江戸の外食文化 <江戸外食文化の始まりと長屋住い>
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文化2年(1805年)頃の日本橋通りを描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」の一部

江戸外食文化の始まりと長屋住い
江戸の外食文化の始まり

日本の外食文化は、江戸時代前期に起こった浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まり、後期には八百善のような高級料亭も誕生するようになった。江戸の外食産業の始まりは、天秤棒で商品をぶら下げて売り歩く「振売り(ふりうり)」と、加熱調理をした飲食を提供する「焼売・煮売屋(にうりや)」であった。続いて、振売りから発展した料理を提供する「屋台」(持ち歩き形式)や店舗を構え商品を提供する「煮売茶屋(にうりちゃや)」と呼ばれる形態ができ、煮売茶屋がさらに発展して「料理茶屋」になり、この料理茶屋がさらに、贅(ぜい)をこらした高級料理茶屋の「料亭」へと進化した。

江戸時代初期、江戸の町には飲食店がなく、飲食店が現れ始めたのは明暦の大火(1657)年以降といわれている。井原西鶴の『西鶴置土産』によると明暦の大火後、浅草金竜山〈待乳山〉門前の「茶屋」が緑茶で炊いた奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆など)を器に盛って客に供した茶漬飯を「奈良茶飯(ならちゃめし)」と名付けたとある。この後、江戸市中に多くの奈良茶茶屋(ならちゃぢゃや)が広まった。一般的に奈良茶茶屋が「料理茶屋」の元祖といわれている。

「奈良茶飯」の飯屋ができ、続く寛文四年(1664年)頃には、麺にした蕎麦を食べる「慳貪(けんどん)蕎麦切」、浅草寺の境内には「正直蕎麦」という蕎麦屋ができた。屋台の始まりは、江戸の享保年間(1716〜1736)で、天明年間(1781〜1789)以後、さかんになったと言われている。屋台から店内で飲食させる「居見世(いみせ)」が現れ、蕎麦屋、 鰻屋(蒲焼き)、鰻飯屋(丼飯)、すし屋、天ぷら屋などの外食店ができた。ちなみに、うなぎを蒲焼きで食するようになったのが元禄時代(1688~1703)以降、天ぷらの串揚げは天明年間(1781~89)に登場し、安政期(1854~1859年)の頃には、店構えの天ぷら屋が現れ、料亭でも「天ぷら」が出されるようになる。江戸前握りずしは文化・文政期(1804~30)に江戸の町に登場したといわれている。


奈良茶飯

■江戸・外食産業のきっかけとなった「奈良茶飯」
明暦の大火(1657年)以降、江戸で外食産業のきっかけとなったのが、浅草金龍山の門前にできた「奈良茶飯屋」だと言われている。奈良茶飯は、煮出した茶に大豆・小豆などを入れて塩味で炊いた茶飯に汁や煮豆を添えたといわれている。これが江戸時代に庶民の間に広まって、江戸の町中に多くの奈良茶飯屋ができた。この流行ぶりは江戸市中だけにとどまらず、あちこちの宿場でも奈良茶飯を提供する店ができた。
明暦の大火から30年ほどたった元禄六年 (1693年) に出版された『西鶴置土産』には『近キ比、金龍山ノ茶屋ニ一人五分ヅヽノ奈良茶ヲ仕出シケルニ、器ノキレイサ色々調ヘ、サリトハ末々ノ者ノ勝手能コト也、中々上方ニモカヽル自由ナシ云々』とあり、ちかごろ浅草金竜山の茶屋で一人前、銀五分の奈良茶飯を売りだしたが、こぎれいな器に盛り付け、町人たちによろこばれている。上方には、こんな便利な飯屋はないと書かれている。(銀目五分は、約28文から30文)

『料理献立早仕組』飯之部、天保四年(1833年)に記述の「奈良茶飯」では「いかにもよきせんじ茶をとくとくとせんじて飯の水かげんにして焚こと世にしれるごとくなれども、塩にて味を付たるは悪し、たとえば壱升の飯なれば中盒(なかかさ)さに醤油一はい酒一杯入れて焚くべし、風味格外なり」とある。

また、江戸時代の風俗、事物を説明した喜田川守貞の『守貞漫稿』嘉永六年(1853年)の五生業、茶漬屋の項には「茶漬屋 茶漬飯の略也」、「右の奈良茶、皇国食店の鼻祖(びそ)とも言うべし、今世江戸諸所に種々の名を付け、一人分三十六文、或は四十八文、或は七十二文の茶漬飯の店、挙て数べからず」とあり、飲食店の元祖と記している。


■江戸時代の人気食「奈良茶飯」 河崎万年屋/奈良茶飯の図

「万年屋」は、明和年間(1764-72)、十三文均一という安価で旅人に食事を出す一膳飯屋であったが、文化・文政の頃(1804-29)には、茶飯一人前四十八文で大いに繁昌したという。しかし、その後の庶民の旅への関心の高まり、川崎大師参詣者の増加によって、川崎宿内第一の茶屋に発展し、宿泊所としての施設も整え、江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したと言う。
文久年間の記録からみると、その規模は、当時の旅籠や茶屋のなかで最大ともいえるものであった。万年屋は、二階屋の表屋敷と別屋敷の二棟があった。表屋敷一階は間口11間半(約20.9m)、奥行12間(約21.8m)、畳数91、坪数123、二階は38畳20坪。別屋敷一階は間口5間半(約10m)、畳数27畳半、坪数24、同二階は36畳24坪であった。

その繁栄の様子は、東海道の名所を絵画化して案内することを主眼とした『東海道名所図会』(寛政9年・1797)に「河崎万年屋・奈良茶飯」として挿絵に見え、『東海道中膝栗毛』(十返舎一九、享和2年・1802)では、弥次郎兵衛と喜多八のふたりが、この万年屋で”奈良茶飯”の食事を取っている。
(東海道中膝栗毛には『・・・それより六郷の渉(わたし)をこへて、万年屋にて支度せんと、腰をかける。・・・』と出てくる。 江戸時代、多摩川の上流を入間川と呼び、下流を六郷川と呼び習わしていた。六郷の渉(わたし)とは、多摩川の下流にあった東海道における八幡塚村と川崎宿間の「渡し場」で渡し賃は、正徳元年(1711)以降は1人10文、荷物1駄15文、ただし、武士や僧侶は無賃だったという。六郷川(多摩川)を越えて川崎の宿に入った弥次・喜多が、有名な万年屋で掛軸の鯉の滝のぼりを『この道中の茶屋では、どこでも床の間にひからびた花が活けあるな。 ほら、弥次さん。見てみろ、あの掛け軸。ありゃなんだ』 『ありゃ、お前、鯉の滝のぼりよ』『こりゃまた、鮒がそうめんを食ってるのかと思った』『ほら、無駄口をたたかないで、早く食え。汁がさめてしまう』『おや、いつのまに。どれどれ』などと無駄口を叩きながら、名物の奈良茶飯を奈良漬と一緒にお茶漬けにして、さらさらと食べるという昼食時の場面である。)
名物の奈良茶飯とは、少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗などに季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものとされている。



屋台見世・居見世(店舗)の食事処の登場

煮売り酒屋(辻売り屋台)
店先で酒を立ち飲みする武士。大皿・小皿には酒の肴の煮豆や煮しめが盛られている。
提灯の「せうちう」とは焼酎のこと。
天ぷら屋台店(辻売り屋台)
1串4文。頭巾を被り、庶民に混じりながら
忍んで屋台に通う武士の姿が描かれている。
鍬形蕙斎「近世職人尽絵巻」東京国立博物館蔵
■江戸の町の拡大と外食の始まり
江戸時代初期、武士も庶民も外食する習慣はなかったとされ、江戸の町には飲食店がなく、店舗(屋台見世)を構えて料理を提供する料理屋が現れ始めたのは、振袖火事と呼ばれた明暦の大火(明暦三年/1657)以降といわれている。江戸城本丸、天守閣、二の丸まで焼き尽くした明暦の大火で江戸の町は3分の2が焼失した。焼失した大名屋敷五百、蔵九千余、橋六十、旗本屋敷七百七十、町屋四百町、片町八百町、死者十万七千余人といわれる。明暦の大火を契機に、隅田川を越えて、本所・深川が開発されるなど、江戸の拡大が進んだ。

その焦土復旧作業のために諸国から大工、左官、鳶などの職人が集まり、食を取り巻く事情が変化した。単身者の多い江戸では“外食”が広まった。江戸の町には、気軽に飲食ができる煮魚、野菜の煮物などの煮炊きした惣菜類を店頭で売る辻店「煮売り屋」ができた。
【明暦の大火を経て大江戸が形成されるにつれて江戸の人口は、約15万人(寛永年間1624-44)から35万人(寛文年間1661-73)に増加したといわれる】
「煮売り屋」が繁盛するにつれ、寛政年間(1789-1800)には、店先で酒が飲める「煮売り酒屋」ができ、その後、店内で煮物の肴の他に飲酒(居酒といった)をさせる「煮売居酒屋(居見世)」ができた。

■江戸の火事防止で屋台文化が始まる
明暦の大火の後、江戸の各所に火災の延焼を防ぐための火除地(ひよけち)や広小路(ひろこうじ)と呼ばれる空地が設けられた。恒久建築物は禁じられたが、これらの空間(広場)を江戸の下層庶民たちは盛り場的な営業地とすることより、露天商である屋台見世(床見世)・葭簀張(よしずばり)の茶店、流れ巡業を行う芝居や見世物小屋、屋台が固定化した「小屋掛・居見世」「飯屋」ができ、庶民の食事処として登場してくる。

■屋台を利用する人々
江戸は参勤交代の武士やその奉公人・出稼ぎ人などの独身男性の多い町(男女比は男性が女性の1.5倍)であり、すぐに食べられ小腹を満たす安価な蕎麦などの手軽な屋台料理などの外食が発達した。
江戸の町の庶民の多くは長屋住まいである。寛文四年(1664)の『昔々物語』には「けんどん蕎麦切り」というものが出来て下々の者(庶民)はこれを買って食べたが、貴人(富裕層)には食べる者がないという記述があり、長屋住まいの庶民に屋台料理が定着していた様子がみられる。
屋台で食べる立ち食いであった鮨(4~8文)や天ぷら(1串4~6文)、天秤棒で屋台をかついで来て食べさせた蕎麦(一椀16文)、家で焼いて岡持(おかもち)という手桶に入れて売り歩くうなぎの蒲焼き(1串16文)。これらの外食文化をつくったのは、馬子や陸尺(駕籠を担ぐ人足)、日雇いなどの力仕事に従事するその日暮らしの庶民であった。

■屋台の種類
屋台には「担い屋台」と「辻売り屋台」があった。担い屋台は天秤棒で小さな屋台を担ぎ、町々を移動しながら商売をする。辻売り屋台は、寺社の境内や門前・道端・あき地など、人の大勢寄る所へ仮設店舗(屋台見世(やたいみせ))を組立てて移動せずに商う屋台を出して売る。「振り売り」形式の担い屋台は蕎麦や鰻蒲焼・田楽・甘酒などが、「立ち売り」形式の辻売り屋台は天麩羅や鮨が多かった。「二八蕎麦」という言葉が文献に登場するのは、享保(1716~36)の中頃である。 担い屋台の「二八そば」一杯は、16文で寛文年間(1661~73年)に値段が決まり、幕末の1864年頃まで16文で約200年間変わらなかった。
守貞謾稿の『近世風俗史』には、「屋体見世(やたいみせ)すゑみせにて不要の時他に移す。屋台見世は鮨・天麩羅を専らとす。鮨と天麩羅の屋台見世は、夜行繁き所には毎町各三,四ヶあり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に屋台見世を置く」と書いてある。屋台は鮨・天麩羅などを扱い、夜中でも人の往来の多い所には各町に数店が出ていた。

■屋台から料理屋へ
向島、秋葉神社門前の料理茶屋「平岩」
鯉料理の有名な料理屋。天明期(1781‐89)
どじょう鍋(料理茶屋)
屋台見世の「てんぷら屋」では、飯つきで一人前が二十四文からせいぜい四十文で商われたという。嘉永年間になると、天ぷら屋台見世もしだいに高級化していき、安政年間(1854~1859年)になると、大きな店構えの天ぷら店(居見世)が現れる。天ぷらは「料亭」でも出されるようになった。

享保年間(1716~36年)以降に「蕎麦屋」という呼びが一般化しはじめた。それ以前は「慳貪(けんどん)屋」と呼ばれ、饂飩(うどん)と蕎麦を一緒に商うのが普通であった。享保年間の中頃(1720年代)には蕎麦屋が増え、江戸ではうどんよりも蕎麦が好まれるようになった。このころから夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようにもなっている。蕎麦屋は時代とともに店を構えるところが増えて、座敷をつくり、なかには立派な茶屋のようなそば屋も出現した。

料理屋(居見世)の鍋料理としては、江戸初期の『料理物語』(1643年)に、煮物の部に鍋焼があり、「なべ焼、みそ汁にてなべにて其まま煮候也。たい、ぼら、こち、何にても取あはせ候」とあって、みそ汁で煮る鍋料理であった。
江戸時代後期には、座敷に七輪や鍋を持ちだして食べるようになり、塩や味噌が主体だった調味料に濃口醤油やみりんが加わり、鍋料理が確立していく。江戸時代後期の「小鍋立て」の鍋料理の代表は「ねぎま鍋」「どじょう鍋」「あなご鍋」「しゃも鍋」「ぼたん鍋」などである。中でも一般的だったのが、どじょう鍋であった。鍋の値段は、鰌(どじょう)汁・鯨汁が一椀十六文、鰌鍋(どじょうなべ)四十八文である。(※:銭一文=江戸前期から中期で約20円~25円、江戸後期で約30円に相当)
また、江戸時代末期の幕府医官、喜多村直寛(香城)の随筆『五月雨草紙』には“竹輪・椎茸・野菜の煮染め、つみれ汁、飯、香の物”を1食百文で食べさせる定食屋も登場している。



江戸庶民(町人)の身分制度

江戸は享保期(1716 ~ 1736)には武家、寺社、町人を合わせて人口100 万人を超えた。江戸の町は1657年に起こる江戸市街の大半を焼いた明暦の大火以降、武家地・町人地の区切りがはっきりするようになる。城下町においては、 それぞれ身分に応じて武家地、 寺社地 、町人地の三つに配分された。この時代、江戸市内の土地の占有率は、60%が武家の屋敷地で、20%が町家、15%が寺で、残りの5%が神社であった。町人地の人口密度は非常に高く、1k㎡当たりに5万人もの人が住んでいた。(現在の東京23区の人口密度は1万4千人)



■庶民が住む「町民地」には身分に違いがあった
江戸庶民が住む「町民地」は、大体、表通り(大通り)と裏通り(裏路地)に仕切られた区画になっていた。町人のあり方は一様ではなかった。町人は主に、二つに分かれ、土地と屋敷を持つ商人・職人を「町人」と呼んだ。「町人」という言葉は、家屋敷を所有する「地主(家持町人)」や長屋の管理を任されている「家守(やもり)」(大家)をさす言葉であった。(大家・屋守は通称で、公式の書類では家主と記録されていた)

江戸に住む庶民の中にも「町人(地主・家主)」「地借(じがり)」「店借(たながり)」「借家(しゃくや)」という系列身分があった。町人とは、厳密には「地主・家主として町政に参加する人々」に限られた。したがって、宅地を借りてそこに家を建てて住む地借や、家屋を借りて住む店借・借家は、町人とは見なされなかった。江戸では、住民の約70%を店借・借家が占めた。本当の意味(狭義)での町人(地主・家主)は30%しかいなかった。

表通りに土地を持ち、家や店を構えている大商人や御用達(ごようたし)職人の棟梁といった旦那や親方衆が町人である。ほかに表通りに面した土地を借り、自分で店舗を建築して営業する小規模な商家・地借店持(じがりたなもち)もいたが、これらは町人ではなかった。
江戸時代は土地を所有するかどうかで町人の身分が決まった。したがって地主(家持)とこれに準じる家守(大家)は正式の町人として町政の構成員に席をつらね、借家人は一人前の町人として認められていなかった。町人とそれ以外の者の違いは家屋敷を保有しているか否かであった。家を持たない借家人は町人ではなかった。
江戸には表通りに土地を借りて、家や店を構えた中堅の商人や職人層である地借家持(じしやくいえもち)や長屋住人である店借(たながり)の店子(たなこ)と呼ばれる土地も家も持たない借家人などの様々な身分の人々がいた。店子の身分や職業もさまざまで、職人、行商人(棒手振り・他)、日雇取り(日雇い)、下級の芸人、商店の世帯持ち使用人、等々である。

■町民地の自治管理
地主(じぬし)・家主(いえぬし)は正式の町人として、地代や諸役を負担する義務を負うとともに、町役人を選出し、選出されるところの町人的基本階層であった。地主・家主はそれぞれに、地借以下の町人について管理責任を負っていた。江戸の町民地の地主には、公役(くやく)=町入用(ちょうにゅうよう)が課税された。長屋の住人や借家住まいの人たち(地借、店借、借家)には、町政の税金「町入用」の納付義務はなかった。彼らは江戸の町に住んでいながらも町人に含まれなかった。税金を納めていたのは、裕福な階層の人だけであった。
家持(いえもち)や地主(じぬし)などの町人は、税金「町入用」などを負担する代わりに町の自治に関する権利を認められ発言権を持っていた。町人のなかから選ばれた町役人が町の代表者となり、彼らを中心に町奉行のもとで町の運営を行った。町役人の具体的な名称は、地域によって異なるが、町年寄(ちょうどしより)・町名主(ちょうなぬし)・月行事(がつぎょうじ)などと呼称された。


江戸庶民の住い長屋

多くの江戸庶民の住まいでは、江戸町人といわれた中堅の商人や職人層(地借家持)は主に表通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。一方、表通りで、商売を営む家屋敷を保有できない駄菓子や小間物、荒物などを商う小商人(こあきんど)などは、表通りに面して建てられた「表長屋」といわれる店舗と住まいを兼ねた二階建ての長屋を借りた。また、農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農、職人や日雇人夫、最下層の武士などは、表通りの裏手の路地中に建てられた「裏長屋」で暮らしていた。

長屋とは、細長い家を棟と直角に切り割って、数軒から十軒前後に分けた連棟式集合住宅で、標準的な部屋が間口九尺(約2.7m)、奥行二間(約3.6m)の約3坪ほどの小さな住まいである。内部にはかまど等がある程度で、台所兼土間が1畳半、部屋が4畳半の計6畳といったところ。ここにだいたい家族3~5人で暮らしていた。文化文政(1804~1830年)頃の裏長屋の家賃(店賃)は、月300~500文程度であった。物価が上がった幕末頃は、九尺二間の店賃が500~600文だったという記録がある。


棟割長屋[9尺2間]
棟割長屋は、それぞれが粗末な薄い壁で仕切られ、3方は壁というもの。押入れも窓もないところで、1家族で生活した。
 布団はたたんで部屋の隅に枕屏風で隠しておく。水は共同井戸から汲んで、土間にある竈(かまど)横の水瓶に入れていた。ご飯を炊いて、味噌汁を作る以外に、おかずをこしらえる余地もなかった。あとは表に出した七輪で魚を焼くくらい。その七輪も長屋で貸し回すのが普通で、2~3軒に1個くらいしかなかった。
自分用の飯茶碗、汁椀、皿と箸の食器は収納兼用の箱膳を使った。
 長火鉢は木炭を使った暖房器具で、鉄瓶を乗せて湯を沸かすこともできる便利なもの。片側に引出しが付いており、湯飲みや酒器、タバコが保管できるので、収納スペースが無い長屋では重宝した。


長屋の土地と建物(長屋)の所有者とは別に管理人がおり、その管理人を「大家(おおや)」といった。大家というのは、その呼名からして長屋の所有者だと思われがちだが、実は、家守(やもり)といい、土地・家屋の所有者である地主から長屋の管理を委託された使用人である。

長屋の地主は主に表通りに家を持っていた。長屋には表店(おもてだな)と裏店(うらだな)があった。店とは家のことをいう。表店には表通りに土地を借りて自分の家や店を持つ地借家持ち中堅の商人・職人の親方衆が住み、裏店の裏通りの住人は家を持たない借家人で、その職種は基本的には職人や棒振商人が多く、はっきりと住みわけの状態がみられる。
江戸において土地家屋を所有しないものを店借人(たながりにん)といい、この中でも表通りに面する家に住んでいたのが表店借=地借家持で、表通りで家や店を構えた中堅の商人や職人層である。店子は土地も家も持たない借家人で、路地裏に住む裏店借「裏長屋の住人」である。
裏長屋に住む店子の身分や職業はさまざまで、店の奉公人や職人(大工や左官、鳶職)、行商人(棒手振り・他)、浪人、下級の芸人など、江戸の大部分の庶民が生活していた。

長屋の出入り口には防犯のため長屋木戸があり、朝(午前六時)開けて夜(午後十時)は閉めていた。木戸の鍵は家守(大家)が持っていることが多かった。
長屋は二棟で向かい合って建てられ、幅三尺(約90cm)の狭い路地の真ん中に、幅三寸(9cm)ほどの溝(どぶ)板が走り下水が流れていた。
路地の突き当りには、ちょっとした空き地があって、そこに、共同井戸、掃き溜め(共同のごみ箱)、惣後架(そうごうか=共同便所)があった。
また、大家は多くの場合、長屋の入り口付近の1軒に住んでいた。









長屋の台所と魚売り(振売り)
野菜売り(振売り)
夏の旬野菜、茄子と南瓜を売っている
納豆売り(振売り)
『守貞漫稿』(納豆売り)大豆を煮て、室に一夜おき、これを売る。寒い地方では野菜が不足しがちなので、納豆で補った。江戸では夏もこれを売る。
とうふ売り(振売り)
一日三回、決まった時間に売り歩いた。
油売り(振売り)
『北斎漫画』葛飾北斎 画
油を柄杓(ひしゃく)を使って客の器に入れる。柄杓から長々と油が糸を引いている。
江戸庶民の食事

■朝夕2食から“1日3食”の食事習慣は江戸時代中頃から定着した
江戸時代の食事は、江戸初期には1日朝と夜の2食であったのが、振売り(ふりうり)の「油売り」から油を買い、庶民でも夜の行灯(あんどん)に菜種油(菜種油1合40文)を使用し始め、夜間でも灯りが用いられるようになった江戸中期以降に、1日3食が一般的となった。
物流の発展で高価な菜種油の値下がりにより、夜間でも灯りが用いられるようになり、夜なべ仕事や夜遊びなどで1日の時間も増えて1日2食ではもたなくなったことが要因と考えられる。(3食制の発生を江戸学の創設者の一人、三田村鳶魚(1870-1952)は『娯楽の江戸 江戸の食生活』(中公文庫)の「食事の話」の中で、1日2食から3食への移行を寛政年間(1789-1800)と考察している)
江戸の庶民のご飯時間は、朝食は7:00(明け六つ)、昼食は12:00(昼九つ)、夕飯は19:00(暮れ六つ)ごろに大体食事をとっていた。

1日に3度食事する習慣が定着するが、食事といっても、あいかわらずの粗食で、庶民の食卓は、ご飯に、味噌汁、漬物である。少し裕福な家庭では、煮豆などの副菜がついた。奉公人を抱える町人でも、せいぜい、ご飯と汁に鰯(いわし)といった「一汁一菜」だったという。しかし、主食は徐々に白米が普及するようになっていった。
江戸後期の江戸庶民の食生活は、「米飯・味噌汁・香の物」におかずが1~2品つく程度にまで向上していたと考えられている。江戸庶民のおかずは、鍋で加熱調理する「煮もの、茹でもの、汁」中心であった。また、魚を焼く調理法が多いことから移動可能な七輪(しちりん)も必須の調理器具であった。

■白米食の浸透と白米偏重の偏った食生活
江戸の人々は貧富の別なく米を入手できた。したがって江戸は「米食い都市」とまでよばれ、麦を混ぜて炊く階層はあったにしても、ともかく「米の飯」は、江戸庶民の主食だったのである。
当時の農村では雑穀や野菜と混食であったが、江戸では庶民も1日3度、精米したご飯(白米一升100文)を食べることができた。食事は、3食とも「一汁一菜」、もしくは二菜が基本で、白米と汁物に漬物や野菜の煮物、魚などの副菜が付き、わずかな「副菜」で大量の白米を食べる極端な白米偏重の偏った食生活であった。基本的には、ご飯に味噌汁・漬物を添えた「一汁一菜」であって、肉類や卵黄類を食べるのは、病気をした時などに限っていたようである。味噌は貴重品で、庶民が口にできるようになったのは、江戸中期頃からである。

■江戸わずらい
江戸は、仙台や北越などから大量の米が流入する大消費地であった。各地に精米のための水車小屋が建てられいて、精白した米を貧乏人まで食し、上方のうどん文化や地方の雑穀食と大きく異なっていた。
江戸町人の間には「麦飯食うくれいなら死んだ方がましだ」などと粋がった言い方があったくらいである。元禄や文化文政といった時代には「玄米」を食べる田舎に比べて、「白米」を食べる江戸では脚気(かっけ)にかかる人が多く「江戸わずらい」と呼ばれるほどであった。脚気は心臓発作を起こすと、二・三日で死亡する怖い病気で、元禄ころから目立ち始めた。白米の普及時期と重なるため、その原因は一般に白米の多食といわれている。(玄米は精米はしていないので、胚芽がまだ残っており、ビタミン、酵素、ミネラル、食物繊維といった豊富な栄養素が含まれている)

■江戸の人は白米を1日ひとり4~5合近く食べていた
江戸の庶民は多くの飯(白米)を食べたようで、1日あたりの食した白米の量は次のようになる。
『飯は麦などを混ぜない白飯である。菜の内容は上流階層のようなものとはいえないものの、飯・汁・菜・漬物が日常食の基本構成であったと推察される。
また、文政年間(1818~1830)の江戸庶民の生活を著した『文政年間漫録』(栗原柳庵)に、飯の量の記述があり、大工の家庭では夫婦と小児で1年の飯米が 三石五斗四升 という記述がある。 これを大人2.5人として、1人分を算出し、さらにこれを1人1日分であらわしてみると、3.9合となる。また、やや裕福な例として『柳庵雑筆』(1848)には、家族が4,5人、奉公人4,5人、計8,9人の1年間の飯米の記述があり、精白米十四石四斗とある。これを9人分とすると、1人1日4.4合になる。現在と比べると、1回の食事に占める飯の量はきわめて多く、飯が文字通主食であったといえよう。』
 ・・・日本食生活学会誌 Vol.10 No.4(日本の伝統的食事の形成と変化)より


畑銀鶏著『日ごとの心得』(天保四年1833刊)/挿絵 長谷川雪貢(せっこう)
本書は飢饉への備えを説いた救荒書、「食を減じて腹減らぬ心得」など14項目がある。


■長屋の食事
裏長屋は、防火対策から家の中の土間に「煮炊き用」の釜を設置してあるだけで、その釜で1日分のご飯を一度に炊きあげ、それを木製の飯櫃(めしびつ)に入れ、昼と夜も食べる。長屋の路地には、惣菜売りや野菜売り、魚売り、豆腐売り、納豆売り、あるいは塩や炭などの日用品売りなど、天秤棒を肩に担いだ行商人のさまざまな振売りがやってくる。このような売り手は、その日稼ぎの人が多かった。
魚や野菜のおかずの下ごしらえは井戸の周りで行い、小さな土間か戸口に置いた七輪(しちりん)の炭火で焼くという調理方法をとっていた。長屋でイワシやサンマなどの焼き魚が食卓に上がるのは、七輪が登場する江戸後期以降といわれてる。


初鰹売り『東都歳事記』「初夏交加図」斎藤月岑(げつしん)編より一部 (1838年頃)

■飯を炊たく回数は1日1回に
江戸などの都市部では白米食がほとんどであった。手間と燃料を節約するには、飯を炊たく回数を1日1回にしたほうがよく、腐りにくい白米を朝に炊いて昼や夜には「冷や飯」を食べた。江戸の庶民の食事は、三食とも一汁一菜、もしくは二菜が基本であった。
江戸時代後期の風俗や事物を説明した「守貞漫稿(もりさだまんこう)」によると、『江戸は朝炊き、味噌汁を付ける。昼と夕食は冷や飯を日常とする。昼飯には必ず一菜を付ける。野菜や魚肉なども昼飯に付ける。夕飯は茶漬けに香の物』と伝えている。
幕末頃は、まず朝に1日分のご飯を炊き、炊き立てのご飯に味噌汁だけ。昼食は冷や飯に魚か野菜を添える程度で、夕食は茶漬けに漬物(沢庵大根1本15文)である。つまり、昼食が一汁一菜(冷や飯に味噌汁、おかず一品と漬物)と最も豪華な食事であった。

■江戸庶民のおかず
江戸庶民のおかずは、鍋ひとつでできる料理が中心であった。鍋で加熱調理する「煮もの、茄もの、汁」であった。狭い台所と限られた食品を用いてのおかずを調理するために各家庭に必需だった調理道具には、鍋・包丁・まないたのほか、すりばち・すりこぎがある。また、移動可能な加熱器具である七輪もまた各家庭必須の調理器具であった。江戸市中では、江戸周辺のその朝その日に採れたばかりの魚や野菜など豊富な食素材が売買され、一般庶民にいたるまで、米を主食とし各種の鮮魚、塩乾魚、新鮮な野菜類を副食とした食生活が営まれていた。

■江戸の物売りから買う食材
おかずは塩、味噌、醤油、酢、砂糖などで味をつけた。米は非常に高価なものであった。江戸の町は物売りの声で朝から晩まで賑やかだった。江戸には天秤棒の両方に品物をつけて担ぎ、売り歩いた行商人が多数いた。行商人の商う食材は多岐にわたっており、納豆(四文)・豆腐・あさり・しじみ(一升で六文)・鮮魚(イワシ十尾五十文)・干し魚・野菜(水菜や小松菜などは、三文か四文)・根菜の煮物・漬物などであった。庶民は、朝夕に長屋の露地の奥まで売りに来る天秤棒を担いだ行商人「振売り(ふりうり)」から、その日必要な分だけの食材を買った。
なお、納豆は、包丁で叩いて細かくし、豆腐や菜っ葉を薬味とともに添えた「叩き納豆」が人気で、それを鍋に入れて「納豆汁」にして食べたようである。行商人の振売りは、魚類・野菜・惣菜などを決まった時間に決まった道順で通るから、待っていれば買うことができた。

■江戸人気の「納豆」
幕末(1860年)の江戸勤番の和歌山藩士、酒井伴四郎が書き記した『江戸自慢』という見聞録の一節には『江戸に烏(カラス)の鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地の人の好物なる故と思はる』との記述がある。江戸の町では毎朝、夜明けと共に「なっとー、なっとー、なっとウ」の売り声で、納豆売りが朝食用に長屋の隅々までやってきた。納豆は粒納豆を包丁でたたきつぶして固めた「たたき納豆」が売られていて、ザク切りの豆腐や刻みねぎと一緒に納豆汁にするのが一般的であった。
また、幕末の『守貞漫稿』では、納豆は『汁にして煮たり、あるいは、醤油をかけて食べる』と記されている。庶民の間で納豆が幅広く食べられるようになったのは、江戸時代になってからのこと。醤油が安く手に入るようになり「糸引き納豆」に醤油をかけて食べたのはことが、納豆の普及に一役買ったともいわれている。

■幕末頃の庶民の日常的なおかず
幕末頃のおかず番付『日々徳用倹約料理角力取組(ひびとくようけんやくりょうりすもうとりくみ)』は料理名を1枚の相撲の番付形式で表した一覧表で、その中央には「為御菜(おさいのため)」と大きく書かれている。「御菜(おさい)」とは「おかず」を意味する丁寧語で、野菜料理だけではなく魚料理も含む言葉といわれる。

『日々徳用倹約料理角力取組』には、庶民の日常的なおかずの名前がのっている。
”魚貝類のおかず”には、めざしいわし、焼き秋刀魚、小あじに三つ葉、芝エビを炒めた「芝えびからいり」、こはだ煮ひたし、こはだ大根(こはだと大根の煮付け)、たたみいわし、いわし塩焼き、塩かつお、にしん塩引き、蒸しはまぐり、赤貝酢の物、なまこ生姜、たらの煮しめ、まぐろから汁(マグロだけの味噌汁)、赤貝酢の物、焼きはまぐり、数の子、するめつけ焼き等がある。
”野菜物のおかず”には、きんぴらごぼう、小松菜浸し、煮豆、人参の白あえ、蓮の木の芽あえ、木の芽田楽、たんぽぽ味噌和え、ささげごぼう和え、なす刺身、なす揚げだし、冬瓜くず煮、ごぼう太煮、へちま煮ひたし、芋煮ころがし、ふろふき大根、とろろ汁、長芋おでん、かぶ菜汁、こんにゃく白和え、とろろ汁、筍あらめ、長芋おでん、ほうれん草ひたし、そら豆煮付け等がある。
その他のおかずには、江戸時代の豆腐の食べ方として有名な鰹節醤油汁で煮た「八杯豆腐」、炒り豆腐、湯豆腐、焼き豆腐、どじょう鍋、くじら汁、ひじき白あえ、切ぼし煮付け、昆布油揚げ、芋がら油揚げ、油揚げつけ焼き等がある。漬物は、沢庵漬、梅干し、ぬか味噌漬、なすび漬、くき菜漬、からし漬、かす漬、かくや古漬など。


■長屋の食事を支えた振売り、煮売り屋
振売りは町の隅々まで入り込み、何でも客の注文に応じた。魚屋は魚を注文通りさばいてくれたし、豆腐屋も豆腐をさまざまに切ってくれた。味噌にキザミネギやいろいろな薬味を入れて丸めた味噌玉というのもあった。おでん屋の振売りは、おでん鍋と燗鍋を乗せた木箱に天秤棒を渡し「おでん かんざけ」の行灯や暖簾をかけ、呼び声「おでん燗酒、甘いと辛い、あんばいよしよし」と売り歩いた。また、外に出ると二八蕎麦、握り寿司、いなり寿司、天ぷらなどの「屋台」が辻々に出ており気ままな外食も楽しんだ。


「おでん燗酒売り」行灯には「おでん かん酒」と書かれている。客は右手に酒の猪口、酒の肴に串に刺した“こんにゃく”を食べている。
柳水亭種清 作『糸廼時雨越路一諷(いとのしぐれ こしじのひとふし)』、芝居絵本「糸の時雨初編」/梅蝶樓國貞(二代目歌川国貞)画 (安政5年・1858)

また、「煮売り屋」「煮しめ屋」からは、調理済みの茄子の田楽や蛤の煮物など1品、2品程度の惣菜を買ったりして、その日食べる分を上手に求めた。それだけに調理済みの総菜を売る「屋台」や「煮売り屋」はとても重宝だった。
惣菜屋について、江戸期の優れた風俗史といわれる「守貞漫稿」の生業の項目には、「菜屋(煮売り屋)」という商売が載っており、『焼き豆腐・蒟蒻(こんにゃく)・くわひ・蓮根・牛蒡(ゴボウ)・刻み牛蒡』などの煮しめを大丼鉢に盛って見世棚(店先)に並べて売っていて『江戸諸処往々これあり』とあるので、庶民は大いにこれらの店を利用した。


■箱膳を使う食事のようす
長屋では、土間と一部屋のみの家屋が一般的で、台所・居間・寝所は一つの部屋でまかなっていた。箱膳を用意すれば台所の食卓となり、しまえば居間・寝室になるということで、収納の面で当時大変重宝した。
町人や農家、町民の使用人たちは、食事をする時に箱膳(はこぜん)を使用した。(箱膳には二種類あり一つは下端に引き出しを作り両側に取っ手の穴をあけたものと、ただ箱だけのものとがある。概して前者は家長など一家の主が用い、他のものは平の箱膳であった)
箱膳は蓋のついた四角い箱のような形をしたお膳で、1人用の箸、飯茶碗、汁椀、湯飲み茶碗や皿が収まるようになっている。食事の時、箱膳の木箱の蓋を返し箱に載せると小さなお膳になる。その上に、いつもは箱の中に収めている器を載せて食事をした。
食事の後には、お茶を飯茶碗や汁椀にいれて、箸や漬け物(たくわん)で食器を洗って、最後にそのお茶を飲んだ後、布巾(ふきん)などで水分を拭き取って、そのまま箱膳の中にしまい、蓋をして台所の隅に重ねて置いた。食器を洗うのは月に数度のことだったようである。


長屋住人の生業と振売りの種類


『東海道五拾三次之内 日本橋・朝之景』  歌川広重 天保4-5年(1833-34)
大木戸が開かれた日本橋の早朝の景色。朝焼けを背景に日本橋を渡り国元に帰る参勤交代の大名行列が日本橋を渡り始める。
手前には魚河岸で仕入れた魚とまな板を桶に入れて天秤棒を担ぐ魚売りや野菜売りの行商人たち、右端には2匹の犬の後姿が描かれている。

職人や師匠のように特別な技術がなくとも、“振売り・棒手振り”などと呼ばれる行商人なら誰でも開業できた。
長屋に住む多くの人は、天秤棒を担いで多種多様な商品を小売りにまわる仕事(行商人)をしていたが、商う品物は一種類か、多くても2、3種類だったので、仕入れも簡単で素人でもその日からはじめられるほどだった。長屋に住む人々の多くが携わっていたという振売り(行商人)には、実に細かな仕事があった。

『守貞謾稿』の食に関わる振売りを挙げてみると、乾物売り、鮮魚売り、鰻蒲焼売り、鳥貝・ふか刺身売り、白魚売り、むきみ売り、しじみ売り、ゆで卵売り、鮨売り、いなご蒲焼き売り、塩辛売りなどの動物性食品。 
蔬菜(そさい)売りには、瓜や茄子などを売る前菜売り、松茸売り、生唐辛子売りなど。 
加工調理品では、豆腐売り、納豆売り、漬物売り、甘酒売り、乾物売り、乾海苔売り、蒸し芋売り、揚昆布売り、麹売り、唐辛子粉売り、ゆで豆売り、嘗め物売り、ところてん売りなど。 
調味料には、塩売り、醤油売り。嗜好品では、菓子売り、白玉売り、岩おこし売り、飴売り、冷や水売りなどがある。

長屋の人々の多くは、振売りを業としながら、自らも振売りから食材を購入し、白米と漬物、季節の野菜類の煮物を中心とし、時々いわし、塩鮭など魚類を加えた食生活を営んでいた。


長屋「振売り住人」の一日

毎日の生活費を得るために日銭を稼ぐ裏長屋の野菜売り住人の一日は次のようであった。
「亭主の振売りは毎日600~700文くらいの元手を持って、早朝に家を出て市場で野菜を仕入れる。天秤棒で商品を担ぎ、売り声を上げながら町々を1日歩いて売って帰り、1日の儲けは400~500文。女房に生活費として300文くらいを渡す。これが米代や味噌、醤油、油代、子供のおやつ代などに使われ、そこから翌日の仕入れ代を引くと、せいぜい100~200文が残る生活であった。」
天秤棒に野菜籠をつけて売り歩いていても、三人の家族を養うことができた。
(文政年間(1818~1829)の価格、米は1.3升/銭100文、味噌は6匁/銭100文、酒(上)は4合/銭100文、醤油1升は銭188文、練馬大根は銭8文、串団子・桜餅は銭4文)

万治元年(1658)の幕府の調査では、振売りの数は江戸北部だけで5900人、50の職種に及んでいたという。その収入は、扱う品目にもよるが、おおよそ1日400文ほどであったという。


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『文政年間漫録』栗原柳庵より(文政年間1818~29年)

「長屋の住人の一日」菜蔬売り(さいそうり)

菜籠(なかたま)を担(かたけ)て晨朝(しののめ=卯の刻。現在の午前6時ごろ) に銭六,七百を携え、蔓菁(かぶらな)・大根・蓮根・芋を買い、我力のあるかぎり、肩の痛むのも 屑(かず)とせず、脚に信(まか)せて、巷(ちまた)を声ふりたて、蔓菁めせ、大根はいかに、蓮(はす)も候(そろ)、芋や芋やと呼ばりて、日の足もはや西に傾くころ家に還(かえ)るを見れば、菜籠に一擲(つかみ)はかりの残れるは、明朝の晨炊(あさげ)の儲なるべし。
家には妻いぎたなく昼寝の夢まだ覚めやらず、懐にも背にも 幼稚(おさな)き子ら二人ばかりも横竪に並臥(ならびふし)たり。夫は我家に入て菜籠かたよせ、竈(へっつい)に蒔(まき)さしくべ、財布の紐(ひも)とき翌日の本貨(もとで)を算除(かぞえのき)、また房賃(たなちん)をば竹筒へ納めなどするころ、妻眠をさまし、精米(こめ)の代(しろ)はと云う。すはと云て二百文をなげ出し、与うれば、味噌もなし、 醤(しょうゆ)もなしと云う。又五十文を与う。妻小麻筒(あさばこ)を抱て立出(たちいず)るは、精米を買いに行なるべし、子供這起(はいおき)て、爺々(とと)、菓子の代(ぜに)給(たまえ)と云う。十二、三文を与うれば、これも外の方へ走出づ。
然(しかして)なお残る銭百文余または二百文もあらん。酒の代(しろ)にや為(なし)けん。積(のこし)て風雨の日の心充(あ)てにや貯(たくわ)ふるらん。これ其日稼(そのひかせぎ)の軽(かろ)き商人の産(かせぎ)なり。但し是は本貸(もとで)を持し身上なり。
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夜明けとともに銭六百文から七百文を持って、かぶ菜・ダイコン・レンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。江戸の町を「かぶらなめせ、大根はいかに、蓮も候、芋や芋や」と、売り声を上げて西日が傾くまで必死に野菜を売り歩いた。日が沈んだころ、菜籠の中には一にぎりぐらいの野菜が残っているが、これは明日の味噌汁の実になる。
家に帰り着き菜籠を置き、かまどに薪をくべてから財布を取り出して、売り上げからまずは明日の仕入れ代金を取り除き、家賃にあてるぶんは竹筒に収めた。そのとき、ようやく昼寝から覚めた女房が「米代は?」と手を出す。二百文を与えると「味噌も醤油も切らしているけど」と言う女房に、また五十文が渡される。女房が買い物に出ると、今度は子どもの番だ。菓子代に十二文が消えた。
彼の手元に残ったのは百から二百文ばかりの銭だ。それを手に「さてと一杯飲ませてもらおうか」「いやいや明日は雨になるかもしれない。それに備えねば」と思案する。

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「菜蔬売り(さいそうり)」


菜蔬売りは数種の野菜を売り、現在と同様に八百屋と呼ばれていた。江戸では、瓜や茄子などを一二種だけ籠に入れて天秤棒に架けて担ぎ売るのは前菜(ぜんさい)売りといい、八百屋とは分けて呼んでいた。

江戸時代には、野菜は一般に青物(あおもの)と呼ばれていた。
『守貞謾稿』(1853)の「菜蔬売り」の項には『三都ともに菜蔬を俗に青物と云う 因之売之買を青物売とも云う 菜蔬店菜蔬見世とも八百屋とも云う』『江戸にては瓜茄子等一種を専ら持ち巡る者を前菜売と云う 京阪にては是をもヤオヤと云う』『前菜売りは数品を携ず瓜茄子の類或いは小松菜等 一、二種を売りを云い、八百屋は数種を売るの名なり』とある。
瓜や茄子など一、二種だけを売り歩く者を江戸では前菜売り(ぜんさいうり)と呼び、数種類の野菜を売る者を八百屋という。京坂(京都・大坂)・江戸とも菜蔬を青物といい、青物を扱う店を菜蔬店、青物見世、八百屋というと記している。









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