〓 | 町田康の最新作。(注1)内容に意味を求めてはいけない。(注2)一気に読み了えた方が良い。筒井康隆以来のドタバタ&不条理の世界である。ロックを聴くように読む。表題作「屈辱ポンチ」は友人に代わって、復讐をする?話。「けものがれ、俺らの猿と」は映画の脚本を書く為に取材をする?話。一応。 |
〓 | 埴谷雄高の対談集。一番エキサイティングなのは、やはり、若き哲学者池田晶子との対談。池田晶子の<無は表現するのは不可能ですよ。語れるとしたなら、如何にそれは語れないかという…>に対して、<語れないことを語ろうとする姿勢を詩人は持っている…>とやりかえす。自身の『死霊』は無を語ろうとするものである。究極の論理では語れないことを語ることこそを文学者たるもの気概であろう。哲学を超えるものは、文学的表現でしかないのかもしれない。激しく動く時代にあって、決して動くことがないもの、ドフトエフスキー、ポーのあとを継ぐ、文学者なのか?埴谷雄高はどこまで行ったのか?非常に気になる。 |
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いや〜、これは続きをすぐに読みたくなりますわ。関口〜、しっかりせんかい、今回はちょっとヒドイぞ。しかもあの人があんな姿にされるとは…。見たくなかった。京極堂の妹、中禅寺敦子も殴られるわ、蹴られるわって、これは関口君にじゃないけれど。本末転倒、騙す方が騙される、監視しているつもりが監視されている。とりあえず、宴の支度は整ったそうである(ようわからんが)。それが証拠に次巻の本(『宴の始末』)の帯にそう書いてある。まあとりあえず、そうしとこか。さあ、次行こ、次。
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花村萬月の描く小説の主人公たちは、車を運転する時、交差点では必ず一旦停止する。あとはどんなに飛ばそうとも、である。0、1の二進法のヤクザの世界に生きる組長の乾十郎。白か黒か、子分をあえて、犬のように扱う。人間だから灰色だ。なんていうおこがましいことはいっさいなし。涙を流す暇さえない。組長の娘の家庭教師兼、組長のパソコンの教師として雇われた鷲津兵輔は、おびえ、涙を流しながらも自分の弱さ、ズルサを見つめ、そして闘う。小説において新しい倫理をつくろうとする萬月は、管理する側からのその他大勢向け、確率的倫理を壊そうとする。人殺しについてもそうである。人を殺すことは無条件に悪いと言えるか、と問いかける。手本引き(数の当て合い)による勝負のやり方、やったらやり返すという白黒のつけ方、そして偏向した英才教育の勧め。参考文献の『義理回状の研究』(猪野健治著)も気になる。
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ははは、こいつはアホや。おもろいなあ。おもろさが丁度心地良い。無意味でばかばかしいお話。久々に素直に笑える。誰や、町田康って。なにパンク歌手&小説家。パンク歌手が小説書いとんのかい。ええ根性しとるやないけー。タイトルも完全におちょくっとる。野間文芸新人賞受賞やと、笑わせんな。ドゥマゴ文学賞受賞、なんやそれ。最新作は『屈辱ポンチ』やとぅ。ほんまふざけやがって。買うぞ。著者は1962年、大阪市生まれ。
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13年前に買い、途中まで読んでほったらかしてあった、周辺が茶色く変色した、文庫本。やっと読んだ。羊が人に入り込み、その人間は羊的思念にあやつられる。羊がその人間を見限って、プイと出ていくと、その人は「羊抜け」と呼ばれる状態になり、羊的思念だけが残るが、羊なしでは、それを放出することができない。地獄の苦しみとなるそうである。この辺りをもうちょっと突っ込んでほしかった。羊的思念とはいかなるものかと期待したが、著者も羊ではないので、やはり無理か。最後に友人は、羊の策略(?)を断ち切る。暗闇での旧友との再会は確かに感動的ではあるけど。
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上巻の途中まで読んでほったらかしにしてあったのだが、やっと読んだ。下巻からが面白いのだそうだ。そうならそうと早く言ってくれればいいのに。出だしはけっこういいが、伏線はりまくりで、ちょっとじれったい。扇風機を持った乳牛がやっとこをせびる夢、いわしと呼ばれる猫だのの面白い泡立ちはあるが、なかなか立ち上がろうとせん。最後でついに飛行機に乗って北海道へ。下巻に期待しよう。何故か、おもしろくなる予感が……。
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著者は角川スニーカー文庫について、<十二人の女子高生に次々と告白されるビデオゲームのノベライズや、たまたま主演したアニメがヒットしたことを勘違いした声優の詩集と称する物や、そんな屑のような文章と同じレーベルで流通する>ものと言う。これは【消費される小説】で、それだからこそ<世界中を呪詛しているような少年>に届く【速度】を持つと言う。著者はこの小説で、<物語による治癒では問題は何も解決しない>とし、<親や学校や社会と和解したり、大人になったりせずに、ただ欲望のままに、心の衝動のままに動くしか人間にはできないのではないか。…その欲望に身をまかせて初めて患者たちは癒されるのではないか>と精神医に語らせている。『完訳グリム童話集』にも秘められた本当の欲望とは何かを暗示してこの小説は終わる。どんどんやってほしいと思う。こういう試みを。大人も読め!しかし、バーコード付きの目玉の解説はもうちょっとほしい。
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人工の神経瘤を埋め込まれ、アミノ酸の変化で、その人間が見た世界を再生できるというバーコードがつけられた眼球を持つ謎の男たち。大塚英志は評論しかやってないのかと思ったが、コミックの原作までしていた。この本はコミックの原作の小説。恋人の最悪の状態の死(バラバラ死体)によって小林洋介は壊れてしまった。そこで登場するのがサイコ野郎、雨宮一彦だ。そして恋人を殺した犯人を射殺した雨宮は拘置所に送られる。そこで登場するのが西島伸二だ。サイコの自乗だ。とにかくえぐい。ぞっとする。やることはえぐいけど、普通の顔をしているのだ。まさに壊れた人間たちの集まりである。そして壊れるのもけっこう簡単に、なのだ。文化放送でラジオドラマをやる予定であったそうだが、直前で中止されたそうである。大塚英志は、この時代、あえてこういう表現が必要なのだと言う。顔はオバQに似ているが、けっこう危ない野郎である。1958年生まれ。
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山田風太郎は現在パーキンソン病(師匠筋にあたる江戸川乱歩と同じ病気)で、書くことも、二階の書斎に上がることもできないそうである。で、これはインタビュー集である。風太郎先生もとぼけたもので、のっけから「話すことはないなあ」なんて調子である。聞き手は必死で話しを持っていく。何回か日を分けてインタビューしたものであるが、何回も同じ話しをしている。聞き手も「誰某が死にましたが…」なんて話題が多い。そして意外な事に風太郎は現代作家はあまり読んでいない。最近は<やりたいことをやるほど元気ないから、せめて、やりたくないことはやらない>そうである。書くことができないとは、ちとさみしい。『いまわの際に言うべき一大事なし。』とは近松門左衛門の最後の言葉らしい。
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シャーロック・ホームズ&ワトソン、バットマン&ロビン、俳優のクリストファー・リー&ピーター・カッシングなどの怪しい関係の話から始まり、三島由紀夫&澁澤龍彦、はては近代哲学の巨人ウィトゲンシュタインまで登場する。この辺りは同性愛という感じだが、美少年、耽美、となると、男女かわりなく、興味の対象となってくるようである。雑誌『JUNE』なども女子高生にけっこう人気があるらしい。『根南志具佐』は平賀源内作で、著者が超訳したという女形同士の捨て身の愛の話。著者は昭和33年生まれで、私と同い年であるが、『カルトに走る子供たち』の中で、昭和30年代生まれについてこう言う。<中途半端な世代であり、…世代の共通体験というものがない。…戦争も知らなければ、飢餓の記憶もない。…思想闘争すらわれわれに無縁である。挫折さえ知らない世代なのだ>。まったくその通りである。そして共通体験と言えば、著者の言うようにテレビなのだ。
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第2巻はピオンビの牢獄からの脱出から始まる。国事犯審問官の命令によって投獄されたということであるが理由ははっきりしない。<自分にはまるで察しのつかない理由によって、一生ここに監禁されることになったのかもしれないと考えた>カサノヴァは<生命を賭けて脱獄する>ことを決意する。<ところが、実際にはわたしには確信などまるでなかったのだ。しかし、(脱獄仲間に対して)確信ありげに振る舞わなければならなかった。そうでないなら、すべてを放棄するほかなかった>カサノヴァはあらゆる知恵を絞り、ついに脱獄に成功する。そして彼は振り返り、こう言う。<わたしが経験という偉大な書物を読んで学んだのは、大きな企てを行うにはそれを検討したりすることなく、ひたすらそれを実行すべきであり、人間の企てすべてに対して運命がもつ支配力に逆らってはならないということだった>。その後カサノヴァは、42時間ノンストップのトランプ勝負をし、侮辱されたと思う相手と決闘し、すべてにおいて勝利を収めてきた。女性に対しても<女の心をつかもうとする男の熱心な心遣いや思いやりに抵抗しとおせる女などいないことをわたしは知っていたからである。その男があえて大きな犠牲を払おうとしているときはなおさらである>と豪語していたカサノヴァであったが、性悪娼婦ニーナとの出会いから投獄のはめになり、凋落の一途をたどる。最後にはドゥクスの居城の図書係になり、道徳、言語学、政治学、数学、文学、神学などあらゆる分野の問題に論及するも成功しない。そして、未来に死しかないと感じたカサノヴァは、もう一度過去を生きることを考える。<自分が手にいれた快楽を思い起こしながら、それを胸の中でくり返し、もう一度味あうのだ>と決意し、『カサノヴァ回想録』を書くことになる。全十二巻、読んでみたい。
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<容姿に恵まれ、博識で、弁舌さわやか、筆が立ち、大胆で、精力的で抜け目なく、人に好かれる頑張り屋。カサノヴァに呈された十指に余る肩書きのなかで【色事師】ほど彼の面目躍如たるものはない。>まさにスーパーマン。「こういう男になりたい」と誰しも思うであろう。本書はジル・ペローによって編集された『カサノヴァ回想録』のダイジェスト版(文庫本で2冊にまとめられている)のその1。時は18世紀、場所はヴェネティア。第1巻でのクライマックスはムラーノでの遊興。そこでの登場人物は、カサノヴァと修道院に入れられた15才のC・C、修道女M・MとM・Mの愛人。この4人の関係が凄い。お互いの相手を抱きたいが為に、自分の相手が抱かれるのを容認する。修道女同士のC・CとM・Mも互いに愛し合い、表面上4人がそれぞれ好感を持つ関係をくずさない。しかし、覗き有り、3P有りの世界。そこでの【自尊心を満たす為に、嫉妬心を抑え込む】手紙のやりとりは凄まじい。まさに、知力、体力、精神力のパワーに溢れる。
第2巻では、どんな凄いところを見せてくれるのだろうか。
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戦争だ!というほどのインパクトはない。まあ、写真家であるし、語る人ではないのでしかたがないが。中の写真の『少女たちのオキナワ』はいい。古い街の中の若いエネルギーはいい。この写真は6×6判の左右を切って、わざと不安定感を出したらしい。このあたりは、さすがプロという感じだ。
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ペニスビルのホストクラブに勤めるケイ。高さの軌跡を描き続けるケイの弟。そして図の女(水の女)。母、店長なども登場するが、主人公以外の名前はない。名前があるのはゲームの中のヒトデ君くらいである。ケイと水の女のセックスシーンもあるが、かなり観念的である。頭の中の図のこだわり(考えすぎ)から自由になろうとして、水を体に満たそうとする(感じようとする)女と主人公のケイ。逆さ馬のメリーゴーラウンドの軌跡は複雑であるが、弟は見事にその軌跡を描いてみせる。その後の空虚感。あるいは不安定感。主人公のケイは弟をつれて、海へと行く。空虚感を埋める為に。『燃えよドラゴン』でブルース・リーも言う。「考えるな、感じるんだ」と。著者は女性であろうが、ペニス(男性)と水(胎内回帰願望か?)が一種の癒しになっているのであろう。あたりまえか。動的癒しと静的癒しか。エントロピーの増大と減少というべきか。水の女の言う「水っぽいペニスがいい」というイメージは良くわからん。
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花村萬月が自著『笑う萬月』で絶賛し、web上でも評判の良い『新宿鮫』を読んだ。切れ味良く、面白かった。ラストシーンもライブのノリとともに緊張感が高まる。長さもほどほどで、読みやすい。キャリア組でありながら、途中で落ちこぼれた主人公の鮫島と、これまた「マンジュウ」と呼ばれ、完全に窓際族扱いされている上司の桃井。鮫島の戦いは日本の警察機構(キャリア制度)そのものにも向かうのだ。応援したい人物である。「新宿鮫シリーズ」にもう少しつき合っていきたい。著者は1956年、名古屋生まれ。
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京極堂シリーズを面白く読むコツは、順番に読むことである。『姑獲鳥の夏』、『魍魎の匣』、『狂骨の夢』、『鉄鼠の檻』の次に『絡新婦の理』を読むといっそう楽しめる。前作に出てきた脇役たちがバンバン出てくるし、前の事件がどうのこうのって話がでてくるからである。ズルイっちゅうか、前作も読んでるぞという読者を優遇する。ファンにとってはそんな細かいところが、またうれしいのであるが。おもわず、今回までの人物の関係図を書きたくなってくるではないか。事実、年代別に事件と人物の関係をWeb上に表わしている方もおられる。で、今回は「父系社会 vs 母系社会」がテーマ。当然その発祥から遡る(このウンチクがまた長い)。田嶋陽子ばりの発言も読める。京極堂の登場シーンはかっこ良すぎ。対するは、美人の母に、美人の姉妹。
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「忘れたくても、忘れられないことがある」なんて人、老人力が足りません。リラックスのいいかげん。理屈の正しさよりも、自分の感覚。わがままであるが、ほどほど。老人力は努力してもつかず、年とともについてくる。自分がなんでもできると思っているうちは、まだまだ力もカラ回り。自分の限界を知ってこそ、あんがい力が効率良く発揮できるというのはうなずける。オレも最近老人力がついてきたようだ。分中の写真も面白い。さすが路上観察学者だ。
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自殺、クスリを肯定し、現状の社会ルールの枠をゆるがす鶴見済の最新刊。著者は、刑務所に入れられた経験から、実はこの社会自体も刑務所と同じ「檻」であるという。この監獄社会から開放される方法の1つがダンス。単調な繰り返し運動がもたらすトランス状態。これがかなり快感らしい。エクスタシーなどのクスリを併用するとなおのこといいが、踊りだけでもかなり気持ち良くなるらしい。海外、日本でもレイブと呼ばれる巨大ダンス集会が多くなってきているという。そこからは新しいなにものも生みださないが、そんなもの必要ないと説く。<それは、「勝利」とか「愛」といった「他者」との関係を前提とする従来の幸福ではない、言わば「化学的な幸福」だ。確かに抵抗はあるが、そっちが「正解」のようにも思える>。それもいいかもしれない。しかし、「とりあえず飯食う金はある」のが前提だ。
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フロスト警部。このキャラクター気にいった。外見はまさに刑事コロンボ風であるが、推理はよくハズレる。無計画で、1つの事件を追うかと思いきや、別の用事を思い出す。上司には悪態をつき、部下はこきつかう。机の上は未処理の書類の山。言い訳の天才。よく警部までなったものだ。当然スケベで、仕事の最中も下ネタはかかさない。しかし、よく働く。不眠不休の大活躍である。本書の中でもほとんど寝ていない(まあ、主人公やから、しゃあないか)。担当した事件以外にも顔をだす。いろんな事件が起こり、それぞれが微妙に関連づけられていくところは刑事小説としてもなかなか面白い。けっこう長いがフロストの個性で読ませてくれる。英国風(?)の粋な小説である。
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今回の京極堂の相手は天敵とも言うべき禅であった。禅宗には臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の3宗派ある。ちょっとした禅の歴史はこの本でおおまかにわかる(それくらい横道にそれる)。禅問答では、まともに答えてはいけない(らしい)。つまり、言葉で云えず、文字で書けぬことであるそうな(なんじゃそりゃ)。ようするに、なんかわからんものを伝えなあかんという非常に難しいものや。禅とまったく離れたところにいる京極堂には最初から勝ち目はなかった。京極堂が暴いたのは、そういうわけのわからんものに隠されたわけのわかるものの正体である。それは坊主であるからといって特別ではない、人間の本性である。今回は長かった。
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エッセイ集。花村萬月の父親は小説家志望で、祖父は土建屋が本業であったが、某映画会社や、いまも続いている大新聞の社長を歴任してたそうな。小学校の低学年時には、父親から岩波や新潮の文庫本を読まされたそうな。その他、オートバイ、ギター(かなりの腕前だそうな)、ワープロの話題等。同い年の大沢在昌のところでは、おもわず『新宿鮫』を読みたくなった。著者の考える読書の本質についても、ちらっと言っている。
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眼で見る小説。暗黒、異様、恐怖、暗示、夢という言葉がふさわしい絵画(コラージュ)が次から次へと全部で百四十七葉。その多さに圧倒される。それぞれに短い暗示的解説が付く。奇書と呼ぶにふさわしい、いわくありげな絵本である。解説してる人間もまた、あやしい。澁澤龍彦、埴谷雄高らと訳者の巌谷國士を含めて、7人。本文を読むより時間がかかる。この本は文庫本であるが、本当は豪華本で、目立たないところに密かに置かれているのが似合っている。忘れた頃にまたなんらかの拍子に見つけて、読みたい(見たい)ものである。鳥類の長『ロプロプ』とはなんだ。
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めちゃ面白い。読みやすい。もっと読みたい。1冊まるごと「邪馬台国」の話を読まされるのかと思いきや、さにあらず、6つの短編であった。登場人物はいつも同じ4人。舞台はダイニングバー。突飛な推論をするのが、宮田六郎。宮田はのたまう。「ブッダは悟りをひらいていない。邪馬台国は東北だ。聖徳太子はいなかった。織田信長は自殺した。維新は勝海舟の催眠術による。十字架を背負ったのはイエスではない」。日本史が専門の三谷敦彦教授はニヤニヤ。助手であり、世界史が専門の日本一の美女(?)早乙女静香は宮田を「バカ呼ばわり」して反論する。バーテンダー松永は店の売り上げの為に歴史談義を盛り上げ、絶妙のタイミングで水割を3人の前に置く。回を追う毎に、バーテンダーも議論に加わっていくのも面白い。それぞれ嘘か真か、納得させられる。しかも予備知識なしでもOK。信長と明智光秀の『謀反の動機はなんですか?』、イエスとユダの『奇蹟はどのようになされたのですか?』は特に狂気乱舞ものであった。
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花村萬月5冊目。芥川賞受賞作である。『ゲルマニウムの夜』、『王国の犬』、『舞踏会の夜』とあるが、続きものである。舞台は修道院。主人公は院長に手で奉仕することを条件に、修道院に戻って来た『朧』である。内臓を見、生きものの匂いを嗅ぐ。あいかわらずの萬月ぶりであった。有機的ドロドロ感に満ちている。著者は、<三つの小説は、宗教を描く長大な作品のごく一部として書かれました。すべてを書き終えたときに、私は、この作品群に『王国記』という表題を冠しようと考えています>という。非常に楽しみだ。<『物』語を志向する小説家としての私の挑戦>であるそうだ。しかし、無機物ではない、有機物としての人間の匂いがプンとしてくる。表紙のフランシス・ベーコンの絵がいい。
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日本人が書いた、アメリカを舞台にしたマネーゲームの小説。もちろん主人公もアメリカ人。しかも美人?。名前はシェリル・ハサウェイ。なんか『ER』の看護婦長みたいな名前やぞ(あれはキャロル・ハサウェイか。『ER』のなかでは1番好きなキャラや。ベントンも好きやけど。服部さんも『ER』見てたんかな?)。中味は『ディズニー』と『マイクロソフト』を彷彿とさせる企業同士の対決。情報合戦。ヒッチコックの名前もでてくるぞ。あやしい東洋人もでてくるぞ。なかなかよくできてるぞ。シィドニィ・シェルダン(の超訳)にも負けてない、と思う。作者は1961年、東京生まれ。ちなみに女性です。
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現代日本は、ストレス、環境ホルモン、極端な清潔志向などによって、「生物としての性」が危ないという。また、「イメージとしての性商品」多さや、個を尊重するあまり、共存することを拒否する傾向が強くなってきたことにより、生物としてのSEXが減少してきているという。さあ、寄生虫を見習って、自我の崩壊の喜びを知り、相手と共存する道を選びましょうと言いたげである。著者の1つの解答は「原始人に戻す」ことだそうだ。う〜ん、それもいやだ。人口ももうちょっと減ってもいいんではなかろうかと思うのは私だけ?面白かったのは、性的接触によって感染したと思われる患者に対して、医者は必ず「お友達を呼んできなさい」と言うみたいである。
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いや〜、元気、元気。思い立ったら、即実行。カウボーイにあこがれて、いきなりアメリカにいったり、トム・クルーズの『カクテル』を見て店を持ったり、サイババに会いたくなってインドへ行ったり、挙句の果ては、自伝を出すことに思い至り、出版社(↑SANCTUARY BOOKS)までつくってしまった。実話だそうである。この実行力は凄まじい。この本自体もふざけてて、ペアチケット風しおりが付いていたり、CDまで付いている。続きはインターネットでどうぞときたもんだ。ここまでやりゃ立派。こっちまで、元気が出てくる。何故か、江川昭子も推薦。
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タクシーの運転手を10年つとめた著者のドライバー日誌。やはり、道を覚えるのは大変そうだ。<つねに一定の場所から出発するのではなく、あらゆる場所が出発点になることだ>。なれない頃は、いったん車庫に戻って再出発することもあったという。また何度もでてくるのが、歩合制による労働条件の過酷さ。24時間勤務を一月に12回やるそうである。そして逃れられないのが、交通事故。・・・とりえといえば<一般企業のように上下関係や人間関係に束縛されないことだろう>と著者は言う。しかし、人間的な仕事とか、健康によい仕事なんかないのだ。
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副題『少女は何なぜ「カツ丼」を抱いて走るのか』。副題はもちろん、吉本ばななの小説『キッチン』『満月』の主人公の行動である。この「なぜ」を著者は、心理的距離が空間的距離に還元された時、心理的距離を埋めるべく、物理的空間をひた走ったのだと説く。これが気持ちいいらしい。悪くいえば、迷惑するかもしれない、相手のことなど顧みずに、「他者を癒すという自分の物語」を完結させる為にだ。一見、自分から他者への癒しに見え、閉じた自分の物語からの脱出に見えるが、これもまた自分自身の癒しにしか過ぎない。<国際社会><エコロジー><神><政治>への発言も同様であると言う。消費社会としては、すべて閉じられおり、<外部>を夢見ず、己の分をわきまえる作業が大事であると結ぶ。面白かったのは、アメリカの物語は「ディズニー」であるということと、霊的価値を付加したモノが<宗教>ではなく、<企業>の手で作られつつあり、宗教教団は根本から存在価値を失うのではないかというところ。著者は1958年東京生まれ。
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<アリューシャン黙示録>第一部。紀元前七千年、氷河時代のアリューシャン列島でのお話。歴史の教科書にもほとんどなにも書かれていない。生活は素朴。クジラ、アザラシを食べ、半地下の竪穴式住居に住む。主人公は<第一等族>の<黒曜石>。人を殺して住居、食べ物を得る<短身族>との戦いを通して著された、ラッコの精とともに生きる、賢く、強い女性であり、母の物語である。死ぬことは<光踊る国>にいくことである。そして喜びは「日々の生活」(<古に遡る>の言葉)である。生活自体は素朴であるが、非常に力強い。すべての人に薦められる。
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〓 | 花村萬月4冊目。『笑う山崎』、笑えません。おもろいけど。国立大学中退で、イレズミなどせず、色白で、なで肩で、アルコールがまったくダメな優男。こいつが無表情の時が一番怖い。ヤクザからも怖れられる男。なんか織田信長のイメージと重なる。当然、規制の道徳なんて関係ない。こいつの行動原理は組と家族への「愛」である。人類愛ってとこまでは当然いかない。ますます、「つかこうへい」のイメージがつよくなる。しかし、本当の「愛」を感じるのが、極限状態にならんとわからんちゅうのも、たいへんじゃ。 |
〓 | 先に読んだ2作『ぢん・ぢん・ぢん』、『鬱』などと違い、しっかりと物語になっている。サスペンス物としても面白い。涙あり、暴力あり、SEXありの萬月流味付けはしっかりされている。追い詰められた人間のこころからの涙、そして笑いは非常にいい。何故か「つかこうへい」を思い出す。『鬱』の解説には花村萬月自身の言葉として<いままではね、自分のやりたいことの20%くらいしかやってなかったけど、『鬱』では60%くらいできたって感じだね>というのが載せられている。ではこれで20%?読者に迎合したもの?確かに『ぢん・ぢん・ぢん』の奔放さ、『鬱』の凝縮さはないが、うまいと思う。吉川英治文学新人賞受賞作。 |
〓 | 冗長なところなく、非常に面白く読めた。『ぢん・ぢん・ぢん』よりけっこうマジである。ひとの神経を逆なでするようなことを書き、新しい倫理を探ろうとする。主人公は途中で酒、タバコ、もちろんコカインなどなしで考えをまとめようとする。孤独で、汚くて、エロくて、グロテスクであるがいたって真摯である。本の帯に<新生花村文学の誕生>とある。今後のものが非常に楽しみである。現代版『青春の門』。 |
〓 | 土屋賢二、4冊目。ちょっと飽きてきた。このことは本人(著者)も気付いているようで(?)、最後は哲学の教授らしく、少し真面目に語り出した(といっても、初出はいろんなところに書いているので、編集の時に気をつけたのか?)。ということで、今回おもろかったのは、『首相になれといわれたら』、『ナンセンスの疑いー「わたしってだれ?」って何?』、『ユーモアのセンスとは何か』。 |
〓 | 最高に面白かった。愛と暴力。あたらしい倫理をつくろうとするパワーにあふれている。エロ・グロを飲み込んだ人間探究の書である。舞台は新宿。主人公はヒモ道を突き進むイクオ。これほど性を徹底的に描いたものを読んだことはない。SEXと死。存在とはなにか。魂の叫び声が聞こえてきます。救いはないが、暗くもない。 |
〓 | 題、長いっちゅうねん。星飛雄馬は昭和25年生まれであった。すると今年で、生きていれば、48歳になる。老けたなあ。そういえばオレも『巨人の星』で育ったのだ。坂本竜馬の「前のめりに死にたい」とか、「鉢の木」の話とか、「闇鍋」の話とか。なつかしい、全部覚えている。おお、そうそうという感じ。著者もオレと同世代(著者が1コ上)なので、その時、どうしたこうしたは非常に親しみがわく。関西出身であり、ひとりでノリ、ツッコミをするのがやたら多いが、許しておこう。まあこの辺の年代が1番刷り込まれやすい時期に『巨人の星』を見たということで、それ以外の人が読んでどうかは疑問やけどね。 |
〓 | 拝み屋、中禅寺秋彦、好調である。しかし、この京極堂さん、なかなかでてけーへんかった。前ふりが長いんとちゃうかあ?超探偵の榎木津礼二郎は、早めに登場してたけど。フロイト、ユングなどもからめ(また簡単にうまいこと説明しよる)、今回は宗教と精神分析がテーマとなっている。登場人物の個性もはっきりしてきて、あいかわらず、おもろい。榎木津はここでは、あまり切れ味はなく、ネジのはずれ具合が目についた。夢をさます男、憑きものを落とす拝み屋、式を示す男、そしてはったりやの京極堂、さらに頑張ってほしい。 |
〓 | 日本がアジアになっていく。新宿歌舞伎町にはアジアの中の日本が色濃く出ている。いや、すでに歌舞伎町の闇の世界は、中国人が牛じっている。そこで生きていく日本人と台湾人の混血、劉健一が主人公だ。【生き残る】ことしか考えられない健一は、裏切りと根回しの世界で生きていく。もう1人の主人公夏美も、同じ世界の住民である。どこまでも、しつようにクールである。ここまでクールにならねばならぬのか?ただ生き残るために……。ほう、やってくれるねえと言う本。ハードで、悲しく、切なく、そしてむなしいのを読みたい人にはかなりお薦め。小蓮の最後の言葉は泣かせる。 |
〓 | ピカソは「私は恋愛の情にかられて仕事をする」と言った。ここには彼が何を為したかではなく、何者であったかが示されている。フェルナンド・オリヴィエからオルガ・コクローヴァ、マリー・テレーズ、フランソワーズ・ジロー、ジャクリーヌ・ロックらと生活をともにし、彼女らに対しの自分が何者であったかを描きつづけた。その膨大な量、及びその激しさに圧倒させられる。おだやかなピカソ、若い牡牛(ミノタウロス)になったピカソ、老醜をさらすピカソを見ることができる。図版も多く、今まで見たこともない作品も多かった。『S・V・P』『赤い肘掛け椅子の大きな裸婦』『馬に突きかかる牡牛』を見よ。反吐が出るほど激しく、えげつない。 |
〓 | 第一章「幸福より、快楽を」の「そして人生には、目的なんかない」で始まる。はっきり言って好きである、おもろい。第五章「快楽主義の巨人たち」カサノヴァについて<…「男である以上、ゲーテ、ミケランジェロ、バルザックなどよりも、むしろカサノヴァになりたいと思うのは当然だろう」とはツヴァイクの言葉>、食については中国人が凄い<…中国人こそは、この地球上における唯一の、しかも真の偏食動物なのだ。われわれはこの歯のつづくかぎり、この地位を他国民にはゆずるまい。…>。その他第四章「性的快楽の研究」、第六章「あなたも、快楽主義者になれる」。おきまりの幸福やレジャーではない、もっといきいきとした、ピチピチの快楽を手にいれるのだ。 |
〓 | 「蔵書五万冊」と書かれた看板は、稔が書いた誇大広告である。古本屋、田辺書店の親爺イワさんと、その孫稔がすべてに登場する、連作集。そこには「古書」と呼ばれるようなものは置いていない。読んで価値ある娯楽本ばかりである。おじいちゃん子であった宮部みゆき(『怪』第弐号の京極夏彦との対談のなかで「私は、死んだおじいちゃんがいつでもどこでも見ててくれると思っていたりするのね」と言っている)ならではのものだろう。殺人事件などおこるが、読後感は「ほっ」である。最後の『淋しい狩人』の<我々はみな孤独な狩人なのだ。 …それだから、我々は人を恋う。それだから、血の温もりを求めて止まぬ>、いいですねえ。 |
〓 | 副題「岡嶋二人盛衰記」。岡嶋二人(井上夢人と徳山諄一のおかしな二人)の七転八倒、青息吐息の物語である。江戸川乱歩賞をねらう二人。もちろん金の為である。しかも、それまで一遍の小説もかいたことがない、おかしな二人である。それでも、ついに乱歩賞を受賞するのであるが、そこが最盛期であったという。その後井上夢人は、徳山諄一に対して、いつも怒っている。(不公平やー、なんで俺だけしんどいんやー)そして、岡嶋二人は解散する。今、井上夢人は一人で書いている。岡嶋二人の泣き笑い劇場、面白いです。 |
〓 | ある朝起きると、女に変わっていた。そして5年後にタイムスリップしてた。しかも、ベッドには若い男が寝ていた。なんとなく宮部みゆきの『レベル7』を彷彿とさせるが、人格だけでなく、肉体までしっかり女になっていたのだ。いままで男であった主人公が女になって、体をもてあます描写が面白い。けっこう複雑な人間関係がでてくるが、一気に読んでしまった。作者は年齢、性別不詳の覆面作家であるらしい。 |
〓 | <語りえぬことについては、沈黙しなくてはいけない>とはヴィトゲンシュタイン『論理哲学論』の最後のことば。<《神》さえその上にいなければ、人間はもっと善良にももっと幸福にもなれるんだ、と考えたいの>。《神》を真っ向から敵にまわし、著者は語りえぬものを語ろうとした。ハードボイルドタッチで面白いが、テーマが壮大すぎて終わりはちょっと?か。論理レベルを上げるとは?【松岡正剛の365冊】 |
〓 | 最初は調子良く読んでいたが、正直言ってよくわからんかった。やっぱりゲームとか良くやる人でないとなじめんかもしれん。子どもの頃の悪夢って感じかな。著者は1961年、東京生まれ。かっぱに似ている。←ごめん。>いとうせいこう |
〓 | 稲垣足穂について語る若い女性がいたとは、うれしい。思わず買ってしまった。イタリア未来派。1909年、マリネッティらによってなされた新しい芸術の創造の宣言。森鴎外に初めて日本に紹介され、東郷青児らも影響を受けた。その状況下において、稲垣足穂は機械、天体、少年愛を3本柱に独自の宇宙的郷愁を示した。実体よりも模型、オリジナルよりも複製においてこそ、その純粋性があるという。茂田真理子の修士論文だそうである。ブリキの月を愛する男、稲垣足穂の『一千一秒物語』、多くの人に読んでほしい。懐かしい未来がそこにあります。 |
〓 | 著者いわく「多重人格者の内面のドラマ」。ジョーという男とリリーという女の2つの人格を持つ男。リリーを愛したのはジョーの親友のタカクラケンであった。タカクラケンもまた、リリーによって生みだされた人格であった。治療の為、1つの人格になるということは、同時にリリーとタカクラケンの死でもあった。タカクラケンがリリーを誘い、死へと向かう姿は非常に切なく、悲しい。人間だれもが多重人格者であり、著者も栗本薫と中島梓という多重人格者である。 |
〓 | 知的障害の兄との肉体関係をもち、クスリを飲まされて、集団強姦されるアミは、精子ドナーNo.307によって出生した。宮台真司が推薦していた小説で、以前から気にはなっていた。「売り」をやっている子に小説化を薦めたのが、宮台真司である。「世界を受け切れられない」アミも「閉じた円環」から「開かれた円環」への移行を欲しているのだ。 |
〓 | 読み始めてすぐにつぐみに魅せられてしまった。布団のなかですべてを知ってしまったつぐみ。とんがってるねえ。戦ってるねえ。かわいいねえ。からだがめちゃめちゃ弱く、いつも熱があって、ハイ状態にある。自分を掘り下げ過ぎて、あがくつぐみ。気力だけでどこまで突っ走れるのか。突き抜けたようなつぐみのたまにぽつりという言葉、こころにしみます。 |
〓 | 宮部みゆきの短編集を初めて読む。短編のほうがやっぱりアイデアは出しやすいのかなと思う。軽くながせるものもあるし、コミカルに終わるものもある。長編はほんわかではしんどいし、コミカルだけでも飽きる。『聞こえていますか』とか『私はついてない』などは短編でしか出すことができないであろうほのぼの、コミカルタッチの宮部みゆきだ。新しい面を見た。 |
〓 | <…しかし【式】を知らずに、答えのみを見ると仕組が解らないから不思議に見える。>と京極堂は言う。【式】とは葬式、卒業式、数式の式である。【式を打つ】という言い方をする。京極堂はその【式】を明示し、事件の不思議さを解いていく。今回のテーマは<母>である。思わず泣けてくる。榎木津の超能力の秘密の説明もある。うだうだした天気なんか吹き飛ばす面白さである。 |
〓 | この本の最後の解説で<…この本のなかにもう一つ「癒し」の法則がでてきます。それは「独り」を掘り下げるということです。これは究極の「癒し」です。…>というのがでてくる。また『とかげ』のなかで、精神科医の「わたし」は<患者を本当に助けたかったら、患者にシンクロしたり、共鳴したりしてはいけない。>とも言う。理解はするが、同情はしない。他人の踏み込めないところには、同情せず、理解することこそ大事。という法則を守りつつ、他人と関わりをもつのが理想と思う。孤独を認識しつつ、人と共鳴する。しかし、そういう状態は少ないと思う。変に感情をおしつける人はちょっとしんどい。 |
〓 | おもろい。名探偵天下一大五郎と大河原番三警部がおおくりするお笑い推理小説。いままでの推理小説にありがちなパターンをちゃかしながら話が進む。最初はいやいやながら名探偵をやっていた天下一だが、回を追うにつれ、調子にのって名探偵ぶりが板についてくる。慣れとは恐ろしいもんやな。最後にちゃんとおちをつけるあたり、東野圭吾、さすが大阪生まれ。しかもわたしと同い年。吉本見て育ったんやな、たぶん。 |
〓 | 主人公は、ヨーロッパの不良少年風、ショートカットでお尻の小さい、文学部の女子大生。男から見て、こんな女の子がいたらなあ、と思う。そして、探偵役は、四十少し前の色白でやさしい眉の落語家、春桜亭円紫。細かい心くばりのできる、粋な男である。殺人事件が起こる訳ではない。日常のふと通り過ぎてしまいそうな「何故」に、江戸落語好きの主人公が質問し、円紫師匠がやさしく答える。推理小説でもない、ミステリーでもない、師弟の純愛(プラトニック・ラブ)小説である。ところで、主人公の名前は? |
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岡田斗司夫対談集。vs 小林よしのり、岸田秀、大槻ケンヂ、堺屋太一、鶴見済、小室直樹、今野敏、宮台真司、岡田和美。 vs 岸田秀 <岸田秀の『ものぐさ精神分析』を読んで、急にニヒルになった。>オレもそうでした。この世はすべて幻想である!なんて若い頭に叩き込まれた日にゃ、誰でもニヒルになるってもんや。 vs 宮台真司 宮台はよくしゃべる。宮台の一方的攻撃に終わるかと思いきや、最後は岡田斗司夫に分があったかな。 岡田斗司夫、オレと同じ年。言論界のオタク派。「世の中のこと、対談した相手にまかせておけば大丈夫」なんてうまく引きすぎ。何故かサイン本。 |
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<はじめのところから始めて、終わりにきたらやめればいい>このなんでもないような言葉によって、主人公が最後に選択した方法とは?【クラインの壺】…内側が外側であり、外側が内側である。現実と虚構の区別がつかなくなった時、あなたならどうしますか?すべては虚構であると割り切って、人生歩みますか?「ブレイン・シンドローム」のゲーム作家が自らバーチャルリアリティのゲームで体験していく怖いお話し。岡嶋二人最後の作品。 |
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<いつか死ぬ時がきたら、……私はおびえずにちゃんと見つめてたい>家族がどんどん死ぬと「死ぬ」ことを抜きには考えられない人生となる。「死ぬ」ことが前提にあっての人との関わりの持ち方。いつかはなくなるからこそ、今をせいいっぱい生きたい。若者らしい、いい小説だった。かつ丼を届けに行くところなんかが特によかった。<上下スウェットスーツという恐るべき民族衣装>には笑った。 『ムーンライト・シャドウ』これも<いつも死を感じて、生きていたい>吉本ばななだ。愛する人を失い、<しぼんだ心にはりを持たせる手段>としての、ジョギング、セーラー服。自分で自分を支える為の手段。自分の心に決着をつける。こういうのは女の子の方がうまいのかも。 |
〓 | ふたつの物語が同時進行していく前に、最初のふりかけがあり、それがズーッと気になって読み進めた。最後にきっちりまとめあげる。職人技です。面白いです。最後の決めの言葉にはおもわずニヤリとした。解説の中で著者が<長編のアイデアはオーソドックスである>と言っているが、まさにミステリーの王道を行くって感じかな?また<あたらしいアイデアは短編の方にある>なんて言われると、読まずにはいられない。 |
〓 | う〜ん、やっと読み了えた。読み応え十分。余韻に浸っています。非常に満足です。面白い。小説の中で、京極堂はこう言う<殺人は九分九厘衝動的な、あるいは発作的なものだ。>京極堂はまたこうも言った<動機は後から聴かれて考えるものなんだ。その時点で犯罪者は傍観者と同じ立場になってしまっている。自分がまず日常に帰るために、如何に自分で自分を納得させ得る理由を見い出すか、必死で考えるんだ。それが動機だ。> 京極夏彦。1963年北海道生まれ。なかなかすごい男である。 |
〓 | 大人の絵本童話。大人になって失ったもの……残酷さ、不安。大人とは今の社会(いいか悪いかは別にして)に適応する為に教育(洗脳)され、それを実践できるもの。著者は1959年、東京生まれ。 望月通陽氏の線画、なかなかいい。 |
〓 | 映画『コレクター』を思い出した。医学用の人体模型を愛する男。血が通わず、見られることのみに存在する絶対客体しか愛せない男。この男はまた、整形して人形のように美人になりすぎた女も愛する。そして人体模型のようにバラバラにすることを欲する。設定は面白いが、男の精神の異常性やらをもっと書いてほしかったかな。 |
〓 | 筒井康隆的SF童話世界がひそんでいる短編集。なつかしく、せつない夢の世界である。『時をかける少女』を思い出す。『デューク』『夏の少し前』『南ヶ原団地A号棟』などがいい。 |
〓 | <寄生虫学は癌のヒト体内での増殖の機構を説き明かし、アレルギー病の治療につながる重要なテーマである>と寄生虫学一筋の著者は言う。エピソードがすごい。驚愕、破廉恥、グロテスクの連続……駆虫剤を投与された海外駐在員の美人の奥さんが、自らカイチュウをひっぱりだし、お尻丸だしでトイレで失神していた話とか、クマのふんどしの話とか、動くこぶの話とか研究者特有の無邪気さで語られる。東京・目黒に「目黒寄生虫館」があるそうであるが、土曜日曜は若いアベックや女学生でいっぱいであるとは本当か? |
〓 | 自分がおかしくなってしまったのか。アリ地獄に落ちるように徐々に気が狂っていく感じである。何故、何故、何故……の恐怖である。しかもそこから逃れることはできない。最後の最後まで不条理さに遠慮がないところがよい。文字でありながら、視覚的にも工夫がしてあります。 |
〓 | 悲しく、重い話である。カード社会の犠牲者というべき主人公は、仮面を被り逃亡を続ける。第三者の眼から話が進められるので、主人公の心のうちをいろいろな想像が渦巻き、ドラマチックである。<破産という手続きが、何よリもまず第一に債務者の救済を目的としている……夜逃げの前に、死ぬ前に、人を殺す前に、破産という手続きがあることを思い出しなさい>とは作中の弁護士の言葉。 |
〓 | みんな果歩が好きなんだ、いや果歩になりたいのかな。変わらない自分にほっとする、成長などしてたまるか。その時の自分のきもちを最も大切にする。自分の気持ちをよく自分に訊くことができる才能が果歩にはある。わがままではない。正直なのである。しかし孤独であることの覚悟はいる。好対照な静枝を通して書かれている。わかったふりは厳禁です。 |
〓 | 池田晶子最新刊。あくまでも理性的に人生を考える。生死とは、私とは、自由とは、情報とは、信じるとは、わかるとは、善悪とは、神とは、魂とは、幸福とは。 本書で「すべてがどうでもいいか、良くないか」でゆらぐ池田晶子を見た。安易にわかった気にならず、あがく、感じる、論理でもって、理性でもって。 |
〓 | 今映画でも話題の『リング』『らせん』につづく完結篇。本屋でもかなりのはばをきかせている。面白さは『リング』『らせん』に劣る。荒唐無稽さはさらにエスカレートし、ちょっとついていけないなと言う感じがした。しかし、著者のあとがきに書いてあるが、<『リング』を書いたときには『らせん』は頭になかったし、『らせん』を書いたときには『ループ』の構想がなかった>というのは驚きだ。アイデアは面白いが、力業かな。 |
〓 | 自由経済社会から自由洗脳社会へのパラダイムシフトが起きつつある。権力者の独占であった洗脳行為は民衆へ開放される(パソコン通信、インターネット等)。「自分の気持ち」を最も大切にし、その場、その場でいろんなイメージ、価値を選択する。1つの確立した「自我」は邪魔になってくる。キーワードは他人のワガママを認められるワガママ。ワガママばんざい! |
〓 | 残りの1/3を読む。生命を産みだし、自己増殖する為の強烈な意志。退屈さからの文化的進歩。両性具有の完全な美。個性豊かな登場人物(未成熟な体を持つ高山竜二の念力、恥をエネルギーにしてあがく男の姿をみたいという高野舞)。荒唐無稽であるが非常に満足である。 |
〓 | 同著者の『らせん』を先に読みかけた。『らせん』の解説を読み、『リング』がこの物語の先行であると知った。半分ほど『らせん』を読んで、『リング』を買いにいった。ない!、喜久屋書店、ユーゴー書店に行ったが、なかった。このままでは『リング』を読まないまま、『らせん』を読み終わってしまう。「楽しみが半減してしまう」と思っていたら、なんと『リング』のヤツ、たまたま寄ったローソンにいやがった。よし、つかまえた。『らせん』を2/3まで読んで、『リング』を読み終えた。 面白い。『らせん』で無口であった2人が生き生きと活躍する。これで心おきなく、『らせん』の残りの1/3を読める。 |
〓 | サウスダコタと聞いて、ラピッドシティ、ラシュモア山と連想できれば、あなたも立派なヒッチコックマニアです。(『北北西に進路を取れ』のラストシーンの場所)サウスダコタ出身の純朴なアメリカ青年の日本滞在ユーモア小説。困った時に、着物姿の美人に出会うところは、かなり都合良くできています。恋の橋渡しをして、忍者になりきるところは笑える。 |
〓 | 自然を敵にした時、人はどこまで戦えるのか?ここでの敵とは年齢である。天才筒井康隆が歳をとってしまう前に、老齢になった時を想像して書いた小説。日常の細かい描写が味わい深い。決して年齢に対して戦ってはいない。その年齢で楽しみ、ほのぼのとした作品になっている。何度でも読みたい。 |
〓 | あいかわず面白い。愉快痛快、よくぞ言ってくれた。ソクラテスとクサンチッペの対話篇、これで終わらずにもっと続けてほしい。結局ソクラテスは、何も言っていないとは。簡単に読めるが、哲学はここから始まる。常識に汚れた人にどうぞ。 |
〓 | 地上の楽園計画を達成するため、地下に青酸ガスをまき、無差別大量殺戮を実施し、日本の政府から金を脅し取ろうとするもの。今の日本は狂人の国でそこから逃げ出そうとする犯人。汗と血とSEXのハードロマン。途中で出てくるマフィアには面喰らったが、読みごたえ十分である。 |
〓 | 〈日本に最初に密教を紹介したのは、最澄であるが、最初の密教人間は空海である〉と著者は言う。自身も空海になりきり、著したところが面白い。一歩一歩登って行くのではなく、いきなり頂上から始めた男(空海)はやはり天才である。 |
〓 | 毒舌和尚今東光の自伝的エッセイ。著者の『極道辻説法』は、学生時代のバイブルであった。今東光自身の出家の時の心境などにも触れていて(「出家のこころ」の章)、大変興味深く読んだ。この本は「彦書房」にインターネットで申し込んだ。町の古本屋ではなかなか見つからなかったと思う。 |
〓 | 酒鬼薔薇聖斗事件の分析の書。「社会の成熟による“立派な大人”観念の喪失」、「社会の学校化」、「ニュータウンの環境浄化」などにより、子供の「未来への希望」、「居場所(ダークサイド)」がなくなった。このことにより、逸脱行為の「生起確率」が高くなった。対策として、著者は「自己決定能力を養成するプログラムの導入」、「専業主婦廃止論」などを提唱する。 |