日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 江戸の外食文化の始まり

江戸外食文化の始まりと長屋住い

■ 江戸の外食文化の始まり
日本の外食文化は、江戸時代前期に起こった浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まり、後期には八百善のような高級料亭も誕生するようになった。江戸の外食産業の始まりは、天秤棒で商品をぶら下げて売り歩く「振売り(ふりうり)」と、加熱調理をした飲食を提供する「焼売・煮売屋(にうりや)」であった。続いて、振売りから発展した料理を提供する「屋台」(持ち歩き形式)や店舗を構え商品を提供する「煮売茶屋(にうりちゃや)」と呼ばれる形態ができ、煮売茶屋がさらに発展して「料理茶屋」になり、この料理茶屋がさらに、贅(ぜい)をこらした高級料理茶屋の「料亭」へと進化した。

江戸時代初期、江戸の町には飲食店がなく、飲食店が現れ始めたのは明暦の大火(1657)年以降といわれている。井原西鶴の『西鶴置土産』によると明暦の大火後、浅草金竜山〈待乳山〉門前の「茶屋」が緑茶で炊いた奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆など)を器に盛って客に供した茶漬飯を「奈良茶飯(ならちゃめし)」と名付けたとある。この後、江戸市中に多くの奈良茶茶屋(ならちゃぢゃや)が広まった。一般的に奈良茶茶屋が「料理茶屋」の元祖といわれている。

「奈良茶飯」の飯屋ができ、続く寛文四年(1664年)頃には、麺にした蕎麦を食べる「慳貪(けんどん)蕎麦切」、浅草寺の境内には「正直蕎麦」という蕎麦屋ができた。屋台の始まりは、江戸の享保年間(1716〜1736)で、天明年間(1781〜1789)以後、さかんになったと言われている。屋台から店内で飲食させる「居見世(いみせ)」が現れ、蕎麦屋、 鰻屋(蒲焼き)、鰻飯屋(丼飯)、すし屋、天ぷら屋などの外食店ができた。ちなみに、うなぎを蒲焼きで食するようになったのが元禄時代(1688~1703)以降、屋台での天ぷらの串揚げは天明年間(1781~89)に登場し、安政期(1854~1859年)の頃には、店構えの天ぷら屋が現れ、料亭でも座敷「天ぷら」が出されるようになる。江戸前握りずしは文化・文政期(1804~30)に江戸の町に登場したといわれている。


奈良茶飯

■ 江戸・外食産業のきっかけとなった「奈良茶飯」
江戸は267年の町に49回の大火に見舞われているが、その中でもっとも被害か甚大だったのか『明暦の大火(振袖火事)』であった。明暦三年(1657)1月18日未の刻(14時ごろ)から2日間にわたって燃え続けたという。大火は本郷・小石川・麹町の3ヵ所から連続的に火災か発生し、瞬く間に広がった。外堀以内のほぼ全域を焼き尽くし、市街地の大半を焼失した。死者数は諸説あるが、3万から10万人と言われており、江戸史上屋大の火災となっている。当時の江戸の町人人口は、明暦三年(1657)に約28万人と推定されている。これに武家人口50万人を加えると、江戸の総人口は約78万人となる巨大都市だった。(享保六年(1721)には、町人人口が約50万人、武家人口50万人で、江戸の総人口は約100 万人となる)

明暦の大火
『江戸火事図巻』 田代幸春 画(明暦の大火の画)
この火災についての記録である「むさしあぶみ」には次のように書いてある。「諸人にげまどひて、炎にこがされ、煙にむせび、又は大名小名の家々に日ころとしごろひざうして立飼れたる馬ども、いくらというかずしらじ、家々に火かゝれば、すべきかたなく、綱をきりて追はなしやられしかば、此馬ども人と火におどろき、逸散にかけ出し、あまたむらがりたる人の中にかけこみ、行つまりて、人と馬とおしあひ、もみあいたれば、これにふみころされ、うちたをされ、火にやかれ、煙にむせび、あそこ爰堀溝に、百人、弐百人ばかりづゝ死にたをれてなしという所もなし、火しづまりて後つぶさにしるし付たれば、をよそ十万二千百余人とぞかきたりける。」


明暦の大火(1657年)以降、江戸で外食産業のきっかけとなったのが、浅草金龍山の門前にできた「奈良茶飯屋」だと言われている。奈良茶飯は、煮出した茶に大豆・小豆などを入れて塩味で炊いた茶飯に汁や煮豆を添えたといわれている。これが江戸時代に庶民の間に広まって、江戸の町中に多くの奈良茶飯屋ができた。この流行ぶりは江戸市中だけにとどまらず、あちこちの宿場でも奈良茶飯を提供する店ができた。
明暦の大火から30年ほどたった元禄六年 (1693年) に出版された『西鶴置土産』には、
  • 『近キ比、金龍山ノ茶屋ニ一人五分ヅヽノ奈良茶ヲ仕出シケルニ、器ノキレイサ色々調ヘ、サリトハ末々ノ者ノ勝手能コト也、中々上方ニモカヽル自由ナシ云々』
とあり、ちかごろ浅草金竜山の茶屋で一人前、銀五分の奈良茶飯を売りだしたが、こぎれいな器に盛り付け、町人たちによろこばれている。上方には、こんな便利な飯屋はないと書かれている。(銀目五分は、約28文から30文)

料理書の飯の部「奈良茶飯」の作り方では、
  1. 『今古調味集』天正八年(1580)の料理書の飯の部に「素良茶飯  随分能煎茶をとくと煎出して飯の水かげんにして焚なり、但し塩にて味を付たる時悪し、たとヘ一升の米ならば中盒(なかかさ,飯盒の中蓋)に醤油一盃酒一盃入て焚べし」
  2. 『料理献立早仕組』飯之部、天保四年(1833)に記述の「奈良茶飯」では「いかにもよきせんじ茶をとくとくとせんじて飯の水かげんにして焚こと世にしれるごとくなれども、塩にて味を付たるは悪し、たとえば壱升の飯なれば中盒(なかかさ)さに醤油一はい酒一杯入れて焚くべし、風味格外なり」
と記述されている。
また、江戸時代の風俗、事物を説明した喜田川守貞の『守貞漫稿』嘉永六年(1853)の五生業、茶漬屋の項には「茶漬屋 茶漬飯の略也」、「右の奈良茶、皇国食店の鼻祖(びそ)とも言うべし、今世江戸諸所に種々の名を付け、一人分三十六文、或は四十八文、或は七十二文の茶漬飯の店、挙て数べからず」とあり、飲食店の元祖と記している。


■ 江戸時代の人気料理「奈良茶飯」 河崎万年屋/奈良茶飯の図


「奈良茶飯」黒豆・小豆・栗入りの茶飯、シジミの赤だし、奈良漬(神奈川県立歴史博物館)

「万年屋」は、明和年間(1764-72)、十三文均一という安価で旅人に食事を出す一膳飯屋であったが、文化・文政の頃(1804-29)には、茶飯一人前四十八文で大いに繁昌したという。しかし、その後の庶民の旅への関心の高まり、川崎大師参詣者の増加によって、川崎宿内第一の茶屋に発展し、宿泊所としての施設も整え、江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したと言う。
文久年間の記録からみると、その規模は、当時の旅籠や茶屋のなかで最大ともいえるものであった。万年屋は、二階屋の表屋敷と別屋敷の二棟があった。表屋敷一階は間口11間半(約20.9m)、奥行12間(約21.8m)、畳数91、坪数123、二階は38畳20坪。別屋敷一階は間口5間半(約10m)、畳数27畳半、坪数24、同二階は36畳24坪であった。

■『東海道中膝栗毛』の“奈良茶飯”
名物の奈良茶飯とは、少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗などに季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものとされている。その繁栄の様子は、東海道の名所を絵画化して案内することを主眼とした『東海道名所図会』(寛政9年・1797)に「河崎万年屋・奈良茶飯」として挿絵に見え、『東海道中膝栗毛』(十返舎一九、享和2年・1802)では、弥次郎兵衛と喜多八のふたりが、この万年屋で”奈良茶飯”の食事を取っている。
東海道中膝栗毛には、『六郷の渉(わたし)をこへて、万年屋にて支度せんと、腰をかける』と出てくる。 江戸時代、多摩川の上流を入間川と呼び、下流を六郷川と呼び習わしていた。六郷の渉(わたし)とは、多摩川の下流にあった東海道における八幡塚村と川崎宿間の「渡し場」で渡し賃は、正徳元年(1711)以降は1人10文、荷物1駄15文、ただし、武士や僧侶は無賃だったという。
六郷川(多摩川)を越えて川崎の宿に入った弥次・喜多が、有名な万年屋で掛軸の鯉の滝のぼりを『この道中の茶屋では、どこでも床の間にひからびた花が活けあるな。 ほら、弥次さん。見てみろ、あの掛け軸。ありゃなんだ』 『ありゃ、お前、鯉の滝のぼりよ』『こりゃまた、鮒がそうめんを食ってるのかと思った』『ほら、無駄口をたたかないで、早く食え。汁がさめてしまう』『おや、いつのまに。どれどれ』などと無駄口を叩きながら、名物の奈良茶飯を奈良漬と一緒にお茶漬けにして、さらさらと食べるという昼食時の場面である。


屋台見世・居見世(店舗)の食事処の登場

■ 江戸の町の拡大と外食の始まり
江戸時代初期、武士も庶民も外食する習慣はなかったとされ、江戸の町には飲食店がなく、店舗(屋台見世)を構えて料理を提供する料理屋が現れ始めたのは、振袖火事と呼ばれた明暦の大火(明暦三年/1657)以降といわれている。江戸城本丸、天守閣、二の丸まで焼き尽くした明暦の大火で江戸の町は3分の2が焼失した。焼失した大名屋敷五百、蔵九千余、橋六十、旗本屋敷七百七十、町屋四百町、片町八百町、死者十万七千余人といわれる。明暦の大火を契機に、隅田川を越えて、本所・深川が開発されるなど、江戸の拡大が進んだ。

その焦土復旧作業のために諸国から大工、左官、鳶などの職人が集まり、食を取り巻く事情が変化した。単身者の多い江戸では“外食”が広まった。江戸の町には、気軽に飲食ができる煮魚、野菜の煮物などの煮炊きした惣菜類を店頭で売る辻店「煮売り屋」ができた。
【明暦の大火を経て大江戸が形成されるにつれて江戸の人口は、約15万人(寛永年間1624-44)から35万人(寛文年間1661-73)に増加したといわれる】
「煮売り屋」が繁盛するにつれ、寛政年間(1789-1800)には、店先で酒が飲める「煮売り酒屋」ができ、その後、店内で煮物の肴の他に飲酒(居酒といった)をさせる「煮売居酒屋(居見世)」ができた。


煮売り酒屋(辻売り屋台)/歌川広重画 「浄るり町繁花の図」嘉永5年(1852)
店先で酒を立ち飲みする武士。大皿・小皿には酒の肴の煮豆や煮しめが盛られている。提灯の「せうちう」とは焼酎のこと。


■ 江戸の火事防止で屋台文化が始まる
明暦の大火の後、江戸の各所に火災の延焼を防ぐための火除地(ひよけち)や広小路(ひろこうじ)と呼ばれる空地が設けられた。恒久建築物は禁じられたが、これらの空間(広場)を江戸の下層庶民たちは盛り場的な営業地とすることより、露天商である屋台見世(床見世)・葭簀張(よしずばり)の茶店、流れ巡業を行う芝居や見世物小屋、屋台が固定化した「小屋掛・居見世」「飯屋」ができ、庶民の食事処として登場してくる。


■ 屋台を利用する人々
江戸は参勤交代の武士やその奉公人・出稼ぎ人などの独身男性の多い町(男女比は男性が女性の1.5倍)であり、すぐに食べられ小腹を満たす安価な蕎麦などの手軽な屋台料理などの外食が発達した。
江戸の町の庶民の多くは長屋住まいである。寛文四年(1664)の『昔々物語』には「けんどん蕎麦切り」というものが出来て下々の者(庶民)はこれを買って食べたが、貴人(富裕層)には食べる者がないという記述があり、長屋住まいの庶民に屋台料理が定着していた様子がみられる。
屋台で食べる立ち食いであった鮨(4~8文)や天ぷら(1串4~6文)、天秤棒で屋台をかついで来て食べさせた蕎麦(一椀16文)、家で焼いて岡持(おかもち)という手桶に入れて売り歩くうなぎの蒲焼き(1串16文)。これらの外食文化をつくったのは、馬子や陸尺(駕籠を担ぐ人足)、日雇いなどの力仕事に従事するその日暮らしの庶民であった。


天ぷら屋台店(辻売り屋台)/鍬形蕙斎「近世職人尽絵巻」
1串4文。頭巾を被り、庶民に混じりながら、忍んで屋台に通う武士の姿が描かれている。


■ 屋台の種類
屋台には2 種類あり「担い屋台」と「辻売り屋台」があった。担い屋台は天秤棒で小さな屋台を肩に担ぎ、町々を移動しながら商売をする。辻売り屋台は、寺社の境内や門前・道端・あき地など、人の大勢寄る所へ仮設の店舗(屋台見世(やたいみせ))を組立てて移動せずに商う屋台を出して売る。「振り売り」形式の担い屋台は蕎麦や鰻蒲焼・田楽・甘酒などが、「立ち売り」形式の辻売り屋台は天麩羅や鮨が多かった。「二八蕎麦」という言葉が文献に登場するのは、享保(1716~36)の中頃である。だし、醤油などの調味料の向上が蕎麦の普及に拍車をかけた。担い屋台の「二八そば」一杯は、16文で寛文年間(1661~73年)に値段が決まり、幕末の1864年頃まで16文で約200年間変わらなかった。蕎麦は担い屋台の代表でもあった。
守貞謾稿の『近世風俗史』(1853)には「屋体見世(やたいみせ)すゑみせにて不要の時他に移す。屋台見世は鮨・天麩羅を専らとす。鮨と天麩羅の屋台見世は、夜行繁き所には毎町各三,四ヶあり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に屋台見世を置く」と書いてある。屋台は鮨・天麩羅などを扱い、夜中でも人の往来の多い所には各町に数店が出ていた。


■ 屋台から料理屋(居見世)へ
屋台見世の「てんぷら屋」では、飯つきで一人前が二十四文からせいぜい四十文で商われたという。嘉永年間になると、天ぷら屋台見世もしだいに高級化していき、安政年間(1854~1859年)になると、店構えの天ぷら店(居見世)が現れる。そして、天ぷらは、高級感のある立派な建物を建て、食事の提供だけではなく庭の雰囲気を座敷から楽しむことができる料理茶屋、今でいう料亭でも出されるようになった。

享保年間(1716~36年)以降に「蕎麦屋」という呼びが一般化しはじめた。それ以前は「慳貪(けんどん)屋」と呼ばれ、饂飩(うどん)と蕎麦を一緒に商うのが普通であった。享保年間の中頃(1720年代)には蕎麦屋が増え、江戸ではうどんよりも蕎麦が好まれるようになった。このころから夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようにもなっている。蕎麦屋は時代とともに店を構えるところが増えて、座敷をつくり、なかには立派な茶屋のようなそば屋も出現した。

向島、秋葉神社門前の料理茶屋「平岩」
鯉料理の有名な料理屋。天明期(1781‐89)
どじょう鍋(料理茶屋)

江戸時代は、17世紀を江戸前期(1600年~)、18世紀を江戸中期(1700年~)、19世紀を江戸後期(1800年~)として、3つの時期に分かれる。江戸初期の中頃に料理店(屋台見世)、江戸中期から料理屋(居見世)が出現し、追々に飯屋、蕎麦・うどん屋、寿司屋、うなぎ屋、茶漬け屋、天ぷら屋、さらには猪料理のももんじ屋などまでが開業した。江戸後期の1804年(文化元年)における江戸町奉行の調査では、江戸市中の食い物屋の数は約6,160軒に達したという。ちなみに、江戸時代末期1860年(万延元年)の調査では、夜鷹そば屋を除く江戸の蕎麦屋の数は約3,760軒であった。
料理屋(居見世)の鍋料理としては、江戸初期の『料理物語』(1643年)に、煮物の部に鍋焼があり、「なべ焼、みそ汁にてなべにて其まま煮候也。たい、ぼら、こち、何にても取あはせ候」とあって、みそ汁で煮る鍋料理であった。
江戸時代後期には、座敷に七輪や鍋を持ちだして食べるようになり、塩や味噌が主体だった調味料に濃口醤油やみりんが加わり、鍋料理が確立していく。江戸後期の「小鍋立て」の鍋料理の代表は「ねぎま鍋」「どじょう鍋」「あなご鍋」「しゃも鍋」「ぼたん鍋」などである。中でも一般的だったのが、どじょう鍋であった。鍋の値段は、鰌(どじょう)汁・鯨汁が一椀十六文、鰌鍋(どじょうなべ)四十八文である。(※:銭一文=江戸前期から中期で約20円~25円、江戸後期で約30円に相当)
また、江戸時代末期の幕府医官、喜多村直寛(香城)の随筆『五月雨草紙』には“竹輪・椎茸・野菜の煮染め、つみれ汁、飯、香の物”を1食百文で食べさせる定食屋も登場している。



江戸庶民の暮らし-長屋-

 (続)江戸庶民の暮らし - 表長屋と裏長屋・長屋の種類・江戸の水道・江戸の水売り … … 新しいページが開きます

■ その日稼ぎとその日暮らしの生活
江戸時代後期、文化年間に著された『世事見聞録(せじけんぶんろく)』には、「裏店(うらだな)借り、端々町家住居の族(やから)、青物売・肴(さかな)売都(すべ)て棒振りと唱るもの、日雇取り・駕籠かき・軽子・牛ひき・夜商ひ・紙屑買・諸職手間取等、惣(すべ)て我精力を練り、骨打業にて世渡る者共」とある。彼らはみな、「粉骨砕身して漸(ようや)く其日を過、明日の手当なく」という生活ぷりであった。
 江戸時代、三都と称されたのは江戸・大坂・京都である。それら三都の町人(庶民)の多くを占めたのが裏店(うらだな)に住む人々であり、その代表的な職業が「其日稼」であった。一般庶民の「其日稼」とは、自分の店舗を持たず、商品を売り歩いた行商人(「振売」ふりうり、「棒手振」ぼてふり、と云う)、短期契約の肉体労働や雑務など日雇いを生業にする者たちである。「其日稼」の者(庶民)たちは文字通り「その日」の「稼ぎ」で生活し、日々貨幣を手に入れていた。町人地の日銭稼ぎの住人にとっては、醤油・味噌と米・魚・蔬菜(そさい)などの食費や薪代などの燃料費と長屋の家賃が大きな支出費目であった。彼らは、日々の稼ぎの範囲で貨幣を使用して、その日暮らしの生活をしていた。江戸っ子の「宵越しの銭は持たない」という言葉があるように、当然、蓄えなどはほとんど無かった。それでも、庶民たちは「金は天下の回りもの。なんとかならぁな」とたくましく暮らしていた。

■ 江戸庶民の住い長屋
江戸時代の庶民は基本的に長屋に住んでいた。多くの江戸庶民の住まいでは、江戸町人といわれた中堅の商人や職人層(地借家持)は主に表通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。一方、表通りで、商売を営む家屋敷を保有できない駄菓子や小間物、荒物などを商う小商人(こあきんど)などは、表通りに面して建てられた「表長屋」(表店,おもてだな)といわれる店舗と住まいを兼ねた二階建ての長屋を借りた。また、農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農、職人や日雇人夫、最下層の武士などは、表通りの裏手の路地中に建てられた「裏長屋」(裏店,うらだな)で暮らしていた。

■4畳半の家族生活
長屋とは、細長い家を棟と直角に切り割って、数軒から十軒前後に分けた連棟式集合住宅で、標準的な部屋が間口九尺(約2.7m)、奥行二間(約3.6m)の約3坪ほどの小さな住まいである。腰高障子と呼ばれる戸口を開けると、土を突き固めた土間に竈(かまど)と流し、そして水瓶がある程度で、台所兼土間が1畳半、部屋が4畳半の計6畳といったところ。ここにだいたい家族3~5人で暮らしていた。
文化文政(1804~1830年)頃の裏長屋の家賃(店賃)は、月300~500文程度であった。物価が上がった幕末頃は、九尺二間の店賃が500~600文だったという記録がある。
長屋の土地と建物(長屋)の所有者とは別に管理人がおり、その管理人を「大家(おおや)」といった。大家というのは、その呼名からして長屋の所有者だと思われがちだが、実は、家守(やもり)といい、土地・家屋の所有者である地主から長屋の管理を委託された使用人である。


『棟割長屋[9尺2間]、部屋の様子』
棟割長屋は、それぞれが粗末な薄い壁で仕切られ、3方は壁というもの。押入れも窓もないところで、1家族で生活した。その長屋の内部は、まず、腰高障子と呼ばれる戸を開けると、玄関と台所を兼ねた土間がある。広さ一畳半くらいの土間には、煮炊きする竈(かまど)と木製の流しが備え付けられていて、井戸で汲んできた水を入れる瓶のほか、食器類や鍋、ざる、燃料となる薪などが置かれていた。草履を脱いで部屋に上がると、四畳半ほどしかない部屋には神棚が飾られ、壁際にはタンス、床には行灯(あんどん)が置かれている。部屋の隅っこには、布団がくるりとたたまれていた。
押し入れがないので衣類は行李(こうり)などに入れて部屋の隅に置き、布団はたたんで部屋の隅に枕屏風で隠しておく。水は共同井戸から汲んで、土間にある竈(かまど)横の水瓶に入れていた。ご飯を炊いて、味噌汁を作る以外に、おかずをこしらえる余地もなかった。あとは表に出した七輪で魚を焼くくらい。その七輪も長屋で貸し回すのが普通で、2~3軒に1個くらいしかなかった。自分用の飯茶碗、汁椀、皿と箸の食器は収納兼用の箱膳(はこぜん)を使った。長火鉢は木炭を使った暖房器具で、鉄瓶を乗せて湯を沸かしたり、鍋をしたり、お酒の燗をつけることができる便利なもの。片側に引出しが付いており、湯飲みや酒器、タバコが保管できるので、収納スペースが無い長屋では重宝した。


■ 表長屋と裏長屋
長屋の地主は主に表通りに家を持っていた。長屋には表店(おもてだな)「表長屋」と裏店(うらだな)「裏長屋」があった。店とは家のことをいう。表通りに面して建てられたのが「表店」。表店に住めるのは、表通りに土地を借りて自分の家や店を持つ地借家持ち中堅の商人・高給取りの職人の親方衆や大店の番頭クラスが住み、二陪建てもめずらしくはなかった。
一方、表店の路地を入ったところに並んでいるのが「裏店」。庶民を代表する職人たちの多くはこの裏店に仕み、家賃を日払いで納めていた。裏店の裏通りの住人は家を持たない“借家人”で、その職種は基本的には職人や棒振商人が多く、はっきりと住みわけの状態がみられる。
江戸において土地家屋を所有しないものを店借人(たながりにん)といい、この中でも表通りに面する家に住んでいたのが表店借=地借家持で、表通りで家や店を構えた中堅の商人や職人層である。店子は土地も家も持たない借家人で、路地裏に住む裏店借「裏長屋の住人」である。
裏長屋に住む店子の身分や職業はさまざまで、店の奉公人や職人(大工や左官、鳶職)、行商人(棒手振り・他)、浪人、下級の芸人など、江戸の大部分の庶民が生活していた。


表店のある表長屋の間に路地があり、そこから裏長屋への出入り口には「長屋木戸(ながやきど)」があった。長屋木戸は、朝の「明け六つ」(午前6時)に開けて、夜は「暮れ六つ」(午後6時)に閉めていた。長屋木戸の鍵は家守(大家)が持っていることが多かった。長屋は二棟で向かい合って建てられ、幅三尺(約90cm)の狭い路地の真ん中に、幅三寸(9cm)ほどの溝(どぶ)板が走り下水が流れていた。路地の突き当りには、ちょっとした空き地があって、そこに、共同井戸、掃き溜め(共同のごみ箱)、惣後架(そうごうか=共同便所)があった。また、大家は多くの場合、長屋の入り口付近の1軒に住んでいた。
(江戸の町には、町の防犯を担うための「町木戸」や 「長屋木戸」と呼ばれる門が設置されていた。表店のある表長屋の路地には、「町木戸」があって木戸番が木戸の管理を行っていた。「長屋木戸」とは違って「町木戸」の開閉時間は、朝は「明け六つ」(午前6時)に開けて、夜は「夜四つ」(午後10時)に閉めていた。このように、表店のある表通りの町木戸と裏長屋の路地にある長屋木戸の門を閉める時間が違っていた。)



長屋住人の生業と振売りの種類

■ 振売り(棒手振り)商売
『守貞謾稿』天保八年(1837)には、振売について「三都(江戸・京都・大坂)ともに小民の生業に、売物を担い、あるいは背負い、市街を呼び巡るもの」とあって、江戸市中いたるところ振売りがいた。振売は火気を持ち歩かず、主に生の食材や調味料、調理済みの食品を売り歩くのが特徴で、食品を扱う商売のなかでも、特別な技術や知識が不要、店を構えるための権利なども不要だったので、簡単に開業する事が出来た。そのため振売は社会的弱者のための職業とされており、幕府は振売のための開業許可を50歳以上の高齢者か15歳以下の若年者もしくは身体が不自由な人物に与える、と触れ書きを出した。


『東海道五拾三次之内 日本橋・朝之景』  歌川広重 天保4-5年(1833-34)
大木戸が開かれた日本橋の早朝の景色。朝焼けを背景に日本橋を渡り国元に帰る参勤交代の大名行列が日本橋を渡り始める。
手前には魚河岸で仕入れた魚とまな板を桶に入れて天秤棒を担ぐ魚売りや野菜売りの行商人たち、右端には2匹の犬の後姿が描かれている。

長屋に住む下層の庶民は、大工・左官・畳細工・屋根葺(やねふき)・鋳掛師(鍋・釜の修理)などの職人や手習師匠のように特別な技術がなくとも、“振売り・棒手振り”などと呼ばれる、天秤(てんびん)棒を担いで魚・青物(野菜)などを売り歩く行商なら誰でも開業できた。
長屋に住む多くの人は、天秤棒を担いで多種多様な商品を小売りする行商人であった。その行商人は、「一色商い(ひといろあきない)」といって、食材や生活雑貨など、一つの品物を専売するのが主流で、商う品物は一種類か、多くても2、3種類だったので、仕入れも簡単で素人でもその日からはじめられるほどだった。
長屋の人々の多くは、振売りを業としながら、自らも振売りから食材を購入し、白米と漬物、季節の野菜類の煮物を中心とし、時々いわし、塩鮭など魚類を加えた食生活を営んでいた。

■ 振売の売り物
長屋に住む人々の多くが携わっていたという振売り(行商人)には、実に細かな仕事があった。
『守貞謾稿』(1837)の食に関わる「振売り」商品を挙げてみると次のものがあった。
  • 乾物売り、鮮魚売り、鰻蒲焼売り、鳥貝・ふか刺身売り、白魚売り、むきみ売り、しじみ売り、ゆで卵売り、鮨売り、いなご蒲焼き売り、塩辛売りなどの動物性食品。
  • 蔬菜(そさい)売りには、瓜や茄子などを売る前菜(野菜)売り、松茸売り、生唐辛子売りなど。
  • 加工調理品では、豆腐売り、納豆売り、漬物売り、甘酒売り、乾物売り、乾海苔売り、蒸し芋売り、揚昆布売り、麹売り、唐辛子粉売り、ゆで豆売り、嘗め物売り、ところてん売りなど。
  • 調味料には、塩売り、醤油売り。嗜好品では、菓子売り、白玉売り、岩おこし売り、飴売り、冷や水売り(砂糖水売りと)など


長屋「振売り住人」の一日

毎日の生活費を得るために日銭を稼ぐ裏長屋の野菜売り住人の一日は次のようであった。
「亭主の振売りは毎日600~700文くらいの元手を持って、早朝に家を出て市場で野菜を仕入れる。天秤棒で商品を担ぎ、売り声を上げながら町々を1日歩いて売って帰り、1日の儲けは400~500文。女房に生活費として300文くらいを渡す。これが米代や味噌、醤油、油代、子供のおやつ代などに使われ、そこから翌日の仕入れ代を引くと、せいぜい100~200文が残る生活であった。」
天秤棒に野菜籠をつけて売り歩いていても、三人の家族を養うことができた。
(文政年間(1818~1829)の価格、米は1.3升/銭100文、味噌は6匁/銭100文、酒(上)は4合/銭100文、醤油1升は銭188文、練馬大根は銭8文、串団子・桜餅は銭4文)

万治元年(1658)の幕府の調査では、振売りの数は江戸北部だけで5900人、50の職種に及んでいたという。その収入は、扱う品目にもよるが、おおよそ1日400文ほどであったという。


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『文政年間漫録』栗原柳庵より(文政年間1818~29年)

「長屋の住人の一日」菜蔬売り(さいそうり)

菜籠(なかたま)を担(かたけ)て晨朝(しののめ=卯の刻。現在の午前6時ごろ) に銭六,七百を携え、蔓菁(かぶらな)・大根・蓮根・芋を買い、我力のあるかぎり、肩の痛むのも 屑(かず)とせず、脚に信(まか)せて、巷(ちまた)を声ふりたて、蔓菁めせ、大根はいかに、蓮(はす)も候(そろ)、芋や芋やと呼ばりて、日の足もはや西に傾くころ家に還(かえ)るを見れば、菜籠に一擲(つかみ)はかりの残れるは、明朝の晨炊(あさげ)の儲なるべし。
家には妻いぎたなく昼寝の夢まだ覚めやらず、懐にも背にも 幼稚(おさな)き子ら二人ばかりも横竪に並臥(ならびふし)たり。夫は我家に入て菜籠かたよせ、竈(へっつい)に蒔(まき)さしくべ、財布の紐(ひも)とき翌日の本貨(もとで)を算除(かぞえのき)、また房賃(たなちん)をば竹筒へ納めなどするころ、妻眠をさまし、精米(こめ)の代(しろ)はと云う。すはと云て二百文をなげ出し、与うれば、味噌もなし、 醤(しょうゆ)もなしと云う。又五十文を与う。妻小麻筒(あさばこ)を抱て立出(たちいず)るは、精米を買いに行なるべし、子供這起(はいおき)て、爺々(とと)、菓子の代(ぜに)給(たまえ)と云う。十二、三文を与うれば、これも外の方へ走出づ。
然(しかして)なお残る銭百文余または二百文もあらん。酒の代(しろ)にや為(なし)けん。積(のこし)て風雨の日の心充(あ)てにや貯(たくわ)ふるらん。これ其日稼(そのひかせぎ)の軽(かろ)き商人の産(かせぎ)なり。但し是は本貸(もとで)を持し身上なり。
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夜明けとともに銭六百文から七百文を持って、かぶ菜・ダイコン・レンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。江戸の町を「かぶらなめせ、大根はいかに、蓮も候、芋や芋や」と、売り声を上げて西日が傾くまで必死に野菜を売り歩いた。日が沈んだころ、菜籠の中には一にぎりぐらいの野菜が残っているが、これは明日の味噌汁の実になる。
家に帰り着き菜籠を置き、かまどに薪をくべてから財布を取り出して、売り上げからまずは明日の仕入れ代金を取り除き、家賃にあてるぶんは竹筒に収めた。そのとき、ようやく昼寝から覚めた女房が「米代は?」と手を出す。二百文を与えると「味噌も醤油も切らしているけど」と言う女房に、また五十文が渡される。女房が買い物に出ると、今度は子どもの番だ。菓子代に十二文が消えた。
彼の手元に残ったのは百から二百文ばかりの銭だ。それを手に「さてと一杯飲ませてもらおうか」「いやいや明日は雨になるかもしれない。それに備えねば」と思案する。

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■「菜蔬(さいそ)売り」
江戸三大市場と呼ばれたのが、神田、千住、駒込の市場である。そのほかにも、品川や下谷、本所、両国など各地に青物市場が生まれた。青物市場で商われた野菜は、町の八百屋で売られたほか、棒手振りが天秤棒に担いで町中を売り歩いた。
菜蔬売りは数種の野菜を売り、現在と同様に八百屋と呼ばれていた。江戸では、瓜や茄子などを一二種だけ籠に入れて天秤棒に架けて担ぎ売るのは前菜(ぜんさい)売りといい、八百屋とは分けて呼んでいた。江戸時代には、野菜は一般に青物(あおもの)と呼ばれ、野菜は行商の野菜売りから買っていました。



『守貞謾稿』(1853)の「菜蔬売り」の項には、
「三都ともに菜蔬を俗に青物と云う 因之売之買を青物売とも云う 菜蔬店菜蔬見世とも八百屋とも云う」、「江戸にては瓜茄子等一種を専ら持ち巡る者を前菜売と云う 京阪にては是をもヤオヤと云う」
「前菜売りは数品を携ず瓜茄子の類或いは小松菜等 一、二種を売りを云い、八百屋は数種を売るの名なり」
とある。




■ 青物(野菜)・・・ 『絵でみる江戸の食ごよみ』著者: 永山 久夫 より
「瓜や茄子など一、二種だけを売り歩く者を江戸では前菜売り(ぜんさいうり)と呼び、数種類の野菜を売る者を八百屋という。京坂(京都・大坂)・江戸とも菜蔬(さいそ)を青物といい、青物を扱う店を菜蔬店、青物見世、八百屋というと記している。
江戸が発展して人口が増え、大都市になると、料理を専門にする店はもちろん、一般家庭においても、野菜の需要は年ごとに増加。それらのほとんどは、江戸周辺の農村から供給されていました。 元禄十年(1696)の『農業全書』によって、野菜のごく一部をあげてみると。だいこん、かぶ、にんじん、ねぎ、にんにく、ごぼう、ほうれんそう、かぼちゃなどで。現在でも流通している主要野菜のほとんどは、すでに栽培され出回っていました。
江戸の町の野菜の流通は、店売りと担い売りとがあり、「守貞漫稿」によれば、「菜疏(さいそ)売り」として、「俗に三都(京・大坂・江戸)とも八百屋といい、やおやと訓む。また、江戸ではうり、なすなど一種を、もっぱら持ち歩くものを前栽(ぜんさい)売りという。京板(京・大坂)では、これも八百屋という。その服装(前栽売り)は定まりがなく、その籠は三都とも大同小異である」とあります。
さらに、「前栽売りは、数品をもたず、うり、なすのたぐい、あるいは小松菜など、一、二種を売るのをいう」。一方の八百屋については、「八百屋は数種類を売るところから、この名前になったものと思われる」としています。
「前栽売り」という呼ひ名は江戸だけのもので。三都ともに、野菜を「青物」とも呼びました。したがって、野菜を扱う商売は、すべて「青物売り」で、青物見世とか八百屋という場合もあります。
江戸には、神田や本所、千住、品川などに野菜市場があり、出商いの青物売りは、これらの市場で仕入れて、売り出したようです。 一方で、近在の農家では、自分の畑で作ったものを一種類か二種類くらい持って、町場を売り歩く場合もありました。
「前栽」には庭先で作ったものという意味があり。もともとは農家か手作りした野菜を売ることをいいましたが、後になって、野菜の行商すべてを意味する言葉となったようです。」


『守貞謾稿』(1853)の「菜蔬」(江戸野菜)
『守貞謾稿』には、菜蔬、即ち食用になる植物を俗に「青物」と云い、これを扱う市が神田・本所・千住・品川等にあるという。神田・千住に、ここには記されていないが駒込を加えて三場所と言う。千住・品川・駒込は、江戸への入口である。神田の青物市は江戸城御用を務めたが、江戸郊外からの流入を扱うという点では立地が劣っていた。青物は、船・歩行等で江戸の市へと運び込まれた。店を構えた八百屋以外に、天秤棒に架けた籠を用いて、瓜・茄子等、品数を限って市中で青物(江戸野菜)を販売する前菜売りがいた。
「三都ともに菜蔬を俗に青物と云因之売之買を青物売とも云菜蔬店青物見世(みせ)とも八百屋とも云・・・菜蔬も市をふること魚市に同じ江戸も菜蔬は京坂と同く市を振る神田連雀町辺本所花街又千住駅品川駅にも菜蔬市あり」、「江戸にては瓜茄子等一種を専ら持ち巡る者を前栽(せんざい)売と云京坂にては是をもやおやと云其扮無定其籠も三都大同小異也・・・前栽売京坂有其業無此名也」

【庶民の食事を支えた江戸野菜】

江戸野菜 写真:茶堂~chadeau~/http://www.chadeau.com/16090501/

江戸の近在近郷で栽培をされていた江戸野菜には、品川カブとネギ、目黒の筍、内藤南瓜と唐辛子、鳴子瓜、練馬大根、雑司ヶ谷茄子、早稲田の茗荷、駒込の茄子、滝野川人参と牛蒡、谷中生姜、三河島菜、寺島の茄子、亀戸大根、小松菜、そして砂村の葱などがある。
この内、練馬大根は江戸の歌人、歌学者戸田茂睡が残した紀行文『紫の一本』(天和3年〈1683〉刊)にも特筆されている。武蔵野の村々の民家が夥しく増え、「瓜・茄子を初め菜・大根などすべての野菜を毎日毎日江戸へ付け出す」とし、さらに料理屋の奥の中二階に上がると、「ねりま大根、岩槻牛蒡、笠井菜、芝海老、千住ねぎを、とりかえとりかえ馳走する」との記述がある。17 世紀後半には、武蔵野台地上の村々において江戸への販売を前提とした商品作物の生産が本格化しており、また名産野菜として料亭などで供されていたことも明らかであった。

【地廻り経済圏と江戸野菜】
江戸の町は、当初、上方から来る商品にたよっていたが、18世紀以降、関東周辺の村々からの地廻り物(荷物)が増加し、江戸地廻り経済圏が成立した。塩、酒、醤油、米などがその例である。野菜については、参勤交代により各地の野菜が江戸に持ち込まれ、江戸にも産地が生まれた。練馬大根や、小松菜、谷中(やなか)ショウガなどがその代表で、「江戸野菜」とよぱれている。





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