン』でも言いたい放題。埴谷雄高の神話を真に受けるのは今や、池田晶子くらい。中沢新一は天才的詐欺師。呉智英は有言不実行の人。ほとんどこんな調子であるが、浅田彰、宮台真司については好意的。永井均に至っては、<日本近代が百数十年に生みだした、初の「哲学者」なのかもしれない>とかなり好意的?である。こういうのを読むとまた読みたい本が増える。とりあえずは、浅田彰『構造と力』、リオタール『ポスト・モダンの条件』を読み直すかな。 |
〓 | ゼウスガーデン、それは日本国にできた大遊戯場。1984年、下高井戸オリンピック遊戯場として誕生し、のちにゼウスガーデンという名称に変わり、2089年に滅亡した。そのハチャメチャな歴史である。笑える。このゼウスガーデンと言うのは、人類のすべての快楽を満たす為に作られた大遊戯場で、その規模は日本=ゼウスガーデンというほどになる。登場人物多数。その内容は一言では言えない。著者の考えるあらゆる快楽のイメージの行進である。そのハヤメチャさ、悪ノリ具合はあの筒井康隆に優とも劣らない。人間のばからしさがよくわかる。これは笑わずにはいられない。これぞ喜劇である。『ゼウスガーデンの秋』というのが新たに付け加えられた文庫本であるが、これがまたいい。芸術とは何か?を考えさせられる。 |
〓 | チャンドラーは35歳の時に、18歳年上の女性と結婚した。その妻シシーは<主婦としても仕事上の助言者としてもずっとチャンドラーの良き伴侶であった>そうな(巻末の解説より)。で、チャンドラーを読むのはこれで3作目。『大いなる眠り』、『プレイバック』を読んだが、今のところこれが一番いい。ナイトクラブ歌手、ヴェルマを愛した大男、「大鹿マロイ」。過去のことを知られたくない富豪の妻、グレイル夫人。そして、善悪関係なく組織の為に働く警察官や、つかまらない黒幕。ラストはもの悲しい。今回のマーロウはひとり言がやたら多いような気がする。なかなか愉快なヤツじゃ。 |
〓 | <しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなかったら、生きている資格がない。>。という有名なセリフがP.232に出てくる。初めて読んだのが、チャンドラーの処女作『大いなる眠り』で、次の読んだのが遺作『プレイバック』だった。たまたま。私立探偵フィリップ・マーロウは依頼人に頼まれたことを一応行うが、気になることがあればそれ以上に深入りする。依頼人にとってはイヤな奴である。今回も最初の依頼は、ある女の居場所を探れ、という事だけであったが、最後にはその女が依頼人になったかのようである。そして、『大いなる眠り』を読んだ時は、けっこうがまん強いヤツ(すぐに女と寝ない)だと思っていたが、そうでもなかった。解説を読めばこれもめずらしい事である、らしい。 |
〓 | <姉ちゃんはいけんかった…“いけんかった”というのは、人の姿でなかったいうだけじゃ。命は無うなってない>。女郎が語る「ぼっけえ、きょうてえ」(岡山地方の方言で「とても、怖い」の意)身の上話(『ぼっけい、きょうてい』)。村役場に設けられた虎列剌(コレラ)病の密告函。その鍵を渡された弘三。<うらむなら密告者を>(『密告函』)。漁師の嫁ににきた酌婦のユミ。左足が子どものままの網元の息子と密会するが。「そわい」とは、潮が満ちたら沈んでしまうが、干上がったら出てくる浅瀬や岩礁のこと(『あまぞわい』)。<「悪いことなら口にするな。本当になるけん」>兄の利吉はシズに言う。件(くだん)とは、頭が牛で体は人間。その化け物をシズは見る(『よって件の如し』)。全部で4話。怖いというより切ないのである。第6回日本ホラー大賞受賞。著者は1964年、岡山生まれ。 |
〓 | 英国航空のボーイング747が墜落した。奇蹟的に8人の生存者がいた。しかし、墜落した場所は水も食料もないカラハリ砂漠のど真ん中。彼等は生きて帰ることができるのか。主人公はその中の1人、鶴見浩二(鶴田浩二ではない。ちなみに小説での大半はクレインと呼ばれる)。そして、英国航空のスチュワーデス、2人の日本人女性の観光客。この4人が行動を供にする。主人公は機密書類を持ち、それを狙う刺客達。現在の国際政治情勢を反映したいろんな組織の思惑がからむ。現地人のブッシュマン、ようわからん女刺客などもでてきて話は複雑。しかし読みやすく、面白い。英語、日本語、オバンボ語、アフリカーンス語(南アフリカに入植したボーア人が創りだしたオランダ語の変型語らしい)などで会話される。(小説の文はもちろん日本語で書かれている)。この辺りの、著者の無国籍ぶり(広範な知識)がいい。ブッシュマンの考えていることも日本語で読める。…ふと気づくと新幹線は名古屋駅で停車していた。あわてて降りた。 |
〓 | 江戸川乱歩は『クリスティに脱帽』の「英米探偵小説評論界の現状」の中で、今までの探偵小説(クリスティ、セイヤーズ、クロフツ等)は、生き生きとした人間が書けてないというチャンドラーの意見に対して、少々批判的である。それは、逆にチャンドラーが人間ばかりを書き、論理興味を捨て去ったということであるが。。。で、『大いなる眠り』は面白い。一旦解決したかに見えるのであるが(それで終わらないことはわかる。何故なら約半分が残っていたからである)、このフィリップ・マーロウ(私立探偵)はしつこい。そして後半がぐっと面白い。思ってたよりもフィリップ・マーロウは、ストイックである。ジェームス・ボンドみたいにすぐに女を抱いたりしない。ちょっとカッコつけすぎのとこもあるが。 |
〓 | セイヤーズの最大の傑作であり、1930年代英国が産んだ最高の探偵小説と謳われる不朽の名作、らしい。江戸川乱歩も『クリスティに脱帽』で、やたらと誉めていた。確かに重厚な小説で、鐘についてのウンチクを充分読まされる。 ガウデ、サベオス、ジョン、ジェリコ、ジュビリー、ディミティ、バティ・トーマス、テイラー・ポール。順に一番鐘(高音鐘)〜八番鐘(低音鐘)。鐘の鳴らし方もいろいろあるようで、「ケント高音跳ね八鐘」など聞いたことのない言葉がたくさん出てくる。この辺りは解説でも触れられているように京極夏彦の小説のようだ。乱歩もその教養に関心していた。英国の田舎の雰囲気を味わいながら読める。その田舎で、殺人事件が起こるのであるが、最後の誰に殺されたか?という謎は、非常におもしろいと思う。ナイン・テーラーズ(九告鐘)とは、その村で男が死んだ時に鳴らす弔いの鐘。 |
〓 | 副題にあるとおり、江戸川乱歩による「海外ミステリ論集」である。1841年に書かれたE・A・ポーの『モルグ街の殺人事件』から、その後100年間にわたる探偵小説の歴史、トリックの分類、ベスト10、そして乱歩の考える探偵小説のありかた等が熱く語られている。探偵小説を書き、そして愛した乱歩が語るのを読むのは楽しい。 そして、読みたい本がまた増える。前半部分で乱歩がやたらと関心してた、ドロシー・L・セイヤーズの『ナイン・テイラーズ』を買ってしまった。 |
〓 | <「実はぼくはもうこの世の人じゃないんだ」。「…は?」>。なにを言うか思えば、今はB世界におり、A世界の山田風太郎は階段から落ちて死んだそうである。ああ、そうですか。毎度のことながら、山田風太郎の話すことを読むと、むちゃくちゃリラックスできる。もう、思いっきり力が抜けた。体の底からスーッと。気持ちがいい。やりたいことしかやってこなかった山田風太郎は、小説を書くときも全然ストレスはなかったそうで、他の作家がうらやましがったとか。小説の中味を見ればそれはよくわかる。本書は、関川夏央が1年半かけて、山田風太郎にインタビューしてまとめたもの。それにしても関川さんのツッコミも見事。当時73歳の山田風太郎は何度も同じことを言うので、苦労したやろなあ。山田風太郎、大正11年生まれ。うちの親父と同い年。昭和の初期に青春時代を過ごしただけに、その頃の記憶はハッキリしている。 |
〓 | iレディのi は、internetのi 、installedのi 、immoralのi である。つまり iレディとは、ネット上の、インストールされた(いわゆるプログラムであるということ)、ふしだらな淑女って訳だ。その名は松本リカ。中年の男が「ネットかま」となり、掲示板で男をたぶらかす。その中年の男も最初は意識的に松本リカになって楽しんでいたが、最後には知らないうちに、松本リカに変身してしまう。つまり脳に松本リカのプログラムをインストールされたって訳だ。脳にインストールされるのが、ワードやエクセル?、いやいや辞書ならかまわないが、松本リカとなると、単なる二重人格。それもいいかもしれんが、プログラムを起動させるのは自分自身の意志でやりたいものだ。 |
〓 | 主人公スカイラーは、スプリンターと呼ばれるチップの運び屋となった。それを衛星ミサイルが攻撃し、その模様をビデオに撮り、エンターティメントとして放送する。スカイラーを執拗に追う人間の様なカメラ、シャドウと、カメラのような人間、エンドリクス。そして、次々にスプリンターたちは殺されていくが、スカイラーは「神聖な保護」がある為、生き延びる。それに熱狂する人々。しかし、すべてはウソっぱちで、権力を維持しようとする者のデッチ上げであった。・・・自分が出ているビデオを見ている自分をビデオで見ている。話はそこから始まる。そして「ビデオの中のビデオの話」の間に「ビデオの話」が挿入されるので、ややこしい。一度ザッと読んで、再度読むほうがいいかもしれない。タイトルの「グラス・ハンマー」の意味。薔薇窓の男がしたように、デッチ上げのものを作るより、それをぶち壊して真実を知る。てなことかな? |
〓 | コミック。現代に転生。場所は東京。ユダヤ(聖神邪)とキリン(伏姫輝憐として登場)は飛鳥学園において、現代のマダラ、光河飛雄と現代の影王、光河光と出会う。実際どっちがマダラかは、はっきりしないのであるが。彼等兄弟の父は生命工学の権威、光河三郎であるが事故死している。沙門は高校教師として登場。何者かによってさらわれたマダラ、光河飛雄は、エンジェル・チャーチという新興宗教団体の指導者として再登場。そして再度どこかへ消える。飛雄(マダラ?)を探す兄の光(影王)。そして飛雄を追う者に光も狙われる。第1部ENDとなっているので、話は続くか。。これも何故か作者・田島昭宇でなくなっている。 |
〓 | コミック。西方の大陸エデンでのお話。『MADARA』において、主人公マダラはミロクを追って消えて行った。マダラを真王と思う2人、カオスとユダヤ(聖神邪)は、時空を超えてマダラを追い続け、エデンで再会する。そこでのカオスはギルガメッシュと名乗り、狂っていた。ユダヤはカオスを救おうとする。彼等の名前は変わらないが、マダラは名前を変えて登場する。その地におけるマダラと呼べる存在がバル・コケバであるが、まだ覚醒していない。本書の出だしでカオスとユダヤは、青の戦士、赤の戦士としてマダラを守る運命にあるとキリンの母から告げられている。何故か作者・田島昭宇でなくなっている。 |
〓 | コミック。第2巻を買ったので、1〜3巻を通して読み直した。『MADARA』とは違う場所フダラクでのお話。『MADARA』で出てきた聖神邪が『赤』では赤い髪の男、ユダヤとして登場し、同じく『MADARA』で出てきた沙門も登場するのでややこしくなるが、話の関連はない。で、『赤』であるが、ムーを中心とする子どもたちとその土地を守る不滅竜VSクリシュナ王家との戦いとなる。ムーはもともとクリシュナ王家の第8皇子であるが、赤い砂にやられる村人たちと運命を共にした為にクリシュナ王家と対決するハメになる。この辺りがなんとなく、前作の『MADARA』とそっくり。最大の敵はクリシュナ王家の第5皇子のグウィン。コイツはなかなか個性的で良い。野望に燃え、父を殺し、自らの体を水銀生命体の完全体とした。その姿はまるで化け物のようになった。そのグウィンに仕える賢者ヘルメスとその妻プレシャ。そして、ムーが慕っていた第7皇子カルマが微妙にからむ。勝負の決め手は、賢者ヘルメスがグウィンを見限って、ムーの味方になったことと、カルマはやはりムーの味方であったこと、プレシャが心を持ったこと、そして村にいた、風使いの子レラの力、赤い髪の男、ユダヤ(聖神邪)も大活躍による。最後にプレシャが不滅竜に姿を変えたのには驚いた。 |
〓 | 副題が「現代に甦る天才の秘密」である。この人が甦させたのは、なんと宮本武蔵である。それも武蔵の肖像画を唯一の手がかりとして、武蔵の身体意識がどこにあり、その意識によってどういう動きになるかを実演してみせる。身体意識とはバレエの「センター」であり、ゴルフや野球の「軸」、その他武道系でいうところの「正中線」、「丹田」などのことである。筋力よりもその身体意識が大事であるとし、そのトレーニングやり方などを解説する。わが師・柳川昌弘も登場する。<現代空手の大家、柳川昌弘氏の場合には左右のジンブレイドの形状の違いと動きの対応関係までも、確認していただきました>。【ジンブレイド】というのは著者の造語で、身体意識のラインのようなもの。それらを働かせるのが【ディレクト・システム】と著者は呼ぶ。おもしろいのは現代人は「身体言葉」(身にしみる、目くばせ、腰をいれる等)を使わなくなったので、身体意識が薄くなったというところ。 |
〓 | 前回『あゝ、荒野』を読んだときにはあまり感じなかったが、今回本書を読んでみて、寺山修司は誇り高き人であると感じた。それが速さへのあこがれであり、一点豪華主義であり、無礼ボーイのすすめであり、自殺学入門なのだ。アウトサイダーたる面目躍如である。うまく私の中に入ってきた。解説が中山千夏というのも泣かせる。 |
〓 | 例によって「あとがき」から読んでしまった訳である。あとがきのミスター珍、いや違う内藤陳、もう強烈に推すって感じです。(しかしプロレスラーのミスター珍、なつかしいなあ。下駄持って暴れとったなあ)。内藤陳大先生にしてみたら、昔読んでおもろかったものが復刻するってことで、うれしかったんでしょうね。お話は、ジャンボジェット機が盗まれるって話。そこで弁護士のベレッカーとその元妻のアニーが大活躍。この2人、けっこうおっちょこちょいでして、アニーがスチュワーデスに間違えられて、そのままハチャメチャなスチュワーデスをやってしまうとこなんか大好きです。謎解きもけっこう凝ってます。 |
〓 | <つまり<バリカン>のような対人赤面恐怖の男は「憎まなければ、愛されない」ということを、もっと早く知るべきだったのである。>自分が吃るのは弱さのせいだと思った<バリカン>は、ボクシングジムに入門する。かたや少年院から出てきた新次は、パチンコ屋で声をかけられボクサーになる。新次は順調に勝つが、<バリカン>は、相手が憎めず、殴れない。そしていろいろ憎む練習をするのである。でもその練習相手が、老犬ではいかんなあ。ラストで新次と<バリカン>が試合をし。。締めくくりは思わず「うっ」となる。1966年に単行本として刊行されているだけに、随所に出てくる歌謡曲やら、CMソングやらがなつかしい。というか、知らんものもある。弘田三枝子の「アスパラ」のCMは覚えているぞ。なんせマドンナと言えば、吉永小百合って感じやからね。脇役もおもろい。早稲田大学の自殺研究会の川崎敬三。いつも「川崎敬三(そっくり)」って(そっくり)がつく。しかし、あの小林さんに「そーなんですよ。川崎さん」と返された川崎敬三はどうなったんでしょうか。 |
〓 | あの「井桁崩しの原理」を発見した甲野善紀が、さらにその技に磨きをかけ、タメをつくって動くムチのような動きではなく、<群泳する魚が瞬時に方向転換するように一瞬でザっと変わる体の使い方の感覚が得られた>そうである。甲野氏によると、体を宙に浮かせて体のいろんなところを同時に動かすのだそうだ。支えのない状態なので逆にタメの動きはできない。これについて、養老氏は、それは目であるという。耳とかは<単線の時間軸上をトントンと進む>が、目は同時並行処理であるという(百聞は一見にしかず)。そこから視覚の話となり、網膜には自分の血管が映っているのだが、完全に静止しているので、見えないというということに感心した。そして、身体を通して、感情をコントロールする話やら、日本人独特の考えやらに広がっていく。2人とも組織が嫌いらしく、養老氏は東大を止め、甲野氏はその活動において、段位や役職を作らない。どちらも共同体との境界線にたたずんでいるようだ。一種の品格はそこら辺りから生まれるのか? |
〓 | いいですね、この暗さ。甘くないのがいい。しなきゃいけないことは他人から言われてやることではない。すべては自分の心の問題。<ジョン・ウェインの映画の見すぎで、カウボーイ小説の読みすぎ>と言われようと、やらなきゃならんと思ったらやるのだ。後味はよくないのはわかってても。これから先、今やったことを引きずっていきながら生きていくのだ。物語は家に押し入った強盗を殺してしまうことから始まる。そしてその殺された人間の親父が復讐しにくる。しかし、真実は、警察も一枚かんだ裏があった。そしてその主人公はその親父とともに。。例のハップとレナードのコンビは出てこいないが、今回もそれぞれの人物の倫理観に基づいたいいものだ。 |
〓 | <村の呪術の欠点は無知にあります。そしてあなた方の医学の欠点は不信にある>とキロンゾが言った辺りから、なにやらイヤな(うれしい)予感がした。これは凄いことになりそうだ。そしてその村に来た神父は、惨い最後を遂げた。この第U部の後半あたりから、ぐっと盛り上がってくる。アフリカでの気球の事故で娘を失った民族学者・大生部教授一家が、テレビ局のスタッフとともに、再びアフリカのケニヤへ行く。そこには黒人でアルビノ(白子)の大呪術者バキリがいた。バキリは言う。<神の掟だよ。蟻は蟻であるように、人は人であるように。それ以上を望まんようにという掟だ。…その掟を守り、運行するのが我々呪術師だ。…人を救うのも呪殺するのも、すべては掟の原理にのっとっている>。そして彼が使う呪具、前代未聞の邪悪な力をもつと言われた【バナナのキジーツ】とは。。。日本→ケニヤ→日本と舞台が移動しつつ、掟を守ろうとする大呪術者との大殺戮合戦が繰り広げられる。力作である。読み応え十分。中島らもの底力を見せてもらった。 |
〓 | コミック。『MADARA』の続きだが、前回の主人公マダラは出てこない。そのかわりマダラによく似たムーが主人公となる。場所は赤砂の国、フダラク。不滅竜とムーがこの地を守る。しかし、巻末の資料やらなんやら読まんと関係がわかりにくい。2巻抜けてるし。 |
〓 | コミック。摩陀羅の物語が時空を超えて現代に。伏姫輝燐が「解脱学園」に入学する。そこでは前世で共に戦った仲間たちが。転生編の『赤い綬蛇矢』と『風も沙門』。その他『聖ユダヤ伝』、『MADARA青』、『風になるまで』(MADARA赤のプレストーリー)が収められている。 |
〓 | 堪能しました。久々の痛快大冒険物語だった。令狐冲の元師、「君子剣」の岳不羣は「偽君子」と呼ばれるようになり、腹黒い人間のトップとなった。「正派」でありながら悪人。「邪派」でありながら善人。「正」「邪」の区別はわからなくなった。そして最後で多くの人間(善人も悪人も)が死ぬ。著者の金庸はあとがきで、<政治的人間>と<隠士>に分けて解説をしている。権力を得ようとする<政治的人間>として岳不羣、任我行、東方不敗…その他ほとんどの人間がそうであり、権力には興味を示さない<自由と個性の解放を求める><隠士>とは令狐冲、任盈盈(最初に琴の名手として登場する)のような人間であるとしている。世の中<隠士>ばかりでも成り立ちそうにないが、非常に魅力的な人間として描かれ、そうなりたいと思わずにはいられない。 |
〓 | ついに出た!当代随一の凄腕、東方不敗。いやあ、待った甲斐がありました。やはりコイツは凄い。1対1の実力では文句なくNo.1。そしてその個性もこの物語の中で、1、2位を争う。任我行との魔教教主を賭けての戦いは興奮しました。 方や、「正教」と呼ばれる5つの派の統一とその総師めぐっての争い。そこでぐっとクローズ・アップされるのが令狐冲の元師、岳不羣であった。あの「君子」と呼ばれた人間が、「偽君子」と呼ばれるようになった。なんと巻頭の人物紹介文にも、<表裏のある人物>などと書かれているではないか(第5巻目からそうなっている)。そして物語は林家に伝わる「辟邪剣法」の秘密(第1巻目の紹介で書いた)なども明かにされ、物語はまさに起床転結の「転」状態。さあ次で最後だ。 |
〓 | 令狐冲は任盈盈を助ける為に小林寺に向かう。そこで正教と邪教(魔教)の3対3の対決をすることになった。令狐冲は魔教側の代表として、我が師であった岳不羣と対決するハメに。剣の実力ではすでに師を超えていた。任我行は令狐冲に娘・盈盈の婿として、自分の後継者としてラブコールをおくる。しかし、令狐冲はその再三の誘いを断わり、なんとあの尼の武術集団である恒山派の総師になってしまった。方や任我行はついに宿命のライバルであり、魔教・現教主の東方不敗を成敗する為に総本山に乗り込む。そしてひねくれ者同士、最大の友となった令狐冲も任我行と行動を供にする。…ここで、令狐冲と3人の娘の関係を整理すると。【任盈盈】魔教・前教主、任我行の娘で抜群の武芸を持つ。尊敬するとともに畏怖の念もいだく。【岳霊珊】華山派の師の娘。幼馴染みであり、最も心安らぐが、林太之と相思相愛で、嫉妬にかられる。【儀林】尼の武術集団に属する。武芸はつたないがその献身的な態度に心動かされる。この娘たちとはどうなるのか。そして、次巻では待ちに待った?東方不敗が登場する。クライマックスへ突入だ。 |
〓 | 前巻で、闇の一大組織「魔教」の前教主の娘、任盈盈にほれられた令狐冲であったが、今回はその父親、すなわち「魔教」、またの名を「日月神教」の前教主、「吸星大法」を必殺技とする任我行と対面することになるのだ。その任我行は、魔教の現教主・東方不敗によって地下牢に閉じ込められていたのであった。任我行は腹心、向問天(令狐冲の友となった)の計略で脱出することに成功する。令狐冲はと言えば、「吸星大法」も会得したが、<一生のうちで今ほど武芸が立つ時期はなかったが、今ほどの淋しさを味わうこともなかった>という状態となった。魔教の人間と友になるも心は未だ破門された華山派から離れられなく、任我行と仲間になる誘いも断わる。そして、逆にあの儀林(これまた令狐冲に想いを寄せる)のいる尼さんの組織、恒山派を現教主・東方不敗率いる魔教の手から救い、行動を供にするようになる。どこの派閥の人間であれ、友となれる令狐冲はイカス。 |
〓 | オウム真理教事件に関することをネタに宗教とは何か、そして著者の考えるこれからの進むべき方向を書いた本。非常にわかりやすく、納得できるところが多い。合理的なことを超えて非合理を信じてしまう。宗教はISMと同じであると著者は語る。オウム真理教も「会社社会」と同じ。宗教というものをとっぱらえば理解できると言う。仏教についての解説も明快だ。ゴータマ・ブッダは絶対的な考えである輪廻転生から離れて、「死ぬ」ことができた。いったん絶対基準というものを捨て、自分で納得できる合理的な考えに達することが解脱なのかもしれない。また著者は<個人の内面に語りかける宗教=別に生産を奨励しない宗教>のような反社会的な考えの危険性を説く。そして日本救済の道は、「工場制手工業の復活」と言う。まあその辺りは本書でうまく(合理的に?)説明している。確かに今は機械化、量産化でいらんもん作り過ぎやとは思う。会社、特にメーカーの生きる道は厳しいのだ。 |
〓 | 岳霊珊にふられて生きる楽しみを失い、お笑い6兄弟(桃谷六仙)から治療を受けたらますます悪くなるわでボロボロの令狐冲であるが、謎の男、風先生から教わった「独孤九剣」で武芸の方は抜群となる。逆にいつ死んでもいいというひらきなおりと武芸の凄さで多くの友を得ることにもなる。しかもひとクセあるヤツばかり。一人治したら一人殺すという「殺人名医」の平一指。「無計可施」(なすすべなし)と呼ばれる知謀にすぐれた計無施。極めつけは琴がうまく、無敵の武芸を誇る美女の任盈盈。この女が令狐冲に想いを寄せる。しかしその正体は、闇の一大組織「魔教」の前教主の娘なのだ。この才媛、任盈盈は、令狐冲への想いを隠そうとしてめちゃくちゃ横暴なふるまいを行うのだ。こういうヤツらとつきあうから「君子剣」と呼ばれる師から破門にされ、たった1人、我が道を行く、令狐冲であった。。。つづく。 |
〓 | <神の祝福ーゴッド・ブレス。リトアニア生まれの老修道女はゴット・ブレイスとなまって言った>。バンド名を「ゴッド・ブレイス」という。ボーカリストはこの物語の主人公の朝子だ。朝子の前では、その他の野郎どもはみんなガキである。その分朝子が恋人であり、母親役となる。朝子さんは大変だ。萬月の小説の骨格をなしいくような言葉も出てくる。<気持ちいいだけ、なんて嘘。いつだって痛みがいっしょで、だからあたしたちは一緒にいるんだ>。花村萬月のデビュー作。名作『ブルース』の原点がここにある。 |
〓 | 林平之が華山派の弟子となり、令狐冲とは兄弟弟子になった。令狐冲は、華山派の一番弟子で皆からは「大兄」と呼ばれている。はじめて弟弟子を持ち、「師姐」と呼ばれることになった岳霊珊はうれしくて、何かと気にかける。若い林太平と岳霊珊がいい仲になっていくことに嫉妬する令狐冲…。よくある話しで。それよりもなによりも今回一番強烈なキャラクターは、天真爛漫な6兄弟の桃谷六仙。すぐに兄弟喧嘩はするわ、ちょっとのことでおだてにのるわで、ヤツらに襲われ瀕死の状態となる令狐冲も、そのくだらない会話におもわず笑いそうになる。しかしコイツらの武術はすさまじい。相手をひょいと持ち上げ、体を4つ裂きにしてしまうのだ。笑ってるうちに殺されそうで、不気味だ。 |
〓 | 『信長公記』を主な資料として、信長の行動を丹念にさぐり、彼の「天才性」を浮き彫りにさせようとした人物論。確かに同時代の上杉、武田などとは全く違う価値観の持ち主であったようだ。現在を肯定し、その延長線上で拡大をはかろうとする彼等に対して、現在を否定し、新しい世界、新しい秩序をつくろうとした信長。その考えに合わなければ、息子を切腹させ、叡山を焼打ちする。公平性はあるがその絶対的な基準が自分なのだ。そしてその精神の完結性(著者いわく)ゆえに中途半端では終わらない。まわりの者が見れば、いったいどこまで行くのだろう、と不安になる。そしてそんな彼を恐れた明智光秀によってやられる。彼等全体を1個の人格として見た場合、精神のバランスがとれたことになるのかもしれない。しかし、やはりもう少し長生きしていたらと思わずにはいられない。 |
〓 | 久し振りの筒井康隆の新刊。帯に書いてあるのが<名作「時をかける少女」から35年ー。著者、会心の少年少女小説>。むむ、ジュブナイル(少年少女小説)か。いやあ、でも『時をかける少女』はよかった。主役の原田知世もバッチリはまってたしなあ(映画)。今回のお話は、刑務所から帰って来た祖父(通称ゴダケン、主人公の少女はグランパと呼ぶ)が、いじめの少年を改心させたり、地上げ屋を鎮圧させたりする。まあ正義の味方ぶりを身をもって示すのであるが、この本の中でゴダケン自身も言うように、勇気ではない、死に場所を求めているのである。じいさんなんで、きれいに死にたいんやと納得するのではなく、じいさんでなくとも、如何に死ぬかを考えねばならんという事を著者は言いたかったのかな。 |
〓 | 古龍の次は、金庸だ。ってことで待望の『秘曲 笑傲江湖』を読み始める。家伝の「辟邪剣法」を有し、用人棒稼業(運送警備業者)を営む林家が襲われた。両親はさらわれ、仲間は皆殺し。武芸はつたないが正義感の強い息子、林平之が復讐に燃える。相手は武術界(江湖)のヤツらである。この江湖の世界、様々な流派に分かれ、凌ぎを削っている。その中でも令狐冲という酒好きの青年がなかなか魅力的。そして彼を慕う、娘たち。妹のような、岳霊珊。そして尼僧である儀琳。それぞれが武芸者であり、かわいい。…個人的な好み。登場人物も多い。とりあえず、第一巻としては人物紹介って感じかな。そのうちブルース・リーでも出てきそうである。 |
〓 | 郭大路と燕七の仲はかなり怪しい。と前回書いたが、ついに燕七の秘密も明かになる。何故かいつも顔を汚していた燕七であったが、突如貧乏な「富貴山荘」を飛び出してしまった。それを追うのが郭大路。酒好きで、怪力で、武功はおおざっぱであるが、凄まじい反射神経の持ち主。そして燕七を好きになってしまって悩む、愛すべき男。苦難を乗り越えついに燕七に会うが、その時の姿は…。最後には林太平の秘密も明かされる。これも凄まじい。まさに愛と友情の物語。人物の絡みも面白く、力強い。倫理とか道徳とかを超えて、単純にこういう人物になりたい!と思う。最後の言葉は<自由や愛情、人生の歓びは、信頼と勇気、そして真心を差し出してこそ手に入れることができる。それ以外に、別の方法などありえない。…英雄が孤独などと、誰が言ったのか?我らが英雄は、こんなにも歓びに満たされているではないか!>う〜ん、カイカン! |
〓 | コミック。大塚英志の小説、角川スニーカー文庫『マダラ ミレニアム 転生編1』を買って、その前のお話、電撃文庫『摩陀羅 天使編1、2』を買う。そして、その前のお話がコミック版として『MADARA壱』『MADARA赤』『MADARA転生編』などがあることを知る。この他に『MADARA外伝 死海のギルガメッシュ』『MADARA弐 伐叉羅伝』などがある。今回読んだ4冊(胎蔵編〜輪廻編)は『MADARA壱』にあたる。ああややこしい。やっと最初のヤツに辿り着いたので、読んだ。理想郷を求めての戦いである。主人公はマダラ、そしてキリン(けっこうかわいい)。最大の敵はミロク。最後のミロクの言葉(死んだ訳ではないが)<理想郷にすがる人の弱き心が私の糧だ!!>はなかなかよい。話は終わらない。敵を倒す度に力がレベルアップしていく辺りが非常にゲーム的(実際ゲームにもなっている)。スターウォーズにも似た神話の世界である。 |
〓 | 動かない男、王道が動いた。「富貴山荘」の荘主である王道の過去が暴かれる。【一飛沖天の覇王鷹】。これが王道の二つ名であった。江湖(武力を競う武芸者の世界)で活躍していた頃の悪党仲間たちが王道を狙う。美人で男どもを惑わす魔性の女の【苦難を救う紅娘子】、【一見送終の催命符】、【無孔不入の赤練蛇】たちである。これを迎え撃つのが「富貴山荘」に集った仲間たち、【千の手を持つ色男。鬼も恐れる快速大酔侠】(と自分で言っている。愛すべき男。『三国志』にでてくる張飛を彷彿とさせる)郭大路と燕七。そして林太平。勝負の分かれ目は、仲間を信じる力。郭大路と燕七の仲はかなり怪しい。ますます面白い。 |
〓 | 昭和47年3月に刊行された角川文庫版の再録による新装版。山口瞳と言えば、その昔、サントリーのCMのトリス君をつくった人。やったかな?まあけっこう古いのであるが、なかなか面白い。当時38歳の著者が、新入社員に送る『新入社員に関する十二章』の中のその2、学者になるな 芸術家になるな。その6、重役は馬鹿ではないし敵でもない。などは覚えておきたい。その他、『社内で麻雀はするな』、『社内結婚はするな』など。『ボーナス談義』の中の、<ボーナスは賞与であってはならないと思う。賞めて与えるものではなく、あくまでも特別配当金であらねばならぬ。利益の分配でなくてはいけない>は、まったくその通りだと思う。元祖マジメ人間、山口瞳のいたってまじめなサラリーマン論。色あせてはいないと思う。 |
〓 | 痛快まるかじり!(古いか)。<中華世界では、武侠小説という一大ジャンルがあり、古龍は武侠小説界の巨匠のひとりで、絶大な人気を誇る>らしい。お話は貧乏な「富貴山荘」に集う奇妙な4人が主人公となる。荘主はめったな事では動かない王動。大雑把で、愛すべき郭大路。七回死んだという燕七。女性のような林太平。王動は呟く、<貧乏もまた悪いことじゃない。悪いか悪くないかは、その人間が人生を享受することを知っているかどうかで決まる>。平易な文(訳)で書かれているが、それがまたこの小説にあっている。力強い。そして、これを読めば元気になる。人間こうありたいものだ。学研の歴史群像新書。 |
〓 | 私が見ている「赤」は他人が見ている「赤」と同じであるのか。これは私の長年の疑問である。他人が見ているこの世界は、自分の見ている世界と同じか?この本もその辺りから始まる(他我問題)。良く似たものなら良いが、まったく違ったものなら非常な孤独感がおしよせる。私とは何者であるのか、人はどのような動機で行動するのか、人と動物との比較など、言語問題をからめながら展開していく。特に言語、文法について、ヴィトゲンシュタイン、そしてソシュール研究家の丸山圭三郎などをひきあいに出しながら、著者との見解の違いを示していく。行為の正当化(人は何故それを行うのか)、そして倫理と道徳の問題など納得できるし、自分自身でもある程度整理ができた。著者いわく、<自分の子供時代の思索の総決算として本書を書いた>そうである。そういう直感的なものは子供の頃から既にあるものであり、それを整理して言葉で言い表わわそうとすることが哲学の始まりである。 |
〓 | <「皆さんは、今年の”プログラム”対象クラスに選ばれました」・・・>。修学旅行のはずが・・・。あまりの反社会性ゆえに、文学賞は落選を繰り返し、口づてに「問題作」との噂が広まり、出版にこぎつけるのもやっとというイワク付きの小説である。で、非常に面白い。666ページと長いが、飽きずに読むことができる。 先ず設定が凄い。全国から任意に選ばれた中学3年生のあるクラス。最後の1人だけが生き残るという政府(大東共和国)主催の殺人ゲーム(「プログラム」と呼ばれる)である。しかし、みんな中学生とは思えんぐらい凄い。友情あり、恋愛あり、裏切りありであるが、どこでそんな人生経験積んできたんや!って感じである。イメージとしては大学生か、それ以上の達者なヤツが多い。子ども同士の殺し合いとはとうてい思えん。そこがまあ、ちょっとは救われる?いやいや、今時の中学生はあなどれん。子ども扱いは禁物かも。高見広春のデビュー作。1969年、兵庫県生まれ。 |
〓 | 短編集。これはやっぱり大人が読む本ですな。何故なら、登場人物はひとくせもふたくせもある嫌なヤツが多い。主人公でさせとんでもないヤツやったりする。こんな大人になってはいけません、てな感じである。しかし、人間、さもありなんと思わせる小説である。中には、表題作の『神隠し』の巳之助のように普段は無頼の遊び人でも、ここぞと言うときには一歩もひかん岡っぴきとなる(普段から働けよ)ようなイカスヤツ?もいる。道徳観はないが、倫理観は旺盛と言ったところか。また、最初の『拐し』なんてのは実にシャレている。誘拐された娘が実は。。。まさに、さもありなん。というか人間、たくましいって感じである。理想的な人物はほとんど出てこないところが共感を呼ぶ。時代物なのが救える。設定が現代やとちと生々しい。 |
〓 | <自分にあるたけのものを良人や子供たちにつぎこむよろこび、良人や子供のなかで自分がつぎこんだものが生きていくのを見るよろこび、このよろこびさえわがものになるなら、私は幾たびでも女に生まれてきたいと思う。>『桃の井戸』より。歌を詠む事を志し、結婚をせず、一生歌の道に生きようとする私に長崎のおばあさまはこう言う。<…独り身をとおそうという気持ちが根になって、些細なこともすぐ肩肱を張る癖がついているからです。それでは格調の正しい歌は詠めても、人の心をうつ美しい歌は…>。そして、私は子供のある男性と結婚する。継母まま子についても、長崎のおばあさまは、武家に生まれた男子はみなおくにのために奉公するものであり、その時まで預かっているもの。預かっている子に親身も他人もない。とおっしゃる。おくにのために辺りは現代にそぐわないが、この長崎のおばあさま的精神がちりばめられた短編が11話。一途で、健気で、強く、喜びも悲しみも知る女性。うらやましくもある。 |
〓 | コミック。表題作の『エンド・オブ・ザ・ワールド』、カラカラに乾いてます。両親殺して、一緒に逃げた義兄は自殺し、どこにいけばいいのって感じになる。しかし、「ああ、のどが乾いた」って感じ。『VAMPS』、吸血鬼の美人親子が引っ越して来て、同居人になる。若い大家と吸血鬼の三女がしばしの恋におちるが。。『ひまわり』、赤ちゃんができたと告げられた12歳の少年が思わずゲロを吐く。『水の中の小さな太陽』、どぶに捨てられた女子校生がおぼれながら、これは夢なんだと思う。『乙女ちゃん』、女装をするようになった父親が亡き妻を想う。ああ暑いのだ、太陽がギラギラと。ヘビィ&ドライ。 |
〓 | アテール文庫創刊、と帯に書いてある。なんじゃ、アテールって。SFなんかを書いている大原まり子の<エロティックな…というよりは、はっきりいってポルノグラフィめざして書いた短編五本と、セクシュアリティを探究した短編を二本、収録>した本。最初の『絹の手ざわり』、『君のものになりたい』はかなりストレート。好みでいえばSFっぽい『ハンサムガール・ビューティフルボーイ』かな。15歳のオンナノコがオトコノコになるお話。Patrick Arletのカバー絵はなかなかいい。 |
〓 | 問題を抱えているのは子供ばかりではない。トリイ・ヘイデンのクラス(実話かどうかさだかでないが、主人公の名もトリイ・ヘイデンである)に重度の障害を持つ子(レスリー)が両親に連れてこられた。母親は美人で博士号を持つ科学者のラドブルック。しかし彼女も精神的に問題を抱えていた。その彼女が子供との接し方を学ぶ為、トリイ・ヘイデンの助手となり、自分自身との戦いに挑む。ここには家族の問題がある。いったん家族としてスタートした以上、何が何でもその関係を(ともに暮らすということ)を続けていかなければならないことはない。精神のバランスを無理に保とうとしてもどこかで破綻をきたす。これはもう起こるべくして起こる。たとえ血のつながりがあっても、別れるほうが良い場合がある。本当に心が通じるのは赤の他人なのかもしれない。あるいは血のつながりがあっても、他人(別の個体)であることを忘れてはいけないのではないだろうか。 |
〓 | <「私の心をみつけて」しばらくあとで彼女はそう言った。>自らの影と切り離された壁の中の住民は、心を持たない。その世界は、憎しみもなければ、愛情もない。その世界とはいったいなんなのか?一見平和に見える不死の世界。私と私の引き裂かれた影は、その世界から脱出しようと試みる。『世界の終わり』と『ハードボイルド・ワンダーランド』という2つ章が交互に進んでいく。ソフトタッチの不条理であるが、じわっと恐ろしさがにじみでる。ありえない世界であるが、ありそうな世界。遊園地の中で迷子になった夢のような世界である。日常の細かい描写が現実的であるだけに、気づかぬうちにワンダーランドの中にいる。最後の方でようやく種明かし的になるが、私の選択した道については謎を残したまま終わる。さあもう一度ワンダーランドへ突入だ。 |
〓 | いや、おもろい。天才的犯罪プランナーであらせられるところのジョン・アーチボルト・ドートマンダー様である。こやつの考えるプラン(もちろん犯罪の)はいつも完璧。発想は大胆。依頼者にヘリコプターを用意させるなんて朝飯前。あげくの果ては、機関車まで用意させよる。但し結果がなかなかついて来ん。そうそう、あんたのせいやない。不運なだけや。おもわず涙が(笑いが)でてくる。またチームで行動しよるんやが、仲間もオタクみたいな奴ばかり。操縦オタクに鍵開けオタク。それぞれが専門家っちゅう訳や。しかし、こいつらなかなかめげん。っちゅうか結果を出すために、またやるの〜?って感じでしぶしぶやりよるんやけどね。えっ、映画化もされてんのか。主役はなんとロバート・レッドフォード。イメージがちゃうなあ。まあええわ。次は『強盗プロフェッショナル』やな。がんばれ!ドートマンダー御一行様。ってことで。 |
〓 | 文字の発明はすばらしいことばかりであるのか?<人々が文字を学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされ、忘れっぽくなり、見かけの博識家になるだけである。うぬぼれだけが発達するため、つきあいにくい人間となるだろう>。そこまで言うか、って感じもするが、次のことは、心しておかねばならんやろな。<言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているというということができない。あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから>。とソクラテスは言う。なるほどなあ。ソクラテス、絶好調である。今回はパイドロスに語る、弁論術について。君は恋する者よりも、恋していない人に身をまかせるべきだ、という挿話から始まる。 |
〓 | 菅原法斎。職業、○ちがい。年齢78歳。16年前に発狂。特技カポエラ。カポエラとはブラジルの足しか使わない格闘技。なんたってぴちがいだもんで、怖いもんなし。しかし、このジジイ完全にぴちがいを演じとるで。みなが文句言わんのをええことに、もう好き放題。何したって、ぴちがいやからしゃあないわいとたいがいの事は許される。まあ、愛敬はあるな。もうちょっとで、「説得の太助」に○ちがいのふりしてるとこ見破られるとこあやったからなあ。このジジイが、なんか知らんが、「格闘技世界一決定戦」に出場することに。…ああ、おむつ、おむつ。 |
〓 | 44歳のスチュワーデスのジャッキー・パークはスタイル抜群のいい女である。そしてもうひとりの主人公(?)とも言うべき銃の密売人のオーディル・ロビーは52歳。どちらもまさに油の乗り切ったヤツらである。がむしゃらに行く年齢ではない。甘っちょるくはなく、非常に割り切った考えを持つ。しかし、もう一度人生をやり直すことを考えたりする。みんな孤独を感じ、慎重で、ズルイところが良い。あのタランティーノが敬愛するレナードの大人の小悪党の小説。ほろ苦い、ブラックコーヒーの味だ。いや、ラム・パンチか(タイトルに従えば)。映画化もされている(もちろん監督はタランティーノ)。 |
〓 | 居つかぬ足の重要性について。<床(地面)に足が着いているようでもあり、着いていない(一旦体重を地面に乗せることをしない)という状態を「すり足」と呼んでいます。足が地に着いているようで、実は着いていないということは「いついかなるとき」でも着地ができるということであり、それが武道空手の足捌きとして最も重要なことなのです。この状態を足が「居ついてない」と呼んでおります。>。まるで、腰から足が吊下がっている様な状態である。そこからほぼ水平に落下し、そのエネルギーを目標物に対して自らの手足で伝えるのがプロの突き、蹴りである。相手にエネルギーを充分伝える為に、当たる瞬間には、手足は曲がらずに伸びていく。のである。 |
〓 | <危険を冒さなきゃだめなんだ、この抽象的な暮らしの平静さを危険に晒して、その代わりに。そこまで言って言葉に詰まってしまった。>。抽象的な暮らしとはおそれいるが、言葉に詰まるのもわかる。これと言ってやりたいことがないのである。当然やるべきことなんてのもない。しかし、ふとこのままでいいのかと振り返ることはする。そのままでええんや。なんにもするな。<翌日、ぼくは浴室を出た。>。そら浴室をただ出たからってやりたいことなければ(やるべきことでは断じてない)、一緒や。最終的には浴室に戻る。その間、何をしたかと言えば、ホテルに泊まって一日中ダーツをしたり、急に腹立て、恋人の額にダーツを当てて、あたふたしたり、入院してそこの先生にテニスに誘われて行くが、テニスもせんと人間観察したり(これがまたおもろい)である。まさにこんな大人にはなってほしくないNo.1かもしれん。しかし、読んでいておもろいのである。 |
〓 | <ヒトはすべてを言語化する。…そしてヒトは環境を言語化させ、その中で生きていく。宇宙に法則を見いだしたのではなく、宇宙に法則をつくりだしていく。それがヒトだ>。うん、なるほどそうやな。<私は新しい臭覚を得た。新しい知覚は新しい脳を生む。私は今言語化された世界の外にいる。…臭覚こそが次代の人間を生むのである>。う〜ん、なんじゃこりゃ。凄いテーマや。ソシュールも出てくるし。(言語学者ソシュールについては、【テーマ別お薦め本】の【探究する】のところにもあげている、丸山圭三郎氏が著した『ソシュールの思想』が大変わかりやすく、お薦めです)。着眼点は非常におもしろいと思うけど、イマイチ納得がいかんな。毒想念がつくりだす怪物同士の戦いなどは、ちょっと飛び過ぎかな。SFXを駆使した映画でならもっとおもしろい様な気がする。著者は1958年生まれ、大阪在住。 |
〓 | 自己主張する辞書。ひょっとしたら間違ってるのではないかと思わせる辞書。それが『新明解国語辞典』である。語句の意味にはまさにそういう感じっていう生き生きとした場面があらわれる。一字一句にドラマありだ。また例文に泣かされる。まるで小説の名場面集って感じである。もしかしたら例文全部読んだら1つの物語になってるのかもしれん。そして、辞書の方にはない写真がいい(絵の場合もある)。この文庫本、それだけではない。『紙々の消息』という名エッセイ付きだ。付きだと言っても、半分以上はこっちだ。その中の『返信用はがきの儀式』には思わず笑ってしまった(電車の中で)。また『来るべきプリントアウトロー』における次の文章には感心した。<たとえばキャッシュカードというのが日常化してくると、そうか、紙幣というのはプリントアウトなんだなあと気がついたりする>。むむ、紙幣はプリントアウトしたものになりさがるのか。おもろいやないの。 |
〓 | <ソフィストの最長老で筆頭格の名士>であるプロタゴラスにソクラテスが挑む。お題は「徳とは人に教えることができるものであるかどうか」ということ。徳を「人に教えられる」と言うプロタゴラスに対して、「教えることはできない」と言うソクラテス。ソフィストの集会で、名調子であったプロタゴラスであったが、最後はソクラテスの罠にはまる。ソクラテスの質問の仕方もいやらしい。思わずそう言ってしまうというようなことばかり。プロタゴラスは、「快楽にふけるのは良くない」とか「バカだが勇気のあるヤツがいる」てなことを言う。そして、ソクラテスは言う「否、快楽は善であり、勇気は知である」と。よくよく聞くと、御尤もって感じになるというか、プロタゴラス自身がそう言わされるハメになる。いやはや、金とって徳を教えるソフィストたちに対するソクラテスの反発はかなりなもの。肝心の「徳は教えられるか?」についての議論は矛盾をきたしたまま終わる。 |
〓 | 今をときめく(?)阪神タイガースの監督の野村克也であるが、考え方に突飛なところはない。あたりまえのことを言っている。<世の中に存在しているものにはすべて理があるという原理原則を知識として導入して、これを自分流にアレンジしていくというのが私の生き方ですから>。弱肩、三振王の野村が三冠王をとったり、チームを優勝に導いたりしたのは、当り前のことを当り前にやったから、なんておっしゃる。しかし世の中には当り前のことが何かがわかってる人間とそれをやることができる人間は少ないように思う。強さの秘密、それは原理原則にのっとり、動機付けがしっかりとなされていることかな。愛読書は『呉子』らしい。 |
〓 | 「黙せる覚者」であった矢場徹吾がしゃべり出した時の怒涛の饒舌も凄まじい(キリスト、釈迦なんぞをメッタ切り)が、やはり、津田安寿子の誕生祝いでの食卓の場面、第9章『《虚体》論ー大宇宙の夢』が圧巻。無自覚に子供を持つことを拒否し、<自己だけによる自己自身の創造>を目指し、存在以前の状態、存在の気配を持った<虚体>になろうとする三輪与志。その重力から、時間から、空間から開放された存在以前(未出現)の状態に身を置き、そこから一歩を踏み出そうと考え続ける。18歳になったばかりの津田安寿子はその婚約者を必死に理解しようと努める。その一途な態度は胸をうつ。(まあ、そんな男からは多くの女は離れていくと思うが)。ただ好きになる、あるいは好きにさせることによって、三輪与志に一歩を踏み出させようと企てる首猛夫。形而上的人間、無限を思い続ける<虚体者>、三輪与志と、それに迫ろうとする津田安寿子、宇宙存在以前に留まっているとうそぶく「青服」と「黒服」。かなりテンションが高まってきただけに、これで終わるのは非常に残念。この放り出された考えを引き継ぐのは我々自身である。 |
〓 | 美人がショットガンを手にして、元恋人の結婚式にのりこむ。今回のは(宮部みゆきを久し振りに読んだ)スピード感あります。実際に東京から金沢までのレース展開になる。しかもベンツからカローラに乗り換えるハメになったりする。途中のドライブインでの展開もなかなかいい。ふっと安心させるが、そうは問屋がおろしません。スナークとはなんやろなと思いながら読んだが、ルイス・キャロルからきていたとは。 しかも本書の扉のところにもちゃんと引用してあったではないか。見たような気もしたが、すっかり忘れていた。最後は得意(?)のしみじみ振り返りのお手紙バージョン。 |
〓 | 貴志祐介『クリムゾンの迷宮』でも舞台となったオーストリアのアウトバック(内陸部)をアメリカの白人女性が先住民族のアボリジニ部族とともに旅する。<真実の人>と呼ばれるアボリジニたちに触れて、目からウロコというお話。彼等はゴミを出さない。道中の獲物を無駄なく食う。人食いの部族もいるが、食べるだけしか殺さない。自身も死んだあと、土に帰るのを喜びとする。永遠の魂を信じる彼等には個人主義もなければ、恐怖心もない。なるほどと思ったのは、彼等は誕生日が来たからといって、祝うことがない。祝うのは自らが成長したと言えるときにだけ、その時を告げ、皆で祝う。確かに成長しとらんのに年がきたからめでたいってこともないな。ミュータントというのは、もちろん文明人のこと。 |
〓 | チビで変装名人の詐欺師エル・ドゥロ。口先三寸で相手をまるめこむ。しかし、きっぷのよさによって、慕う人間は多い。主人公の私、女子プロレスラー、ホームレスの小僧、そしていがみ合っていたヤツまでも彼と行動を共にしていく。エル・ドゥロの口癖が<人生のうちで重要なことはほとんどないに等しいんだ。べつにおたつくことはねえやね>である。このおっさんもかなり魅力的だが、エル・ドゥロに拾われたホームレスの小僧メッキーがイカす。いつもクソなまいきなことを言うガキだが、勇気と行動力はピカ一だ。この文庫本のカバーに著者の写真が載っているが、いかがわしい大黒様みたいである。初代(何故初代かは読めばわかる)エル・ドゥロってこんなヤツやったかも。 |
〓 | 自分自身であることの不快(自同律の不快)。そして、そこから脱出する為に残された自由意志としては「自殺」と「子どもをつくらぬこと」であると病床の三輪高志は弟に語る。またその弟である三輪与志は、<「外界」を取りいれることにより第二の自身へと辿りゆくという自ら気づかぬ自己欺瞞>が許せず、「はじめのはじめ」に立ちつくす。そして、著者の考えはまた、黒川建吉の語る三輪与志の考えとして、語られる。<これまでの存在のなかにも、これからの存在のなかにもまったくない三輪自身による「自己自身」のまったく新しい、まったく怖ろしい「宇宙はじめて」の創出がそこにあります。そのとき、この世界のすべては一変する筈です>。このことを著者は<自らつくる私>と呼んでいるようだ。「これが100%の俺だ」と100%言えるための唯一の武器は思考だけである。無限大も一瞬で通り抜ける、光りよりも速い念速でもって、存在の秘密を暴き、世界の質的変換は可能であろうか。その最初の一歩を三輪与志は踏み出せるのか、そして婚約者である津田安寿子はどうからんでいくのであろうか。 |
〓 | おもろい。これぞエンタメ、サバイバルゲーム。最初からテンション高く、あきない。最後の盛り上がりは『黒い家』に似てなくもないが、この本の方がSFっぽく、不条理感はある。究極の「美味しんぼ」と言うか、貴志祐介、「くいだおれ」の巻。先日買った、マルロ・モーガンの『ミュータント・メッセージ』も舞台が同じオーストラリアで、アボリジニ族が出てくる。単なる偶然とは思えん。(偶然か) |
〓 | ご存じ(?)ヒッチ・コックも映画化した、パトリシア・ハイスミスの処女長編。金持ちの息子ブルーノー vs 青年建築家ガイ・ヘインズ。見事な心理描写とラストの主人公の思惑と違う展開になるところが良い。「救いのない」とでも申しましょうか…。さすがにヒッチ・コックが目を付けただけのことはあると思いきや、映画ではかなり違う展開になっているらしい。早速チェックしてみよう。ちなみに太陽は15秒以上、直接見つめてはいけません。角膜が焼傷(火傷?)するから。1950年に発表された。あの『太陽がいっぱい』は彼女の第3作で、1955年の発表。 |
〓 | クレオパトラからマクダ・ゲッベルス(ヒットラーの腹心ゲッベルス博士夫人)まで、世界の12人の悪女の紹介。多くが権力の近くにおり、権力者の妻、母、または自分が権力者になる為、殺しなんてあたり前って感じである。時代背景が違うからというものの、現代でも似たようなことはありそうだ。さて、世界一の悪女は?12人の中では、近くに寄るもの皆殺しの則天武后と思う。一番狂ってるのは、自らの美貌を保つ為600人の若い娘を殺したエルザベエト・バートリであると思う。残念ながら(?)12人の中に日本人は入っていない。 |
〓 | <彼は、考えてはならぬこと、不可能なことのみを考えた>。甘い誘惑の小説である。この重さがたまらん。ドフトエフスキーを読んで以来の重たさと饒舌さだ。思索のみでどこまでいけるか。場所はnowhere、主人公はnobodyで始まる、人類の存在を問う形而上学的小説である。著者の考えの1つが、三輪与志の考え(虚体論)であり、それが屋根裏部屋で思考する黒川健吉によって語られる。<宇宙の責任が真に追及された時、新たな形而上学が可能になるのです。…一切が死滅してしまった場所に身を置いて、一切を判定するのです>。そして悪魔的役割の首猛夫の思考が絡む。『死霊 I』、この序曲によってほとんど言いたいことは言っているような気もするが、ある意味、<無限の未来に置かれた眼>を持とうとする埴谷雄高の態度表明であるのであろう。 |
〓 | マリー・アントワネットからビーナスまで24人の女たちのエピソード。気性の荒い女性が多い中で、キラリ光るのが和泉式部。<ひたすら女らしい女で、情熱的で、奔放で、多情で、艶冶で、しかも哀愁あり、憂いありで、まことに現代的なムードをただよわせた、華やかな自由恋愛のチャンピオンと称するにふさわしい女性であった>。もう褒めまくり。う〜ん、会ってみたい。そして、アフロディーテという別名をもつヴィーナス。これは女神。著者のしめの言葉も見事。<女性の愛は、処女と娼婦、この二つの極のあいだで揺れ動くものであり、一方、女性を眺める男性も、この二つの両極端に、ひとしく魅惑されるものらしいからである>。1話が短いので、読みやすいが少々もの足らなさもある。次は『世界悪女物語』だ。 |
〓 | 噂に聞いてたが、非常にいい。現代版耽美主義作家、赤江瀑。短編集であるが、どれもがいい。『正倉院の矢』で投壺の鏑矢の裏の遊びにまつわる非恋がしみた。『蜥蝪殺しのビィナス』でミロのビィナスが凌辱されるのを見、『京の毒・陶の変』で土が焼ける炎の色を見たくなった。その他『シーボルトの洋燈』、『堕天使の羽の戦ぎ』が収められている。読みやすい耽美的小説。アートフルである。 |
〓 | 最初に売春論があるが、私はこの人の意見に共感できる。著者は結婚制度を<女が特定の男の正式な庇護を受けることであると>と考え、売春はなぜ悪とされているのかは、<結婚制度=家族制度の価値を守るためである>と考える。私も売春=悪とは考えない。そして、著者の問い<どんな状況で肌をあわせた相手であっても、相手の望むだけの敬意といたわりを、あなたは相手に与えられるか>に対しては、イエスと答えられる。その他、レディースコミックや、団鬼六の小説、代々木忠のAVなどをとりあげ、いろんな性と恋愛について綴る。売春婦になりたかった著者の<「性と愛」の謎を解くための苦闘の歴史>でもある。 |
〓 | 眼医者(止めたらしいが)で猫と暮らすチョンガー。私より5つ年上。やもめ暮らしのさびしさや自由を短歌で綴る。猫をネタにし、自分をネタにする。ちょいと淋しがりやだが、ひょうひょうと暮らすとこがいい。猫好きの人もどうぞ。アイドルの吹石一恵の愛読書でもあるそうな。 |
〓 |
18年ぶりに再読。森が水晶に覆われ、結晶化していくというお話。木が草が家が、そして停止した人が結晶化していく。そこは、非常に美しい虹色のキラキラした世界であるが、無機的な世界であり、死の世界である。医者である主人公も癩患者の肉体組織に似ていると考える。世界の癌細胞であるかもしれない結晶世界。永遠の生命ではない。美しい死の世界である。それでも、自らその森へと進んで行く人がいる。 やっと、この本の紹介文を書けた。「テーマ別お薦め本:イマジネーションをひろげる」のところに。 |
〓 | 私、すなわち<自分が自分であるところのこれ、ある人がその人であるところのそれ>とは【魂】であると著者は考え始めた。また、ある哲学者は何故他の考えではなく、その哲学説でなければならなかったのか。これは【魂の体質】が違うからであると考えた。この考えを基にオウム、少年Aについて語る。オウムについては「わからない」ことを「信じた」ことがおかしい。少年Aについては「化け物」であると理解する。ユングの<原始の記憶を胎んだ共同的無意識>に触発された池田晶子の地上にて永遠を生きるという論考。【魂】にそむかずに、為すべきことを為せ。 |
〓 | 表紙の写真と帯の文の誘惑に負けて買ったが、こういう本を本当におもしろく読めるのは、かなりの現代イギリス通なんであろう。読みにくい。主人公の語り(地の文)が退廃的、自虐的ウィット(これらがブリティッシュジョーク?)に満ちていて、こんな成熟した?ユーモアは慣れんとわからんやろな。それがもうちょっと少なかったら、もっとおもしろく読めたと思う。それと訳者のあとがきに、<本書は大ベストセラーになった『A White Merc With Fins』に続くジェーム・ホーズの第二作目の日本語訳である>とあるが、なんでその大ベストセラーを先に訳せへんのかな。それの方がおもろいんとちゃうんか。と思う今日この頃であります。 |
〓 | 北朝鮮労働党の工作員、日本名「蜂谷真由美」。あのKAL858便の爆破犯人、金賢姫の全告白の上巻である。金勝一(「蜂谷真一」)とともに計画を実行したが、逃走できずに正体がばれ、用意していた毒を飲むが、死ねなかった。そして全てを告白する。面白い。彼女は頭が良く頑張り屋で、学級委員長タイプだ。また金勝一との大旅行(平壌→モスクワ→ブタペスト→ウィーン→ベオグラード→バグダッド→アブダビ→バーレーン)の際にも素直で、細やかな心の動きがある。(大韓航空KE858便はバグダット→アブダビ間であり、ここで爆薬をしかけ、アブダビで乗り換える)。バーレーンで正体がばれ、ソウルに連れてこられ、韓国と北朝鮮との違い(自由でリッチである)に驚く。そしてだんだん自分の犯した罪に気づいていく。美人で聡明であるが故に工作員に選ばれた金賢姫。爆破犯であるが同情してしまう。しかし、頑張り屋が変な使命感をいだくと恐い。下巻は、彼女の生い立ちと工作員としてのどう教育されたのかというもの。非常に楽しみである。 |
〓 | 名前は「さむかわねこもち」とよむ。「猫持」の方はもちろんペンネーム。バツイチでチョンガーの眼医者(止めたらしい)、ポルシェを乗り回し、猫を抱く歌よみである。大阪は河内の生まれ、現在45才(1953年生まれ)。本書はうた(短歌)入り随筆集。いい感じである。人生の少し先輩であり、同じ大阪人なので親しみがわくやんけ。なかなかええ男で、猫好きなんてのが少々にくたらしいやんけ。なんでかと言うと著者の『猫とみれんと』が、女性の心をつかむからやんけ。なんとアイドルの吹石一恵もファンであったりする。くやしいので、次のうたを紹介する。<「いやじゃーありませんかチョンガーは、パンツ脱いでもすることがない」「ミポリンが「誰かいい人いませんか」、ボクに言ってる CMだけど」>へへ、ざまあみろ。こんなのもある<「軽さだけやたら強調されるけど、そう簡単に軽くはなれぬ」>。他人事とは思えまへん。 |
〓 | 恋物語だが、実に素直でない人物ばかりがでてくる。屁理屈の、意地っ張りの、偽善の、偽悪の、美しいが同時にズルイ心のぶつかり合いにより、結果は当然のように裏目、裏目へとでる。誰の為か?何の為か?そして、益々意地をはり、素直な心を見失う。しかし、決してあきらめない。足掻き、もがく。このあきらめ切れない一触即発のエネルギーが、いつ爆発するかを期待してグイグイ読める(京極堂シリーズのような長いウンチクはないし)。しっかし、人の意見を聞かないヤツらばかりだ。自分の素直な気持ちなんて、そうそうわかるもんではないけど。 |
〓 | <これまで、本を何冊か出したが、いずれも面白いように売れ残っている>。(『熟慮は疲れる』)あいかわらずの名調子である。慣れてくると次の展開が予想できるようになるが、また読みたくなってくるという不思議な魅力がある。特にちょっと自分を笑ってみたい時にはよく効く。『才能のもてあまし方』、『何が一番重要か』などは、思わずなるほど、てな感じである。著者自身が描いた本文の挿絵では、「見るかげもなくやせ衰えたた北極グマの親子」が、キタキツネみたいでなかなか良い。 |
〓 | いやいや、最後は盛り上がりました。おもろい。表紙から想像すると宗教的、幽霊的な話かと思ったが、めちゃめちゃ社会派であった。保険金をせしめる為の殺人。著者も生命保険会社に勤務経験があるだけに、内情などもわかって面白い。頭に血が上っている客に応対する時には冷たいオレンジジュースを出すとか、机の上に凶器になるような重たい灰皿などは置かないとか。また業界用語で、モラルリスク(道徳的危険)と言うのは、人間の性格や精神に起因する危険のことで、これが頭に付くと犯罪がらみの意味となる等。また京都、大阪舞台になっているので、出てくる地名にも親しみがわく。南海本線のすぐ近くに長年住みながら、日本最古の私鉄であるとは知らなかった。…香水の匂いのきつい女には注意しよう。<生命保険とは統計的思考を父に相互扶助の思想を母として生まれた、人生のリスクを減殺するためのシステムである>、なるほど。第4回日本ホラー小説大賞受賞作。著者は1959年、大阪生まれ。 |
〓 | 中国からアメリカに渡って来た4家族がジョイ・ラック(喜福)クラブに集まり、マージャンをし、ご馳走を食べ、楽しい話をする。中国人として生きてきた母たち、そしてアメリカ人として育つ娘たち。海を超え、時代を超え、それぞれの母が、それぞれの悲しみを乗り越えて生きてきた。娘に対しては、温かくも、厳しい愛情を注ぐ。そしてそれぞれの娘たちから見た母。これらが次々に(海を超え、時代を超え)入れ替わり語られるので最初はちょっとこんがらがるが、次第にそれぞれの母娘が浮かび上がってくる。良くも悪くも母と娘の遠慮のないところが良い。本当に許し、わかりあえる家族とは母と娘の関係だけかもしれない。中国で日本軍から逃げる途中で、双子の子を捨てざるを得なかった母。アメリカでの違う夫との娘(双子の妹)が母の死後、二人の姉に逢いに行くシーンはやはり泣ける。<だから宴会を開いて、毎週のように新年を迎えるふりをしたの。新しい週がくるたびに過去の不幸を忘れられるように。…それで毎週のように幸運を願うことができたのよ。その願いだけが唯一の喜びだったわ。それで、誰とはなしにその小さな集まりを「ジョイ・ラック・クラブ」と呼ぶようになったの>。しみじみ面白い。 |
〓 | 毒笑の割には、毒(悪意)がもっとあったらなあと思う。この辺りは筒井康隆に侵された私が悪いのか。それともあんたが悪いのか。まあ趣味の問題かも知れんけど、きれいにまとめるより、もっと発散して終わるとかいうのがほしい。ネタ的には、『エンジェル』、『ホームアローンじいさん』、『手作りマダム』、『殺意取扱説明書』、『マニュアル警察』などが好きである。『つぐない』は「笑い」ではなく、完全に「泣き」。笑いの同志(?)京極夏彦との対談付。 |
〓 | 池田晶子の『帰ってきたソクラテス』『悪妻に訊け』などを獄中で読んだ死刑囚の陸田真志は、<人を二人も殺し、その命はもうどうやっても取り戻せませんが、それでも自分を知ることで、本当に自分の善にも気付けた事をうれしく思って生きて、死んでいけます。…ありがとうございました>という手紙を編集部及び池田晶子へ届けた。ここから池田晶子と陸田真志の往復書簡による哲学対話が始る。同じ獄中の永山則夫から池田晶子へ来た手紙については返事を書かなかった彼女だが、今回の手紙にはもっと語らせてあげたいという気持ちになる。そして、池田晶子にナビゲートされながら、陸田真志は、「ただ生きる」のではなく「善く生きる」為に哲学的思索を書き綴る。ヘーゲル、プラトンを読み、池田晶子に怒られ、励まされる姿にオレも陸田真志になった気分になる。「人を殺す」ということは、どういうことなのか「生の言葉」を聞いてみたいという池田晶子に対して、陸田真志は<…斧を振り下ろそうとして、出来なかったのです。弱くなっているが決して消えない「理性」、…最後の本能ではないかと思えます。…私は兄に頼んでやらせてしまいました。…「やりたいが出来ない」というその心の動きにこそ、私は正直であるべきでした>と書く。 |
〓 | まずは、ヘーゲルの挨拶から<哲学をさまたげるものは、一方では日常のさしせまった関心への没頭であり、他方では軽薄な意見である。…宇宙のとざされた本質は、認識の勇気の前に自己をひらき、その富と深みを眼前にあらわし、その享受をほしいままにさせざるをえないのである>。う〜ん、力強い。これこそ思惟の力か。そして『論理学』に入るまえに、91ページまでが序論。『論理学』に入っても、258ページまでが予備概念である。この予備概念で、今までの哲学を超えていることを述べる。とくにカント多く引き合いに出し、彼の考えの間違えを指摘し、自身の哲学の正しさを述べる。そして、第一部『有論』へと続く。『有論』では、A 質(a 有、b 定有、c 向自有)B 量(a 純量、b 定量、c 度)、C 限度に別れる。有と無の統一が成である。「概念できない」ということについて、ヘーゲルはこう言う。<哲学の認識方法は、日常生活で人々が慣れている認識方法とも、また他の学問に用いられているそれとも違っているのだ、と言うよりほかない>。しかし、その概念の例はいくつもあり、「成」については「はじめ」ということを考えればよいと言う。<はじめにおいては事柄はまだ存在していない。しかし、はじめは単に事柄の無にすぎないものではなく、そのうちには有もまた存在している。はじめもそれ自身また成であるが、ただはじめと言えば、すでに一層の進展が顧慮されている>。おもろいのは、哲学についてヘーゲルが<事実哲学とは、人間を無数の有限な目的や意図から開放して、人間をそれらについて無関心にし、そうした物があってもなくても同じことだと思わせるようにする教えではある>などとポロっと言うところ。この辺ヘーゲルの姿勢がうかがえる。日常のくだらんことにぎゃあぎゃあ言うな、ということか。 |
〓 | この小説は間違いなくブルースだ。ブルースは聴いたことがないが、きっとそうだ。<ブルースは、その音楽的構造はシンプルでも魂は複雑だ。哀しいから、哀しい曲調で歌うといったことをしない。詩はヘヴィでも、ウギだ、シャッフルだ、哀しいからこそ思いきり跳ねてみせる>。ブルースの中でもわざとらしい短音階のブルースはマイナー・ブルースといって、多くのブルースからは区別されているそうだ。そう、<涙は出尽くした>のだ。主人公の村上が飛び入りでセッションに加わり、ギターを弾くシーンは、ふるえがくる。また最後の格闘シーンのかっこ悪さ、これがまたいい。非常に完成度の高い小説だと思う。ジャズのように白人に迎合していない(これも萬月の言葉)ブルース、チャーリー・パットンの『スプーンフル』、マディ・ウオータースの『ガット・マイ・モージョ・ワーキン』、『ローリング・ストーン』聴いてみたい。小説に出てくる店の名前もモージョだ。魔法だ。ムーチョ・モージョだ。そういやランズデールの小説『ムーチョ・モージョ』にも黒人音楽のブルースが流れている。 |
〓 | 玉三郎が歩くとき、背景の書き割のほうが動いているとしか見えないのは何故か?タイガー・ウッズのあのロングドライブはどうして生まれるのか?マイケル・ジョーダンの滞空時間の長いジャンプの体の使い方は?その他、現代のずば抜けて運動能力の優れたのスポーツ選手、ダンサーの動きの秘密を探る。まず【股関節で地面をとらえる】立ち方が重要であり、そして胴の【丸める/反る】、【伸ばす/縮める】、【捻り】の3つの動作がポイントであると説く。これが著者の言う【胴体力理論】である。そして中心軸(武道では正中心と言う)から中心面への解説に至る。坂東玉三郎はすべての面において最高点がつけられる。玉三郎の背中の筋肉は柔らかそうだ。筋肉を鍛えるのではなく、ストレッチ感覚。効率が良く、気持ちのいい野口体操の理論にも近いものがある。 |
〓 | 15世紀、パリ大学で神学を学ぶ主人公は『ヘルメス選集』を手にいれる為に、リヨンそして、フィレンツェへ向かう。そして、途中で立ち寄った村で終生忘れられぬ異常な体験をする。錬金術師ピエェルとの出会いと魔女狩りの名で処せられる両性具有者の焚刑。この焚刑の場面は凄い。死の直前、あるものを誕生させる(もちろん1人で)までの悶絶とエネルギーの爆発は、醜悪で同時にエロチックである。また真理探究者としてピエェルが忘れられず、自ら錬金術を試み、ある種の心の充実感を得るというのも良くわかる。第120回芥川賞受賞作。 |
〓 | あの『リング』、『らせん』、『ループ』を補足するようなお話。『空に浮かぶ棺』は高野舞が、ビルの屋上の排気口で出産する話。ああこれは、もっと詳しく聞きたかったとこや。生まれた子供は恐ろしいほど強靭。『レモンハート』は山村貞子が劇団にいる頃の話。劇団員の遠山との恋物語。『ハッピー・バースデイ』は杉浦礼子の出産の話。そして高山竜二のリングウイルスとの格闘。『リング』はテレビでも再三放映され、映画『リング2』も現在上映されているけど、いったい『リング2』ってなんじゃあ。やめとけ、やめとけ。だいたいTVにしろ映画にしろ、映像化不可能なとこあるからなあ。原作はあんなもんやない。と思いつつ本書を買って読んだのであった。個人的には、『空に浮かぶ棺』で満足。 |
〓 | そうです。セックスはみんなのものです。決して、美男美女だけのものではありません(あとがきを受けて)。<さっきまであんなに大きくて固かったのに、今はねずみの赤ちゃんのようにくったりと小さく柔らかい>(『バイブを買いに』)<おちんちんは、本当におかしな食べ物だ。わたしの口に入るのに、決して咀嚼されることがない。そのくせ、あれほどわたしの心に作用するものはない。何か特別な栄養がある>(『心から』)なんか心地いいのである。う〜ん、まさに読むセックスです(エロ小説ではない)。単行本になってるので、読む機会にめぐり会えた。リトルモアなんか読まんもんなあ。ついでに、UAのCDも買ってしまった。たしかにUAも心地よい。 |
〓 | ランズデール、おもろいわ。ダーク・サスペンスときた。主人公は白人のハップと「世界一頭の切れる黒んぼ」のレナード。お話は前作『ムーチョ・モージョ』にも出てきた美人黒人弁護士フロリダ探し。失踪先は黒人にとって危険な街、あのKKK(クー・クラックス・クラン)が支配する街であった。ハップとレナードのコンビはその街にのりこむが、徹底的にやっつけられる。このヤラレ方が凄まじい。しかし、コイツらは自分が自分で在る為に、懲りずに再度出発する。中味は、めちゃめちゃキッつい、おぞましい話が最後まで続く。いままでにない味だ。これがダーク・サスペンスか。このコンビの話は『Savage Season』、『Mucho Mojo』(『ムーチョ・モージョ』)と来て、この『The Two-Bear Mambo』(『罪深き誘惑のマンボ』)で3作目。そのあと『Bad Chili』、『Rumble Tumble』と書き継がれているらしい。邦訳はまだ2作。はやく次のものが読みたい。 |
〓 | 怪しいのは、ポーやゲーテ、カフカ、サド、ニーチェ等の西洋人だけではない。日本人も十分怪しい。著者自身があとがきで、<…それまでもっぱらヨーロッパに向けられていた私の目が、この作品とともに日本にも向けられるようになった>という。コイツらである。…三島由紀夫、柳田國男、泉鏡花、平田篤胤、上田秋成、石川淳、南方熊楠、兼好法師、森鴎外、花田清輝、幸田露伴、谷崎潤一郎、永井荷風、安藤昌益、西行、川端康成、中島敦。怪しいヤツラばかりだ。そして『今昔物語』、『御伽草紙』等、日本の古典多数。もちろんヨーロッパの怪しいヤツらも登場する。内容は、目が覚めたら夢だった。ネクロフィリア(死体愛好)。器物の妖怪(付喪神)。石化の夢。オナニズム。人造人間。現実に飛べない人間が夢の中で飛ぶ話。長い旅路の果ては自分自身であった話。頭を大地に突っ込んで、生殖器を上のほうに露出する植物の性愛の話など。西洋と東洋の怪しい世界への入門書。 |
〓 | <学術用語によらない日本語の哲学の文章、あるいは、学術用語から話し言葉への二重訳、本書はそんな試みである>とは著者の弁。ヘーゲルから始まり、カントで終わる西洋哲学史。というかそれらを通しての著者自身がどのように考えるのかがよくわかる。そして同時に、それら西洋の偉人たちの人間的気質まで迫る。精力家ヘーゲルに対し、病弱胃弱のカント。そして変人ヴィトゲンシュタイン。彼女は、ヘーゲルがお気に入りで、読むきっかけとなったのは、<メルロ=ポンティが、彼を語るときのその魅力的な語り口に食指を動かされた>のだそうだ。著者の語るヘーゲルもなかなかのもんである。で、私も胃袋の強そうなヘーゲルを読むことにする。 |
〓 | ビーフジャーキーみたいな細い腕が残飯を食らい、フィリピンの先住民アエタ族の長老が「ネスカフェ」飲み、チェルノブイリでは放射能に汚染されたキノコを食う。そしてミンダナオ島では、やはりあった人肉の思い出。生きる為だけに食うのではない。腹が減るから食うのだ。死を賭けて食う。そして嗜好品として食う。またロシアの兵士は除隊になろうとして、病気になる為にせっけんを食う。いや、やっぱり「せっけん」は食うな、とは言えない。いろんな「食う」があるからだ。もちろんうまそうな物もたくさん出てくる。ベトナムのうどん「フォー」、トルコ料理の「ドナー・ケバプ」、アフリカのコーヒー「ブンナ」等。一読の価値有り。 |
〓 | <「ムーチョ・モージョね」フロリダは言った。「なんだって?」おれが訊いた。「ずいぶん悪い魔法ってこと」フロリダが答えた。「となりはムーチョ・モージョよ。あたしの祖母はよくいってたものよ。モージョっていうのはアフリカでは魔法っていう意味なの」>ちなみに「ムージョ」はスペイン語で「ずいぶん」ていう意味。おれはストレートの白人、相棒のレナードはゲイの黒人。おたがい軽口を叩きあうが、その裏は人種問題ありで、けっこう重い。緊張感のある信頼関係がそこにある。読み飛ばそうとすると捕まえられる。そして全体がもの悲しいトーンで包まれている。事件もかなりえぐい。非常に濃く、血と腐敗の匂いがする。 |
〓 | またやってる、『ソフィーの世界』の罵倒。しかもいきなり。『ソフィーの世界』の訳者も名字が同じ池田さん(池田香代子)なので、本屋では並べて置いてあるらしい。と書いてあったので今日旭屋でみたら本当に並べて置いてあった。どうも哲学史、あるいは哲学書のカタログみたいな本が、「わかる哲学」、「やさしい哲学」というのが気にいらんみたいです。著者が言う哲学とは、ゼロから自分の頭で考えること。この覚悟はなかなかのもんや。この本で非常におもしろいと思ったのは、<光があるから眼ができたように、考えがあるから脳ができたのだ。…「考えが物質をつくった」のである>というところ。 |
〓 | 日本では馴染み薄い「スポーツ・エージェント」のマイロン・ボライターが主人公で、探偵役。元NBA選手で、FBIにもいた経歴を持つ。秘書は「リトル・ポコホンタス」と呼ばれた元女子プロレスラー。もう一人の相棒は榎木津(京極シリーズに出てくる)みたいなヤツ。行方不明のNBAの選手を探す話。もう、アメリカン・ジョークがバシバシ出てくる。アメリカのTVの誰某とか英語の駄洒落とかわからんのが多い。わかったのは、ハリソン・フォード、ブルース・ウィルス、ミス・マネー・ペニー、シンドラーのリスト、キヤノンボール2等である。まあわからんのは我慢して読めば中味は面白い。シリーズ物で、1作目『沈黙のメッセージ』(アンソニー賞受賞)、2作目『偽りの目撃者』、そしてこの3作目で【アメリカ探偵作家クラブ賞】と【アメリカ私立探偵作家クラブ賞】のほとんど同じ様な名前の賞をダブル受賞している。原題は『FADE AWAY』。わざわざベタな邦題にせんでもええのに。 |
〓 | 読後は、何故か肩凝りがとれたような感じになった。あんまり、恋愛小説なんて読む気はせんが、この本はOK。まあ著者と年齢も近いせいもあるんやろうけど、感覚的についていける。頑張らずに読める本。ええ感じ。著者は1960年広島県生まれ。 |
〓 | <…催眠術など所詮意識下にしか語りかけられない。だがね、言葉と云うのは意識の上にも下にも届くんだ。軽はずみに催眠術なんか使う奴はー二流だよ。>ようやく始末してやった。読み応え充分で満足。今までの集大成のような作品。京極堂の過去も暴かれて、おもろかった。テーマは家族。家族とは、生活集団のこと。それ以上でも以下でもないと思う。途中で出てくる京極堂の妖怪の定義【怪異の解体と再構築】も非常に興味深かった。なんかひと区切りついたような気もするが、次回作『陰摩羅鬼の瑕』はどうなるんかな? |
〓 | <「仕事?なんの」「これだよ」酒瓶をふった。「プロの酔っ払いでね」>おもろいです。ハードボイルドやってます。若き学生時代の真摯な、甘い香りとそれ以後のそれぞれの波乱万丈の人生。さすが、直木賞。ライバル、恋人、一風変わったヤクザ、新宿の路上生活者、電気箱そして短歌に込められた秘密。さすが、江戸川乱歩賞。乱歩賞は自分で応募するんやな。直木賞は違うはずやけど。とまあ同時受賞のことはある。ああ、カレー味の効いたキャベツが沢山入ったホットドッグが食べたい。 |
〓 | <時間と方法がきちんと確立されていて、いいかげんなものが入り込む余地がない明快な仕事を選ぼうとした。…彼にとって曖昧さは不自由さと同じ意味だった。…「運転手ではなく、運転士です」彼はきっぱりといった。>前半はよかったけどなあ。後半はイマイチ。これよりも併録されている『王を撃て』のほうがいい。主人公はどちらもオタクやけど。ちなみに『運転士』は第107回芥川賞受賞作。 |
〓 | おもろいです。肉体の部分に関した題で103篇。ある時は著者自身の、またある時は友人や母上の、そしてまたある時は全然関係ないことにいったりする。期待して読んだお題のところでは、絶妙にかわされる。自分の肉体のコンプレックス(?)を笑いとばす。力みがなくて、自然な感じが実にいい。この視線というか、語り口がこの著者の人気の秘密なんであろう。女性からのお薦め本である。世の男性諸君よ、読みたまえ。 |
〓 | 鮫肌文珠の「ヤクザの絵日記」。ひさうちみちおの「大阪もんが安全で気持ちよく東京人になる方法」(やっぱり桑原和男とか船場太郎とか知ってるのは大阪人だけかなあ)。大阪弁によるα波の検出と納豆を食わんことによる、ハレー彗星のエネルギーに対する抵抗力不足が大阪における犯罪の多さにつながるという大阪犯罪考。カツ丼でやらしてくれるおばはんの話。桂べかことの対談など。その他ここには書けん話が多数有り。ちなみにカバーの絵は平和ラッパです。 |
〓 | 松岡正剛は昔から編集者であった。私が学生時代にかなり影響を受けた前衛雑誌『遊』の編集長で、自らエディトリアル・ディレクターと名のっていた。この本は、現在「編集工学研究所所長」の彼が明かす、情報術のマニュアル。「編集」ということにこだわった事件なども書かれていて、興味深く読めた。生命の起源から、世界言語、現在の人間とコンピューターの関係まで、「編集」という括りで言い表わすのはさすがに凄い。彼の情報についての3つの見方は、「情報は生きている」、「情報はひとりでいられない」、「情報は途方にくれている」ということ。この辺の気配をうかがわせる様な言い回しは健在であった。そして「編集」とは【関係の発見】をするということ。なるほどと思ったのは、<私は「オリジナリティ」という言葉にもほとんど信用をおいていない。…どこかに新しさを加えただけなのだ。それはオリジナリティではない。むしろ編集的な成果なのである>というところ。 |