〓 | 唐のみやこの長安を出て14年目。ついに天竺、インドにたどり着く。三蔵一行はなんとか5048巻の経典を手にいれることができた。すぐさま長安に経典を持って帰るも、すぐにインドの雷音寺に逆戻り。そして三蔵、孫悟空、猪八戒、沙悟浄は如来から仏号を授けられた。孫悟空の頭にはめられていた緊箍児の輪もなくなった。訳者の村上知行は<これがこの物語の結末であろう。よしんば原作者は、そうだ、とも思うまいが!>と締めくくる。原作はどうなんであろうか。訳者のあとがきによれば、<世界文学史上に滅多にない奇想天外のものがたり>と言いながら、<よほどの閑人が、よほど辛抱して読むのでもないかぎり、全篇を通読することはできないだろう>なんてことをおっしゃている。もっと省きたかった、とも言う。確かに悟空も三蔵の弟子になるまでの方がエキサイティングだ。猪八戒、沙悟浄が揃ってからの数々の妖怪退治は少々ダレる(悟空、コネ使い過ぎ)。その辺りの裏話や原作者の呉承恩の話も面白かった。 |
〓 | 『ホーキング、宇宙を語る』の続編。一般相対性理論からブレーン新世界まで詳しく語られている。CGによる図解も多く、ホーキング自身もできるだけわかりやすく語ろうとしていることがわかる。話題もタイムマシンや脳とコンピューター、そして人類の未来など興味をひくものが多い。異なる歴史を持つ宇宙や11次元などは当然のように語られている。それでいて人間原理の考え方も忘れてはいない。語りえないものを語るのは、哲学や文学だけではない。科学もまだまだ面白い、と思った。 |
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川上弘美の「うそばなし」集。<「踏まれたらおしまいですね」…「踏まれたので仕方ありません」>と蛇は言って、人間になった。そしてヒワ子(主人公)の母親だと言いはる。ということは、踏まれなかったら、そのまま蛇やったのか。そんなことはない。絶対に踏んで欲しかったに違いない。というか、自らヒワ子の足の下に潜りこんだんではないか。ヒワ子もヒワ子だ。「ヘビを踏んでしまいました」なんて、なんか知らんけど、ちょっとうれしそうな感じがする。(『蛇を踏む』芥川賞受賞作) 消えいく家族と縮んでいく家族。これと反対に増えていく家族と大きくなっていく家族やったら。詩的ではなくなる。。(『消える』) <「だって、曼陀羅、つまらないですよ」>。相手の苦労?を無視して、へらっと正直に言うところがいい。そんな命令口調で言われたら誰だって、か?(『惜夜記』) |
〓 | インドへの旅の最中、いろんな妖怪が登場し、三蔵を食おうとする。それらの妖怪に立ち向かう孫行者(孫悟空)は三蔵法師の弟子になる前は、「斉天大聖」と名乗り、天界で暴れまくっていた。猪八戒は、「天蓬元帥」と名乗り、天の川の管理を行っていた。沙悟浄は「捲簾大将」と名乗っていた。それぞれがブイブイ言わせていた訳だ。ということで、コイツらもかなりの実力の持ち主であるが、それに加えて、天界、地界、水界の神たちに顔がきくのが強い。特に孫行者は、その当時の暴れっぷりが凄く、あの時のアイツか!てな具合である。自分で太刀打ちできない時は、そのコネで応援を求める。なかなかのやり手だ。妖怪もコネを大切にしている。 |
〓 | 非常に心地良かった。じっくりと流れる時間。モノクロ映画を見ているようでもある。なつかしく、うれし悲しい。恋愛に大人も子供もないなあ、とも思った。袖すりあうも多生の縁。おおおこの身も駆けるよ駆ける〜。 |
〓 | 熱き男、プロゴルファー坂田信弘。トーナメントプロとしては、名が知られていなかったが、ゴルフ理論、指導の面では有名人である。「坂田塾」で無償のゴルフ指導を行うかたわら、漫画『風の大地』の原作者でもあり、現在雑誌等に多くの連載を持つ。京都大学中退で、あの森毅教授にゴルフを勧められ、生活の為プロゴルファーとなった。しかし、元来が作家志望であったらしい。本書でもその語りは熱く、読むものを引き込む力強さがある。<負けても下手にはなりません。が、弱くなっていく。その弱さを突き抜けてしまうと、下手なっていく。だからゴルフは強くならなければいけないのです>。この辺りの言い回しは感心する。タイトルの『6番アイアンの教え』というのは、使用できるクラブの中で丁度真ん中の長さのクラブであり、「坂田塾」の塾生には、これで徹底的に基本を教え込むそうだ。坂田信弘は最後に言う<年をとってくると分かります。単純に生きることがどれほど難しいことか。そして単純に生きるということがどれほど勇気を必要とすることか。そして単純に生きるということがどれほど力強いものか、ということが。…>。坂田信弘は天性の教育者であると思う。 |
〓 | ご存じ、西遊記の完訳版。訳は村上知行。以前にこの人の訳で『水滸伝』を読んだが、読みやすかった覚えがある。今回の『西遊記』も読みやすい。三蔵法師に付き従う、孫悟空、猪八戒、沙悟浄。それぞれが暴れもので、「邪を改め、正に帰す」ってことで、この順番に三蔵の弟子になっていく。主役やはり孫悟空。花果山で石の卵から産まれた。黄金に輝く目を持ち、猿の中の王となり、「美猴王」と名のる。そして、須菩堤老師について修行をし、「孫悟空」の名を与えられる。「孫」は猿の俗名からとったもので、「悟空」とは、<「空を悟る」つまり宇宙と人生の根本原理を悟る、という意味なのじゃ>ってことである。その後、孫悟空は自ら「斉天大聖」と名のり、暴れ巻くっていたが、如来によって五行山に閉じ込められる。三蔵法師の弟子になったのはその後のことである。ところで、猪八戒だけが、名前に「悟」という字が入っていない。これは、元は「猪悟能」という名前だったが、精進を破ることがないようにと、「八戒」という号を三蔵から与えられた。それにしてもこの猪八戒、元は「天の川」の管理人だったとは驚く。 |
〓 | 感謝知らずっていうか、おせっかいに一々感謝するのは疲れる。おまえの為やと言いながら、善意の押し売りをして、そんな自己満足野郎とは近づきたくない。アーチーというカメラマンは、ちょっとの世俗的な成功で、満足して失敗したいい例だ。基本はやはり、一匹オオカミってことかな。そういう意味で主人公のバレエダンサー、レヴィはいいヤツだ。 |
〓 | 義理の父グレッグに犯される美少年ジェルミ。そこから逃れようするジェルミは義理の父を殺す(やったかな?)。そしてジェルミの義理の兄イアンがからむ。イアンは、ジェルミを助けようとする心、愛する心、憎む心に翻弄される。激しく愛し、激しく憎しむ。仲が良すぎて嫌になる、というのはまあわからんでもない。しかし、心に振り回され過ぎ、激しく、しつこいので少々疲れる。それが思春期というものか。忘れた。最近受けた心理学の講習で言っていた、「心は道具なのだ」ということは覚えておきたい。 |
〓 | 物語とはいったいなんなんであろうか。小説あるいは、虚構の物語。嘘の話を読んでいったい何になるのか。では反対に、本当の事とはいったいなんなんであろう。自分の身の回りに起こった本当のこと。それは本当に本当のことなんであろうか。自分にとっては本当だけれども、他人から見たら本当ではないことだってある。それは、自分で作った本当の物語。自分の中での本当。あるいは、そうあって欲しい思う気持ちが作り出した嘘。意識的ではないにせよ、自分で本当と思っているものは、けっこう怪しいのだ。現実も虚構も実は、自分で作った物語とも言えるのだ。舞城王太郎の第2弾。前回の『煙か土か食い物』の続編とも言える。奈津川家の物語。そこには4人の兄弟がいた。一郎、二郎、三郎、四郎。前回はERに勤める四郎が主人公だったが、今回は三文ミステリ作家の三郎が主人公だ。荒唐無稽なところはあるが、なかなかええセンいってると思う。おもしろい。トマス・ハリスも読みたくなった。 |
〓 | <杳子は深い谷底に一人で座っていた>。濃密な小説。女子大生の杳子と大学生の私は山で出会う。山で動けなくなっていた杳子を助け、町へ戻る。その後、偶然杳子と出会い、デートを重ねる。杳子は精神的な病気で1つ1つ確かめるように行動する。折り紙をていねいに何度でも折り返しているような行動の描写。読んでいると何やら谷底に落ちたような気分になる。『妻隠』、これもまた濃密。アパートに住む若い夫婦。男は体調をくずして1週間ほど会社を休む。その間のアパート周辺の様子と、妻の様子を描く。アパートで2人で寝転がっているところなどは、濃密で匂いたつようだ。最初に倒れてもうろうとして、どこに寝ているのかわからなくなっている描写も細かい。どちらも通り過ぎる日常から離れた、身近で、鬱で、熱っぽい濃密な小説。『杳子』は芥川賞受賞作。 |
〓 | インターネットではなく、インターネット的。つまりインターネットを使う時の関係の在り方みたいなものを語る。ここで著者は、3つのキーワードをあげる。リンク(つながり)、シェア(共有できる)、フラット(無名性)。この新しい場でなにが起こるか。本当に自分でおもしろいと思うものしか選ばない。ってことは、おしつけではない、自分自身の価値観がみえやすくなってくる。自分がどうしたら幸せになるかがわかる、かもしれない。糸井さんもこの新しい場で、ワクワクしているようだ。みんな、インターネットでおおいに遊ぼうぜぃ!「消費のクリエイティブ」だ。 |
〓 | エコノミクスとはギリシャ語のオイコノミクス(共同体のあり方)からきたそうである。これでちょっと経済学の見方が変わった。ちょっと面白そうかな、と。タイトルに会議とあるが対談である。佐藤雅彦が質問して、竹中平蔵が答える。わかりやすい。この2人の対談でアメリカが見える。会社というものの見方も変わる。ケンカをふっかけることで、傍から見たら相手と対等に見えてしまうというのも面白い。ブレイクスルーすると、いろんな問題が一挙に解決する、というのも面白い。その面白さは、人間の思惑とか、気分、思い込みとかで決まる要素が多いからだ。当然、予測とかコントロールするのは難しい。経済ってのはギャンブルである。 |
〓 | 再読。世俗的成功は収めなかった孔子であるが、それがよかったのだ、と著者はいう。国外追放で放浪したことにより、常に理想を目指せた、と。まなじ社会的に成功してしまうと、自己研鑽を怠ることもある。社会的に敗北したからこそ、目的は世俗的な成功ではない、と再認識できる、とも言える。逆に、理想を目指すものは、自ら放浪の旅へと出ていくべきなのかもしれない。敗北の思想であっても、いや、敗北の思想であったからこそ、2000年の時を超えて生きているのだ。そう、孔子こそ、世界最古のバガボンドであったのだ。 |
〓 | 2000年11月に発行された本。森首相の頃で、石原氏は東京都知事だ。話題は、「日本の自立」について。両氏とも大筋の意見は同じだ。手段については、石原慎太郎のほうが過激。あくまで独自の戦略で、という石原氏に対して、自立はいいが、孤立してはダメという田原氏。自信を持ってガツンと行け、という石原氏の方がわかりやすく、価値観についても明確だ。<自立した人間とは何か。個性的ということです。人間の価値は個性しかない。個性はほうっておいてできるものではない。家庭や自分の所属する共同体、そして国家との関係で芽生えていくものです。…自立し、個性的で、相対感覚のある人で初めて、芸術家であれ経済人であれ、時代の「前衛」たり得る>。日本も世界の中での「前衛」を目指すということだ。最後はシドニー金メダルの高橋尚子を持ちだし(今日、ベルリンで世界新記録を樹立。凄い)、戦略をしっかりすれば日本は勝てる、とも言う。しかし、最終的に世界の中で日本が優位に立って、そのあとどうなのかは不明。前衛的であるのと、日本が勝つと言うのとは、少し違うような気もする。全体としては田原氏のほうが、もう少し調和的で、まっとうな意見であると思う。 |
〓 | <兄貴、死んでくれて本当に、本当にありがとう>。なんとも濃い関係であったことか。身も心もオンボロローだ。前作の自伝『翔べ!わが想いよ』では、あまり登場しなかった著者の兄が大活躍。というか、著者は兄にめちゃくちゃに振り回される。ニシンの網を買ったのを皮きりに、数々の事業に失敗し、弟である著者に金の無心に来る。しかし、家長であることにこだわりを持つ、見栄っ張りだ。うそつきの甘えんぼうのエエカッコしい。そしてしつこい。家族であるだけによけいに始末が悪い。愛と呼ぶには濃密過ぎる。バカな兄を他人には任せておけない。自分が生きている(見守れる)うちに死んでほしい。死んでくれてホッとした。心の底からそう思ったのだと思う。兄のニシン漁の失敗から出来た歌、「石狩晩歌」が心にしみる。 |
〓 | <クルマ選びの究極は買わないこと>と著者は言う。クルマに限らず、物が売れない理由の1つは、買いたいものがないからだ。著者が言う乗ってはいけないクルマは、ベースは同じで、見かけだけ流行を追ったもの。ワゴン車が流行れば、形だけワゴンにして、全体のバランスが崩れたもの。そういうメーカーのやっつけ仕事(共通部品化によるコストダウンともいう)色の強いものだ。そういうクルマは長く乗れない。バブルの頃ならまだしも、今の時代、気合いの入っていないものは売れない。市場調査に振り回され過ぎではないか。メーカーの人間が欲しくないものは、作るべからず。著者が若く(1966年生まれ)、いわゆる大御所ではなく(しがらみがない)、また走り屋っぽくない(スピード重視ではない)のもいい。 |
〓 | 看護婦で幽霊のガングロ娘。未来からやってきた変なヤツ。その名を「あじゃ」という。怪我をして109病室に入院した尚紀は、その「あじゃ」にあと30日の命と告げられる。死ぬ運命を変えたいと思うところであるが、最後は自ら進んでその運命に飛び込んでいく。これは、あじゃによって未来を見せられたことが、1要因ともなって、なんか複雑な心境になるが、それでよかったのかな、と思わせる。未来を知って絶望し、そのまた未来を知って運命を悟る。哀愁ただようホラー。テンポよく、読みやすくて、おもしろい。 |
〓 | いやあ、すでに持っていた。タイトルは『風俗のパトロジー』。出版社が変わって、タイトルが少し変わって、訳者あとがきが変わって、中味はいっしょ。で、再読。『優雅な生活論』、『歩きかたの研究』、『近代興奮剤考』に分かれる。『優雅な生活論』:キラキラした贅沢ではない、抑えるところを抑えたシンプルなものがいいという。そして、その維持費をしっかりとかける。これがけっこう高くつく。『歩きかたの研究』:けっして急いで歩かないこと。キレイな歩きかたをする人は、肋骨までキレイなのだ。『近代興奮剤考』:酒、コーヒー、タバコなどに言及。とりすぎは粘膜をやられ、命を縮める。子孫の為にならん。何故かバルザック自身が不摂生の権化のようなイメージがあったが、言ってることはまるで正反対なのだ。ISIZEでバルザック企画をやるので、詳しくはそちらで。 |
〓 | 馬の鞍をつくっていたエルメスが、今日のブランドたりえた理由はどこにあるか。馬の鞍入れ用ととして製作したサック・オータクロという鞄。クウジュ・セリエという鞍を縫う特別な技術を使う。鞄へのファスナーの採用。それが評判となり、旅行用鞄へと変わっていく。のちに「ケリーバック」と呼ばれるものだ。「カレ」と呼ばれるスカーフには、シルクスクリーンを採用した。こうした鞍作りから、次に売れるものをうまく製品化したこと。新旧の製作技術の応用。そしてなによりも、頑固一徹、品質第一主義だけでなく、販売という仕事を確立したことが大きいようだ。 |
〓 | もの心がつき始めた頃、歌謡曲は全盛であった。そして、ヒット曲の多くがなかにし礼・作詞いうものだった。本書はそのなかにし礼の自伝エッセイ。満州で生まれた著者は、敗戦の後、母、姉とともに、命からがら日本に戻る。その後立教大学に入るも退学し、シャンソン喫茶「ジロー」で働きながらシャンソンの訳詞をおこなうようになる。そして、石原裕次郎との出会いがきっかけとなり、歌謡曲の詞を書くようになり、大ブレイクする。その多さと質の高さは、まさに天職って感じだ。知らずに口ずさんでいた歌が、実はなかにし礼の作詞というのもたくさんある。なかにし礼の歌は私の体にも浸み込んでいることを改めて知った。あの歌詞の魅力は、シャンソンにあるのかも。 |
〓 | 高岡運動理論の実践篇。体のセンターの作り方を解説する。体のセンターのポイントはいつかあるが。そのひとつが膝の裏。よって、少し足が曲がった状態となる。センターを感じ、安定した立ち方をするコツは、ゆする、ゆれる、ゆるむの「ゆる」だ。法隆寺の五重の塔、薬師寺の三重の塔が、1000年以上ももっているのも、各パーツをゆるゆるに連結する柔構造であるからだ。達人はみなゆるんでいる? |
〓 | いや〜、よかった。こういうのがあるから読書は止められまへん。平易な文章で、いくぶんクサい芝居がかった台詞もあるけど、それがまたいい。愛とは恋とは友情とは、生きることは素晴しい、なんて普段言うのも恥ずかしいような言葉がここでは生きる。話は中巻からの続きで、ついに蝙蝠島に到着する。その島の支配者、蝙蝠公子との対決。ラストも見事で、忘れられない。楚留香はカッコイイし、金霊芝の一途さもいい。また、今回は華真真にうたれた。寡黙だが、芯のしっかりした、聡明な女性だ。強すぎて、色恋ざたに溺れないのが、玉に傷。というか、そういうところがまたよかったりする。そして、盗賊の元帥、『香帥』と呼ばれる主人公の楚留香は「こういう人物になりたい」1人となった。 |
〓 | 楚留香がはべらす3人の美女の正体がわかった。しかし、話の中で出てくるだけで、登場はしない。残念だ。中巻から話はガラリと変わる。楚留香の親友で酒飲みの無頼漢・胡鉄花と友人で腕利きの漁師である張三が活躍する。あることで舟に乗ることになるのだが、舟客はいわくありげなヤツらばかり。そこで次々と起こる殺人事件。今回は楚留香の推理が冴える。紅一点の男まさりのお嬢様・金霊芝もなかなかいい。めちゃ面白い。ああ、次の巻で終わるのがもったいない。 |
〓 | 義賊・楚留香は、<三人の美女をはべらせて、洋上の小船で優雅に暮らし、鮮やかな手口で不義の財産を盗み、サイン代わりに残り香を留めて去る>という。この上巻の解説を読んで、思わず買ってしまった。残念ながら上巻では、そのような話にはならないのであるが、面白い。死んだと思われた少女が、別の少女になって生まれ変わった。これを「借屍環魂」と言うらしい。この秘密を楚留香が暴くことになる。その秘密はなんと。。。人生万歳!?って感じかな。義賊・楚留香、なかなかイカスぜ。 |
〓 | 中途半端に強く、ズッコケがちな用心棒・丸木戸佐渡(マルキ・ド・サド?)がなかなかええ味でてると思う。その他、マリナーズの佐々木が魚屋役で登場したり、緒形拳もうどん屋の親父役で登場する。そう言えば、緒形拳も確かに大魔人に似ている。リバーシブルの帯にも驚いたが、カバーの裏の絵がすばらしい。どこかに貼っておきたくなる。大魔人は人々を幸せにする訳ではない。ただ悪を踏みつぶし、握りつぶすのだ。 |
〓 | この手の本はほとんど手に取ることはないんですが、なかなか味わい深かった。主人公ドリーは1人暮らしのOL。ちなみに羊です。週5日は会社で単調な事務仕事。そして土日はレンタルビデオ屋で恋愛映画を借りてきて観る。事件という事件は起こらない。淡々としていて、ひどく落ち込むこともない。友達も遊びに来るし、彼氏候補?の自分のことしか興味ないというつむじ君もいてる。気持ちが晴れない時によさそう。癒しいらずの楽天家に癒される。 |
〓 | タイトルの☆印がなかなかカワイイじゃありませんか。東京の高学歴でハイセンス?で将棋好きのヤクザ・桜井が田舎の町・那木良にのりこむ。那木良のヤクザ・室田組の若頭で、お調子者のハチャメチャな性格の迅は桜井にあこがれ、そのハイセンスさを盗もうとする。例によって出だしはごく普通だが、徐々におかしな具合になってくる。今回の一番おかしなヤツは、パソコン内の奇妙な生き物・シャンバラヤンに心を奪われた、うどん屋の息子・チューやんである。父親と揃って反復横飛びをする姿は不気味だ。ハイール・シャンバラヤン! |
〓 | 著者はイスラエルの物理学者。自ら開発した生産管理ソフトをよく知ってもらう為に本書を書いたらしい。企業の目標は、お金を儲けること。そして今後も儲け続けること。本書では、主人公の恩師ジョナが著者の理論(制約条件の理論)を説明し、主人公アレックスが実践(工場の立て直し)を行い、大成功を収める。そして、これを読んだ人は、著者の理論のとりことなる?というわけだ。ボトルネックと呼ぶ工程の一番弱いところを改善しつつ、その能力を100%発揮させ、他のところはそれに合わせていく、というのがその理論のようだ。小説としてもけっこう盛り上がっていって、なかなか面白かった。しかし、こういった成功物語というのは、何故かアメリカ的だ。 |
〓 | 愉快、愉快。一気に読んでしまった。走り屋の無謀な運転によって引き起こされた事故で妻を失った元レーサーが走り屋となって復讐を誓う。復讐も自分で思い立った訳ではなく、これまた同じ事故で孫を殺された怪しげな老人の依頼によるもの。これだけだとけっこうハードボイルドっぽいが、戸梶圭太にかかるとそうはいかん。後半は笑いとエロとグロのみだれうち。けっこう楽しめた。本文中に出てくる車の解説写真、映画のポスターやCDジャケットの写真、走り屋が集まる大黒PAの風景写真などのっている。臨場感があり、なかなかいいと思う。小説の中の手紙も誰が書いたんか知らんが、写真でのせてあった。これは笑える。 |
〓 | 短編集になっている。全編に出てくる「常野」の人々。それぞれ常人にはない能力を持つ。『大きな引き出し』、これはいい。なんでもどんどん記憶できる。『二つの茶碗』、未来を見通す力、これは運命がわかってしまって面白くないかも。『達磨山への道』、これも未来がわかるってやつ。『オセロ・ゲーム』、「裏返される」ってなんじゃ?ちょっと気味悪い。『手紙』、登場回数の多い謎のツル先生話。『光の帝国』、ツル先生とちょっと変わった子供たち。『歴史の時間』、飛べるか?『草取り』、体に草を生やさないように生きよう。どうやって?『黒い塔』、時間を戻すのはなあ、ちょっと。『国道を降りて…』、歩きながらチェロを弾く男はいい。それぞれが、人間以上。 |
〓 | 現代に甦るヤマトタケル伝説。神話の本当の姿はなんであったのか?【馬の首】暗黒星雲が引き起こしたものであったのか?古代神話を現代に再現させようとする武内宿禰は、タイムカプセルで1600年以上の時を超えて登場する。現代のヤマトタケル、武は56億7千万年後の地球に現われたのか。最初にでてくる手のもげたタケミナカタの怪物に驚かされ、タイムカプセルで蘇りそこなた弟橘姫にぞっとした。出雲神話から太陽の終わりまで、壮大な物語である。ところで、馬はという生き物は昔から世界中で神聖視されていたらしい。ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァ旅行記』で理想の国としたのも「馬の国」であったことを思い出した。 |
〓 | あの500万枚売れたという大ヒット曲『およげ!たいやきくん』のB面『いっぽんでもニンジン』を歌っているのがなぎら健壱である。と言うことでついでに有名になっている?人であるが、なんとなくすっとぼけたところが私は好きだ。そんななぎら健壱の書いた、フォークの歴史。高石ともやから本人、なぎら健壱まで16人を評する。よく知っているところでは、吉田拓郎、RCサクセション、泉谷しげる、もんたよしのり、井上陽水などが出てくる。なぎら健壱自身がフォークシンガーであり、彼等とのかかわりも深く、細かいエピソードが面白い。私の知らない人も登場するが、生き生きとした話ぶりに引き込まれてしまう。なんか奇人、変人の集まりのようだ。面白おかしい中にも、第3者の目でキッチリ見ているところはなかなか凄いと思う。 |
〓 | 恩田陸の長編第二弾。東北地方の谷津という街が舞台となる。ここでもまた、高校生が活躍するが、学校内だけの話ではない。谷津という特殊な街が持っている非日常性、川の向こうの世界に行く人間と行かない人間。川の向こうに行けば、生物的に進化するとか言う辺りはちょっと良くわからんが。退屈な日常から逃避できる所、日常を笑って過ごす為の狂気の捨て所としての場所が必要なのだろう。無機質の明る過ぎる街並みはかえって不気味だ。 |
〓 | なかなか面白かった。学校ならではの物語。会社でもダメだし、大学でもダメだ。学校。みんな一応同じ年で、クラスがあって、担任の先生なんかがいて。そしていずれ、みんな卒業していく世界。一定期間隔離された独特の世界である。そういうシチュエーションの中で伝説めいた物語が生まれる。3年に一度、サヨコと呼ばれる生徒が何者かによって選ばれる。そしてそれはみんなに知られてはならないのだ。サヨコ伝説のことは、実はなんとなくみんなが知っているが実態は隠されたままだ。首謀者は誰なのか?そこがポイントでもある。学校に通っていた時代には戻りたくはないと思っていたが、この小説読むと、なかなか楽しかったのかなあ、とも思う。 |
〓 | なんと言っても、ラストがショッキング。こんな小説が好きだとはなかなか他人には言いにくい。だんだん小さくなっていった殺し屋、カール・ビゲロウ。最後に残ったものはなんなんだろうか?安心して読ませてくれない作家、ジム・トンプソン。『内なる殺人者』も復刻されているので、楽しみ。 |
〓 | 『トニオ・グレーゲル』、芸術家と普通の生活者の狭間にいるトニオ。『ヴェニスに死す』、「頑張ること」がモットーであったアシェンバッハ。年老いて美少年にひかれていく。どちらの主人公も一途なのであるが、「芸術家はかくあらねばならぬ」というように、自分で自分をしばり過ぎているような気がする。 |
〓 | 『コンセント』、『アンテナ』に続く3部作の最後『モザイク』だ。最近話題のニュースをうまく取り込みながら書いており、いかにも現代の問題をさぐっているようでもある。しかし、ほとんどがうなずけるようなもので、現代特有の問題をえぐり出しているのではなく、実はけっこう古典的な内容であるような気がする。多方面からの、気のきいた言い回しや、知識を披露しているような点も気になる。ちょっと詰め込み過ぎかな。読んでいて違和感がなく、まあまあ面白いのであるが、心に残るような気がしない。 |
〓 | 面白い。著者の人生哲学なるものが、ストレートに出ていると思う。<小市民的幸福、家庭への幸福といった名の反幸福的停滞へ、覚醒の一石を投じることは「一般的理性」の判断の結果ではなく、劇的な想像力、諸関係へのあくなき好奇心であるというのが私の論拠である>。芸術家的見方?寺山修司は47歳で死んだ。その年齢に近づきつつある。 |
〓 | 著者が23歳のときにはじめて25歳で終了させた連載エッセイをまとめたもの、だそうだ。1992年から1994年のこと。ソウルへ韓国語の勉強に行った話や、ロサンゼルスへ行った話などが、日記風になっている。酒好き、麻雀好きで、バカ話も多いが、女1人暮らしで、なんか頑張ってるなーって感じ。こっちも元気が湧いてくる。愛車キョーカ君に乗って、今日も行くぞ!?(ちっとは洗車せえよ)。 |
〓 | 著者の語るポルシェの素晴しさもいいが、やはりポルシェの歴史が面白い。ポルシェをつくった人は、オーストリア生まれのフェルディナンド・ポルシェである。ベンツの初代技術部長であり、フォルクス・ワーゲンのVWビートルを設計したのは彼だ。このVWビートルは、ヒトラーによる小型国民車構想にポルシェ博士がのったものである。1950年から1960年前半に生産されたポルシェ356。そしてその後継というべきポルシェ911。ほとんど外観が変わっていないのに古くささを感じさせないデザインは素敵だ。ポルシェと言えばあの形とすぐイメージできる。いいものを長く使う。日本のメーカーもそうならんもんか? |
〓 | <舞踊は生産的な労働の身ぶりの、芸術的昇華の所産であった>。農耕民族であった日本人は2拍子、4拍子(あるいは無拍子)であり、騎馬民族は3拍子のリズムで生産を行う。日本人の生産とは、ナンバと言われる動きで田を耕すことであり、大陸の騎馬民族の生産とは、馬にのって略奪することである。日本人のは摺り足の「舞い」で、騎馬民族のはジャンプを伴う「踊り」である。日本の地においても、「踊り」は存在したが、それは輸入されたものであった。その歴史的考察が本書である。その内容も濃く、多岐にわたるが、先ず口絵の写真から驚かされる。スリラーを踊る川口秀子と尾上菊五郎。解説によれば<川口秀子がマイケル・ジャクソンのいきな踊に感銘。またスリラーに日本の禅の精神に通うものを感じ創作した作品>。「マイケル・ジャクソンのいきな踊」というのが趣き深い。「天の岩戸の舞」は実は「踊り」であり、かつストリップであったとか、はたまた言葉の問題にもおよび、女陰の呼称を地域別に説明した「おめこ地図」などもある。まさに狂気乱舞の書。 |
〓 | 著者は一撃必倒への練習方法を3段階に分けて説明する。その1、鋭く正確な一本の攻撃技を磨くこと。その2、相手の攻撃に対し、第一段階で養成した技でカウンターをとることに専念する(先の先のタイミングで)こと。その3、先の先のカウンター攻撃をねらう自らの姿を仮想して、それに対し懸の先の攻撃を成功させるための研究工夫をすること。ポイントとなるのが、自然体をとりもどすこと。この自然体の状態というのは、<「理性から感性、そして理性…」への必要に応じて心のスイッチを切り換える技術>であると言う。理性だけではただの人。<感性の有する認識力の広さ(大局観)と正確な情報の質及び量は理性による想像をはるかに越えている>と著者は言う。うまくいかないのを、決して精神面での不足と考えてはならないのだ。 |
〓 | 前回読んだ『スーパースターその極意のメカニズム』と違い、今回のものは、格闘技の達人たちの身体意識を探る。フランシスコ・フィリオ、マイク・タイソン、ピーター・アーツ、アンディ・フグ、藤原敏男、山下泰裕、アントン・ヘーシンク、アレルサンドル・カレリン、船木誠勝、桜庭和志、ヒクソン・グレーシー、ブルース・リー、そしてアントニオ猪木。驚いたのは、ブルース・リーの中丹田。人類史上これを上回るのは、なんとアレキサンダー大王ぐらいだそうだ。中丹田というのは<たぎるような闘志や勝利への熱い情熱、人を熱狂させる魅力などを生み出す>、らしい。逆にこの中丹田の強烈さが下丹田の形成を阻害しているそうだ。アントニオ猪木もここが発達している。著者は彼等の身体意識(ディレクト・システム)をチェックする時は、どうもビデオを見ているようだ。次は、身体意識を高めるトレーニングとやらを読んでみたい。 |
〓 | ある世界では、常識になっていることも、その世界に属さない人から見れば、奇妙なことが多い。また、普段見慣れているものでも、冷静に考えると、おかしいものがある。宮沢章夫の視点から見たおかしなこと、驚くべきことが沢山詰まっている。ツボにはまるとキク〜っという感じ。個人的に好きなのは、『なくともやはり払いたまえ』、『おそるべし修理の人』、『カーディガンを着る悪党はいない』など。『犬を見る人生』『スポーツは名前である』というのは、なかなか奥深いものがある。著者の名前を見て、けっこう年寄りかなと思った(宮沢喜一の顔が思い浮かんだ)が、そうでもなかった。1956年静岡生まれ。 |
〓 | 何の当てもないのに会社を止めた男が、尼崎の「温度のない町」、流人たちの掃寄せ場と呼ばれるところで生活をした思い出を語る。牛や豚の臓物を切り刻み、鳥の肉を腑分けして串刺しにする毎日。そこのアパートでの、怪しげなヤツらの中にアヤ子という女性がいた。「いっしょに逃げて」とせまられる。そして「赤目の瀧」へだ。主人公の男は中途半端なあかんたれである。ずるずると周りに流されるタイプだ。自ら動くことはあまりない。しいて言えば、会社を止めたことぐらいか。生きる意味などない、ということに囚われた消極的人生である。しかし、その気持ちもわからんではない。アパートでの生活ぶりは読んでいて面白い。 |
〓 | <人間死んだらどうせ煙か土か食い物なんや。…燃やされて灰になるか、埋葬されて土になるか、下手したら動物に食われるんや>と言うのが四郎のおばあちゃん龍子の口ぐせだった。奈津川一郎、二郎、三郎、四郎の4兄弟。父丸雄は政治家。丸雄は二郎を虐待し、二郎は悪魔のように暴力をふるう男になった。町田康の書く探偵小説かな?と思ったら、そうではなかった。探偵小説の形をとっているが、それを超えたパワーがある。過剰な暴力とともにある家族愛。ふざけた文体とともにある強烈な生存欲。ラストの四郎の活躍は今までの小説では読んだことがなく、素敵だ。そこには暴力を超えたフォースがある。第19回メフィスト賞受賞作。 |
〓 | 読書礼賛。人生のすべては読書をしているか、していないかで決まる、てな感じの読書のすすめ本。平易な文章で、ストレートに熱く語っているので気持ちは良い。しかし、あまりにも読書する人=立派な人、読書しない人=ダメな人、みたいな感じである。もっとも例に出している本が、けっこう社会で成功する本みたいなのが多いので、読書=お勉強的になっている。よく見るとザブタイトルが、<成功する本の読み方>となっている。なるほど。実はもっと読書の楽しみはコソコソとしか読めない本にあったりするんやと思う。たまたまやけど総合法令というところから出ている本が続いた。 |
〓 | 独自の運動理論「ディレクト・システム(DS)」をもって、スポーツ界のスーパースターと呼ばれる人たちの個性を語る。このディレクト・システムというのは、著者の言葉によれば、「身体意識の構造と機能総体」。まあ、回転運動する時に言う「軸がある」とかいうやつだ。一番最初に解説している高橋尚子のは凄い。中心軸はしっかりしていて、中丹田が発達している。周りの応援も自身のエネルギーの替えてしまう、という。また逆に、中丹田のない長島茂雄は、本当の人間のやさしさはない、らしい。彼の影響力は大きく、今の日本の社会をつくった戦犯?のような評価だ。著者のいう人間の目指すところとは、<優れたセンターが通り、上中下の三丹田が揃う>であると言う。解説の中で一番凄いのが、陸上のマリオン・ジョーンズ。この人のディレクト・システムは、スポーツ選手を超えて、マザー・テレサの次元であると言う。著者の描くディレクト・システムの線画は、どうして描けるのかよくわかないが、非常に興味深いものである。本書では多くは語られていないが、筋肉に頼らず、身体意識により運動能力を高める独自のトレーニング方法もあるようである。 |
〓 | ダイエットをテーマにした本で、主人公は拒食症に陥り、そこから立ち直る。痩せようと思ったきっかけについて、<自分を変えたいと思ったんです。今の私は本当の私じゃない>と主人公は言う。それに対して、野菜ジュースで健康を維持する方法について研究している老人は言う、<本当のあなたはいない、と思います。…あなたが言う本当のあなたになれたとしてもそれは一瞬にすぎない。次の瞬間には、あなたはもう本当のあなたではなくなっている>。逆に言えば、今の姿が本当のあなたである、ということ。結果、主人公は自分探しを止め、今の生きている自分に満足する。まあ、この主人公も拒食症で、死ぬような目にあったからこそ、生きたいという欲望が湧いてきたのだろう。人間は、ジタバタしなければ「青い鳥」は見つけられない、ということか? |
〓 | 画家であり、チェリストであり、作家でもある山口椿の小説。西洋を舞台にした短編形式のエロ小説。快楽に対する抵抗はなく、あまりに堂々としているので、エロと言うよりは、ポルノという言葉のほうがピッタリとくる。全体に淡さとグロテスクさが入り交じった表現で、匂いを感じる小説だ。 |
〓 | 昭和初期の東北地方の呉服屋。そこの6人の息子と娘。長男清吉、長女るい、次男章次、次女れん、三女ゆう、三男羊吉。その中の長女るいと三女ゆうはアルビノであった。物語は三男羊吉が生まれるところから始まる。羊吉が誕生した時、白い子でないかどうか、みなの心が揺れる。そして成長するにつれ、かばう者、かばわれる者の心の負担が大きくなる。才気溢れた次女れんは海に身をなげ自殺、まとめ役であったが心身の弱い長男清吉は失踪、そして長女るいも睡眠薬を多量に飲んで自殺する。東北地方の雪景色と寒さの相乗効果で、ズンとこたえる話だ。自殺が悪いとも思えない。それぞれが自らきびしい選択をしたのだ。そこには涙もない。暗さもなく、心にしみる長編であった。 |
〓 | 仕事が忙しく、家をほったらかしにしていたら、いつのまにか妻が床下に住む男と仲良くやっていた。バカヤローだ。その床に住む男は稼いでくる訳でもなく、ただ掃除をしたり、飯作ったり、子供のめんどうを見たり、他人の女房の機嫌をとってるだけやんけ。家を顧みない会社人間に対する仕打ちか?バカにするな。そして、家を追いだされた会社人間は、逆に他の家の床に住むようになった。この終わり方は納得いかんぞ。確かに会社にすべてを捧げるこたぁないが。もうちょっと物作らんと、仕事の時間を減らしてもええとは思うんやが。表題作の他、『てんぷら社員』、『戦争管理組合』、『派遣社長』、『シューシャイン・ギャング』。『派遣社長』の中のデザイナーが出かけていって、30分以内にデザインする「デリバリー・デザイニング」はなかなかいいアイデアと思う。 |
〓 | いや不思議な終わり方ですね。スピード感があり、それは小説の終わりでゆるむことはなく、そのまま突き抜けたような感じがする。ま、一応ある目的は果たせたって感じではあるが。導入部から一風変わった始まり方で、人の入り乱れ方は凄い。そしてそれぞれの人間の個性が強烈で、誰が主役なのかもはっきりしない。大手複合企業の専務、公安警察官、女装趣味の警部補、前衛芸術家、ヤクザ、そして元活動家等々。話も、複数の人物の視点から描かれながら進むので、同じ場面を3度くらい読まされたりする。人物の立つ位置の違いなどにより、非常に立体感のある小説になっている。現在映画のCMがガンガン流れているが、そっちも観てみたい。 |
〓 | わざわざ買わんでもよかったかなあ、って気もする。有名サイト『Webやぎの目』の人気投稿コーナーを本にしたものなので、そこに行けば読める。ここ。低レベルな臨死体験集。やっぱりと言うか、おもらしネタが多い。死ぬかと思った、と言うよりも、死ぬほど恥ずかしかったってヤツ。おもらしネタ、下ネタの他には、ホッチキスを体にパチリとなんとなくやったヤツ。ボールペンのインクをストローのように吸ったヤツ等々。一番わけわからんのが、つちふまずにから2〜3cmの突起がでて、死ぬほど痛かったが、1分ほどでなくなったと言うヤツ。なんじゃ、その突起って。。。まあ「死ぬかと思った」時は案外「死なんもんやなあ」と思った。 |
〓 | 危険な思想家たらんとする呉智英さん。本書では、現代社会における人権主義・民主主義のあり方にメスを入れる。人権主義も民主主義も単なるイデオロギーに過ぎない、と言う。決して人間の心のうちから出てくるようなものではない。標語は、<差別もある明るい社会>。漫画の評論も良いが、呉さんにはやはりこういったものを書いてほしい。久々に切れ味の良さを満喫できた。丸山真男『日本政治思想史研究』、宮本常一ほか監修『日本残酷物語』(平凡社ライブラリー)もいつか読んでみたい。 |
〓 | <…でもこの国の、普通のごく平凡な人たちがどれだけ理不尽な社会に対する怒りや憎しみを長年溜め込んできたかた考えると…爆発が国そのものを吹き飛ばしてしまってもおかしくはないと俺は思うね>。赤い雨が降る時、人々の心の奥のそのマグマは爆発した。この小説の始まりは、泣き寝入りすると思っていたヤツが、意外にも強気にうって出て、非常に小気味いい感じである。しかし、そのうち団体で個人を攻撃するようになり、内容もエスカレートする。その辺りのおぞましさはこの小説のならではのもの。同著者の『レイミ』をそうであったが、非常におぞましくはあるが、激しく、スピード感があって面白い。 |
〓 | かなり面白かった。カンボジアに行ったイザワケイゴ。友人譲原の金を騙しとったネパール人、ダマスを見つけた。そして彼をつかまえようとするが、誘拐犯に仕立て上げられ、投獄される。金でどうにでもなるカンボジア。警察官も裁判官も金で動く。金の為、生きていく為なら、殺人も平気だ。カンボジア人は言う。「カンボジア人には気をつけろ」と。本来豊かな土壌を有し、おだやかな人種であったカンボジア人をそのような状態にしたのは、その歴史、ポルポトによる同人種への大虐殺があった。そしてその裏で糸を引く強欲な毛沢東。カンボジアの歴史を知る上でもおもしろく、読み応えがある。牢の中のさまざまな奴ら。ポンの拷問は、人間と言うよりは、生物が死に面した時のおびえだ。その必死さが伝わってくる。生物であるから生きる。そして果てしない騙し合い。主人公イザワケイゴがどのようにして牢を出たかは読みどころ。 |
〓 | 「ラッセル」というのは、ラッセル車のように深い雪をかき分けて進むことらしい。ちなみにラッセル車のラッセルは人の名前から取ったらしい。「ビバーグ」っちゅうのは、露営することらしい。やたらとこの2つの言葉が出てくる。主人公は以前に雪の中、途中でビバーグしたので友を失った、という思いが消えず、今回はラッセルしながら進むのであった。単純明快な冒険物語。主人公も体育会系思考で突き進む。シンプルな思考でないと、こういう自然(雪山)には立ち向かうことはできんやろな。ヒーローは死なんから、頑張れるのだ。 |
〓 | へへへ、読んだ、読んだ。満足、満足。愛に生きたアンナ。そしてトルストイの分身と言われている(解説による)、非常に真面目なリョーヴィン。その妻で、本当にかわいらしいキチイ。上巻で気になり、中巻で登場しなかったワーレンカもこの下巻では再登場する。しかし、この無私で献身的な人物は、下巻では思ったほどの活躍はなかった。欲を言えば、もう少し活躍してほしかったが、トルストイも男やし、その役割(形而上学的考えと形而下的?考えの融和)は第2の主人公(いや、第1と言うべきか?とりあえずアンナを第1とした場合)のリョーヴィンが引き受けたって感じもする。リョーヴィンは、非常に哲学的思考をするが、頭でっかちの考えにならないのが良い。地に足がついてるって感じ。理想的な人物であるな。 |