江戸の外食文化 <江戸外食文化の全体像>
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文化2年(1805年)頃の日本橋通りを描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」絵巻(縦43cm、全長1230cm)の一部分。
その中には、約90件の問屋や店と、その前を行き交う約1700人の人物が描かれている。

江戸の外食文化の全体像
1.上方(京都,大坂)と江戸の二極文化

■江戸時代とは
江戸時代とは、徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開いた1603年(慶長8)から、15代将軍徳川慶喜が大政奉還して将軍を辞した1867年(慶応3)までの265年間をいう。この時代は将軍を頂点とした全国260の大名(藩)を編成した封建的政治体制(幕藩体制)で、江戸初期と幕末を除き、国内で戦乱が起きなかった平和な時代であった。

■江戸の町
「将軍のお膝元」とよばれる政治の中心都市として繁栄した元禄期の江戸(1700年頃)の人口は、武家方人口(家族,使用人等を含む)約50万人、町方(まちかた)とよばれる諸商人,諸職人等の人口約50万人という100万人を超える一大消費都市であった。
「江戸は諸国の人の掃き溜め」といわれるほど全国各地からさまざまな人々が集ってきた。そうした人々は当然それぞれその出身地の食文化を背負ってきた。江戸には全国の食文化がもちこまれた。それら各地の食が江戸で出合い、たがいに交流と融合を重ねながら次第に新しい江戸の食を生み出していく。江戸の食はまさに全国の食文化の集大成であった。特に江戸文化が爛熟期を迎えた19世紀初頭の文化・文政期(1804-30年)には、学問,文芸,絵画など、さまざまな文化が一般庶民にまで広がった。また、江戸の町では濃口醬油が普及し、江戸前料理の「握りずし・天ぷら・うなぎの蒲焼き・丼もの」などが生まれ「食は江戸」,「江戸の食い倒れ」といわれるような状況を生みだし、江戸料理は日本の食文化の頂点に立つに至った。

■江戸の地廻り経済の成立と江戸の味覚
江戸時代は、京都と大坂を中心とする上方と江戸が文化や政治の二極(天皇と幕府)となり、夫々で独自の料理文化が発達した。
江戸の経済力が上方をしのぎ、文化の中心が上方から江戸に移ってくる時代になると、江戸の食文化も上方の影響を離れて独自の味覚をつくり出すようになった。利根川流域に位置する房総地域(千葉)の流山の味醂や野田・銚子の濃口醤油が江戸に大量に運ばれる江戸後期には、醤油を利用した江戸料理が庶民層にも広がっていく。
江戸の四大料理といえば、そば、うなぎの蒲焼、天ぷら、握りずしがあげられ、これに欠かせないものが濃口醤油であった。割箸の普及も江戸のうなぎ屋からであり、うどんからそばへ、押し鮨から握りずしへ、薄い味の醤油(下り醤油)から江戸の人々の嗜好にあった濃口醤油(関東地廻り醤油)へ、また、調味料の酒、白砂糖、塩、酢、醤油、味噌、味醂の発達と普及など、京都・大坂の上方経済から自立した江戸の地廻り経済の成立が江戸前料理と歩調をあわせて江戸の味覚が成立した。

■江戸時代の流通網の確立
日本では江戸時代に新田開発などの農業が奨励され、耕地が増大し、農具の発達や肥料の改良などもあって、米穀類・野菜・果実など農業の生産量も増加した。幕府や諸藩の年貞米は、海路や陸路で各地に運ばれた。交通、流通の整備は江戸、大坂、京都の三都を中心に地方へ広げられていく。幕府は江戸の日本橋を起点に一里塚を築くことを定め、江戸・大坂・京都と各地を結ぶ五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の整備を図った。また、諸藩も城下町を中心とした街道(脇街道)を整備し、全国の流通網が確立した。

農業以外でも、漁業、林業、鉱山業、手工業などあらゆる産業が江戸初期から中期にかけて大きく発展した。産業の発展によって物資を大量に運ぶ海運も盛んになっていった。各地の産物が集散し商活動の活発な大坂が「天下の台所」としての地位を固め、それに伴って全国的な東廻(ひがしまわ)り・西廻りなどの航路が整えられた。
東西航路網の発達に伴い、江戸から東北の太平洋沿岸を廻る「東廻り航路」と瀬戸内海から日本海を廻る「西廻り航路」が開かれ、江戸と大坂を中心に、全国の沿岸が海路で結ばれた。菱垣廻船(木綿・油・醤油)、樽廻船(酒)が運航し物資の交流も盛んになり、江戸、大坂に2大集散地ができ、大坂の堂島に米問屋「米市場」、江戸では日本橋北詰付近の魚河岸(うおがし)近くの「魚市場」、神田には「青物市場」が開かれた。

寛永12年(1635)、三代将軍家光による「武家諸法度」が定められ、大名の参勤交代が始まった。参勤交代は、幕府が全国の諸藩を支配するために作り上げた方法(幕藩体制)である。参勤交代により、全国の主要な街道が整備されて宿場町の充実が進むと、経済力をつけた町人などの庶民も旅を愉しむようになった。
例えば、江戸中期に人気があったのは「伊勢参り」である。一般の旅人は旅籠(はたご)か木賃宿を宿泊施設として利用した。食事を提供する宿屋を旅籠屋、略して旅籠と呼ぶようになった。江戸、大坂、京都を結ぷ街道沿いには、茶屋や即席料理を作る「料理茶屋」もできた。料理茶屋の進出によって、箸も多く使われるようになり、料理茶屋での料理は後に会席料理となる。



  「日本橋魚市」のマグロ(柳川重信)と中山道(浦和宿付近)を行く「マグロ駄送の図」(十返舎一九『諸国道中金の草鞋』四編)


流通網の確立により、地域の生産物(米、醤油、酒、酢、昆布、かつお節、漬物などの加工品)も江戸や大坂に運ばれた。大坂は西日本をはじめ、北陸・東北地方からの物資が集まる最大の商業都市であった。江戸は大きな消費都市となり、それを支えたのが陸海の要衝であった大坂である。
経済、物流、金融の経済的中心地であった大坂は、瀬戸内の豊かな魚介類や近郊で作られた野菜だけでなく、諸藩の年貢米や特産物を運びこむ蔵屋敷が立ち並ぶ「天下の賄い所」とも「天下の台所」と称された商いの町であった。この時代の大坂は江戸の消費生活を支えていた。上方から運ばれた『下りもの』と言われる味噌、醤油、味醂、酒、油、菓子、紙、織物など多くの生活物資が江戸に送られた。
上方の醤油は「下り醤油」と呼ばれる高級品であったが、江戸中期以降には品質のよい「関東(地廻り)醤油」(濃口しょうゆ)が大量に生産されて江戸市中に広まった。上方から運ばれた「下り醤油」は「関東(地廻り)醤油」に押されて次第に姿を消していき、江戸の庶民層にまで安価な醤油文化が形成され、あらゆる食材の調味料として幅広く料理に使用されるようになった。

■江戸幕府の貨幣政策が飲食業を発展させた
徳川幕府は、貨幣鋳造権の独占による貨幣の鋳造に着手して日本の貨幣統一を進めた。幕府が行った「三貨制度」は、金貨・銀貨・銭貨(銅貨)を柱とする当時の世界でも最先端の貨幣制度であった。貨幣経済が浸透して全国的な経済活動の発展による豪商の出現とともに、中・下層の町人たちが次第に経済力を持つようになった。商品の流通にたずさわる町人たちの生活は、急上昇して都市経済の発達にともなって、外食や総菜屋、そばの出前などの中食を提供する店が発達してきた。また、京都を中心とした精進料理や懐石料理が発達し、その後、華道や茶道、仏教など、文化の発展にともなって“家”の外での飲食の習慣が生まれた。更に、貴族や寺社から町人が都市の主人公となり、飲食を生業(なりわい)とする人々が増えていった。

■関東と関西の味・食文化の違い
食文化では、武家社会から生まれた関東料理、公家社会から生まれた関西料理とともに、料理もわかれた。武士が中心の江戸の関東地方では、出汁(だし)の原料としてかつお節が愛用され、一方、公家が残った京都、商人の街として栄えた大坂などの関西地方では昆布が愛用される。その特異な環境に育まれた「風土」が、三都市(江戸・京都・大坂)の食文化の基盤にある。歴史的に見て「かつお節」はカツオが黒潮に乗って太平洋沿岸を北上するルート(枕崎、土佐、伊豆、安房)で発展し、「昆布」は北海道から「西廻り航路(北前船)」により、越前経由で陸揚げされて陸路で京都・大坂に運ばれた。“鰹だし文化”が「江戸の食文化」を、“昆布だし文化”が季節感を楽しみ、五感で味わう薄味の「京の食文化」を支えて独自のだし文化を発展させたと言える。

関西と関東の食生活にもその影響が色濃く出て、京都の精進料理や懐石料理の発達した“うす色・うす味文化”の上方や、江戸の食べ物の四天王と呼ばれる蕎麦・寿司・天ぷら・鰻などを生んだ“濃い味文化”の江戸と食文化でも二極を形成した。味の二極文化とは、関西料理の「薄口の味、薄口醤油と昆布だし文化の淡白な味付け」と、関東料理の「濃口の味、濃口醤油と鰹だし文化の濃厚な味付け」を云う。

江戸時代の末頃出版された『守貞慢稿』は、巻5「生業 料理茶屋」の頁で京阪と江戸の味付けについて次のように比較している。
「三都自ラ異ナル所アリ 京阪ハ美食ト雖モ鰹節ノ煮ダシシテ是ニ諸白酒ヲ加ヘ醤油ノ塩味ヲ加減スル。 故ニ淡薄ノ中ニ其物ノ味アリテ、是ヲ好トス、江戸ハ専ラ鰹節ダシニ味醂酒ヲ加ヘ 或ハ砂糖ヲ以テ代之 醤油ヲ以テ塩味ヲ付ル 故ニ 口ニ甘ク旨シト雖モ其ノ物ノ味ヲ損スニ似タリ」。
つまり、京阪は鰹だしに清酒を加え醤油を控えめに加えて不足する塩味を食塩で調節する。したがってうす味だけれども素材の味が生きており、これを好む。一方、江戸は、鰹だしに味醂または砂糖で甘味を加え、塩味は醤油の量で調節することから、甘くて旨いけれども素材の味が損なわれていると述べている。



2.江戸の食文化から和食文化への発展

 
『江戸庶民風俗図絵』三谷一馬 著「がん鍋屋」、『新版御府内流行名物案内双六』歌川芳艶画 「上野山下がん鍋」嘉永年間(1848~54)頃
「雁鍋」は幕末、安政6年初冬新板「即席会席御料理」番付にものるほど「山下がん鍋」はその知名度は高かった。上野寛永寺の門前にあった「山下の雁鍋」という料理屋は、小鍋を七輪の火にかけて煮込みながら味わう「小鍋仕立て」の雁鍋の他に、雁の御吸物や生肌鮪刺身などもあったという。

幕末の紀州藩士、酒井伴四郎の「江戸日記」より、雁鍋屋の様子を一部を記す。
「極晴天、今日は酉待(とりまち)にて鷲大明神の御祭り」に出掛けた。お酉さまである。まず上野にあった有名な雁鍋屋に入ったところ、「夥敷(おびただしき)客にて据わり所もこれなく、漸く押し分け据わり、雁鍋にて酒五合呑」んでからそこを出たとある。当時、繁盛していた雁鍋の店の様子がわかる。


■江戸時代の外食店の発展

江戸は享保年間には百万人を越える世界一の大都市となった。約260年(1603-1867年)にもおよぶ江戸時代は、非常に安定した政治体制の中で、日本の伝統文化といわれるものの多くが確立されて、経済が発達し町民による文化が栄えた。
この時代は醤油が一般庶民に普及するとともに、江戸前といわれる魚介類を中心に「練馬大根」「葛飾菜」「小松菜」等の江戸特産野菜、寿司や蕎麦などの食べ物の食文化、町民生活の娯楽として小芝居・歌舞伎・浄瑠璃や辻相撲などの娯楽が栄えた町人文化、「宵越しの銭は持たぬ」というさっぱりした気風の職人気質を反映した職人文化が発展し、食習慣の定着や料理屋の出現など、外食文化が全面的に開花した時代であった。

江戸近海および近郊農村で大消費都市江戸の台所を支える大がかりな生産活動がおこなわれていた。「日本橋,船町の魚市場」や「神田,須田町の青物市場」で買いつけた魚介類や青物(野菜)を仲買は小売商人に売り渡した。小売商人は見世(店)を持っているものも多かったが、多くは零細な行商人で、天秤棒で担いで行商する者は「振り売り」「棒手振り」などと呼ばれた。
市中では質・量ともに豊富な食素材が売買され、一般庶民にいたるまで、米を主食とし各種の鮮魚、塩乾魚、新鮮な野菜類を副食とした食生活が営まれていた。多くの「振売り(ふりうり)」が朝から出入りし、長屋の庶民たちは様々な食材や日用品を買い求めた。また、煮染めなど簡素な惣菜で盛り切りの飯を出す安直な「一膳飯屋」や「うどん・そば屋」などが次々と登場し、人々が気軽に外食を楽しめるようになった。

店売りには、煮炊きした惣菜類を店頭で売る「煮売り屋」と店内で飲食させる「居見世(いみせ)」があった。居酒屋としては、料理を出す酒屋と酒を出す料理屋(煮売居酒屋)があった。煮売茶屋は、高級料理屋(即席料理茶屋)にも発展していった。本膳料理を簡略化した会席料理(会席即席料理屋)ができ、精進料理の一種である普茶料理、大衆料理のすしや天ぷら、そばなどの屋台料理が次々と登場したのも江戸時代である。江戸に屋台から発展した鰻蒲焼屋、うどん・蕎麦屋、すし屋、天ぷら屋など多様な飲食店が増えて、食を楽しむ文化が庶民に広まり、外食が少しづつ習慣化していった。

江戸の外食文化は国際的に見てもかなり進んでいた。たとえばレストラン=飲食店の出現でも、ヨーロッパでは18世紀後期のフランス革命(1789年)前後であったのに対し、江戸では百年も早い明暦三年(1657)といわれている。外食の歴史は古く、日本では江戸時代中期ごろ元禄の時代から大きく発展した。元禄年間(1688-1704年)には、庶民でも行灯(あんどん)を使用しはじめ、それまでの毎日の食事が1日2食(朝・夕)から1日3食(朝・昼・夕)になり、それまで、一般的だった麦や玄米に変わって、武士は白米の飯、農民・庶民も徐々に白米を食べるようになった。
江戸時代後期になると、食文化が社会的な広まりを見せ、食生活自体も向上してくる。この時代、料理文化が花開いて、料理や素材の知識を楽しむような身近な料理本が数多く登場した。料理屋も江戸市中に乱立するようになり、中庭を置き、離れや二階座敷を設けて、独自の空間を演出する高級料理屋が出現する。町中には、料理茶屋のほか屋台や小屋掛けの食事処があふれ、代金さえ払えば、誰でも自由に飲み食いができた。

 
     『東都名所高輪廿六夜待遊興之図』/歌川広重 画            『浄るり町繁盛の図』/歌川広重 画

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文政六年(1823)に書かれた『羽沢随筆』には、「江戸の町中に住む者は、三度の食事について自分で炊事をしなくても間に合ってしまう。炊きあがった麦飯を売り歩く者もいるし、調理済みのおかずの類を売り歩く商人もいる」とある。
また、「守貞謾稿」(1853年)の幕末の江戸における飲食店の多さを「江戸は京阪より諸小賈(こ)多く、特に鮨・蕎麦の二店大略毎坊これあり。湯屋・髪結床も大略毎坊これあり。この四戸なき所を稀とす。すし・そば店に次いで餅・菓子店多し」と述べている。ここで賈(こ)とは商売・商人のことである。
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■江戸料理の発展と調味料

日本の外食文化の始まりは江戸時代前期に起こった。外食は浅草金竜山の「奈良茶飯」(栗や芋などを米と一緒にお茶で煮込んだ雑炊)の店から始まった。一般的にこれが料理屋の元祖といわれている。この江戸時代前期は、醤油の普及が十分でなく、主な調味料は、味噌、たれ味噌、たまり、塩、酢、煎り酒、煮貫(にぬき)などであった。醤油が普及する江戸中期頃までは、万能調味料としての煎り酒が、蕎麦もうどんは煮貫の汁でたべるのが一般的であった。

江戸時代中期の元禄年間(1688~1704年)には、庶民の食事が1日2食から3食となり、麦や玄米だった主食が白米へと変化した。江戸時代中期~後期には、白砂糖や関東(地廻り)醤油、白味醂、粕酢(かすず)、昆布、かつお節、出汁などの調味料が発達し普及した。

上方で生産された「下り醤油」は味も品質も良く色が薄くて、塩味のきいた醤油であった。関西の醤油に対し、関東の「濃口醤油」(関東地廻り醤油)は、色・うま味・香り・コクが前面に出る醤油で、かつお節や砂糖、味醂などの強い調味料にも負けず、これが、そばつゆや鰻のタレ独特の甘辛味を育てた。

砂糖は長崎貿易の唐船・オランダ船で江戸時代前期には黒砂糖の輸入が、中期になると白砂糖が多く輸入された。一方、国内での砂糖の生産は、正徳3年(1713)から薩摩産(奄美・琉球)の黒砂糖が、江戸に送られた。
1750年代に中国地方西端の長府藩が白砂糖の一貫生産に成功し、1780年代になってからは四国讃岐の高松藩において白砂糖の栽培面積が拡大し良質の白砂糖生産地となった。
寛政6年(1794)からは、紀州・讃岐などの国内産の白砂糖が大坂から当時最大の消費地であった江戸へ輸送された。



このような調味料の普及や江戸の人々の嗜好に合わせて作られた「関東の地廻り醤油(濃口醤油)」が江戸庶民の生活に定着し、天ぷら、すし、鰻などの屋台文化が栄えるとともに、茶店や屋台が店構え(居見世=いみせ)に移行して「てんぷら屋」「すし屋」「温飩(うどん)蕎麦屋」「鰻蒲焼屋」「料理茶屋(会席料亭)」「煮売居酒屋」「煮物茶屋」「茶漬屋」等、さまざまな業態の飲食店が登場した。

醤油と出汁(京阪:昆布だし/江戸:鰹だし)によって、上方と江戸では食の嗜好も違いが生まれた。
江戸時代末期の『守貞謾稿』には、温飩蕎麦屋「京坂は温飩を好む人多く、又売る家もこれを専らとし温飩屋と云う也。しかも温どんやにてそばを兼ね売る也。江戸は蕎麦を好む人多く、商人も専とし温飩は兼ねて沽る也。故に蕎麦屋と云う。」とある。江戸の後期になると、上方ではうどん屋が主になってうどん屋で蕎麦も扱われ、江戸は蕎麦屋でうどんが売られるようになった。
 また、次のようにも記述している。「三都自ラ異ナル所アリ 京阪ハ美食ト雖モ鰹節ノ煮ダシシテ是ニ諸白酒ヲ加ヘ醤油ノ塩味ヲ加減スル。 故ニ淡薄ノ中ニ其物ノ味アリテ、是ヲ好トス、江戸ハ専ラ鰹節ダシニ味醂酒ヲ加ヘ 或ハ砂糖ヲ以テ代之 醤油ヲ以テ塩味ヲ付ル 故ニ 口ニ甘ク旨シト雖モ其ノ物ノ味ヲ損スニ似タリ (中略) 又、京坂ノ人八、江戸ニテ甘味ヲ用フヲタルシト云テ、忌レ之テ、美食トゼズ」。
つまり、京阪は鰹だしに”清酒”を加え醤油(下り醤油=薄口醤油で、当時は薄醤油・淡醤油と称す)を控えめに加えて不足する塩味を”食塩”で調節する。したがって、うす味だけれども素材の味が生きており、これを好む。 一方、江戸は、鰹だしに”味醂”または”砂糖”で甘味を加え、塩味は醤油(地廻り醤油=濃口醤油)の量で調節することから、甘くて旨いけれども素材の味が損なわれていると述べ、江戸では甘辛い味が好まれ、上方では甘味の少ないうす味が好まれたとしている。


『絵本三家栄種(さかえぐさ)』
明和八(1771)年の挿絵、北尾重政(画・筆)

「臼ひけは 雷かと驚  粉をふるへば 夫婦いさかひと  うたがふ  田舎の手打そば  名にしほふ ふく山か  繁盛の臼のをとも  所がらとて  耳にとまらず」



江戸の葺屋(ふきや)町にあった、倹飩蕎麦(けんどんそば)屋「福山」の店先の絵である。福山は市村座の東隣にあったそば屋であった。
店の中には蕎麦猪口(ちょこ)を片手に蕎麦を手繰る男が鮮明に描かれている。また、芝居小屋や芝居茶屋の出前から帰ってきた岡持ちを担いだ男も描かれている。

倹飩蕎麦とは蒸篭を使った蒸しそばだったといわれ、1杯ずつ盛り切りにして売った蕎麦切りである。
江戸市中でそば屋の数が増えるのは、寛延(1748~51)から安永(1772~81)にかけての頃とされる。





江戸を中心とした町人文化の最盛期で、和食の完成期といわれる文化文政期(1804-30 年)に、江戸の調味料として銚子や野田でつくられる安くて品質のよい「関東(地廻り)醤油」が広く一般に使われるようになった。
この関東(地廻り)醤油の消費増大は、江戸における振り売りや外食店の増加にみてとれる。江戸時代後期になって、関東醤油と白味醂は、うなぎ蒲焼のたれ、蕎麦つゆや天ぷらのつゆに調味料として使われるようになった。また、江戸初期には高級品であった砂糖がようやく庶民の調味料になり、菓子用だけではなく一切の食物に用いられるようになった。醤油と砂糖を使う煮物料理、うま煮、煮つけ、酢の物、甘露煮、佃煮などの “濃厚な味” が江戸庶民の好みとなり、江戸の味が確立した。


■江戸時代の外食店

江戸時代中期の宝暦の頃(1751 - 64年)には、餅、田楽、煮染などを売る店が現れた。明和八年(1771)に、深川洲崎で営業を始めた「升屋」は、料亭の元祖といわれている。江戸随一と謳われた「八百善」は享和年間(1801~1804年)に開業した。
江戸後期の飲食店は、文化元年(1804)、江戸町奉行所の調査によると江戸市中には、6165軒の飲食店があった。これには一定の店舗をかまえているものだけが数えられていて、店をもたない行商などは含まれていない。そして、文化四年(1807)には『飲食の事は猶さら也。五歩に一楼、十歩に一閣、みな飲食の店ならずといふ事なし』(大田南畝(蜀山人)、一話一言:巻二十五)と書いているほど料理屋が庶民に広がった。

文化八年(1811)の『食類商売人』には、屋台を除いて、江戸には約7600軒の外食店舗があり、煮売居酒屋と煮売肴屋が2186軒、煮売茶屋が188軒、茶漬一膳飯屋が472軒、貸座舗料理茶屋が466軒、饂飩蕎麦切屋(うどん、そば屋)が718軒、鰻蒲焼屋が237軒、鮓屋が217軒、その他には餅菓子煎餅屋・団子汁粉・甘酒屋を合わせて2912軒などと記録されている。これらの飲食店は通りに面した面店(おもてだな)の数、往来の仮設店舗で食べ物を商う【床見世:とこみせ】、ヨシズ張り、屋台店などは数に入っておらず、実際には多くの飲食店があった。

『守貞謾稿』によると、表通りに面した大店の庇(ひさし)の下、大きな橋の橋詰め脇で【橋台:はしだい】と呼ばれた空き地、荷物の積み御しの場である河岸地、堀端、火除け地とよばれた空き地や土手など、人々往来の頻繁なところに、食べ物や小間物を商う床見世(とこみせ)が、江戸ではひどく多いと記されている。さらに屋台について「江戸にては屋躰店(やたいみせ)と言ひて、はなはだ多し」「屋躰見世は鮓(すし)、天麩羅を専ら(もっぱら)とす。その他、みな食べ物の店のみなり。粗酒肴を売るもあり」「菓子・餡餅等にもあれども、鮓と天麩羅の屋躰見世は、夜行(やこう)繁き所(夜人通りが多いところ)には、毎町各三、四ヶ所あり」と記されている。
また、京阪と江戸の違いとして『守貞謾稿』には、江戸にあって京阪にない生業の1つとして「菜屋(さいや)」をあげ、これについて次のように述べている。「江戸諸所往々これあり。生あわび・するめ・刻するめ・焼豆腐・こんにゃく・くわい・蓮根・牛蒡・刻牛蒡等の類を醤油の煮染(にしめ)となして、大丼鉢に盛り、見世棚にならべこれを売る。煮豆を兼ねたるもあり」これは、現代の惣菜店にあたるものである。

天ぷらが文献で紹介されたのは、寛延元年(1748)の料理書『料理歌仙の組糸』である。握りずしは文政年間(1818~1830)に生まれた。それまでは箱鮨などが食されており、江戸の町にも箱鮨を売る店もあったが『守貞漫稿』では「近年はこれを廃して握り鮨のみ」とあり、江戸の町では握りずしが広く受け入れられた。
同じく『守貞漫稿』では「江戸今製するは握酢なり、鶏卵焼、車海老、海老そぼろ、白魚、まぐろさしみ、こはだ、あなご甘煮、以上大略八文酢也、其中玉子焼は十六文ばかり也」「江戸は酢店甚だ多く、毎町一、二戸、蕎麦屋は一、二町に一戸あり」とある。


■江戸時代後期・幕末の料理屋

高級料理茶屋「八百善」  『八百善料理通 』天保六年(1833)
 
食事を売ることを専門とする店は、明暦の大火(1657)後に江戸浅草金竜山にできた奈良茶飯屋が最初とされる。江戸時代前期に存在したのは手軽な飲食店だけであり、江戸時代後期の明和・安永期(1764‐81)には、本格的な「料理茶屋」(貸座敷とも)が出現した。
料理茶屋は現在でいう「割烹(かつぽう)店」「料亭」にあたる。江戸時代の後半に入ると、料理屋の高級化が進み、山海の珍味をそろえ、食器、家具、調度をはじめ、座敷や庭まで贅をつくし、高級な料理を客に提供する「料理茶屋」が整い、多くの人々が接待や商談の場として利用するようになった。
料理茶屋は両国や深川といった盛り場だけでなく、近郊の行楽地にも数多くの店がつくられ、店構えの料理茶屋において宴席の料理としての会席料理が発展する。当時、有名な料理茶屋の浅草山谷の「八百善(やおぜん)」と浮世小路の「百川(ももかわ)」の高級料亭が共同で、黒船が来航したときに、ペリー提督をもてなす饗宴料理ために伝統的な形式にのっとった本膳料理を用意したという。

『守貞謾稿』によると、江戸の料理茶屋は「肴数は減ぜず。ただ京阪のごとく各肴を多くせず、まづ第一みそ吸物、次に口取肴、次に二つ物(甘煮と切焼肴等各一鉢)、次に刺身、次にすまし吸物あるひは茶碗もの、以上酒肴備はり、次に一汁一菜の飯あるひは一汁二菜の飯なり。(中略)前後とも上々の煎茶に上製の口取菓子を添へ、また需めに応じて美なる浴室にて浴させ、余肴は笹折に納めて客の携へ帰るに備へ、夜に至れば、用ひ捨ての小田原提灯を出す。これ皆、一人大略銀十匁以下の費中なり。(中略)天保初め比以来、会席料理と云ふこと流布す」とある。


「醤油」の普及と江戸料理

江戸時代後期には、醤油やみりん等といった調味料の普及もあり、鰻のたれや麺にした蕎麦を食べる蕎麦切りのつゆに使われ、様々な料理が現れた。江戸庶民の外食機会の増大は、食生活における醤油の普及を、より広範囲に実現することになった。
幕末の文化・風俗を紹介した『守貞漫稿』によれば、江戸では蕎麦屋は「毎町一戸」、繁盛していない地域でも「四五町に一戸」はあったといい、夜間に蕎麦を売る担ぎ屋台の「夜鷹蕎麦」や天ぷらの夜見世なども多くあった。
江戸時代末期、幕末の(万延元年1860年)には、夜売り蕎麦の屋台を除いた客が座敷に上がれるような店構えの「蕎麦屋」だけでも江戸府内に3763店あったと記録されている。また、幕末、ある医師の随筆『五月雨草紙』には、“竹輪・椎茸・野菜の煮染め、つみれ汁、飯、香の物”を1食百文で食べさせる定食屋も登場している。

日本料理を代表する握り鮨や天ぷら、鰻の蒲焼、刺身料理など、数々の料理が生み出された。江戸後期の刺身料理でいえば、利根川を遡る水運・江戸川・新川を経て日本橋魚河岸に運ばれる鮮魚(なまうを)の流通の発達と関東地廻り醤油(濃口醤油)が庶民にも普及したことで、江戸では刺身を専門に扱う「刺身屋」という屋台もできた。『守貞漫稿』には「刺身屋、鰹及びまぐろの刺身をもっぱらとし、この一種を生業とする者、諸所に多し。銭五十文、百文ばかりを得る。粗製なれど、料理屋より下直なる故に行きはる」とある。安価なカツオとマグロの刺身が人気だったようである。
京料理の本質は野菜料理で、江戸料理の本質は魚貝料理であるため、魚貝の臭みを消す、香りの高い濃口の醤油が関東では好まれた。関東のうなぎは泥臭さが強いために蒸す必要があり、串に刺すために背開きが都合がよく、鰻の蒲焼きも文政期に江戸で完成した。


江戸時代の肉料理文化

日本人は仏教の影響により、獣肉は穢(けが)れがあるといって、庶民は肉類を食べていなかった。江戸に獣肉食の文化が広がったのは江戸時代の末期になってからである。江戸市中の両国と麹町には「ももんじ屋」として猪や鹿などの肉料理屋が存在していた。肉はだいたいが鍋にして食べ、野鳥類は焼いて食べるなど、和食を基礎とした肉食が普及した。
馬肉を「さくら」、猪の肉を「牡丹」「牡丹鍋」「猪鍋」「山鯨(やまくじら)」といい、鹿の肉は「紅葉(もみじ)」などと称して「紅葉鍋」といって冬場の鍋料理として庶民は食していた。この時代の肉食は一般的な食材ではなかったが、肉は精をつける薬と考えられ「薬食い(くすりぐい)」と称して、味噌仕立てでネギと一緒に鍋で煮られたものを食した。猪肉の効能は「癲癇(てんかん)を直し肌膚(きふ)を補い五臓を益する」とされていた。
天保三年(1832)出版の「江戸繁盛記」(寺門静軒)には、「かつて江戸市中にたった一軒だった「薬石屋」(薬石とは獣肉のこと)は、20年ほど後の今は数え切れないほど」とあり、その繁盛ぶりがうかがえる。

『嘉永(1848〜1854年)以降になると「琉球鍋」として豚肉を食べさせる店が現れる。…中略… この「琉球鍋」屋の中には他の獣肉やシャモも扱う店もあり、豚肉が猪,鹿,兎などの狩猟獣肉と並列の扱いであったと考えられる。』 (近代日本における肉食受容過程の分析 “辻売,牛鍋と西洋料理” 野間万里子より一部引用)

幕府がアメリカをはじめオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に締結した通商条約(安政五ヶ国条約)により、安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜が開港する。それに伴い外国人の渡来が増え、自然と牛肉の需要も増加しはじめた。文化・文政年間(1804‐30)から流行りつつあった肉食の傾向が急加速し始める。横浜で最初の牛鍋屋「伊勢熊」が、文久二年(1862年)に開業。牛肉を鍋として食べさせるようになった。


■醤油の国際化の始まりは江戸時代

日本から東南アジア諸国や欧州へ樽詰めされた醤油の輸出は、江戸時代初期の1647年(正保7)に長崎の出島からオランダの商社「東インド会社」が初めて行なった。幕末期には醤油を煮沸して密閉した白い陶器の「コンプラ瓶」は、最盛期で1年で40万本が輸出されたという。 醤油は中国本土やオランダなどだけでなく、東南アジアの諸国にも運ばれていた。この頃に輸出されていた醤油は、関東平野で作られた江戸の醤油ではなく、大坂や京都、それに九州で作られたものであった。
コンプラ瓶の高さは20cm程度、500cc前後の容量で、口はコルク栓で密閉されていた。コンプラ瓶に書かれている文字は JAPANSCHZOYA, JAPANSCHSOYA などの言葉で、Japanschはオランダ語で「日本の」の意味で、zoya, soyaが醤油のことである。「醤油」の発展とともに「コンプラ瓶」に詰められた醤油は、「溜まり醤油」から「澄み醤油」へ、そして「濃口醤油」と中身を変えて海外へ輸出された。


幕末、ペリー来航と醤油

幕末というのは、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督が来航(黒船来航)した嘉永6年(1853)から明治元年(1868)までの15年間のことを指す。1853年、アメリカの使節ペリー提督が、4隻の軍艦を率いて浦賀(神奈川県)沖に現れた。ペリー提督は、中国との貿易船や捕鯨船が、日本の港で船の燃料や水、食料などを補給できるように求めた。ペリー提督が率いる黒船来航は幕府に開国・通商を求め、日本の鎖国体制を終焉させた。
ペリー再来航(1854年)時に幕府との交渉の中、アメリカ大統領から幕府へ献上品があった。アメリカからの献上品に対する幕府の返礼品とは別に5名の米使応接掛のひとり、外国掛目付/鵜殿民部少輔(うどのみんぶしょうゆう)から「醤油」十瓶入 一箱を授与している。

嘉永7年2月10日(1854年3月8日) 、横浜村応接所で第1回目の日米和親条約会談が行われた同日に、日本側によるペリー饗応の宴が開かれた。饗応の宴は、伝統的な形式による日本料理「本膳料理」による祝賀の饗宴を開いてもてなした。

また、1854年に日本に黒船で来航したペリー提督は、日本から2種類の大豆をアメリカに持ち帰り、当時の農業委員会(Commissioner of Patents)に提出している。そのときの記録では大豆のことを"Soja bean"としている。
当時のアメリカでは、大豆のことを"Japan Pea"、"Japanese Fodder"、"Japan Bean"などと表現していた。日本の豆の中に有名な醤油の原料になるものがあるとも報告している。



■和食の完成

江戸時代は街道も整備され、菱垣廻船や樽廻船は大坂と江戸の間を頻繁に往復し、北前船は日本海沿岸、瀬戸内海の各寄港地を経由して、北海道と近畿を結び付けた。こうして日本が均質化し、平安貴族の雅な食文化、禅風の精進料理や懐石料理、武家社会の本膳料理、南蛮や中国から伝来した料理などが1つになっていく過程で、日本独自の食文化(和食)の流れが鎖国下の閉ざされた社会で消化、熟成されていく。
特に江戸後期には屋台や料理店が増え、江戸の粋や洒落(しゃれ)を表現した店が江戸っ子の人気を集めた。さらには本格的な料理屋が生まれ、様々な豆腐料理を紹介する『豆腐百珍』、『鯛百珍』、『玉子百珍』などの珍しい料理を紹介するレシピ本も出版されて、新たな料理文化が広く人々の間に普及した。

江戸時代の幕末には食文化の中心は、京都・大坂の上方から江戸に「食の都」が移り、江戸の食文化が日本の食として確立されていった。
江戸の外食文化や地方から伝わってきた料理が江戸前の新鮮な魚介類と結びつき、濃口醤油の発明により、江戸独自の料理(江戸料理)が完成された。和食を代表する寿司・蕎麦・鰻の蒲焼き・天ぷらなどの料理は、醤油の普及と対応して流行したものであり、醤油が和食を発達させた原動力といえる。巨大都市、江戸がつくった寿司、蕎麦、鰻の蒲焼、天ぷら、佃煮、どじょう料理など、さまざまな料理が生まれた幕末は和食の完成期と言え、今日の和食の基礎が確立された。







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