江戸の外食文化 資料 | ||
江戸長屋の暮らしと生活(2) |
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裏長屋の生活・庶民の暮らし(2) 前のページ「裏長屋の生活・庶民の暮らし(1)」に戻る。 裏長屋の生活 ■4畳半の長屋暮らし
『棟割(むねわり)長屋[9尺2間]、部屋の様子』 棟割長屋は、それぞれが粗末な薄い壁で仕切られ、3方は壁というもの。押入れも窓もないところで、1家族で生活した。 ■長屋の部屋と居職職人の生活 〇裏長屋の1軒の平均的な大きさは、九尺二間(約2.7m×約3.6m)程度である。採光は玄関の一方向のみで、1畳半の台所と土間があって、片隅に竈(かまど)と、一段上がって居住スペースの畳敷き4畳半があった。 長屋の部屋で仕事を行う職人は、まず、朝起きると布団をたたんで片隅に積んで置き、そこで箱膳で食事をする。食事の後に、畳を外して部屋の隅に重ねて板間にする。こうして、家で仕事をする「居職」の職人の"作業場"ができて仕事をおこなった。 そして、夜は畳を敷いて家族の居間に、さらに布団を敷いて寝室にと、ひとつの部屋を時間帯で使い分けていた。 長屋の女性は炊事、洗濯、掃除などの家事や育児以外にも、着物の縫い目をほどく洗い張りや洗濯を専業とする商売、機織りなども女性の仕事とされていた。 〇江戸時代の長屋では、畳は長屋の大家が用意しておくものではなく、部屋を借りる店子が運び込んで使ったといわれている。このため、職人や独身者の場合は、畳を敷かず、筵(むしろ)敷きで暮らしていることもあった。 畳が一般のものとなったのは、江戸時代中期の元禄期あたりからで、 江戸時代後半には庶民の住まいにも徐々に使用され、畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が生まれた。 町屋や長屋にも畳の部屋がつくられるようになったが、まだまだ畳は高価な床材で火事になれば持って逃げるし、お金がなくなれば畳を質草に入れて工面することもあったという。 〇夜の照明は「行灯(あんどん)」であったが、形や大きさはさまざまであった。受け皿の上に灯明皿(とうみょうざら)をのせて、灯芯(とうしん)を浸して火を点(とも)すもので、風を防ぎ照明効果を上げるために障子紙で周りを囲った。また、「瓦灯(かとう)」と呼ばれる照明器具もあり、行灯よりも安かったため貧乏長屋の庶民が使っていた。 行灯の明るさは、灯火(行灯の一部を開けた状態)の近くでやっと文字が読める程度であったようである。その薄ぼんやりとした明るさのなかで、庶民は内職をしたり、食事をしていた。 行灯に使う油は菜種油(1合40文)であったが、当時はまだ高価だったため、貧しい人は菜種油の半値くらいの鰯(いわし)などからとった「魚油」(1合20文)を使った。魚油は燃やすと悪臭を放つため、長時間使うことはなく、夜も遅くならないうちに火を消して眠りに就いていたという。 行灯に使う油の使用量が、一夜にどのくらい使ったのかといえば、おおよそ有明(夜明け)までが六勺(0.108㍑)、夜半(真夜中)までが四勺(0.072㍑)、半夜半分が二勺(0.036㍑)程度だったという。1合(0.18㍑)の油があれば2~3日、1升(1.8㍑)の油で1ヵ月近く使えた。 〇冬になると、江戸庶民にもっとも使われた暖房具は「長火鉢」であった。木製の長方形の火鉢であり、炭火の灰の中に銅壷(どうこ)が入れてあり、湯を沸かし燗をつけたり、五徳(ごとく)を入れて鉄瓶をかけ、いつでも湯が足りるようにしていた。 長火鉢は、武士のみが使っていたが、やがて江戸時代の寛政(かんせい)年間(1789~1801)ごろから一般にも急速に普及した。 ■庶民の寝具 江戸庶民にとって、布団とは敷き布団のみを意味し、掛けるものを夜着(かいまき)といっていた。 この時代の江戸庶民は敷き布団だけで寝るのが普通で、掛け布団は今のような形ではなく、「夜着」と呼ばれる綿人れを使っていた。 襟布と広袖が付いていて、着物よりもひと回り大きい綿入れの「ドテラ」のようなものを掛け布団代わりに使っていた。襟布は大きめで黒天鵞絨(くろびろーど)などの丈夫かつ、防寒性の高い布地で包まれていた。 一方、大坂や京都では、元禄年間(1688~1704)頃から、夜着ではなく現在のような掛け布団が使われていた。長さがおよそ170センチほどあり、「大ふとん」とも呼ばれた。江戸で、四角い掛け布団が使われるようになったのは江戸末期のことである。 貧富の差によって、使っている布団には違いがあった。裕福な商人は綿がたっぷり入った敷き布団を、貧乏長屋の住人は綿のほとんど入っていない煎餅布団を使っていた。夏は汗をかくので、煎餅布団の上に「寝茣蓙(ねござ)」というゴザを敷いていた。 また、長屋の住民は敷布団の下に「八反風呂敷(はったんふろしき)」を敷いて寝ていた。近くで火事になったとき、夜着と枕を敷布団でくるみ、この風呂敷で包み込んで運び出すための工夫であった。近郊の農家では、こもや筵(むしろ)を敷くか、ワラぶとんで寝るのが一般的で、綿入りの敷きぶとんを使うことはめずらしかった。 ■庶民の衣替え 江戸時代は年に4回の衣替えがあった。 ・4月1日から5月4日 袷(裏地の付いた着物) ・5月5日から8月晦日 単衣(裏地のない着物)・帷子麻布(麻の着物) ・9月1日から9月8日 袷 ・9月9日から3月晦日 綿入れ(表布と裏布との間に綿を入れたもの) 衣替えの時期、富裕層の間では今のように季節ごとに着物を用意していた。一方、庶民の住居は長屋で家族三,四人で住むのが普通で、部屋に収納棚を吊って、衣服は行李(こうり)や葛籠(つづら)などにしまっていた。家族全員の衣服を季節ごとに何枚も収納できなかった。 庶民が持っている着物の枚数はごく僅かであった。とはいえ、少なくとも単衣(ひとえ)・袷(あわせ)・綿入れの3種類の着物が必要であった。 そのため、衣替えのたびに、おかみさんが、暖かくなると袷の着物の裏地を取って単衣し、寒くなると再び裏地をつけて綿を入れる…という形で着物に綿を入れたり出したりしながら着まわしていた。 ■長屋住人は日々、食材を購入していた 長屋の朝は早く、夜明けと共に起き、日暮れと共に寝るという暮らしをしていた。江戸庶民が暮らす長屋の入り口は開放的で誰でも出入りができた。 長屋の路地には、毎日のように物売りたちがやってきて食材を売っていたため、おかずには事欠くことがなかった。野菜や魚などの食材を両天秤に担いで、毎日売りに来るのが棒手振りの行商人である。彼らは店舗を持たず、天秤棒の両脇に商品を吊り下げて、庶民の住む長屋や、下級武士の住まいなどを主な商売の場所にしていた。 当時は漬け物や味噌、醤油、米といった食品以外は保存がきかないので、その日に食べる分だけを、こうした商人から買い求めた。 アサリやシジミなどの身だけを売るむきみ売り、魚売り、ドジョウ売り、納豆売り、豆腐に油揚げ売り、季節の野菜を売る青物売り、煮豆売りなどであった。その多様性から、江戸庶民は家に居ながらにして必要な食材を必要な分だけ買いそろえることができた。 酒/醤油屋または味噌/醤油屋や米屋、魚屋のような表店、裏店にも買いに行ったりしたが、その頃の棒手振りは、主に「一色商い(ひといろあきない)」といわれる一つの品物を専売するのが主流で、こうした物売りが安くて便利であった。 醤油売り(振売り)『江戸商売図絵』 三谷一馬著。『守貞謾稿』 に「江戸では醤油と一緒に酒も売る」とある。
江戸時代の物価と庶民の収入・生活費 ■江戸時代の物価文政年間(1818-1829年)頃の食品・調味料・雑貨・飲食店・娯楽の物価は、次のようであった。 (江戸中期後半から江戸後期,1両=6000-6500文) ◇行商(屋台・振売りの)値段
■庶民の収入と生活費(棒手振りと大工) 「江戸庶民の大半を占めた中下層の商人および職人の経済事情を紐解くことにしたい。 なお,ここでは貨幣の交換率を「金1両=銀60匁=銭6000文」とし,近世後期頃の市場相場で計算するものである。 文政期(1818~30)頃の世相を描いたとされる『文政年間漫録』には,その日稼ぎの生活を営んでいた中下層の商人の一例として,江戸の裏長屋の住人を主な担い手とする棒手振りの収入に関する記述が確認できる。同書が取り上げているのは野菜を販売する棒手振りであるが,彼は毎日仕事から帰ると米代として200文,味噌・醤油代として50文,子供の菓子代12~13文をその日の稼ぎから取られ,残金は100~200文程度であったという。 支出と残金の合計額からみれば,棒手振りに代表される中下層の商人の日収は400文程度であった計算になる。ただし,同時代に記された『柳庵雑筆』によると,棒手振りの余剰金は「積て風雨の日の心充てにや貯ふるらん。」とあるように,天候不良で商売が立ち行かない場合に備えて貯金する必要があったという。 一方,江戸の職人の中で最も多くの割合を占めた業種は大工であったといわれるが,『文政年間漫録』には大工の収入に関しても触れられている。 同書によれば,文政期頃の大工の日収は飯料込みで銀5匁4分(540文)であったという。 また,大工の生活における毎月の支出は,店賃 (家賃)が10匁(1,000文)で,食費は夫婦に子ども1人として約30匁(3,000文),調味料と薪の代金が合わせて58匁(5,800文),その他に道具代,家具代,衣装代等の諸々を含めると月々の総支出額はおよそ128匁(12,800文)であったと記されている。 これを便宜的に30日間で割って,1日当たりの支出額を銭単位で計算すると約420文となる。先の収入から支出を差し引くと,1日につき100文強の余剰金が生じた計算になる。 このように,『文政年間漫録』からみると,中下層の江戸庶民の日収は概ね400~540文程度で, 支出額を差し引いた残金は100文程度であったといえる。ただし,ここで見た棒手振りと大工は,いずれもある程度天候に左右される職種であったことからすれば,実際には毎日定額の収入を手にしていたとは限らない。 ところで,文政11(1828)年の幕府の調査記録 『町方書上』によれば,江戸の店借比率は約70%であったとされるが,店借人の圧倒的多数は裏店借層であり,江戸庶民といえば彼ら裏長屋の住人達が中核をなしていたという。 この裏店借の職種を『世事見聞録』に尋ねてみると,そこには 「裏店借り,端々町屋住居の族は,青物売り・肴売り・すべて棒振りと唱ふるもの,日雇取り・駕籠かき・軽子・牛牽き・夜商ひ・紙屑買ひ・諸職手間取り等…」とある。 長屋の住人の多くは,棒手振りや職人であったことがわかる。このことから,前述した棒手振りや職人に関する記述は,江戸庶民のうち少なくとも7割程度の生活実態を反映していると考えることができよう。」 ・・・引用「谷釜尋徳,2014年,東洋大学スポーツ健康科学研究室」 ■出職・大工の稼ぎ,1年間の収支 大工職人の暮らしぶり「栗原柳庵の『文政年間漫録』は、その題名通り、文政年間(1818~29)の江戸庶民の暮らしぶりを記録したものだが、そのなかに、ある大工の例を紹介している。 当時の大工は収入がよく、一種のエリートとみられていた。ここに出てくる大工は、妻と子一人の三人家族で、長屋暮らし。四畳半が二間だから、俗にいわれる「九尺二間の裏長屋」より広い。 稼ぎは、1日の手間賃が銀四匁二分で、それに飯米料(弁当代)一匁二分が加算される。 当時は旧暦で1年354日だが、そのうち正月や節句、風雨などで年に60日は休む。働いたのは294日で、1年の総収入は銀で一貫五百八十七匁六分だった。 銀六十匁で金一両だから、金に換算すると約二十六両二分(四分で一両)、一か月平均の稼ぎは二両一分ほど。一両十万円として単純換算すれば、年収265万円、月に22万円程度ということになる。 1年分の支出はどうか。まず、店賃(家賃)が百二十匁(約20万円)、飯米は三人分で三石五斗四升、この代金は三百五十四匁(約60万円)だった。 そのほか、塩や味噌、醤油、油、薪炭の代金が七百匁(約105万円)。道具や家具の代金が百二十匁(約20万円)で、衣服代も百二十匁(約20万円)かかった。さらに、親族や古い知人への音信、祭礼、仏事の布施(ふせ)などが百匁(約175,000円)である。 合計すると、1年間で一貫五十四匁(約2,525,000円)を使った。一か月平均約21万円だが、手元に残ったのは、わずか七十三匁六分(約125,000円)でしかない。 もっとも、その日暮らしが普通という時代に、それだけ残ったのはいいほうだ。でも、万が一、なにか面倒なことが起きて出費がかさむと、借金せざるをえなくなるというのが普通だった。」 ・・・引用,中江克己「町人文化を支えた江戸の職人たち」 「富士登山振分双六」慶応元年(1865)より「青物売り」の絵。 『守貞漫稿』によれば、三都(京,大坂,江戸)ともに、野菜を「青物」とも呼びました。したがって、野菜を扱う商売は、すべて「青物売り」です。江戸では青物売りを「前栽(ぜんさい)売り」と呼びました。 江戸には、神田や本所、千住、品川などに野菜市場があり、出商いの青物売りは、これらの市場で仕入れて売り出したようです。一方で、近在の農家では自分の畑で作ったものを一種類か二種類くらい持って、町場を売り歩く場合もありました。 「前栽」には庭先で作ったものという意味があり、もともとは農家が手作りした野菜を売ることをいいましたが、後になって野菜の行商すべてを意味する言葉となったようです。 参考資料:東建コーポレーション株式会社、江東区深川江戸資料館「長屋と人々の暮らし」、紅葉堂書房「江戸の夕栄」、「蔵のあるまちーまちといとなみ」都市環境デザイン会議広報2000.1.20、公益社団法人 都市住宅学会、「物品賃貸業の歴史的研究-江戸時代の物品賃貸業-」水谷謙治、「衣服産業のはじめ」中込省三、現代に活かそう「江戸のエコ生活」、神奈川新聞社「開国史話」加藤祐三、三笠書房「図解!江戸時代」、PHP文庫「物価から見える江戸っ子の生活模様」、谷釜尋徳「近世後期における江戸庶民の勧進相撲興行見物の実際」 前のページ「裏長屋の生活・庶民の暮らし(1)」に戻る。
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