日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 江戸長屋の暮らしと生活


江戸長屋の生活・庶民の暮らし

■庶民の住まい長屋生活の概要
江戸の都市の面積のほとんどは武家屋敷で占められていたにもかかわらず、町人地(町方とも呼ばれる)人口は武士とほぼ同数だったといわれている。町人地には、表通りに町屋敷を持つ「地主層」と、土地は持たないものの表通りに土地を借り持つ「地借層」、表通りに面しない裏長屋に住む「店借層」がいた。表通りでは商売が営まれ、裏長屋では店の奉公人や職人、行商人など江戸の大部分の庶民が生活していた。

長屋には「表店」(おもてだな)と「裏店」(うらだな)があり、表通りに面して建てられたのが「表店」。ここに住めるのは、高給取りの職人の頭や、大店の番頭クラスで、二階建てもめずらしくはなかった。一方、表店の路地を入ったところに並んでいるのが「裏店」。庶民を代表する職人たちの多くはこの裏店の「裏長屋」を借り、それぞれ店子(たなこ=借家人)として住み、家賃を日払いでおさめていた。

多くの江戸庶民の住まいでは、中堅の商人や職人層(地借家持)は、主に表通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。一方、駄菓子や小間物、荒物などを商う比較的裕福な小商人(こあきんど)などは、表通りに面して建てられた「表長屋」といわれる店舗と住まいを兼ねた二階建ての長屋を借りた。
また、農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農(小百姓)、商家の奉公人、職人、行商人や日雇人夫、最下層の武士などは、表通りの裏手の路地中に建てられた「裏長屋」で暮らしていた。


  • 表店,土蔵造り:屋根を瓦葺きにし、外側を分厚い土壁塗り・しっくい仕上げにするもの。ただし土蔵と違って、完全な閉め切りにはならない。
  • 表店,塗屋造り:屋根を瓦葺きにし、二階正面のみを土壁塗り・しっくい仕上げにし、一階正面他の外側を木造下見板張りとしたもの。
  • 裏長屋,焼屋造り:屋根は板葺き、外壁は全て下見板張りとしたもの。裏長屋(九尺二間の棟割長屋)がこれにあたる。
裏長屋は、井戸やトイレ、路地などの生活空間を共有し、2軒の世帯が背中合わせに住む棟割り形式の平屋が普通であった。長屋は一家族ごとに住まいが区切られていて、1軒の広さは9尺×2間/約3坪か、9尺×3間/約4.5坪が多く、「九尺二間の裏長屋」と称され、六畳一間の広さが住宅の基本となっている。

長屋の部屋は、腰障子の戸口を開けると小さな土間になっていて、土間には煮炊きをする竃(へっつい,かまど)があり、座り流しに水瓶が置かれている。水は水瓶から柄杓(ひしゃく)ですくって飲む。かまどの上にあるのは、煮炊き用の釜か鍋である。その釜で朝に1日分の飯を一度に炊き、昼と夕方は冷やご飯を食べていた。

食事の支度は、さまざまな振売り行商人から朝食にあう豆腐や納豆などの買った食材で食事を作った。長屋の食事は一汁一菜が基本で、朝食は、ご飯と味噌汁、漬物が一般的で、昼には、朝炊いた冷や飯と残った味噌汁で済まし、夜はそれに加えて根菜の煮物や魚の煮付けなどのおかずが一品ついたという。おかずの調理は共同井戸の周りで行い、外にある「七輪」で焼くという調理方法をとっていた。イワシやサンマなどの焼き魚が食卓に上がるのは、七輪が登場する江戸後期といわれている。それだけに調理済みの総菜を売る屋台や煮売り屋(道端で魚や野菜の煮物を売る商売)はとても重宝された。また、小型で移動できる七輪や長火鉢などで、お茶を沸かしたり鍋物を温めたりもした。

江戸時代の「大家」は物件の所有者ではなく、長屋の管理人の立場であった。大家は地主から長屋を預かり、家賃の集金から長屋住民の身元保証、迷惑をかける住民の排除など、長屋を健全に運営する管理人として機能していた。

庶民が普段着る衣服は古着屋で買った木綿の古着であったし、普段から火の用心を心掛けており、火事が起きたら、まず家財道具を全て運び出し逃げるとことが前提だったので、持って逃げることの難しい大きな家具などを置いている家は少なかった。
そのため、下着から鍋、釜、布団、正装まで借りることのできる損料屋(そんりょうや)に賃料を払って必要なものをレンタルするのも一般的であった。


表長屋と裏長屋の関係

■江戸庶民の住い長屋
江戸は、御城を中心に武家地、寺社地、町人地が区分けされ、その多くを武家地・寺社地が占め、20%に満たない町人地に庶民が暮らしていた。御府内は4里(約16km)四方で、その外側は農業地帯であった。城下町の中心部に格子状に整然と並ぶ町は、通りに面した四方が商家や職人の見世(表店,店舗)で、その内側に「裏店」があった。江戸時代の庶民は基本的に長屋(裏店)とよばれる共同住宅に住んでいた。

多くの江戸庶民の住まいでは、江戸町人といわれた中堅の商人や職人層(地借家持)は、主に大通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。
一方、表通りに面して建てられた商売を営む家屋敷を保有できない駄菓子や小間物、荒物などを商う小商人(こあきんど)などは、表通りに面して建てられた店舗兼住宅の「表長屋」(表店,おもてだな)といわれる見世(店舗)と住まいを兼ねた二階建ての長屋を借りた。一階部分が商いのスペース、二階部分が住居になっており裕福な人が住んでいた。
それに対して、表通りから表店の裏側へ入っていく三尺~ 六尺の路地に面している住宅が「裏長屋」(裏店,うらだな)である。一般に長屋といえば裏長屋のことをいった。裏長屋には農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農、職人や日雇人夫、最下層の武士などが暮らしていた。裏長屋の家賃は、棟割り長屋で月500文程度、老朽化したもので月300文程度であった。


■町木戸と長屋木戸
江戸の町には、町の防犯を担うための「町木戸」「路地木戸=長屋木戸」と呼ばれる門を設置していた。木戸は、市中の要所や町々の境界に設けられた治安維持のための門である。
町木戸は木戸番が木戸の管理を行っていた。町木戸の開閉時間は、朝は「明六ツ」(午前6時頃)に開けられ、夜は「夜四ツ」(午後10時頃)に閉めた。裏長屋の入口にも木戸があり、長屋の大家は長屋木戸と呼ばれる出入り口のカギを開け閉めしていた。長屋木戸は、「明六ツ」に開けられ、「暮六ツ」(午後6時頃)に閉じられた。このように、表店のある表通りの町木戸と裏長屋の路地にある長屋木戸の門を閉める時間が違っていた。

表通りとの出入口には路地木戸(長屋木戸)があった。裏長屋への出入り口は門の形をした長屋木戸のみで、そこを閉めると出入りができなくなる。長屋の大家、または、当番の者が月番で錠をあずかって木戸の戸締りの仕事をした。木戸の上には、住民の表札を兼ねた看板や貼り紙が掲げられているものもあった。

裏長屋の木戸とは別に、町の境には警備のための木戸(町木戸)が設けられ、その横に「木戸番屋」が設けられていた。木戸番(番太郎)は、木戸の脇に設けられた番小屋で、家族とともに暮らし、木戸を管理していた。番小屋という詰所に番太郎がいて、夜間に長屋に出入りする者を確認、不審者の侵入を防いでいた。外部の者が町を通るときは一人で歩かせず、拍子木を鳴らして次の木戸の木戸番に知らせた。
木戸番は町に雇われていたが、給金は少なく、それだけでは暮らしていけない。そこで自分で作った草履(ぞうり)や草鞋(わらじ)のほか鼻紙や駄菓子、焼き芋など日用品から食料品に至るまで幅広く販売し、売り上げを生計の足しにした。当時、火の使用を許されていたのは、木戸番だけであった。したがって焼き芋は木戸番が独占的に売ることが出来た。


江戸の町は、道路幅四丈(約12m)の表通り・裏通り・横町(よこちょう)に囲まれた京間六十間四方が基本的な一区画となっている。この正方形の街区に京間二十間四方の宅地が、通りに面して八つ築かれた。中央は会所地(空き地)とされ、江戸時代初期の頃は共同のゴミ捨て場として利用された。(京間,一間六尺五寸=約1.97m)なお、江戸の人口増加にともない、会所地の遊休地に新設されたのが「新道」である。新道が設置されると、その通り沿いにも商店が形成された。


■表長屋と裏長屋
表通りに面して並ぶ店(表店、表長屋)の奥、路地を入った裏側にある裏長屋が一般的な庶民の住居で、町人の約7割が暮らしていたと言われる。長屋の地主は、主に表通りに家を持っていた。長屋には表店(表長屋)と裏店(裏長屋)があった。店(だな)とは家のことをいう。表通りの表店には、瓦屋根による土蔵造りや塗屋造りとする見世蔵(店)などの堅牢な町屋が並んでいたが、町裏へ入れば粗末な造りの長屋があった。

表通りに面して建てられたのが「表店」。大通りに面した表店に住めるのは、表通りに土地を借りて自分の家や店を持つ地借家持ち町人・中堅の商人・高給取りの大工の棟梁や職人の親方衆、隠居、大店の番頭クラスが住み、二階建てもめずらしくはなかった。
江戸人口のほぼ半数を占める庶民は路地に面した裏長屋に住み、主に、四畳半の部屋に一畳半の台所と土間がついた「九尺二間」(間口3.6m、奥行2.7m)の大きさである。そこには、車曳き・火消人足・大工や左官・髪結(かみゆい)・畳刺し・籠かき・魚売り・浪人者等々さまざまな人達が暮らしていた。長屋が建てられ、一般化したのは享保期以降と言われている。



一方、表店の路地を入ったところに並んでいるのが、庶民の多くが住んだ裏店(裏長屋)と呼ばれる共同住宅である。庶民を代表する職人たちの多くはこの裏店に仕み、家賃を日払いで納めていた。裏店の裏通りの住人は家を持たない“借家人”で、その職種は基本的には小職人や棒手振り商人が多く、はっきりと住みわけの状態がみられた。


■地借層と店借層
江戸の町には、地主から土地を賃借し、自己の家屋を建て居住する「地借人」と、家や屋敷を所持せず、他の人の所持する家や屋敷を賃借し居住する「店借人」がいた。



江戸において土地家屋を所有しないものを「店借人(たながりにん)」といい、この中でも表通りに面する家に住んでいたのが「表店借=地借家持」で、表通りで家や店を構えた中堅の商人や職人層である。
「裏店借」の店子は〝土地も家も持たない借家人で、路地裏に住む「裏店借=裏長屋」の住人である。こうした人びとの生業は、肴(さかな)商や前栽商などの棒手振りと呼ばれる小商人や、左官や提灯張り、髪結い等の小職人である。「九尺二間」の六畳の裏長屋に住む店子の身分や職業はさまざまで、店の奉公人や小職人、小商人、浪人、下級の芸人など、江戸の大部分の庶民が生活していた。


■裏長屋の作り
江戸時代の庶民は、ほぼ長屋に住んでいた。そして、その長屋は火事で燃えることが多かったので、かなり安普請に作られていた。江戸っ子の住まいの代表格といわれる「九尺二間の裏長屋」は、一棟を縦に仕切ったもので三方が壁の「棟割長屋」の小さな住まいである。
採光は玄関の一方向のみで、風通しもよくなかった。入り口をくぐると台所兼土間が一畳半、畳の部分が四畳半の計六畳といったところ。ここにだいたい家族3~5人で暮らしていた。裏長屋住まい住人の持ち物は布団、衣服、火鉢、小箪笥、鍋、釜、小物など生活できる最小限度の家財道具が標準である。長屋では物を持たない暮らしは当たり前であった。

 

表通りに面した表長屋(表店)に門の形をした「長屋木戸(入り口)」から、三~六尺(約90cm~約1.8m)程度の細い路地があり、路地を挟んで向かい合って「裏長屋」が建てられていた。
裏長屋が向かいあった路地は住人の共有通路で、路地の中央には溝板(どぶいた)が奥の方まで敷いてあり、その下には雨水を流す下水溝(どぶ)が通っていた。台所の「流し台」からの排水は、木樋や竹筒で家の外へ出し、長屋の路地の真ん中を流れている幅が6,7寸(約18~21cm)ほどの「溝(どぶ)」に排水した。ここには、長屋の人々が洗濯や食器などの洗い物をする、井戸端の共同の流し場からの排水、雨水もこの「どぶ」に流れ込んでいた。



長屋住民の共用スペースとしての路地には、厠(かわや)または惣後架(そうごうか)と呼ぶ共同便所、掃き溜め(ゴミ捨て場=ごみ箱)、井戸があった。厠(かわや)の開き戸は下半分のみである。長屋の住人に使用されていた共同便所の排泄物は大切な肥料として農家に買い取られており、その売上は大家の重要な収入源となっていた。共同のゴミ捨て場には、茶碗のかけらのようなもの、生ゴミや貝殻、再利用し尽くして用途のなくなった生活用品などが捨てられた。共同のごみ箱に集められたゴミは、町内の大ゴミ溜を経て、芥取捨請負人により船で運ばれ、江戸の埋立地の造成に使われた。

共同の井戸は円形で、長い竹竿の先に付けた桶が井戸の中に入れてあり、これを引き上げて井戸の水をくみ上げた。住人共有の路地の奥にある井戸は、飲料水や、洗濯用の生活用水として重宝されていた。共同の井戸では、朝の洗顔から、食事の下ごしらえ、洗濯などをすべてここで行なった。住人同士が毎日顔を合わせる情報交換の場、社交の場となっていたことから「井戸端会議」の言葉も誕生した。井戸の多くは神田上水や玉川上水の水を汲揚げる水道井戸であった。
路地は通路以外として物売りの市、子供の遊び場、夏には縁台を出しての夕涼み、井戸端会議など、社交場としての役割を果たした。長屋はもちろん大店でも内風呂を備えている家は少なかったため、湯屋(銭湯)を使用した。水は貴重だったので風呂は蒸し風呂だった。湯屋は庶民の社交場でもあった。

長屋住人にとって重要なライフラインである井戸の大掃除「井戸浚え(いどさらえ)」は、年に1度(七夕)に、住人総出で行われた。すべての作業が終わると、井戸に蓋をしてお神酒や塩を備えるのが習わしであった。井戸は地下水を汲み上げる掘り抜き井戸ではなく、深いものではなかったので住人だけでも掃除が可能であった。


裏長屋の共同井戸と厠(かわや)、扉が下半分だけの大便所と小便所の桶。
洗濯はたらいに水をくみ、木の灰を水に溶かした上澄み液洗剤の代わりに使って汚れを落としていた。 洗濯後の水は植木や植物に撒いていた。厠(かわや)は、江戸近郊の農民が肥料として大便を汲み取りに来たため、大便所と小便所に分かれていた。小便所は大便所とは別に、小便用の桶が設置された。



江戸の長屋の種類

江戸に暮らす庶民の多くは「長屋」で共同生活をしていた。「長屋」とは、一棟の細長い建物を複数の所帯で住み分ける住居のことをいう。長屋と言っても種類があり、表通りに面した「表長屋」は、比較的裕福な小商人などが住んでおり、日当たりも良いうえ、八畳と四畳の部屋に土間があるなど間取りも広く、四畳の部屋で小間物や荒物などを商う住人もいた。
江戸の庶民は、主に「裏長屋」に暮らしていた。長屋は、1つの棟(むね)を数戸に区切った住居である。なかでも、棟の前後で部屋を分ける形のものを棟割長屋(むねわりながや)と呼んだ。棟割長屋の間取りは、九尺二間と、かなり狭い(妻帯者用は、三間というところも)。トイレと井戸、ごみ捨て場は共同。四畳半の座敷と1.5畳程度の玄関兼台所の土間といった間取りが一般的なつくりだった。

裏路地に建てられた裏長屋(裏店,うらだな)には、「棟割長屋」と「割長屋」があった。
「棟割長屋(むねわりながや)」は、屋根の棟のところで数軒から十軒前後に仕切り、背中合わせに部屋が作られた形で、両隣だけでなく背中合わせにも隣の住人がいる連棟式集合住宅の形式である。
部屋同士が横に連なる「棟割長屋」1戸の平均的な大きさは、間口は九尺(約2.7m)で、奥行きは二間(約3.6m)が多く、入り口をくぐると三尺四方の踏み込みの土間、片隅に竈(かまど)と座り流しに水瓶(みずがめ)が置かれていた。その奥に生活空間の四畳半があった。窓と押し入れはなく、1軒には平均2~3人が住んでいた。(家賃500文)

「割長屋(わりながや)」は、屋根の棟と垂直方向に部屋を仕切った作り。1戸の平均的な大きさは、間口が二間、奥行きが二間。入り口から入ると土間とは別に六畳間があり、梯子(はしご)をかけて上る物置のような中2階も付いていた。また、背中合わせの棟割長屋と違って部屋はたいがい裏庭に面している。(家賃800〜1000文)









長屋の大家

■長屋木戸の開閉
江戸時代の土地は、基本的にはすべて幕府の所有物であった。幕府は大名に土地を貸し、大名は地主などに貸し、地主はそこに長屋を建てて庶民に貸すという構図であった。その中で、地主に代わってその土地・家を管理する家主(いえぬし)がいた。家主は、家守(やもり)とか大家(おおや)とも呼ばれていた。大家は長屋の管理人であって、長屋の持ち主ではなかった。

江戸の一日は「明六ツの鐘」で始まった。表店のある表長屋の間に路地があり、そこから裏長屋への出入り口には「長屋木戸」があった。長屋の大家は、「明六ツ」(午前6時)の鐘が鳴ると裏木戸と呼ばれる長屋木戸の門を開いて、「暮六ツ」(午後6時)には木戸が閉めなくてはならなかった。長屋木戸は、朝の「明六ツ」(午前6時)に開けて、夜は「暮六ツ」(午後6時)に閉めていた。また、大家は多くの場合、長屋の入り口付近の1軒に住んでいた。長屋木戸の鍵は家守(大家)が持っていることが多かった。
《江戸時代は、太陽に合わせて暮らしていた。人々は経験から、明るさや暗さ、太陽の位置などでおおよその時刻が分かり、江戸では一刻(約2時間)おきに、市中に何か所かあった「時の鐘」をついて時刻を知らせた。日の出の約30分前の明六ツから、日没の約30分後の暮六ツまでを昼夜それぞれ6等分したため、日の長い夏の時期は昼間の一刻が長く、夜の一刻が短くなり、逆に日の短い冬は昼間の一刻が短く、夜の一刻が長くなった》

町の支配体制、大家は町の行政を担っていた
町人地は町奉行所の管轄下にあった。幕府は町奉行のもとに、上級町役人(ちょうやくにん)の「町年寄」「町名主」と下級町役人の「大家(家主)」などの3役で町と住民の管理を行なった。町年寄は名字帯刀を許され、将軍にも謁見できるという、武士と同等の扱いを受ける名誉職である。
家屋敷を持たない「町人」は、「町」の構成員とは見なされなかった。幕府が定めた「町人」とは地主・家持層を指した。町人たちは税金(町入用-ちょうにゅうよう)を払う義務を果たし、その権利を認められた。
江戸の町の行政の中心の「町年寄」「町名主」「大家」の3役は、武士ではなく町人階級の中から選ばれ、道路の保守管理や防犯、防火、紛争の調停などさまざまな役割を担っていた。この3役の中でもっとも高位だったのが「町年寄」という役で、町奉行所から出された布令を受け取り、町人に伝達する役割を持っていた。
「町名主」は町年寄の下に位置し、小さく区切られた町単位での行政を任されて、平均しておよそ7〜8町を担当しており、ほかに仕事は持たず、専任で「町政」を行っていた。また、「大家(家主)」はさらにその下で、町名主の指示を受けて実際の町民と接触し、実際の町の運営に当たっていた。

大家は町奉行所など行政機関の末端に位置し、裏長屋の店賃(たなちん)のやり取りだけなく、店子(たなこ)へ町触れ(広報)の読み聞かせ、店子の身元調査と身元保証人の確定、諸願や土地家屋の売買書類への連印、賃貸の管理、水道や井戸の修理、道路の修繕、喧嘩・口論の仲裁、人別帳調査をはじめとした長屋の住民の把握など、さまざまな役目があった。
また、名主や大家で「五人組」の自治組織を作り、自治組織によって運営されていた「町政」では、月毎に当番を決めて月行事(がちぎょうじ)を選び、町の自身番に詰め、長屋だけでなく町の自治管理も務めた。借家人は、表借家人(表長屋)・裏借家人(裏長屋)を問わず、町人としての「町政」参加が認められなかった。




長屋の大家の仕事
長屋の家主(所有者)は、地主や裕福な商人たちがほとんどであった。なお江戸時代における大家(おおや)とは、必ずしも家主ではなく、長屋の住人の家賃を集めたり、管理を任されたりしている人を指す場合が一般的で、地主や家持ちの人々に代わって店賃(たなちん)や地代を取り立て、店子(たなこ)を監督する役割を担う差配人(さはいにん)と呼ばれていた。

江戸時代には、長屋の土地・建物の所有者と、その所有者に代わって貸地・貸家を管理する大家がいた。大家について「守貞漫稿」によれば、江戸には約2万人いたと言われる。様々な人々が暮らす江戸の長屋を取りまとめていたのは大家である。ただこの大家はほとんどが、地主ではなく、借家人の管理を地主から請け負って行う管理人的な人で、地主から給料を貰っていた。
大家のその他の収入は、店賃を集めた手数料(賃料の5%程度)や店子からの礼金(訴訟やお願いなどの付き添い料)の他、大きな収入となったのが、借家人たちの屎尿(しによう)。これを下肥として近郊の農家に肥料として売った。農家は大家と1年契約をして、毎年11月か12月に代金を前納していた。下肥料は住民一人あたり1年で米一斗(約15kg)ほどの値になったと云う。
土地所有者・地主で無い地主の代理人「雇われ管理人」の大家は、長屋の住人から家賃[店賃(たなちん)]を徴収する役目をもっていたが、同時に、町役人として防火防犯の取り締まりの治安維持の役目も行なった。大家の重要な仕事には次のものがあった。
①同じ町内の大家たちと組んで五人組というものを作って五人組が交代で一ヶ月ごとに月行事(がちぎょうじ)の町政に参加したり、 町内の自身番に交代で詰めるなどの町役人(ちょうやくにん)としての町内の秩序維持活動を行い、公務で多忙の町名主に代わり町政を担う。
②町政(町名主の補助業務)に関する業務 … 町触れ伝達、人別帳調査、火の番と夜回り、火消し人足の差配、訴訟や呼び出しでの奉行所への付き添い、諸願いや不動産売買の際の証人など。
③長屋管理に関する業務 … 店子の身元調査と身元保証人の確保、上下水道や井戸の保全、道路の修繕、建物の管理、賃料の集金、店子の生活の指導や扶助、病人怪我人の救済、冠婚葬祭の差配などを行う。
大家は主なものでこれだけの仕事をこなしていた。江戸時代の御定書(おさだめがき)の中に、大家が管理する長屋敷地内に行き倒れた病人怪我人、捨て子があった場合、この面倒を見なければならないと定められていて、これに反するとかなりの重罪となった。
乳飲み子の捨て子が保護された場合は、養子先を探す、適当な里親が見つからなければ、奉公に出られる年齢になるまでの衣食住の世話、手跡指南所(寺子屋)の入所などの教育、奉公先の斡旋など自活するための援助など、親同然としての責務が課せられていた。


裏長屋・住人の暮らし

長屋住人の職業と収入
裏長屋の住人の多くは、物売りなどの独身男性たちであった。江戸の庶民である長屋住民の職業を見ても日雇稼ぎ、棒手振り等の不定期就労者が多く、1日の稼ぎは、大工・左官・土方などが1日320~540文、野菜の棒手振りが1日100~200文程度であった。
文化文政(1804~1830)頃の裏長屋の店賃(たなちん=家賃)は、月に300~500文程度であった。物価が上がった幕末頃は、九尺二間の店賃が500~600文だったという記録がある。当時、真面目に働けば2~3日で稼げる程度の安い金額である。江戸時代に「長屋」の家賃が安かった理由が大家は店子の糞尿を「下肥」(肥料)として百姓に売る権利を持っていた為だという。
江戸時代の高給取りの代表は大工職人だった。文政時代,1818~31年に、大工・左官・鳶(とび)といった職人の手間賃が銀で3~5匁、銭に換算すると324~540文であった。
長屋にはいろいろな職業の人たちが住み、物質的には貧しくとも、おおらかに長屋での生活を謳歌していた。長屋では、住民同士の人情味溢れる助け合い社会が形成されており、生活必需品の貸し借りは、その代表例といえる。みそや醤油、米などの貸し借りがひんぱんに行われていたほか、食材や料理のお裾分けも日常的に行われていたようである。いわば、“個人の所有物は長屋の共有財産”という共通認識が、長屋の住民間で出来上がっていた。

裏長屋の大家は、土地・家屋の所有者である地主から土地と建物(長屋)の管理を委託された使用人である。裏長屋の生活は“その日暮らし”が多かったこともあり、「親も同然」といわれた大家の管理下のもと、「子」である店子たちもお互い助け合って生活していた。大家は店子の保証人になることもあり、子供の誕生や婚礼、葬式、奉行所への訴えにかかわったりもした。


「割長屋」の九尺二間(間口約2.7m、奥行き約3.6m)の部屋。
玄関横には竃(へっつい)、流し、水がめがある。押し入れはなく、夜具は片隅で枕屏風で囲ってある。畳部分は4畳半しかない。ほとんどはこのようなつくりだが、親子3人暮らしではこれで十分な広さだったようだ。家賃は300文から500文で、収入の約12%位。畳や障子は自分持ちなので、板の間だけや、ゴザでの部屋もあった。


■長屋の住人「その日稼ぎ」の生活
長屋の住人には、「大工、左官、桶職などの職人」や「棒手振りと呼ばれる天秤棒をかついで魚や野菜を売り歩く行商人や小商いをする人」、さらに「鳶(とび)や其日稼(そのひかせぎ)の者」と呼ばれた日雇などの様々な都市下層庶民、そして、単身世帯から子供のいる夫婦まで様々な人が暮らしていた。

職人は、家で仕事をする「居職」と外に出る「出職」とに分かれ、前者は狭い長屋の一角に作業場を設けて仕事をしていた。
〇 出職:大工、左官、木挽き、畳屋、屋根職、鋳掛師、釜戸直し、雪駄直しなど。
〇 居職:刀鍛冶,研ぎ師,鞘師など刀関連の職人。桶,桝,文机や文箱などの指物(家具)をつくる職人、提灯屋、傘張り、押絵師、蒔絵師など。


外で働く「出職」と家で働く「居職」。職種によって違うが、多くの「居職」の職人は裏長屋の住まいをそのまま「仕事場」にしていたという。長屋住人の平均的な1日の稼ぎは、居職で350文、出職で410文程度であったと云われている。
出職のなかでも、人夫日当が約200文の相場であった時、江戸っ子にとって憧れの職業は大工であった。大工は、朝五ッ(午前8時頃)から暮六ッ(午後6時頃)まで、1時間の休憩時間を挟み、1日約8時間働いた。給料は日給制で、安政二年(1855)の時点で銀六匁(約630文)である。《1800年(寛政)頃の金、銀、銭の相場は、金一両=銀63匁=銅銭6400文、銀1匁=105文である》
居職は畳職人や鍛冶屋などで、主に表店の下請けとして働く者が多かった。彼らも日の出とともに仕事を始め、日の入りとともに仕事を終えた。

江戸時代後期、文化年間に著された『世事見聞録(せじけんぶんろく)』著者武陽隠士(ぶよういんし)には、
「裏店(うらだな)借り、端々町家住居の族(やから)、青物売・肴(さかな)売都(すべ)て棒振りと唱るもの、日雇取り・駕籠かき・軽子・牛ひき・夜商ひ・紙屑買・諸職手間取等、惣(すべ)て我精力を練り、骨打業にて世渡る者共」と、書いてある。
彼らはみな、「粉骨砕身して漸(ようや)く其日を過、明日の手当なく」という生活ぶりであった。
このように、町人(庶民)の多くを占めたのが裏店(裏長屋)に住む人々であり、その代表的な職業が「其日稼」であった。一般庶民の其日稼とは、自分の店舗を持たず、商品を売り歩いた行商人(振売り、棒手振り、と云う)と、短期契約の肉体労働や雑務などの日雇いを生業にする者たちである。

「其日稼」の者(庶民)たちは文字通り「その日」の「稼ぎ」で生活し、日々貨幣を手に入れていた。町人地の日銭稼ぎの住人にとっては、醤油・味噌と米・魚・蔬菜(そさい)などの食費や薪代などの燃料費と長屋の家賃が大きな支出費目であった。彼らは、日々の稼ぎの範囲で貨幣を使用して、その日暮らしの生活をしていた。
江戸っ子の「宵越しの銭は持たない」という言葉があるように、一度の火事で何もかもが灰になってしまうことを身をもって知る長屋の住人にとっては蓄えなどはほとんど無かった。それでも、庶民たちは「金は天下の回りもの。なんとかならぁな」と金離れよく、気軽に身軽に暮らしていた。


■裏長屋と損料屋(そんりょうや)
長屋の住人にとっては、貸物屋 (損料屋)は、日銭稼ぎの職人や商人が多かったこともあり、その日暮らしの貧民にとって不可欠な存在であった。農村からの出稼人はほとんどが着の身着のままだったので、おのずから損料屋にたよらざるをえなかった。 江戸や大阪で貧民相手の損料屋が多かったのは、こうした出稼人の流入増加によるところが大きい。
貸物の種類は、各種の衣類・蒲団・蚊帳・食器・冠婚葬祭具・雨具・道具・家具・畳・大八車などがあり、生活用品がほとんどを占めていた。 なかでも多かったのは衣類と夜具類で、衣類には冠婚葬祭などの儀礼用と遊興用があり、身分や収入に応じて上・中・下の等級があった。

損料屋といえばいちばんの得意先は長屋であった。長屋から長屋への引っ越しなどでは、わざわざ家財道具は購入せずレンタルで済ますことが、上方ほどではないにせよ江戸でもそれなりにあった。
引っ越してきたときは近所の道具屋から古道具を購入し、引っ越していく際には売却する。あるいは損料屋から道具を借りて、引っ越していくときに返却する。これならばどこへ引っ越すにも身軽に移動できて合理的であった。 「江戸っ子は宵越しの金は持たない」という言葉があるが、実はお金だけではなく「宵越しの物」も持たなかった。長屋暮らしの庶民が着物を新調するのは一生のうちに数えるほどで、古着屋損料屋が繁盛した。

長屋暮らしの庶民が住んでいる長屋の狭さは想像以上で、炊事場を兼ねたわずかばかりの土間と、家財道具を置く場所もない4畳半の部屋に家族全員が生活をしていた。 押し入れなどもなかったために、物を買いこんでも置いておく場所がなかった。火事も頻繁に起きたから、あまり物をもたない生活をしていた長屋の住民たちが利用したのが損料屋である。

江戸の町は火事が多く、火事が起きたら着の身着のままで逃げるというのが前提だった。このため、持って逃げることが難しい大きな家具などを置いている家は少なかった。それでも必要な季節物(火鉢や炬燵、蚊帳など)は損料屋から借りていた。
長屋住まいでは、鍋、布団などの日用品や衣装まで損料(貸料)をとって品物を貸し出す損料屋を利用するのが一般的であった。損料屋が扱うものは、着物や夜具、鍋釜、火鉢、家財道具、祝儀不祝儀の衣装など多岐にわたっていた。

【損料屋】 損料をとって衣服や夜具・器物などを貸す店。また、その職業の人。
【損料】衣類や器物などを借りた時、それがいたむ代償として支払う金銭。かりちん。借用料。


■庶民と古着屋
江戸庶民が着ていた木綿の着物はほとんどが古着であった。江戸時代の着物は「呉服屋」や木綿や麻の織物を扱う「太物(ふともの)屋」で新品の反物を販売し、裕福な町人層がその反物を買い、仕立屋で仕立てて着用していた。そして富裕層がその着物に飽きたら古着屋に売る。その古着を「古着屋」とか「古着の行商」から庶民が買っていた。「古着屋」は高価な新品の着物が買えない庶民が古着を買ったり、生活に困った庶民が着物を売ったりするのに利用されていた。そして、武士でも新しく仕立卸しの着物を着ることは生涯幾度もなかった。
当時はすべての衣服が手作りであって着物は貴重品だった。一般庶民は新しい着物を手に入れるにも、高級品のため簡単には手が出せなかった。そんな庶民は、衣類を買うときも、高価な新品には手が出ないため、もっぱら「古着屋」を利用していた。古着こそが庶民の代表的な衣料商品であった。このため、当時は古着市場が大きく、古着店から行商まで、いろんなタイプの「古着屋」があった。

江戸時代の古着屋は、現代とは比べ物にならないほど、庶民の暮らしに密着していた。それだけに、古着の需要は多く、江戸の町には数多くの古着屋が存在していた。当時、古着は裕福な家から仲買人が買い取り、古着屋で売られていた。江戸には、「古着屋・仲買、古着仕立て屋・仲買、古着買い・仲買」だけでも2,000軒を超す店が江戸にあった、という。古着屋の中でも、クラスが分かれていて、一等が日本橋富沢町に店を構えている、次が柳原の土手、最後が棒手振りの担ぎの古着売りである。

江戸時代中期以降、山ノ手に武士を顧客とする古着屋は牛込改代町,四谷伝馬町,市ヶ谷田町などにあった。1830~43年(天保年間)、庶民相手の古着店(ダナ)としては、富沢町,橘町,村松町,芝日蔭町,浅草東中町,西中町,柳原土手などに多く見られ、店舗だけでなく行商による古着の販売も行われていた。古着の行商人は、竹馬という竹筒で組んだ四足の運搬具を担いで町中を売り歩いたので、「竹馬古着売り」とも呼ばれていた。
当時の古着屋の品ぞろえは多種多様であった。古着屋に足を運べば、そろわない衣類はないほどで、豪華な打掛、紋付き、羽織、袴から、腰巻や股引などの下着類まで何でも手に入った。
「竹馬古着屋 竹具の四足なるを担う故に竹馬と言う。古衣服及び古衣を解き分けて、衿(えり)あるいは裡(うら / 衣服の裏地)その他諸用の古物を売る。専ら小戸を巡る也。」(『守貞漫稿』)というように、竹製の四脚を天秤棒の両端にさげ、それに古着や小切れ(着物の端切れ)、古裂れ(古い布きれ)などを掛けて、長屋などを売り歩いた。衿・裡などの古きれは、長屋のおかみさんたちが購入し、夫や子どもの衣類の修繕に利用した。当時の庶民の女性に、針仕事は必須だった。
購入された古着は何十年にもわたって、さまざまな用途に使いまわした。人々は、手持ちの着物が傷んでも、簡単には捨てずに、子ども用の着物に仕立て直すなど、衣類を非常に大事にした。 さらに、それが古くなっても捨てることはなく、最後は下駄の鼻緒や雑巾にするなど、徹底して布を使い切った。一方で、農村では貧しさ故、古着を買うのもままならなかった。忙しい農作業の合間に手前織りの麻や木綿の衣服を仕立てたり、古いものを仕立て直したりしていたという。

:1736~40年(元文年間)に、神田川沿いの柳原土手で、筋違橋から和泉橋までの間に土手見世が許され、その7割が庶民相手の下級の古着屋であった。いずれも路傍にムシロを敷き、その上に古着、襤褸(ボロ=着古して破れた衣服)を並べて売る最下級の古着店、天道干(テンドウボシ=露店)か、葦簀(よしず)張りの床店(とこみせ)の古着屋であった。柳原土手には江戸の庶民への小売りだけでなく武士や旅人、同業の古着屋が寄ってきて着物を仕入れた。
この柳原土手通りの古着市場は、少なくとも幕末段階では、由緒ある日本橋富沢町と肩を並べる卸売市場として発達を遂げていた。日本橋富沢町は、古着屋の軒が連なり大きな市も立つ町であった。日常着や各地の名産織物、大名クラスの豪華な着物もここに集まり、また全国へと買われていった。
《幕末には古着屋が3,987軒、古道具屋が,3672軒(そば屋の3,763軒と比較しても多い) … 幕末の古着屋の軒数は「未来のための江戸の暮らし」森ネットワークより引用》



裏長屋の生活

■4畳半の長屋暮らし
庶民の多くが住んだ裏長屋と呼ばれる住宅は、井戸・トイレ・ゴミ捨て場などが住民みんなの共用であった。トイレは、住居の外に設けられた「惣後架(そうこうか)や厠(かわや)と呼ぶ」という共同便所が使われ、風呂がなく、湯屋とよばれる銭湯(湯銭八文)を使い、洗濯も長屋路地の奥にある共同の井戸を使っていた。
井戸は飲料水や、洗濯用の生活用水として重宝されていた。住人同士が毎日顔を合わせる情報交換の場、社交の場となっていたことから「井戸端会議」の言葉も誕生している。裏長屋の多くは井戸を中心にして炊事・洗濯・洗面を行なっていた。炊飯はそれぞれの家の土間の釜で行ない、七輪で魚を焼くのは外であり、おかずの調理は井戸のまわりで行なっていた。

長屋の入り口の腰高障子と呼ばれる戸口を開けると、玄関と台所を兼ねた土間がある。広さ一畳半くらいの土間の片隅に煮炊きをする竈(へっつい,かまど)と燃料となる薪、木製の流しが備え付けられていて、井戸で汲んできた水を入れる水瓶(みずがめ)などが置かれていた。実際に部屋として使えるのは四畳半であった。
住居の炊事道具は土間にある竈(かまど)と流しと水瓶、そして米びつ、おひつ、食器類や鍋、釜、包丁、まな板、擂り鉢、味噌入れの壺、笊(ざる)と夫婦の箱膳(はこぜん)である。箱膳は箱形になっている膳のことで、自分用の飯茶碗、汁椀、皿と箸を納めておき、食事をする時には箱の蓋を裏返して食器を載せた。
もっとも独身男性は自炊する機会が少ないので、台所用具はあまり揃っていない。煮魚や煮しめ、煮豆などを売る煮売り屋を利用したので、台所用品が少なくても不便を感じなかった。

草履を脱いで部屋に上がると、四畳半ほどしかない部屋が居間兼寝室で居職の職人の作業場でもあった部屋には神棚が飾られ、壁際には小ぶりな箪笥(たんす)、床には行灯(あんどん)が置かれている。当然押し入れは無く、衣類は箪笥や行李(こうり)などに入れて収納し、布団は昼間は畳んで部屋の隅に置き、枕屏風で隠して片付けていた。
水は共同井戸から汲んで、土間にある竈(かまど)横の水瓶に入れていた。ご飯を炊いて、味噌汁を作る以外に、おかずをこしらえる余地もなかった。あとは表に出した七輪で魚を焼くくらい。その七輪も長屋で貸し回すのが普通で、2~3軒に1個くらいしかなかった。
自分用の飯茶碗、汁椀、皿と箸の食器は収納兼用の箱膳を使った。長火鉢は木炭を使った暖房器具で、鉄瓶を乗せて湯を沸かしたり、鍋をしたり、お酒の燗をつけることができる便利なもの。片側に引出しが付いており、湯飲みや酒器、タバコが保管できるので、収納スペースが無い長屋では重宝した。


『棟割(むねわり)長屋[9尺2間]、部屋の様子』
棟割長屋は、それぞれが粗末な薄い壁で仕切られ、3方は壁というもの。押入れも窓もないところで、1家族で生活した。


長屋の部屋と居職職人の生活
裏長屋の1軒の平均的な大きさは、九尺二間(約2.7m×約3.6m)程度である。採光は玄関の一方向のみで、1畳半の台所と土間があって、片隅に竈(へっつい)と、一段上がって居住スペースの畳敷き4畳半があった。
長屋の部屋で仕事を行う職人は、まず、朝起きると布団をたたんで片隅に積んで置き、そこで箱膳で食事をする。食事の後に、畳を外して部屋の隅に重ねて板間にする。こうして、家で仕事をする「居職」の職人の作業場ができて仕事をおこなった。そして夜は畳を敷いて家族の居間に、さらに布団を敷いて寝室にと、ひとつの部屋を時間帯で使い分けていた。長屋の女性は炊事、洗濯、掃除などの家事や育児以外にも、着物の縫い目をほどく洗い張りや洗濯を専業とする商売、機織りなども女性の仕事とされていた。



江戸時代の長屋では、畳は長屋の大家が用意しておくものではなく、部屋を借りる店子が運び込んで使ったといわれている。このため、職人や独身者の場合は、を敷かず、筵(むしろ)敷きで暮らしていることもあった。畳が一般のものとなったのは、江戸時代中期の元禄期あたりからで、 江戸時代後半には庶民の住まいにも徐々に使用され、畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が生まれた。
町屋や長屋にも畳の部屋がつくられるようになったが、まだまだ畳は高価な床材で火事になれば持って逃げるし、お金がなくなれば畳を質草に入れて工面することもあったという。



夜の照明は「行灯(あんどん)」であったが、形や大きさはさまざまであった。受け皿の上に灯明皿(とうみょうざら)をのせて、灯芯(とうしん)を浸して火を点(とも)すもので、風を防ぎ照明効果を上げるために障子紙で周りを囲った。
また、「瓦灯(かとう)」と呼ばれる照明器具もあり、行灯よりも安かったため貧乏長屋の庶民が使っていた。行灯の明るさは、灯火(行灯の一部を開けた状態)の近くでやっと文字が読める程度であったようである。その薄ぼんやりとした明るさのなかで、庶民は内職をしたり、食事をしていた。
行灯に使う油は菜種油(1合40文)であったが、当時はまだ高価だったため、貧しい人は菜種油の半値くらいのイワシなどからとった「魚油」(1合20文)を使った。魚油は燃やすと悪臭を放つため、長時間使うことはなく、夜も遅くならないうちに火を消して眠りに就いていたという。



冬になると、江戸庶民にもっとも使われた暖房具は「長火鉢」であった。木製の長方形の火鉢であり、炭火の灰の中に銅壷(どうこ)が入れてあり、湯を沸かし燗をつけたり、五徳(ごとく)を入れて鉄瓶をかけ、いつでも湯が足りるようにしていた。長火鉢は、武士のみが使っていたが、やがて江戸時代の寛政(かんせい)年間(1789~1801)ごろから一般にも急速に普及した。




■庶民の寝具
江戸庶民にとって、布団とは敷き布団のみを意味し、掛けるものを夜着(かいまき)といっていた。
この時代の江戸庶民は敷き布団だけで寝るのが普通で、掛け布団は今のような形ではなく、「夜着」と呼ばれる綿人れを使っていた。襟布と広袖が付いていて、着物よりもひと回り大きい綿入れの「ドテラ」のようなものを掛け布団代わりに使っていた。襟布は大きめで黒天鵞絨(くろびろーど)などの丈夫かつ、防寒性の高い布地で包まれていた。
一方、大坂や京都では、元禄年間(1688~1704)頃から、夜着ではなく現在のような掛け布団が使われていた。長さがおよそ170センチほどあり、「大ふとん」とも呼ばれた。江戸で、四角い掛け布団が使われるようになったのは江戸末期のことである。



貧富の差によって、使っている布団には違いがあった。裕福な商人は綿がたっぷり入った敷き布団を、貧乏長屋の住人は綿のほとんど入っていない煎餅布団を使っていた。夏は汗をかくので、煎餅布団の上に「寝茣蓙(ねござ)」というゴザを敷いていた。
また、長屋の住民は敷布団の下に「八反風呂敷(はったんふろしき)」を敷いて寝ていた。近くで火事になったとき、夜着と枕を敷布団でくるみ、この風呂敷で包み込んで運び出すための工夫であった。近郊の農家では、こもや筵(むしろ)を敷くか、ワラぶとんで寝るのが一般的で、綿入りの敷きぶとんを使うことはめずらしかった。


■庶民の衣替え
江戸時代は年に4回の衣替えがあった。
・4月1日から5月4日 袷(裏地の付いた着物)
・5月5日から8月晦日 単衣(裏地のない着物)・帷子麻布(麻の着物)
・9月1日から9月8日 袷
・9月9日から3月晦日 綿入れ(表布と裏布との間に綿を入れたもの)

衣替えの時期、富裕層の間では今のように季節ごとに着物を用意していた。一方、庶民の住居は長屋で家族三,四人で住むのが普通で、衣服は行李(こうり)や葛籠(つづら)などに閉まっていた。家族全員の衣服を季節ごとに何枚も収納できなかった。
庶民が持っている着物の枚数はごく僅かであった。とはいえ、少なくとも単衣(ひとえ)・袷(あわせ)・綿入れの3種類の着物が必要であった。そのため、衣替えのたびに、おかみさんが、暖かくなると袷の着物の裏地を取って単衣し、寒くなると再び裏地をつけて綿を入れる…という形で着物に綿を入れたり出したりしながら着まわしていた。


長屋住人は日々、食材を購入していた
長屋の朝は早く、夜明けと共に起き、日暮れと共に寝るという暮らしをしていた。江戸庶民が暮らす長屋の入り口は開放的で誰でも出入りができた。長屋の路地には、毎日のように物売りたちがやってきて食材を売っていたため、おかずには事欠くことがなかった。
野菜や魚などの食材を両天秤に担いで、毎日売りに来るのが棒手振りの行商人である。彼らは店舗を持たず、天秤棒の両脇に商品を吊り下げて、庶民の住む長屋や、下級武士の住まいなどを主な商売の場所にしていた。

当時は漬け物や味噌、醤油、米といった食品以外は保存がきかないので、その日に食べる分だけを、こうした商人から買い求めた。アサリやシジミなどの身だけを売るむきみ売り、魚売り、ドジョウ売り、納豆売り、豆腐に油揚げ売り、季節の野菜を売る青物売り、煮豆売りなどであった。その多様性から、江戸庶民は家に居ながらにして必要な食材を必要な分だけ買いそろえることができた。
酒/醤油屋または味噌/醤油屋や米屋、魚屋のような表店、裏店にも買いに行ったりしたが、その頃の棒手振りは、主に「一色商い(ひといろあきない)」といわれる一つの品物を専売するのが主流で、こうした物売りが安くて便利であった。




醤油売り(振売り)『江戸商売図絵』 三谷一馬著。『守貞謾稿』 に「江戸では醤油と一緒に酒も売る」とある。


■江戸,食材・飲食店・雑貨の値段
文政年間(1818-1829年)頃の食品・調味料の物価は、次のようであった。(江戸中期後半から江戸後期,1両=6000-6500文)

◇行商(振売りの)値段
  • 「屋台」の二八そば1杯が16文、握り鮨1個が8~10文、稲荷ずし1本16文、天麩羅一串が4~6文、うなぎ蒲焼一串16文。
  • 関東醤油1升が60~83文、下り醤油1升が108文。
  • 酢1升が124文
  • 味噌は量によって様々で12~100文。(『守貞謾稿』巻之六,生業に、値段は12文、24分、32分、48文、100文以上を数個、竹の皮に包み箱に納めて巡る、とある)
  • 黒砂糖(一斤=160匁=600g)120文。
  • 塩1升が20~50文。
  • 米1升(約1.5kg)が120文。
  • 鰹節1本が124文。
  • 沢庵大根が1本15文
  • 粒納豆1束が4文、たたき納豆が8文。
  • 蜆(しじみ)1升が10文、小蛤1升が20文。
  • イワシ1尾が5文、このしろ1尾が3文、サンマの切り身24文、サンマ1尾200文、鮭の切り身12文、鮭1本250文、70センチほどのマグロ1本200文(天保3年)。
  • 豆腐1丁が56文~60文、1/4丁(現在の豆腐1丁の大きさ)が10~15文、油揚げ1枚が4文、焼豆腐や油揚豆腐が1個5文、がんもどき1個が8文~12文、こんにゃく1丁が8文。
  • 鶏卵1個が5~8文、卵の水煮(ゆで卵)は1個20文。
  • 小松菜や水菜といった季節ごとの菜は3~4文、大根1本が8~10文、瓜1個が8文、里芋1升(約1.5kg)が36文、蓮根1本が78文、椎茸10個が45文、柚1個が16文、長いも1本が108文。
◇飲食店の値段
  • 「蕎麦屋」御膳大蒸籠が48文、蕎麦(もり・かけ)16文、天ぷらそば32文、しっぽくそば24文、玉子とじそば32文、鴨南蛮そば36文。
  • 「寿司屋」箱押しずし(方四寸)48文、コケラずし(鶏卵焼,あわび,鯛等)64文、ちらし寿司100~150文、毛ぬきずし(握りずしを熊笹に巻く)1個6文。握り寿司1個が4文~5,60文。
  • 「高級な寿司屋」天保の改革時,一個三匁~五匁(300~500文)、改革後は一個20~30文。
  • 「天麩羅茶漬店(屋台店)」飯付き一人前24文か32文、せいぜい48文(幕末・明治初頭の記録『江戸の夕栄』より)
  • 「うなぎ屋」うなぎ蒲焼は一皿200文、鰻飯は100文,140文,200百文
  • 「一膳飯屋」百膳という店で一人前100文(飯とつみれ汁、青身魚の煮しめ、漬物)。
  • 「どじょう吸物屋」どじょう汁・鯨汁が一椀16文。。
  • 「鍋料理屋」小鍋立,丸煮どじょう鍋16文、小鍋立,骨抜きどじょう鍋48文、二重土鍋立,骨抜きどじょう鍋200文、牛鍋300文(明治初年)。
  • 「茶漬屋」 茶漬飯一人分36文、48文、72文(文化・文政[1804-29]の頃)
  • 「甘酒屋」1椀8文、豆腐田楽が1本 2文。
  • 「焼き芋屋(木戸の番小屋)」1本が4文。
  • 「腰掛茶店」茶1杯が4文~16文、串団子1本4ツ刺しが4~5 文、饅頭1個が3文、大福餅/桜餅1個が4文。
  • 「麦湯(屋台-夜店)」麦湯のみ(食事も何もなく)が4文。
  • 「居酒屋」酒一合が下り酒で20文~24文、地廻り酒で8文~10文、酒の肴は一品8文。
◇雑貨の値段
  • わら草履1足が12文。
  • タバコ1匁(3.75g) 38文
  • ろうそく60本が100文。
  • 日傘1本が188~250文。
  • 熊手1本が35文
  • 髪結いが16~28文。
  • 湯屋(風呂屋)大人8~10文・子供4~5文。

長屋の働き者のおかみさんの暮らしぶり/ 春陽堂書店
「江戸では朝に一日分のご飯を炊いて、それを夜までに食べ、上方では主に夜に炊いて、残りを翌日の朝や昼に片づけました。
長屋の朝は早く、明け六つ(午前5~6時)の鐘が嗚ると、主婦であるおかみさんは朝餉(あさげ)の支度を始めます。亭主が大工さんなどの出職(でしょく:左官や庭師など、よそに出かけてする職業)ならば朝五つ(7~8時)には仕事場に出向きますので、竃(かまど)で火を起こして飯を炊いて、味噌汁を用意しました。長屋の働き者のおかみさんは、朝ご飯を亭主や子供に食べさせて、仕事や寺子屋に送り出します。
亭主たちを送り出したおかみさんは、井戸端会議をしながら洗濯です。それから裁縫や内職に精を出し、お昼に子供が帰ってくると一緒に朝の残りで昼食。弁当を持たせたこともありました。子供が寺子屋から帰ってくるのが八つ(午後2~3時)頃で、小腹を満たすおやつを与えました。亭主が仕事から帰ってくると夕餉(ゆうげ)の支度。また棒手振りが魚や野菜、惣菜を売りに現れます。
夕餉の前に亭主は子供を連れて湯屋に行き、一日の汚れを落としました。夜の灯りに庶民が使うのは行灯(あんどん)です。長屋の庶民は早い朝に備えて夜はなるべく早くに寝ました。」


「富士登山振分双六」慶応元年(1865)より「青物売り」の絵。
『守貞漫稿』によれば、三都(京・大坂・江戸)ともに、野菜を「青物」とも呼びました。したがって、野菜を扱う商売は、すべて「青物売り」です。江戸では青物売りを「前栽(ぜんさい)売り」と呼びました。
江戸には、神田や本所、千住、品川などに野菜市場があり、出商いの青物売りは、これらの市場で仕入れて、売り出したようです。一方で、近在の農家では、自分の畑で作ったものを一種類か二種類くらい持って、町場を売り歩く場合もありました。「前栽」には庭先で作ったものという意味があり、もともとは農家が手作りした野菜を売ることをいいましたが、後になって、野菜の行商すべてを意味する言葉となったようです。



参考資料:東建コーポレーション株式会社、江東区深川江戸資料館「長屋と人々の暮らし」、紅葉堂書房「江戸の夕栄」、「蔵のあるまちーまちといとなみ」都市環境デザイン会議広報2000.1.20、公益社団法人 都市住宅学会、「物品賃貸業の歴史的研究-江戸時代の物品賃貸業-」水谷謙治、「衣服産業のはじめ」中込省三、現代に活かそう「江戸のエコ生活」、神奈川新聞社「開国史話」加藤祐三、三笠書房「図解!江戸時代」






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