日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 江戸外食文化の始まり


江戸外食文化の始まり

■江戸の外食文化の始まり
江戸時代初期、武士も庶民も外食する習慣はなかったとされ、江戸の町には飲食店がなく、店舗(屋台見世)を構えて料理を提供する料理屋が現れ始めたのは、振袖火事と呼ばれた明暦の大火(明暦三年/1657)以降といわれている。
明暦3年の大火は江戸市中の三分の二を焼き尽くした。その大火後の復旧のために全国から大工,左官,鳶などの職人や土方など、大量の労働者が流入し、職人たちのような独り者を相手に煮売り(惣菜屋)の商人が増え外食の需要が急速に高まった。

茶屋はすでに室町時代に存在しており江戸時代に繁盛していた。井原西鶴の『西鶴置土産』によると明暦の大火後、浅草金竜山〈待乳山〉門前の「茶屋」が緑茶で炊いた奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆など)を器に盛って客に供した茶漬飯を「奈良茶飯(ならちゃめし)」と名付けたとある。この後、江戸市中に多くの奈良茶茶屋(ならちゃぢゃや)が広まった。

浅草の浅草寺境内で茶飯や豆腐汁,煮染め,煮豆などをセットにした「奈良茶飯」の茶屋が「料理茶屋」の元祖といわれている。「奈良茶飯」の飯屋ができ、類似の店が増え定食屋として栄えはじめた。続く寛文四年(1664)頃には、麺にした蕎麦を食べる「慳貪(けんどん)蕎麦切」、浅草寺の境内には「正直蕎麦」という蕎麦屋ができた。

屋台の始まりは、江戸の享保年間(1716〜1736)で、天明年間(1781〜1789)以後、さかんになったと言われている。江戸時代には庶民が住む長屋では本格的な台所は無かった。そのため天秤棒を担いで行商する「棒手振り」とか「振売り」、さらに屋台が発達していった。
屋台には、簡単に場所を移動できる担ぎ屋台や屋根付きで常設できる立ち売りがあり、後者は人が集まる寺院の境内、門前や船着き場など一定の場所に店を構えた。

そして、屋台から店内で飲食させる「居見世(いみせ)」が現れ、蕎麦屋、 鰻屋(蒲焼き)、鰻飯屋(丼飯)、すし屋、天ぷら屋などの外食店ができた。江戸後期には八百善のような高級料亭も誕生するようになった。
ちなみに、うなぎを蒲焼きで食するようになったのが元禄時代(1688〜1703)以降、屋台での天ぷらの串揚げは天明年間(1781〜89)に登場し、安政期(1854〜1859年)の頃には、店構えの天ぷら屋が現れ、料亭でも、お座敷「天ぷら」が出されるようになる。江戸前握りずしは、文化・文政期(1804〜30)に江戸の町に登場したといわれている。

日本の外食文化は、江戸時代前期に起こった浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まり、江戸の外食産業の始まりは、天秤棒で商品をぶら下げて売り歩く「振売り」と、加熱調理をした飲食を提供する「焼売り・煮売り屋」であった。
続いて、振売りから発展した料理を提供する「屋台」(持ち歩き形式)や店舗を構え商品を提供する「煮売茶屋(にうりちゃや)」と呼ばれる形態ができ、煮売茶屋がさらに発展して「料理茶屋」になり、この料理茶屋がさらに、贅(ぜい)をこらした高級料理茶屋の「料亭」へと進化した。



奈良茶飯

■外食産業のきっかけ「奈良茶飯」
明暦の大火(1657年)以降、江戸で外食産業のきっかけとなったのが、浅草金龍山の門前にできた「奈良茶飯屋」だと言われている。奈良茶飯は、少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗などに季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものといわれている。

これが江戸時代に庶民の間に広まって、江戸の町中に多くの奈良茶飯屋ができた。この流行ぶりは江戸市中だけにとどまらず、あちこちの宿場でも奈良茶飯を提供する店ができた。
明暦の大火から30年ほどたった元禄六年(1693年)に出版された『西鶴置土産』には、
『近キ比、金龍山ノ茶屋ニ一人五分ヅヽノ奈良茶ヲ仕出シケルニ、器ノキレイサ色々調ヘ、サリトハ末々ノ者ノ勝手能コト也、中々上方ニモカヽル自由ナシ云々』とあり、ちかごろ浅草金竜山の茶屋で一人前、銀五分の奈良茶飯を売りだしたが、こぎれいな器に盛り付け、町人たちによろこばれている。上方には、こんな便利な飯屋はないと書かれている。(銀目五分は、約28文から30文)
また、柏崎永似『事跡合考』(1746年) にはこうある。
「明暦の大火後、浅草金竜山、門前の茶店に、始めて茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆等を調へて、奈良茶と名づけて出せしを」
江戸では、奈良茶飯ではなく「奈良茶」と呼ぶのが普通だったらしい。
料理書の飯の部「奈良茶飯」の作り方では、
  1. 『今古調味集』天正八年(1580年)の料理書の飯の部に「素良茶飯 随分能煎茶をとくと煎出して飯の水かげんにして焚なり、但し塩にて味を付たる時悪し、たとヘ一升の米ならば中盒(なかかさ,飯盒の中蓋)に醤油一盃酒一盃入て焚べし」
  2. 『料理献立早仕組』飯之部、天保四年(1833年)に記述の「奈良茶飯」では「いかにもよきせんじ茶をとくとくとせんじて飯の水かげんにして焚こと世にしれるごとくなれども、塩にて味を付たるは悪し、たとえば壱升の飯なれば中盒(なかかさ)さに醤油一はい酒一杯入れて焚くべし、風味格外なり」
と記述されている。

そして、江戸後期には塩または醤油で調味した飯 "茶漬屋の奈良茶(奈良茶飯)" について、喜田川守貞の『守貞漫稿』嘉永六年(1853)の生業,茶漬屋の項には「茶漬屋 茶漬飯の略也」、「右の奈良茶、皇国食店の鼻祖(びそ)とも言うべし、今世江戸諸所に種々の名を付け、一人分三十六文、或は四十八文、或は七十二文の茶漬飯の店、挙て数べからず」とあり、飲食店の元祖と記している。


■江戸時代の人気料理「奈良茶飯」河崎万年屋/奈良茶飯の図

「万年屋」は、明和年間(1764-72)、十三文均一という安価で旅人に食事を出す一膳飯屋であったが、文化・文政の頃(1804-29)には、茶飯一人前四十八文で大いに繁昌したという。しかし、その後の庶民の旅への関心の高まり、川崎大師参詣者の増加によって、川崎宿内第一の茶屋に発展し、宿泊所としての施設も整え、江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したと言う。

文久年間の記録からみると、その規模は、当時の旅籠や茶屋のなかで最大ともいえるものであった。万年屋は、二階屋の表屋敷と別屋敷の二棟があった。
表屋敷一階は間口11間半(約20.9m)、奥行12間(約21.8m)、畳数91、坪数123、二階は38畳20坪。別屋敷一階は間口5間半(約10m)、畳数27畳半、坪数24、同二階は36畳24坪であった。


「奈良茶飯」黒豆・小豆・栗入りの茶飯、シジミの赤だし、奈良漬(神奈川県立歴史博物館)


■東海道中膝栗毛』の“奈良茶飯”
東海道・川崎宿名物の奈良茶飯の繁栄の様子は、『東海道名所図会』(寛政9年・1797)に「河崎万年屋・奈良茶飯」として挿絵に描かれている。
また、『東海道中膝栗毛』/十返舎一九,享和2年(1802)では、弥次郎兵衛と喜多八のふたりが、「六郷の渉(わたし)をこへて、万年屋にて支度せんと、腰をかける」と出てきて、この万年屋で奈良茶飯を奈良漬と一緒にお茶漬けにして、さらさらと食べるという昼食時の場面がある。
六郷の渉(わたし)とは、多摩川の下流にあった東海道における八幡塚村と川崎宿間の「渡し場」である。渡し賃は、正徳元年(1711)以降は1人10文、荷物1駄15文、ただし、武士や僧侶は無賃だったという。



屋台見世・居見世(店舗)の食事処の登場

■明暦の大火
江戸は267年の間に49回の大火に見舞われているが、その中でもっとも被害か甚大だったのが4代将軍家綱の時代の『明暦の大火(振袖火事)』であった。
明暦三年(1657)1月18日未の刻(14時ごろ)から2日間にわたって燃え続けたという。大火は本郷・小石川・麹町の3ヵ所から連続的に火災が発生し、瞬く間に広がった。江戸城の本丸・天守が焼け落ち、外堀以内のほぼ全域を焼き尽くし、江戸市中の大半を焼失した。死者数は諸説あるが、3万から10万人と言われており、江戸史上屋大の火災となっている。

当時の江戸の町人人口は、明暦三年(1657)に約28万人と推定されている。これに武家人口50万人を加えると、江戸の総人口は約78万人となる巨大都市だった。(享保六年(1721)には、町人人口が約50万人、武家人口50万人で、江戸の総人口は約100 万人となる)
この明暦の火災についての記録である『むさしあぶみ』には次のように書いてある。
「諸人にげまどひて、炎にこがされ、煙にむせび、又は大名小名の家々に日ころとしごろひざうして立飼れたる馬ども、いくらというかずしらじ、家々に火かゝれば、すべきかたなく、綱をきりて追はなしやられしかば、此馬ども人と火におどろき、逸散にかけ出し、あまたむらがりたる人の中にかけこみ、行つまりて、人と馬とおしあひ、もみあいたれば、これにふみころされ、うちたをされ、火にやかれ、煙にむせび、あそこ爰堀溝に、百人、弐百人ばかりづゝ死にたをれてなしという所もなし、火しづまりて後つぶさにしるし付たれば、をよそ十万二千百余人とぞかきたりける。」
明暦の大火
『江戸火事図巻』 田代幸春 画(明暦の大火の画)

■江戸の町の拡大と外食の始まり
振袖火事と呼ばれた明暦の大火(明暦三年/1657)は、江戸城本丸や天守閣、二の丸まで焼き尽くした。明暦の大火で江戸の町は3分の2が焼失した。焼失した大名屋敷五百、蔵九千余、橋六十、旗本屋敷七百七十、町屋四百町、片町八百町、死者十万七千余人といわれる。

明暦の大火を契機に、隅田川を越えて、本所・深川が開発されるなど、江戸の拡大が進んだ。それまでの江戸市中は江戸城を中心に旗本屋敷を「の」の字に配置する軍事要塞的な町づくりから、機能的な碁盤目状に区画整理をして新たな町並みを形成した。

その焦土復旧作業のために諸国から大工、左官、鳶などの職人が集まり、食を取り巻く事情が変化した。単身者の多い江戸では“外食”が広まった。江戸の町には、気軽に飲食ができる煮魚、野菜の煮物などの煮炊きした惣菜類を店頭で売る辻店「煮売り屋」ができた。
「煮売り屋」が繁盛するにつれ、寛政年間(1789-1800)には、店先で酒が飲める「煮売り酒屋」ができ、その後、店内で煮物の肴の他に飲酒(居酒といった)をさせる「煮売居酒屋(居見世)」ができた。
【明暦の大火を経て大江戸が形成されるにつれて江戸の人口は、約15万人(寛永年間1624-44)から35万人(寛文年間1661-73)に増加したといわれる】

煮売り酒屋(辻売り屋台)/歌川広重画 「浄るり町繁花の図」嘉永5年(1852)
店先で酒を立ち飲みする武士。大皿・小皿には酒の肴の煮豆や煮しめが盛られている。提灯の「せうちう」とは焼酎のこと。



■江戸の火事防止で屋台文化が始まる
明暦の大火(振袖火事,1657年)の後、大火にる火事の延焼を食い止めるために、市中に火除地(ひよけち)が設置された。火除地と同様に、防火目的として「広小路、広道、火除堤(防火堤)」などの空地が設けられた。そこが庶民のたまり場にもなり屋台も出る盛り場になっていった。

江戸の各所に火災の延焼や飛び火をを防ぐため、元禄期にかけて市中に大小の火除地が数多くつくられた。両国橋の両岸にまとまった面積を持つ火除け地が「両国広小路」であり、その他にも小川町・外神田・江戸橋・永代橋西詰・新大橋西詰・芝愛宕下・宮方門前・芝赤羽・浅草・本郷筋・上野などに広小路がつくられた。
特に面積が最も大きくなるのは享保期1716~1736年で、江戸の中心部に少なくとも五万人を収容できる空間が広がっていたという。

また、都市防火政策の火除地が江戸城や幕府の重要施設、大寺院を大火の延焼経路から遮断するように配置されると、当初は空地として防火機能 に特化した空間であったものが、徐々に茶店や見世物等の諸施設が設けられ、庶民が商業や娯楽等の場として複合的に利用するようになった。

火除地としての機能を持つ広小路は恒久的な建造物を建てることが禁じられた。しかし、往来の激しい橋詰や、多くの参拝者を集める寺社門前に設置された広小路には、移動や撤去の可能な床店が建ち並んでいた。
これらの空間(広場)を江戸の下層庶民たちは盛り場的な営業地とすることより、露天商である屋台見世(床見世)・葭簀張(よしずばり)の茶店や、流れ巡業を行う芝居や見世物小屋、髪結い床、相撲などの興行を見せる仮設の施設が次々と建てられ、さらに、屋台が固定化した「小屋掛・居見世」「飯屋」など、あらゆる飲食店が軒を並べ、庶民の食事処として登場してくる。

町人地(橋詰)に立地する火除地の両国広小路では、花火の行われる夏の納涼が盛大なものとして東都第一と評され、筋違橋橋詰では江戸の二大天下祭である神田祭の巡行路に指定されセレモニーの場として利用されるようになった。
さらに筋違橋橋詰では、幕府の御用市場に指定されていた青物市場が開かれ、両国橋橋詰では浅草寺の三社権現祭の神輿渡しが行われるように、いずれも 商業や娯楽などの場として多様な利用が見られる賑わいであった。

 
「両国橋」では、大川(隅田川)にかかる両国橋とそのたもとの広小路、また川面にも屋形船や屋根船が出て、人々がつどい、夏の一夜を花火を見てすごすさまが描かれている。

両国の川開きは5月28日に行われ、8月28日までの納涼期間中は花火が打ち上げられ江戸庶民を魅了した。こうした盛り場や祭礼・縁日・花火見物に出てくる人々を目当てに、たくさんの屋台が出、さらには川の上でまで食べ物が売られた。

また大道芸や、矢来(やらい)と葭簀(よしず)で囲んだ仮設の小屋で芝居や講釈など各種見世物の興行もよく行われた。盛り場には素麵売り、西瓜の裁ち売り、虫 売り、白玉売り、蒲焼屋、幾世餅売り、茶店などの店が出たほか、大道芸、芝居、見世物、相撲、開帳、書画会などもおこなわれた。




■屋台を利用する人々
江戸は参勤交代の武士やその奉公人・出稼ぎ人などの独身男性の多い町(男女比は男性が女性の1.5倍)であり、すぐに食べられ小腹を満たす安価な蕎麦などの手軽な屋台料理などの外食が発達した。
江戸の町の庶民の多くは長屋住まいである。寛文四年(1664)の『昔々物語』には「けんどん蕎麦切り」というものが出来て下々の者(庶民)はこれを買って食べたが、貴人(富裕層)には食べる者がないという記述があり、長屋住まいの庶民に屋台料理が定着していた様子がみられる。

屋台料理は、立ち食い屋台で食べる鮨(4~8文)や天ぷら(1串4~6文)、そして、天秤棒で担いでくる屋台の蕎麦が一椀16文、家で焼いて岡持(おかもち)という手桶に入れて売り歩く"うなぎ蒲焼き"が1串16文であった。これらの外食文化をつくったのは、馬子や陸尺(駕籠を担ぐ人足)、日雇いなどの力仕事に従事する多くの"その日暮らし"の庶民であった。


天ぷら屋台店(辻売り屋台)/鍬形蕙斎「近世職人尽絵巻」
天ぷら1串4文。頭巾を被り、庶民に混じりながら、忍んで屋台に通う武士の姿が描かれている。


■屋台の種類
屋台には2 種類があり「担い屋台」と「辻売り屋台」があった。担い屋台は天秤棒で小さな屋台を肩に担ぎ、町々を移動しながら商売をする。辻売り屋台は、寺社の境内や門前・道端・あき地など、人の大勢寄る所へ仮設の店舗(屋台見世(やたいみせ))を組立てて移動せずに商う屋台を出して売る。「振り売り」形式の担い屋台は蕎麦や鰻蒲焼・田楽・甘酒などを売り、「立ち売り」形式の辻売り屋台は天麩羅や鮨が多かった。

食べ物を天秤棒にさげて売り歩く「振売り/棒手振り」は中世からあったが、店舗を構えて商いをする「店売り」が現れるのは江戸時代半ばになってからである。また、寿司・天ぷら・蕎麦などの「屋台」が普及したのは、安永年間(1772~81)の初め頃とされる。

「二八蕎麦」という言葉が文献に登場するのは、享保(1716~36)の中頃である。だし、醤油などの調味料の向上が蕎麦の普及に拍車をかけた。担い屋台の「二八そば」一杯は、16文で寛文年間(1661~73年)に値段が決まり、幕末の1864年頃まで16文で約200年間変わらなかった。蕎麦は担い屋台の代表でもあった。

守貞謾稿の『近世風俗史』(1853)には、「屋体見世(やたいみせ)すゑみせにて不要の時他に移す。屋台見世は鮨・天麩羅を専らとす。鮨と天麩羅の屋台見世は、夜行繁き所には毎町各三,四ヶあり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に屋台見世を置く」と、書いている。屋台は鮨・天ぷらなどを扱い、夜中でも人の往来の多い所には各町に数店が出ていた。


■屋台から料理屋(居見世)へ
江戸時代は、17世紀を江戸前期(1600年~)、18世紀を江戸中期(1700年~)、19世紀を江戸後期(1800年~)として、3つの時期に分かれる。
江戸初期の中頃に料理店(屋台見世)、江戸中期から料理屋(居見世)が出現し、追々に飯屋、蕎麦・うどん屋、寿司屋、うなぎ屋、茶漬け屋、天ぷら屋、さらには猪料理のももんじ屋などまでが開業した。
江戸後期の1804年(文化元年)における江戸町奉行の調査では、江戸市中の食い物屋の数は約6,160軒に達したという。ちなみに、江戸時代末期1860年(万延元年)の調査では、夜鷹そば屋を除く江戸の蕎麦屋の数は約3,760軒であった。

屋台見世の「天ぷら屋」では、飯つきで一人前が二十四文からせいぜい四十文で商われたという。嘉永年間になると、天ぷら屋台見世もしだいに高級化していき、安政年間(1854~1859年)になると、店構えの「天ぷら店(居見世)」が現れる。
そして、天ぷらは、高級感のある立派な建物を建て、食事の提供だけではなく庭の雰囲気を座敷から楽しむことができる料理茶屋、今でいう料亭でも出されるようになった。

享保年間(1716~36年)以降に「蕎麦屋」という呼びが一般化しはじめた。それ以前は「慳貪(けんどん)屋」と呼ばれ、饂飩(うどん)と蕎麦を一緒に商うのが普通であった。享保年間の中頃(1720年代)には蕎麦屋が増え、江戸ではうどんよりも蕎麦が好まれるようになった。
このころから夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようにもなっている。蕎麦屋は時代とともに店を構えるところが増えて、座敷をつくり、なかには立派な茶屋のような蕎麦屋も出現した。

向島、秋葉神社門前の料理茶屋「平岩」
鯉料理の有名な料理屋。天明期(1781‐89)
どじょう鍋(料理茶屋)

料理屋(居見世)の鍋料理としては、江戸初期の『料理物語』(1643年)に、煮物の部に鍋焼があり、「なべ焼、みそ汁にてなべにて其まま煮候也。たい、ぼら、こち、何にても取あはせ候」とあって、みそ汁で煮る鍋料理であった。
江戸時代後期には、座敷に七輪や鍋を持ちだして食べるようになり、塩や味噌が主体だった調味料に濃口醤油やみりんが加わり、鍋料理が確立していく。江戸後期の「小鍋立て」の鍋料理の代表は「ねぎま鍋」「どじょう鍋」「あなご鍋」「しゃも鍋」「ぼたん鍋」などである。中でも一般的だったのが、どじょう鍋であった。鍋の値段は、鰌(どじょう)汁・鯨汁が一椀十六文、鰌鍋(どじょうなべ)四十八文である。
(※:銭一文=江戸前期から中期で約20円~25円、江戸後期で約30円に相当)
また、江戸時代末期の幕府医官、喜多村直寛(香城)の随筆『五月雨草紙』には“竹輪・椎茸・野菜の煮染め、つみれ汁、飯、香の物”を1食百文で食べさせる定食屋も登場している。



長屋住人の生業と振売り

■振売り(棒手振り)商売
『守貞謾稿』天保八年(1837)には、振売りについて「三都(江戸・京都・大坂)ともに小民の生業に、売物を担い、あるいは背負い、市街を呼び巡るもの」とあって、江戸市中いたるところ振売りがいた。

振売り(ふりうり)は、天秤棒の両端に荷(商品)を振り分けにして担いで、物の名を唱えながら売り歩く小商人(こあきんど)や売り歩く人のことをいい、または「棒手振(ぼてふり)」ともいう。
彼らの多くは裏長屋の住人たちであったが、町人にとっては便利な行商人であった。「振売り」(棒手振り)が扱ったのは、日用品だけでなく、季節の商品から古物までと幅広かった。また、各種の修理屋も町を行商した。

振売りは火気を持ち歩かず、主に生の食材や調味料、調理済みの食品を売り歩くのが特徴で、食品を扱う商売のなかでも、特別な技術や知識が不要、店を構えるための権利なども不要だったので、簡単に開業する事が出来た。
そのため振売りは社会的弱者のための職業とされており、幕府は振売りのための開業許可を50歳以上の高齢者か15歳以下の若年者もしくは身体が不自由な人物に与える、と触れ書きを出した。

庶民相手の商売で、幕府が振売り商人の許可制(鑑札)としたのが万治元年(1658)で運上金を徴収していた。夜間での振売りが許可されたのが貞享三年(1686)である。
日用品のほとんどは振売り(流し)が扱っており、流しているところを呼び止めて購入した。振売りは約50種類あったといわれ、たばこ売り・塩売り・飴おこし売り・下駄足駄売り・味噌売り・酢醤油売り・紙売り・小間物売り・精米した白米の舂米(つきまい)売り・傘売り・油売り・木綿売り・薪売り・冷水(ひやみず)売り・豆腐こんにゃく売り・煎茶売りなどであった。

長屋に住む下層の庶民は、大工・左官・畳細工・屋根葺(やねふき)・鋳掛師(鍋・釜の修理)などの職人や手習師匠のように特別な技術がなくとも、“振売り・棒手振り”などと呼ばれる、天秤棒を担いで魚・青物(野菜)などを売り歩く行商なら誰でも開業できた。

長屋に住む多くの人は、天秤棒を担いで多種多様な商品を小売りする行商人であった。その行商人は、「一色商い(ひといろあきない)」といって、食材や生活雑貨など、一つの品物を専売するのが主流で、商う品物は一種類か、多くても 2,3種類だったので、仕入れも簡単で素人でもその日からはじめられるほどだった。

長屋の人々の多くは、振売りを生業としながら、自らも振売りから食材を購入し、白米と漬物、季節の野菜類の煮物を中心とし、時々、イワシ、塩鮭など魚類を加えた食生活を営んでいた。


『東海道五拾三次之内 日本橋・朝之景』  歌川広重 天保4-5年(1833-34)
大木戸が開かれた日本橋の早朝の景色。朝焼けを背景に日本橋を渡り国元に帰る参勤交代の大名行列が日本橋を渡り始める。手前には魚河岸で仕入れた魚とまな板を桶に入れて天秤棒を担ぐ魚売りや野菜売りの行商人たち、右端には2匹の犬の後姿が描かれている。


■振売りの売り物
長屋に住む人々の多くが携わっていたという振売り(行商人)には、実に細かな仕事があった。『守貞謾稿』(1837)の食に関わる「振売り」商品を挙げてみると次のものがあった。
  • 乾物売り、鮮魚売り、鰻蒲焼売り、鳥貝・ふか刺身売り、白魚売り、むきみ売り、しじみ売り、ゆで卵売り、鮨売り、いなご蒲焼き売り、塩辛売りなどの動物性食品。
  • 蔬菜(そさい)売りには、瓜や茄子などを売る前菜(野菜)売り、松茸売り、生唐辛子売りなど。
  • 加工調理品では、豆腐売り、納豆売り、漬物売り、甘酒売り、乾物売り、乾海苔売り、蒸し芋売り、揚昆布売り、麹売り、唐辛子粉売り、ゆで豆売り、嘗め物売り、ところてん売りなど。
  • 調味料には、塩売り、醤油売り。嗜好品では、菓子売り、白玉売り、岩おこし売り、飴売り、冷や水売り(砂糖水売り)など。

■行商の「振売り」と庶民の食生活
江戸近海および近郊農村で大消費都市江戸の台所を支える大がかりな生産活動がおこなわれていた。魚は江戸湾、三浦半島、房総半島の各地から入ってきた。
一方、野菜の生産は、江戸に近い地域では葉ものなど痛みやすいもの、遠隔地では根菜類などの日持ちのするもの、というように分けられ、それぞれ「青物問屋」を通して流通させていた。江戸には、魚と野菜・水菓子の市場が10カ所以上あって、江戸の人々の食生活に対応していた。

「魚市場」では日本橋近くに日本橋魚市場、新肴場魚市場、四日市魚市場などが、「青果市場」では千住青果市場、神田青果市場、駒込青果市場などがあった。
市場で買いつけた魚介類や青物(野菜)を仲買は小売商人に売り渡した。小売商人は見世(店)を持っているものも多かったが、多くは零細な行商人で、天秤棒で担いで行商する者は「振売り」(棒手振り)などと呼ばれた。米や洒のようにこぼれやすいものを除き、たいがいのものは彼らが売り歩いていた。



野菜や魚などを担いで市中を売り歩くことを「振売り」といい、それらの商品を天秤棒で担いで売り歩く商人のことを「振売り/棒手振り」と呼んだ。「振」とは触れ歩いて売るという意味で、彼らは町内をめぐり歩いた。
多くの「振売り」が朝から出入りし、長屋の庶民たちは様々な食材や日用品を買い求めた。商品は魚、ひしこ(いわしの塩漬け)、あさり、しじみ、青菜、豆腐、納豆、煮豆、味噌と醤油などの食材・食料品などを、その他には、薬やほうき、桶、小間物、絹、木綿、瀬戸物、ござの日用品などを扱う行商人もいた。このように生活に必要なものは一通り揃えることができた。



長屋「振売り住人」の一日

毎日の生活費を得るために日銭を稼ぐ裏長屋の野菜売り住人の一日は次のようであった。
「亭主の振売りは毎日600~700文くらいの元手を持って、早朝に家を出て市場で野菜を仕入れる。天秤棒で商品を担ぎ、売り声を上げながら町々を1日歩いて売って帰り、1日の儲けは400~500文。女房に生活費として300文くらいを渡す。これが米代や味噌、醤油、油代、子供のおやつ代などに使われ、そこから翌日の仕入れ代を引くと、せいぜい100~200文が残る生活であった。」
天秤棒に野菜籠をつけて売り歩いていても、三人の家族を養うことができた。
(文政年間(1818~1829)の価格、米は1.3升/銭100文、味噌は6匁/銭100文、酒(上)は4合/銭100文、醤油1升は銭188文、練馬大根は銭8文、串団子・桜餅は銭4文)

万治元年(1658)の幕府の調査では、振売りの数は江戸北部だけで5,900人、50の職種に及んでいたという。その収入は、扱う品目にもよるが、おおよそ1日400文ほどであったという。



『文政年間漫録』栗原柳庵より(文政年間1818~29年)

「長屋の住人の一日」菜蔬売り(さいそうり)
「菜籠(なかご)を担(かたけ)て晨朝(あした) に銭六,七百を携え、蔓菁(かぶら)・大根・蓮根・芋を買い、我(わが)力のあるかぎり、肩の痛むのも屑(もののかず)とせず、脚に信(まか)せて、巷(ちまた)を声ふりたて、蔓菁めせ、大根はいかに、蓮(はす)も候(そろ)、芋やいもと呼ばりて、日の足もはや西に傾くころ家に還(かえ)るを見れば、菜籠に一摘(ひとつみ)ばかりの残れるは、明朝の晨炊(あさめし)の儲(もうけ)なるべし。

 家には妻いぎたなく昼寝の夢まだ覚めやらず、懐(ふところ)にも背にも 幼稚(おさな)き子ら二人ばかりも横竪に並臥(ならびふし)たり。夫は我家に入て菜籠かたよせ、竈(かまど)に蒔(まき)さしくべ、財布の紐(ひも)とき翌日の本貨(もとで)を算除(かぞえのけ)、また店賃(たなちん)をば竹筒へ納めなどするころ、妻眠をさまし、精米(こめ)の代はと云う。すはと云て二百文をなげ出し、与うれば、味噌もなし、醤(しょうゆ)もなしと云う。
又五十文を与う。妻小麻笥(おけ)を抱て立出(たちいず)るは、精米を買いに行なるべし、子供這起(はいおき)て、爺々(とと)、菓子の代(ぜに)給(たまえ)と云う。十二、三文を与うれば、これも外の方へ走出づ。

 然(しかして)なお残る銭百文余、または二百文もあらん。酒の代(しろ)にや為(なし)けん。積(のこし)て風雨の日の心充(あ)てにや貯(たくわ)ふるらん。これ其日稼(そのひかせぎ)の軽(かろ)き商人の産(かせぎ)なり。但し是は本貸(もとで)を持し身上なり。これ程の本資もたぬ者は人に借る。暁烏(あけがらす)の声きくより棲烏(とまりがらす)の声きくまでを期とす。利息は百文に二文とかいう。」

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長屋住人,野菜売りの一日[口語文]
夜明けとともに銭六百文から七百文を持って、かぶ菜・ダイコン・レンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。江戸の町を「かぶらなめせ、大根はいかに、蓮も候、芋や芋や」と、売り声を上げて西日が傾くまで必死に野菜を売り歩いた。日が沈んだころ、菜籠の中には一にぎりぐらいの野菜が残っているが、これは明日の味噌汁の実になる。

家に帰り着き菜籠を置き、かまどに薪をくべてから財布を取り出して、売り上げからまずは明日の仕入れ代金を取り除き、家賃にあてるぶんは竹筒に収めた。そのとき、ようやく昼寝から覚めた女房が「米代は?」と手を出す。二百文を与えると「味噌も醤油も切らしているけど」と言う女房に、また五十文が渡される。女房が買い物に出ると、今度は子どもの番だ。菓子代に十二文が消えた。

彼の手元に残ったのは百から二百文ばかりの銭だ。それを手に「さてと一杯飲ませてもらおうか」「いやいや明日は雨になるかもしれない。それに備えねば」と思案する。元銭のないものは、お金を借りる。利息は100文につき2文で、返済の期日は、当日の朝から夕刻までである。




■菜蔬(さいそ)売り」/ 青物(野菜)売り
江戸三大市場と呼ばれたのが、神田、千住、駒込の市場である。そのほかにも、品川や下谷、本所、両国など各地に青物市場が生まれた。青物市場で商われた野菜は、町の八百屋で売られたほか、棒手振りが天秤棒に担いで町中を売り歩いた。
菜蔬売りは数種の野菜を売り、現在と同様に八百屋と呼ばれていた。江戸では、瓜や茄子などを一,二種だけ籠に入れて天秤棒に架けて担ぎ売るのは前菜(ぜんさい)売りといい、八百屋とは分けて呼んでいた。


江戸時代には、野菜は一般に青物(あおもの)と呼ばれ、野菜は行商の野菜売りから買っていました。
江戸時代の幕末の随筆『守貞謾稿』(1853)の「菜蔬(さいそ)売り」の項には、
〇「三都ともに菜蔬を俗に青物と云う、因之売之買を青物売とも云う、菜蔬店菜蔬見世とも八百屋とも云う」 … 菜蔬売りのことを江戸・京阪とも八百屋と呼ぶこと。江戸・京阪とも菜蔬を青物といい、青物を扱う店を菜蔬店、青物見世、八百屋という。
〇「江戸にては瓜茄子等一種を専ら持ち巡る者を前菜(せんざい)売と云う、京阪にては是をもヤオヤと云う」 … 江戸では、瓜茄子等一種の野菜を持ちまわって売る者を前栽売りといい、京阪ではこれも八百屋という。
〇「前菜売りは数品を携ず瓜茄子の類或いは小松菜等 一、二種を売りを云い、八百屋は数種を売るの名なり」 … 江戸では八百屋は数種類の野菜を売る者であること。
とある。数種の前栽籠を担いで野菜を売る者を「前栽売り」、扱う品数が多くなると「八百屋」と呼び分けたようだ。


■青物(野菜)
瓜や茄子など一、二種だけを売り歩く者を江戸では前菜売り(ぜんさいうり)と呼び、数種類の野菜を売る者を八百屋という。京坂(京都・大坂)・江戸とも菜蔬(さいそ)を青物といい、青物を扱う店を菜蔬店、青物見世、八百屋というと記している。
『絵でみる江戸の食ごよみ』著者: 永山 久夫より
「江戸が発展して人口が増え、大都市になると、料理を専門にする店はもちろん、一般家庭においても、野菜の需要は年ごとに増加。それらのほとんどは、江戸周辺の農村から供給されていました。元禄十年(1696)の『農業全書』によって、野菜のごく一部をあげてみると。だいこん、かぶ、にんじん、ねぎ、にんにく、ごぼう、ほうれんそう、かぼちゃなどで、現在でも流通している主要野菜のほとんどは、すでに栽培され出回っていました。
江戸の町の野菜の流通は、店売りと担い売りとがあり、『守貞漫稿』によれば、「菜疏(さいそ)売り」として、「俗に三都(京・大坂・江戸)とも八百屋といい、やおやと訓む。また、江戸ではうり、なすなど一種を、もっぱら持ち歩くものを前栽(ぜんさい)売りという。京板(京・大坂)では、これも八百屋という。その服装(前栽売り)は定まりがなく、その籠は三都とも大同小異である」とあります。
さらに、「前栽売りは、数品をもたず、うり、なすのたぐい、あるいは小松菜など、一、二種を売るのをいう」。一方の八百屋については、「八百屋は数種類を売るところから、この名前になったものと思われる」としています。「前栽売り」という呼び名は江戸だけのもので、三都ともに、野菜を「青物」とも呼びました。
したがって、野菜を扱う商売は、すべて「青物売り」で、青物見世とか八百屋という場合もあります。江戸には、神田や本所、千住、品川などに野菜市場があり、出商いの青物売りは、これらの市場で仕入れて、売り出したようです。 
一方で、近在の農家では、自分の畑で作ったものを一種類か二種類くらい持って、町場を売り歩く場合もありました。「前栽」には庭先で作ったものという意味があり。もともとは農家が手作りした野菜を売ることをいいましたが、後になって、野菜の行商すべてを意味する言葉となったようです。」

醤油売り(振売り)
井原西鶴の作品には、醤油で財を成したり、醤油の担ぎ売りをする人が話題に取りあげられており、『日本永代蔵』貞享五年(1688)刊に、醤油の荷桶を担ぎ、市中を廻って計り売りをして生計を立てている醤油屋の様子を描いている。
『近江大津の真面目な醤油屋の喜平治という者は、綺麗な服を着るのが幸せだとは思わず、自分の力量に合った商売をしていた。「自分が働かないでは、銭一文にしても天から降ってくることも無いし、地から湧いてくることも無い。また正直にかまえただけでも埒はあかない。つまりは身に応じた商売をおろそかにしないことだ。」と、その日暮らしの生活を楽しんでいた。
ある年の12月30日の明け方に、季節外れの冬の雷が鳴り響く。落雷してたった一つの大事な鍋釜をこっぱみじんに砕かれて、嘆いてもしょうがないし必要なものなので、新しく買い求めたのだったが、その年の暮れにはその鍋釜を買った分だけの銀が不足したので、わずか9匁を24か所の店から少しずつ掛買して借りてしまい、借金取りのうるさい催促を受けることとなった。
「これを思うと予想が必ず外れるのは世の中の常識だ。俺も雷が落ちないうちは、世の中に怖いものなどなかったのに」と喜平次は悔しがったのであった。 手に職があっても人の役に立たなければお金は入らない。“借金はするな。不測の事態は必ず発生するので、ぬかりなくお金は貯めておけ”。という話である』


『江戸商売図絵』 三谷一馬著(中公文庫)
江戸独自の文化が花開く文化・文政(1804〜1830年)の頃になると、人々の暮らしも豊かになり、庶民も調味料として「醤油」が一般的となる。






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