日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-



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菱 垣 廻 船

 菱垣廻船(ひがきかいせん)


菱垣廻船(ひがきかいせん)

◆江戸時代の輸送手段としての船の役割

江戸時代は、商業の発達や都市の発展に伴って交通網の整備が進んだ。陸上では幹線道となる五街道が整備されたが、陸上の交通制度は、宿継ぎを前提としており生産や流通の発達に対応した大量輸送には不向きであった。陸上輸送に対して、はるかに大量の輸送が可能な、海や川を利用した水上輸送が盛んに用いられた。
海上交通では大量の物資を安価で運ぶ「菱垣廻船(ひがきかいせん)」と「樽廻船(たるかいせん)」が大きな役割を担った。菱垣廻船と樽廻船の発達により、安定して物資を輸送できるようになり、また、さまざまな航路が整備されるなど江戸時代の海上交通の発展につながった。

江戸時代になると、大坂は「天下の台所」と言われたように経済の中心地として、 一方江戸は政治の中心地として発展し 人口も増加した。大坂には関西地区や瀬戸内の物産が集まり、これらを一大消費地となった江戸に輸送するかたちができるに従い、一度に大量の荷物が運べる海上輸送が発達した。ここで活躍したのが「菱垣廻船」や「樽廻船」と呼ばれる木造の和船「弁才船(べざいせん)」である。

「廻船」というのは江戸時代の海上輸送船を指す意味である。菱垣廻船、樽廻船も大型船は千石船(せんごくぶね)と呼ばれていた。
千石船とは、米なら千石(150トン=米俵の四斗俵2500俵)、酒なら1600樽を積める荷船の総称である。菱垣廻船の構造は船底が平らで竜骨がなく、1本の帆柱に横帆1枚が一般的だった。この大型の横帆による帆走で、少人数による大量物資の輸送が可能な廻船である。




◆菱垣廻船のはじまり
徳川幕府の鎖国令以後230年間、日本の海運は沿岸航行に限定され、大型船の建造技術も大きく後退したが、一方では中央集権体制により各地の城下町、港町と江戸、京都、大坂の三都を結ぶ商品流通網が形成され、船舶による国内海上輸送、即ち内航海運が盛んになった。

米、油、酒、木綿、紙、金物などの物資の多くは、商工業の中心都市だった大坂(現・大阪)にいったん集められ、船で江戸に運ばれた。政治の中心地だった江戸の人々か消費するものを取り仕切っていた大坂は、「天下のわ所」とよばれた。政治の中心地となった「江戸は一大消費地」となり、瀬戸内をはじめ諸地方からの物資の集まる「大坂は経済の中心地」となり、大坂から江戸へ大量の物資を輸送する必要性が生じるが、大量の物資を安価で運ぶには陸よりも海上交通のほうが適していた。
このような状況下で、生まれたのが菱垣廻船であって、江戸・大坂間の海運の主力廻船となり、木綿・油・酒・薬その他江戸の必要とする日用品を輸送した。大きな千石船は、江戸湊の入り口の鉄砲洲(てっぽうず)[現・明石町周辺]の沖までしか入ることができなかった。そのため、荷物は伝馬船などの小さな船(舟)に積みかえられて、隅田川から日本橋川などに入り、水路を通って江戸の町のなかに運ばれた。



元和5年(1619)に大坂堺の一商人が紀州冨田浦から250石積みの廻船を雇って、大坂から木綿、油、綿、酒、酢、醤油、紙、薬などの生活必需品を混載して江戸に運んだのが菱垣廻船の始まりと言われている。これを発端として、廻船の定期運航が始まった。
その後、大坂と江戸に菱垣廻船を差配する「菱垣廻船問屋」ができ、多くの産物が江戸へ運ばれた。定期運航の間もない江戸では当時、近郊で生産される物資の品質が優れず少量だったため、上方から江戸に運ばれる物資「下りもの」が珍重された


荷を満載した菱垣廻船の復元絵画 (画:谷井建三)


◆菱垣廻船の特徴
菱垣廻船問屋が差配していた船で、菱垣廻船の舷側に垣立(かきたつ)下部の菱形の竹垣格子(こうし)と高い船尾(艫屋倉,ともやぐら)、一本の帆柱と大きな横帆をあげて帆走するのが菱垣廻船の特徴である。
帆は船体中央の腰当船梁の船尾側に立つ帆柱に取り付けられ、その形はほぼ正方形で千石積級のクラスで高さ約20m、幅は約18m。帆柱は、千石積級で、全長26~27m、下部はほぼ正方形で1辺がおよそ75cmほどで、重量は6トン以上もあったが、取り外し可能な構造になっていた。

江戸後期の菱垣廻船の航行能力は、大坂と江戸の間を平均で12日、最短で6日で走破したと言われている。大阪〜江戸の廻船は菱垣廻船問屋の差配機関となって最盛期の享保八年(1723)には七百石積前後の廻船160隻を保有していたと伝えられている。
菱垣廻船は江戸時代を通じて用いられ、江戸初期(1620年頃)に開設、江戸中期(1690年頃)には五百石積、江戸後期(1860年頃)には二千石積みの大型船まで造られた。


菱垣廻船の標職とした垣立(かきだつ)下部の菱組の格子



船体は一般廻船と同様の弁才船形式だが、舷側垣立下部の筋を、ヒノキの薄板か竹で菱垣(菱組の格子)をつけて積荷の落下防止と目印を兼ねた点が外観上の違いで、そこから菱垣廻船と呼ばれた。


◆乗員数
責任者の船頭、営業関係者である上乗(荷物や船員の監視)、荷物賄方(積荷担当)、操船を担当する船親父、船表賄方(帆や舵の操船担当)、舵取り、水主(乗組員)、飯炊きなどが乗船した。 価格競争もあり人件費の削減から、千石船であっても江戸中期からは総勢10〜20人ほどで運行していた。


◆廻船問屋
菱垣廻船は菱垣廻船問屋が差配し、江戸送りの荷物を集めて輸送するいわゆる「運賃積」の形態をとっていた。
寛永元年(1624)に大坂北浜の泉谷平衡門が江戸積船問屋を開業すると、続々と船問屋が開店し、菱垣廻船の運行が独立したものとして確立する。 
その後、元禄7年(1694)には海難事故への対策や積み荷横領の不正防止のために、菱垣廻船は大坂の「二十四組問屋」と江戸の「十組問屋」に所属することが義務付けられた。廻船問屋の多くは自分では船を持たず船主から借り入れて、輸送貨物の集荷、運送と廻船管理のみを行う運送業者の性格を持っていた。


◆江戸十組問屋と菱垣廻船
江戸の船問屋の記録によると、元禄時代には1200〜1400隻の上方から江戸への廻船が記録されており、海運活動が極めて活発であった。荒物、米、塩、材木、酒、醤油などといった単一種の荷物を輸送する場合もあったが、混載型の廻船がその多くを占めていた。
ここからもわかるように、元禄時代にはまだ酒は樽廻船で輸送するという明確な区別はなされていなかったとみられている。この時代の廻船の規模は500石(載貨重量約75トン)積程度で、混載型の積荷の1/3が酒荷であったとされている。酒樽は比較的比重が重いため下荷とすることによって、船の重心を下げ、復原性を向上させることに寄与している。

このように海上輸送が発達する一方で、船頭や水主が積荷をだまし取ったり、暴風にあったといって輸送貨物を私物化するなどの被害が少なからず発生するようになった。そこで、大坂屋伊兵衛が中心となって元禄7年(1694)に江戸十組問屋を結成し、船頭や水主に対する 管理を強めていった。
十江戸十組問屋仲間とは、「塗物店組」,「釘店組」,「内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形)」,「通町組(小間物諸色問屋仲間)」,「綿店組」,「表店組(畳表問屋仲間)」,「川岸組(水油問屋仲間)」,「紙店組(紙・蝋燭)」,「薬種店組」,「酒店組」から構成された十組である。

この十組問屋が海難処理を行ない、また菱垣廻船の船足(吃水)や船具を検査し合格した物には刻印を打ってこれを証明した。江戸の動きに対応して大坂でも十組問屋(後に二十四組問屋となる)ができた。

各組に行司を置き、行司のうち交代で大行司に就任し、難破船や海難荷物の処理、廻船の改めにあたった。享保15年(1730)には、酒店組が江戸十組問屋仲間から分かれて、「樽廻船仲間」が生まれた。
樽廻船とは、新鮮さが求められる酒の輸送に適した酒専用の船で、船底に多くの酒樽を積んだことから重心が下がって船が安定し、大坂から江戸まで途中どの港にも寄ることなく、短い日数で江戸に直行した。



参照資料:公益財団法人/日本財団図書館、日本海事科学振興財団、東京みなと館、神戸海洋博物館、全国海運組合連合会、『図説和船史話』石井謙治(至誠堂)、船の科学館「菱垣廻船/樽廻船」


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