日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 江戸の外食文化の全体像


1.江戸の外食文化の全体像
-上方と江戸の二極文化-


■江戸時代とは
江戸時代とは、徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開いた1603年(慶長8)から、15代将軍徳川慶喜が大政奉還して将軍を辞した1867年(慶応3)までの265年間をいう。
この時代は将軍を頂点とした全国260の大名(藩)を編成した封建的政治体制(幕藩体制)で、江戸初期と幕末を除き、国内で戦乱が起きなかった平和な時代であった。



■江戸の町
今から約400年前、徳川家康が江戸に入府し、本格的な築城と海辺の埋立を行った。幕府は、飲料水の確保や洪水を防ぐために川を付けかえるなど河川を整備した。治水は都市造成の上で必要であり、本格的な「神田上水」は寛永6年(1629)頃に完成し、江戸市中へ給水するなど、水道網を整備した。
江戸が日本の中心地として武士が住むようになると商人や職人も増え、人口は増加の一途をたどり、江戸は享保期(1716~1736)には武家、寺社、町人を合わせて人口100万人を超えた。城下町においては、それぞれ身分に応じて武家地、寺社地、町人地の三つに配分された。

江戸時代の土地は、基本的にはすべて幕府の所有物だった。つまり、個人が土地を持たなかったのだ。幕府は大名に土地を貸し、大名は地主などに貸し、地主はそこに長屋を建てて庶民に貸すという構図である。江戸町人が住む地域は「町人地」と呼ばれ、その中の「町人」も、いくつかの階級に分けられており、町人には、都市に土地や家を所有している「家持」町人と呼ばれる階層と、そうではない者に分けられる。

基本的に、土地や家を所有している家持町人には、幕府や藩から一定の範囲で自治権が与えられて様々な税や町役(物や労働力を提供すること)を負担しなくてはならなかった。
一方、都市に土地や家を所有していない、「長屋の住人」や「借家住まい商人や職人」、地方などから出てきて店などで働いている「奉公人」の人たちは町政への参加の権利は無かったが、そのかわり税負担や町役の負担も無かった。これらの税負担を持たない長屋の住人、借家住まいの住人、奉公人などの人々は正式な町人とは呼ばない“身分”の人々であった。

「将軍のお膝元」とよばれる政治の中心都市として繁栄した元禄期の江戸(1700年頃)の人口は、武家地の武家方人口(家族、使用人等を含む)が約50万人、町人地には町方(まちかた)とよばれる諸商人、諸職人等の人口が約50万人という100万人を超える一大消費都市で、生活必需品はもっぱら舟運に頼っていた。
江戸城を中心として日本橋川・神田川・京橋川・楓川及びそれらの派川や掘割が埋立地内に網の目のように開削され、舟運の貨物を陸揚げする河岸物揚場が多数設置され、江戸湊(江戸湾)は当時商都といわれた大坂に劣らぬ「水運の都」として栄えた。

■江戸食文化の発展
17世紀後半から18世紀にかけては、江戸の都市文化が花開くとともに食文化も発展した。
「江戸は諸国の人の掃き溜め」といわれるほど全国各地からさまざまな人々が集ってきた。そうした人々は当然それぞれその出身地の食文化を背負ってきた。江戸には全国の食文化がもちこまれた。それら各地の食が江戸で出合い、たがいに交流と融合を重ねながら次第に新しい江戸の食を生み出していく。江戸の食はまさに全国の食文化の集大成であった。特に江戸文化が爛熟期を迎えた19世紀初頭の文化・文政期(1804-30年)には、学問,文芸,絵画など、さまざまな文化が一般庶民にまで広がった。
また、江戸周辺の流通網が発達して、酒や醤油、味醂(みりん)などの調味料が江戸で生産され広まった。江戸の町では濃口醬油が普及し、江戸前料理の「握りずし・天ぷら・うなぎの蒲焼き・丼もの」などが生まれ「食は江戸」,「江戸の食い倒れ」といわれるような料理や食を楽しむという風潮が生まれて江戸料理が社会に浸透し、日本の食文化の頂点に立つに至った。

■江戸の地廻り経済の成立と江戸の味覚
江戸時代は、京都と大坂を中心とする上方と江戸が文化や政治の二極(天皇と幕府)となり、夫々で独自の料理文化が発達した。
江戸の経済力が上方をしのぎ、文化の中心が上方から江戸に移ってくる時代になると、江戸の食文化も上方の影響を離れて独自の味覚をつくり出すようになった。利根川流域に位置する房総地域(千葉)の流山の味醂や野田・銚子の濃口醤油が江戸に大量に運ばれる江戸後期には、醤油を利用した江戸料理が庶民層にも広がっていく。
江戸の四大料理といえば、蕎麦、うなぎの蒲焼、天ぷら、握り寿司があげられ、これに欠かせないものが濃口醤油であった。
割箸の普及も江戸のうなぎ屋からであり、うどんから蕎麦へ、押し鮨から握りずしへ、薄い味の醤油(下り醤油)から江戸の人々の嗜好にあった濃口醤油(関東地廻り醤油)へ、また、調味料の酒、白砂糖、塩、酢、醤油、味噌、味醂の発達と普及など、京都・大坂の上方経済から自立した江戸の地廻り経済の成立が江戸前料理と歩調をあわせて江戸の味覚が成立した。

■生産力の発展と流通網の確立
日本では江戸時代に新田開発などの農業が奨励され、耕地が増大し、農具の発達や肥料の改良などもあって、米穀類・野菜・果実など農業の生産量も増加した。
幕府や諸藩の年貞米は、海路や陸路で各地に運ばれた。交通、流通の整備は江戸、大坂、京都の三都を中心に地方へ広げられていく。
幕府は江戸の日本橋を起点に一里塚を築くことを定め、江戸・大坂・京都と各地を結ぶ五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の整備を図った。また、諸藩も城下町を中心とした街道(脇街道)を整備し、全国の流通網が確立した。



農業以外でも、漁業、林業、鉱山業、手工業などあらゆる産業が江戸初期から中期にかけて大きく発展した。
産業の発展によって物資を大量に運ぶ海運(物流)も盛んになっていった。京に近いという地理的優位性から、大坂は全国を相手にした商人が集まる町として発展する。そのため、各地の産物が集散し商活動(経済)の活発な大坂が「天下の台所」としての地位を固め、それに伴って全国的な東廻り・西廻りなどの航路が整えられた。

東西航路網の発達に伴い、江戸から東北の太平洋沿岸を廻る「東廻り航路」と瀬戸内海から日本海を廻る「西廻り航路」が開かれ、江戸と大坂を中心に、全国の沿岸が海路で結ばれた。
菱垣廻船(木綿・油・醤油)、樽廻船(酒)が運航し物資の交流も盛んになり、江戸、大坂に2大集散地ができ、大坂の堂島に米問屋「堂島米会所」や「雑喉場(ざこば)魚市場」、「天満青物市場」が、江戸では浅草橋近くの蔵前に米問屋や幕府米蔵「浅草御蔵(あさくさおくら)」が、日本橋北詰付近の魚河岸(うおがし)近くに「魚市場」、神田には「青物市場」が開かれた。

 
東海道五十三次「日本橋 品川へ二里」 柳川重信、享和四年(1804)
日本橋の魚市の様子。天秤棒の前後に大きなマグロ担いだ振売りや、戸板状の「板舟」には鯛や蛸と一緒に様々な魚が描かれている。
魚市場への集荷は江戸の近海をはじめ、房州・上総・下総(千葉県)、相州(神奈川県)、遠州・豆州(静岡県)などの海の魚や淡水の魚が集められた。


■大名行列と庶民の旅、宿場町と茶屋の発展
寛永12年(1635)、三代将軍家光による「武家諸法度」が定められ、大名の参勤交代制が始まり、毎年4月に東西大名が交代するようになった。
大名は、3月から4月にかけて江戸に参府する。翌年4月には暇を与えられて国元へ帰るので、毎年、大名行列を仕立てて江戸と国元を往復することになる。大名が宿泊するのは本陣で、脇本陣には家老、家臣は旅籠や近隣の農家に宿泊する。参勤交代は、幕府が全国の諸藩を支配するために作り上げた方法(幕藩体制)である。

参勤交代により、全国の主要な街道が整備されて宿場町の充実が進むと、経済力をつけた町人などの庶民も旅を愉しむようになった。例えば、江戸中期に人気があったのは「伊勢参り」である。一般の旅人は宿屋の「旅籠(はたご)屋」か自炊宿泊の「木賃宿(きちんやど)」を宿泊施設として利用した。
食事を提供する「宿屋」を旅籠屋、略して「旅籠」と呼ぶようになった。江戸時代、街道沿いでは茶店や料理屋が、名物料理を旅人に提供した。江戸、大坂、京都を結ぶ街道沿いには、茶屋や即席料理を作る「料理茶屋」もでき、街道の宿場などにも贅沢な酒楼が出現した。料理茶屋の進出によって、箸も多く使われるようになり、料理茶屋での料理は後に会席料理となる。


「東海道五十三次 大津 走井茶屋(はしりいちゃや)」歌川広重
琵琶湖の南に位置する大津宿は、東海道の中でも最も栄えた大きな宿場でした。「走り井は逢坂大谷町茶屋の軒場にあり、後の山水ここに走り下って湧き出づる事、瀝々として増減なく甘味なり」とある有名な泉のある茶屋のありさまが描かれています。「走井餅」が名物として親しまれた「走井茶屋」と清水の湧き出る井戸、米俵を運ぶ車が連なる図。


■醤油や味醂、酢などの調味料の普及
江戸時代の大坂は幕府の直轄地として多くの人口を擁した。西廻りの航路により、大坂には膨大な種類と量の物資が集まった。
流通網の確立により、地域の生産物(米、醤油、酒、酢、昆布、かつお節、漬物などの加工品)も江戸や大坂に運ばれた。
大坂は西日本をはじめ、北陸・東北地方からの物資が集まる最大の商業都市であった。江戸は大きな消費都市となり、それを支えたのが陸海の要衝であった大坂である。

経済、物流、金融の経済的中心地であった大坂は、瀬戸内の豊かな魚介類や近郊で作られた野菜だけでなく、諸藩の年貢米や特産物を運びこむ蔵屋敷が立ち並ぶ「天下の賄い所」とも「天下の台所」と称された商いの町であった。
この時代の大坂は江戸の消費生活を支えていた。大消費都市江戸は、大坂の商品を必要とし、大坂から江戸へと大量の「下りもの」が運ばれてきた。上方から運ばれた『下りもの』は質のいいものとして歓迎され、味噌、醤油、味醂、酒、油、菓子、紙、織物など多くの生活物資が江戸に送られた。
当時、多くの生活物資が上方から江戸に下り、集められたことで各地の食文化が江戸に流入し、調味料の発達とともに江戸独特の料理文化が花開いていった。

上方の醤油は「下り醤油」と呼ばれる高級品であったが、江戸中期以降には品質のよい「関東地廻り醤油」(濃口醤油)が大量に生産されて江戸市中に広まった。上方から運ばれてくる「下り醤油」への依存度が次第に低下していき、醤油は江戸の庶民層にまで関東醤油(濃口醤油)が重宝され、安価な地廻り醤油文化が形成され、あらゆる食材の調味料として幅広く料理に使用されるようになった。

■江戸幕府の貨幣政策が飲食業を発展させた
徳川幕府は、貨幣鋳造権の独占による貨幣の鋳造に着手して日本の貨幣統一を進めた。幕府が行った「三貨制度」は、金貨・銀貨・銭貨(銅貨)を柱とする当時の世界でも最先端の貨幣制度であった。
貨幣経済が浸透して全国的な経済活動の発展による豪商の出現とともに、中・下層の町人たちが次第に経済力を持つようになった。
商品の流通にたずさわる町人たちの生活は、急上昇して都市経済の発達にともなって、外食や総菜屋、そばの出前などの中食を提供する店が発達してきた。
また、京都を中心とした精進料理や懐石料理が発達し、その後、華道や茶道、仏教など、文化の発展にともなって“家”の外での飲食の習慣が生まれた。更に、貴族や寺社から町人が都市の主人公となり、飲食を生業(なりわい)とする人々が増えていった。

■料理技術が一般庶民に普及
江戸時代の後期は、江戸の都市文化が花開くとともに食文化も発展した。料理技術が一般的に普及し、人々の食への関心は高まり、登場したのが料理本の流行である。そうして、現代の料理の原点とも言える多様な料理文化が育まれた。享保の時代まで外食はほとんどなかったが、宝暦から天明期(1751-1789)には、飲食店が急増し、都市の下層部まで外食文化が浸透した。

化政期に入ると料理本が急増して江戸時代には200点以上の料理書が成立したという。そして、料理本と料理屋に代表される新たな料理文化が花開いた。庶民が料理文化を享受できた背景には、寺子屋を中心とする庶民教育の普及により識字率が向上して、大衆の文化レベルが向上したことも一因である。
上方で起こった出版は、江戸時代中期以降に江戸独自の出版物(江戸地本)として栄えた。さらに、江戸時代後期に出版された料理本は、一般庶民向けで分かりやすく、まさに料理本と呼ぶにふさわしい身近なものが数多く登場し、料理の知識や技術が広く地方にも広まっていった。
特に文化文政期頃(1800年頃)になると、流通や産業が発達し、醤油・みりん・酢など大量に作られて値段も下がり、一般庶民でも、これらの調味料が使えるようになったことで、さらに料理が発展した。



■関西の「淡口醤油」、関東の「濃口醤油」
「淡口醤油・薄口醤油」
江戸時代初期は、醤油の産地はおもに上方で、とくに堺で造られていた「醤油溜」の評判が高く、元禄期には名産品として諸国に流通していた。
寛文6(1666)年、それまでの醤油「醤油溜」とは違う「うすしょうゆ」が龍野で誕生する。藩主の脇坂安政がこの増産に力を入れた結果、龍野の醤油は淡口醤油に切り替わった。
やがてこの醤油は、京都の懐石料理や精進料理などで使われるようになっていく。江戸時代後期に藩主の脇坂安宅が京都所司代となり、京都や大坂での販路拡大に尽力。その結果、現在のように関西を中心とした淡口食文化圏が形成された。

「濃口醤油」
18世紀半ばになると、江戸では下り醤油の消費量が減り、代わりに江戸近郊で醸造された「濃口醤油」が爆発的に売れていく。
理由としては、利根川や江戸川の水運の発達による地の利と、霞ケ浦周辺の大豆や筑波の小麦など質の良い原料が入手しやすかったことが挙げられる。
こうした関東地廻り醤油(濃口醤油)の産地は銚子、野田、土浦などであった。とくに銚子では宝暦4年(1754)、野田では天明元年(1781)にそれぞれ造り醤油仲間が結成され、以後生産量を着実に増やしていった。
新鮮な江戸前の魚介類の調理には濃口醤油がよく合ったことから、握り寿司のつけ醤油として江戸の人々の支持を得た。濃口醤油の出現により「蕎麦つゆ」「鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)のタレ」など、現在でもおなじみの調味料が完成した。

■関東と関西の味・食文化の違い
(1)出汁(だし)文化
食文化では、武家社会から生まれた関東料理、公家社会から生まれた関西料理とともに、料理もわかれた。
武士が中心の江戸の関東地方では、出汁の原料として、かつお節が愛用され、一方、公家が残った京都、商人の街として栄えた大坂などの関西地方では昆布が愛用される。
その特異な環境に育まれた「風土」が、三都市(江戸・京都・大坂)の食文化の基盤にある。歴史的に見て「かつお節」はカツオが黒潮に乗って太平洋沿岸を北上するルート(枕崎、土佐、伊豆、安房)で発展し、「昆布」は北海道から「西廻り航路(北前船)」により、越前経由で陸揚げされて陸路で京都・大坂に運ばれた。“鰹だし文化”が「江戸の食文化」を、“昆布だし文化”が季節感を楽しみ、五感で味わう薄味の「京の食文化」を支えて独自のだし文化を発展させたと言える。

(2)薄味と濃い味
関西と関東の食生活にもその出汁文化の影響が色濃く出て、京都の精進料理や懐石料理の発達した“うす色・うす味文化”の上方や、江戸の食べ物の四天王と呼ばれる蕎麦・寿司・天ぷら・鰻などを生んだ“濃い味文化”の江戸と食文化でも二極を形成した。
味の二極文化とは、関西料理の「薄口の味、薄口醤油と昆布だし文化の淡白な味付け」と、関東料理の「濃口の味、濃口醤油と鰹だし文化の濃厚な味付け」を云う。

江戸時代の末頃出版された『守貞慢稿』は、巻5「生業,料理茶屋」の頁で、京阪と江戸の味付けについて次のように比較している。

「三都自ラ異ナル所アリ 京阪ハ美食ト雖モ鰹節ノ煮ダシシテ是ニ諸白酒ヲ加ヘ醤油ノ塩味ヲ加減スル。 故ニ淡薄ノ中ニ其物ノ味アリテ、是ヲ好トス、江戸ハ専ラ鰹節ダシニ味醂酒ヲ加ヘ 或ハ砂糖ヲ以テ代之 醤油ヲ以テ塩味ヲ付ル 故ニ 口ニ甘ク旨シト雖モ其ノ物ノ味ヲ損スニ似タリ」。

つまり、京阪は鰹だしに清酒を加え醤油を控えめに加えて不足する塩味を食塩で調節する。したがってうす味だけれども素材の味が生きており、これを好む。一方、江戸は、鰹だしに味醂または砂糖で甘味を加え、塩味は醤油の量で調節することから、甘くて旨いけれども素材の味が損なわれていると述べている。

(3)寿司ネタの好み
寿司のネタでも、現在、関西はハマチや鯛といった白身のネタが好まれるのに対して、関東ではマグロが圧倒的な人気である。関西の人たちが、新鮮な白身の歯ごたえを好むのに対して、関東の方々は、マグロや熟成魚のしっとりとしたうまみを好まれる傾向が強い。寿司につける醤油の味にも関東がすっきり、関西はやや甘めの好みがあるようである。



2.江戸の食文化の発展
  1. 当時、世界一の大都市であった江戸の町での大きな変化は一般の民衆が商売店で飲食を楽しむことができるようになったことである。江戸開府初期の百年ぐらいまでは、街道と宿場を除いて、食事ができるところは少なかったが、18世記中頃の宝暦年間(1751~1763)になると江戸の町に餅、田楽、煮しめなどを売る店、酒と肴を提供する居酒屋、一汁一菜の定食を提供する一膳飯屋などが現われた。

    寺社の境内や門前には茶飯に豆腐汁と煮しめ、あるいは豆腐田楽を食べさせる掛け小屋の腰掛茶屋があり、家屋を構えた料理茶屋も現れてきた。19世紀に入って文化・文政の頃(1804~1830)になると、京都、大阪や江戸に高級な酒食を供する料亭ができた。料亭の豪華な座敷で提供される会席料理は酒をともなう宴会料理であり、富裕な武家、文人、商人が客を接待し芸者を交えて飲食、遊興し、料理の味を楽しむものとなった。

    この頃の江戸の市中には、そば、うどん、蒲焼、握りずし、天ぷら、甘酒、ところてん、冷水、砂糖水、おでんに燗酒などを売るさまざまな屋台や小店が多く、収入の少ない小商人、職人、振売り人でも飲食を楽しむことができた。特にそば屋台は、夜間外出の難しかった当時にあって夜鳴きそばを売り歩き、人々から重宝したと歓迎されていた。
    しかし、民衆の大多数を占める地方の百姓は耐乏生活を強いられていたが、貧しい百姓も伊勢参りの旅などに出て御師(おし)宿などで飲食を楽しむことができた。

  2. 江戸時代の安定した政治体制の下で多くの庶民が経済的に豊かになり、都市経済の発達とともに外食産業も発展していった。その発展の中で、一日三食の生活習慣をはじめ、現代日本人の食文化の基本は江戸時代に形づくられた。
    江戸時代に誕生した寿司や天麩羅・蕎麦・鰻の蒲焼などの料理、そして、屋台店・居酒屋(縄暖簾)・定食屋(一膳飯屋)・茶漬け屋・田楽茶屋・どじょう料理屋・肉鍋屋・即席会席料理屋・貸座敷料理屋(高級料亭)など多くの料理屋が出現発展して、現在にも通じる「食」に関する商売がこの時代に確立した。江戸の食文化は醤油・砂糖・味醂などの調味料の発達と上方や江戸の出汁文化の影響も大きく、現在の日本食文化に通じるものとなった。
 
『江戸庶民風俗図絵』三谷一馬 著「がん鍋屋」、『新版御府内流行名物案内双六』歌川芳艶画 「上野山下がん鍋」嘉永年間(1848~54)頃。

雁鍋屋は幕末、安政6年初冬新板「即席会席御料理」番付にものるほど「山下がん鍋」はその知名度は高かった。
上野寛永寺の門前にあった「山下の雁鍋」という料理屋は、小鍋を七輪の火にかけて煮込みながら味わう「小鍋仕立て」の雁鍋の他に、雁の御吸物や生肌鮪刺身などもあったという。 
幕末の紀州藩士、酒井伴四郎の「江戸日記」から、雁鍋屋(※)の様子を一部を記すと、「極晴天、今日は酉待(とりまち)にて鷲大明神の御祭り」に出掛けた。お酉さまである。まず上野にあった有名な雁鍋屋に入ったところ、「夥敷(おびただしき)客にて据わり所もこれなく、漸く押し分け据わり、雁鍋にて酒五合呑」んでからそこを出たとある。当時、繁盛していた雁鍋の店の様子がわかる。
※:がん鍋とは雁の肉に葱(ねぎ)などを加えて、鍋で煮ながら食べる鍋料理のこと。

■大都市,江戸の生活
江戸の町は、全国各地から参勤交代で郷里に妻子をおいて江戸詰めになった藩士、上方からやってきた大店の使用人たち、仕事を求めて出稼ぎに来た人たちなども、その多くが単身男性であった。
こうした多くの男性たち、なかでも使用人や出稼ぎ人などの庶民たちに人気のあった、すぐ腹の足しになる食べ物、すなわち「天ぷら」「握り寿司」「そば」「鰻の蒲焼」などは、いずれも屋台売りから始まっており、いわば江戸庶民のファストフードとして役立っていた。
そのため、屋台や食事処など、いわゆる外食産業が発達していた。江戸の外食文化は国際的に見てもかなり進んでいた。たとえばレストラン=飲食店の出現でも、ヨーロッパでは18世紀後期のフランス革命(1789年)前後であったのに対し、江戸では百年も早い明暦三年(1657)といわれている。外食の歴史は古く、日本では江戸時代中期ごろ元禄の時代から大きく発展した。

元禄年間(1688-1704年)には、庶民でも行灯(あんどん)を使用しはじめ、それまでの毎日の食事が1日2食(朝・夕)から1日3食(朝・昼・夕)になり、それまで、一般的だった麦や玄米に変わって、武士は白米の飯、農民・庶民も徐々に白米を食べるようになった。

庶民たちの空腹を満たすための店が、江戸の町のあちこちにできた。まず手軽なところでは、天秤棒を担いで売り歩く「振売り」の商売があった。
時代が少し進むと、木炭などその場で湯を沸かし温める手段が普及し、出先で調理することができるようになる。蕎麦やおでんなどを売る担い屋台が、江戸の町中のあちこちに出没するようになった。
据付け屋台では、うなぎや握り寿司、天ぷらなどを売る「屋台見世(店)」も増えていった。さらに、大きな神社仏閣の境内近くや参道には簡易な食事を提供する茶屋(料理屋)や葦簀(よしず)張りの茶店も並ぶようになって、団子や汁物などを売る店も増えていった。


■外食文化の開花
江戸は享保年間には百万人を越える世界一の大都市となった。約260年(1603-1867年)にもおよぶ江戸時代は、非常に安定した政治体制の中で、日本の伝統文化といわれるものの多くが確立されて、経済が発達し町民による文化が栄えた。
この時代は醤油が一般庶民に普及するとともに、江戸に近い(伊豆・相模・房総)地域での漁業の発展、練馬大根・葛飾菜・小松菜などの江戸特産野菜(江戸野菜)の生産増大、寿司や蕎麦などの食べ物の食文化の発展、町民生活の娯楽として小芝居・歌舞伎・浄瑠璃や辻相撲などの娯楽が栄えた町人文化、「宵越しの銭は持たぬ」というさっぱりした気風の職人気質を反映した職人文化が発展し、食習慣の定着や屋台の形態から店構えの料理屋の出現など、外食文化が全面的に開花した時代であった。


■店舗「居見世」の広がり
江戸中期には、江戸の名所旧跡見物などの物見遊山が流行し、このことが食材の豊富さともあいまって、外食産業の発展を促して、固定店舗を構えた各種飲食店なども急速に広がっていった。

店売りには、煮炊きした惣菜類を店頭で売る「煮売り屋」と店内で飲食させる「居見世(いみせ)」があった。煮染めなど簡素な惣菜で盛り切りの飯を出す安直な「一膳飯屋」や「うどん・そば屋」などが次々と登場し、人々が気軽に外食を楽しめるようになった。
居酒屋には、床机を土間に並べただけの設備で手軽な料理を出す酒屋(煮売り屋)と衝立で仕切った座敷に座らせて料理と酒を出す酒屋(煮売り酒屋)とがあった。また、煮売りを兼業とした簡単な食事や茶、酒を出す煮売り茶屋・料理茶屋は、贅を尽くした店構えや庭を持つ高級料理茶屋(即席料理茶屋)に発展していった。

本膳料理を簡略化した会席料理(会席即席料理屋)ができ、精進料理の一種である普茶料理もできた。大衆料理の寿司や天ぷら、蕎麦切りなどの屋台料理なども次々と屋台から発展した飲食店となり、寿司屋、天ぷら屋、うどん・蕎麦屋、鰻の蒲焼屋など多様な店が増えて、食を楽しむ文化が庶民に広まり、外食が少しづつ習慣化していった。

 

今の料理屋の前身は奈良茶漬、水茶屋、豆腐茶屋であった。江戸時代後期になると、食文化が社会的な広まりを見せ、食生活自体も向上してくる。
この時代、料理文化が花開いて、料理の種類、食材、料理レシピ、料理店など「食」に関する情報も大量に出回った。
料理や素材の知識を楽しむような身近な『豆腐百珍』,『万宝料理秘密箱』などの料理本の出版や相撲の番付表になぞらえた『日々徳用倹約料理角力取組(節約おかず番付)』などの多種多様な料理本・見立て番付刷りが数多く登場した。

料理屋も江戸市中に乱立するようになり、中庭を置き、離れや二階座敷を設けて、独自の空間を演出する高級料理茶屋(料亭)が出現する。しかも、料亭は単に食事をするだけの場ではなく、書画展示会、咄はなしの会など、文人たちの活動を支える場にもなっていた。町中には、料理茶屋のほか、屋台や小屋掛けの「食事処」があふれ、代金さえ払えば、誰でも自由に飲み食いができた。



『東都名所高輪廿六夜待遊興之図』(江戸の町の屋台)/歌川広重 画
非日常的な「ハレ」の空間には、必ず屋台があった。寺社の門前や名所、祭りなどには食の屋台をはじめとした「露天店」や「振売り」が賑わったといわれる。
江戸時代の浮世絵には、寿司・水売り・焼いか・天ぷら・蕎麦・だんご・汁粉・果物・麦湯売りなど、多くの立ち食い屋台や露天店が描かれている。
天ぷらは一つずつ串に刺して売られ、いなり寿司は好みの量を切って購入することができ、腹具合にあわせてすぐに食べることができた。

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文政六年(1823)に書かれた『羽沢随筆』には、「江戸の町中に住む者は、三度の食事について自分で炊事をしなくても間に合ってしまう。炊きあがった麦飯を売り歩く者もいるし、調理済みのおかずの類を売り歩く商人もいる」とある。
また、「守貞謾稿」(1853年)の幕末の江戸における飲食店の多さを「江戸は京阪より諸小賈(こ)多く、特に鮨・蕎麦の二店大略毎坊これあり。湯屋・髪結床も大略毎坊これあり。この四戸なき所を稀とす。すし・そば店に次いで餅・菓子店多し」と述べている。ここで賈(こ)とは商売・商人のことである。
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3.江戸の料理屋

■江戸時代の外食店
江戸時代中期の宝暦の頃(1751-64年)には、餅・田楽・煮染などを売る店が現れた。明和八年(1771)に、深川洲崎で営業を始めた「升屋」は、料亭の元祖といわれている。江戸随一と謳われた「八百善」は享和年間(1801~1804年)に開業した。
江戸後期の飲食店は、文化元年(1804)、江戸町奉行所の調査によると江戸市中には、6,165軒の飲食店があった。これには一定の店舗をかまえているものだけが数えられていて、店をもたない行商などは含まれていない。
そして、文化四年(1807)には江戸の飲食について『飲食の事は猶さら也。五歩に一楼、十歩に一閣、みな飲食の店ならずといふ事なし』(大田南畝(蜀山人)、一話一言:巻二十五)と書いている。つまり江戸の町を五歩行けば小さな店があり、十歩歩ければ大きな立派な店に出会う。これらは全て飲食店であるというほど江戸の町で料理屋が庶民に広がった。

江戸ではかなり外食が盛んになっていた。文化八年(1811)の『食類商売人』には、屋台を除いて、江戸には約7,600軒の外食店舗があり、煮売り居酒屋と煮売肴屋が2,186軒、煮売茶屋が188軒、茶漬一膳飯屋が472軒、貸座敷料理茶屋が466軒、饂飩蕎麦切屋(うどん、そば屋)が718軒、鰻蒲焼屋が237軒、鮓屋が217軒、その他には、白砂糖の普及もあって、餅菓子煎餅屋・団子汁粉・甘酒屋を合わせて2,912軒などと記録されている。
これらの飲食店は通りに面した面店(おもてだな)の数、往来の仮設店舗で食べ物を商う床見世:とこみせ、ヨシズ張り、屋台店などは数に入っておらず、実際には多くの飲食店があった。

『守貞謾稿』によると、表通りに面した大店の庇(ひさし)の下、大きな橋の橋詰め脇で橋台:はしだいと呼ばれた空き地、荷物の積み御しの場である河岸地、堀端、火除け地とよばれた空き地や土手など、人々往来の頻繁なところに、食べ物や小間物を商う床見世(とこみせ)が、江戸ではひどく多いと記されている。
さらに屋台について「江戸にては屋躰店(やたいみせ)と言ひて、はなはだ多し」「屋躰見世は鮓(すし)、天麩羅を専ら(もっぱら)とす。その他、みな食べ物の店のみなり。粗酒肴を売るもあり」「菓子・餡餅等にもあれども、鮓と天麩羅の屋躰見世は、夜行(やこう)繁き所(夜人通りが多いところ)には、毎町各三、四ヶ所あり」と記されている。

また、京阪と江戸の違いとして『守貞謾稿』には、江戸にあって京阪にない生業のひとつとして「菜屋(さいや)」(煮売り屋ともいう)をあげ、これについて次のように述べている。
「江戸諸所往々これあり。生あわび・するめ・刻するめ・焼豆腐・こんにゃく・くわい・蓮根・牛蒡・刻牛蒡等の類を醤油の煮染(にしめ)となして、大丼鉢に盛り、見世棚にならべこれを売る。煮豆を兼ねたるもあり」これは、現代の惣菜店にあたるものである。

天ぷらが文献で紹介されたのは、寛延元年(1748)の料理書『料理歌仙の組糸』である。握りずしは文政年間(1818~1830)に生まれた。それまでは箱鮨などが食されており、江戸の町にも箱鮨を売る店もあったが『守貞漫稿』では「近年はこれを廃して握り鮨のみ」とあり、江戸の町では握りずしが広く受け入れられた。
同じく『守貞漫稿』では「江戸今製するは握酢(握るすし)なり、鶏卵焼、車海老、海老そぼろ、白魚、まぐろさしみ、こはだ、あなご甘煮、以上大略八文酢也、其中玉子焼は十六文ばかり也」「江戸は酢店甚だ多く、毎町一、二戸、蕎麦屋は一、二町に一戸あり」とある。


■江戸時代後期・幕末の料理屋
江戸の料理茶屋の筆頭株ともいえる八百善は、様々な文献にも登場し「一両二分の茶漬け」など料理にまつわる数々の逸話も存在する。高級料亭の先駆け的存在として、江戸の食文化の形成において重要な役割を果たした。

『江戸流行料理通(八百善料理本) 』文政5年(1822)の挿絵「八百善」 、『江戸高名会亭尽(えどこうめいかいていづくし) 山谷 八百善』
『江戸流行料理通 』は、江戸料理茶屋の筆頭、八百善の主人栗山善四郎が書いた献立集で、「江戸流行」と角書きがある。内容は本膳、会席、江戸卓袱料理など一連の献立の後、巻末の極秘伝之部、料理心得之部ではいくつかの料理法・コツを紹介している。


■料理専門店
食事を売ることを専門とする店は、明暦の大火(1657)後に江戸浅草金竜山にできた奈良茶飯屋が最初とされる。江戸時代前期に存在したのは手軽な飲食店だけであり、江戸時代後期の明和・安永期(1764‐81)には、本格的な「料理茶屋」(貸座敷料理屋)が出現した。
料理茶屋は現在でいう「割烹(かつぽう)店」「料亭」にあたる。江戸時代の後半に入ると、料理屋の高級化が進み、山海の珍味をそろえ、食器、家具、調度をはじめ、座敷や庭まで贅をつくし、高級な料理を客に提供する「料理茶屋」が整い、多くの人々が接待や商談の場として利用するようになった。

料理茶屋は両国や深川といった盛り場だけでなく、近郊の行楽地にも数多くの店がつくられ、店構えの料理茶屋において宴席の料理としての会席料理が発展する。
当時、有名な料理茶屋の浅草山谷の「八百善(やおぜん)」と浮世小路の「百川(ももかわ)」の高級料亭が共同で、黒船が来航したときに、ペリー提督をもてなす饗宴料理ために伝統的な形式にのっとった本膳料理を用意したという。

『守貞謾稿』によると、江戸の料理茶屋は「肴数は減ぜず。ただ京阪のごとく各肴を多くせず、まづ第一みそ吸物、次に口取肴、次に二つ物(甘煮と切焼肴等各一鉢)、次に刺身、次にすまし吸物あるひは茶碗もの、以上酒肴備はり、次に一汁一菜の飯あるひは一汁二菜の飯なり。(中略)前後とも上々の煎茶に上製の口取菓子を添へ、また需めに応じて美なる浴室にて浴させ、余肴は笹折に納めて客の携へ帰るに備へ、夜に至れば、用ひ捨ての小田原提灯を出す。これ皆、一人大略銀十匁以下の費中なり。(中略)天保初め比以来、会席料理と云ふこと流布す」とある。


「醤油」の普及と江戸料理
江戸も後半になると高級料亭や庶民相手の手軽な外食店が盛んになる。その中には鰻の蒲焼や蕎麦の汁などの調味も塩味 (塩・味噌・醤油)中心のものから、江戸時代末になると、 甘味を加えたいわゆる甘辛の味に鰹節のだしの利用が加わった江戸独特の味に発展していった。
江戸時代後期には、醤油やみりん等といった調味料の普及もあり、鰻のたれや麺にした蕎麦を食べる蕎麦切りのつゆに使われ、様々な料理が現れた。
江戸に八百善という有名な料亭があった。浅草新鳥越の高級料亭「八百善」の主人が書いた『江戸流行料理通』には、みりんや砂糖の使用も増加し、甘い味つけがされる傾向にある。味噌と香辛料等と組み合わせた数々の敷みそ、醤油と味醂あるいは砂糖を合わせた調味など究極の江戸の味を作り上げている。

江戸庶民の外食機会の増大は、食生活における醤油の普及を、より広範囲に実現することになった。幕末の文化・風俗を紹介した『守貞漫稿』によれば、江戸では蕎麦屋は「毎町一戸」、繁盛していない地域でも「四五町に一戸」はあったといい、夜間に蕎麦を売る担ぎ屋台の「夜鷹蕎麦」や天ぷらの夜見世なども多くあった。
江戸時代末期、幕末の(万延元年1860年)には、夜売り蕎麦の屋台を除いた客が座敷に上がれるような店構えの「蕎麦屋」だけでも江戸府内に3,763店あったと記録されている。また、幕末、ある医師の随筆『五月雨草紙』には、“竹輪・椎茸・野菜の煮染め、つみれ汁、飯、香の物”を1食百文で食べさせる定食屋も登場している。

濃口醤油の利用は江戸の料理の特徴でもある。日本料理を代表する握り鮨や天ぷら、鰻の蒲焼、刺身料理など、数々の料理が生み出された。江戸後期の刺身料理でいえば、利根川を遡る水運・江戸川・新川を経て日本橋魚河岸に運ばれる鮮魚(なまうを)の流通の発達と関東地廻り醤油(濃口醤油)が庶民にも普及したことで、江戸では刺身を専門に扱う「刺身屋」という屋台もできた。
『守貞漫稿』には「刺身屋、鰹及びまぐろの刺身をもっぱらとし、この一種を生業とする者、諸所に多し。銭五十文、百文ばかりを得る。粗製なれど、料理屋より下直なる故に行きはる」とある。安価なカツオとマグロの刺身が人気だったようである。
京料理の本質は野菜料理で、江戸料理の本質は魚貝料理であるため、魚貝の臭みを消す、香りの高い濃口醤油が関東では好まれた。関東のうなぎは泥臭さが強いために蒸す必要があり、串に刺すために背開きが都合がよく、鰻の蒲焼きも文政期に江戸で完成した。


江戸時代の肉料理文化
平安時代の『延喜式』には、触穢(しょくえ;不浄に接触する穢れ)について規定が細かく記載されている。宮中に神事がある際、獣肉を食べたものは3日間参内できないという禁制があった。そのように日本人は仏教の影響により、獣肉は穢(けが)れがあるといって、庶民は肉類を食べていなかった。古来、天皇は米を司る祭司で、米を主食とする民族の中心であって、肉食禁止は国策の基本として定められた。
日本では、米のために肉を伴わない「米文化」(定住性の稲作文化)を成立させた。動物タンパク摂取の観点からは、肉の代わりに魚食に特化した「鮨」に象徴されるように米と魚の食文化が発達を見た。

江戸に獣肉食の文化が広がったのは江戸時代の末期になってからである。江戸市中の両国と麹町には「ももんじ屋」として猪や鹿などの肉料理屋が存在していた。肉はだいたいが鍋にして食べ、野鳥類は焼いて食べるなど、和食を基礎とした肉食が普及した。
馬肉を「さくら」、猪の肉を「牡丹」「牡丹鍋」「猪鍋」「山鯨(やまくじら)」といい、鹿の肉は「紅葉(もみじ)」などと称して「紅葉鍋」といって冬場の鍋料理として庶民は食していた。この時代の肉食は一般的な食材ではなかったが、肉は精をつける薬と考えられ「薬食い(くすりぐい)」と称して、味噌仕立てでネギと一緒に鍋で煮られたものを食した。猪肉の効能は「癲癇(てんかん)を直し肌膚(きふ)を補い五臓を益する」とされていた。
天保三年(1832)出版の「江戸繁盛記」(寺門静軒)には、「かつて江戸市中にたった一軒だった「薬石屋」(薬石とは獣肉のこと)は、20年ほど後の今は数え切れないほど」とあり、その繁盛ぶりがうかがえる。

 
『浄るり町繁花の図』/歌川広重 画 嘉永5年(1852)

『嘉永(1848〜1854年)以降になると「琉球鍋」として豚肉を食べさせる店が現れる。…中略… この「琉球鍋」屋の中には他の獣肉やシャモも扱う店もあり、豚肉が猪,鹿,兎などの狩猟獣肉と並列の扱いであったと考えられる。』 (近代日本における肉食受容過程の分析 “辻売,牛鍋と西洋料理” 野間万里子より一部引用)

黒船到来をきっかけに、幕府がアメリカをはじめオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に締結した通商条約(安政五ヶ国条約)により、安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜が開港する。それに伴い人々が西洋人の食に触れる機会も増え、徐々に肉食文化が浸透していき、自然と牛肉の需要も増加しはじめた。
文化・文政年間(1804‐30)から流行りつつあった肉食の傾向が急加速し始めた。横浜で最初の牛鍋屋「伊勢熊」が、文久二年(1862年)に開業する。当時食べていたのは主に海外から仕入れた食用牛で、厚切りの牛肉を鉄鍋に並べ、濃厚な味付けで煮込んで食べていた。




4.醤油の国際化

■醤油の国際化の始まりは江戸時代
日本から東南アジア諸国や欧州へ樽詰めされた醤油の輸出は、江戸時代初期の1647年(正保7)に長崎の出島からオランダの商社「東インド会社」が初めて行なった。幕末期には醤油を煮沸して密閉した白い陶器の「コンプラ瓶」は、最盛期で1年で40万本が輸出されたという。 醤油は中国本土やオランダなどだけでなく、東南アジアの諸国にも運ばれていた。

この頃に輸出されていた醤油は、関東平野で作られた江戸の醤油ではなく、大坂や京都、それに九州で作られたものであった。コンプラ瓶の高さは20cm程度、500cc前後の容量で、口はコルク栓で密閉されていた。コンプラ瓶に書かれている文字は JAPANSCHZOYA, JAPANSCHSOYA などの言葉で、Japanschはオランダ語で「日本の」の意味で、zoya, soyaが醤油のことである。
「醤油」の発展とともに、出島から「コンプラ瓶」に詰められた醤油は、「溜まり醤油」から「澄み醤油」へ、そして「濃口醤油」と中身を変えて海外へ輸出された。


幕末、ペリー来航と醤油

幕末というのは、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督が来航(黒船来航)した嘉永6年(1853)から明治元年(1868)までの15年間のことを指す。
1853年、アメリカの使節ペリー提督が、4隻の軍艦を率いて浦賀(神奈川県)沖に現れた。ペリー提督は、中国との貿易船や捕鯨船が、日本の港で船の燃料や水、食料などを補給できるように求めた。ペリー提督が率いる黒船来航は幕府に開国・通商を求め、日本の鎖国体制を終焉させた。
ペリー再来航(1854年)時に幕府との交渉の中、アメリカ大統領から幕府へ献上品があった。アメリカからの献上品に対する幕府の返礼品とは別に5名の米使応接掛のひとり、外国掛目付/鵜殿民部少輔(うどのみんぶしょうゆう)から「醤油」十瓶入 一箱を授与している。

嘉永7年2月10日(1854年3月8日) 、横浜村応接所で第1回目の日米和親条約会談が行われた同日に、日本側によるペリー饗応の宴が開かれた。饗応の宴は、伝統的な形式による日本料理「本膳料理」による祝賀の饗宴を開いてもてなした。
また、1854年に日本に黒船で来航したペリー提督は、日本から2種類の大豆をアメリカに持ち帰り、当時の農業委員会(Commissioner of Patents)に提出している。そのときの記録では大豆のことを"Soja bean"としている。当時のアメリカでは、大豆のことを"Japan Pea"、"Japanese Fodder"、"Japan Bean"などと表現していた。日本の豆の中に有名な醤油の原料になるものがあるとも報告している。


5.和食の完成

■和食の完成
江戸時代は街道も整備され、菱垣廻船や樽廻船は大坂と江戸の間を頻繁に往復し、北前船は日本海沿岸、瀬戸内海の各寄港地を経由して、北海道と近畿を結び付けた。こうして日本が均質化し、平安貴族の雅な食文化、禅風の精進料理や懐石料理、武家社会の本膳料理、南蛮や中国から伝来した料理などがひとつになっていく過程で、日本独自の食文化(和食)の流れが鎖国下の閉ざされた社会で消化、熟成されていく。

江戸時代の幕末には食文化の中心は、京都・大坂の上方から江戸に「食の都」が移り、江戸の食文化が日本の食として確立されていった。
調味科も上方の薄口醤油に対して関東の濃口醤油の昧の違いが顕在化する。和食の味の基本は醤油・味噌・酢のほか、昆布や鰹などのだしにある。江戸の外食文化や地方から伝わってきた料理が江戸前の新鮮な魚介類と結びつき、濃口醤油の発明により、醤油と砂糖やみりんの甘味調味料の普及や鰹節のだしの完成が江戸独自の料理(江戸料理)を完成させた。

現在の和食(日本料理)の原型は、米飯を主食とし、ご飯に合った多様な汁・ 菜・漬物によって構成される献立を基本に、江戸時代の町人たちが食べていた、寿司や天ぷら、そば・うどん、鰻の蒲焼きなどに源流がある。和食を代表する寿司・蕎麦・鰻の蒲焼き・天ぷらなどの料理は、醤油の普及と対応して流行したものであり、醤油が和食を発達させた原動力といえる。幕末には、ほぼ和食の技法、食材、味付け、料理人、料理屋等、すべて出揃っていたと思われる。
巨大都市、江戸がつくった寿司、蕎麦、鰻の蒲焼き、天ぷら、佃煮、どじょう料理など、さまざまな料理が生まれた幕末は和食の完成期と言え、今日の和食の基礎が確立された。





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