〓 | ガンにならないための六箇条。<1.働きすぎをやめ、充分な睡眠をとる。2.心の悩みを抱えない。3.腸の働きを高める。4.血行をよくする。5.薬漬けを避ける。6.ガン検診は受けない。>、だそうである。面白いのは6.の「ガン検診を受けない」というやつ。<検診によって疑いありとされ、検査に時間がかかれば、そのストレスは予想もつかないほど激しいものになります。そのストレスは…>がその理由である。また<転移は治る前兆>ともおっしゃる。<転移が起こったと思われる時期に、いく日間か患者は発熱し…>、この発熱によってガン細胞は他に逃げ出し、転移先のガンまでリンパ球というやつが追いつめ、殺すんだそうだ。だからこの発熱を妨げてはいけない。と言う。でもこの自分自身の免疫力を信じられらかどうか。なんて考えてはいけないのかもしれない。迷わず治ると思えるやつ、しかもそれが持続できるやつが生き残る。対処療法はひかえめに、免疫力で勝負する。そしてその免疫力を高めるには、日々の心と体の緊張と緩和、そして食生活。これがポイント。 |
〓 | 再読。なんか楽しそうやなあって感じ。砂の村での生活。村の連中に閉じ込められ、本人は逃げ出そうともがき苦しんでるんであるが、それはそれは充実感に充ちたものであるような感じがする。自由になることを欲しているが、いざ自由になった時、あるいはなりそうになった時に、ふと、それまでのことがなつかしく、離れることがさみしくなったんやろうなあ、と思う。1人の女とともに砂と戦う。普段の教師の生活よりも何倍も集中し、心が高ぶったのではないかな。この物語が終わってほしくはない、いつまでも読んでいたい、とも思った。主人公も最初はあがいているが、だんだんとそこでの生活を楽しみだしていった。ラストはまさに『自由からの逃走』かと思った。しかし、自由というものが人間にとって、非常にいいような言葉であるようであるが、その実自由であることは、途方に暮れる。不自由であっても、エネルギーを存分に発揮できることが大事。会社のキャッシュフローならぬ、個人のエネルギーフローが、充実した人生であるどうかの目安となる、と思う。そして、不自由な中でこそ、その真価が発揮されるだ。 |
〓 | 「申し訳ありません」。殴られようが、蹴られようが、謝り抜く。とすると周りの人間も、まぁそこまでせんでもええやんけ、となる。謝り屋の勝ちである。これを商売にしている人間がいる。債務者となった会社から依頼がくるのだ。しかし、この謝り屋、かなりマゾっけがないと一流にはなれんみたいだ。主人公の北山慎治もかなりマゾだ。自分で言っているので間違いはない。背中に不動明王の入れ墨をするのであるが、これまたマゾの血が騒ぐ。自分を捨てて自己主張するという奴にはなかなか勝てん。 |
〓 | 読書の虫、コリン・ウィルソンがたどり着いた人生観。それは、精神の集中からくる悟りの境地。なんて言うとうさんくさいが、実はけっこうおおらかで、健康的なんである。見たままの世界から踏み出せずに、厭世的な態度や思想を語る作家を叩く。自らが世界の眺め方を変えることにより、世界は変わるのだ。この志向性を強調する。そしてそのことが、<人類の進化への新しいステップのとば口に立つことを可能にしてくれる>、と著者は言う。ー読書によって狂い、また読書によって救われるー。このHPを立ち上げた時に、いろいろな検索ページに載せた文だ。自分自身、同著者の『アウトサイダー』によって狂わされ、この『超読書体験』によって救われた思いもする。非常に健康的な人生観。素直に頷ける。 |
〓 | 同著者の処女作でもある『アウトサイダー』を読んだのが約20年前。その本を読んで以来、アウトサイダー的な態度に囚われている傾向にあった。この世には本当に意味あることはない。てな態度である。まぁこんなことも日常の忙しさがあれば考えないことであるのかもしれない。暇をもてあました贅沢病とも言える。しかし、その手の本は魅惑的であるだけに困ったもので、読むにつれ、むなしくもなっていくのである。そして、エネルギーの放出先が見つからず、刹那的な快楽を求めたりしていくんであろうな。この本は、そういう感じ持ったことがある人こそに薦めたい。アウトサイダーからの脱出か?コリン・ウィルソン自身の読書を通しての思想史とも言える。人生の先輩として、意見の聞くことのできる人だ。上巻の最後に出てくるディビット・リンゼイ『アルクトゥルスへの旅』、面白そうだ。 |
〓 | 大阪の郊外にできた新設大学へ椎名燎平が入学した。そこで出会った友人金子。彼に強引に誘われるまま、テニス部をつくることになる。何もない大学。テニスコートももちろんなかった。たった2人でのコート作りから、部員集め。集まったメンバーはど素人か、いわくつきのテニス経験者。猛練習が始まった。著者も大学時代テニス部であったらしく、テニスの描写はかなり詳しい。王道のテニスをするか、覇道のテニスをするか。テニスに真正面に取り組む姿は心地よく、勝負のアヤなどもなるほどと思わせる。しかし単なるテニス小説ではない。彼等をとりまく女子学生との恋愛、他の大学の応援団員との友情など、いろいろな物語が展開する。それぞれの青春があり、そして卒業していく。失恋あり、友の死ありで、どちらかというとうまくいかないことのほうが多い。それぞれが苦い経験であった。見事に散っていったとも言える。甘くて苦い、ゾクゾクとする青春小説であった。その後の彼等はどうなっていくんであろうか。その続きが読みたい、とも思うが、それがないのがまたいいのかもしれない。 |
〓 | ヒットヒット広告コピー傑作選、第2弾かな?今回面白かったコピーは、<仕事がいちばん面白い>、なんてったってコレですよね。<相談役が相談されているところを見たことがない>、相談役なんてみたこともない。<おじいちゃんは、怒るとこわくて、好きだ>、怒っても、こわくない人多いもんね。みんなキチンと怒られたいのかな?<会う、贅沢>、電話やメールでも一応済ませられるけど、時間かけて会って話しをするのが、最高の贅沢になると思う。<生きていくのは、死ぬほどたいへんだぞ>、いや、たいへんなのは生きているからじゃ。 |
〓 | 帯の言葉が、<フランス推理小説大賞に輝いた、究極の「リストラ」サスペンス>。思わず買ってしまいました。ド・ワーヴルという人材紹介会社でテストを受け、テストに合格すると、それなりの企業に紹介してくれるという、失業者にとっては願ってもない話が本書の骨格となる。そのテストというか研修に参加したものは、グループ別で模擬の会社経営を行う。誰がリーダーとなり、それぞれどういう行動をとっていくか等がチェックされる。それぞれが仕事を得るため、いい結果を残そうと必死になる。必死になるあまり、最後はおぞましい結果になる。失業者でありながら結構優秀な人物であるのも、今では日常の光景になってしまった感じだ。本書は、失業のストレスからくる極端な爆発を描いたもので、似たような小爆発は実際あるやろうな、と思う。 |
〓 | どーでもいいことは、やっぱりどーでもいいことである、と改めて思わせてくれる。価値について、善悪について、生死について、そして存在について。そういう本質的なことがやっぱり面白い。相対的なものは、相対的であるそのことによって、絶対的価値ではない。哲学の言葉は私の言葉ではなく、われわれの言葉である。全世界、全宇宙すべてが自分である(ヘーゲルは「我こそが世界精神である」と言った)という妄想(と著者は言う)をもつこと。ただ生きているだけでなく、善く生きること。そして自分=全て、であるので、善く生きるとは、すべてが善くなることになる。そういう考えが世界を変える、ということになる。本書は今までの考えをけっこうまとまった形で書いているので、読みやすく、面白かった。 |
〓 | 藤原拓海、18才。藤原豆腐店の1人息子。中学生の頃より毎朝車で(もちろん無免許)豆腐の配達をさせられる。しかも山道。秋名と呼ばれる峠を登ったり、下ったり。雨の日も風の日も。拓海の親父の名は文太。文太は豆腐を壊さないようにと、コップに水を一杯入れ、運転席に置き、こう言う。「豆腐を壊さない為に、コップの水をこぼさないように走れ」。そして拓海はどんなに速く走っても、水をこぼさないような運転技術を身につける。その拓海の乗る車は通称「86(ハチロク)」と呼ばれるスプリンター・トレノ。トヨタの小型FR(フロントエンジン・リア駆動)車だ。あることで、地元の走り屋(峠をいかに速く走るかを争っているやつら)と勝負することになった。峠をいかに速く走るかは、いかに速く曲がるか、ということでもある。トレノは非力で軽量だ。登りはパワーのある車に負けるが、下りはめちゃくちゃ速い。そして何よりも速く曲がる。拓海の圧勝。物語の始まりだ。次々と勝負に勝ち、「下りのスペシャリスト」として拓海は活躍する。そしてライバル高橋兄弟とチームを組んで遠征に出かけるようになる。そのチーム名を「 D プロジェクト」と呼ぶ。メカに弱く、一見ぼ〜っとした拓海が、高橋兄弟と組むことにより、走り屋として成長していく。その成長ぶりが面白い。車好き必読のコミック。 |
〓 | 大作家、大文豪(おおぶみごう)の初めて書いた大作が文章魔界道の魔王によって盗まれた。弟子のミユキは、魔界道に飛び込み、その作品を取り戻す為、番人や魔王と言葉の戦いを行う、というお話。読みどころは、魔界道での戦いにおける言葉のやりとり。これはなかなか凄い。凄すぎて、ちょっとしつこい。人類のストーリィ欲は夢体験システムによって満たされ、小説は将来なくなってしまうのだろうか?というのが大文豪(おおぶみごう)の作品のテーマになっている。そのタイトルは『小説とは何か』。 |
〓 | タイムトラベルが可能であるとし、「過去」へ行くとする。しかしながら私にとっては、これから起こる出来事であるので、未来のこととなる。これを「私の時間」と本書では呼んでいる。過去に行こうが、ずっと先の未来に行こうが、未来のことである。これから起こることはすべて未来のことだ。未来のこととしてなら、別に過去に行ったっていいではないか、という気分にさせる。一方向の絶対基準としての時間の流れがあったとしても、「私の時間」として、ちょいと止めてみたり、Uターンしてみたりしようではないか。主観的には自分が何かをしたり、自分自身に何かが起こってこそ時間の経過というものがあるのだ。では、「今」とはなにか。瞬間的に切り取られたものを想像すると、ただ固まった世界を思い浮かべるが、実はそうでもなさそうだ。振動であるところの音は聞こえるはずがないし、波長であるところの色は認識できない。それどころか光さえ届かない真っ暗闇だ。三次元の空間だけはあるのか?やはりある幅をもって「今」と言いたい。±1秒くらいは欲しいぞ。これもまあ主観的には、ではあるが。哲学は客観的であるべきだと思うが、多くの人が納得すれば、それを客観と呼ぶようなところがあるような気がする。 |
〓 | 全2巻なのに、1巻、2巻となっている。なんで上巻、下巻やないんかな。まあ、そんなことはどうでもいいが、本書はあの『西遊記』でおなじみの三蔵法師、本名:玄奘のお話。天竺へ経典を取りに行く話であるが、孫悟空や猪八戒、沙悟浄などは出てこない。まあ、彼等は架空の妖怪どもだが、玄奘(三蔵法師)は、実在の人物。しかし、かなり脚色されており?玄奘は暴れ者で、やたらと喧嘩が強い。学力もあるが、一本気でけっこう単純明快。取経の旅も兄、長捷の通訳として始まる。そして遊牧と略奪を生業とする突厥の王の子、ハザクとの厚き友情に支えられながらの旅となる。男同士の友情の描き方がホモっぽくなるのは、どちらも若く、ええ男に描かれている(コミックです)からか。ちょっと危ない場面もある。旅を続け、だんだんと成長していく玄奘は、素直で力強い考えとその態度で周りの人間を惹きつけていく。小賢しい考えは、限界がはやいと思わせる。どこまでが本当の話かはわからんが、読後感は非常によかった。ところで三蔵法師(トリ・ピカタ)とは経蔵、律蔵、論蔵に精通した者のことで、玄奘は唐に戻ってからそう呼ばれたので、旅の途中での玄奘を三蔵法師と呼ぶのは間違い、ということになる。 |
〓 | 鉄を削って49年の著者が語る、職場というもの。職人は5感で仕事をする。材料である鉄を触る、鉄を削ったキリコを見る、削っている時の音を聞く、そして、鉄を匂う。ほんでもって鉄を舐める。まあ、普通は舐めたりはしないが、突き詰めると、鉄の味がわかるそうである。違いのわかる人間は0.1%の違いを見分けることができる。材料の成分が0.1%違うとホルンの音色は変わり、ブランデーの味が変わる。そういう感覚は同じことをやっていれば身についてくるとは思う。それよりも大事なことは、「工夫をする事を知る」ということである、と思った。工夫をすることを知った者は、どんな仕事でもけっこう面白くできるんである。 |
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科学という名の悪魔に魂を売った男。人呼んで岸和田博士。この博士の発明は生半可ではない。 第1巻、第1話での人型兵器「山野田F−91」。パンツを履かせるのを忘れたが、履かせても間抜けだ。第2話での「ジャイアント火星将軍ロボ」。なんようわからん。第7話では、一番助手の安川君が行方不明になってしまったので、安川君を作ってしまった。その名も「安川2号」。第11話では、「安川3号」も登場する。そして一般人の山本さんの家の下に海底戦艦「脳天号」をつくり、山本さんちのペットを改造した、水中サイボーグ「ポチ2号」をつくった。 第2巻、第14話では、快楽の都、娯楽の殿堂「サイバーファッションヘルス」。これはなかなか凄い。というかこの装置に入ってみたい。第15話では、物体を電気分解して送信する装置を使って、自ら人体実験を行い、突如、FAXから現われたりする。第16話では「全身ハリ治療器」なるものがチラリと登場。これは痛そう。第17話『安川2号の反乱』、第18話の『安川2号の最後』はちょっと涙もの。 第3巻、第19話では、「カリフォルニア・ドリーミング現象」(皆をおおらかなアメリカ人のようにさせる)を巻き起こす、コーラのような飲み物を発明。第20話では、防衛庁の大塚長官のロボット、「新・大塚長官」をつくる。第21話では、アキレスと亀の競争を実演させる。なんとかアキレスが勝利。第24話では、なんと岸和田博士は爆発してしまう。死んだか?な、こたぁない。 |
〓 | 今回はあの奈津川家の人々の話ではない。しかし同じ西暁町のお話。主人公は坊主頭の西村友紀夫、15才。そして友達の番場潤二郎、通称ルンババ。このルンババは、14才のくせにかなりの名探偵で、次々と起こるユニークな殺人事件をユニークな思考で解決している。ルンババの姉、涼子は19才の時に家の屋根から飛び降りて自殺。ルンババは12才であった。それ以来ルンババは「ルンババ12(ツウェルブ)」と名乗る。そして、姉と同じように家に閉じ込められたルンババ。同じように屋根に登る。友紀夫はそこで考える。姉と同じ結果にしてはいけない、と。あいかわらずポップな語り口調ではあるが、青春の香りがプンプンする。王太郎自身が描いたイラストもなかなかイカス。ところで、ホッパーの絵は私も大好きです。 |
〓 | 耳に心地良いバイオリンの音。テレビを見るとキリリとした料理人の山中木葉(池脇千鶴)の顔が飛び込んできた。この日からNHKの朝の連続ドラマ『ほんまもん』を見るようになった。去年の10月から始まったのに、見始めたのが今年の1月末から。すでに2/3は放送が終わっていた。家族を捨ててまで料理人の道を行こうとする木葉。えらくカッコイイではないか。しかも、なんか健気。こういうのに弱いなあ。ってことで、すでに放送は終了したんであるが、今回通して読んでみた。放送を見てなかったところで、えらいドラマがあったんやなぁ、と思った。庵主さまの言葉もなかなかいい。そして、なんと言っても木葉のパワーに勇気づけられる。原作は西荻弓絵。あの『ケイゾク』のライター。ノベライズは百瀬しのぶ。話はわかったが、やっぱり見逃した前半部が見たい。ああ、再放送やらんかなぁ。 |
〓 | 前著『ザ・ゴール』では、1つの工場での本当の意味での効率化を目指したものであった。ポイントは「部分最適解ではなく全体の最適解を」ということだ。今回の『…2』では、工場の内部の問題ではなく、市場との問題解決の方法となる。簡単に言えば、どうやって他社よりも優位に立って、仕事をとってくるか、ということ。しかも、物理的に製品を変えることなしに、というオマケつき。ポイントは同じ製品でも市場が変われば、価値も変わる、ということ。製品自体を変えずに、納入方法とか、付帯サービスとかを変える訳だ。相手の都合に合わせて、いろいろ変えてやる。市場のセグメント化すること。相手も自分ではわかっていないところが多いので、こうやったらいいですよ、と提案してやるわけだ。そこにはいろんな問題が出てくるが、本質的なコアとなる問題は意外と少ない。そのコアを探り当てる方法をうまく説明している。別にビックリするような理論ではない。しかし、なるほどなぁ、と思う。なんか使えそう、という気にさせる。いや、使おう。そして、仕事をじゃんじゃんとってくるのだ。自分勝手、言い放題の「未来問題構造ツリー」には笑った。これも大事なことだ。 |
〓 | 純粋に日本の自動車メーカーと呼ばれるのも、トヨタとホンダだけになった。この本ではトヨタとホンダの規模あるいは社風による、それぞれの販売戦略、生産方式の違いを明かにしていく。面白かったのは、トヨタとホンダの違い、というよりも、日本とアメリカの市場特性の違い。<米国というのは価値観のわかりやすいところなんです。室内の大きさ、付属品、値段、メーカー(ブランド)に対する信頼感とかで、相当分かる。ところが日本の場合は、流行というか、スタイリングみたいな、クルマの本質的な価値とはちょっと違うところが、えらく大事になってくる>。ここんとこは、トヨタもホンダも同じ意見。これはアメリカが国土が広く、車をより必要とするから、という面もあるが、あらゆることについて言えると思う。要するに、文化の違い。わかりにくい日本、わかりやすいアメリカ。言い替えれば、必要なものなんてたいしてない日本、何かを必要とする(したい)アメリカ。 |
〓 | 表題作の『猛スピードで母は』と『サイドカーに犬』の2本立て。『猛スピードで母は』が第126回の芥川賞受賞作。慎が想像する母は、<PKの瞬間のゴールキーパー>だ。<慎がなにかの偶然や不運な事故で窓枠の手すりを滑り落ちてしまったとしても決して悔やむまいとはじめから決めているのだ>。初めから、あきらめているわけではないが、最後の最後でどうしょうもなくなったら、それはしょうがない、というような達観したところがあるのだ。圧倒的に不利なゴールキーパーは、得点される可能性は高い。小説全体にもそんなムードが漂っている。それがかえって、結果にこだわらず、せいいっぱい生きるのだという迫力を慎は感じたのだ。ある種の寂しさとともに。 |
〓 | やっぱり、刑事という仕事はぶたぶたの天職であると思う。なんてったって人間じゃないから、怪しまれない。逆に普通に生活しているところが一番怪しい。ぺしゃんこになれば、少々の狭いとこからでも侵入できる。誰かにグイグイと押し込んでもらわなきゃならんが。そして、コワ面の刑事でないので、心を開きやすい。人には言えんことでもヌイグルミにならなんでも言える、かも知れない。そして何よりも不死身なのである。汚れても洗濯して、乾燥機にかければ、新品同様。この『刑事ぶたぶた』、短編集のようで、短編集でない。誘拐事件が本筋であるが、桃子とおかあさんの親子の物語もなかなか良い。 |
〓 | 続いて第9巻。アホですねえ。こんなの声を大にしてお薦めできません。隠れてコソコソ読むのがおもしろい。第62話「日本防衛国軍のひみつ」もナカナカ。ミス・メロン、色っぽい。岸和田博士、渋い。このアホパワーは、なんとなく谷岡ヤスジ。 |
〓 | 上巻の最後でどえらい事件が起こって盛り上がる。下巻は、本書の主人公<噛みつき魔>ことダラハイトを語ることになる。不幸な幼少時代を経て、いかにして<竜>となっていったかというところだ。1人の中の<竜>とダラハイト。その葛藤。途中で登場する盲目の女性レバは、そのダラハイドの方をうまく引き出せたのであろうか? ここがちょっと疑問である。レバは盲目なので、時々手を叩いて建物に反響する音を聞き、自分の位置を確認する。なるほどなぁ、と思った。それと盲目の人をエスコートする時は、バランスを崩すので、上腕部は持たないほうがよいようです。ハンニバル・レクターは本書では象徴的にしか出てこない。上巻のほうで、すでに牢の中(↓)と言ったが、実は病院の中でしたm(_ _)m。 |
〓 | NHKの『漫画夜話』?とかいう番組で取り上げられていた。はちゃめちゃコミックで、いかにバカなことに真剣に取り組んでいるか、などという話題で盛り上がっていた。その話しぶりが、みんなえらく楽しそう〜、だったので早速本屋にGO!である。何とかジュンク堂で8、9巻をゲットした。で、この第8巻。期待通りおもろい。ほとんど笑いネタ。のっけの第48話『妖花ラ・マンゴンドラ〜愛人みだれ腰の巻〜』、いいですねえ。なんせ花は顔、根っこは女体のストレンジ・フラワー。これがけっこう好きもので。。。第50話『スーパーメット・ラブラブ大作戦の巻』の終わり方も素敵だ。久々におもろい漫画を読んだな〜って感じ。 |
〓 | 立て続けに起こった2件の家族殺人事件。この2つの事件の被害者には犯人の歯型がついていた。真相を暴こうとするのは異常犯罪捜査の専門家、グレアム。あの異常殺人犯のハンニバル・レクター博士はグレアムによってすでに捕えられている。レクター初登場なのに牢屋の中なのだ。今回の犯人について、レクターの意見を聞きに行くグレアム。かたや犯人はレクターと交信しようとする。上巻の3/4くらいまでは非常にゆっくり進み、ちょっと退屈だ。その後、殺人犯が動き出し、一気に盛り上がる。ここで調子に乗れるので、そこまでは我慢して読みましょう。 |
〓 | ぶたぶた、本格ミステリに登場!ってのは『女優志願』。刑事役だ。そういや『刑事ぶたぶた』ってのは、まるごと一冊刑事役ってことであろうな。やっと定職を見つけたのかもしれん。ぶたぶたに会う人は、驚きの後は気も許しやすくなるようで、何でもペラペラしゃべってしまう。こりゃ、天職ではないか。厨房の中で料理作っているより、世の為、人の為になる。やはり人間と違うヤツは凄い。ぶたぶたは妖怪なり。 |
〓 | ぶたぶたは本当にぬいぐるみであった。しゃべったり、もの食ったりして(牛乳飲んだりもする)、人間と非常に似ているが、ピンクのぬいぐるみなんである。目が点であるが、見る人の心によって、喜んでいたり、悲しんでいたりしているように見えてしまうのである(モナリザの微笑みのようだ)。バレーボールぐらいの大きさのピンクのぬいぐるみであるので、小さな怪我も、大きな怪我も、針と糸で直るんである(しかも自分で直す)。これからもぬいぐるみであることを忘れず、頑張って欲しいと思うんである。 |