〓 | <孔子は孤児であった。父母の名も知れず、母はおそらく巫女であろう>と白川静は言う。そしてその一生の最も働きざかりの時を亡命と漂泊で過ごし、孔子自ら<東西南北の人>と言った。当時の社会においては反体制であった孔子も、彼に先立つ周王朝を理想としていた。思想家は昔を想う、ということらしい。白川静は孔子の思想を、ノモス的社会に対するものとしている。このノモス的社会というのは、集団の為のものであり、管理者の為の集団の規則がある。孔子は「個としてどう生きるか」に重点をおき、「仁」を説いた。著者はまた、その反ノモス的思想の継承者として荘子をあげている。『荘子』の文章に関しては、<思想的文章としてほとんど空前にして絶後である。その文は、稷下諸学士の精緻な理論を駆使し、奔放にして博大を極めた修辞を以て、超越者の自在な精神的世界を表現した>と凄いほめようである。そして、そのどちらも社会的成功者にはなることのない、敗北の思想という言い方をする。社会の為ではなく、個の為に生きる思想だ。個と社会というのは、どちか一方をとれば、どちらかが得られないものなのか、あるいは、テキトーにバランスをとるしかないのか。孔子が理想とした周王朝の社会は、どんなもんであったのかは非常に興味がある。それもただ、昔のことは良く思えるだけかもしれんが。 |
〓 | 前作『コンセント』では、セックスで人類を救う、てな感じであったが、今回は、他人を救うなんてことはできない。やはり自分自身で解決しなければいけないものだ、と変わってきたようだ。お話は妹の失踪から始まる。そして家族はそのことにどう折り合いをつけていくか。宗教に走る母親、妹の代わりになろうとする弟。そして主人公はSM研究。それぞれが妄想の世界で生きるようになる。そこからの脱出は、自分自身で決着をつけた時(死者を死者として受け入れた時)、初めて可能になる。死者の魂などはない。それは生きる者の中にだけある。もっと言えば、狂気の中にいる人間を救うというだけではない。どんな人間でも自分に都合がいいように妄想の中で生きている、と言うこともできる。本書を読むと、人類は生殖する為に生まれてきた、と考えるほうがいっそ清々しい気分にもなる。次作『モザイク』では、もうちょっと精神と肉体のバランスが強調されるのかな。<人類が百億を越えた時に、人類の質的変容を遂げるのかも…>という辺りをもっとつっこんでほしい。 |
〓 | 期待通り面白かった。主人公ケイ・スカーペッタは離婚歴ありの40才で、バリバリの検屍官ではあるが、スーパーウーマンではない。実際にいてそうな人物で、ケイの姪、ルーシーとの関係など、仕事以外の生活描写もあり、その辺りが共感を呼ぶんやろうな。脇役もなかなか個性的で、ケイにとっては嫌な男であるが、有能な部長刑事のピート・マリーノはなかなかいい。 |
〓 | アントニオ猪木らとともに新日本プロレスを設立し、タッグでは、星野勘太郎とともにヤマハ・ブラザースとして活躍した山本小鉄。引退してからは、新日本プロレスの鬼コーチとして若手を鍛えていった。練習があまりに厳しいので、いまや組長と呼ばれる藤原喜明なども、<それはもう。いつか殺してやろうと思ってましたからね>と言う。笑ったのが、猪木についての前田日明の発言。<いつも後出しジャンケンなんですよ。「猪木さん、僕はグーですから、パー出したら勝ちますよ」「本当にグー出すんだろうな」「間違いないですよグー出しますよ」って言っても、それでも後出しですからね>。う〜ん、流石猪木。その他カール・ゴッチとヒクソン・グレーシーがもし対決したらなど、格闘技好きにはたまらん内容が多い。プロレスラーは、強いのがあたりまえという山本小鉄。プロレスを愛しているのがよくわかる。 |
〓 | 以前に出した『作家の値うち』に対しての質問、またやその書についての対談などが載せられている。何故『作家の値うち』を著したか、また、点数をつけたことは邪道であるとは思っているが、何故そうしたか、などが語られる。特に純文学系にはきびしい。エンタメであれば、それが商品として成り立つかという競争があり、切磋琢磨しているが、純文学にはそれがなく、つまらんものでも大作家の名前だけで大きな宣伝して売られものがある、と言う。村上春樹がいいという理由の1つに、<外国語とちゃんとわたりあっている。…文学の中でアメリカにちゃんと対峙した>ことをあげている。『作家の値うち』は、彼なりの価値基準があり、ブックガイドとして得難く、読者としてはありがたい。しかし、彼のようなある基準を持った書評を読むと、まあこうやって、web上に感想のようなものを書く時には、ちんたらと、ええかげんなことは書けんなあ、という思いが(少〜し)するやおまへんか。 |
〓 | 再読。ヘルシンンキでの「国際言語学会」に出席しようと飛行機に乗り込んだ言語学者のブダイ。着いた所はとんでもない国?であった。とにかく人が多く、その群集に流れにのみこまれたまま到着したホテルで、まったく言葉が通じないことが判る。なんとかして言葉のわかる人と連絡をとりたい。そして一刻も早くここを脱出したい。物語の始まりである。いろんな標識や、レストランのメニュー、お札などを見て、書いてある文字の意味を探り出そうとする辺りは、さすが言語学者って感じである。しかし、預けたパスポートも返してもらえず、やがて持ち金はなくなり、ホテルも追い出され、日雇人夫にまじって働いたり、最後には乞食のような姿になってしまう。。。まさに不条理の世界。この状況をいかに切り抜けるか、まるごと一冊、その戦いが続く。その中で心暖まるのが、ホテルのエレベーターガールの女性、エペペとの交流。このエペペという名前も実際には、エペペなのかどうかはわからない。しゃべっている言葉が「エペペ」というように聞こえるのだ。コミュニケーション不可能な世界、正気を保つのでさえ大変だ。 |
〓 | 再読。昔の武術、名人・達人の技が言葉で伝わりにくので、精神性を重んじるようになり、観念的になり過ぎでしまったこと。武「道」になってしまい、人格形成が第1となったこと。スポーツ化され、危険な技の練習はしなくなり、根性論になったことなど、「身」を忘れて「心」が重視され過ぎたことへの警告が本書のテーマである。その他、甲野氏の発見した「井桁崩しの術理」の紹介もいいが、いろいろなエピソードも面白い。畳の大きさは、あの織田信長が決めたらしい。平時には敷いておいて、いざという時には持ち上げて盾にするんだそうだ。 |
〓 | ストーリー自体はなんてことなとないが、1つ1つその時の気持ちを表わす態度やら言葉やらが、さもありなん、て感じだ。リョービンとキチイは誤解が解けて結婚するのであるが、その互いに好きあっている時の様子なんぞは、読んでるほうが照れ臭くなるぐらいだ。2人だけにしかわからない、頭文字だけの会話なんかがそうだ。おい、おい、何しとんねん、と思わずツッコミをいれたくなる。アンナは世間体を気にする夫、カレーニンの元を去り、ボロンスキーと旅にでる。ボロンスキーとの間にも子供ができるが、カレーニンとの子のことも忘れられず、会いにいったりする。そして、いつのまにやらボロンスキーとの関係も怪しくなっていく。ところで、上巻で気になったワーレンカが、中巻では出てこない。どこ行ったんや? |
〓 | なんかようわからんタイトルですが、中味もかなり挑戦的で、ようわかりません。12の短編からなるのですが、こういうのがわかるのは、実際に小説を書いている人たちではないか、と思う。ヘタうまと言うか、ピカソの絵的というか。同じ作家であれば、こんな文章は書けん、なんて感心するかもしれん。創作側の立場に立たんと、この本の価値はわからんやろな。できるだけ、話の展開を予測不可能にし、意味があるような、ないような、ということを目指しているような気もする。以前に読んだ、ハロルド・ジェフィの『ストレート・レザー』もその種の部類に入る。かなり実験的小説。話しの流れの中で、とことどころ意表を突かれるところは楽しめる。 |
〓 | 現代において消えてしまった武術の達人の動きを甦させようとする甲野善紀。その著者が、発見したのが、「井桁崩しの原理」である。これは、平行四辺形がくずれていくような動きである。著者はこの動きの利点を円運動と比較して、こんこんと説明する。円運動は、支点があることで、相手にその動きを読まれ、頑張られたり、逆転させられたりする。平行四辺形の動きでは、2つの別の方向の動きから発生したベクトルの和になるので、相手に読まれにくく、それぞれの慣性力も小さいので、動きの変化も速い、という訳だ。円運動のように体の各部分が一体になって、1つの動きをしようとするのではなく、各部分が別々の仕事をする。これができるようになるには、著者の言葉でいうと、「体が割れる」ということらしい。ちょっとその感覚はつかみにくい。空手の突きなどでも、その始動は重力を利用するものであるが、ただ膝の力を抜くだけでは、上半身のしなりが生じてしまう。その点、著者の体の落とし方は大変参考になった。体の各部分での落下スピードに差がでないような動きが必要。やはりこれも「体を割る」ということか。この感覚を身につけたい。 |
〓 | こういう本を読むとオシャレがしたくなる。それは、男であっても同じことだ。もちろん、多少の金もかかる。で、一番むずかしいのが、自分に似合ってるかどうかということだと思う。自分ではなかなかわからない。1つの方法は、見立ててもらうことであるが、見立てる人の能力の問題もある。また、見た目に素晴しくとも、その人の生活態度に合わない場合もある。この本でも、自分のライフスタイルが、着るものにも反映されているかどうか、で美しいか否かを言っているようだ。多くの例が本書にも書かれている。色、形、組み合わせ、場所。そして、その人の生活態度。かっこいい!と思ったら、何故かっこいいのかを分析してみよう。そんな気にさせる1冊である。 |
〓 | 日本語では「いく」であるが、英語では「come」だそうだ。で、英語で「あなたのところに行く」ことを、「I am coming to you」と言うらしい。英語では向かいあい、日本語ではベクトルを合わせて、同じ方向を向くということになる。対決と同調の違い。短編集で、この『快楽の動詞』の他に、『駄洒落の功罪』というのもある。著者は、同じダジャレを言う時も、本人が「本当に受けている訳ではない。くだらん」と思いつつ言う、トホホ状態については好意的であるようだ。ま、もう一歩進めて?、いかにくだらんことを言うか、と言うのが私の好みではあるが。もちろん、どこかで聞いたことのあるお決まりの文句ではなく、完全オリジナル版という条件付きで。 |
〓 | ご存じ?ハップ&レナードものの3作目。出だしでハップは、なんと狂犬病のリスに噛まれ、入院する。いやあ、リスでも狂犬病に罹るんですなあ。そして親友のレナードが殺人事件の容疑者になっていることを知る。今回はハップの方が大活躍。○ンタマに電流を流されたりで、本当に死ぬ思いをする。だがまあ、心休まる面も。それは看護婦のブレッドとの出会い。下品なハップに対しても、それなりに応じてくれる大人の女だ。そのブレッドといい、ハップ&レナード、あいかわらず下品で、いいヤツらだ。 |
〓 | 現代に氾濫する性のイメージ。そこには、写真家リー・フリードランダーがいて、ヘルムート・ニュートンがいて、女優マドンナがいた。そしてハード・コア映画『ディープスロート』、『ウォーターパワー』があり、また『ロリータ』がある。前半はまだソフトだが、後半はかなり濃厚になる。エロスというよりも快楽の追求による異常セックスだ。これらをずらっと見ていくと、確かに<現代において最大のタブーはもはやセックスなどではなく、「愛」なのかもしれない>というのも、うなずける。 |
〓 | 日本の美は、闇がなければひきたたない。と言うか、薄暗い感じの中で創られてきたものなので、あんまり明るいところでは、効果半減ってわけだ。金の屏風にしても、どこからか差し込むぼやっとした光を反射した時が美しいという。食器も陶器のようなテカテカのものではなく、中味がわかりにくい、漆器の方がいいという。まあ熱いものが入っていても持てるしね。西洋流のテカテカ、ピカピカは、あまりにも直接的で、大味で、日本人に合わない。誤魔化しはきかんし。肌の白さにおいても、西洋人は、スコーンとあっけらか〜んと白く、日本人のはくすんでいるという。それがまた暗闇では、人間離れした白さとなるらしい。現代において、花鳥風月を求めれば、金はかかるし、ちょっと不衛生ではある。しかし、あまりにも明るく、ガラス張りといのも味けない。目指すは、金のかからん衛生的な花鳥風月か。あるか? |
〓 | 透明になってしまいたい。この言葉は、(彼)が発する前に思いつき、書いたものだそうだ。なるべく社会とかかわりを持ちたくない若者たち。職につかない者、背中に黒い翼を持った者、自殺した女の子、殺された女性。社会との関係で言えば、自分が他人や社会を必要としなければ、相手にも必要とされない、なんてところは、なるほど、と思う。著者は、1968年、兵庫県生まれ。 |
〓 | いや、思ったよりも結構恋愛物であるな、これは。上巻まででは、とくに大きな盛り上がりはない。まあ人物紹介って感じでもある。世間体を第一とする旦那にあいそがついたアンナとちょっとすれたヴロンスキーの恋物語。今んとこ気になるのは、やっぱりキチイが心酔しているワーレンカかな。あんまり自分の感情を表に出さないが、このままで済みそうにはない。 |
〓 | いいですね、このワガママ度合。痛快です。カッタルイ、虫酸が走る常識に風穴をあける。共感を覚えるところ多いです。嫌な気分にならないように、周りの空気を読んで、本当のことは言わずにまるく収める。パターン化した言い方、笑ってごまかす。この社会で生きてる限りは、いわゆる常識というものを身につけて気分良く過ごすのが得、というか精神のエネルギーは少なくてすむ。著者はこのパターン化した言い方を嫌う。<相手の気持ちを考えろよ!>、<おまえのためを思って言っているんだぞ!>等々。確かに、このまま行けば、アホになること間違いなし。パターンとして覚えているので、応用がきかん。本当にそうか?ってことを常に考えなあかん。大人数の常識という立派な暴力に抑えこまれ、ぐっと我慢して、あっぷあっぷしている人もいることを忘れちゃいかん。まあ、めんどうくさいので、軽く流したいことは多いんですが。 |
〓 | これですか、芥川賞をとったっちゅうヤツですね。たいした才能はないと思っていた友人の吉原が個展を開いた。これがなかなかいいので、俺(ランパブ好き)には、嫉妬心が。例によって、話はあっちゃ行ったり、こっちゃに来たりで、ドタバタだ。とにかく、ふりかえれば青空???。飛行機が飛ぶ。『きれぎれ』ともう一篇『人生の聖』という崇高な物語がのっている。これもなかなかよい。会社はまる焼けになるわ、脳みそは丸出しになるわ、食われるわ、自宅では変な老人に死なれるわで、かなり過激。「グランドリッチ定食」はちょいと気になる。 |
〓 | なんとリック・デッカードの伝記映画の撮影所から始まる。虚構の中の虚構。面白いのは、ブリーフ・ケースになったロイ・バティ。しゃべるブリーフ・ケースはなかなか愉快。思わず肩をすくめたりする、という雰囲気を醸し出したりする。で、物語はだんだん訳がわからなくなってくる。けっこう力技。話を納得させる為の説明が過多。というか全体に長い。ラストのちょっと前は盛り上がるが、最後はようわからんぞ。。。 |
〓 | 前著『檻のなかのダンス』辺りから踊ることに快感を見い出した鶴見済。その魅力?をダンス仲間とともに語る。レイブとは野外で行われる大ダンスパーティー。ダンスをやり始めてから、人生観が変わったそうである。体が活性化するとともに、動物や植物、そして自然というものにひかれるようになる。あの『完全自殺マニュアル』からすれば、なんと健康的になったことか。善悪ではなく、イキイキと生きる。頭だけではなく、体ごと感じられる快感、これをシアワセと言ってもいい。まず、何が気持ちがいいか、自分の心と体から聴くことができることだ。社会革命とまでいくかどうかは疑問だが、まずは個人が気持ちよく生活できるようになること。 |
〓 | 今日シドニーオリンピックで金メダルを取った高橋尚子。この本は、高橋尚子と小出監督の出会いから、オリンピック直前までの記録である。シドニーでのレース展開予想も、バッチリだ。最後に競るのがロルーペではなくシモンであったが。予想通り、小出監督の愛情あふれる言葉は多い。しかし、<修行している者に自主性は必要ない>と言い切る辺りは、ボケッとした中にも自信のほどがうかがえる。高橋尚子の良いところは、素直で、よく食うことのようだ。あだなの「Qちゃん」というのは新入社員の高橋尚子が自己紹介の時に<体中をアルミホイルでグルグル巻きにして、「オバケのQ太郎」を踊った>からだそうだ。 |
〓 | 主人公の春一は高校生。親父は刑事。父子の2人暮らしである。春一の彼女の麻子はヤクザの娘。同級生の度重なる死。自殺か、他殺か。春一と麻子は探偵となり、調査する。犯人探しとしてもよくできているし、会話もなかなかいい。特に春一と親父の何とも言えないやりとりがいい。美人の教師を親父の嫁にと企むのであるが。。。うん、人生いろいろだ。本書もおもしろかったが、イデース・ハンソンの解説がまたいい。 |
〓 | 銀行強盗名人、ドク・マッコイと妻のキャロル。2人の逃避行(ゲッタウェイ)が始まる。逃亡者は隠れるところも凄い。池の中にある斜めになった人ひとりがやっと入ることができる洞窟。ここに妻キャロルとともに(もちろん別の穴)隠れたり、糞の山に出入り口をつけたところにも隠れたりする。こんなところに隠れなければならないなんて、と妻のキャロルは愚痴るが。またドク・マッコイは人殺しの名人でもある。タイミングが実に良い。躊躇せずにスパッと殺す。<タマニハじょなさん・すいふとデモ読むがいい。モット世間ガヨク見エルヨウニナルカラ>は、文庫本P.81に出てくる。最後に到達するエル・レイの国は不気味だ。 |
〓 | 恋愛経験もあり、年上の女性ともつきあい、生きる意味などない、なんて言うマセた大学生であった主人公の礼司。昆虫学者で、世間体を気にしなかった親父の死がきっかけで、キリコに出会う。このキリコ、学校へも行かず、服装、髪形にも無頓着であり、誰とも口をきこうとしない。変なヤツと思うが、よく見ると非常にかわいい。キリコ(季里子)のほうも徐々に心をひらいていく。そして礼司は、季里子に<初恋>をしたと自覚する。世間ずれしていない季里子がいい。ダイヤモンドの原石見つけたという、古典的なパターンであるが、なかなかよかった。 |
〓 | 悪ガキ3人組みは、死ぬってどういうことやろ、と思い始めた。そして、なんと近くに住む老人の死ぬところを観察しようとした。そして探偵よろしく、その老人の家を見張ったり、外出するところをつけたりする。しかしまあ、すぐに見つかり、怒鳴られ、そしてだんだんと仲良くなっていく。最後には、本当に死と対面することになる。それを彼等はどう受け止めたか。これは著者自身の身近の人の死に対する受け止め方でもある。悪ガキの1人は言う。<だってオレたち、あの世に知り合いがいるんだ。それってすごく心強くないか!>。 なんとなくそうも思える。 |
〓 | 最初は『横溝正史殺人事件』だったらしい。舞台は八つ墓村ならぬ八鹿村。探偵の名前はキンダイチ。子守唄の歌詞通りに次々と殺人事件が起こる。話はまずますおもしろいが、いかんせん笑えない、しょうもない表現が多い。流れ的には笑いどころって感じのところでも、微妙におもしろくない。この著者の生真面目さが邪魔をしてるのか、そんな比喩は今どきないやろって感じ。おもろない親父ギャグ。まるで、『笑点』のようだ。わざとはずすように言っているのであれば、相当な手練だ。思わず笑ってしまいそうになった。危ない、危ない。ああ、しかも4部作だって。 |
〓 | 非常に面白かった。多くの人が子供の頃読んだであろう『小人国』に『大人国』。そして『飛島』、『馬の国』の4篇からなる。『小人国』、『大人国』も充分おもしろいのであるが、なんと言っても、『飛島』、『馬の国』がいい。痛烈な文明批判、人間批判になっている。『馬の国』では馬が理性的な動物であり、人間に似た動物は、ヤフーと呼ばれる獣であり、くさりにつながれている。主人公はそこで理性的な動物である馬と自分の国(イギリスでの人間社会)について話をする。話をしていくうちに、この真に理性的な馬の社会に比べて、人間社会の薄汚なさに対して嫌になっていく。結局はこの馬の国の獣であるヤフーとなんら変わることはない、いや、もっとひどい、と思うようになる。最後はイギリスに戻るのであるが、人間に対する嫌悪は変わらなかった。考えてみれば非常にかなしい話でもある。文豪・夏目漱石は次のように言ったという。<「人類はスウィフトの為に自尊心を傷つけらるる故に不愉快である。…>と後に続く言葉は不愉快の連続であり、最後に<一言にして言えば、スウィフトは善悪、美醜、壮劣の部門に於いて、寸毫の満足をも吾人に与えないのである。吾人の希望を永久に鎖したのである。人生の三分の二を焼き払ったと同じことである>と言ったそうだ。ここまで人間に対して救いのない本は、私は知らない。このような本を書かせたのは、ジョナサン・スウィフトの生い立ちによるところもあるみたいだ。それを考えると少々悲しいのだ。。。この痛烈な人間批判の書は、全人類の必読書である。 |
〓 | こういう本は買わんとこうと思ってたんやが、ついつい出張先のコンビニで買ってしまった。タイトルだけで売れてしまう、という本やな。売れてるのもネーミングの勝利、って感じか。内容はまあ、捨ててしまって、あとから困ることはほとんどないから思いきって捨てなさい、というもの。わかっちゃいるけど、なんとかである。次なる本のタイトルは、、、『捨てる快感』、『あっちゃ向いて、ポイ』、『大捨力』、『なにも買わない、もらわない』、『身の周りの役たたず』どーすか?? |
〓 | 面白い。主人公は、人口1280のポッツ郡の保安官のニック・コリー。<夜も眠れない。ほとんど一睡もできないと言っていいだろう。…それで、おれは考えに考えた。とことん考えた。そして、とうとう結論を出した。おれの結論は、おれにはどうしていいか皆目見当がつかない、というものだった>なんて聞くと、けっこうお人好しの駄目男かと思いきや、めちゃめちゃ悪いヤツであった。狂ってる。。。保安官の選挙に勝つために対立候補の悪い噂を流す。これがまた巧妙で、直接ズバリとは言わない。「私は彼の悪い噂は信じちゃいない!」なんてことを突然言いだし、周りの人々がどんどん尾ヒレをつけて、雪だるま式に大きくなるのを待つのだ。殺人なんてなんとも思わんヤツで、真犯人は自分ではないように仕向けていく。そんなことをしても、自分が悪いなんて、コレっぽちも思っちゃいない。主人公の保安官の語りで話が進み、彼の奇妙な論理にのせられ、不思議にそんなに悪いことをしてるような気がしない。気付いたら、とんでもないことをしている。著者は、キューブリック、キングが敬愛するというパルプ・ノアールの伝説的人物で、一時はすべて絶版になっていたらしい。映画化されている作品も多く、あのマックイーン主演の『ゲッタウェイ』もそうだし、最近では『グリフターズ』がある。本書『ポップ1280』そのジム・トンプソンの代表作であるそうな。これを読んだあとは、スウィフトの『ガリヴァ旅行記』を読みたくなる。あと『内なる殺人者』も読んでみたい。 |
〓 | ポーと聞いたら、何かエドガー・アラン・ポーと関係があるのかと思ったら、主人公の少年の名前がエドガーとアランであった。彼等はバンパネラで、時を超えて生きる。しかし、いっさい成長しない。何百年も生きているのに、ずっと14才のままだ。話は短編形式になっており、それぞれの時代が違うが、彼等はずっと同じ姿(14才のまま)で登場する。お爺さんや、ひい爺さんが会ったとか、古い書物に会ったことが書かれているとかで、すでに伝説上の人物(人間ではないが)なっている。永遠の生命を手に入れることの代償は、退屈と孤独である。だからこそ、愛する者も同じ仲間に引きずりこもうとする。変化や、成長もなく生きていくのはつらい。愛する者とともに成長し、そして年老いていくのがいい。 |
〓 | 1部と2部に分かれており、それぞれがまた、短編の集まりである。アメリカの日常、というか、BADな日常のを断片的に著したもの。暴力あり、セックスあり、ヤクありの世界。表現形式もバラバラで、ストーリーを追って楽しめるものはほとんどない。だからどうなんだという思想を出来るだけ排除し、今のアメリカの一部分を象徴的にカラッと書いてみせたもの。 |
〓 | フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の続編。でもあるし、映画『ブレードランナー』の続編でもある。小説でしか出てこない人物も登場するし、映画でしか出てこない人物も登場したりで最初はこんがらがる。どちらかというと、映画の続編ってイメージが強い。話は第6のレプリカントが生存していた、ってことで始まる。あんたかてレプリカント、うちかてレプリカント状態になり、最後は恋愛物語で終わる。死んでいたはず?のヤツもガンガン出てくる。もうやり放題だ。 |
〓 | <わが国の方が漢字の使い方は正確で、幅が広い(笑)。中国の人以上ですよ>と著者は言う。<中国人は音で読んでしまうから、訳がわかってもわからなくても通過してしまう。(日本人は訓をつけて読んでおり)わが国ではわからん限り絶対に読めない>ということだ。漢字研究の第一人者である。漢字の字書(辞書ではない)、『字統』、『字訓』、『字通』などを著した。エジプトの「ヒエログリフ」から文字の発生、漢字の成り立ち、そして日本における漢字および文字の使われかたなどが、対談の形式で語られるので解りやすい。現在の漢字の字数制限に異を唱える著者であるが、逆によくぞここまで残してくれた、とも言う。戦争に負けて、進駐軍が要求した第1案は、ローマナイズせよ。であった。そして第2案が、仮名書きにせよ。第3案が、必要な範囲の若干の漢字を残す。ということで、結局第3案で進駐軍と合意したらしい(ベトナムはフランスの植民地時代にローマナイズしてしまった)。ローマ字だけになっていたとしたら。。。。どうなっていたであろう。日本および東洋を知る為の入門書として。お薦めです。 |
〓 | 池袋西口公園に集まる若者たち。主人公は果物屋の真島誠。そして相棒のマサ、絵のうまいシュン、Gボーイズの頭で、王様(キング)と呼ばれるタカシ。電波マニアのラジオや、引きこもった同級生の和範、風俗嬢の千秋など、それぞれが得意技を持つ。そして、警察やヤクザの手におえない事件を解決していく。現代版、携帯電話を持った少年探偵団、って感じ。刑事や警察署長と知り合いであったり、ヤクザと知り合ったりと、まあ、環境はけっこう都合よくて、事件の解決はスムースだ。普通はそんなネットワークないやろ、って感じではある。しかし、文章のリズムがいいので、読みやすく、あきない。第36回オール読物推理小説新人賞とやらである。最近TVドラマでもやっていた。著者は1960年、東京生まれ。 |
〓 | あの映画『ブレードランナー』の原作。第三次大戦後の世界。廃虚と化した地球に住む人間は少ない。そして奴隷として使っていた人間ロボット(アンドロイド)が反逆を起こす。そういうアンドロイドを退治するのがバウンティ・ハンター。主人公のリック・デッカードの職業である。本物の人間とロボットの見分け方で、感情移入度合の違いを検査する、というのは面白い。本物のペットも稀少価値で、リックは、電気羊(ロボット)を飼っている。タイトルから創造するよりけっこうアクション物であった。アンドロイドであっても、感情移入は起こる、という味付けがいい。 |
〓 | 神に必要なものは、信者である。そして神は良い信者を獲得してこそ良い神になれる。カメの姿になった神、オムはまあ、いい信者を持てたようだ。見習い修道士のブルサだ。この2人というか、神と信者のかけあいが面白い。神が信者に気をつかっているところがいい(信者を失えば神でいられなくなるというのもあるが)。最初は頼りない印象のブルサであったが、なかなかどうして、最後は神、オムの方がブルサの言うことを聞くようになる。徐々に、神と人間との間の信頼関係ってのが築かれていく。ご存じ?ディスク・ワールドシリーズ。人が死ぬ時は、あの「死神」も登場する。例によって、しつこい面白さだ。全体のストーリーよりも、一文、一文が面白い。ちょっと詰め込み過ぎかな、って感じがしないでもない。まあ、訳者の久賀宣人さん、大変でしょうね。<ワシがワシを落とした>とか言うのもけっこう好きですけど。 |
〓 | 大人の女、田口ランディの痛快エッセイだ。なんでもかんでも正直にしゃっべちゃうぞーって感じがすがすがしい。自分のことをチビで、ブスなんて言いながら、恋愛経験も豊富で、実生活でのパワーを感じる。18歳で家を飛びだし、ホステスをしたり、自分の会社をつくったり、インターネットでエッセイを書いたり、最近は『コンセント』という小説も書いた。なかなかの酒豪でもあるようだ。自分の力をうまく発揮できているようだ。ペンネームをランディにしたおかげで、けっこう強気な発言ができるようになったらしい。この本の内容は、インターネットで発表したものを加筆、修正したもの。→ここです。 |
〓 | <自分は歌手で、その収入は主に、CDの印税によって構成される。…自分の場合、その肝心のCDがちっとも売れぬのである>。コレは打破するために、自分の偏屈を治そうと試みる。まあ、いわば、世間並みのことをしようとするのであるが。。。結果はまあ、期待通り。偏屈の快楽から抜けることはなかなかできないのであった。つうか、混雑するところにわざわざ出かける世間さまこそ異常やと思うけどね。さあ、次は『きれぎれ』じゃ。 |
〓 | 村上春樹、1993年〜1995年のケンブリッジ滞在記。読みやすい。外国である、ってことに気負いがないのがよい。まあ、本人も本書では気楽に書こうてな感じで書いたらしいが。というかもともと村上春樹やし。「小確幸」を見い出すことの名人が語る「外国の日常」。村上陽子(春樹嫁)の写真(猫が多い)と安西水丸の絵付き。 |
〓 | <世界は振動でできている。命はバイブレーションだ>。なかなかの名言だと思う。コンセントを入れて社会とつながりを持ったり、コンセントを抜くことによって社会と断絶する。社会のバイブレーションと共鳴できないのは悲劇でもある。そこで必要なのは現代社会(特に都会)におけるシャーマンなる存在だ。主人公は、兄の死を通してそのことを覚り、現代のシャーマンたらんとしたのであろう。が、そのやり方は。。。そういうのもあるんだろうけど。 |
〓 | 姿勢を正しくして読む本ではない。できれば姿勢をくずして、気楽に読むとおもしろい。あらすじも追わないほうがいい。ようわからんし。娘キャラウェイは、健気だ。死んで、墓地につれていく時に、自分で歩いて行く、なんて言うし、死んで棚に入れられているのに、じっと立って見ていると、もう帰っていいよ、なんて言う。大観覧車は自殺するし、レコードの中に迷いこんだヤツから電話があるし、詩の学校には、文字通り、わけのわからないものが教室に入ってくる。そして、ギャングになろうとした私は、ナイスなギャングにはなれなかったのか。。。全体的にカラリとしたもの悲しさがある。高橋源一郎のデビュー作。 |
〓 | ううっ。なんじゃこりゃ。ラップか?町田康の女版か???。7人姉妹で、7つの短編。読むのに息継ぎがむずかしい。やっぱ、ラップじゃなコレは。どっかで聞いたような言葉がじゃんじゃん出てくるので、注釈つけると『フェネガンズ・ウェイク』並みに大変なことになりそうだ。表紙の写真は緑帯の空手少女。沖縄の子か?本文のイラストがまたイロっぽくていい。コレもやっぱりJ文学ってヤツか? |
〓 | 本居宣長の長男で、盲目の語学者、本居春庭のお話。春庭は、30才頃より失明したが、父・宣長の遺志を受け継ぎ、『詞の八衢(ことばのやちまた)』『詞の通路(ことばのかよいじ)』を著した。なによりも凄いのが、本書の著者足立巻一が、学生時代から始まり40年もの長きにわたって本居春庭を追い続けたことだ。足立巻一のライフワークと呼ぶにふさわしいものだ。これだけ1つのことに打ち込め、それを本書のように形として著すことができたことに対して、嫉妬の念に狂った人も多くいたそうだ。上巻での書評で松永氏は<足立巻一氏の『やちまた』を読了するのにちょうど半月がかかった。その間、本らしい本を一切読まなかった>とあるが、まさに同じような状態になった。ただし他の本を読まなかったのではなくて、読めなかった。甘いが毒のある悪魔の蜜だ。 |
〓 | <メダルより図書券がほしい>という名セリフをはいた中田英寿。一日に2〜3千通のメールが届き、すべてに目を通しているそうだ。基本練習を大切にしている(対面パスに時間をかけるそうだ)彼は、凄いというよりも、えらくマトモな人間であった。実はわがHP名『英現堂オフィシャルホームページ』も中田選手の『中田英寿オフィシャルホームページ』をまねて付けたのだ。 |
〓 | ボクシング・カンガルー(マチルダ)の冒険。そしてそれを取り巻く人間達。芸能エージェントのビミー、元の飼い主のビリー・ベイカー、カンガルーのマチルダとタイトルを賭けて戦うことになるリー・ドカティ。その他、スポーツライター、ボクシング・マネージャー、マフィアの大物など怪しげな人物が出てくる。史上初のカンガルーの世界ミドル級チャンピオンを誕生させようとする人々、そしてそれをなんとか阻止しようとする者たち。もう設定自体でおもろいし、読んでまたおもろい。なんも知らん(知ってるのか?)マチルダもかわいいが、人間どもも心やさしき人々(マフィアの大物でさえも)である。痛快エンターテイメントじゃ。。。。それにしてもこのポール・ギャリコ。あの『ポセイドン・アドベンチャー』の作者だったとは驚きだ。(これは同著者の『幽霊が多すぎる』の解説を立ち読みして、わかった。) |
〓 | イアーゴーにまんまとだまされ、妻デズデモーナを殺し、自らの命を絶ったオセローであるが、あまりにも質実剛健過ぎると言うか、一本気と言うか、性格が硬い。直接の妻の言葉をもうちょっと聞いてやってれば、と言う感じもする。てなことで、『マクベス』、『ハムレット』、『リア王』ときて、この『オセロー』で4大悲劇を読み了えた。好みから言えば、『リア王』かな。 |
〓 | 不良のための小説案内。この人の書いたものでは前に『不良のための読書術』というのを読んだ。確か、読書日記など付けずに読み飛ばせとか、すぐに忘れろとか、なんとかかんとか。まあまた読み返してみよう。で、今回の本はJ文学について語っている。J文学とは、まあ言や、最近の日本の小説なんである。町田康やら、赤坂真理やら、藤沢周なんかの人たちの書く小説。ポップで、ビジュアル系で、感覚的で。。。けっこうおもろいでえ、ってことを言っている。対談しているリリー・フランキーって人もなんやら面白そうだ。その後、ブックレビューがずらっと続く。福田和也の書評は、ははっ、そうですかー、って感じであるが、この人のは親しみがもてる。基本的にけなすことはしない、と言うか、そんな本は黙殺する(私も同感)ので、すべての本が面白そうに書いてある。カズオ・イシグロ、高橋源一郎、そしてエーコの『薔薇の名前』読んでみたいぞ。 |
〓 | 早くも今年度No.1の声が、と書いた帯になっているのもある。15才の少年と31才のハンナ。市電の車掌をしているハンナは本を朗読してもらいたがった。朗読し、シャワーを浴び、そして愛しあう日々を送っていたが、突如として彼女は出ていく。その後、法律の勉強をしていたぼくが彼女に再会したのは、法廷であった。そこで、彼女の過去が明らかになるのだが、ぼくは、彼女の別の秘密に気付くことになる。何故、朗読してもらいたがったのか、何故メモ書きを残して、出かけた時にあんなに怒ったのか。彼女にとって、それを隠すことが何よりも優先されていた。こういう人は現代の日本ではなかなか珍しいと思うが、それだけにドキリとさせられる。獄中から来た彼女の手紙は感動的だ。 |
〓 | やっぱり、というか密度が濃い。話もスパッと始まるし、無駄がないっちゅうかな。3人娘に遺産を分け与える際に、2人の姉ゴネリル、リーガンはどんなに父親を愛しているかを滔々と語るのに対して、末娘のコーディリアは、ただ心に思うだけ、黙っていればよいなんて態度でいたもんで、父親(リア王)の怒りを買う。そこからがリア王の悲劇の始まりとなる。シェイクスピアの書く悪口なんかも、非常に面白い。ケントがオズワルドに言うめちゃめちゃな言い草、<この父無し子のZ野郎、無くもがなのローマ字野郎め!>。この「ローマ字野郎」っていうのが気にいった。リア王に付きまとう道化、そして裏切られ、虚飾を捨て、ぼろをまとったエドガーも素敵だ。グロスターは言う、<人間、有るものに頼れば隙が生じる、失えば、かえってそれが強味になるものなのだ>。 |
〓 | 宇宙大学への受験の最終テスト。未だ男でもない、女でもないフロルは可愛い。そんな子が自分のことを「オレ」なんて言うのもまた可愛い。話もまとまっていて、ラストも奇麗に終わる。『続・11人いる!』はちょいと大人の世界。『スペース ストリート』は『小さな恋の物語』って感じか。 |
〓 | 2300年、新種のD因子が不妊をひきおこした。2999年、地球。そこには、女はいない。美少年が女の代わりとなる。唯一子供を産むとされているマザも、美少年を選んで、人工的な女にしたものだ。もちろんマザが子供を産むわけではなく、実は、マザと契りを結んだものは精子と血液を提供する。そして、月の市民から卵子を買って、輸送し、人工子宮で育て、ナンバーをつけられて、契りを結んだ提供者に送られる。それが、カンパニーのマージナル(ギリギの、限界の)・プロジェクトやり方だ。遺伝子と文化とが相互に作用して起こる進化の奇跡を目指しているらしい。かたや、子宮と話をする科学者イワンは、原始の記憶のトラウマに左右されない胎児をつくろうとした。そして違法とされているエゼキュラ因子(遺伝子の突然変異を誘発する)を使って誕生したのがキラだ。しかし、キラは子供を産むことができるのか?カンパニーの考える、自然が女を必要とし、男だけの世界からもだんだん女に近いものが出てくる、という考えかたは面白いと思う。男同士で寝る場面も多いが、一方の外見はまるで女なので許せる、かな。 |
〓 | 先に『続・なぜ日本人…』を読んでしまった。まあ、ええか。しかしまあ、小気味のいい本だ。全体的になんとなくたるんでいるような現在(オレだけか?)にカツを入れてくれる。やはり、命がけで何事かをなしとげたい、という気持ちはあるんだが、周りのいい人たちに囲まれるとなんだかねえ(←他人のせいにするな)。福田流に言えば、<「親切」や「善意」はあふれているかもしれないが、命がけで守る「誇り」はなくしてしまった>、ということになる。命がけで守るものを福田氏は国家と言ったが、オレにとっての「国家」とは何かが問題だ。 |
〓 | 『トーマの心臓』のオスカーの少年時代を描いた表題作の『訪問者』。家の中の子どもになりたかったというのは泣かせる。人間の外見と中味、本当のことを知るのはつらい、『城』。人殺しって、そんなにいけない?とラウルは言う、『エッグ・スタンド』。外人ばかりかと思っていたら日本人、しかも関西生まれの生物の先生が登場する『天使の擬態』。はまりそう。。。 |
〓 | さぎさわめぐむ、と読むらしい。名前をよく間違えられるそうである。そうやろうなあ。我が「ことえり」君も「萠」は文字パレット開いて、くさかんむりのところで選択せなあかん。ちなみに「鷺」は一発で出た。サギサワ・メグムだ。自身の今までの怒りネタを集めたそうである。なかなかいいこと言っている。<現代を生きる親たちよ、決して「友だちみたいな親子」なんて目指したもうな。エバれ。エバり散らせ>。そして、彼女も、十六、七歳の頃には戻りたくない、<今のほうが百倍いい>と言っているが、同感じゃ。あんな頃には戻りたいない。 |
〓 | <敗戦により、伝統的な「武士としての道徳」を失ってしまった日本人は、「人の和」を最優先する「コメ共同体的な性格」にすっぽり浸ってしまった>。<日本人の生命尊重というのは、「責任逃れのためのアリバイ」にすぎない>。名誉と誇りを大事とせよ、と言う。民主主義とばかりに、常にみんなの意見を聞いてからなんていうのも、責任のがれのなにものでもない、と私も思う。今の社会のシステム自体が責任を明確にさせないものになっているのも事実。実はみんなもっと責任を取りたいと思っているのではないか。 |
〓 | 電話男とは、電話で相手の話を聞いてあげる男のことである。表題作の『電話男』と『純愛伝』が収められている。『純愛伝』のほうも電話男にまつわる話で、妻が電話男(女?)というお話。どちらかというと、話が拡散し過ぎる『電話男』よりも、『純愛伝』のほうが好きやな。 |
〓 | トーマ・ヴェルナーの死で物語は始まる。何故ユリスモールは心を閉ざしているのか。そして、トーマは死をもって何をユリスモールに語ろうとしたのか。トーマの心臓の音は、ユリスモールに聞えたのであろうか。少年の愛の物語である。そこには献身的であり、宗教的でさえある。久々に泣ける話であった。トーマという少年がユリスモールに対して、本当にすべてを許していた、というのは少々ロマンチックな解釈であるとは思うが。 |
〓 | 『地震のあとで』と題された6つの連作。それぞれの主人公があの神戸の地震の体験を持つ。地震の後、出て行った妻、『UFOが釧路に降りる』。神戸に妻子を残して来た男、『アイロンのある風景』。焚き火の火を自由にすることができる。神様のお使いのボランティアで神戸に行く母親、『神の子どもたちはみな踊る』。神戸の地震で男が死ぬことを願う女、『タイランド』。誰もいないプールで泳ぐのも気持ちよさそうだ。東京の地震を阻止しようとするかえるくん、『かえるくん、東京を救う』。地震のおじさんを恐がる子ども、『蜂密パイ』。淡く、苦く、静かに甘い。 |
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女子プロレスを題材にした小説もめずらしい。主人公は火渡抄子。あの鹿取しのぶを彷彿とさせる、ストロングスタイルのかっこいいヤツだ。それに同じプロレスラーであるが、あまり才能のない近田がからむ(自分のことを自分と言う)。話はこの近田を通して語られる。火渡抄子が外人レスラーの失踪事件の究明に乗り出したりして、なかなかハードボイルドしている。こういう人間は、男でも女でもカッコイイのだ。著者はあとがきで言う、<女にも荒ぶる魂がある>、と。なるほど。
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物語の途中から、ガラリと変わる。いや、恐ろしい。そんな平気な顔で、そんなことをするなんて。。。足首痛い。トラウマ(心的外傷)を持った人間。しかし、緩慢なそのようなものは誰でも持っているのかもしれん。。。物語とは直接関係ないけども、元気がないときでもスパイシーなものは食える。というのはよくわかる。
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『パン屋再襲撃』。パン屋が開いてなかったので、マクドナルドを襲撃する。『象の消滅』。飼育係の名前は渡部昇。『ファミリー・アフェア』。妹の恋人の名前が渡部昇。『双子と沈んだ大陸』。共同経営者の名前が渡部昇。なんか主人公以外の男はみんな渡部昇って感じだ。笠原メイも出てくるが、『ねじまき鳥…』とは別人のようだ。『ローマ帝国の崩壊・1881年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界』。タイトルが長い。『ねじまき鳥と火曜日の女たち』。これまた、『ねじまき鳥のクロニクル』の1部ではないか。やられた。
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<病気を気にしない、健康を気にしない、ーそれが、人生を楽しく生きるコツです>と著者は名刺に書いているそうだ。病気のことも、健康のことも忘れて、自分が今やりたいことをするのが大事であるという。病気が治らない人は、病気になっていた方が都合がいいのでなっているケースがある。病気が治ってしまうと、別の困ったことが予想されるので、それを避けているのだ、と言う。そんなこと、いろいろとありそうだ。今をよく生きるという著者の時間の概念もおもしろい。過去をつくってるのも現在の自分の意識である。そして、「過去、現在、未来」の全部が今ここにある。そして、<永遠とは、時間のない今を言う>という究極の確信に至った、という。
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<ぼくは目を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯ひとつの絆として天空を通過しつづけているスプートニクの末裔たちのことを思った。彼らは孤独な金属の魂として、さえぎるものもない宇宙の暗黒の中でふとめぐり会い、すれ違い、そして永遠に別れていくのだ。かわす言葉もなく、結ぶ約束もなく>。ギリシャでミュウが遊園地の観覧車に閉じ込められ(こちら側の自分)、そこから自分のアパートを覗き、もう一人の自分自身(あちら側に自分)を見るシーンはなかなかいい。(そして翌日助けられた時には、髪の毛が真っ白になってしまっていた)。自分一人では、あまりにも孤独だ。他人と関わりたいのだが、関われない。唯一つ、あちら側の世界でしか関わることができなきないのか。関わることがいいのかどうか、そして何が正しいことなのかを模索しているようだ。
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日本におけるユング心理学の研究を確立した河合隼雄との対談。他人と関わること(コミットメント)について、癒しについて、小説家になって何故、日本を離れたか、そして小説家として今後やるべきことなどが語られる。河合隼雄は言う。<夫婦が相手を理解しようと思ったら、理性だけで話し合うのではなくて、「井戸」を掘らないとだめなのです>。あえて言えば、苦しむ為に結婚する、のだそうだ。逆に、こんな面白いものはないとも言うのであるが。『ねじまき鳥クロニクル』を書きおえた直後ぐらいに対談したもので、その解説書としても読める。
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『蛍』。これはもう『ノルウェイの森』の一部分。こっちを先に書いて、そのまま『ノルウェイの森』に使ったような。微妙に変えてるが。『納屋を焼く』は、納屋が焼かれたそうにしてるから焼くという話。『踊る小人』は、踊る小人が僕の体をのっとろうとする話。象をつくる工場というのが面白い。耳休暇もいい。『めくらやなぎと眠る女』の僕と耳の悪いいとこの関係がなんとなくいい。『三つのドイツ幻想』は、わけわからん。
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新しい登場人物。赤坂ナツメグ。シナモン。綿谷ノボルの秘書、牛河。そして、間宮中尉の満州での思い出に登場する、皮剥ぎボリス。満州の話の中では、羊が登場する。軍人の防寒用だ。この辺りは『羊をめぐる冒険』を思い出す。逃げ出した猫(ワタヤノボル)が帰って来た。そして、僕は妻のクミコを救出することに自分の存在理由を見つけたようだ。最後のクミコとの暗闇での再会も、何やら『羊…』の鼠との再会を彷彿させる。最初の暗闇での出会いの時はそれと気付かずに逃げた。その時に出来た痣は、今回クミコを連れ出そう、と戦ったおかげで消えた。そして、クミコ自身も決着をつける。遠くにいながら、僕のことを気にしてくれる、笠原メイが妙にいじらしい。
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僕=岡田享=ねじまき鳥は、近くの荒れはてた民家の井戸に入り、思索する。と思ったら、加納クレタも井戸に入る。と思ったら、笠原メイも井戸に入った。なんやかんや言いながら、みんな井戸に入ってみたいんやなあ。妻は出ていき、妻の兄の綿谷昇は選挙に出る。加納クレタは、クレタ島に行き、笠原メイは学校に戻る。僕はと言えば、現状から逃げ出せない、と悟り、クレタといっしょにギリシャに行くのは止めた。しかし、なんか笠原メイがさかんに言う「かわいそうな、ねじまき鳥さん」という言葉が印象に残る。。。さて、第3部へ突入だ。
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短編集『TVピープル』にも出てきた、水の研究家・加納マルタ、クレタ姉妹の再登場だ。それに近所に住む笠原メイ。妻の兄の綿谷ノボル。そして間宮中尉は、満州での井戸の思い出を語る。なにやら面白そうだ。第2部へ続く。。。
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<僕という人間には、僕の人生には、何かがぽっかりと欠けているんだ。…そして、その部分はいつも飢えて、乾いているんだ。…それができるのは世界に君一人しかいないんだ>。女房がいて、子供がいて、何不自由ないと見える主人公のハジメは、少し足の悪い幼なじみの女性(島本さん)がいつまでも忘れられない。彼女と再会し、心から癒される。一度は全てを捨ててしまおうと思ったが、彼女は消えてしまう。そしてまたやり直そうとするが、こころにはぽっかりと空白が。。。まあ、あのままいってりゃ、火宅の人。そうはならんのが、村上春樹。外見は奇麗なままだ。しかし、みんな乾いているのか?
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チャンドラーが唯一参考にしたと言われるハメット。主人公の探偵、サミュエル・スペイドもチャンドラーのフィリップ・マーロウに似ている。マーロウのほうが独り言が多く、感情的なような気もする。言い方もスペイドの方がキツイかな。悪役のガトマンに<わが子をなくしても、また生まれて来ることがあろうがーマルタの鷹はこの世に1つしかないのだ>と言わせたり、最後に女の力にも屈せず、自分を貫くサスペイドはなかなかハード・ボイルドしていてよかった。
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投資顧問会社という非常に怪しいところにアルバイトに行った女子大生の沙耶は、理想の中年男、ぼぎちんに出会う。そして、沙耶とぼぎちんとのバブルな生活が始まる。法律すれすれのことをしながら、金もうけをし、一喜一憂するぼぎちん。そしてその金で何不自由のない、退屈な日々を送る沙耶。沙耶はそんなド暇な生活が嫌になっていく。コミカルで軽いタッチがいい。福田和也は『作家の値うち』の中で、日本の文学史に残るものだと絶賛している。
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当然、村上春樹の方。面白かった。『羊をめぐる冒険』の続編ともいうべきか。僕は再び「いるかホテル(ドルフィンホテル)」を訪れる。そこで待っていたのは、僕自身の部屋であった。そこでは皆が僕のために泣いていた。<あなたが泣けないもののために私たちは泣くの>と夢の中であの耳のモデルであったキキは言う。生きていく意味なんてものはない。しかし、僕は羊男に言われたようにダンス・ステップを踏み続けた。僕が現実に踏みとどまることができたのも、僕のかわりに泣いてくれる人が居て、激しく求められる人が居て、心からリラックスできたおかげであろう。春樹流こころの旅はつづくのか?
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龍ではない、春樹の方。もちろんショージなんかではない。これも一種の続きものかな。『1973年のピンボール』にも青春時代の記憶の断片として出てきた直子。そしてその彼女はすでに死んだ、とあったが、その詳細ってことかな?僕(ワタナベ)と直子、そして緑、そしてレイコの物語である。友人(死んでしまう)の彼女であった直子を好きになるが、直子は精神的に弱く、ある施設のようなところに入る。年上のレイコはそこでの直子の精神的支えでもある。僕は直子に思いを寄せながらも、緑という活発な女の子にひかれる。けっこう3人の女性はすすんでて、大体において寛容な僕(ワタナベ)は3人の女性に振り回されっぱなしという感じがしないでもない。多くの女性が求める男性像なんかな?周りにこういうすすんだ女性が1人ぐらいいてもいいとは思うが、3人ともなると手紙を書くだけでも大変だ。赤と緑の単行本で出たときは、まさかこの本を買って読むとは思わなかった。
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春樹ではない、龍の方。コインロッカーに捨てられた子供、キクとハシが主人公。近未来的で、メル・ギブソン主演の映画『マッドマックス』を思い出した。ここでは根本的な生の問題が示される。社会の中では、個人の生きる喜びは優先されず、誰しも既成服を着せられた状態になる。さらに生まれながらにして、社会から排除させられた人間は、既成服させえない。自分の生に対して、どう身きりをつけるのかが問題だ。社会そのものの破壊。そして個人の生の力が心臓の音だ。本当はこの続きがどうなるのかが知りたいところではある。
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再読。やはり、この本を読む前には、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』を読んでおくほうがいい。本書『羊をめぐる冒険』を含めて青春3部作といっているらしいが、前の2冊は非常に断片的で物語にはなっていない。それに比べると本書は話に展開があり、時間的な前後がなく読み易い。主人公の僕、友人の鼠、そしてジェイズ・バーのマスターで中国人のジェイ。大学に入学した僕はジェイズ・バーに通うようになり、そこで鼠と出会う。鼠は大学を止め、僕はピンボールに夢中になったりする。鼠は小説を書き、僕は翻訳の仕事をする。その後、鼠は街を出て行き、僕は結婚をし、離婚する。そんな状況の中で、鼠から手紙が届く。本書『羊をめぐる冒険』の始まりだ。最後に鼠が街を出た理由が語られるが。。。<道徳的な弱さ、意識の弱さ、そして存在そのものの弱さ>。自分の存在理由のなさにまともにぶつかっていった鼠はすべての人間の中にいるようだ。
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村上春樹の2作目。これまた青春時代の思い出。『風の歌を聴け』の最後では僕が29歳で、小説を書き続けている鼠が30歳になったのであるが、また過去に戻る。29の時には結婚していた僕は、ここでは翻訳の仕事をしながら、双子の姉妹と暮らす。鼠は大学をやめている。2人は700km離れて暮らしている。20代半ばのお話しである。鼠はジェイズ・バーに通っているから、関西で、僕は東京に住んでいるのかな。ジェイズ・バーで3フリッパーの「スペースシップ」というピンボールに出会い、その後僕はそのピンボールに夢中になる。1970年の頃である。1973年になり、僕はピンボールを思い出す。昔のゲームセンターはとうに壊されおり、ピンボールの行方を追うことになる。そしてついに、その「スペースシップ」を見つける。その頃鼠はジェイズ・バーのある街を出ていき、僕といえば双子と別れることになる。ピンボールのウンチクは面白かったが、どうもつかめん。次の『羊をめぐる冒険』で鼠が出てきたはずだ。う〜ん、やっぱり順番に読んでいけば良かったか?もう一度『羊…』を読んでみるかな。
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再読。この本はいつ買ったのか。1990年に出版されて、その年に買ったようだ。処女作『風の歌を聴け』が出てから11年目。短編集である。この辺りでは、村上ワールドなるものはできているようだ。なんかおかしい、不思議な世界。『TVピープル』は、TVピープルに自分の存在を無視される話。『飛行機』は、詩を朗読するようにひとりごとを言う話。『我らの時代のフォークロア』は、一見普通の秀才同士の恋物語。だが、目に見えない枠にしばられる2人。個人的にはこの話が一番好きだ。『加納クレタ』は、水の音を聴く姉と、体内の水の音に男が吸い寄せられる妹の話。『ゾンビ』は、夢が夢で終わらない話。『ねむり』は、眠れない話。
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1949年1月12日、芦屋市生まれ。神戸高校、早稲田大学文学部演劇学科卒業。と言うことは、今年で51歳。1979年、処女作『風の歌を聴け』で群像新人賞を受賞する。村上春樹30歳の時だ。村上春樹のルーツがここにあるかなと読んでみた。<正直に語ることはひどくむずかしい>。これはよくわかる。飛び降り自殺をしたハートフィールドなる作家に文章を学んだ、とある。彼は言う。<誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?>。本を読まない鼠が小説を書くようになる。彼自身が鼠なのかもしれない。そして、誰も知らないことを書きたいのかもしれない。全然見えてこないが。。。2作目(『1979年のピンボール』)読めばわかってくるかな?Aはアメリカ、Bはブラジル、Cはチャイナ、Dはデンマーク。これは、なかなかいける。
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福田和也が『作家の値うち』の中で、<豊かさの中で呆然自失する日本人の「憂鬱」を鋭く描いた、一世一代の傑作>と言った。だが、そこにあるのは徹底した俗だ。主人公は、俗的には理想的状態である。金持ちで、社会的地位もあり、テニスを趣味とし、物凄い美人の愛人がいる。主人公になって読んでいくと気分はいい。そして2人目の愛人に子供ができ、憂鬱となる。不幸だなんて言えない。どこにもやり場のない憂鬱だ。福田和也はこの解説の中で、<俗を深く抉った倫理性が新しい>という。<いつもキラキラしていろ、他人をわかろうとしたり、何かをしてあげようとしたり他人からわかって貰おうとしたり何かをしてもらおうしたりするな、自分がキラキラと輝いている時が何よりも大切なのだ。それさえわかっていれば、美しい女とおいしいビールは向こうからやってくる>。これを文字通り受け取れば、美しい女とおいしいビールが価値であることになる。これでは福田和也の言う、<俗の深遠な谷間から、俗の聖性を取り出して見せる事>までになっているとは思えない。処世術としてはいいかもしれないが。村上龍は半歩先に行って、それ以上行かない。流行作家としてはバッチリの位置だ。イヤな奴にはかわりはないが。
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再読。ゴルフの技術解説書であるが、単なるハウツウ書ではない。理論書である。写真、図は一切ない。文字のみでゴルフのスウィング理論を語る。いわく、構えたら打とうとするだけでよい。多くのゴルファーがいかに間違ったことをやっているか。肩を回せ、腰をまわせ、ヘッドアップするな。この本によれば、そういうことをしようとするのが間違いである。肩は回すものではなく、回るもの。クラブも上げようとしてはいけない。スウィングは足から始まる。足よりも一瞬でも早く手が動くとミスをする。力は抜くのではなく、いれないのである。まさに普通に歩くようにするのである。この理論はすべての運動に共通のものだ。しかし、もちろんただ打つことだけを思って打てるようになる為のトレーニングは必要である。たった1ヵ月半やれば後は覚えているという。本書は昔、『週間ゴルフダイジェスト』に連載されていたもの。残念ながら著者の福井さんは他界されている。身長158cm、体重40kgと小柄であったため、トーナメントはあきらめ、15歳の頃からレッスンプロの道を歩んだ。教え子に、倉本昌弘がいる。父親は日本のプロゴルファーの第1号だそうだが、手ほどきは一切受けていないという。ゴルフの理論書もいろいろ読んだが、これが一番である。<体の芯から上手になる“自然流ゴルフ”の指南書>とは帯の言葉。
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木々高太郎は江戸川乱歩につぐ探偵小説家として注目された。最初は医者を目指してたようで、生理学の博士号を取り、あのパブロフの日本人としての最後の弟子でもあったらしい。探偵小説のデビュー作が、表題作の『網膜脈視症』。精神科医の大心池が探偵役となる。フロイト理論などが出てくるあたり時代を感じさせるが、精神分析もそんなに無理もなく、読みやすい。網膜脈視症とは、自分の視細胞の血管が見えてしまう症状のようだ。普通の人は、いつも同じところにあるので、習慣的に分からなくなって、邪魔にならないらしい。同じく、大心池先生の活躍し、精神分析を行う『就眠儀式』、そして偽の癲癇を見破る『妄想の原理』。自分の妻に薬のテストを行うが、殺してしまい、その後死体を愛することしかできなくなった天才医学者を描いた『ねむり妻』。小児病の条件消失の危なさを示した『胆嚢』の5篇からなる。どれも論理的で読みやすい。けっこうアカデミックでもあり、面白かった。現代のさまざまな事件についても、精神分析の観点から大心池先生に解説をお願いしたものだ。
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キツネ目の宮崎学がオウムについて総括しようした。相手は、広島刑務所から出所したあの上祐史浩だ。オウムについて、上祐史浩自身について、麻原彰晃について、その弟子について、教義について、オウム事件の背景について、オウム新法について、そして、アレフの今後について、宮崎学が上祐史浩にインタビューしながら、オウムというものはなんだったのかをまとめていく。オウム事件の根本には、麻原への「依存」=「無責任」というがありそうだ。宮崎学のツッコミも鋭く、ある面、オウムに期待したとこもあったが、さんざん裏切られたそうである。今後のアレフについて宮崎学は、「非暴力」「不服従」で、と提案しているが、現在の上祐史浩は、組織の維持と拡大にはあまり興味はなさそうである。<徐々に消えていってもいい>、と言っている。心もかなり内側に向いているようだ。
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5人の若い男女がそれぞれ託されたものは、人体のパーツであった。そして、ある日それぞれが人体の各パーツを持ちより、再生させようとする。その人物は、それぞれが、本当に心を許すことができたと信じた「先生」(レイミ)と呼ばれる美女であった。しかし、5人は仲良く協力しょうという状態ではなかった。異国での「真実の子」と呼ばれる事件、そして、白天使に黒天使になにやら新種の生物??最後は、なんじゃこりゃ〜っ、って感じ。もうめちゃくちゃだ。
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前回読んだ『マクベス』よりも、この『ハムレット』の方が面白い。『マクベス』は欲の深いおっさんの悲劇であるが、『ハムレット』の方は欲に絡んだものではなく、復讐劇。父の仇を討つのである。狂ったふり(?)をして言う皮肉たっぷりの言葉もおもしろい。<生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、…>と迷ったりするが、それでずっと悩んでいる訳ではない。最後は立派に覚悟を決める。イメージとしてはけっこう行動派だ。ハムレット自身は復讐も遂げ、死して本望だったかもしれん。しかし、一番の悲劇は、狂ったオフィーリアやと思う。
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柳田國男が提唱し、そして自ら封印した「山人論」で話は始まる。山人は平地の民族とは違い、山に住み、手足が長く、運動神経抜群である。そしてその山人こそが、大和民族のルーツであるとする仮説が「山人論」である。これは天皇神話に反するものであり、国家を挙げて山人狩りが行われた。しかし、すべての山人が殺されたわけではなかった。「山人論」に興味を持ったが為に破門された影の弟子、兵頭北神。彼もまた山人の血を受け継ぐ者であった。残された山人を守ろうとする柳田國男と兵頭北神に大正から昭和初期に活躍した有名人がからむ。宮沢賢治、画家の伊藤春雨、竹久夢二、大杉栄、甘粕正彦、出口王仁三郎、北一揮、そして江戸川乱歩。皆、山人にひかれていった。柳田國男は言う、<人が居るべき場所などはない。今、居る場所こそ真実なのだ>と。ちなみに兵頭北神なる人物は本当に実在したそうである。「山人論」については南方熊楠に否定されたとあったが本当かな?柳田民族学の怪しさに触れられる。たいへん面白かった。
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魔女の予言に唆されたマクベスは現在の王ダンカンを殺害し、王となる。しかしまた予言通り、次の王は、バンクォーの子孫たちがなるべく、マクベスは暴君と言われ、殺害される。魔女の言葉を聞かなければ、王になろうとはしなかったのか。すべては魔女の言葉を運命と信じ、それに殉じたマクベスであった。『ハムレット』『リア王』『オセロー』とともに、シェイクスピアの四大悲劇だそうだ。まあ魔女の言葉を信じて、尊敬もされず、孤独になったのが悲劇といえるかな。
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あの南方熊楠、こんなに愉快で痛快な男だったとは。和歌山に生まれ、東京大学予備門に入学するが、中途退学し、渡米したのち、ロンドンへ行く。大英博物館に勤め、「ネイチャー」誌へ寄稿する。そこで孫文と出会い親交を結ぶ。その後和歌山にもどり、陰花植物の調査を始める。粘菌学の世界的権威。性格は破天荒。日常はほとんど裸で過ごす。酒飲みで、ケンカっぱやく、猫語、幽霊語がわかる、らしい。そして粘菌を通して生命の神秘を追求しようとした。噂を聞きつけて、昭和天皇がその粘菌を見にきたり、研究所ができたりとその生涯にはいいこともあったが、また不幸なこともあった。弟との絶縁、そして息子熊弥の発狂である。最後はその息子の名前を呼びながら死んでいった。田辺の怪人、南方熊楠は骨太で、情に厚い、リテレート(民間学者、文士)であった。「猫楠」とは飼っていた猫の名前。この猫が熊楠の生涯を案内してくれる。
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カント、デカルト、ニーチェ、キルケゴール、パスカル、ヘーゲル、ソクラテスの7人の哲学者について、彼等の生活ぶりなどからその人となり及び思想を語る。外交的で陽気なカントはほとんど毎日、友人や知人を昼食に招いた。単純明瞭なものこそ真理であるとしたデカルトは、病気や苦痛を克服するには、病気や苦痛そのものから気をそらすことであると考えていた。9歳の頃から作曲をしていた音楽家ニーチェは、実は生の弁護人であった。憂鬱な男、キルケゴールは婚約していながら、何故結婚しなかったのか。奇蹟を体験したパスカルは、理性の最後の一歩は、理性を超えたものが無限にあることを認めることにあると考えた。ゲーテとも親交を深めていたヘーゲルは身長157cmで風采は上がらなかったが、結婚をし、家計簿をつけ、そして健康であった。死を前にして、私より楽しい、善い生涯を送った人間があるとは認めないとソクラテスは豪語した。7人とも生き生きと紹介されていて、非常に面白い本であった。
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<私は音楽の趣味においては十一歳の頃から差別主義社者であり、教養主義者であった>という著者は、クラシック音楽に傾倒し、<今はオペラにかぶれている>という。<父は九州の没落した地主の次男で、放浪癖があった>というが、本人もまた旅好きで、海外生活の経験も多い。それらの生の知識には感心させられるが、少々イヤミだ。一言でいうと、早熟である。私より年下とは思えない。エッセイ集であるが、相当な正統派の?教養の持ち主であることがわかる。だからこそ早熟→退廃という式が当てはまる。生臭さがなく、インテリの酒飲みの遊び人。もう残された道は退廃しかない。このエッセイで紹介されているフィガロは注目したい男だ。
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断筆解除後の初の短編集。表題作の『エンガッツィオ司令塔』は、お得意のドタバタ、エロ・グロ。これぞ筒井康隆って感じ。あいかわらずのパワフルさだ。そして『越天楽』、『東天紅』、『ご存知七福神』の七福神のシリーズ。今回はこれが一番面白い。地上に降りた七福神?やはりコイツら常人でない(神様だ)。おとぼけぶりがいい。今後筒井康隆の作品が載るのは、この文芸春秋の他「覚書き」を取り交わした出版社や新聞社からだけである。その辺りのいきさつも『附・断筆解禁宣言』に詳しい。
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自称スーパー探偵、ニック・ビレーンは相当なイカレ・パンク野郎だ。酒好き、競馬好きで何ひとつ事件を解決できない。しかし、このLA一のスーパー探偵、ニック・ビレーン、デブのわりに動きが速く、イカレた奴らの扱いはうまい。というのもイカレた奴ら以上にイカレてるから、相手はそれにビビるんである。この探偵だけではない。依頼人だってイカレた奴らばかりだ。赤い雀を探せというわけのわからんヤツ。死の貴婦人と名乗るケバイ美人。宇宙人につけ狙われているという身長140cmの貧相な男。そして、実は、本当にイカレているのは作者だ。宇宙人に狙われていた男が見たのは幻ではなく、本当の宇宙人だった。。。
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「死に至る病」とは絶望のことである。ほとんどの人間が絶望に陥っている。絶望を認識していないのも絶望なのである。そこから救われるのは信仰のみである。理性的にこの世の真理をわかったところで、なんになる。おのれにとっての真実こそが大事。永遠の自己を得るには絶望を経由しての信仰、キリスト教の信仰である、と著者は言う。あとに続く実存哲学への道をひらいた著作であるらしい。ヘーゲルが世界を理性的に体系化してみせたことに対する反発であるという。哲学というものは「生きがい」とは別物であろうが、おのれの存在の意義は解明してくれない。信仰というものは、その意義を感じさせてくれるものかもしれない。信仰に値するもの(なんて考えがいかんと著者に言われそうであるが)がキリスト教しかないかどうかはわからんが。ウィトゲンシュタインはキェルケゴールのことを、「深遠すぎてわからない」と言った。
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弟子のマルコムによる哲学者ウィトゲンシュタイン伝。<引きしまって日焼けした顔、横から見たところは鷲のようにするどく、すばらしい魅力がある>。これが弟子のマルコムが受けた第一印象である。しかしと言うか、やはり、気難しい人であったようだ。授業と言えば、ほとんどが対話形式で、自ら考え込み、沈黙が続くことも多かったそうだ。自分にも他人にもきびしかったようである。<人間は自分の才能に課された仕事に全精力全生涯を傾けるべきである>と考えるウィトゲンシュタインは、友人ムーアが病床に就いている時でさえ、議論をつづけるべきだ、とした。真理への情熱を持っていれば、例え死んでも学者冥利に尽きると考えた、という。人との接触を好まず、尊敬されたが恐れられた彼の生涯は、孤独であったような気もする。8人兄弟の末っ子の彼は、最初は工学研究を選び、姉の邸宅の設計もしていたとは驚きだ。
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「ヒットヒット広告コピー傑作選」とある。プロのコピーライターの傑作集である。あの糸井重里、仲畑貴志、あとはよく知らん人達だ。タイトルの「本読む…」は糸井重里作。自分なりのベスト5を選ぶと、1位は「本読む…」かな。以下2位「ハートをあげる、ダイヤをちょうだい」、3位「毎日生きてりゃ、腹も立つ」、4位「働けど、働けど、ボクんち、せまい」、5位「少しずつ結婚しようよ」ってとこかな。その他「すこし愛して、ながく愛して」「恋は遠い日の花火ではない」「おいしい生活」などの有名どころも解説付きで紹介されている。昔「週間文春」に連載されていた糸井重里の『萬流コピー塾』はおもろかった。
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我が恩師の本である。大学時代の教養過程の心理学の教授であった。自由教育主義で「サマーヒル」という学校をつくったニイルを日本に導入した霜田静志の弟子にあたる。この先生の授業はなかなか楽しく、お薦め本もいろいろ読んだ。その中で、以前より愛読していた今東光の『極道辻説法』があったのは、うれしかった。この本はいわば、日常生活を気分良く過ごすためのテクニック集とも言える。いくら高尚な考えを持ち、高い精神性を宿していても、それだけでは周りの人間とぶつかり、気分を害することも多い。やはり、形而下のことでも気分良く過ごすにかぎる。それに、健康にも良い。それにはある種のテクニックが必要なのである。I am OK. You are OK. という考え方を持つと人間関係はうまくいく。役割をきっちり認識することにより、心のエネルギーの無駄使いをしなくてすむ。そしてつねに対決を恐れてはいけないこと。対決した相手の心を傷つけないためには、親心、おとな心を持つこと。年下の人間に対しても感謝の気持ちを持つこと。最後に生き生きと仕事をするには、shoud と want がわかっていること。気分良く過ごすにはこういうテクを身につけること、かな。
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わたし(フランス系カナダ人。名前はヴィヴィエンヌ・ミシェル)の一人称で語られるこの話は、ちょっと不幸ではあるが、ごく普通の女性の物語かと思わせられる。2人の男にふられ、バイクで旅の途中、モーテルに1人でいるところを2人のギャングに襲われる。ここまでで半分以上もある。そこでジェイムズ・ボンドの登場となるが、颯爽と現われた訳でもない。彼女の第一印象は、左頬に傷のある冷酷そうな男、である。ギャングとあまり変わらない。しかしそのボンドは彼女を救い出す。これもあまりスマートでないが、彼女はボンドに引かれていく。そして、一夜をともに過ごした朝、ボンドは手紙を残して去った。ボンドに恋した様子をみた地元のベテラン警官は、ジェイムズ・ボンドやあのギャングたちは<あの連中だけのジャングルの住人>なので甘い夢を見て近づくな、と諭す。だが彼女は、私を愛してくれた思い出を胸に強く生きていこうとするのであった。ここでのボンドは地味で暗いが、殺しのプロであった。それと普通の女の子とのギャップはおもしろい。映画とも全然違う。同じであるのはタイトルだけだ。
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20年ぶりにハヤカワ・ミステリ文庫で007シリーズの改訳版が出た。このシリーズもさんざん映画、ビデオで見てきたが、原作を読むのは初めて。いや、全然映画と違う。映画のような子供だましはない。派手さにはかけるがこれがけっこう面白い。ジェイムズ・ボンドなんかいきなり敵方に洗脳されてて、上司のMを殺そうとする。悪役のスカラマンガも映画よりも変なヤツだ。ヘビをナイフで殺して生のままむしゃむしゃ食う男だ。このタイトルの映画はリアルタイムで見た。ボンドは2代目のロジャー・ムーア。メアリー・グットナイト役のブリック・エクランドはなかなかかわいかった。
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<魔法はディスクの回転で生産され、光りはその莫大な魔力を通り抜けるために、速くは走れない。魔道士は、ディスクを覆う生の魔法を蒸留して、魔力を身につけることができる>。ディスクワールドシリーズ2作目、今回はエスカリナという少女が魔道士になろうとするお話。伝統的には女が魔女になり、男が魔道士になるらしい。しかし、エスカリナは魔女グラニーの助けを借りて魔道士になる為「見えない大学」に入学しようとする。この世界でも魔女はけっこう実生活に役立つことを行い、魔道士は観念の世界に生きているのがおもしろい。どこでも男と女はそうらしい。読み飛ばしはできない。何故なら短い文の中にも様々な比喩に満ちており、それがまた味わい深いのである。前回の死神の弟子モルトのような魔道士シモンもなかなかいい。しかし、何よりも光りがゆっくり進む世界での夜明けというのを一度見てみたいものだ。
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転校生は頭のとんがったヤツだった。あだ名はすぐに付く。ビリケンだ。ビリケンとは大阪の通天閣にあるなんかようわからんけど頭がとんがっているヤツだ。転校生の方のビリケンは足は抜群に速く、成績は抜群に悪い。運動会で大活躍と思いきや、すぐに転校していく。風のようなヤツだった。そんなヤツいませんでしたか?絵もいしかわさんが描いた。通天閣の日立のマークと「づぼらや」の看板が泣かせる。ところで、新世界のあの怪しげな弓道場はまだやってんのかな?
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そういや、こういう理科系の人間が主人公の小説ってのはあんまり読んだことがないなあ。まあ、それが新しいってことなんか。1作目の『すべてがFになる』ほどの面白さには欠けるが、それなりにおもしろい。前半が少々長い気がせんでもないが。犯罪者の論理的で理知的であることと、動機の感情的な部分のギャップが理系の人間らしい。言葉に出さない分だけ、どんな気持ちでいたのかがよけいに気になる。
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わかりやすく、飽きずに読めた。わかっているようで、いざ人に説明するとなると困るような言葉が、対話形式で丁寧に説明されている。対話の相手はクマだ。コアラとパンダも出てくる。予備知識もほとんどいらない、と思う。<カリスマ(この言葉ももう古いか)受験講師が書いた日本一やさしい経済の本>、らしい。数学の『…が面白いほどよくわかる』シリーズで大評判であったそうな。それだけのことはある。しかし、書く方も根気がいるやろなあ。何度も同じ言葉を出し、くどいぐらい説明してある。本文イラスト(手書きでなんとも味わいがある)、デザイン、編集までやっているし、なんと著者までやっているではないか。。。世界経済編も是非読みたい。
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働くということはどういうことであるのか。仕事は金をかせぐ為のものと割り切って、趣味に生きるのはつまらない。趣味はしょせん、趣味。趣味が高じて仕事になったら、趣味ではなくなる(楽しめなくなる)。著者は15年間サラリーマン生活を送り、その後作家になった。企業を止める時、自分はそうであるとは思っていなかったが、いかに自分が企業の人間であったかを思い知らされたそうである。やはり、1日8時間以上も拘束されるのであるから、その仕事が楽しくできるようでありたい。
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おもろかった。いわゆる密室殺人。飽きずに読ませてくれる。登場人物はけっこう飛んでるヤツが多い。天才プログラマの真賀田四季が言う。<そもそも、生きていることの方が異常なのです。…死んでいることが本来で、生きているというのは、そうですね…、機械が故障しているような状態。生命なんてバグですものね>に続いて、<…眠ることの心地良さって不思議です。何故私たちの意識は、意識を失うことを望むのでしょう?意識がなくなることが、正常だからではないですか?眠っているのを起こされるのって不快ではありませんか?…生まれてくる赤ちゃんって、みんな泣いているのですね。生まれたくなかったって…>。こいう考え方には引かれる。それとこの本を読んだおけげで、フォントの色、<999999>と<ffffff>の間の色の指定ができるようになった。これはうれしい。っつうか今まで知らんかった。9の次は a だったのか。。。(^^;。
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〓 | ああ、くだらん。実にくだらん。最近の小説のパロディ集。『四十七人の力士』『パラサイト・デブ』『すべてがデブになる』『土俵(リング)・でぶせん』『脂鬼』『理油(意味不明)』『ウロボロスの基礎代謝』。で、すべてにデブと言うか、力士が出てくる。こんなにくだらんのも久し振りだ。しかし、まあこれらの原作者と著者の仲の良さ。って感じですね。まあ原作の方がちょっと気になる。いやこれは原作を読まそうとする宣伝ではないか。。。それにのって『すべてがFになる』を買ってしまった。『理由』は文庫本になってからにしよう。本書の内容は何度も言うが、くだらんので、お薦めできません。タイトルも(仮)のままやし?私は嫌いじゃないですけど。角のRはなかなかいい。 |
〓 | 著者の哲学論はおもしろい。<哲学の目的は、思想の論理的な浄化である。4.112>つまり、哲学とは思想ではない、ということ。思想がどこまで正確かってことを検証するものであるということ。<哲学は、放置しておけば、いわば曖昧模糊のままである思想を明瞭にし、それに明確な輪郭をあたえる義務を負う。4.112>。論理学により、物事を明確に示そうとした気持ちはよくわかる。現代の記号論理学から見ればかなり誤解が多いらしいのであるが。思想は、何事かを主張するものであるが、哲学は何も言わない。哲学は道徳や、人生いかに生きるべきか、なんていうもんではない。これこそ純粋な哲学であると思う。<哲学は、語りうるものを明晰に表現することによって、語りえぬものを示唆するにいたる。4.115>。で次のような結論になる。<語りえぬものについては、沈黙しなければならない。6.54>。最後の「哲学の正しい方法」の中では次のように言う。<哲学の正しい方法とは本来…他のひとが形而上学的なことがらを語ろうとするたびごとに、君は自分の命題の中で、ある全く意義をもたない記号を使っていると、指摘してやること。…6.53>。後半の『哲学探究』の中では、言語についての探究となる。自分が言う言葉はどこまで正確だと言えるか、そして相手が理解するとはどういうことなのか、等々。ほとんどが問題の提出で、解答を示している訳ではない。疑いだしたらキリがないような事柄が多いが、その疑問はよくわかる。ヴィトゲンシュタインは思想のない(いい意味で)、純粋な哲学者である、と思う。 |
〓 | 著者は中国の明時代末の人。経歴については、はっきりしないらしい。内容は、菜食主義的、中庸的、大衆的、日めくりカレンダー的教訓集のようなもの。<菜っ葉食う人たちは、心が玉のよう。ゼイタクする者の、下品なさまを見よ。質素は心をきれいにし、ゼイタクは意地をきたなくする>なんてタイトル通りのものやら、<物をつかいこなす人は、得をしても平気、損をしても平気、天地をマタにかけてあるく。物に使われる人は、不幸だとハラをたて、幸福だと欲ばり、毛すじほどのことにしばられる>。なんてものもある。寝る前にこういうのをチョコチョコ読むのはけっこう好きだ。訳者は半鼓堂戯有益斎主人、魚返善雄。古本屋で50円で買った。元の定価が140円。ちょっと前の岩波文庫のようにハトロン紙でカバーされている角川文庫もめずらしい。宣伝の帯もついていて、『日本人とユダヤ人』『戦争を知らない子供たち』『ぐうたら生活入門』『きまぐれロボット』『戯曲 新・平家物語』などが紹介されている。 |
〓 | <文章は、正しいテンポで読むときにだけ、理解することができる。そういう場合がときおりある。わたしの文章は、すべて、ゆっくりと読まれるべきだ>。残念ながら、全て正しいテンポでは読めなかったが、ヴィトゲンシュタインの書いているこの断章はかなり正確であると思う。しかし、生産的ではない。生きる喜びなんてもんでもない。いろんな方向から光りを当て、その考えはちょっとおかしい、と言うだけである。思想なんてものはない。それだけ、無色透明である。『論理哲学論考』ではどうだろうか? |
〓 | 期待通り、陽子はこちらの世界で王になることが決められていた。王を決めるのは麒麟。陽子は十二の国のうちの慶の国の景王。そして陽子を王と決めた麒麟が、景麒、ケイキであった。この下巻では、この世界のいろいろなことが明かになる。そして、陽子の腹も据ってくる。自分の為に生きようと決心し、生きて元の世界に戻ろうと考える。しかし、王になることは躊躇する(そんなことになったら帰られへんし。何より自分はそんな大した人間やないし、そんな重荷はイヤっていう感じ。)。また、元の世界に戻ることがいいのか?とも思い始める。親友で半獣の楽俊には、<自分のやるべきほうを選んでおくんだ>なんて言われ、別の国の王(延王)には<麒麟が選んだのだから、文句があれば麒麟に言え。…少なくとも俺はこれでやってきたからな。それでも不服なら自分でやってみろ、っと>なんて言われ、その気になってしまう陽子であった。これから物語は始まるのだ。かな? |
〓 | 八方美人で優等生の中島陽子は、通っていた高校に突如現われた金髪のケイキという男に連れ去られる。そして、これまた唐突に得たいの知れない怪物が登場し、戦うはめになる。しかし、渡された宝剣と青い珠、そして陽子の体内に入ったもの(ジュウユウ)のお陰で、とんでもないパワーを発揮し、なんとか生き延びる。そしてその戦いの中、気を失い、気が付けば巧国(十二の国からなる世界への1つ)の浜辺で倒れていた。そしてまわりを見れば、ケイキや一緒に怪物(妖魔)と戦った仲間がいない。たった1人、全く知らない世界に置き去りにされる。その国で陽子は女郎に売られそうになったり、またもや妖魔という怪物に襲われる。いったい自分の身に何が起こったのか?そして、これから何が始まろうとするのか? もう元の世界には戻れないのか?何故か光る毛並みを持った猿がついてまわる。とにかく生きて帰りたい、という思いで陽子はその世界で戦う。さあ十二国記の始まりだ。一昨年から読もうと思っていたX文庫の十二国記が講談社文庫として登場した。人気があるので、より多くの人に読んでもらおうという事かな。この機会に読んでいこうと思う。しかし、いきなりテンション高い。 |
〓 | 再読。ヘーゲルの弁証法的統一、概念に至る認識の方法とやらが概ねわかった。ヘーゲルもこの上巻で、繰り返し繰り返し、同じことを言っているのがわかる。哲学には哲学の認識の方法があるということ。理性的な考えというものが現実であるということ。そしてヘーゲルの言う認識の方法でもって「有論」が始まる。(この「有論」から下巻の「本質論」、そして「概念論」へと続く)。有と無は最初の段階、どちらもなんの規定もされていない段階では、有と無の区別はない。有は無であり、無は有である。これでは有も無もわからない。それは有と無の統一によってわかる。<有と無の真理は両者の統一であり、この統一が成である>。これが最初の概念である。有の概念が成であるということ。有とは何か?ではなくて、無との統一である成をもって有を知ると言うことになる。有をつきつめて、無がでてきて、成という概念を得て、有を知る。またこの成というのは、固定した統一でなく、区別も含んでいる。ヘーゲルは<有および無の単なる統一ではなく、自己のうちにおける動揺である>という言い方をしている。これがヘーゲル流、弁証法的統一である。そして成も<自己のうちへ深まり自己を充実させなければならない>。それが例えば生命である、と言う。この調子でどんどん展開されていき、絶対的理念へと至る。それがヘーゲルのいう体系ということなのか。 |
〓 | ブルース・リーに憧れる男は多い。あのオリックスのイチロー。ホームランを打った後、ホームベースに戻ってきたときにするお辞儀の仕方はブルース・リーを真似しているそうだ。唐沢寿明もそうであったらしい。5、6歳の頃映画館で見て、俳優になりたいと思ったそうだ。高校を中退した時には<身震いするほど嬉しかった>らしい。けっこう爽やか路線で売っていたが、実は○○××な男であることがわかる。その他、山口智子との出会いから結婚に至るまでなどを語る。嫌味なく、けっこうええ男や。本名、唐沢潔。1963年東京生まれ。 |
〓 | ようやく読み了えた。と言うか、字面を追った感じである。やはり、上巻でのヘーゲルの説明する予備概念が頭に入っていないせいか、弟子たちの書いた補足説明でさえも理解できていない。まあ、一旦読んだことにしておいて、振り返ってみようと思う。下巻は第二部『本質論』から始まる。ここでは、A現存在の根拠としての本質{a純粋な反省規定(イ同一性、ロ区別、ハ根拠)、b現存在、c物}、B現象(a現象の世界、b内容と形式、c相関)、C現実性(a実体性の相関、b因果性の相関、c交互作用)に分かれる。つづいての第三部『概念論』では、A主観的概念{a概念そのもの、b判断(イ質的判断、ロ反省の判断、ハ必然性の判断、ニ概念の判断)、c推理(イ質的推理、ロ反省の推理、ハ必然性の推理)}、B客観(a機械的関係、b化学的関係、c目的的関係)、C理念{a生命、b認識(イ認識、ロ意志)、c絶対的理念}に分かれている。で、予備概念に戻ると。。ヘーゲルの哲学体系は『論理学』(本書の『小論理学』のこと)、『自然哲学』、『精神哲学』の3部からなる。本書の序論でヘーゲルは体系についてこのように言う。<非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、主観的な考えにすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。…多くの哲学的著作は、このようにただ著者の個人的な考え方や意見を語っているにすぎない>。言い替えてよければ、ヘーゲルの哲学は考え方や意見ではないということだ。確かにそれでこそ哲学の醍醐味だ。そういう意味で哲学は思想ではない?しかし、ヘーゲルはこういう言い方をしている。<思想が単に主観的でなく、客観であることを要求してはじめて本当に実践的なものである>。理論と実践を分けている訳ではない。またカントの実践(道徳)哲学は幸福を目標としており、幸福とは、人間の特殊な傾向、願望、欲求、等々の満足と解されていたから、なんら拠り所のないものである。と、なかなか厳しい。まあじっくり読み直しかな。 |
〓 | <アル中の問題は、基本的のは「好き嫌い」の問題ではない。…アル中になるのは、酒を道具として考える人間だ。…肉体と精神の鎮痛、麻痺、酩酊を渇望する者、そしてそれらの帰結として「死後の不感無覚」を夢見る者、彼等がアル中になる。これらはすべてのアディクト(中毒、依存症)に共通して言えることだ>。主人公は小島容(いるる)。変な名前だ。アル中で入院し、これ以上飲むと死ぬと宣告される。。しかし、小島は病院を抜け出し、飲んでしまう。酔って病院に帰った時に知らされる少年の死。霊安室での医師の赤河との乱闘。赤河は少々乱暴であるが、いいヤツだ。そして、友人の妹で家族をすべて失いながらも<自分のために自分を生きる>さやか。その中で小島はやはり生きていこうとする。。。35歳で病院にかつぎこまれた著者の実体験をもとに書かれた小説である。すべての酒飲み達へ。 |
〓 | 「ドはドーナツのミ」が正しいらしい。ギャグかなと思ったが、絶対音感を持つ人にとっては、それが正解らしい。日本の音楽をズタズタにしたのは小室哲哉、日本の音楽業界のアーティストに対する扱いのひどさ、そして、早期音楽教育の弊害等について語る。著者は3歳から厳しいピアノの練習をやらされ、一時はかなりボーッとした無気力な子になってしまったそうだ。バカ親ではなく、りっぱな親バカのもとで、伸び伸びそだてようというのが1つの結論。それよりもなによりも、著者による「First LOVE」の全曲解説、これはなかなかいい。知らない音楽用語もバシバシ出てくるが、あまり気にならず、よさを伝えたいという気持ちが、よく伝わってくる。 |
〓 | 再読。デカルトもやはり、1人で考え抜こうとした。多数の声というものは、<私どもを説得するものは確実な認識であるよりは、まさにそれ以上に慣習と実例である>ので、真理に関しての妥当性はないとし、<…ただひとりの人間によって発見されるというのがはるかに真実に近いらしいから。…他のさまざまな意見を有する人を私は1人として択ぶことができなかった。そこで私はやむをえず自分を自分自身で導こうと企てなければならなかった>そうである。そして、自分の為の当座の準則をつくった。第一格率。極端な意見は避けながら国の法律、慣習に従う。第二格率。どこまでも志を堅くして、断じて迷わぬこと。第三格率。運命に、よりは自分にうち勝とう。というものである。一切を虚偽であると考えることでスタートした彼は、<「私は考える、それ故に私は有る」というこの真理がきわめて堅固であり、…これを私の探究しつつあった哲学の第一原理>とした。あの「cogito、ergo sum」だ。論文もなかなか世の中に発表しようとはしない。何故なら、それに対する意見を聞く時間がもったいない、精神を休養させることできない、意見を聞いたとしても、自分で想像したものと大差ない、という理由らしい。自分が死んでから公表したかったようだ。まあ、そうもいかなくなったらしいが。デカルトはけっこう裕福で、生活の為に職業に就く必要はなかったらしい。子どもの頃は脆弱で、眠りたいだけ、眠ることが許され、大人になってからも1日10時間は眠っていたらしい。岩波文庫では今は新訳となってます。 |
〓 | 大東流合気柔術の祖、武田惣角のお話。明治初期、武士の時代が終わる時である。その中で会津藩士の息子であり、剣術の修行をしていた惣角が、御式内という技や沖縄の手(空手の原型)などに触れながら、独自の合気柔術を極めていく。その方法は徹底した実践である。やたらケンカをふっかけながら、自分の技を試していく。最後はツルハシなどを持った工事現場の荒くれ男たちがその犠牲になる。このやり方は、同い年でライバルとして登場する、あの「講道館」を創設した柔道の嘉納治五郎が対照的だ。商人の子で、理屈っぽく、東京大学に進んだ嘉納治五郎に対して、惣角は武士の出で、野試合で成長し、道場を持つことはなかった。合気道の植芝盛平は惣角の高弟にあたる。後年、体力にものをいわせた柔道をにがにがしく思っていた嘉納治五郎は植芝盛平の技を見て、「これこそが私の理想としていた柔道だ…」、とつぶやいたという。著者も武道をやるらしいが、さすがに合気のコツの説明も詳しいし、空手の歴史もしっかり書かれている。非常に興味深い1冊であった。 |
〓 | ホラーではない。ファンタジーである。ここディスクワールドでは、死神は砂時計である人の残りの人生を確認して、死の瞬間にその人の肉体と霊魂を大鎌で切り離さなければならない。それが死神の主たる仕事である。その仕事はけっこう忙しく、死神も自分でやるのがイヤになってきたみたいで、バネ仕掛けで動いているような変な人間、モルトを弟子にとった。しかし、その関節が1つ余分にあるような動きをするモルトは、死ぬべき運命の王女を助けてしまう。歴史はなるようになろうとし、本来の現実が壁のように押し寄せてくる。。。この辺りは映像にすると面白そうだ。タイトルからは想像できない読後感の良さ。最後の場面の転換は、あの映画の『蒲田行進曲』のラストのように明るく終わる。すっとぼけた死神とモルトはいい味でてる。 |