日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 江戸外食文化の定着-2


江戸食文化の定着(2)
-江戸中期から江戸後期-

■関東の「醤油」が江戸の食文化を花開かせた。
江戸時代の前期には全国の大名が江戸に屋敷を構えた。彼らを支えるため関東一円から集まった職人や出稼ぎの独身男性者の食事場として、手軽にすぐ食べられる食事が好まれ、そばや寿司、おでん、天ぷらなどの屋台が誕生する。調味料の基本である醤油も江戸庶民は、京・大坂から運ばれてくる「下りもの」に頼っていた。
江戸も中期になると関東でも醤油が醸造されるようになる。関東の醤油は関西のものより小麦を多用した香りの豊かさが特徴の「濃口醤油」であって、それが上品な上方風とは異なる江戸独自の味を生むきっかけとなった。江戸の食文化は濃口醤油の流通量がふえるのに合わせて完成されていった。寿司は押し寿司の原形(飯に酢と小魚を加えた「早すし」)から、東京湾の魚介類を使用した握り寿司が生まれ、蕎麦もこの時期に外食として定着する。

また醤油が庶民の生活に普及すると、それまで屋台だった店舗が、そば屋、寿司屋、天ぷら屋、居酒屋などの形態をとる料理店が増えた。寿司屋やうなぎ屋なども、やや高級な店が宝暦(1751年)から天明期(1781~89年)ごろから増え始めた。天ぷら屋は立食い屋台から座敷を設けた天ぷら屋ができたのは、幕末の文久頃(1861~)からである。
江戸後期には、うなぎの蒲焼に濃口醤油と味醂を合わせた江戸前のタレがつくられて江戸の味ができあがり、蒲焼が現在のような形になった。江戸前の鰻蒲焼は手軽さも売りだったため幕末まで主として屋台で売られていた。

日本では長らく肉食は禁じられていたが、猪料理のももんじ屋の料理屋が出現、幕末から国内に外国人が増えたことで肉食禁忌の感覚が次第に薄れていき、味噌や醤油で味付けられた牛肉を食材に取り入れた牛鍋屋もできた。

江戸後期の料理屋は、江戸市中に乱立するようになり、中庭を置き、離れや二階座敷を設けて、独自の空間を演出する高級料理屋の料亭が出現するようになった。その他、町中には、料理茶屋、飯屋、蕎麦・うどん屋、寿司屋、鰻屋、茶漬け屋、どじょう汁屋、天ぷら屋のほか屋台や小屋掛けの食事処があふれ、代金さえ払えば、誰でも自由に飲み食いができた。
江戸庶民の食事処も、江戸後期には、一膳飯屋を含めて料理飲食店の数は文化元年(1804年)で6165軒、天保六年(1835年)では「天保の飢饉」の影響もあって減少するが、それでも5757軒にものぼった。この頃には江戸庶民の下層にまで外食文化が浸透したといえる。

文化二年(1805)に出版された『煕代勝覧(きだいしょうらん)』には、江戸の中心街であった日本橋から今川橋において、店舗を構える店として、蕎麦屋、寿司屋、一膳飯屋、居酒屋、菓子屋、仕出し屋、汁粉・煮屋などが描かれている。通町筋の全店舗の合計は百一軒で、その内の十九店舗が食堂など外食産業に携わる店である。

上方と江戸の料理屋を比べて、喜田川守貞が記した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』(1853)には『京坂より江戸は勝り、江戸より京坂はその製劣れり。実に今の江戸の製食は至れりと云ふべく、京坂には未熟のことあり』とある。つまり、江戸時代の後期の料理は上方よりも江戸の方が優れていると書いている。


絵草紙『気替而戯作問答』(きをかえてげさくもんどう)「文化十三年丙子壬八月稿成」1816年。
天麩羅の屋台、蒲焼の辻売り、初鰹売りなどが生き生きと描かれている。この作品の文中には、「かばやきの匂ひは十種香(じしゆがう,十種類の香材をまぜた香)よりも鼻をうがち、てんぷらの味はひには早道(はやみち,財布)の底をはたく。 かもなんばん白玉の汁粉はいふもさらなり。 それより品くだりて、こんにやくのおでん大ふくもち、あつたかいやきいも巻きすしやきずるめ、みな相応に好むところあり。 九年かゝつて悟りをひらいた達磨さまでも喰わずにゐられまじ。 荒行(あらぎやう)せられた文覚(もんがく)上人でも一生断食はなるべからず。たとへ吉野の花がいかほどみごとじやとてもひだるい(ひもじい)ときは一本のあやめだんごにしかず。 楊貴妃や小町がなんぼ美しくても、腹のへつたときの夜鷹蕎麦一つぱいにはしかず。 花より団子、色気より食い気とは此ゆへなり。稼がずに喰はふと思ふはむり。ずいぶん稼いで大飯を喰らひたまへ」とある。
ここにみられるだけでも、鴨なんばん、天麩羅、蒲焼、白玉の汁粉、こんにゃくのおでん、大福餅、焼き芋、巻きずし、焼きするめ、あやめ団子、蕎麦などが売られている。
辻売りの蒲焼売りは「大蒲焼」の看板を掲げて、蒲焼を焼いているが、傍らに笊が積み重ねられ、半切桶の上には庖丁と俎板が置かれている。この蒲焼売りは鰻をその場で裂いて蒲焼にしている。 天麩羅の屋台では客が揚げたての天麩羅を立食いしている。 すぐそばに閻魔大王が描かれ、「此閻魔もかばやきの匂ひに後ろ髪をひかれて六道の辻に迷ふぞや。てんぷら恋しやなつかしや」といって、六道の辻(六道へ通じる道の岐れる所)から迷い出てきている。 初鰹売りは「これみなさい。生きてはねるやうなかつほだ。 七十五日生延びる気はないか。かつほ、かつほ」と町を走り抜けている。


■江戸の飲食業の発展
飲食店/『大江戸まるわかり辞典』時事通信出版局 より
「食べ物を天秤棒にさげて売り歩く「振売り」は中世からあったが、店舗を構えて商いをする「店売り」が現れるのは江戸時代半ばになってからである。また、寿司・天ぷら・そばなどの「屋台」が普及したのは、安永年間(1772~81)のはじめごろとされる。店売りには、煮炊きをした総菜類を店頭で光る「煮売り屍」と、店内で飲食させる「居見世(いみせ)」があった。
煮売り屋は、なんでも4文で売ったことから「四文屋」とも呼ばれ、焼き豆腐、こんにゃく、れんこん、刻みごぼうなどを醤油で煮しめたものを丼に盛って並べていた。
本格的な居見世が現れたのは天明年間(1781~89)以降で、寿司屋、鰻屋、天ぷら屋などの料理屋がたくさん生まれた。享和年間(1801~04)には、高級料理屋として知られる「八百善」が浅草で開業し、人気を得た。また、食事だけでなく、酒も飲める居酒屋は「縄暖簾」と呼ばれ、数多くの店が営業した。なかには朝から店を開けている店もあり、洒飲みたちを喜ばせたという。」

1.屋台寿司と寿司屋(居見世)

■江戸のすし屋
江戸の町では廉価な飲食産業や外食産業、一膳飯屋や屋台の食い物売りが軒を連ねるにいたった。すし屋もその例外ではない。江戸前の握りずしは初めは屋台の店で出されたが、もちろん握りずしが流行る前から寿司屋が存在した。すしは基本的に歩き売りから屋台売り、やがて、一部の握りずしは江戸時代末期から高級な店舗(居見世)と廉価な屋台にわかれて発展した。

江戸前寿司(握りずし)は、屋台を除けばほとんどが持ち帰りや出前専門のすし屋で、店で食するところは数えるほどしかなかった。すし屋の場合、屋台店は高級店ではなく、その屋台店には屋台専門の店と、一般店(内店)が屋台を店舗の傍らに出していたものがあった。内店と呼ばれる店は、あらかじめ客から注文を受けて、すしを握り、出前するか持ち帰りの寿司を作る商法であり、店で客に食べさせることはしなかった。


『守貞謾稿』に「江戸は鮓店はなはだ多く毎町一、二戸、蕎麦屋一、二町一戸あり、鮓屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世は専らこれを置かず、又ヤタイミセのみて売るも多し」とある。このように、すし屋は「毎町1、2戸」、そば屋は「1、2町に1戸」とあるように、すし屋のほうがそば屋よりも多かった。また、名のある寿司店は屋台を置かず、普通の店はもっぱら屋台を置いているし、屋台だけで売る寿司屋も多い、というのである。

屋台ではなく店構えの座敷で食事のできる有名(高級)な寿司屋には、華屋与兵衛の「与兵衛ずし」や堺屋松五郎の「安宅松の鮓」などがあり、いずれも高級な寿司屋であり、一時期には、一個三匁も五匁(300~500文)もする高い鮨であった。

 
江戸時代後期、文化二年(1805年)頃の『熈代勝覧(きだいしょうらん)』絵巻に描かれている寿司屋
寿司屋の障子看板に「寿しや 玉鮓 庄兵衛」と書かれており、店脇に掲げられた旗竿には「玉寿し」と書かれている。この「玉鮓」は握りずしよりも仕出し寿司が中心の名店であった。文政七年(1824年)に出版された『江戸買物独案内』にも載っている名店で、「御膳 元祖 玉鮓所 本石通十軒店 翁屋庄兵衛」と書かれている。


歌川豊国『見立源氏花乃宴』‐寿司‐ 安政2年(1855年)
 
絵の題『見立源氏はなの宴』は、長編合巻(物語)『偐紫(にせむらさき)田舎源氏』の一場面を抽いた錦絵である。
桜が咲き乱れる吉原遊郭で、主人公、田舎源氏(足利光氏)に花魁が寄り添い酒を注ぐ酒宴の光景。二人の前に華やかに並ぶ料理の数々。これらの料理は、右から桶の中に積み重ねられた握りずし、酒麩(さかふ―酒で煮た麩)、簀子(すのこ)の上に盛られた紅白の刺身(赤は鮪、白が鯛かヒラメ)、脇に大根おろし、生防風(しょうぼうふう)、山葵(わさび)らしい3種の薬味。二つの器(猪口)の中は刺身につける醤油と煎り酒、左端に少し見えるのは重箱に入った伊達巻。
白木の「出前桶」の中の寿司は「重ね盛り」となっている。描かれている寿司は、下が玉子巻、上が握りずしの海老に、アジかコハダ。そして玉子焼らしい握りには、楊枝が刺してある。海老の下に見えるピンク色の握りは、海老のおぼろ(そぼろ)と思われる。


■吉原遊郭と鮨売り
吉原では、頭に手拭を吉原冠りに締めて粋でいなせな姿の鮨売りは、白木の長手の箱を肩にかついで、「すしやァ こはだのゥすゥしィ」などと美声をもって呼び歩いた。江戸時代中期の宝暦年間(1751~1764年)頃までのすし売りの〝鮓〟は、すぐにその場で漬けて客の求めに応じたのではなく、数日漬け込んだ「なれ鮨」[※1]であった。

江戸前の名産とされていたアジに対し、コハダは同じ江戸前の魚でも下魚扱いされていた。それが、すしダネに用いられるようになると評価が一変した。江戸時代後期のコハダ・アジの「当座鮨」[※2]について、小川顕道の『塵塚談』(文化11年[1814])にはこうある。
「河豚(ふぐ)・鰶魚(このしろ)=コハダ、我ら若年の頃は武家は決して食せざりしものなり。鰶魚(このしろ)はこの城を食ふといふ響きを忌(いみ)てなり。 (中略) 鰶魚は今世も士人以上は喰はざれども、魚鮓(すし)にして士人も夫人も賞翫しくらふ。河豚も乾ふぐは貴富も少しもおそれず喰ふ。鰶魚のすしに同じ」
とあって、コハダはすしと出あって、代表的な寿司ネタとなった。また、江戸時代幕末の嘉永・安政年間(1848~1860年)には、握りずしが浸透していくにつれて、市中でコハダの鮨を売り歩くというスタイルが生まれた。

(※1:ナレズシには馴酢,熟酢,馴鮨,熟鮨の漢字があてられる。 ※2:「当座鮨」は早ずしともよばれ、桶で馴(な)らすことをせずに、飯と具を桶に入れてちょっと押さえ漬けるようにして、そのまま食べるもので、簡便さを狙った鮨である。)

「すし売り(振売り)」の図

川柳に『あじのすう こはだのすうと にぎやかさ』と詠まれているように、遊郭とくに吉原では江戸前の青魚を用いた寿司屋が売り歩きをしていた。鮨売りの呼び声は、~ すしやァ こはだのゥすゥしィ ~。
「粋な扮装に頬被りの鮨売りの行商人が「鯵のすふ、こはだのすふと賑やかさ」と呼び声を上げる。提灯を持ち、吉原の遊廓内に出入りして、鮨の篭を何枚も肩に担いで売り歩いている情景である」。

鮨売りは江戸ではイナセな代表とされていた。昼間は右手を下げているが、夜になると提灯をもって、すしを入れた箱を担いで売り歩いた。「口を酸くして呼ぶ、鮨売りの声は、おしつよき客の小言かと疑うばかり」とあり、夕闇がしだいに迫ってくる頃、吉原の遊廓内の道々を鮨売りは、「ぞめき客」(登楼する当てはないが、何となく遊廓内をそぞろ歩きしている男達)の間を縫う様にして売り歩く。
「因曰京坂にては方四寸許の箱の押ずしのみ一筥四十八文は鳥貝のすし也又こけらずしと云は鶏卵やき鮑鯛と並に薄片にして飯上に置を云価六十四文一筥凡十二に斬て四文に売る又筥ずし飯中椎茸を入る飯二段になりたり又浅草海苔巻あり巻ずしと云飯中椎茸と独活を入る京坂の鮨普通以上三品を専とす而も異製をなす店も稀に有之又鮨には梅酢漬の生姜一種を添る赤き故に紅生姜と云」
江戸時代の末頃出版された『守貞漫稿』に、押ずしの売価は四寸四方の鮨で四十八文、小口に切っての販売もされた。「一筥(はこ)凡十二に斬て四文に売る」とあり、一篭12に切って4文で売るとあるので、1個ならば4文、一篭ならば48文である。具は鳥貝・卵焼き・鮑・鯛等。酢飯の中に椎茸を混ぜ込むこともあるという。その他にも、海苔巻も当時からあったようである。


■料理屋の「出前」と「仕出し」
日本に「出前」や「仕出し」が定着したのは江戸中期から後期である。「出前」という言葉の出前の「出」は、店から作った料理が出る、前は、1人「前」、2人「前」の分量を表している。江戸時代中期、日本で最初に出前方式を始めたのは、寛文年間(1661~72年)に、江戸の吉原にできた店だという。遊廓の夜食用にと、そばの出前が始まった。これらの店は「けんどんそば切り」と呼ばれた。
「慳貪(けんどん)」とは「出前」の意味である。「そば切り」は、そばがきをうどん風に細く切ったもので、現在のそばの前身のようなもの。これが大人気となり、出前も盛んになっていった。

「仕出し」は「仕」と「出」の字が含まれている通り、「作って」「出す」=出前・配達料理 の意味である。1824年に書かれた『江戸買物独案内』という書物によれば、高級料亭などで多く「仕出し」が行われていたようである。


享保期(1716~35年)に初めて吉原遊郭内に「台の物」と呼ばれる夜食料理の仕出しをする「台屋」(遊郭専門の仕出し屋)が登場する。吉原の仕出しの特徴は「台の物」といわれるもので、卓袱台ぐらいの大きさの台に、魚や料理を豪華に盛り付けた皿や鉢を並べて、台ごと配達していた。文政期(1818~29年)から遊郭外の仕出し屋なども生まれ、飲食商売は大繁盛した。

料理専門店の仕出しについて、風俗随筆の『世事見聞録』武陽隠士著(文化13年=1816年,序)に、
「今此料理茶屋の繁昌成事、讐へば同志のもの十人二十人、一群にて不意に参り、金五両拾両の価なる料理を好むに、何時も差支へなく即時に調ふなり。(中略)此の如きもの江戸中に所々ありて、又仕出しと云うて、何百人前にても誂へ人次第、いづれまでも持ち出すなり。」
とあって、「料理茶屋」の繁盛と、「仕出し料理」の盛んなことに批判している。
幕末頃になると、寿司屋、蕎麦屋、うなぎ屋といった出前が充実するようになる。庶民は慳貪箱で運ばれるうどんや蕎麦など、大名や大店の家族は大八車に載せられた料理や食材で「出前」「仕出し」を利用していた。江戸時代の仕出しは、町衆とともに育った文化ともいえ、大店の主人が昼間、仕出し屋にさまざまな料理を注文すると夕方には料理が届けられた。やがて、商家ではお祝い事や法事などの時には料理を仕出し屋に頼み活用されるようになった。




2.屋台蕎麦から蕎麦屋(居見世)へ

■蕎麦がきから蕎麦切りへ
細長い麺状の蕎麦が食べられるようになったのは、室町から江戸時代の初期の慶長年間から寛永年間(1596~1644年)といわれている。それまでは、古くは粒のまま粥(かゆ)にし、あるいは蕎麦粉をねっていわゆる蕎麦掻き(そばがき)として食べていた。
この頃はまだ茹でて食べるわけではなく、蒸して食べることが主流であった。この「蕎麦がき」に対して、江戸時代中期の蕎麦は「蕎麦切り」と呼ばれて蕎麦を茹でる「麺」として食べるようになる。当時、「蕎麦切り」は庶民的な食べ物として職人や商人など、江戸っ子を中心に大人気となった。やがて「蕎麦切り」の方が主流となり、「蕎麦」といえば「蕎麦切り」を指すようになった。

現在私たちが口にしている蕎麦は江戸時代中期に、蕎麦切り・蕎麦つゆ・薬味・器・盛り方・食べ方など、それぞれが形に成り始め、江戸時代後期に完成したとされている。現在一般的に使用されている「蕎麦」という呼び方は蕎麦切りが省略されたものである。



蕎麦がきのつくり方、『料理山海郷』寛延三年(1750)によれば、「そば粉常のそば練りのごとく鍋にて堅くねりて、其の上へ水一ぱい入れ、そばのあく汁をとる為也。湯をすて、其の後練り直すべし。杓子にて練るは悪しし、女竹きせるのらうほどに(竹の太箸で素早く)切り練るべし。是にては鍋にもつかず、よき也。膳を出すに、白湯熱く沸かし椀に入れ、右のそば練り玉子ほどづつ取り、湯に浮けて出す。かうとう(ゆずと薬味の意味)は常のそば切のごとし。汁はかつを水出しして、その後醤油を加え加減するなり。水多くては汁薄くなる也。よくよく心得べし」とある。


■蕎麦屋の普及
江戸での蕎麦の普及には、店を構えた蕎麦屋だけでなく、担ぎ売りする屋台の「夜そば売り」が大きく貢献していた。貞享年間(1684~1688)には既に麺類の夜売りが行なわれていたという。江戸時代は、火を扱う屋台で売り歩く夜蕎麦売りは原則禁止されていたが、江戸の市中から屋台の夜蕎麦売りは姿を消すことがなかった。

この「夜そば売り」は、江戸では「夜鷹(よたか)蕎麦」と呼ばれていた。夜鷹蕎麦は「かけそば」専門で、その扱いも不衛生であったといわれるが、宝暦(1751~1764)の頃になると、担い屋台に風鈴をつけ、鳴らしながら歩く「風鈴そば」売りが登場した。

「風鈴そば」は「夜鷹そば」との差別化をはかるために、夜鷹そばの"かけそば"一点ばりに対抗して、きれいな大平椀(おひらわん)に"かけそば"を盛り、その上に"種物(たねもの)の竹輪(ちくわ)か竹輪麩"をのせた「しっぽくそば」を売り歩いていた。この風鈴そば売りは、夜そば売りより若干品質の高いものを少し割高に売る屋台で、呼び声をだすかわりに、屋台の屋根に吊るした風鈴の音で蕎麦屋がきたことを告げていた。
この頃の風鈴そばの場合は、荷台に一つか、二つの風鈴を吊るした市松模様の屋根のある屋台を担って、行燈に「二八そば」と表記し、そば一杯を十六文で売り歩いた。



夜そば売りが重宝されたのは、一定の場所に店を構えるのではなく、自由に場所を移動できる担い屋台での商売であったこと。しかし、江戸時代末期になると「屋台蕎麦」は次第に消えていく。天明七年(1787年)の蕎麦屋の店舗数は65軒(名店案内「七十五日」に掲載された蕎麦屋)。これが、江戸末期の1860年には3763軒になっていたという記録が残されている。
しかも、この中には俗にいう「夜鷹蕎麦」などの担ぎの夜蕎麦売りは含まれていない。また、戯作者の為永春水も『以呂波文庫』の中で、蕎麦を売る店と鰻の蒲焼を売る家は、一町に二、三軒ずつあると、こちらも江戸の蕎麦屋の繁盛ぶりを記している。

これは江戸後半から店構えの「蕎麦屋」が増加したことが一因である。高級店は座敷を設け、「手打」あるいは「生蕎麦」を看板にして、二八蕎麦との格差を強調していた。昔は製麺機がなかったから、どちらも手打ちに変わりがないが、精製の意味をこめて「手打」といっていただけである。けれども、幕末になると二八蕎麦屋までが手打・御膳生蕎麦を名乗り、店構えだけでは両者を区別できなくなった。


『大晦日曙草紙』香蝶楼国貞(歌川国貞) 画 天保10年(1839) 、「二八蕎麦屋のみせ」


■江戸のそばつゆ
蕎麦つゆの歴史をたどると、醤油以前の蕎麦つゆは、味噌と水を合わせてこした「生垂れ」、生たれを加熱して煮詰めてこした「垂れ味噌」で、それに薬味のみかんの皮、大根汁、ワサビなどを加えて蕎麦を食していた。
江戸時代初期の蕎麦つゆは、「たれみそ」と呼ばれる味噌の垂れ汁と“大根の汁”を溶いたものに、鰹節、大根おろし、山葵(わさび)、ネギよりも辛味が強いとされる浅葱(あさつき)などの薬味を入れた蕎麦つゆであった。江戸時代の中期には味噌の垂れ汁に「溜醤油」が加えられるようになる。さらに関東地廻りの「濃口醤油」に「鰹の出汁」が加えられたのは、江戸時代後期と考えられている。

醤油が普及していなかった江戸時代中期には、茹でた後に冷ました麺に大根などの辛みをからませダシ汁をかけて食べる「ぶっかけそば」が普通だった。安価な地廻り醤油(濃口醤油)が普及し、たっぷりの熱い出汁の中に麺を入れて食する「かけそば」になったのは江戸時代末期近くであった。

江戸蕎麦と言えば、鰹出汁ベースの醤油が入った黒い蕎麦つゆ。つゆに蕎麦の先をちょっとだけつけてすするのが江戸蕎麦の粋という。そばを食べるのに“味”よりも“粋”を求めた。江戸っ子たちに言わせると、蕎麦は「腹を満たすものではなくて、粋をたのしむもの」だったそうで、蕎麦をジャブジャブとつゆにつけるのは野暮(やぼ)だとされていた。
江戸時代初期の料理書『料理物語』(寛永20年,1643)には蕎麦つゆについての記述「蕎麥きり めしのとり湯にてこね候て吉。又はぬる湯にても。又とうふをすり水にてこね申事もあり。玉をちいさう(小さい)してよし。茹でて湯少なきは悪しく候。煮え候てから、いがき(ザル)にてすくひ。ぬる湯の中へいれ。さらりと洗い。さて、いがきに入。煮え湯をかけ、ふた(蓋)をして冷めやうに。又水けの無きやうにして出してよし。汁は、うどん同前。其上大こんの汁くはへ吉。 はながつほ、おろし、あさつきの類、又からし、わさびもくはえよし」とある。
それによれば、茹でた蕎麦を笊ですくい、ぬるま湯で洗った後、笊に入れ、そこに熱湯をかける。蓋をして冷めぬように水気を無くして出す。つけ汁は、垂れ味噌に大根の汁を加え、鰹の削り節、大根おろし、あさつき(浅葱)を入れ、さらに、からし、山葵を加えていたようである。
同書のうどんの説明で出てくる汁(つゆ)、垂れ味噌というのは、味噌に水を加えて煮詰め、布袋に入れて漉した(垂らした)もので、室町時代の記録にも出てくる。
江戸時代中頃の寛延四年(1751)、江戸の住人、日新舎友蕎子という人物が書いた『蕎麦全書』には、自家製の「そば汁」の作り方が二通り書かれている。そのひとつが、「垂れ味噌と酒、削った鰹節を合わせて煮詰めて漉し、塩、溜醤油で味をととのえたもので、これを温めて用いる」。同書には「今麺店家の汁、此法の類ひなるべし」とあるから、当時の江戸のそば屋はほぼこのような味噌味のつゆを使っていた。
もう一つが、「醤油一升、上等の酒4合、水4合を合わせて弱火で煎じる、自分は精進汁を好むため鰹節は使わないが、だしの味を好む人は鰹だしを加えるとよい」とある。そば汁の味は大変塩辛いものになるようで、これに、大根おろしの絞り汁を入れて、そばを食したと言われている。
江戸時代後期の天保・嘉永期(1830~54)の江戸風俗を記録した『守貞謾稿』では、蕎麦屋の品書きなどは詳細に述べているが、「そばつゆ」については触れていない。しかし、江戸の料理の味つけとして、鰹節のだしに味醂または砂糖を加え、醤油で塩味をつけるとしている。しかも、味醂に関しては「諸食物、醤油ト加之煮ル」とあり、砂糖はそば屋で使うこと甚だしいとまで書いている。
したがって、鰹節のだしに濃口醤油味醂砂糖という江戸の「そばつゆ」は遅くも文化文政時代(1804~30)頃には完成されていたと考えられる。
江戸時代末期の風俗を記した随筆『守貞謾稿』によると、「京や大坂ではうどんを好む人が多いが、江戸では蕎麦を好む人が多い」とあり、江戸時代の前半までは蕎麦よりうどんが主流であった。蕎麦も食べられてはいたが、あくまで、うどん屋がうどんを売る傍ら、蕎麦も売っている程度の扱いだった。江戸では、享保のなかば(1728頃)に小麦粉をつなぎとして使うことで、蒸すことから茹でることが可能となって「二八蕎麦」が出現したとされている。


『そばうり宗兵衛』安政5年(1858) 歌川國貞 画
この画は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の夜そば売りを市川小團次が演じている。行商の担ぎ商いの「夜そば売り」は、背丈の半分ほどの高さの縦長の荷箱二つを担ぎ棒の前後に振り分けて担ぐ荷売りで屋台の一種である。


■蕎麦屋(店)
町人文化が花開いた江戸時代中期、江戸には多くの蕎麦屋が店を構えた。江戸の町において蕎麦がうどんより食べられるようになったのは、18世紀中頃からだといわれている。安永五年(1776)に刊行された黄表紙『うどんそば化物大江山』に、「江戸八百八町(はっぴゃくやちょう)に蕎麦屋は数え切れないくらいあるが、うどん屋は万に一」といわれるほどになった。

江戸時代中期から後期にかけて商業地や城下町などに蕎麦屋(店)が開かれている。幕末期の万延元年(1860)には、蒸籠(せいろ)に盛られた蕎麦を座敷で食べさせる江戸市中の蕎麦屋(店)が3,760余軒もあったという。蕎麦屋は、1,2町(1町は約109m)ごとに1軒あったと言われている。それとは別に屋台も多く出ていた。それでも江戸の町では、すし屋の方が多く蕎麦屋はその半分の数であった。


「新版御府内流行名物案内双六」一英斎(歌川)芳艶 画より「やなか やぶそば」

麺状の蕎麦は江戸時代中期から後期にかけて、つなぎを使った製麺技術が発達して製法に工夫が加えられ、小麦粉を“つなぎ”にするようになった。それ以来、つなぎを使う蕎麦が主流になった。
江戸時代の後期には、蕎麦粉と小麦粉を混ぜた「二八そば」が広く出回り、現在のように茹でる蕎麦が主流となった。江戸中期には今の蕎麦の形ができ、主な客層は町人であったが、武士が来るような高級蕎麦屋も現れ、つなぎを使わない十割蕎麦などを上等な器で提供していた。当時、武士は「盛り蕎麦」を好み、町人は「かけ蕎麦」を好み、農民は蕎麦ではなく、「うどん」を好んで食べていたという話もある。

また、いつの頃からか暖簾会系そば屋の「砂場(すなば)」「更科(さらしな)」「藪(やぶ)」を「江戸蕎麦御三家」と呼ぶようになる。これらの暖簾会系の元店が誕生したしたのも、室町時代後期(安土桃山時代)から江戸時代初期で、「砂場」は天正十二年頃(1585)、大坂城築城のための砂利置き場近くに発祥したとされる。
江戸蕎麦御三家と呼ばれる大坂が起源の「砂場そば」や信州生まれの「更科そば」などは、武士に重宝されたため、上品な味わいで商人の客が多かったという。江戸生まれの「藪そば」のつゆは濃いめだったようで江戸庶民に受け入れられたようである。


『江戸名物酒飯手引草』嘉永元年(1848)刊


『花の御江戸』北尾正美画 天明3年(1783)/上野山下の二八そば屋の絵
店前の往来の正面に「二八」横の方に「二八そば」と書いた大きなあんどんが置いてあった。下開きの幅の広い板が台に付いていて障子紙が張ってある。これが夜の四つ、今の十時まではとぼとぼと道を照らした。蕎麦屋の矢張り切り落としの土間に入ると、一尺から一尺五寸くらいの高さの小上がりがあり、客は銘々座敷に上がるか、上がり框(がまち)に腰をかけて蕎麦を食べた。
注文の蕎麦は、一寸くらいの脚のある、ごく低い角膳か、あるいは薄い角盆に乗せて客の前に出された。皿盛りの店では蕎麦を盛った皿は、折敷(檜の片木で作った角盆。蕎麦用のものは「蕎麦折敷」と呼ぶ)か、店によっては直接畳の上に置かれた。客は猪口を左手に持って蕎麦をすすり食べた。


 

江戸中期までは、蕎麦は「蕎麦切り」と呼ばれる方が一般的であった。「蕎麦切り」が、一般的に「蕎麦」と呼ばれるようになるのは、蕎麦が日常的な食品として定着した18世紀も末の頃とされている。
蕎麦切りの、そもそもの食べ方は、一度茹でた蕎麦を蒸籠に入れて蒸し上げ、つゆをつけて食べる、いわゆる「蒸し蕎麦」、つまり「熱い盛り」であった。 この蒸し蕎麦の蒸す過程を省略 し、茹で上げた蕎麦を水で洗い、冷たいつゆにつけて食べたのが「盛り蕎麦」である。
盛り蕎麦をいちいちつゆにつけるのは面倒くさいと、丼に冷たい蕎麦を入れ、冷たいつゆをかけて、さっと食べ たのが「ぶっかけ」(ぶっかけは、日本橋新材木町の『信濃屋』がつくったいう)であった。ところが、寒い季節に冷たい蕎麦は食べにくいと いうので、洗ったままの冷たい蕎麦に熱いつゆをはったのが「冷かけ」。さらに、水で洗った蕎麦をもう一度温め、熱い蕎麦つゆをかけたのが「かけ」蕎麦(かけ蕎麦が一般に定着したのは、18世紀末だと考えられている)である。



料理茶屋「新版御府内流行名物案内双六」一英斎(歌川)芳艶 画(嘉永年間(1848~1854年)より「四ッ谷 太田屋」(俗称馬方そば)
【馬方そば: 色は黒く舌触りがよくないが、値段が安く、しかも量の多い下等なそばの呼称のひとつ。馬方は、馬で荷や(人)を運ぶきつい仕事。江戸時代の半ばから幕末ごろまで続いた太田屋定五郎というそば屋が四谷御門外にあって「四谷の馬方蕎麦」ともいわれた。黒いそばだが盛りが良いので馬方が行き帰りに休んでは飯の代わりに食べるのでこの俗称が付いたという。
「挽きぐるみ」の黒っぽいそばだったが、よそのもりに比べて量が多かったので評判となった。寛永十八年(1641)の創業というが、嘉永元年(1848)版『酒飯手引草』の掲載を最後に幕末頃消え去った。】

■蕎麦屋の出前

『そばや乃かつぎ 関花助』/文久二年(1862) 画、〝かつぎ〟は蕎麦屋の出前

料理を配達して客前に届け運ぶ人を「かつぎ(出前持ち)」という。「かつぎ」は、天秤で蕎麦を担ぎ町を駆け抜ける威勢のいい粋な姿は江戸の華でもあったと伝えられる。すでに、享保(1716~36年)の頃は、『蕎麦切りゆでて、紅がら塗りの桶に入れ、汁を徳利に入て添きたる』(還魂紙料)とある。
そば屋の「かつぎ」は、茹でた蕎麦・つゆ・薬味などを入れた「慳貪箱」に天秤棒の格好(出前)で運んだ。当時の神田橋のあたりの蕎麦屋では、饂飩を入れる桶へ蕎麦を入れて運んだという。


■蕎麦屋酒
江戸の庶民が蕎麦屋で酒を飲むという"江戸庶民文化"があった。当時は、酒を飲みながら、軽くつまみを食べ、〆に蕎麦を食べるというのが「粋」な大人の楽しみ方であった。「蕎麦前」とは、蕎麦屋で蕎麦切り(蕎麦の麺)を食べる前に呑む酒のことである。江戸時代の幕末のころは、「蕎麦屋酒」と云って蕎麦店は酒を飲む場所として多くの庶民に利用されていた。
江戸っ子達は日本酒と蕎麦という組み合わせを楽しんでいたようで、人気のあった蕎麦店は仕事帰りの長屋で暮らす独身の職人たちが酒を飲みに行く憩いの場でもあった。そもそも、蕎麦屋は庶民が酒を飲みに行くところであった。蕎麦屋には上方の澄んだ"上酒"が置いてあったとされている。

蕎麦屋は、店に置く酒を充分すぎるほど吟味していた。ただし、その分、酒の値も高く『守貞謾稿』に見る幕末の「連」(蕎麦屋の壁に張り出された品書きのこと)には、蕎麦(もり・かけ)十六文、天ぷら蕎麦三十二文、上酒一合四十文とあり、当時の蕎麦屋の酒が、いかに高価であったかがわかる。
紀州田辺藩の医師 原田某が幕末に記した江戸勤番中の見聞記『江戸自慢』には、「必蕎麦屋には酒あり、しかも上酒なり」とある。蕎麦屋は酒を飲むにも重宝であった。また、「鉢に入れ、汁をかけしを掛(カケ)と言い、小さき蒸籠に盛り、素麺の如く食うを盛(モリ)という」、「蕎麦屋に入と、盛か掛かと問ふ事極リなり、己が好ミに任せ、早く答をする事なり」とあるから、「かけ」と「もり」の二つが蕎麦屋の定番であるようだ。
蕎麦屋が「酒を飲む場所」化すると、酒に合わせるつまみ物が供されるようになる。短気な江戸っ子を迎えるにあたり、蕎麦店はまず「種物(たねもの)」に使う食材をささっと調理して出す。
例えば、焼海苔、蒲鉾に山葵と醤油を添えた「板わさ」、かけそばに貝柱をのせた「霰(あられ)そば」の小柱にわさびを添えた「柱わさび」、炒った蕎麦の実と江戸甘味噌を使って焼きあげる「焼き蕎麦味噌」、そば汁を使った「出汁巻き玉子」など独特の肴がたくさんあった。こうした酒肴に蕎麦を出す前の酒のことを「蕎麦前」とも呼ばれていた。

 


■蕎麦屋の「品書き」と「酒」
蕎麦屋の品書きは、江戸の市街地(御府内)という狭い範囲に限定され確立されていた。ただし、蕎麦の種類も当初は「もり」と「かけ」であったが、さらに具を乗せる「種もの」へと品数が多くなっていく。二八蕎麦は店を構えた蕎麦屋で品書きが定着したのが、概ね天保以降で、蕎麦の品書きが出揃ったのは幕末近くになってからであった。こうして蕎麦は江戸で勢力を拡大していき、江戸時代末期の万延元年(1860)には江戸市中の蕎麦屋は3760店を数えたという。



江戸末期の『守貞漫稿(1837~53)』 蕎麦屋の品書きには、御膳大蒸籠(ごぜんおおせいろう=大盛り蒸し蕎麦)四十八文、そば十六文、あんかけうどん十六文、あられ二十四文、天ぷら三十二文、はなまき二十四文、しっぽく二十四文、玉子とじ三十二文、そして上酒一合が四十文である。このほか、鴨南蛮、親子南蛮、小田巻はいずれも三十六文としている。さらに、しっぽくに葛醬油をかけたものを「あんぺい」(安平)と呼んだとある。
かつては、かけ蕎麦は"丼"で供され、種物は"大平椀"に盛られ、盛り蕎麦は"皿か蒸籠"で供されていたが、幕末になると、種物も含めて、汁蕎麦はおしなべて"丼"に盛って供されるようになった。

蕎麦の種物(たねもの)では生の小柱(青柳の貝柱。青柳は馬鹿貝のこと)を入れた「霰(あられ)そば」や、竹輪または竹輪麩を入れた「しっぽくそば」は寛延(1748~51)頃からあった。
「花巻そば」は、熱いつゆをはった蕎麦の上に焼き海苔を揉んで散らし、海苔の香りを味わうため、おろしワサビが決まりでネギをつけない。花巻を詠んだ古川柳に「おしょくは花巻山下の角玉屋そば」がある。当時、花巻は上野山下にあった蕎麦舗『玉屋』の名物として知られていた。玉屋は、店の造りを吉原の妓楼(ぎろう)に倣って造作していたので、一番人気の花巻を吉原妓楼の御職(筆頭花魁)になぞらえたという。

短冊に切ったネギを入れるのが「なんばん」でネギと油揚げを入れた蕎麦は大坂の「きつね」よりも江戸がずっと早く、夜そば売りが始めたものである(文化三年,1806年,式亭三馬の『船頭深話』に「菱屋のそばは、葱や油揚などをあしらいたるなんばんの仕出しをして…… 皆待ちかねて是を買う。外のそばやになんばんなし」とある)。これは、夜そば売りの話だが、葱と油揚の取り合わせを南蛮と呼んでいる。

蕎麦屋で「鴨南蛮」の南蛮と称するのは葱(ねぎ)のこと。この鴨南蛮、馬喰町一丁目橋詰にあった『笹屋』が元祖であると、喜多村信節の『嬉遊笑覧』(文政13年=1830年)にある。ちなみに、同書には「葱を入るるを南蛮と云い、鴨を加えてかもなんばんと呼ぶ、昔より異風なるものを南蛮と云うによれり」との記載があり、南蛮の語源を「異風な物」としている。葱に鴨肉を加えたのが「鴨南蛮」だが、葱を煮ないで焼くか、胡麻油でいためるのが定法とされている。
『守貞謾稿』には、鴨南蛮が冬期限定品であり、鴨肉ではなく雁の肉を使用した店もあり、さらには「親子南蛮」が存在したと記されている。

「天ぷらそば」は文政(1818~30)頃に創作され、胡麻油で江戸前の芝海老を3,4本をまとめ揚げした、かき揚げ天麩羅であった。現在のような、大き目の海老の天婦羅を一本、ないし二本乗せるスタイルがいつから始まったかは定かではなく明治中期以降のことと推測されている。

「玉子とじ」は、たんに「とじ」とも 呼ばれ、熱いつゆをはった蕎麦の上に敷き海苔を置き、別につゆを沸かし、卵を溶き入れたものを回しかけたもの(葛で餡かけ仕立てにしたものもある)。

『守貞漫稿』には記述がないが、玉子を使用する蕎麦の種ものに「おかめ蕎麦」がある。おかめ蕎麦は幕末頃に江戸下谷の蕎麦屋が考案した種ものとされているが、当初の頃の具の基本は島田湯葉(髪)、マツタケ(鼻)、かまぼこ二枚(両頬)とされ、玉子焼きを使うようになるのは後のことらしい。
幕末に、この、おかめの顔になぞらえたおかめ蕎麦を考案したのは、根津七軒町の蕎麦屋『太田庵』主人だといわれている。古い連(蕎麦屋の壁に張り出された品書きのこと)には「於嘉免蕎麦」,「阿亀蕎麦」,「お可免そば」などと記されたものもある。

蕎麦屋の「上酒」とは文字通り、上等の酒とかよい酒という意味である。江戸では下り酒と関東の酒(地回り)の双方が消費されてたが、圧倒的に評価が高く人気のあったのは下り酒で運ばれる灘の酒が高級品とされていた。『守貞満謾稿』にも灘の酒が最上だったとしている。したがって、江戸時代後期の蕎麦屋の上酒とは、灘の下り酒だった可能性が高い。
江戸の蕎麦屋はいつ頃から酒を売るようになったのか、はっきりした時期はわかっていないが、元禄三年(1690)刊の噺本『鹿子ばなし』に出てくる浅草のそば屋が早いほうだろう。ただし、夜そば売りのような屋台のそば屋では、酒は売ってはいけないことになっていたという。なお、文政(1818~30年)の頃には、蕎麦屋を兼業する酒屋も登場していた。


■見附宿の蕎麦

葛飾北斎 『春興五十三駄之内』の「見附」/享和4年(1804)、天竜川の東岸の見附宿(現在磐田市)
冷たい蕎麦に醤油味の蕎麦汁を浸して食べる見附の蕎麦は、街道名物のひとつであった。旅人たちが茶店で蕎麦「挽拔(ひきぬき)そば」をすする状景である。「挽拔」は夾雑(きょうざつ)物のない精製した上等の白いそば粉、その粉で製造した蕎麦。値段は壱膳一六文。
初摺作品にある狂歌は、ただし蕎麦は詠みこまず、単に初春を祝している。「旅人の足の豆をやあさるらん 見附に鳩の春の賑ひ 三ヶ月弓」「初春の旅鴬よとまれかし 梅を見附の宿と尋て 杜若菴橋蜘手」


■蕎麦のつなぎ(小麦粉)
- 江戸と紀州の蕎麦比べ - (竹内誠『江戸社会史の研究』弘文堂より)
江戸の蕎麦について、紀州田辺藩の医師 原田某が幕末に記した江戸勤番中の見聞記『江戸自慢』で紀州と江戸の食べ物の味くらべを記している。
蕎麦では、「(江戸の)蕎麦は鶏卵を用いず 小麦粉にてつなぐ故に 口ざわり剛(こわ)く 胸につかへ 三盃とは食ひがたし 汁の味は至極美にして 若山(和歌山)の蕎麦を江戸汁にて食わば 両美相合して 腹の裂けるを知らず食にや有らん」とある。
このことからも当時の紀州では、蕎麦は玉子つなぎであったこと、一方江戸には「まじりなしの生蕎麦」と言われるような評判の良い蕎麦もあったが、大半が小麦粉つなぎの割合の多い蕎麦で、そば粉一升・小麦粉四升(1対4)や1対3などもめずらしくなかった町場蕎麦屋の時代背景がうかがえる。
また紀州の湯浅は、醤油誕生の地ともいわれて江戸時代には92軒もの醸造業者がある醤油の名産地でありながら、まだつゆの味が不味かったこともわかる。江戸のほうはすでに、醤油や味醂を使った洗練された蕎麦つゆが出来上がっていたのである。味醂はもともと蜜淋酒(酎)とも書かれた甘い飲用酒であった。

『守貞漫稿』は味醂についてこんな記述がある。「美淋酒は多く摂津の伝法村にて醸す、然れども京阪では用いること少なく、多くは江戸に漕して諸食物醤油と煮る」とあって当時流行しだした鰻の蒲焼きのタレや蕎麦つゆなどにも使われだしたことを記している。さらに、『江戸自慢』には「鉢に入れ、汁をかけしを掛(カケ)と言い、小さき蒸籠に盛り、素麺の如く食うを盛(モリ)という」とある。この文面から、紀州では冷たく食べるセイロに盛ったモリはめずらしかったことがわかる。」

3.うなぎ屋台から鰻屋(居見世)

■屋台から鰻屋へ
関東での濃口醤油の普及により、「江戸前の四天王」と呼ばれる鰻・天麩羅・蕎麦・鮨の屋台文化が生まれ、 この中でも、いち早く屋台から料理屋で提供されるようになったのが鰻であった。 蒲焼きは、かつては下賤の食べ物といわれ、屋台から興った大衆食であったものが、江戸を代表する高級食になっていった。
最初は棒手振りや道辻の屋台見世、つまり露天売りで一串16文で買える庶民の食べ物だった蒲焼きが、享保年間頃(1716~1735)には、辻番小屋風の粗末な店構えの鰻屋が登場している。今のように蒲焼にする鰻を割いて開く技法は、江戸中期に上方から江戸に伝わったとされている。 1700年代半ば過ぎ頃になると、屋台は次第に衰退して客が座敷に上がれるような鰻専門の料理茶屋が増え始める。


■江戸前うなぎ
江戸前という言葉から思い浮かぶのが、江戸前寿司である。江戸前とは、江戸の前(江戸湾)でとれたものの総称とされているが、江戸前を冠するものの第一は、「江戸前寿司」ではなく「うなぎ」であった。
江戸中期の方言辞典「物類称呼」(1775年)には「江戸にては浅草川・深川辺の産を江戸前とよびて賞す」とある。鰻は河川や近海などに生息する。隅田川や江戸の湾内で獲れた鰻を「江戸前うなぎ」と言った。当時は江戸前うなぎに対して、遠方から運ばれた鰻を「旅鰻」と称した。鰻はそのくらい江戸の人々に好まれていた。


江戸前の蒲焼きでは、宮戸川(浅草川)で獲れるうなぎが最高とされ ていた。画は、橋場のあたりでのうなぎ獲りの風景。

■蒲焼屋はじまる
江戸に「うなぎ屋」が登場するのは江戸中期の享保(1716~1736年)の頃で、京や大坂から「蒲焼き」の調理法が伝わったのもこの頃からである。江戸時代前期、京や大坂でウナギを焼いたものに、当時普及し始めた醤油を付けて焼く方法が生まれ、その時に、うなぎのぶつ切りから裂いて焼く、現在のような蒲焼きの姿が誕生した。江戸時代中期になると、関東でも濃口醤油の生産が盛んになり、また三河国(愛知県東部)から安価な味醂も入るようになって甘辛い醤油ベースのタレが完成し、うなぎの蒲焼きがつくられるようになった。

天保四年(1833)の風俗の変化を記した『世のすがた』(著者不詳)によると、「うなぎの蒲焼は天明のはじめ(1780頃)上野山下仏店にて、大和屋といへるもの初て売出す、その頃は飯を此方(自分)より持参せしと聞く、近来はいずれも飯をそえて売り、又茶碗もりなどというもあり」とある。上野下谷の仏店(ほとけだな)の大和屋・上総屋でうなぎ蒲焼が売り出されたが、当時は客が飯を持参して蒲焼を食べたという。
天明年間には、うなぎを腹または背を開いて、何本かの串をさして焼く蒲焼が江戸で流行し始め、蒲焼単体の販売であったものが、次第に飯をそえて売るようになったことがわかる。

■蒲焼の付け飯がはじまる
蒲焼屋は、入り口の障子や行燈に「江戸前大蒲焼」と大書していた。元禄時代(1688~1704年)の初め頃の蒲焼きから、本格的な鰻料理屋の「江戸前の大蒲焼き」が登場するのが、明和から天明年間(1764~88年)の頃であり、蒲焼きと飯を別々に出す「江戸前大かばやき、附めし」という形で売られていた。
江戸っ子は江戸前のうなぎの蒲焼を日本一だと自慢し「大蒲焼」と呼んだ。この頃から登場した杉の「割り箸」によって「江戸前大蒲焼き」の看板を出す店が飛躍的に増加した。


黄表紙『三世相郎満八算(さんぜそうろうのまんぱちさん)』の「江戸前 大浦焼」の看板。(歌川豊国・寛政9年・1797年)
障子と看板には「大蒲焼 附けめし」と書かれ、蒲焼きにご飯を付けて売る店の様子。1800年前後には、蒲焼きにご飯を付ける店も登場してきている。

「江戸前 大蒲焼」の看板を掲げた店頭で、うちわを持ったおかみさんが客に言う。「わらはがもとには旅てふ物は候らハず 皆江戸前の筋にて候」、絵のおかみさんはこう自慢しているのだ。「うちの店では旅鰻は出してませんよ。すべて江戸前です」


■鰻屋の誕生
蒲焼と飯を一緒に出す鰻飯屋は、文化年間(1804~17年)に誕生した。天保(1830~)の初めになると、一町に二、三軒あるところはあっても、一町にないところはないというぐらい多くなっている。
一方、江戸前の蒲焼は辻売り屋台が盛んで、辻売りは幕末まで盛んであった。この蒲焼は一串十八文ぐらいと安く、庶民に広く普及していく。また辻売りの一種で、両国川の舟で焼いて両国の夕涼み舟に売る蒲焼もあった。

随筆集『明和誌』(1822年)には、「近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す。寒暑とも家毎になす。安永、天明の頃よりはじまる」とあり、安永期(1772~81年)ごろから始まった風習とうかがえる。鰻の効能を記しているのが、同じく江戸時代中期の元禄8年(1695年)に書かれた『本朝食鑑』である。『本朝食鑑』によると、鰻は「疲れを除き、腰や膝を温め、精力を盛んにし、風邪を治す」とある。

 
『東海道五十三図会 荒井 名ぶつ蒲焼』より部分/嘉永末年 歌川 広重
<街道名物・浜名湖のうなぎ> 東海道、荒井(新居)宿の旅籠の仲居が、浜名湖の名物、うなぎの蒲焼きを客に供している場面である。茶碗にご飯と蒲焼きを入れ、お茶を注いで茶漬けにするところを描いている。
うなぎ人気は町人文化が栄えた江戸の町だけではなく、江戸時代になると街道も整備され、寺社参詣ブームで人の往来が盛んになり「浜名湖においしいうなぎがある」と浜名湖うなぎが東海道筋で評判となる。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、『あら井(新居)の駅に支度とゝのへ、名物のかばやきに腹をふくらし…』とある。



『東海道五十三次 原 大蒲焼』葛飾 北斎
江戸の日本橋から13番目の宿場町「原宿」(静岡県富士市)は、富士山を一望できる小さな漁村で、うなぎの蒲焼きが名物であったという。

■江戸後期のうなぎ屋
幕末の江戸市中には多くの鰻屋があり、嘉永元年1847年の『江戸酒飯手引草』には、江戸前蒲焼店が90軒あげられている。また、嘉永五年(1852年)に「江戸前大蒲焼」の見立番付と言う物が出されており江戸に有った221軒もの鰻屋の名前が記載されている。他にも、嘉永年間(1848~54)の「うなぎ屋」の見立番付では、約200軒の江戸のうなぎ屋が挙げられていて、うなぎが江戸でいかに好まれていたかがうかがえる。

しかし、蒲焼の主流が丼であったわけではない。『守貞漫稿』でも、京坂では鰻屋で「うな丼」を兼ねて売るが、江戸では、名のある鰻屋ではうな丼を売らず、中以下の鰻屋がうな丼を兼ねて売るか、うな丼を専ら売るとしている。さらに、「生業下」の鰻の蒲焼売りの項目で、名のある鰻屋では「京坂は鰻をさきて大骨を去り、首尾全体にて焼之、而後斬て腕に盛り、焼之時鉄串を用ひ、串を去て椀に盛る。江戸は大骨を去り、鰻の大小に応じ二三寸に斬り、各竹串二本を貫き、焼て串を去り皿に盛る」とある。

『守貞漫稿』にあるように、江戸後期の蒲焼きは、うなぎを開いて骨を取り除き、2~3 本の串を通していかだのようにして、それを焼き上げる調理方法になった。(味付けも、この頃になって広く普及し始めた醤油や砂糖を使ったものに変わっていった。)江戸のうなぎ屋は主に、「蒲焼」と「うな丼」とを客に提供していた。ただし、名店と呼ばれるうなぎ屋は、ご飯は出しておらず「蒲焼」のみを売っていた。そして、京坂では漆塗りの太平椀で、江戸ではうなぎ蒲焼を陶器の皿に盛りて出していた、と説明している。





『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』(中川芳山堂著、1824年)は、大坂から江戸に出向く商人向けの本で、2600店が「いろは」順に記載され、飲食の部には148店が掲載されている。
『江戸買物独案内』の別冊「飲食之部」には、「御料理」「七色茶漬」「あわ雪」「女川なめし」「御膳蕎麦」「鰻蒲焼」「寿し」「餅志るこ」に分類された飲食店が屋号と紋、店主の名前、住所が書かれてあり、鰻屋では22店の名が掲載されている。

『江戸買物独案内 飲食之部』中川芳山堂 編 文政七年(1824)鰻屋の屋号と紋、店主の名前、住所が書かれている。


うなぎ蒲焼の出前
『守貞謾稿』には、鰻の蒲焼、「江戸にては家にて焼たるを岡持と云手桶に納れ携へ巡る」とある。その際に用いられたのが黒塗の手桶である。

黒塗の手桶で、運んでいる間に鰻の蒲焼が冷えないように、「江戸鰻屋より諸戸に蒲焼を運ぶ多く右図の如く黒塗手桶に入れて携ふ蓋の下に白紙一枚を挟む 京坂にては大平椀にて運ぶ」、「又近世大阪にて鰻器を製す長六寸許幅三寸五分許高さ五寸許印籠蓋にて内に銅凾を累ね銅凾掛子と云是又蓋あり掛子に鰻を納れ大銅凾に沸湯を納むさめざるに備ふ江戸にも近年学之 京坂も鰻やには用ひず」とあり、温かいまま持ち運ぶ工夫がなされた。
銅製の凾(はこ)に熱湯を入れ、その上に、同じく銅製の掛子(懸子)を重ね、その中に鰻を納れる。勿論、こうした工夫は、その場で食べる鰻屋では不要のものである。

鰻屋は繁盛したと見えて、中には、「江戸神田の深川屋と大坂の鳥久は得意の人に非れば現金にていかなる富者にも不売之又己が心に合ふ鰻無之時は数日も休業す」というように、得意先だけを相手にし、気に入った鰻が無いと休業する者もいたようである。


■江戸中期の蒲焼の焼き方とタレ
うなぎを「割いてから焼く」という料理方法で、最も古い文献は『和漢三才図会』(1712年)になり、次のように記載されている。「中くらいの鰻を割いて腸をとり、四、五片に切って串に刺し、醤油か味噌を付けて焼く」。
また、『増補食物和歌本草』(1723年)には、焼いた蒲焼の調味料として「やきうなぎは山椒みそよし醤油にて」と記されている。このように初期の蒲焼は、醤油や味噌を使ったり、小さく切って串に刺していた。

 
歌舞伎絵『役者尽くし』一勇斎国芳画(歌川国芳) 天保2年(1831) 
天保2年11月歌舞伎の顔見世で初代沢村訥升(とっしょう)の襲名披露が行われた。浮世絵『役者尽くし -かばやき 沢村訥升-』には、大きな包丁で腕に絡みついた鰻を割いている露店の鰻屋の沢村訥升が描かれている。背後の文字には「かばやき」と書かれており、さばいた鰻を横にある炭火で焼いて販売していたことがわかる。
天明から寛政の時期になって、本格的な「江戸前の大蒲焼き」が登場する。天明年間(1781~1789)千葉県銚子や野田などの濃口醤油が流通してうなぎ蒲焼きの流行に拍車をかけた。

『茶湯献立指南』巻四〔元禄九年(1696年)刊〕には、『鰻かば焼 うなぎは大なるにあく事はなし 背よりたちひらき二処串にさしあふるべし 醤油をかけル』と、背開きにして醤油を掛けて焼く方法が紹介されている。『増補食物和歌本草』(1723年)には、やきうなぎは山椒みそよし醤油にて、、、、と記されている。また、享保13年(1728)に発行された『料理網目調味抄』や、寛政12年(1800)の『万宝料理秘密箱』には、現在のものと近い蒲焼きの調理法が書かれている。
このことから、タレを使った鰻の蒲焼きは、江戸時代中期以降にうまれたものとされる。タレもはじめは醤油に酒をあしらったものであったが、文政頃から味醂を加えるようになった。ちょうど江戸に関東の濃口醤油や味醂が普及した時期である。
文化・文政から嘉永年間(1804~54年)には江戸で蒲焼きが全盛期を向かえる。これには、天明年間(1781~89年)に銚子で開発された濃口醤油が関係している。


■江戸後期の蒲焼の焼き方とタレの工夫
嘉永六年(1853年)の「守貞謾稿」には、『鰻蒲焼売り、京師は、諸具ともに担い巡りて、阡陌(せんぱく)に鰻をさき、焼きてこれを売る。江戸にては家にて焼きたるを、岡持と手桶に納れ、携え巡る。けだし京坂大道売りのかばやきは、大骨を去らず、一串価六文。江戸は大骨を除き去りて、一串十六文に売る』とあり、蒲焼を売る商いもあった。

また、『守貞漫稿』嘉永六年(1853)での鰻の裂き方として、「鰻屋」の項では『京坂は背より裂きて中骨を去り、江戸は腹より裂いて中骨及び首尾を去り、よきほどに斬りて小竹串を一斬り二本で横に貫き醤油に味醂、酒を加えて焼き磁器の平皿にて出す。山椒を添えたり』とある。

また、一方では「鰻蒲焼売り」の項には『京坂は鰻の腹を裂き、江戸は背を裂くなり』との記述されている。蒲焼のタレの記述は『焼く時に付けるたれは、江戸は醤油にみりんをまぜ、京坂は醤油に諸白(もろはく)酒をまぜる。』とある。このように、「うなぎの蒲焼き」は、うなぎを開いて内臓と骨を取り去り、醤油とみりんで作ったタレで香ばしく焼き上げるという方法が江戸時代に完成した。



蒲焼のタレもそれまでは醤油に酒をあしらったものであったが、そのころから味醂を加えるようになった。ちょうど江戸に関東の濃口醤油や味醂・砂糖が普及した時期である。味醂を加えることで蒲焼の味や香りや照りが格段によくなり新しい江戸前の味が生まれた。そしてこの時期に確立されたうなぎの蒲焼きと言う料理法は、当時から現在まで変わらず続いている。
味醂が調味料として登場するのは、江戸後期、天明五(1785)年に出版された『萬寶料理秘密箱』という料理本である。この本以後に出版された料理本には、「味醂に醤油」を加えた調味料がたくさん出てくるようになる。「醤油」と「味醂」による両味、あまからのタレができたのは、江戸後期頃のことと推測されている。

『もち米を原料につくる味醂は高価な酒だったが、「和漢三才図会」には「味醂酒は最近多くつくられる。味は大へん甘くて、下戸や女性が喜んで飲む」との内容の記述があり、江戸中期ごろには生産が広まった様子がうかがえる。その後、下総の流山(千葉県流山市)で生産が増えはじめたころから、味醂が調味料として使われだしたという。(略)流山味醂の普及に一役かったのが江戸の料理屋。その代表格が、鰻かば焼きのタレだ。』(引用: 美味にて候,八百八町を食べつくす/産経新聞文化部)


■土用の丑(うし)とうなぎ蒲焼
鰻は、万葉集にも「夏痩せによし」と詠われ、力のつく魚として古くから日本で“薬”として食されてきた。昔からうなぎは、夏やせに良く、精力のつく食べものだと広く知られていた。食べものの効能などを網羅した元禄10年(1697)刊の『本朝食鑑』には、うなぎの効能として「陽を起こす」、つまり性的能力を高める、とある。

「土用の丑」の日に、鰻を食べる習慣が始まったのは江戸時代の中期以降から始まったらしい。「土用丑の日」を決めたのは、博物学者の平賀源内(1728~1779年)という説がある。
江戸時代、『土用丑の日』に鰻を食べる習慣ができた由来は諸説あるが、有名なものは、「平賀源内説」で、鰻屋がうなぎが売れないで困っていることを博物学者の平賀源内に相談したところ、丑の日といって記した引札(ひきふだ,広告文)の「本日丑の日」、「土用丑の日、鰻の日。鰻は腎水をまし、精気を強くし、食すれば夏負けすることなし」という張り紙を店先に貼ることを平賀源内が発案し、これが功を奏して、鰻屋は大繁盛になったというのが定説のようである。
しかし、発案者は平賀源内(1728~79)ではなくて、大田南畝【蜀山人】(1749~1823)だという説もある。
太田蜀山人説: 大田蜀山人(しょくさんじん)こと、大田南畝(おおたなんぼ)の説は、平賀源内説とほぼ同様。はやらぬ鰻屋に義侠心を出し、土用の丑の日に「本日食べれば一年中無病息災」と書いて張り出したという話。

『江戸年中風俗之絵(えどねんじゅうふうぞくのえ)』、1840年・天保11年頃の作とされる。
鰻屋、「今日 うしの日」の文字が見られる。丑(うし)の日に「う」の付く物(うどん・うり・梅干など)食べると体に良いとの言い伝えがあり、「うなぎ」が合致したと考えられている。


■鰻飯の誕生
土用の丑の風習とともに、江戸時代に生まれたのが、「うな丼」である。
うな丼は、文化年間(1804~18)に日本橋堺町の芝居小屋から始まったとされている。文化・文政から嘉永年間(1804-54年)には江戸で蒲焼きが全盛期を向かえた。これには、天明年間(1781~89)に江戸という大消費地を控えた野田、銚子で開発された関東地廻り醤油(濃口醤油)が関係していた。

現在の「うな丼」の元祖といわれる鰻めしは、文化年間(1804~17)頃に生まれた。どんぶりに熱い飯を盛って、飯の間に蒲焼きをはさんだ「鰻めし」が、芝居小屋で賑わう日本橋葺屋町の鰻屋「大野屋」から登場する。それ以後、次第に鰻屋でも鰻めし(うな丼)を出すようになったという。「元祖鰻めし」の看板を掲げていた大野屋では、鰻飯が一杯六十四文から売り始めたが、後には百文、二百文の高級品となった。

うなぎ飯の始まりについて、『塵塚談 俗事百工起源』/宮川政運著(元治~慶応)に、
うなぎ飯の始並に蒲焼の事、「うなぎ飯の始は文化年中、堺町芝居金主大久保今助より始る。(中略)此今助常に鰻を好み、飯毎に用ふれども百文より余分に用ひしことなしと。いつも芝居へ取寄用ひし故、焼ききましに成しをいとひて、今助の工夫にて、大きなる丼に飯とうなぎを一処に入交ぜ、蓋をなして‥用ひしが、至て風味よしとて、皆人同じく用ひしが始なりと云ふ。」
と、うなぎ蒲焼好きの芝居の金主が、簡便と焼きさまし防止の効果をねらって開発したとしている。    
文化・文政(1804~29年)の頃、江戸の鰻屋の発案で初めて「割り箸」が使われた。当時、割り箸は「引き裂き箸」「割りかけ箸」と呼ばれた。
割り箸について、『守貞護稿』(1853年)の「鰻飯」の項に『必ず引き裂き箸を添ふるなり。この箸、文政(1818~29年)以来此より、三都ともに初め用ふ。杉の角箸半を割りたり。食するに臨んで裂け分けて、これを用ふ。これを再用せず。浄きを証すなり。鰻飯のみにあらず、三都諸食店往々これを用ふ。かへつて名ある貸食店(りょうりてん)には用ひず。これ元より浄きが故なり。』このように、うなぎ飯には割箸を添えるという。また、割箸は再利用しないから清浄であると云っている。

『新版御府内流行名物案内双六』/画:一英斎芳艶(弘化4~嘉永5)
「ふきや町がし,うなぎめし」の図、蒲焼きが冷めないようにと、丼の白飯の上や中にうなぎ蒲焼きを入れた「うなぎ飯」。

「鰻飯、京阪にて、まむし、江戸にて、どんぶりと云う。鰻丼飯の略なり・・・江戸にては右の名ある鰻屋には不売之中戸以下の鰻屋にて兼之或は専之」(守貞漫稿)とある。「鰻丼物(うなぎどんぶりもの)」を略して「どんぶり」といった。今日では「うなどん」と呼ぶものである。これは、上等な鰻屋では提供せず、中等以下での取り扱いであると云っている。
京都大阪では「まぶし」、江戸では「鰻丼飯」の略として単に「どんぶり」という呼称が一般的であったと記されている。うなぎどんぶりめし=うなどん。「どんぶりめし」「どんぶり」ともいう。これが日本における「丼もの」のはじまりと言われている。


鰻飯『江戸鰻飯百文と百四十八文 二百文下図の如く蕣(むくげ)形の丼鉢に盛る…必ず引き裂き箸を添ふるなり。(中略)鰻飯のみにあらず三都諸食店往々これを用ふ』、「引き裂き箸」とは、現在の使い切りの「割り箸」のことである。

江戸時代の風俗を詳細に記載した『守貞謾稿』(1853年)の「鰻めし」には次のように記されている。
江戸 鰻飯 百文と百四十文、二百文。
 下図の如く 蕣(あさがお)形の丼鉢に盛る
 鉢底に熱飯を少をいれ
 其の上に小鰻首を去り
 長(た)け三四寸の物を焼きたるを五六つ
 並べ 又熱飯をいれ 其の表に又
 右の小鰻を六七置く也
 小鰻骨を去り 首も除き 尾は除かず
文久に至り 諸価頻りに騰揚し
鰻魚も亦(また)これに准ずるにより 此(この)丼飯と云ふ物も
百銭、百四十八銭を売る家は最も稀となり
大略二百文のみとなる。

上記の『守貞謾稿』に書かれている鰻めしの「どんぶり」という「鰻丼飯」の製法は、朝顔型の丼に熱い飯を少量入れ、鰻の首を落として骨は取り除くが、尻尾を付けたまま焼いた小振りの鰻(長さ3~4寸=9~12cm)を5~6匹並べる。その上に、また熱い飯を入れ、またその上に小振りの鰻を6~7匹並べると、作り方をやや詳しく説明しており、初めて「鰻丼(うなどん、うなぎどんぶり)」という言葉がでてくる。
また、現在のうな丼と違って用いる鰻が小さいようだ。この鰻飯が幕末の安政(1854~59年)の頃から、大衆相手の食べ物として、熱い飯を丼に盛って蒲焼きを上に載せる庶民向けの「うな丼」となり登場した。






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