日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 江戸の味と調味料


江戸の味と調味料

■江戸時代と調味料
江戸時代、調味料の発展 日本の外食文化の始まりは江戸時代前期に起こった。江戸後期、文化二年(1805)の『墨水消夏録(ボクスイ ショウカロク)』(蘭洲東秋颿著)によれば、「明暦の大火後、浅草金竜山、門前の茶店に、始めて茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆等を調へて、奈良茶飯と名づけ出せしを、江戸市中端々よりも金竜山の奈良茶くひにゆかんと、殊の外珍らしくにぎはひし云々。」とある。
このように、外食は浅草金竜山の「奈良茶飯」(栗や芋などを米と一緒にお茶で煮込んだ雑炊)の店から始まった。一般的にこれが料理屋の元祖といわれている。

この江戸時代の前期は、関西で生産された味も品質も良い「下り醤油」が江戸に送られていたが、庶民には手の届かない高価な調味料であった為に醤油の普及が十分でなく、主な調味料は、味噌,たれ味噌,たまり,塩,酢,煎り酒,煮貫(にぬき)などであった。そのため、醤油が普及する江戸中期頃までは、万能調味料として「煎り酒」が利用され、蕎麦・うどんでは味噌味の麺つゆ「煮貫の汁」で食べるのが一般的であった。
そして、江戸中期以降、野田と銚子は醤油製造の中心地となった。上方からの高価な下り醤油は江戸庶民には手が出なかったが、醤油が江戸で日常の調味料として、庶民にも手が届くようになったのは、江戸近郊の野田や銚子で濃口醤油の製造が盛んになってからである。
庶民の利用する屋台の蕎麦・うどんの汁、蒲焼のたれ、すし飯、惣菜としての煮物や佃煮などは塩味(塩、醤油や味噌)が強く、甘しょっぱくなるのは江戸時代の後半であった。江戸時代末になると高級料亭や庶民相手の手軽な外食店が盛んになり、鰻の蒲焼や蕎麦の汁などの調味も塩味(塩・味噌・醤油)中心のものから、甘味を加えた甘辛の味として、濃口醤油に鰹節だしや味醂または砂糖が加わった江戸独特の味に発展していった。

江戸後期には、醤油の普及と共に、刺身や握り寿司、照り焼きなどといった料理にも使用されて江戸時代の食文化も大きく変化していった。特に江戸後期には屋台や料理店が増え、江戸の粋や洒落(しゃれ)を表現した店が江戸っ子の人気を集めた。さらには本格的な料理屋が生まれ、酒宴に重きが置かれた料亭の洗練された料理の味や料理技術も追求されていった。

-塩-
醤油が一般的になる前は、調味料として、味噌、酢、塩が主に使われてきた。塩は、味付け以外にも、保存、料理の下処理、下味 、化粧塩と幅広く料理に使われてきた。塩作りでは、藻塩、揚げ浜塩の製造の収量をあげる努力がなされ、江戸期には「十州塩」という瀬戸内海の潮の干満の差を利用した入浜式塩田で良質な塩が作られた。
十州というのは播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,阿波,讃岐,伊予である。江戸時代はこの十州で全国の塩の9割程をまかなっていたといわれている。『守貞謾稿』には「塩 今世、諸国の海浜これを製すといへども、播(播州)の赤穂を上品とす。また江戸に漕す物は阿州(阿波国=徳島県)多し。斎田塩と云ひ、阿の斎田専らこれを作るなり。(中略)江戸近浜には、行徳にこれを製す」とある。
ちなみに江戸では家康が幕府を開くにあたって、下総の「行徳の塩」を江戸に運ぶために、小名木川に運河をつくらせている。江戸開府以来、徳川家康の庇護のもと、寛永年間には4万石程度の生産量であったと考えられている。
一方、塩の名産地である播州を含む、塩十州での生産量は江戸中期で350万石から450万石であり、江戸が栄えて人口が多くなるにつれてまかないきれず、江戸にも「下り塩」として多く運ばれた。勝梅舟が長年にわたって書写した幕府の記録書『吹塵録』には「下り塩」の量は承応3年(1645)30万石、亨保11年(1769)には84万石といわれ、江戸の市場を席巻していたのが分かる。
また、元禄10年(1697)刊の本朝食鑑には「日用の食物の調味には、播州、行徳の産を、塩蔵(塩漬け)の場合は上総や他の塩を用いるべし」とあり、行徳の塩が播州のものと同じぐらい上質であったことが分かる。
-醤油-
文献上に「醤油」という言葉が登場するのは『易林本節用集』 (慶長2年:1597)という書物で、その中に「大永年間(1521~28年)足利義晴の頃、京都の醤油が創醸された。」という意味のことが書かれている。
この醤油は溜り醤油と考えられている。本格的に醤油が生産されるようになったのは江戸時代であった。醤油は、江戸時代前期頃から作り始められた。下総国(現在の千葉県の野田や銚子)で作られた濃口醤油は、利根川を利用して大消費地江戸へ運ばれたことが、江戸での醤油の広まりの要因ともなっている。
江戸時代初期から中期頃かけて、堺や大坂などの上方で生産され、運ばれてくる「下り醤油」は味も品質も良く色が薄くて、塩味のきいた「すみ醤油」で江戸市場の大半を賄っていた。
上方(関西)の醤油に対し、江戸近郊で醸造された「濃口醤油」は、色・うま味・香り・コクが前面に出る醤油で、かつお節や砂糖、味醂などの強い調味料にも負けず、これが、そばつゆや鰻のたれ独特の甘辛味を育てた。
江戸時代後期には江戸好みの濃口醤油が、関西の下り醤油(薄口醤油)を凌駕して江戸市場を席巻するようになった。銚子や野田では、大豆・小麦は常陸(茨城県)産のもの、塩は赤穂塩を使用した。江戸では野田や銚子など関東の濃口醤油が主流となり、江戸へと運ばれ、蕎麦や天ぷらといった江戸名物に欠かせないものとして庶民の食文化を支えた。これが江戸食の基本となった。
龍野(兵庫県龍野市)の醸造家は、江戸時代のはじめ醤油の流通の中心だった京都に進出し、薄口醤油を大量に供給した。文化13年(1816)の京都他国醤油売問屋の扱い量のうち、35パーセントが龍野醤油であったとみられている。龍野醤油業を支えたのは赤穂の塩、三日月(三日月町)や山崎(山崎町)など近在の良質な大豆であった。
-味噌-
江戸時代には各地でそれぞれの気候風土に合わせて味噌がつくられていた。
元禄期、人が集中した江戸の人口が50万人に達し、みそ汁が庶民の味となって、味噌の需要に対する江戸および近郷の下総の生産だけでは生産量がまかないきれなくなった。そのため、発達した陸路・海路を使って日本各地の味噌、三河の三州味噌や仙台味噌など、気候・風土の異なる地で作られたさまざまな味噌が江戸に集まるようになった。
食生活に欠かせなかった味噌は江戸時代には一般的な家庭の調味料として使われていた。江戸庶民に濃口醤油が普及するようになったのは江戸中期以降といわれている。それ以前は、調味料の主流は味噌であった。長屋が多い江戸の街では、自家製の味噌をつくれない状況が味噌専門店を出現させた。そこで味噌醸造業が江戸の街に興り、江戸の庶民は味噌を店で買うようになる。
また、江戸の街では、女性の数に比べて男性が多く、そのため当時すでに一般的だった味噌汁だけではなく、味噌を使ったさまざまな料理の登場と外食の習慣ができた。それにかかわる料亭をはじめとした飲食店が発展し、味噌を使った料理はますます洗練されていった。
味噌は短期間でつくられるのが特徴で、各地の農家は家族の健康を保ち飢えをしのぐため、飢饉のときでも味噌の自家醸造は欠かさなかったともいわれている。
『守貞謾稿』には、京坂では冬の自家製が多く、味噌作りの配合も記載している。そして、食べる毎に擂鉢で摺って汁にするという。江戸については、赤味噌と田舎味噌を購入して自家製にする者はいないとある。売られている味噌に、金山寺味噌や桜味噌、鯛味噌、寺納豆、鉄火味噌などがあるという。ちなみに鉄火味噌は「江戸、平日用の味噌に牛房 ・生姜・蕃菽・するめ等を加へ、胡麻油をもって煎りつめたるなり。なめもの屋にてこれを売る。」とある。
-酢-
文化年間(1804~1818年)には、相模,尾張,駿河に酢の産地が名を馳せる。特に尾張の半田では酒粕から酢をつくることに成功し、いわゆる粕酢を安価に市場へ出すことに成功する。尾張の国(愛知県)から大量に粕酢(かすず)が江戸に入ってくるようになる。米酢に比べて安価で、少し甘味があるこの粕酢で、簡単にすし飯ができるようになった。
すしは飯を発酵させて作っていたものを、飯に酢をあわせることですしを手軽に早く作ることができるようになり、押しずしから握りずしが発案されるとあっという間に屋台の人気食物になった。握った酢飯の上に味をつけた江戸前の海で獲れた魚介類や玉子を載せたのが握り寿司(江戸前ずし)となり、魚と飯が一緒に食べられる手軽な食べ物として江戸中に広まった。後に、マグロを濃口醤油漬けにした「ヅケ」なども加わり、江戸前ずし人気が高まっていった。
-みりん-
みりんは焼酎に米麹と蒸した糯米を仕込んで、糖化発酵 をしたのち、搾ったものである。史料としては文禄二年(1593)駒井重勝の『駒井日記』に、蜜淋酎と書かれているのが初出といわれる。
『守貞謾稿』には「美淋酒は多く摂〔摂州〕の伝法村にて醸レ之也。然れども、京坂用レ之こと少く多くは江戸に漕して諸食物醤油加レ之煮る」とあるように江戸も後半になると、煮物の調味に醤油と合わせている。
化政期に酒と並んで嗜好飲料であったみりんが下総(千葉県)の流山で白味醂(それまでのみりんが濃厚で色がついていたものを透明度の高いものにした)が開発され、江戸への需要が高まったことが背景にある。みりんは、主に調味料として使われているが、戦国時代までは、甘い高級酒として飲用されていた。江戸時代後期になってから、「蕎麦つゆ」や「蒲焼きのたれ」など、料理のコクやうま味を引き出す調味料として使われるようになった。うなぎの蒲焼きが広まったのは江戸後期である。関東(流山)でみりんの生産が増え、蒲焼きのタレとして使われ始めた。醤油と混ざったみりんの甘みが江戸庶民を魅了し、この頃に、うなぎ蒲焼きの店も増加した。
-砂糖-
砂糖は唐招提寺を建立した鑑真(がんじん)が薬として日本に持ち込んだのが最初とされるが、広く流通するようになるのは南蛮貿易の時代からである。砂糖は長崎貿易の唐船・オランダ船で、江戸時代前期には「黒砂糖」の輸入が、江戸中期になると「白砂糖(唐砂糖)」が多く輸入された。一方、国内での砂糖の生産は、正徳3年(1713)に、薩摩藩(奄美・琉球)の黒砂糖が、全国の中央市場である大坂にはじめて積出した。
1750年代(宝暦期)には、中国地方西端の長府藩が白砂糖の一貫生産に成功し、1780年代(文化期)になってからは四国讃岐の高松藩において白砂糖の栽培面積が拡大して、良質の白砂糖の生産地となった。
寛政6年(1794)からは、紀州・讃岐などの国内産の白砂糖が大坂から当時最大の消費地であった江戸へ輸送された。幕末の和砂糖(白砂糖)生産高2,700万斤のうち讃岐が2,200万斤を占めるまでになった。そして製造された白砂糖は、江戸庶民の食用として多方面の食品に使われていた。江戸中後期、砂糖の消費量並びに使用用途は極めて拡大されていた。砂糖水売り、白玉売り、柏餅、熊野節、金山寺味噌、きんとん、菎蒻の田楽味噌、白味噌、赤味噌、茄子の田楽味噌、金平糖、粔籹(おこし)こめ、練り羊羹、饅頭、蕎麦饅頭など数え切れないほどの食品に使われるようになった。
その実例を『守貞漫稿』の記述からみてとれる。「金山寺味噌 三都とも有之。金山禅寺より造り始むと云意にて名とす。虚実(きょじつ)詳ならず。大豆に麦麹を合せ砂糖、或蜜を和して甘くす。茄子紫蘇生姜等を交へたり、……」とある。
金山寺味噌はよく知られた味噌であるがそれには大豆や麦麹とさらに砂糖を使って製造されていた。 また、同書の白味噌、赤味噌についても 「京坂は白味噌を用ひ、江戸は赤味噌を用ふ。各砂糖を加へ摺る也。…… 」とあり、京都や大坂で使用される白味噌そして江戸で多用される赤味噌にも砂糖を入れて作られていた。
砂糖がもたらした新しい甘味文化は、幕末の江戸では、砂糖は菓子用に使用するだけでは無く、一切の食品料理に多用され、醤油・鰹節と並んで料理に欠かせない存在となった。 江戸では一日に、160樽もの砂糖が消費されたといわれている。砂糖が広く普及した後も、依然砂糖は貴重品であり、薬種屋から独立した砂糖屋で扱われていた。
砂糖について、江戸後期の風俗誌『守貞謾稿』には、「近頃は菓子用ばかりでなく、ほとんどの食べ物に使用している。料理・蕎麦店・天ぷら用・蒲鉾にまで砂糖を使用していること甚だしい」と記されている。
砂糖は醤油や鰹節と並んで多くの料理に用いられた。醤油と砂糖を使う煮物料理、うま煮、煮つけ、酢の物、甘露煮、佃煮などの江戸前の “濃厚な味” が江戸庶民の好みとなり、江戸の味が確立した。
-酒,煎り酒-
煎り酒は室町時代から作られており、江戸時代を通じて用いられていた。煎り酒と並行して醤油が作られているが、煎りi酉が複合調味料であるのに対して醤油は発酵食品であり保存性がたかく、均質で大量に作ることができるため、汎用性が広い調味料として発展していった。
煎り酒は『料理物語』寛永20年(1643)刊に「鰹一升に梅干し一五~二〇個ほど入れ、古酒二升に水と溜りを少し入れ、一升ほどに煎じ、こしてさませばよい。また酒二升,水一升を入れ、二升ほどに煎じて使う人もいる」とあり、酒と鰹節の旨みに梅干の塩味と酸味が加わった複合調味料が考え出されている。
時代が下ると梅干しは省略され、鰹のだしと酒の旨味を合わせたものも煎り酒といっている。

■江戸料理の発展と調味料
-出汁の普及-
江戸時代中期の元禄年間(1688~1704年)には、庶民の食事が1日2食から3食となり、麦や玄米だった主食が白米へと変化した。
江戸時代中期~後期には、白砂糖や関東地廻り醤油(濃口醤油)、白味醂、粕酢(かすず)、昆布、かつお節、出汁などの調味料が発達し普及した。江戸時代の後期には鰹節が一般家庭にまで入り込み、出汁として使われるようになる。
-調味料と飲食店-
このような調味料の普及や江戸の人々の嗜好に合わせて作られた関東の地廻り醤油(濃口醤油)が江戸庶民の生活に定着し、天ぷら、すし、鰻などの屋台文化が栄えるとともに、茶店や屋台が店構え(居見世=いみせ)に移行して「てんぷら屋」「すし屋」「温飩(うどん)蕎麦屋」「鰻蒲焼屋」「料理茶屋(会席料亭)」「煮売居酒屋」「煮物茶屋」「茶漬屋」「豆腐茶屋」「田楽茶屋」等、さまざまな業態の飲食店が登場した。
-醤油と刺身,鍋料理-
江戸を中心とした町人文化の最盛期で、和食の完成期といわれる文化文政期(1804-30年)に、江戸の調味料として銚子や野田でつくられる安くて品質のよい濃口醤油が広く一般に使われるようになった。
醤油が庶民の日常生活に普及すると『魚(生魚)の食べ方』が変化して、生魚の身を細く切って酢につけて食べる『膾(なます)』から、生魚の身をある程度太く切ってから醤油につけて食べる『刺身』へと変わっていった。そして、鍋料理もこの時期に登場する。どじょう鍋やねぎま鍋、あんこう鍋はこの頃にできた料理である。
-江戸前の味の確立-
関東の濃口醤油の消費増大は、江戸における振売りや外食店の増加にもみてとれる。江戸時代後期になって、関東醤油と白味醂は、うなぎ蒲焼のたれ、蕎麦つゆや天ぷらのつゆに調味料として使われるようになった。
また、江戸初期には高級品であった砂糖がようやく庶民の調味料になり、菓子用だけではなく一切の食物に用いられるようになった。醤油と砂糖を使う煮物料理、うま煮、煮つけ、酢の物、甘露煮、佃煮などの “濃厚な味” が江戸庶民の好みとなり、江戸の味が確立した。


■江戸料理本に見る調味料、江戸の味
江戸時代も中期以降になると日本料理の完成期を迎え、さらに様々な料理がつくられる。酒と梅干しと醤を組合わせた「煎り酒」や醤油,砂糖,みりんの普及が調味を洗練化させていく。料理技術も工夫が凝らされ、料理本が多数発行され、百珍本が流行し、料理屋が高級料理を出すようになり、情報が人々の動きに合わせて広がっていった。

江戸期に出版された料理本はわかっているものだけで230冊を超えるといわれている。現在の料理レシピのように詳細な記述はほとんどされていない。
また、多くの料理書が、料理に精通している料理人が読む専門書であったのが、江戸の町で外食文化が発達した頃から、一般大衆向けの料理書が多く刊行されている。
◇『料理物語』
寛永20年(1643)刊の『料理物語』にはうどんや蕎麦の汁として煮貫、垂れ味噌を用いている。
煮貫は生垂れ(味噌に水を加えて布袋に入れて垂らした汁)に鰹を入れて煎じたもの、垂れ味噌は味噌に水を加えて煎じて漉した汁である。
そのほかに出現する調味料の主なものは溜り(味噌から出る液)、酒,煎り酒,酢,味噌,塩,醤,砂糖がある。
◇『料理網目調味抄』
薬扱いされていた砂糖は、ほとんど菓子に使われていて料理に加えているのは練り酒と甘酒早づくりに見られるくらいで、特殊な例となる。
すし飯も塩加減のみで飯の発酵を促すすしであり、酢を飯に加えるようになっても甘みの添加はない。
『料理物語』から約100年後の『料理網目調味抄』には、味噌,味淋酎,漿油(しょうゆ,豆醤),塩,砂糖,垂れ味噌,酢,煎り酒などが用いられている。
◇『江戸流行料理通』
そのまた約100年後の料亭「八百善」の主人が書いた 『江戸流行料理通』には調味料はより複雑に香辛料との組み合わせをしており、みりんや砂糖の使用も増加し、甘い味つけがされる傾向にある。
八百善は江戸第一の料亭である。味噌と香辛料等と組み合わせた数々の敷みそ、醤油とみりんあるいは砂糖を合わせた調味など究極の江戸の味を作り上げている。
しかし、これらはあくまでも富裕層のことであって、庶民の利用する屋台の蕎麦・うどんの汁、蒲焼のたれ、すし飯、惣菜としての煮物や佃煮などは塩味が強かった。江戸も後半になると高級料亭や庶民相手の手軽な外食店が盛んになる。その中には鰻の蒲焼や蕎麦の汁などの調味も塩味(塩・味噌・醤油)中心のものから、江戸時代末になると、甘味を加えた甘辛の味に鰹節の出汁が加わった江戸独特の味に発展していった。
江戸での料理発展の要因は、
1.酒宴に重きが置かれた料亭の洗練された料理の味の追求
2.醤油と砂糖やみりんの甘味調味料の発展と普及
3.鰹節の完成でだしの向上
以上が江戸の味を特徴づけているといえる。


■だしと醤油(うすくち・こいくち醤油)
江戸時代、日本列島の日本海側に沿って「昆布の道」があった。昆布は松前、今の北海道の函館近辺から船で敦賀湾まで運んでいた。当時、日本海航路を運行する北前船によって、昆布は敦賀湾へ運ばれ、琵琶湖を経由して京へ、さらに淀川を経て大阪へも運ばれた。当時の京・大阪は、たくさんの良質の昆布を入手しやすい土地であった。したがって上方では、昆布だしと淡口醤油が結びついた。



それに対して、太平洋岸には黒潮の流れ「鰹節の道」がある。これは九州の枕崎あたりから、四国、紀州、伊豆半島の沿岸を経由して流れ、銚子の沖で親潮の寒流とぶつかって太平洋の彼方へと去って行く。黒潮の流れは鰹の回遊路、鰹船の航路でもある。黒潮に乗って運ばれた各地の鰹節は江戸に豊富に集まった。そして、江戸では昆布だしではなく、鰹節のだしが地廻り醤油(濃口醤油)と結びついた。

江戸時代、北海道産の昆布は関西へ、土佐や伊豆のかつお節は江戸へ多く運ばれた。また、関西は昆布だしが出やすい軟水なのに対し、関東の水は硬めだったため、かつおだしが好まれたといわれる。昆布だしの関西の「薄味」と異なり、味を濃厚にする調味には、地廻り醤油(濃口醤油)・鰹節と並んで砂糖が欠かせぬ存在となった。甘くて辛い「江戸前の濃い味」の確立である。
〇だし(昆布・鰹節)と醤油
上方(関西)で料理のだし、昆布に合わせる醤油は、醸造技術が高度に発達した上方の澄んだ溜まり醤油(澄み醤油)で、特に龍野(兵庫県)のうす醤油(淡口醤油)であった。(関西のうすくち醤油の文化は、素材の彩りや昆布出汁[だし]の風味を生かす京料理の影響が大きい)
上方に対して、鰹節に合わせる醤油には、魚の生臭みを消す性質が求められ、香ばしさを出すために大麦の代わりに小麦が添加されて関東で地廻り醤油の濃口醤油が誕生したという。
〇濃口醤油の鰹出汁との相性
ヒガシマル醤油(株)研究所/真岸範浩、「大阪料理会・特別講演,2013年10月」から一部引用
「江戸時代より、大坂には西日本から鰹節が集められ鰹節問屋組合が結成された。これら鰹節を江戸へ送るには極力水分をなくし傷めないよう届ける必要があった。そのために考案されたのがカビ付けによる枯節である。一方、関西ではそうした必要性がないことなどから荒節が使われてきた。「関東の枯節、関西の荒節」という図式はこうしたところから形成され、それが今も続いている。また枯節にはどうしても独特なカビ臭がある。これをマスキング(隠す)ために必要だったのが濃口醤油だったとの見方もある。
ヒガシマル醤油研究所の真岸氏によると、淡口醤油と濃口醤油は見た目(色)が3~4倍ほど違うだけで無く、成分値から見ても大きく異なります。淡口醤油には素材の持ち味を活かす働きがある。一方、濃口は素材にしっかりとした醤油味を付けてしまう。これは設計上(料理に対する思想)の違いなのです。淡口醤油は華やかな出汁風味や旨みを引き出すのに優れており、濃口醤油は生臭みなどをマスキングして旨みをつけるのに適しているといえそうです。」

■上方と江戸の味の違いが生まれる
醤油と出汁(京阪:昆布だし/江戸:鰹だし)によって、上方と江戸では食の嗜好も違いが生まれた。江戸時代末期の『守貞謾稿』に次のように書かれている。
「温飩蕎麦屋を好む人多く、又売る家もこれを専らとし温飩屋と云う也。しかも温どんやにてそばを兼ね売る也。江戸は蕎麦を好む人多く、商人も専とし温飩は兼ねて沽る(うる)也。故に蕎麦屋と云う。」

とある。江戸の後期になると、上方ではうどん屋が主になって、うどん屋で蕎麦も扱われ、江戸は蕎麦屋でうどんが売られるようになった。また、次のように、京阪と江戸の料理の味つけを記述している。

「三都自ら異なる所あり。京坂は美食と雖(いえ)ども鰹節の煮だしにて是に諸白酒を加へ醤油の塩味を加減する也。故に淡薄の中に其物の味ありて是を好とす。江戸は専ら鰹節だしに味醂酒を加へ、或は砂糖を以て代之醤油を以て塩味を付る。故に口に甘く旨しと雖ども其物の味を損すに似たり。然れども従来の風習となり今は味りん或はさとうの味を加へざるを好まず必らず用之て京坂の食類更に美ならずと云。又京坂の人は江戸にて甘味を用ふをたるしと云て、忌之て美食とせず。各互己れが馴たるを善とし馴ざるを不善とする而已」
つまり、京阪は鰹節で出汁をとり”清酒”を加え醤油(下り醤油=薄口醤油で、当時の料理本では薄醤油・淡醤油・稀醤油と記し、読みは"うす"しょうゆである)を控えめに加えて不足する塩味を”食塩”で調節する。したがって、うす味だけれども素材の味が生きており、これを好む。 一方、江戸では同じく鰹だしに”味醂酒”または”砂糖”で甘味を加え、塩味は醤油(地廻り醤油=濃口醤油)の量で調節することから、甘くて旨いけれども素材の味が損なわれていると述べ、江戸では甘辛い味が好まれ、上方では甘味の少ないうす味が好まれたとしている。互いに、慣れ親しんだ味を善しとし、異なるものを不善とするという。

〇現在に受け継がれた[そば]の味
関東と関西で味が異なる「そば」で、「東のこいくち・西のうすくち」という"そばつゆ"の色の違いがある。「関東のそばつゆは辛くて飲めない」「関西のそばつゆはそのままで飲める」といわれるほど、関東のそばつゆは濃いという印象がある。蕎麦やうどんの「だし」が関東と関西で違うのは、関東人と関西人の味に対する好みが、江戸時代の「だし」に使う材料に起因するものである。一般的に「東はカツオ出汁・西は昆布出汁」といわれる。関西では主に「昆布」が使われているが、関東では主に「昆布」ではなく「鰹節」が使われている。
一般的には、「昆布だし」の方が「鰹節だし」よりも美味しい味が引き出せるといわれている。関東の水は他の地域に比べて硬度が高く、この水の硬度が高い関東の水では、「昆布だし」本来の旨味を引き出すことが難しく、美味しい「だし」を取ることができなかった。この水の違いが、「だし」の違いとなって「関東風」、「関西風」の味付けの違いへと繋がっていった。また、水の硬度も醤油の濃口と薄口の色の違いにもつながっている。
そばの薬味のネギも、「東の白ネギ・西の青ネギ」に分かれる。江戸時代、「関東には青ネギが、関西には白ネギが存在していなかった」。江戸近郊の野菜に、砂村葱(後の千住ネギや深谷ネギ)があって、「白ネギ」ともいい、白い根の部分が長く、太いネギである。食べるのは白い部分だけで、青い葉の部分は食べない。対して、関西には、九条細ネギ、九条太ネギ、浅葱系九条(博多万能ネギ)がある。これらは「青ネギ」「葉ネギ」といわれ、細くて白い部分は少なく、青い葉先までやわらかくて食用される。冬も生長するネギでもあって、冬を中心に一年中、薬味、鍋物、和え物などに用いられる。


福山そば屋の店先
『絵本三家栄種(さかえぐさ)』明和八年(1771)、絵師:北尾重政
絵本詞「臼ひけは 雷かと驚  粉をふるへば 夫婦いさかひと  うたがふ」「田舎の手打そば  名にしほふ ふく山か  繁盛の臼のをとも  所がらとて  耳にとまらず」
『絵本三家栄種』の蕎麦屋「福山」
江戸の葺屋(ふきや)町にあった、倹飩蕎麦(けんどんそば)屋「福山」の店先の絵である。福山は市村座の東隣にあったそば屋で、芝居小屋や芝居茶屋への出前が多かったようである。
店の中には蕎麦猪口(ちょこ)を片手に蕎麦を手繰る男が鮮明に描かれている。また、芝居小屋や芝居茶屋の出前から帰ってきた岡持ち(倹飩箱)を担いだ男も描かれている。
倹飩蕎麦とは蒸篭を使った蒸しそばだったといわれ、1杯ずつ盛り切りにして売った蕎麦切りである。江戸市中でそば屋の数が増えるのは、寛延(1748~51)から安永(1772~81)にかけての頃とされる。


■白砂糖の普及
砂糖が菓子だけでなく、調味料に使われたのは江戸の町だった。江戸では一日に、160樽もの砂糖が消費されたといわれる。
江戸中期に入ると江戸の「甘辛文化」が誕生した。この甘辛味は、基本的に醤油と砂糖、もしくは醤油と味醂を和して生まれた。うま煮、煮つけ、酢の物、甘露煮、佃煮などは濃口醬油に砂糖を合わせた濃厚な味であり、江戸っ子の好みに合った味でもあった。幕末の江戸では、白砂糖は菓子用だけでなく一切の食物に用いられ、料理屋・蕎麦屋・天麩羅屋や蒲鉾にまで用いられた。

砂糖は、江戸後期の寛政六年(1794)から紀州・讃岐などの国内産白砂糖が大坂にもたらされ、天保五年(1834)には国産白砂糖を専門に扱う和砂糖問屋ができた。砂糖は大坂から当時最大の消費地であった江戸へ廻船で輸送され江戸市中に流通した。当時の白砂糖は、現在でも高級和菓子に使用される「和三盆糖」として残っている。
砂糖が普及し菓子では、
「菓子類を荷ひ商ふこと、水飴、桜飴などの外には持来る事なかりしが、今は其数ふへて、干菓子はもちろん、まんぢう、ようかん、外良(ういろう)餅、いろいろの菓子類をうりあるく事となれり」
これは寛政年間頃(1789-1801)の随筆『梅翁随筆』の記述である。    
昔は行商の菓子売りと言えば専ら飴売りであったものが、その後は種類が増えて、干菓子はもちろんのこと、饅頭や羊羹など色々な菓子を売り歩くようになったと述べている。1824(文政七)年に刊行された有名な商店2,622軒を記載した『江戸買物独(ひとり)案内』には、食品関係の店で最も多いのは菓子屋で、120軒も記載されている。とくにサッと手にとって食べることができる串だんごは、手軽なおやつとして街道筋の茶屋や寺社の門前、街中の屋台で売られるなど身近な存在だった。


江戸深川佐賀町「船橋屋」の練り羊羹(ようかん)
当時は羊羹(ようかん)といえば、小豆に小麦粉や葛粉を混ぜる蒸し羊かんのことだったが、江戸の寛政年間には、あんと寒天液を混ぜて流し固める煉り羊かんが生まれ、絶大な人気を博した。従来の蒸し羊かんにはないきめ細やかさが受けたのか、菓子製法書『菓子話船橋』で有名な深川の「船橋屋」では、一日に千棹も売れたといわれている。


街道筋で珍しい団子といえば、駿河で売られた十(とお)団子が有名であった。十粒ずつ杓子ですくって茶店で出すものがあるほか、厄除け用に数珠つなぎにしたものもあった。行事に関わるものでは、みたらし団子である。京都下鴨神社の御手洗(みたらし)祭で神前に供えたのち持ち帰り、醤油につけて食べる習わしがあった。これが甘い醤油だれをかけた団子に変わり、広まったようである。

汁粉は、店売りや屋台のほか、天秤棒に荷箱を吊るした振売りが町内を巡るなど江戸を代表する甘味だった。小豆あんの汁に砂糖を加え煮て、切り餅や白玉、栗などを適宜あしらう。振り売りの呼び声は「白玉ァおしるこゥ」「お正月やァ(餅入りの意)おしるこゥ」。多くは夜売りで、赤行灯に正月屋と書く汁粉屋が多かったことから、正月屋とも呼ばれた。
江戸時代後期の風俗を記した『守貞謾稿』には、汁粉について「江戸では小豆の皮をとり、白砂糖の下級品或は黒砂糖を加えて切餅を煮るのを汁粉という。」と言及がある。

 
『江都名物当時流行双六』天保期(1830-1844)より、「隅田川のさくら餅」
江戸向島(むこうじま)、花見客でにきわう隅田川の堤で名物となった桜餅は、どれほどの人気を集めたかというと、1825(文政八)年の『兎園(とえん)小説』のなかで、「桜餅は(前の年には1年で)38万7500個も売れ、そのために漬け込んだ桜の葉は77万5000枚にもおよんだ」と書かれている。


地廻り経済圏と江戸野菜

江戸の町は、当初、上方から来る商品にたよっていたが、江戸中期以降、関東周辺の村々からの地廻り物(荷物)が増加し、江戸地廻り経済圏が成立した。塩、酒、醤油、米などがその例である。
江戸に運ばれた「下り醤油」は、その後、元禄から享保年間(1700年代前半)に入ると、江戸を中心とした江戸地廻り経済圏内の地場産業も盛んになり、野田・銚子で江戸っ子好みの濃口の醤油が江戸周辺に近い安房(あわ)や上総、下総(いずれも千葉県)で造られた。野菜については、参勤交代により各地の野菜が江戸に持ち込まれ、江戸時代半ば以後、商品作物の栽培が広がって江戸各地にも野菜の産地が生まれた。

江戸時代において江戸に暮らす人々の食料供給の場として周辺地域では様々な野菜が作られた。
江戸の近郊は、西北に武蔵野台地が広がり、東には海や利根川(現江戸川)に面して水に恵まれた低湿地が広がっていた。江戸から西北の地域では根菜類が多いのに対し、東側のエリアでは葉物やレンコンが作られた。関東周辺の大根やサトイモ、ネギ、ゴボウなどの野菜は川の舟運(利根川、隅田川、小名木川、新川など)を使って江戸の市場に運ばれた。江戸の人々は、まさに地産地消の新鮮な野菜を毎日口にすることができた。

江戸の野菜は質の高い野菜を江戸の料亭に納める工夫なども行われるようになった。砂村(現東京都江東区)では、現在の温室栽培にあたる栽培環境の温度管理をすることで、季節外れの野菜を売ることもおこなわれ、江戸幕府は野菜物の販売時期を決めたお触れを出している。
「江戸野菜」の種類は、武蔵野台地を代表とするものとしては、沢庵漬けに向いた練馬大根,独活,滝野川人参,早稲田みょうがや唐辛子など、少し低地には谷中生姜,三河島菜,隅田川東岸の寺島茄子,小松川の小松菜,煮物に適した亀戸大根,砂村ねぎなどがある。


■江戸野菜
江戸近郊の在来種の野菜には、地名がつけられて特産地化が進み、いわゆる「江戸野菜」として江戸や近隣の宿場に供給された。 江戸近郊の野菜としては、武蔵野台地の「練馬大根,独活(うど),滝野川人参,早稲田みょうがや唐辛子」など。少し低地の荒川には「谷中生姜,三河島菜(みかわしまな)」など。隅田川を挟んだ川向こうの「寺島なす,小松川の小松菜,亀戸大根,砂村ねぎ」などがある。三河島菜は漬菜として塩漬けにされ、冬場の貴重な葉物野菜として賞味された。

品川の農村では、居留木橋南瓜(いるきはしかぼちゃ)、戸越の筍、品川蕪などがこの地域の野菜として有名であった。居留木橋南瓜は、沢庵和尚が上方から種を取り寄せ、名主・松原庄左衛門に栽培させたという。
天保14年(1843) 12月の『宿方明細書上帳』(品川宿の公式記録) の大井村の項目では、「大井村にてにんじん・葱を多く作り出し、大井にんじん・品川葱と相唱え、別して風味宜しく、何れも名産」と紹介している。品川蕪(かぶ)は、根がやや長い長蕪で、漬け物の材料としても重宝された。


江戸の近在近郷で栽培をされていた野菜には、鳴子の瓜、練馬大根、目黒の筍、内藤南瓜と唐辛子、雑司ヶ谷茄子、早稲田の茗荷、駒込の茄子、品川蕪と葱、滝野川人参と牛蒡、谷中生姜、三河島菜、寺島の茄子、砂村葱小松菜、亀戸大根、(明治以降,金町小蕪)などがある。




■八百屋と魚屋

元禄期の風俗事典的絵本『人倫訓蒙図彙・第四巻・商人部』より『魚屋・八百屋』元禄3年(1690)
「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」は、元禄3年(1690)に出版された、江戸時代前期・元禄期の生活を図解した風俗事典です。全七巻からなり、公卿から庶人まであらゆる身分の様々な職業を、用いられる器物を上げながら簡単な解説を加えています。
絵本は右から、米屋・魚屋・八百屋の図と説明が記載されている。魚屋と八百屋の説明は次の内容である。
【魚や】諸国より出(いづ)る。椹木町(さはらぎちょう)の西武者の小路、錦小路等、其外所々にあり。鳥、鮨等同じく是を商(あきなう)。同所にあり。
【八百や】一切の精進の調菜、乾物、海草、木実、草の根、あらゆるもの也。錦の小路を初(はじめ)、所々にあり。
下の写真は江戸後期の「八百屋」を再現している。


〇江戸の魚
『江戸繁盛記』寺門静軒著/天保期(1830-1844)によると、江戸前の海や川で取れる魚は、鯛・鱸(すずき)・鯔(ぼら)・ 鰈(かれい)・コハダ・アナゴ・烏賊・鯵・車海老・芝海老、シラス・白魚・(あさり・蛤・さざえ・しゃこ)などとある。
また、『江戸繁盛記』には日本橋魚市のこととして市場で扱っている魚を以下のように記述している。
ひらめ,すずき,鰹(かつお),鯵(あじ),生簀のぼら,雪づめで送られてきたフグ,アンコウ,カレイ,カナガシラ,ほうぼう,マグロ,鱧(はも),タコ,へいけがに,こち,さわら,イシモチ,エイ,ナマコ,イカ,コノシロ,鰯(いわし),コハダ,鯖(さば),蜆(シジミ),蛤(ハマグリ),赤貝,アワビ,サザエ,タイラギ貝,ババ貝,もるくい,鮫(ネコザメ,ノコギリザメ,つるぎざめ,シュモクザメ),鯛,黒鯛,エビ(かまくら,しば,のろま,てなが,クマエビ,車エビ,あみえび),鯨,鮭(さけ),鱈(たら)。


■『守貞謾稿』(1853)と青物(江戸野菜)
『守貞謾稿』には、菜蔬(さいそ)、即ち食用になる植物を俗に「青物」と云い、これを扱う市が神田・本所・千住・品川等にあるという。神田・千住に、ここには記されていないが駒込を加えて三場所と言う。千住・品川・駒込は、江戸への入口である。神田の青物市は江戸城御用を務めたが、江戸郊外からの流入を扱うという点では立地が劣っていた。
青物は、船・歩行等で江戸の市へと運び込まれた。店を構えた八百屋以外に、天秤棒に架けた籠を用いて、瓜・茄子等、品数を限って市中で青物(江戸野菜)を販売する前菜売りがいた。
「三都ともに菜蔬(さいそ)を俗に青物と云、因之売之買を青物売とも云、菜蔬店青物見世(みせ)とも八百屋とも云・・・菜蔬も市をふること魚市に同じ、江戸も菜蔬は京坂と同く市を振る神田連雀町辺本所花街又千住駅品川駅にも菜蔬市あり」、「江戸にては瓜茄子等一種を専ら持ち巡る者を前栽(せんざい)売と云、京坂にては是をもやおやと云、其扮無定其籠も三都大同小異也・・・前栽売京坂有其業無此名也」

【庶民の食事を支えた江戸野菜】
江戸時代の野菜作りは、荒川流域の低湿地帯、砂村を中心とする江東地域と太田・世田谷の城南地域が盛んでネギ、カボチャ、ダイコン、ナス、キュウリ、漬け菜などの生産が行なわれていた。
江戸野菜 写真:茶堂~chadeau~/http://www.chadeau.com/16090501/
江戸の近在近郷で栽培をされていた江戸野菜には生産地の名前がついていることが多く、当時の野菜産地として名が残っているものに、亀戸大根と砂村ネギ(江東)、矢切り大根・葛西レンコン・金町コカブ(葛飾)、寺島茄子と本所ウリ(隅田)、谷中ショウガ(台東)、千住ネギ・汐入り大根・三河島菜(荒川)、小松菜(江戸川)、滝野川ニンジンとゴボウ(北)、練馬大根(練馬)、駒込茄子・巣鴨コカブ・雑子ヶ谷かぼちゃ(豊島)、四谷の唐辛子と早稲田の茗荷(新宿)、千駄ヶ谷とうもろこし(渋谷)、目黒のタケノコ(目黒)、馬込キュウリ(太田)、そして大倉大根(世田谷)などがある。
この内、練馬大根は江戸の歌人、歌学者戸田茂睡が残した紀行文『紫の一本』(天和3年〈1683〉刊)にも特筆されている。武蔵野の村々の民家が夥しく増え、「瓜・茄子を初め菜・大根などすべての野菜を毎日毎日江戸へ付け出す」とし、さらに料理屋の奥の中二階に上がると、「ねりま大根、岩槻牛蒡、笠井菜、芝海老、千住ねぎを、とりかえとりかえ馳走する」との記述がある。
17 世紀後半には、武蔵野台地上の村々において江戸への販売を前提とした商品作物の生産が本格化しており、また名産野菜として料亭などで供されていたことも明らかであった。






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