日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 江戸庶民の身分・支配制度と長屋

江戸庶民(町人)の身分制度

■江戸の都市構造
江戸は、8代将軍徳川吉宗の享保年間(1716~1736)の頃には、武家、寺社と町人を合わせて人口100万人(町人人口:約50万人)を超えた。江戸の町は1657年に起こる江戸市街の大半を焼いた明暦の大火が契機となり、幕府は江戸の町を防災都市へと構造的に転換させ、主に武士が居住する「武家地」、町人が住む「町人地」の区切りがはっきりするようになる。

城下町においては、 それぞれ身分に応じて武家地、 寺社地 、町人地の三つに配分された。この時代、江戸市内の土地の占有率は、60%が武家の屋敷地で、20%が町家、15%が寺で、残りの5%が神社であった。明暦大火後の都市改造によって江戸は人口・面積ともに膨張し、とりわけ町方人口の急激な増加と町人地の拡大が進んだ。

町人地には、武家の生活を支えるために、あらゆる種類の商人・職人(手工業者)や日用(日雇い労働者)らが集まった。なお住居は町人の7割が裏店(長屋)の暮らしだったと言われている。町人地の人口密度は非常に高く、1k㎡当たりに5万人もの人が住んでいた。(現在の東京23区の人口密度は1万4千人)




江戸の町人地のしくみ

■町人地の土地の私有化
江戸の土地は基本的に幕府が所有していたが、武家地などとは異なり、町人地では土地の私有が認められ、沽券地(こけんち)のように売買も行なわれていた土地もあった。沽券地は、「沽券」と呼ばれる土地売買証文が用意されている土地のことを指した。

この私有化された土地は地主が所有していたが、一般的に地主はその土地には住まず、家守(いえもり)がその土地に住み、同時に土地などの管理もしていた。私有化された地主の土地は、家守の他に裕福な商人たちも借りていた。


■江戸の町人地
江戸の町人地は町方(まちかた)といい、18世紀前半には50万人以上が暮らしていたと推定され、その多くは商工業で生計を立てていた。
町人地には、家屋をもつ家持(いえもち)のほか、土地だけを借りている者(地借-じがり)、借家住まいの者(店借-たながり)、商家等に住み込む者(奉公人)、江戸に流入した貧農や職人などが裏長屋を借りて住む店子(たなこ=借家人)らがいた。

当時、地所を持つ家持町人は呉服町、塩町、鍛冶町、大工町というように職種別に居住した。町人地を統括するのは町奉行であったが、実際は町年寄や町名主とよばれる町役人が町奉行と地主・家持の間にたって町政全般をおこなった。

町名主はお触れの伝達、訴訟の取次ぎ、喧嘩の仲裁、落し物、捨て子、自殺などの処理にあたり、それを補佐する家守(大家)は、家屋(裏長屋)の修理や借家人の世話も仕事とし、家賃の徴収もおこなった。
:江戸町人の人口には、町奉行支配下の町方人口と寺社奉行支配下の寺社門前町人,人口がある。享保時代の江戸町人の数は、町奉行支配が約50万、寺社奉行支配が5万、計約55万人であり、この数字は若干の上下変動はあるものの、幕末まであまり大きく変わらなかった。…「徳川吉宗と江戸の改革」大石慎三郎,講談社


■江戸の町人とは
江戸の町では、町の中に家と敷地を持ち住む人を「町人」と呼ばれた。家を持っていない人は、地借(じがり)・借家・店借(たながり)などを行って住んでいた。
江戸で“町人”といえば土地持ちの地主層で、庶民は正確には“町人”ではなかった。江戸庶民を代表する職人たちの多くは“店借”と呼ばれる長屋住まいの借家人で、所得税も住民税も払わなかったから“町人”ではない。彼らは「九尺二間」と呼ばれる裏長屋に住んでいた。職人には大工や左官などの「出職」と日用品や工芸品製作の「居職」があった。

では、誰が“町人”だったかというと、主に表通りに店を構える商家がそれに当たった。商家の経営者は地主であって家持(いえもち)である。所有地の間口に応じて町入用(ちょうにゅうよう)という費用を負担して町の運営にあたる有力者だけが“町人”だったのである。

いわゆる“大家”は家守(やもり)とも呼ばれ、地主から委任され、家屋敷の管理・維持や地代・店賃徴収の責任を負う者である。ほかに表に面した土地を借り、自分で店舗を建築して営業する小規模な商家・地借店持(じがりたなもち)もいたが、これらも厳密に言えば町人ではなかった。


■町人の階級の差
〇武士の町として開発された江戸では、町人は総人口の約半数を占めながら、総面積の20%の土地に居住させられていた。
江戸期の町人はいくつかの階級に分けられていて、例えば江戸では、"町年寄"-"町名主"-"地主・家持"-"家主"-"店(地)借人"となる。町年寄は、お上と町人を結ぶ中間的な立場であり、市政にも参加するほど実力のある町人であった。
長屋の住人たちは、このランクの最下層である店借人で、一般には店子(たなこ)といわれる。店子は正式な町人とは認めてもらえず、町内での公用出費がないかわりに、町人としての権利らしきものもほとんど持てなかった人たちである。



〇長屋の店子(=借家人)の面倒を見る者を大家(おおや)、あるいは家主(やぬし)や家守(やもり)とも呼ばれた。
家屋敷を所有する町人「家持(いえもち)」の雇われ代理人、つまり大家(=家主・家守)は、地主や家持から年八両から二十両の給料をもらい、長屋の全てを維持管理していた。
大家は江戸の町方支配の末端に位置し、店子たちは公的な場では必ず大家を通さないと、その存在は認められなかった。江戸時代後期の江戸には、大家が二万人以上いたと伝えられている。

〇江戸庶民が住む「町民地」は、大体、表通り(大通り)と裏通り(裏路地)に仕切られた区画になっていた。
町人の階級のあり方は一様ではなかった。町人は主に、二つの階級に分かれ、土地と屋敷を持つ商人・職人の旦那衆や親方衆を「町人」と呼んだ。
家屋敷を所有し表通りに店を構える町人の「旦那衆」から、裏通りに「裏店」と呼ばれる小ぢんまりとした店を構える下層町人(借家人)、没落した都市下層民(裏長屋の住人)までさまざまであった。

〇幕府が定めた「町人」という言葉は、
家屋敷を所有する「地主(家持町人)・家持(居付地主)」のことであり、後に町屋敷の貸与・売買が多くなると、家主(家守,大家とも称す)も加えられた。広義では町に居住する地借、店借も指し、町の人別に加えられている。(大家・家守は通称で、公式の書類では家主と記録されていた)

  • 江戸に住む庶民の中にも「町人(地主・家主)」「地借(じがり)」「店借(たながり)」「借家(しゃくや)」という系列身分があった。町人とは、厳密には「地主・家主として町政に参加する人々」に限られた。 したがって、宅地を借りてそこに家を建てて住む地借や、家屋を借りて住む店借・借家は、町人とは見なされなかったし、町の運営には参加できなかった。 江戸では、住民の約70%を店借・借家が占めた。本当の意味(狭義)での町人(地主・家主)は30%しかいなかった。

  • 表通りに土地を持ち、家や店を構えている大商人や御用達(ごようたし)職人の棟梁といった旦那衆や親方衆が町人である。ほかに表通りに面した土地を借り、自分で店舗を建築して営業する小規模な商家・地借店持(じがりたなもち)もいたが、これらは町人ではなかった。 江戸時代は土地を所有するかどうかで町人の身分が決まった。したがって地主(家持)とこれに準じる家主・家守(大家とも呼ばれた)は正式の町人として町政の構成員に席をつらね、借家人は一人前の町人として認められていなかった。 町人とそれ以外の者の違いは家屋敷を保有しているか否かであった。家を持たない借家人は町人ではなかった。

  • 江戸には表通りに土地を借りて、家や店を構えた中堅の商人や職人層である地借家持(じしやくいえもち)や長屋住人である店借(たながり)の店子(たなこ)と呼ばれる土地も家も持たない借家人などの様々な身分の人々がいた。 店子の身分や職業もさまざまで、職人、行商人(棒手振り・他)、日雇取り(日雇い)、下級の芸人、商店の世帯持ち使用人、等々である。 彼らは江戸の町に住んでいながらも町人ではなかった。



江戸庶民(町人)の支配制度

■江戸市政の町民地の支配系統
町は、町年寄、町名主、月行事などの町の代表をを中心として、町法(町掟)によって運営された。
江戸市政の支配系統は、〔町奉行〕 ⇒ 〔町年寄(奈良屋・樽屋・喜多村の三家)〕 ⇒ 〔町名主〕 ⇒ 〔地主・家持〕 ⇒ 〔家主(大家)〕 ⇒ 〔地借・店借人〕 であるが、町奉行や町年寄は、町政に直接介入することはせず、町の運営は名主・地主に委ねられていた。 しかも、町の実質的な運営は、地主に代ってその土地・家を管理する家主(いえぬし)が行っていた。家主は、家守(やもり)とか大屋とも呼ばれた。

ここで注意したいのは、「大屋」こと家主・家守は、長屋の所有者ではなく、あくまでも所有者の代理人であった。家主(大家)たちは、交代で「月行事(がちぎょうじ)」となり、町運営の実務に携わった。彼らが日常的に詰める事務所は「自身番屋」と呼ぼれた。自身番とは、まさに町の運営はその町自身が行うという、町の自治の意味である。

  • 町奉行: 町人を支配。町政の実務は町年寄・町名主・月行事といった町役人を起用して行った。
  • 町年寄: 家康の江戸入府に従い江戸の町を切り開いた奈良屋、樽屋、喜多屋の三家が代々世襲でつとめた。 年始三日の登城や寛永寺の将軍家の法事には将軍に謁見する。 江戸町政の実務を任され、町奉行所と町民の仲介する役割だった。 町年寄の役宅は本町一、二、三丁目にそれぞれあった。 三家とも町の南側区画の東角屋敷で、役宅は奥の一部を使い、通りに面した箇所は商人へ貸していた。 他にも拝領屋敷があり、彼らの主な収入はこれら拝領屋敷からの地代だった。
  • 町名主: 町年寄の下で担当地区の町政を任され、町内の一切のことに責任を持つ。 多い者は二十三町、もっとも少ない者は二町を任されている。 寺社門前町では四十町以上を任されている名主もいる。 平均は一人の町名主が七、八町、約二千人の住民を担当する。 町人には許されない玄関構えの家に住める特権を持っていた。
  • 地主(家持): 土地の所有者。名主の下に属する。 寛政三年(1791)には約一万九千人の地主がいた。 所有地に住まない不在地主も多く、家主を置いた。 地主には二種類があり、自分が所有する土地に住居する地主を「町内居付地主」と称し、土地を他人に貨して地主が他所に住むのを単に「地主」といった。
  • 家主大家・家守とも呼ぶ): 不在地主に雇われた土地や建物の管理人。 家主株を保有する必要がある。 店子(借家人)を差配し、自らは敷地内に一軒を無料で借りて住んでいる。 彼らの給金は町入用から支払われた。 寛政三年(1791)時点で約一万七千人で町入用から出す給与は五万両になった。
  • 店子: 地借(土地を借り、建物を自分で建てる)と店借(土地も建物を持たない)がいた。 長屋の住む人々はほとんどが店借だった。




町人地の自治的組織

■町民地の自治管理
町には、村と似たような自治的組織があった。幕府は町奉行のもとに、町年寄や町名主の上級町役人と大家(=家主・家守)などの下級町役人で月行事(がちぎょうじ)と呼ぶシステムで町と住民の管理を行った。

江戸の町人たちは税金である町入用(ちょうにゅうよう)を払う義務を果たし、その権利を認められた。このため土地や家を持たない店子と呼ばれる店借人・借家人は町人に含まれず、権利も認められていなかった。

町民地の地主・家持などの町人は、税金「町入用」などを負担する代わりに正式の町人として町政や公事に参加し、町の自治に関する権利を認められ、「町(ちょう)役人」を選出する選挙権を持つなど社会的身分や公的な権利と義務を持っていた。「町役人」の具体的な名称は、地域によって異なるが、町年寄・町名主などと呼称された。

町人のなかから選ばれた町役人が町の代表者となり、彼らを中心に町奉行のもとで町の運営を行った。町役人や大家で五人組を作り、月毎に月行事(がちぎょうじ)と呼ぶ当番を決めて町の「自身番」に詰め、長屋だけでなく町の管理も務めた。




■江戸府内の町民税
長屋とその土地の所有者である地主(家持町人)には、現在の地方税に相当する「町入用(ちょうにゅうよう)」が課税された。町入用から名主や地主、家主ら町役人や町内に雇われている自身番、木戸番や町火消の人件費、事務費、町内の道路工事や雑用など自治にかかる費用を賄っていた。町入用は町名主に納めた。

地主・家主は、それぞれに地借以下の町人について管理責任を負っていた。町人(地主・家主)の社会的役割の1つとして、賃貸しの長屋を格安の店賃で店子(=借家人)に貸すという慣習があった。
「大家(=家主・家守)」を雇い、店子から家賃を取立てたり、生活の雑事の面倒を見るなど、長屋の管理を任せた。大家は、「町入用」の納税義務はなく、店賃を免除されるなどの見返りを得ていた。

長屋の住人や借家住まいの人たち(地借、店借、借家)には、町政に参加する権利がなかったので、町政の税金「町入用」の納付義務はなかった。彼らは江戸の町に住んでいながらも町人に含まれなかった。税金を納めていたのは、裕福な階層の人だけであった。



町人地の町の治安設備

■町の防犯設備「木戸」
江戸の町には、町の防犯を担うための「町木戸」や 「長屋木戸」と呼ばれる門を設置し、自治管理で自警団として木戸番屋・自身番屋が置かれていた。

木戸は、市中の要所や町々の境界に設けられた治安維持のための門である。町ごとに設けられる町木戸は「明け六つ」(午前6時頃)に開けられ、「夜四つ」(午後10時頃)に閉門されていた。
裏長屋に入る路地口の入口にも裏木戸(長屋木戸)があり、長屋木戸は「明け六つ」に開けられ、「暮れ六つ」(午後6時頃)に閉められた。裏長屋への出入り口は木戸のみで、そこを 閉めると出入りができなくなる。木戸の上には、住民の表札を兼ねた看板や貼り紙が掲げられているものもあった。



長屋木戸は、大家や長屋の住人が月番制で開閉していたが、町木戸のほうは「木戸番」が開閉していた。門を閉めてからの通行は、医者と産婆を除いて原則として禁止されていた。木戸番が住人以外の通行を認めた場合は、拍子木を鳴らして、次の町木戸に通行することを知らせた。これを「町送り」という。





■町木戸
江戸の町には各町内の出人り口に木戸があり、夜になると門を閉めて通行できなくなった。一町区画ごとの「町木戸」は治安のために各町内の出入り口に設置されていたもので、江戸の大通りには町境に不審者の侵入を防ぐ為の町木戸があった。
木戸は、幅十間(約18メートル)の大通りの場合の「町木戸」では幅二間(約3.6メートル)の両開きの扉と、その脇に幅三尺(約1メートル)の潜戸(くぐりど)が付いたものが設置されており、それ以外は七尺五寸(2.3メートル)の高さがある丸太の柵で仕切られていた。
町木戸の脇には間口一間(約1.8メートル)、奥行1.5問(約2.7メートル)の三畳ぐらいの「木戸番屋」(木戸番小屋)が設置されていて、木戸の番人の木戸番が住込みで24時間常駐していた。

◇絵図にみる木戸の分布
初期の江戸における木戸は、京都に倣って、都市域と外部の境界に設けられた。絵画史料によれば、江戸の木戸は、まず都市域と外部を区画し、やがて町ごとを区切るように建設された。
最初に木戸が確認できる江戸図は、延宝七年(1679)『江戸方角安見図』で、通町通りと本町通りに木戸が示されている。二本の通りに限って木戸が描かれる状況は、その後も踏襲される。しかし、実際には裏通りや横町にも、多数の木戸が設けられた。

■路地木戸(長屋木戸)と長屋
江戸時代の町人地では人口稠密(ちゅうみつ)化の結果、庶民住宅にも長屋形式の住宅が発達した。表通りのものを「表長屋」、裏通りや路地にあるものを「裏長屋」といった。
しかし表通りには商店など独立家屋が多くあったので、通常、長屋といえば裏長屋のことで、裏店(うらだな)ともよんだ。江戸の場合、長屋の入口にも必ず木戸が設けられていた。表通りの「路地木戸」を入ると、狭い路地を挟んで両側に長屋が建っていて六軒長屋が多かった。


■自身番屋
町木戸にあるのは、「自身番」で「自身番屋」ともいい、略して「番屋」とも称する。
江戸の各町に「自身番屋」を作りその広さは9尺2間と定められ、大家や書役(かきやく)などが詰め、市中の警戒をした。自身番屋には消防用の纏(まとい)・提灯・鳶口(とびぐち)、防犯上の突棒・刺股(さすまた)・袖搦み(そでがらみ)などの捕物道具を常備し、屋根には半鐘(はんしょう)のある「火の見梯子」を設置した。火事がおこれば屋根上の火の見梯子に吊るされた「半鐘」打ち鳴らした。
自身番に詰めていたのは、大きな町だと家主(家守、大家とも称す)ふたり、番人ひとり、店番ふたりの計5人、小さな町だと家主、番人、店番各ひとりの3人だったという。

自身番の機能は多岐にわたるが、主なものを列挙すると、
①町奉行所から出される法令の伝達
②町奉行所へ提出される文書や土地売券などといった重要公文書などへの加判(かはん)・立合(たちあい)
③町が抱える火消人足の差配や火番などの防火対策
④夜よ廻まわりや木戸番人の差配、犯罪者の勾留などの治安維持
⑤自身番屋・木戸番屋の運営をはじめ町全体に関わる出費およびそれらの徴収など、「町入用」(町方行政費用)の出納・管理
⑥人別帳の作成
などであった。この自身番の数が、幕末の頃には994ヵ所もあったという。


■町木戸の開閉
江戸時代の各町の出入り口には町の治安を守る番小屋があった。一町区画ごとの町境には一門ずつ防犯・防火のために各町内の入口に「町木戸」があった。他にも、表店のある「表長屋」の間に路地があり、そこから「裏長屋」への路地の入口には「長屋木戸」というものがあった。

木戸脇には、必ず「自身番屋」と「木戸番屋」が設置されている。自身番屋は地主自身が交代で番所に詰めたが、木戸番屋はそれより規模が小さく、木戸の開閉を管理する番人が住み込んで仕事をした。町木戸に隣接して木戸番屋があり、ここに木戸番という番人「番太郎」が詰めていた。


「町木戸と路地木戸(長屋木戸)」


木戸番が朝の明け六ツ(午前6時頃)に木戸を開け、昼間は通行自由だが、夜になると宵五つ(午後8時)に一斉に木戸を閉める。錠はかけずに夜の四ツ時(午後10時頃)に錠をかけたという。
それ以降で木戸が閉まっている間に医者と産婆以外の者が通るときには、木戸の左右にある「潜戸(くぐりど)」から通った。木戸番は通過する人数分の拍子木を打ち、次の町の木戸に知らせたり、木戸から次の町の木戸まで番人が送り届けたりした。

木戸は夜間通行を制限するから、江戸の町々の治安維持に大いに貢献した。また、火事を見つけた時には、通りの反対側にある自身番屋の屋根に登って半鐘を鳴らして周囲に知らせた。
(木戸の門限は江戸時代前期には午前零時=夜九つだったが、中期には午後十時=夜四つ、幕末には午後八時=宵五つと、次第に早くなった)


 


■木戸番屋の番太郎
町々の境に設けた木戸の番人の木戸番は「番太郎」、または「番太」と呼ばれた。木戸番は町から木戸の管理を委託された人間で、木戸の番と夜回り(夜警)をおもな仕事にしていた。木戸番の報酬は、町内から集められ給金として支払われていたが、少額のため、ほとんどが副業を兼ねていた。
(月末に、多くは借家だった木戸内の各戸から、家主が20文から100文の銭を集めて木戸番に渡したようです。)

「木戸番屋」に住込みで働いていた番太郎は賃金が少なかったため、副業として番屋で草履(ぞうり)・草鞋(わらじ)・鼻紙・箒(ほうき)・軟膏・蝋燭・瓦火鉢などの日用雑貨品を売り、収入を得ていた。また、子供向けの飴や干菓子などの駄菓子、夏には金魚、冬には焼き芋などを売って収入を得ていた。

江戸も後期になると、木戸番屋は本職より内職の方で知られ、木戸番屋のことを「商い番屋」とも呼んでいたという。『守貞漫稿』には、江戸には専門の焼き芋屋が少なく、焼き芋は冬に木戸番小屋で売ることが多いとある。
『守貞漫稿』(1853年)によると、焼き芋屋が出来たのは寛政5年(1793)と云われ、
「甘薯、俗に薩摩芋と云ふ。京坂にては、蒸して売る店わづかに四,五戸あり。また荷ひて巡り売るあり。 荷ふ所、甘酒賈(うり)の筥(はこ)に似て無行燈(あんどん)なり。 売り詞に、「ほつこり ほつこり」と云ふ。意は温の貌(かたち)なり。 因みに日ふ、江戸にては蒸芋ありといへども、焼甘薯を専らとす。 これを売る店数戸、挙げて数ふべからず。 また阡陌番小屋にてこれを売る。 価京坂より賎(ひく)し。 市街番小屋、俗に番太郎と云ふ。 武家の辻番には、賈(あきなう)する者これなし。 小武家の辻番、稀に草鞋(わらじ)あるひは小楊枝(こようじ)を売る=のみ。 これ内職と号し、手製にする所なり」
とある。つまり、京阪では焼き芋を売る店は僅かで、売り歩く商人が「ほっこり。ほっこり」と云って売っている。江戸では、逆に売り歩く人は無く、番小屋で売っている。



「木戸番屋、番太郎の副業」の様子
「番太郎」または「番太」と呼ばれた木戸番は、夜になると木戸を閉じ、盗賊や不審者の通行・逃走を防ぎ、治安維持にあたった。夜警をしながら拍子木を打って時を告げたり、将軍御成りの際に町内に触れ歩くなどの役目もした。


一般庶民の住い長屋

■土地の所有者と町人
江戸の土地は、基本的にはすべて幕府の所有物であった。つまり、個人が土地を持たなかった。幕府は大名に土地を貸し、大名は地主(家持町人)などに貸し、地主はそこに長屋を建てて「庶民」に貸すという構図だった。つまり、一般庶民にとって土地は借りるものであり、「財産」ではなかった。

もちろん例外もあり、江戸の町人が住む「町人地」と呼ばれる地域は土地の私有が認められ、売買も行なわれていた。この私有化された土地は地主が所有していたが、一般的に地主はその土地には住まず、家守(大屋とも呼ばれた)がその土地に住み、同時に土地などの管理もしていた。

私有化された地主の土地は、家守(やもり)の他に裕福な商人たちも借りていた。商人は主に表通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。江戸では、土地を所有する地主と家屋を所有する家持が、「町人」として町の運営に当たる権利と義務を持っていた。




■町民地の長屋の作り
長屋は大きく分けて、武家屋敷の長屋と一般庶民の長屋がある。前者は、参勤交代のため江戸に住む大名の家臣や、中下級の武士が住んだ。後者の町民地の連棟式の長屋は一種の共同体で、「大家(=家主・家守)」も含めてみんなが助け合って生活した。

江戸庶民の大半が住む裏長屋は、「裏店(うらだな)」といわれる狭い平屋建てであった人通りの多い表通りに面した長屋は「表長屋」や「表店(おもてだな)」といわれ、小商いの店舗兼住宅などが並ぶ。表店3~5軒ごとに表通りをそれぞれつなぐ細い路地があり、路地に沿って裏長屋が建つ。
この路地は奥の表通りに抜けられる「抜け裏」もあったが、奥が突き当たりの抜けられない路地が多かったという。なお、店とは今の店舗のことではなく、借家のことをいう。

大家はたいがい、表通りに面した表店の主であったり、裏長屋の入り口の一角に無賃の家に住んでいた。長屋は「地主」の所有物で、大家は地主に雇われ、地主から給金(平均、3両2分)を得て、長屋の管理や店子(=借家人)からの店賃(たなちん=家賃)の徴収を委託されていた使用人である。
また、地主に変わって町奉行を頂点とする江戸町政の末端に位置する「町役人」でもあって町役人の仕事からの報酬もあった。
  • 江戸時代の多くの庶民たちは長屋に暮らしていた。裏路地に建てられた裏長屋には「割長屋」と背中合わせの「棟割長屋」があり、割長屋は棟と垂直方向に部屋を仕切った作りで、部屋は土間とは別に六畳間があり、梯子をかけた中二階もあった。


  • 棟割長屋は、割長屋の屋根の棟の下にさらに壁を作り、背中合わせに部屋を設けたタイプで、広さが四畳半の座敷と土間と台所という平屋建ての「九尺二間」が一般的なつくりだった。
    つまり、間口が九尺(約2.7m)で、奥行きは二間(約3.6m)だから、現代でいう六畳間と同じ程度の広さである。 そのうち土間が一畳半分ぐらいあるから、居住スペースは四畳半程度、住むには少し窮屈であった。 
    また、採光は玄関の一方向のみで、風通しもよくなかった。そのため貧しい小作人や職人などが住むことが多かった。長屋の店賃(たなちん=家賃)は、当時真面目に働けば2~3日で稼げる程度の安い金額であった。
  • 長屋ではトイレ(これを江戸では惣後架=そうごうか、京阪では惣雪隠=そうせっちん、という)と水場である井戸、ごみ捨て場、物干し場などは共同で使用した。 井戸といっても、神田上水などから引かれた水の取出し口で、住民は桶にそこの水をため、自分の部屋に運んだ。
    また、路地の真ん中には板で蓋をしたどぶ(排水溝)が通っていた。路地の幅はたかだか3~4尺、1m程度という。
  • 表通りに面した「表長屋」は、比較的裕福な小商人などが住んでおり、日当たりも良いうえ、八畳と四畳の部屋に土間があるなど間取りも広く、四畳の部屋で小間物や荒物などを商う住人もいた。

■大家(おおや)と店子(たなこ)の関係
江戸時代の大家は、長屋の所有者ではない。長屋は「地主」の所有物で、「大家」は地主から長屋の管理や賃料の徴収を委託され、地主から給料をもらっていた。一方、大家は地主に変わって「町役人」として町政にも携わっていた。新しい入居者があれば、大家は当人の名前や職業、年齢、家族構成などを町名主に届け、名主が人別帳(にんべつちょう)という戸籍簿に記載して奉行所に届ける仕組みになっていた。
また、長屋の店子から罪人が出ると、連座といって連帯責任を取らされるので、入居者や保証人の身元調査は厳重に行われた。

江戸時代には「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」というように、借家に住む人たちには公的な権利や義務 はなく、大家が責任や保証を担う切実な社会制度に由来した言葉であった。

江戸時代には五人組と呼ばれる制度が存在し、武家・農民・町人・僧侶神官などの職制別に自治組織を組ませ、それぞれの組織内で連座制を取ることを基本路線においていた。
その上で、監督する役所を設置して政策の徹底や行政を行なっていた。要は、身分や職制の同じものを一箇所にまとめて住まわせ、隣近所同士で五家を1組とし、組内から何かあれば連帯責任ということでお互いを監視させたのである。五人組が交代で一ヶ月ごとに月行事(かちぎょうじ)を担当し、公務で多忙の町名主に代わり町政を担った。

 大家の日常業務
  • 同じ町内の大家たちと組んで五人組というものを作って五人組が交代で一ヶ月ごとに月行事(がちぎょうじ)の町政に参加したり、 町内の自身番に交代で詰めるなどの町役人(ちょうやくにん)としての町内の秩序維持活動を行い、公務で多忙の町名主に代わり町政を担った。
  • 町政に関する業務(町名主の補助業務):町触れ伝達、人別帳調査、火の番と夜回り、火消し人足の差配、訴訟や呼び出しでの奉行所への付き添い、諸願いや不動産売買の際の証人
  • 長屋管理に関する業務:店子の身元調査と身元保証人の確保、上下水道や井戸の保全、道路の修繕、建物の管理、家賃の集金、店子の生活の指導や扶助、病人怪我人の救済、冠婚葬祭の差配


■大家の収入と権力
江戸の長屋を管理する大家(家主・家守とも呼ばれる)の収入はというと、①雇い人(地主または家持)からの給金が年八両から二十両 ②家賃の集金手当(賃料の5%程度) ③店子からの樽代と呼ばれる入居金(一朱から一分、一朱=約250文・一分=約1000文)、五節句ごとの包み金、礼金(訴訟やお願いなどの付き添い料) ④長屋の便所に貯まる糞尿の「下肥料」(農家に肥料として売る糞尿の代金)などがあった。

江戸の近隣農村は、下肥を田畑の肥料に利用するため武家屋敷や町家と契約し、汲み取り料(下肥料)を払った。この代金は、大家(家守)の貴重な収入になった。下肥料は、大家のいい稼ぎになったようで、家賃を滞納している借家人でも追い出さなかったという。
役得は金銭面だけではなかった。通行手形の発行や土地家屋の売買、結婚にも大家の許可が必要なうえ、借家人を監視して不審な点があれば退居させるなど、借家人に対して絶大な権力をもっていた。
  • (大坂の大家の収入には、前述の③に代わる樽代としての金銭の代わりに酒一升か二升を渡す。五節句の都度、金銭を包む習慣も無かった)


店子の糞尿は契約農家に肥料として売却し大家の収入になった。下肥料とは、長屋住人の排世物が肥料となるので近隣の農家へ売却して得る収入である。この収入が意外に大きく、一年に三十両から四十両にものぼる。
当時、職人の中でも高収入と いわれる大工や左官の年収が十八両から二十両であるから、下肥代が大家の生活基盤を支えていたとすらいえる。

そこで、江戸川柳に「店中(たなじゅう)の尻で大家は餅をつき」がある。長屋の下肥は大家の権利で、年の暮れには前金をとって農家と契約していた。
その代金で年の暮れに、大家は長屋の店子(たなこ・入居者)に“餅”を配る習慣があった。江戸川柳は“尻餅”をつくことの意味もかけた句であった。


■長屋の店子(たなこ)の職業
長屋の住人の全ては、その日稼ぎのその日暮らし。いわゆる「宵ごしの金は持たない」連中であった。文化年間に著された『世事見聞録』には、
「裏店(うらだな)借り、端々町家住居の族(やから)、青物売り・肴(さかな)売り、都(すべて)て棒振りと唱るもの、日雇取り・駕籠かき・軽子・牛ひき・夜商ひ・紙屑買・諸職手間取等、惣(すべて)て我精力を練り、骨打業(ほねおるわざ)にて世渡る者共」
とある。彼らはみな、「粉骨砕身して漸(ようや)く其日を過ごし、明日の手当なく」という生活ぷりであった。


■商店(表店)/『大江戸まるわかり辞典』時事通信出版局 より
「江戸庶民の日常生活を支えた商店のほとんどは、間口が1~2間(約1.8~3.6m)の小店群だった。江戸時代の店には一戸建ての店もあったが、それらは道幅が5間(約9m)や7間(約12.6m)の大通りに面したもので、3間(約5.4m)程度の通りになると2~3軒の店が1棟に同居する表長屋(表店)という形式をとるものが多かった。
 表長屋は地主が建てた借家で2階建てが多く、管理は大家が行っていた。店内の広さは8畳から10畳ほどで、半分が土間、残りは畳敷きになっていた。しかし魚屋や八百屋、雑貨屋、乾物屋、瀬戸物屋などたくさんの品物を並べる商売はすべてが土間で、そこに設けられた台の上に商品を置いていた。
店舗の奥には障子で隔てた戸棚(押し入れ)付きの6畳があり、家族はそこで暮らしていた。2階は8畳と6畳で裏には物干し台があった。
 酒屋や米屋、質屋などは地主から土地を借り、そこに自分で家を建てた者は、間口4、5間の一戸建ての店を出した。これらの多くは、防火のために土蔵造りとし、蔵や小庭も持っていた。」








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