日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 江戸長屋と江戸の水事情(水道と水売り)

1-1.江戸庶民の暮らし「長屋」

江戸の都市の面積のほとんどは武家屋敷で占められていたにもかかわらず、町人地(町方とも呼ばれる)人口は武士とほぼ同数だったといわれている。町人地には、表通りに町屋敷を持つ地主層と、土地は持たないものの表通りに土地を借り持つ地借層、表通りに面しない裏長屋に住む店借層がいた。表通りでは商売が営まれ、裏長屋では店の奉公人や職人、行商人など江戸の大部分の庶民が生活していた。
長屋には表店と裏店かあり、表通りに面して建てられたのか「表店(おもてだな)」。こに住めるのは、高給取りの職人の頭や、大店の番頭クラスで、二階建てもめずらしくはなかった。一方、表店の路地を入ったところに並んでいるのが「裏店(うらだな)」。庶民を代表する職人たちの多くはこの裏店の「裏長屋」に住み、家賃を日払いでおさめていた。多くの江戸庶民の住まいでは、中堅の商人や職人層(地借家持)は主に表通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。一方、駄菓子や小間物、荒物などを商う比較的裕福な小商人(こあきんど)などは表通りに面して建てられた「表長屋」といわれる店舗と住まいを兼ねた二階建ての長屋を借りた。また、農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農(小百姓)、商家の奉公人、職人、行商人や日雇人夫、最下層の武士などは、表通りの裏手の路地中に建てられた「裏長屋」で暮らしていた。

 

裏長屋は棟割り形式の平屋が普通で、広さ9尺×2間/約3坪か、9尺×3間/約4.5坪が多く、「九尺二間の裏長屋」と称され、六畳一間の広さが住宅の基本となっている。その中に入り口の土間や煮炊きをする竈(へっつい,かまど)が付いているため、実際には部屋として使えるのは四畳半であった。それが居間兼寝室で、当然押し入れは無く、布団は昼間は畳んで部屋の隅に置き、ついたてで隠していた。

長屋は、防火対策から家の中の土間に「煮炊き用」の釜を設置してあるだけで、その釜で朝に1日分の飯を一度に炊き、昼と夕方は冷やご飯を食べていた。食事の支度は、さまざまな振売行商人から朝食にあう豆腐や納豆など、買った食材で長屋の女房たちは食事を作った。長屋の食事は一汁一菜が基本である。白米、みそ汁、たくあんなどの漬物に、根菜の煮物や魚の煮つけなどのオカズを揃えた。

おかずの調理は井戸の周りで行い、外にある七輪で焼くという調理方法をとっていた。イワシやサンマなどの焼き魚が食卓に上がるのは、七輪が登場する江戸後期といわれている。それだけに調理済みの総菜を売る屋台や煮売り屋(道端で魚や野菜の煮物を売る商売)はとても重宝だった。また、小型で移動できる七輪や長火鉢などで、お茶を沸かしたり鍋物を温めたりした。長屋の仲間2、3人が集まって鍋物をする「小鍋立て」と呼ばれる調理法も可能になった。



1-2.表長屋と裏長屋の関係

「長屋」とは、一棟の細長い建物を複数の所帯で住み分ける住居のことで、2種類の長屋があった。表の大通りに面して建てられた商売を営む店舗兼住宅を一般的に表長屋(表店,おもてだな)といい、2階建てが多く、1階部分が商いのスペース、2階部分が住居になっており裕福な人が住んでいた。それに対して、表通りから表店の裏側へ入っていく三尺~ 六尺の路地に面している住宅が裏長屋(裏店,うらだな)である。一般に長屋といえば、裏長屋のことをいった。裏店に裏長屋が建てられ、一般化したのは享保期以降と言われている。

路地木戸(長屋木戸)は「明け六つ」(午前6時頃)に開けられ、「暮れ六つ」(午後6時頃)に閉じられた。裏長屋への出入り口は長屋木戸のみで、そこを閉めると出入りができなる。長屋の当番のものが、月番で錠をあずかって、木戸の戸締りの仕事をした。木戸の上には、住民の表札を兼ねた看板や貼り紙が掲げられているものもあった。


裏長屋は、江戸人口のほぼ半数を占める庶民が住み、主に、四畳半の部屋に一畳半の台所と土間がついた「九尺二間」(間口3.6m、奥行2.7m)の大きさである。表通りとの出入口には路地木戸(長屋木戸)があった。表通りには、瓦屋根による土蔵造りや塗屋造りとする見世蔵(店)などの堅牢な町屋が並んでいたが、町裏へ入れば粗末な造りの長屋があった。

大通りに面した表店には、棟梁・鳶頭・隠居・町師匠などの町人が住んでいたが、江戸町人の大半は路地に面した裏長屋に住み、車曳き・火消人足・大工や左官・髪結(かみゆい)・畳刺し・籠かき・魚売り・浪人者・等々さまざまな人達が暮らしていた。長屋の女性は炊事、洗濯、掃除などの家事や育児以外にも、着物の縫い目をほどく洗い張りや洗濯を専業とする商売、機織りなども女性の仕事とされていた。
長屋の家賃は、平均で月1000文、棟割り長屋で月500文程度、老朽化したもので月300文程度であった。



1-3.江戸長屋の種類

裏長屋(裏店,うらだな)には、「棟割長屋」と「割長屋」があった。
「棟割長屋」は屋根の棟のところで仕切り、背中合わせに部屋が作られた形で、両隣だけでなく背中合わせにも隣の住人がいる形式である。
部屋同士が背をつけている「棟割長屋」1軒の平均的な大きさは、間口が九尺(約2.7m)、奥行きが二間(約3.6m)。入り口をくぐると三尺四方の踏み込みの土間、片隅に竈(かまど)と座り流しに水瓶(みずがめ)が置かれていた。その奥に生活空間の四畳半があった。窓と押し入れはなく、1軒には平均2~3人が住んでいた。「割長屋」は六畳間で、梯子(はしご)をかけて上る物置のような中2階も付いていた。

   

表通りに面した表長屋(表店)に門の形をした木戸(長屋入り口)から、三~六尺(約90cm~約1.8m)程度の細い路地があり、その周りに裏長屋が建てられていた。路地は住人の共有通路で路地の中央には溝板(どぶいた)が奥の方まで敷いてあり、その下には雨水を流す下水溝(どぶ)が通っていた。台所の「流し台」からの排水は木樋や竹筒で家の外へ出し、長屋の路地の真ん中を流れている幅が6、7寸(約18~21cm)ほどの「溝(どぶ)」に排水した。ここには、長屋の人々が洗濯や食器などの洗い物をする、井戸端の共同の流し場からの排水、雨水もこの「どぶ」に流れ込んでいた。



長屋住民の共用スペースとしての路地には、厠(かわや)、掃き溜め(ゴミ捨て場)、井戸が付設されていた。路地の奥にある共同井戸は、飲料水や、洗濯用の生活用水として重宝されていた。井戸の多くは神田上水や玉川上水の水を汲揚げる水道井戸であった。共同の井戸では、朝の洗顔から、食事の下ごしらえ、洗濯などをすべてここで行なった。長屋住人にとって重要なライフラインである井戸の掃除「井戸さらい」は、年に1度、住人総出で行われた。共同のゴミ捨て場には、茶碗のかけらのようなもの、生ゴミや貝殻、再利用し尽くして用途のなくなった生活用品などが捨てられた。路地は通路以外として物売りの市・子供の遊び場・夏には縁台を出しての夕涼み・井戸端会議など、社交場としての役割を果たした。





1-4.長屋の大家

江戸時代の土地は、基本的にはすべて幕府の所有物であった。幕府は大名に土地を貸し、大名は地主などに貸し、地主はそこに長屋を建てて庶民に貸すという構図であった。その中で、地主に代わってその土地・家を管理する家主(いえぬし)がいた。
家主は、家守(やもり)とか大家(おおや)とも呼ばれていた。大家は長屋の管理人であって、長屋の持ち主ではなかった。長屋の大家は裏木戸と呼ばれる出入り口のカギを開け閉めしていた。明け六つ(朝6時)の鐘が鳴ると裏木戸の門が開いて、暮れ四つ(夕方10時)には戸が閉めなくてはならなかった。



大家は江戸の町の行政を担っていた
幕府は町奉行のもとに、上級町役人(ちょうやくにん)の「町年寄」や「町名主」と下級町役人の「大家(家主)」などの3役で町と住民の管理を行なった。
江戸の町の行政の中心の「町年寄」「町名主」「大家」の3役は、武士ではなく町人階級の中から選ばれ、道路の保守管理や防犯、防火、紛争の調停などさまざまな役割を担っていた。この3役の中でもっとも高位だったのが「町年寄」という役で、町奉行所から出された布令を受け取り、町人に伝達する役割を持っていた。
「町名主」は町年寄の下に位置し、小さく区切られた町単位での行政を任されて、平均しておよそ7〜8町を担当しており、ほかに仕事は持たず、専任で町政を行っていた。また、「大家(家主)」はさらにその下で、町名主の指示を受けて実際の町民と接触し、実際の町の運営に当たっていた。

大家は町奉行所など行政機関の末端に位置し、裏長屋の店賃(たなちん)のやり取りだけなく、店子(たなこ)へ町触れ(広報)の読み聞かせ、店子の身元調査と身元保証人の確定、諸願や土地家屋の売買書類への連印、賃貸の管理、水道や井戸の修理、道路の修繕、喧嘩・口論の仲裁、人別帳調査をはじめとした長屋の住民の把握など、さまざまな役目があった。
また、名主や大家で「五人組」の自治組織を作り、月毎に当番を決め、月行事(がちぎょうじ)を選び、町の自身番に詰め、長屋だけでなく町の自治管理も務めた。借家人は、表借家人(表長屋)・裏借家人(裏長屋)を問わず、町人としての町政参加が認められなかった。





1-5.裏長屋・住人の暮らし

長屋の大家の仕事
江戸時代には、長屋の土地・建物の所有者と、その所有者に代わって貸地・貸家を管理する大家がいた。大家について「守貞漫稿」によれば、江戸には約2万人いたと言われる。様々な人々が暮らす江戸の長屋を取りまとめていたのは大家である。ただこの大家はほとんどか、地主ではなく、借家人の管理を地主から請け負って行う管理人的な人であった。店賃を集めた手数料(賃料の5%程度)や店子からの礼金(訴訟やお願いなどの付き添い料)の他、大きな収入となったのが、借家人たちの屎尿(しによう)。これを下肥として近郊の農家に肥料として売った。住民一人あたり1年で米一斗ほどの値になったと云う。

土地所有者・地主で無い地主の代理人「雇われ管理人」の大家は、長屋の住人から家賃[店賃(たなちん)]を徴収する役目をもっていたが、同時に、町役人として防火防犯の取り締まりの治安維持の役目も行なった。大家の重要な仕事には次のものがあった。
①同じ町内の大家たちと組んで五人組というものを作って五人組が交代で一ヶ月ごとに月行事(がちぎょうじ)の町政に参加したり、 町内の自身番に交代で詰めるなどの町役人(ちょうやくにん)としての町内の秩序維持活動を行い、公務で多忙の町名主に代わり町政を担う。
②町政(町名主の補助業務)に関する業務 … 町触れ伝達、人別帳調査、火の番と夜回り、火消し人足の差配、訴訟や呼び出しでの奉行所への付き添い、諸願いや不動産売買の際の証人など。
③長屋管理に関する業務 … 店子の身元調査と身元保証人の確保、上下水道や井戸の保全、道路の修繕、建物の管理、賃料の集金、店子の生活の指導や扶助、病人怪我人の救済、冠婚葬祭の差配などを行う。
大家は主なものでこれだけの仕事をこなしていた。江戸時代の御定書(おさだめがき)の中に、大家が管理する長屋敷地内に行き倒れた病人怪我人、捨て子があった場合、この面倒を見なければならないと定めがあった。乳飲み子の捨て子が保護された場合は、養子先を探す、適当な里親が見つからなければ、奉公に出られる年齢になるまでの衣食住の世話、手跡指南所(寺子屋)の入所などの教育、奉公先の斡旋など自活するための援助など、親同然としての責務が課せられていた。


長屋の働き者のおかみさんの暮らしぶり/ 春陽堂書店
「江戸では朝に一日分のご飯を炊いて、それを夜までに食べ、上方では主に夜に炊いて、残りを翌日の朝や昼に片づけました。
長屋の朝は早く、明け六つ(午前5~6時)の鐘が嗚ると、主婦であるおかみさんは朝餉(あさげ)の支度を始めます。亭主が大工さんなどの出職(でしょく:左官や庭師など、よそに出かけてする職業)ならぱ朝五つ(7~8時)には仕事場に出向きますので、竃(かまど)で火を起こして飯を炊いて、味噌汁を用意しました。長屋の働き者のおかみさんは、朝ご飯を亭主や子供に食べさせて、仕事や寺子屋に送り出します。
亭主たちを送り出したおかみさんは、井戸端会議をしながら洗濯です。それから裁縫や内職に精を出し、お昼に子供か帰ってくると一緒に朝の残りで昼食。弁当を持たせたこともありました。子供が寺子屋から帰ってくるのが八つ(午後2~3時)頃で、小腹を満たすおやつを与えました。亭主が仕事から帰ってくると夕餉(ゆうげ)の支度。また棒手振りが魚や野菜、惣菜を売りに現れます。
夕餉の前に亭主は子供を連れて湯屋に行き、一日の汚れを落としました。夜の灯りはに庶民が使うのは行灯(あんどん)です。長屋の庶民は早い朝に備えて夜はなるべく早くに寝ました。」


「富士登山振分双六」慶応元年(1865)より「青物売り」の絵。
『守貞漫稿』によれば、三都(京・大坂・江戸)ともに、野菜を「青物」とも呼びました。したがって、野菜を扱う商売は、すべて「青物売り」です。江戸では青物売りを「前栽(ぜんさい)売り」と呼びました。
江戸には、神田や本所、千住、品川などに野菜市場があり、出商いの青物売りは、これらの市場で仕入れて、売り出したようです。一方で、近在の農家では、自分の畑で作ったものを一種類か二種類くらい持って、町場を売り歩く場合もありました。「前栽」には庭先で作ったものという意味があり、もともとは農家が手作りした野菜を売ることをいいましたが、後になって、野菜の行商すべてを意味する言葉となったようです。


長屋住人は日々、食材を購入していた
長屋の朝は早く、夜明けと共に起き、日暮れと共に寝るという暮らしをしていた。江戸庶民が暮らす長屋の路地には、毎日のように物売りたちがやってきて食材を売っていたため、おかずには事欠くことがなかった。食材を両天秤で担いで売りに来るのが棒手振り(ぽてふり)の行商人で、彼らは店舗を持たず、天秤棒の両脇に商品を吊り下げて、庶民の住む長屋や、下級武士の住まいなどを主な商売の場所にしていた。
当時は漬け物や味噌、醤油、米といった食品以外は保存がきかないので、その日に食べる分だけを、こうした商人から買い求めた。アサリやシジミなどの身だけを売るむきみ売り、魚売り、ドジョウ売り、納豆売り、豆腐に油揚げ売り、季節の野菜を売る青物売り、煮豆売りなどであった。その多様性から、江戸庶民は家に居ながらにして必要な食材を必要な分だけ買いそろえることができた。
酒屋や米屋、魚屋のような表店、裏店にも買いに行ったりしたが、その頃の棒手振りは、主に「一色商い(ひといろあきない)」といわれる一つの品物を専売するのが主流で、こうした物売りが安くて便利であった。



文政年間(1818-1829年)頃の食品・調味料の物価は、屋台の二八そば1杯が16文、握り鮨1個8~10文、天麩羅1個4~6文、米一升(約1.5kg)が120文、関東醤油1升/60文、下り醤油1升/108文、塩1升/20~50文、納豆1束/4文、たたき納豆が8文、蜆(しじみ)1升/10文、小蛤1升/20文、イワシ1尾/5文、このしろ1尾/3文、豆腐1/4丁(現在の豆腐1丁の大きさ)が10~15文、鶏卵1個/5~8文、卵の水煮(ゆで卵)はわりと高価で1個20文、小松菜や水菜といった季節ごとの菜売りは3~4文、大根1本/8~10文、里芋1升(約1.5kg)/36文であった。


長屋住人の職業と収入
裏長屋の住人の多くは、物売りなどの独身男性たちであった。江戸の庶民である長屋住民の職業を見ても日雇稼ぎ、棒手振り等の不定期就労者が多く、住人の平均的な1日の稼ぎは、居職で350文、出職で410文程度であった。長屋の店賃(たなちん=家賃)は月に800~1000文くらいだった。当時、真面目に働けば2~3日で稼げる程度の安い金額である。(文政時代,1818~31年に、大工、左官、鳶(とび)といった職人の手間賃が銀で3~5匁、銭に換算すると324~540文であった)
長屋にはいろいろな職業の人たちが住み、物質的には貧しくとも、おおらかに長屋での生活を謳歌していた。長屋では、住民同士の人情味溢れる助け合い社会が形成されており、生活必需品の貸し借りは、その代表例といえる。みそや醤油、米などの貸し借りがひんぱんに行われていたほか、食材や料理のお裾分けも日常的に行われていたようである。いわば、“個人の所有物は長屋の共有財産”という共通認識が、長屋の住民間で出来上がっていた。
裏長屋の生活は“その日暮らし”が多かったこともあり、「親も同然」といわれた大家の管理下のもと、「子」である店子たちもお互い助け合って生活していた。大家は店子の保証人になることもあり、子供の誕生や婚礼、葬式、奉行所への訴えにかかわったりもした。


九尺二間の裏長屋の部屋


長屋の部屋と生活
江戸時代の庶民は、ほぼ長屋に住んでいた。そして、その長屋は火事で燃えることが多かったので、かなり安普請に作られていた。平屋建て裏長屋の「棟割長屋」1軒の平均的な大きさは、九尺二間、間口が1間半(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)の3坪(10平米)程度である。採光は玄関の一方向のみで、風通しもよくなかった。入り口をくぐると1畳半の台所と土間があって、片隅に竈(へっつい)と、一段上がって居住スペースの畳敷き4畳半があった。
住居の炊事道具は土間にある竈と流しと水瓶(みずがめ)、そして米びつ、おひつ、鍋、釜、包丁、まな板、擂り鉢、笊と夫婦の箱膳である。箱膳は箱形になっている膳のことで、自分用の飯茶碗、汁椀、皿と箸を納めておき、食事をする時には箱の蓋を裏返して食器を載せた。
衣類は風呂敷に包んで、布団と一緒に隅に置き枕屏風で隠して片付けていた。家具では行灯(あんどん)、火鉢、小ぶりな箪笥(たんす)程度である。冬になると、江戸庶民にもっとも使われた暖房具は「長火鉢」であった。木製の長方形の火鉢であり、炭火のうえで鍋を温め、灰のなかに埋め込んだ銅壺(どうこ)で湯をわかしたり、酒を温めたりした。

江戸庶民にとって、布団とは敷き布団のみを意味し、掛けるものを夜着といっていた。
この時代の江戸庶民は敷き布団だけで寝るのが普通で、掛け布団は今のような形ではなく、「夜着(かいまき)」と呼ばれる綿人れを使っていた。襟布と広袖が付いていて、着物よりもひと回り大きい綿入れの「ドテラ」のようなものを掛け布団代わりに使っていた。襟布は大きめで黒天鵞絨(くろびろーど)などの丈夫かつ、防寒性の高い布地で包まれていた。
いっぽう、大坂や京都では、元禄年間(1688~1704)頃から、夜着ではなく現在のような掛け布団が使われていた。長さがおよそ170センチほどあり、「大ふとん」とも呼ばれた。江戸で、四角い掛け布団が使われるようになったのは江戸末期のことである。

貧富の差によって、使っている布団には違いがあった。裕福な商人は綿がたっぷり入った敷き布団を、貧乏長屋の住人は綿のほとんど入っていない煎餅布団を使っていた。夏は汗をかくので、煎餅布団の上に「寝茣蓙(ねござ)」という茣蓙を敷いていた。また、長屋の住民は敷布団の下に「八反風呂敷(はったんふろしき)」を敷いて寝ていた。近くで火事になったとき、夜着と枕を敷布団でくるみ、この風呂敷で包み込んで運び出すための工夫であった。
近郊の農家では、こもや筵(むしろ)を敷くか、ワラぶとんで寝るのが一般的で、綿入りの敷きぶとんを使うことはめずらしかった。

長屋の部屋で仕事を行う職人は、まず、朝起きると布団をたたんで片隅に積んで置き、そこで箱膳で食事をする。食事の後に、畳を外して部屋の隅に重ねて板間にする。こうして、家で仕事をする職人の作業場ができて仕事をおこなった。そして夜は畳を敷いて家族の居間に、さらに布団を敷いて寝室にと、一つの部屋を時間帯で使い分けていた。
江戸時代の長屋では、畳は長屋の大家が用意しておくものではなく、部屋を借りる店子が運び込んで使ったといわれている。このため、職人や独身者の場合は、畳を敷かず、筵(むしろ)敷きで暮らしていることもあった。畳が一般のものとなったのは、江戸時代中期の元禄期あたりからで、 江戸時代後半には庶民の住まいにも徐々に使用され、畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が生まれた。町屋や長屋にも畳の部屋がつくられるようになったが、まだまだ畳は高価な床材で火事になれば持って逃げるし、お金がなくなれば畳を質草に入れて工面することもあったという。

夜の照明は「行灯(あんどん)」であったが、形や大きさはさまざまであった。受け皿の上に灯明皿(とうみょうざら)をのせて、灯芯(とうしん)を浸して火を点(とも)すもので、風を防ぎ照明効果を上げるために障子紙で周りを囲った。また、「瓦灯(かとう)」と呼ばれる照明器具もあり、行灯よりも安かったため、貧乏長屋の庶民が使つていたのは、この瓦灯だったのだろう。行灯の明るさは、灯火の近くでやっと文字が読める程度であったようである。その薄ぼんやりとした明るさのなかで、庶民は内職をしたり、食事をしていた。
 
行灯(あんどん)に使う油は菜種油であったが、当時はまだまだ高価だったため、貧しい人は、菜種油の半値くらいのイワシなどからとった「魚油」を使った。トイレは、住居の外に設けられた「惣後架(そうこうか)」という共同便所[厠(かわや)]が使われ、風呂がなく、湯屋とよばれる銭湯(湯銭八文)を使い、洗濯も共同の井戸を使っていた。



2-1.江戸の水道(上水井戸)

江戸の水道事情
江戸の上水井戸(水道)に関し、「元来江戸の地は飲料水に乏しきゆゑに、三代将軍御治世の時大久保主水に命じ、武蔵国多摩郡井の頭の池水を、木樋(とゆ)にて数里の距離を江戸の井水に引用し、承応年間落成す。その後玉川上水も引用す。元禄元年 河村瑞賢計画、千川用水もなる」と記録が残っている。

 江戸の町を形成した土地のほとんどが海岸に近い埋立地だったため、井戸を掘っても地下水に塩分を含んでいて飲み水(生活用水)が確保できない。幕府は、家臣の大久保藤五郎に上水道の整備を命じ、江戸で最初の水道となる井の頭池から総延長63キロにもなる長大な上水道・神田上水をつくらせた。その他の地域の飲み水をカバーしていたのは、赤坂の溜池の水だったが、都市の拡大と共に賄いきれなくなったために、新たな上水道として、多摩川から水を取り込む玉川上水が開削された。合わせて総延長150キロという、当時、世界最大級の上水道であった。
 江戸の水道は「自然流下式」といって、高低差を利用して川のように水を流す方法であった。その後、人口が増大して、神田上水だけでは賄いきれなくなり、1653年に、さらに豊富な水量を求めて、多摩川を水源とした玉川上水(多摩川が水源)が着工された。ところで、玉川上水開発の10年ほど後にも江戸府内に四つの上水が開発されている。明暦の大火を経て、さらに拡大した市街地の飲料水を賄うため、亀有(本所)上水が万治2年(1659)、青山上水が万治3年、三田上水が寛文4年(1664)、千川上水が元禄9年(1696)の開設である。これらによって江戸全体をカバーする上水道網が完成した。のちに、井戸掘削技術の向上によって地下水のくみ上げが容易になったことから、この四つの上水は享保7年(1722)に廃止された。廃止された上水道は農業用水として人々の生活に利用された。


■神田上水
「徳川家康の入府前後に、まず開設されたのが上水道・神田上水だ。水源は武蔵野の丼の頭池。途中で、善福寺池から流れ出る善福寺川や、妙正寺池から流れ出る妙正寺川を合わせた江戸川の水流を、目白台下の関口の堰で分水し、小日向台の下、小石川の水戸藩邸邸内を通って、懸樋(かけひ)を使って神田川を立体交差して渡すという離れ業をやってのけ、神田・日本橋方面を中心に配水管となる木樋(または石樋)で、総延長63キロにもなる上水道を通した。木管を通った水は、町ごとに水道タンクとなる上水井戸から汲み上げて使う仕組みになっており、当時のハイテク技術を駆使した土木事業である。」(堀口茉純著「江戸はスゴイ -世界一幸せな人びとの浮世ぐらし-」,PHP新書から引用)

■玉川上水
玉川上水は江戸全域に供水可能で、江戸城、大名屋敷、および武家屋敷を主体に配水していた。一方、神田上水は武家屋敷と町屋を主体に配水していた。江戸の上水道は人々の生活用水とともに防火用水、江戸城堀、大名屋敷泉水、下水に水を流すなどのを多用途施設であった。玉川上水は多摩川の上流、羽村(現在の羽村市)から取水し、武蔵野台地の地理、地形を巧みに読み取ってほぼ平坦な地面を延々約11里(約43km)、標高差は約92m、江戸の西の入口、 四谷大木戸(現在の新宿区四谷)まで導水した。
玉川上水は武蔵野台地の各所に分水され、潅漑用水や生活用水として流域の村々を潤した。幕府から工事を請け負った庄右衛門・清右衛門の兄弟(後に玉川の姓を拝命)は、1653年(承応2年)4月から同年11月までのわずか7ヶ月間で、多大な苦難を乗り越えて完成させたと伝えられている。


神田上水と玉川上水が描かれている正徳末(1718年)頃の江戸上水図

甲州街道の関所であった四谷の大木戸の脇に、水番所が設けられ、水門を調節して江戸市中への配水量を管理し、ごみ除去や水質管理も行っていた。また、1698年(元禄11年)には、水番所が置かれていた四谷大木戸の西に、内藤家の屋敷の一部を利用した「内藤新宿」が開設された。当時の内藤新宿界隈の玉川上水は、桜並木が続く江戸の名所であり、浮世絵からも多くの行楽客でにぎわう様子が描かれている。玉川上水の水は内藤新宿の四谷大木戸を基点とし、地中の木樋や石樋の水道管を通って江戸市中へ配水されるとともに、皇居のお濠の水源にもなっていた。また、玉川上水の余剰水は、隣接する内藤家の屋敷内につくられた玉藻池(新宿御苑内に現存)に分流され、渋谷川の流れとなった。


■水道井戸の構造
江戸の井戸は、井の頭池から引いた神田上水や多摩川から取水した玉川上水から高低差を利用して地下に埋め込んだ石樋(せきひ)や木樋(もくひ)の中を流れる水を溜めた大きな桶を積み重ねて設置され、そこに水が溜まる仕組みになっている。江戸の人々は、この桶に溜まった水を地上から汲み上げて使ったのが水道井戸である。人々は、つるべや竹竿の先に桶をつけたもので井戸の水を汲んだ。
上水井戸本体は、底のない樽を重ねて作った。地上に出る樽を化粧側といい、地下にある樽を根側という。根側の一番下の樽には底がある。上水道から引いた木製の樋から、竹筒でできた呼び樋を使って井戸に水を溜める仕組みになっている。

 
水道井戸の構造・上水井戸・石樋(せきひ)と木樋(もくひ)
上水井戸の水、つまり、水道の上水路は地下九尺のところに幅六尺の「石樋(せきひ)」があった。石樋の構造は、上部の石蓋は長さが約1800mm、目方は約370キロという石板を両側の石に架け渡して水路を形成してずっと延びていた。両側の石の一個の重さが約180キロ以上もあるという巨大な石樋で、内径は1500mmもあり当時の最大配水幹線である。この石樋はからは水道の樋の「木樋(もくひ)」となって、江戸西南部の武家屋敷や町々に給水した。木樋の用材は水に強い檜で、松や杉なども用いている。これらの木樋を厚薄二つ割りにして、薄いほうを蓋にし、合わせ目には檜皮をつめ、打ち釘やかすがいなどで止めた。木樋と木樋の繋ぎ目にも檜皮をつけて漏水を防いだ。木樋管の接続や方向転換には「溜桝(継手)」を造った。こうした木樋を通って送られてくる水を、呼び樋の「竹樋(たけひ)」を用いて末端の井戸につないだ。その「上水井戸(水道井戸)」に水を呼び込んで汲みあげて使用していた。


水道井戸の水道料金
「水銀(みずぎん)」は、給水区域の武家・町方へ割り当てられた上水の使用料であった。町方は屋敷単位ではなく一町単位で、表間口一間につき11文の割合か表間口二間で100石の換算だった。武家にしても町方にしても水銀は表屋敷を持っている者に課せられた。この水銀は、神田、玉川両上水の水番人などの使用人の給料や、水源地 や上水の桶、枡の修理など上水の維持管理経費として徴収された。上水の武家・町方への配水管は木樋(もくひ)を埋めてものであるから腐りやすく定期的に修理普請が必要だった。神田上水は水銀とは別に修理普請費用の「普請金(ふしんきん)」を徴収したかどうか明らかではないが、玉川上水の場合は徴収した。

庶民の住む長屋の飲み水は「水売り」から買う場合もあるが、長屋には「水道井戸」が引かれていた。江戸の町には、人工の上水道があった。そこで、江戸っ子の自幔のひとつに「水道の水で産湯をつかった」というのがある。江戸中期から後期にかけて幕府の「公営」となった水道料金の「水銀(みずぎん)」は、武士が禄高、町人(地主、家持ち)からは敷地の表間口に応じて支払った。長屋暮らしの住人たちの水道料金は、長屋の戸数に応じて大家が負担をしており、長屋の店賃には水道井戸の使用料金が含まれていたが、年に1度は井戸浚いをするのが決まりであった。


七夕の井戸さらえ
水道井戸は、江戸時代の中期頃には江戸市中に、ほぼ20~30メートル四方に1か所の割合で設置されていた。日頃使う井戸は、1年に1度(旧暦の7月7日,新暦8月中旬頃)の約一日半かけての「井戸さらえ」があり、大家の指示のもと、住人総出で水を汲みだし、井戸職人が井戸の中に入って隅々まで掃除を行なった。この「井戸さらえ」は江戸中で一斉に行われた。すべての作業が終わると、井戸にふたをしてお神酒や塩を備えるのが習わしであった。
なお、7月7日に「井戸さらえ」を行った理由は、七夕本来が、数日後にやってくる盂蘭盆会(うらぼんえ)に向けての払いの儀式だったことと、大切な飲料水を清める儀式を重ねた意義を持たせた行事であったことにある。

『絵本江戸風俗往来』東洋文庫/菊池貴一郎著から”井戸さらえ”を引用。
「七月七日は七夕の佳節(かせつ=めでたい日)、五節句の中、三月上巳・五月端午と同じ。今日は江戸中井戸浚い(さらい)」を挙行する。上は諸侯方、下は裏々の共同井戸に至るまで、皆水を汲み干して浚う。まず井戸の化粧側をはずし、車にて綱を下げ大桶を卸して、その綱は共同井戸使用の人々、残らず出て曳くの習いなり。井水七分通り汲み干すや、井戸職、井水中にくぐり、井側を洗い、底に落ちたる物を拾い出し、ことごとく汲み干すやまた化粧側を元の如くかけ、板戸を蓋にして、御酒・塩を供えること市中皆一様なり。昨日より今日よりや今日正午までに浚い終わるなり」


『絵本世都之時』/浮世絵師 北尾重政 安永四年(1775)
井戸さらえ(夏の行事、井戸掃除するために、木に滑車をつけて井戸水を汲みだしている様子が描かれている)


江戸の上水(水道)管理
幕府は江戸の町の飲み水の運営には、幕府自身が直接関与した。神田上水には「水番屋」が5ヶ所あり、番人が居住服務していた。また、玉川上水の水番屋は、江戸外の羽村、砂川村・代田村の3ヶ所、市内の四谷大木戸・赤坂溜池の2ヶ所に設けられた。


神田川に架けた木樋「江戸名所図会・御茶ノ水懸樋(かけとい)」

幕府は上水堀を定期的に上水浚えを行い、底に溜まった土砂や水草、岸辺の雑草を除去させた。これは、飲料水としての上水が絶えず円滑に流れ、しかも正常であることが必要であった。水番屋では「水番人」が常駐していた。水番人は江戸市中への水が安定供給できるよう、上水を見回り、塵芥の引き上げから水質・水量の調節などの責任を負った。また、水路の要所には、奉行名での高札が立てられ、「この上水道で魚を取り水をあび、塵芥を捨てたりしたものは厳罰に処す」と監視が行われていた。



2-2.江戸の水売り

■飲用の水売り(水屋)
江戸市中では「水屋」が繁盛していた。山の手の良水の出る深井戸や、上水の利用できるところと契約しておいて、その水を桶に入れ、顧客のもとへと売り歩く商売であった。値段は、水元とお客の家との距離で決められた。

水売人には名水と呼ばれる井戸から銭を払って水を汲み、それを売り歩いた者や、水銭を払って神田上水・玉川上水の余水を汲み、深川の町々へ一荷いくらで売る水船業者がいた。水売り人は、天秤棒で水を入れた桶を前後に担いで売り歩き、この2桶を一荷(か)と言う。一荷は三〜四斗(約54〜72リットル)である。
江戸時代の物売りで「水売り」や「水屋」と紹介されている水を商品として売る商売があった。同じ水売りでも、水道や井戸に遠い場所や、良質の井戸に恵まれていない所に、平時飲み水を売りに廻る行商人もいた。天候や遠近によって左右されるものの、一 荷四文程度で売っていたという。

水屋の「飲用水売り」「水売り」


■飲用水汲み場の図


以下の記述は「鋳鉄管 昭和48. 5 第14号」より引用したものである。
 『江戸の下町では井戸を持った家はどちらかというと富裕な階級だった。井戸もよく掘られた。しかし井水が飲用不適なところでは井水を雑用につかい、河川のきれいな水を汲んで、飲用に供していた。このために河川の所々の岸や堤には、たくさんの水汲み場がつくられた。この水汲み場ヘ重い水担桶をかついで、かなり遠くからも汲みにきた。
井戸水にも恵まれず、上水(水道)もなくて飲料水にも困るような地域では、家々にー荷いくらの値段で、飲み水を売り歩く「水売り」が、江戸時代には存在していた。一般の町家で、は水汲みは主婦の仕事になっていた。召使いのいる裕福な家では下男、下女などに水汲み仕事をさせた。
本所・深川などの町は、上水(水道)が隅田川を越えられなかったり、埋め立て地で水質が悪かったりして、飲料水に困る地域であった。そこで、水道の水を売り歩く「水屋」という商売が登場した
水売り、または水屋と呼ばれる稼業が発生して、水に恵まれない城下町では欠かせないものになってきた。水売りは短い天秤棒の両端ヘ細長い桶をつけ、それをになって出入りの店々へ一荷いくらで売っていたものである。遠近に応じて一荷で四文から六文の報酬をとっていた。なお河川の水ばかりでなく、良質の井戸水の出るところの水を汲んできて売る水屋もあった。山の手の名清水などからも冷水を汲んでは天秤棒をかついで下町へと売り歩いたもので、たいした資本もいらず、当時他の日稼ぎ仕事にくらべて割のいい稼業であった』


■冷や水売り
冷や水売りとは「年寄りの冷や水」の語源にもなった商売で深井戸の水に白玉や砂糖を入れて売る行商人である。江戸時代には、夏の間だけ「冷や水売り」という振売り商売があった。井戸で汲んだ冷たい水をたっぷり入れた桶やら荷を担ぎ町の辻々に現れては、少しでも冷たさを感じるように真鍮(しんちゅう)や錫(すず)の椀に冷や水を汲んで、1杯4文で売った。冷や水には「白砂糖と白玉が入った冷や水」もあった。
夏に冷や水売りとして冷水に白玉と砂糖を入れて売る行商人として、洒落本(しゃれぼん)や川柳でも取り上げられ、初夏の風物詩として多く記録にも残されている。夏の暑い盛りに、江戸の町には「ひやっこい、ひやっこい」という冷や水売りの声か響いた。これは、江戸の夏の名物であった。笠をかぶり、天秤に二つの桶をかついで売り歩いた。


「冷や水売り」、井戸水をくみ上げ砂糖を混ぜ白玉を乗せて4文程度。京都や大阪では「砂糖水売り」と呼んだ。

『守貞漫稿』の「冷や水売り」の説明には、「夏月、清冷の泉を汲み、白糖と寒晒粉(かんざらしこ)の団(団子)とを加へ、一椀4文に売る。求めに応じて8文・12文にも売るは、糖を多く加ふなり。売り詞、“ひやつこい ひやつこい”と云ふ」、「白玉は、寒晒粉(白玉粉)を水をもってこれを練り、これを丸めて湯烹(ゆに)にしたるをいふ。白糖をかけてこれを食す。あるひは冷水にこれを加ふ。また汁粉にもこれを加ふといへども、路上売りは冷水に用ふるを専らとして、夏月にこれを売る」と記している。



参考資料:東建コーポレーション株式会社、深川江戸資料館(公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団)、多摩郷土文庫「玉川上水」、紅葉堂書房「江戸の夕栄」、「蔵のあるまちーまちといとなみ」都市環境デザイン会議広報2000.1.20、公益社団法人 都市住宅学会、江東区深川江戸資料館、ビバ!江戸、社団法人 土木学会、鋳鉄管「随筆 水売り」昭和48. 5 第14号、神奈川新聞社『開国史話』加藤祐三、夢文庫『江戸の時代って本当はこんなに面白い』河出書房新社、「江戸の川 東京の川」(井上書院)、「江戸上水道の歴史」(吉川弘文館)、「土木技術者実践論文集」玉川上水・内藤新宿分水,2010.3







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