日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 江戸庶民の食事処(1)


煮売り屋、煮売り酒屋


江戸時代は炊事の準備もひと苦労だった。しかも、江戸の町には一人暮らしの独身男性が多く、そこで活躍したのが、飯のほか、魚や野菜を煮て売る店を構えの「煮売り屋」である。貞享=じゅうきょう三年(1686)火事を警戒して火をもち歩く行商の振り売りや屋台が禁止されたこともあり、「煮売り屋」は江戸っ子にはなくてはならない存在になっていった。この煮売り屋は、18世紀末の寛政(かんせい)の頃になると、煮物を肴(さかな)にして、酒も飲める店を構える「煮売り酒屋」が現れた。それこそ食事と料理が楽しめる今の居酒屋の元祖である。

 
『鶏声粟鳴子(けいせいあわのなるこ)』一猛斎芳虎(歌川芳虎)画/嘉永4(1851)より「煮売り屋」
「煮売り屋」の店頭の文字は右から、おすいもの、御にざかな、さしみ、なべやき。「お吸い物」とは「酒の肴として出される汁物」のことを意味していた。


『金草鞋』十返舎一九 著/歌川美麿 画/文化10年(1813)、店先に材料である魚や鶏、蛸をぶら下げ、大きなまな板を置いて調理していたのが看板代わり。座敷のある店もあったり、床机と呼ばれる板の腰掛けだけを置いただけの店など、江戸にはあちこちにこうした店があった。

煮売りというのは、飯と魚、野菜、豆などを煮たおかずを売る店で、酒も飲ませたから、居酒屋とほとんど区別できない。煮売りにも、担い屋台、辻売り屋台、店の三種があった。前者のふたつを振売りの煮売り、後者を茶屋煮売りという。惣菜用の料理を扱う「煮売り屋」が茶屋(煮売茶屋)を兼ねて料理を提供することもあった。
「煮売り屋」とは惣菜屋のことで、菜屋(さいや)ともいい、煮豆・煮魚・煮しめなど、すぐに食べられる形に調理した惣菜を売っていた。『守貞漫稿』によると、「江戸諸所往々これあり。生あわび、するめ、刻みするめ、焼き豆腐、こんにゃく、くわい、れんこん、ゴボウなどの類を醤油の煮しめとなして、大丼鉢に盛り、見世棚にならべ、これを売る。煮豆売りを兼ねたるものあり」と記している。廉価で食べられる煮物を中心に簡単な食事と湯茶・酒などを出した茶店の「煮売り茶屋」は、酒を出す店が増えて、寛政年間( 1789~1800)には「煮売り酒屋」と呼ばれるようになる。

煮売り酒屋と居酒屋は区別されていたが、居酒屋が酒の肴を充実させるにつれて区別がつきにくくなり、両者をあわせて「煮売り居酒屋」という業種ができ、これが江戸の『居酒屋』になる。



居酒屋

客が酒屋で買った酒を待ちきれず店先で飲み、それが常態化して酒屋で買った酒をその場に居たまま飲む「居酒」が始まる。酒屋の店頭には「居酒致し候」の張り紙が出され、酒に合う様々な料理があった。酒屋の居酒が元禄時代(1688~1704)には一般的になった。やがて、酒の販売をやめ、居酒そのものを専業とするようになったのが「居酒屋」の始まりである。

江戸には単身赴任の武士や独身の職人が多く、それら単身の男たちにとって手軽に酒を飲め、食事もできる居酒屋は重宝な存在であった。文化年間(1804~18)の「居酒屋」の酒の肴(さかな)には、「芋の煮ころがし、湯豆腐、ぬた、ゆで蛸、煮しめ、唐汁(からじる)、しょうさいふぐのすっぽん煮(ふぐを油で炒めてから醤油、砂糖、酒で濃い味に生姜汁を加えた煮物)、ふぐ汁、鮟鱇(あんこう)汁、葱鮪(ねぎま)、まぐろの刺身、田楽」等がある。酒の肴(さかな)料理は「折敷(おしき=低い縁を付けた角盆)」にのせて床机と呼ばれる板の腰掛けの座面に直に飲食物を置いた。

 

居酒屋でのまぐろの料理法の代表的なものは、葱と煮て食べる葱鮪(ねぎま)で、『侠太平記向鉢巻(きやんたいへいきむこうはちまき)』(寛政11年・1799)には、居酒屋から仕出しの葱鮪(ねぎま)が届けられる場面が出ている。刺身として出すこともはじまり、『堀之内詣』(文化11年・1814)には、「まぐろのさしみ」を置いている「居酒屋」がでてくる。

 
居酒屋で出される吸物・汁は酒の肴である。酒にあうように味は軽く薄めにして供された。

「湯豆腐」と「唐汁(からじる)」は早くから居酒屋の定番メニューになっていて、湯豆腐のつけ汁は醤油と花がつお、薬味には刻み葱、大根おろし、粉唐辛子、浅草海苔、紅葉おろしなどが使われたようである。また、江戸時代、居酒屋の「湯豆腐」の記述として、客席に運んだ湯豆腐がすぐに冷めないように、小鍋ごと葛粉でとろみをつけた(あんかけ湯豆腐)ともある。
唐汁(からじる)は豆腐殻(おから)のみそ汁で、雪花菜汁(きらずじる)、卯の花汁ともいい、二日酔いに効くと考えられていて、遊里の近くの居酒屋では朝帰りの客が好んで飲んでいた。
【嘉永二年(1849)刊の料理書『年中番菜(番菜とは惣菜のこと)録』に、「きらず汁」として次のように作り方がある。「ほそ切の油あげ 午房さゝがき こんにゃくなど通用のかやくなり 吸くちせり 三ッ葉 山せう ねぎの類なり 酒の吸ものにしてよし ていねいにすれば すり鉢にてよくすりてつかふべし」】
酒の燗徳利が発明されたのは文政時代(1818~30)で、燗徳利が普及したのが安政年間(1854~60)であって、燗徳利が後に銚子とも呼ばれるようになる。それ以前は徳利に酒を入れることはなく、酒は「ちろり(地炉利)」と呼ばれる金属性の長い道具で湯煎して温めた酒を直接猪口になどに注いで飲む燗酒が一般的な飲み方であった。

 
『大晦日曙草紙』香蝶楼国貞(歌川国貞) 画/天保10年(1839)

居酒屋の「さかな」(『居酒屋の誕生 江戸の呑みだおれ文化』飯野亮一より)
「芋の煮ころばし、湯豆腐、ぬた、ゆでダコ、煮しめ、数の子、おでん、イワシ塩焼き、カモの吸い物、ねぎとりのなべやき、から汁(おからを入れたみそ汁)、油揚げのうま煮、しょうさいふぐのスッポン煮、ふぐの吸物、鮟鱇(あんこう)汁、ねぎま(ねぎま汁)、まぐろの刺身、刺身の盛り合わせ、田楽」
※:ふぐのすっぽん煮とは「本来はすっぽんが材料で、油で炒めてから醤油、砂糖、酒で濃い味に生姜汁を加えた煮物であるが、他の材料を用いても同じ方法で煮た煮物をすっぽん煮またはすっぽんもどきという」(『江戸料理事典』)とある。
※:江戸時代の料理書である『料理物語』には、真亀(すっぽん)は吸い物と刺身が美味しいと記されている。
 




どじょう汁(どぜう汁)屋

江戸時代後期に国産砂糖が普及すると、江戸では醤油による砂糖の甘辛い味が考案される。また、ドジョウ汁などの鍋料理に欠かせない江戸甘味噌も、同じ頃に生まれており、甘くて濃い江戸の味覚が誕生した。江戸時代から滋養食として庶民に親しまれてきた、ドジョウ汁は、田んぼや湿地などにいたドジョウを丸のまま、臓腑も取らずにみそ汁に入れて食べたのが始まりと言われているが、あまりに庶民派すぎたゆえか、文献をひもといても正確な端緒は分からないという。


江戸時代、初夏になると、ドジョウをそのまま入れた鰌汁(どじょうじる)や骨を抜いて醤油で煮付けた丸煮(どじょう鍋)が江戸初期から食べられていた。ドジョウは漢字で「泥鰌」と書くことからわかるように、底が泥地の川や水田、湖沼に生息している。ドジョウは栄養価が高く、精力がつくことから、食べられていたようで『当流節用料理大全』(正徳四年、1714)ではドジョウの効能と毒性について「百病にたたらぬ物」とある。

江戸時代の庶民に愛された「どじょう鍋」だが、女性は生きたまま鍋に入れるどじょう料理が苦手だったという。そのため、どじょう鍋はもっぱら外食で食べられていた。
 
古川柳 「鍋蓋へ力を入れる鰌汁」、「念仏も四五へん入れる鰌汁」
どじょうを生きたまま煮立った鍋に放り込むために「鍋ぶたへ力を入れるどじょう汁」、しばらくするとと静かになり「念仏も四、五へん入れるどじょう汁」と煮ながらせめてもドジョウの極楽往生を願う心となります。


大鍋の「どじょう汁」をどんぶりにつぐ主人と、姉さんかぶりで給仕するおかみさん。客は床机と呼ばれる板の腰掛けでくつろいで、どじょう汁を食べている。浪人者だった主人が一念発起してはじめた店は大繁盛。看板には「やなぎばし どじやう御吸物 壱ぜん十六文」とある。(『京鹿子娘泥鰌汁』より)」

■「どじょうは江戸のファストフード」 https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p003/
「江戸時代、「どじょう」は、ほかに「どぢゃう」「どじゃう」「どぜう」「どでう」とも書いて一定しない。 (略) 江戸の町には、どんぶり飯に泥鰌(どじょう)の入った汁をかけた「どじょう汁」を出す店があり、一杯十六文で食べさせた。(略)図版は、寛政3年(1791)に刊行された芝全交(しばぜんこう)の黄表紙(きびょうし)『京鹿子娘泥鰌汁(きょうがのこむすめどじょうじる)』の「どじょう汁」の店。(略)幕末生まれの文人・淡島寒月(あわしまかんげつ)は、「今日では通(つう)がって泥鰌の「丸煮」などを喰う者もあるが、これは江戸趣味ではないのだ」(『梵雲庵雑話』)と言っている。寒月の母親が泥鰌の「丸煮」を食べていたら、やってきた鳶人足(とびにんそく)が、「わたしらのような下々の者でも、骨のついた泥鰌(さばいて開かず、そのままのもの)は食べませんよ」と言ったとも書いてある。」



どじょう汁(どぜう汁)
嘉永元年『江戸名物酒飯手引草』にも見ることができる。江戸甘味噌などの合わせ味噌で食べる汁物。誹風柳多留は、「どぢやう汁 内儀食ったら忘れ得ず」と詠んでいる。『料理物語』(寛永二十年、1643)の料理本でも、味噌で煮る調理法が書かれているが、「醤油」で丸のまま煮付けたものを「丸煮」と云う。
柳川鍋・どぜう(どじょう)鍋
どぜう鍋が一般化するのは幕末の嘉永年間以降(1848~54)のことといわれる。江戸の日常料理として使用されていた。大ぶりのものは開いて頭と内臓を取り、小さいものはそのままで、ネギやゴボウとともに割下で煮て卵で綴じた「柳川鍋」とされることが多い。卵で綴じないものは「どぜう鍋」と呼ばれる。 名前の由来は天保時代に日本橋で骨抜きどじょう料理を考案した店の屋号からとも、福岡の柳川産の土鍋を使ったからとも言われている。「どぜう鍋」とはごぼうと玉子の有無で区別される。
 
料理茶屋「新版御府内流行名物案内双六」より 画:一英斎芳艶(弘化4~嘉永5)
「本銀町 柳川(鍋)」,「りうかんばし どぜう(鍋)」


■どぜう(どじょう)鍋
幕末の和歌山藩江戸勤番の武士の生活を伝える『酒井伴四郎日記』万延元年(1860年)には、「どじょう鍋の丸煮(内臓を取らない調理)は、どじょう汁十六文、どじょう鍋が四十八文。また、どじょう店では、なまず鍋、アナゴ蒲焼、アナゴ鍋も商っていた」とある。
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どじょうの話(江戸の話 15/東京史楽編集部(協力:史文社)より転用) 
「どじやうは昔は丸煮と云て全体のまヽ臓腑をも去ず・・・又全体のまヽ醤油煮付にしたるを丸煮と云蓋丸煮は骨抜在て後の名なるべし」
とあり、内臓と取り去らずに醤油味で煮た「丸煮」と、骨を除いた「骨抜」とがあった。元来はわざわざ「丸煮」とは言わなかったが、「骨抜」が行われるようになって後、これと区別するために「丸煮」と名づけたのであろう、というのが守貞(守貞漫稿、近世風俗志)の推測である。
「鰌鍋四十八文也 骨抜鰌鍋の始は文政初め比江戸南伝馬町三丁目の狸店に住居せる万屋某と云者鰌を裂て骨首及び臓腑を去り鍋煮にして売る其後天保初比横山同朋町にて是も狸店住の四畳許の所を客席として売り始め家号を柳川と云・・・万屋は先年亡て今はなし江戸売之店専ら鯰鍋穴子蒲焼同鍋等を兼売る」
とある。鰌鍋を扱う店では、なまず鍋、穴子の鍋や蒲焼も扱ったという。穴子の蒲焼は、鰻より油気は少なかろうが、これはこれで良いものであろう。さて、骨抜の鰌鍋、この記事だけではどのようなものかが良く分からない。そこで、「骨抜鰌鍋之図」に附された説明を読んでみよう。

「二重土鍋也上の土鍋浅くし之に鰌を入る二重土鍋をかさね蓋置たる図此ごとし一鍋二百文を専とす蓋底には笹掻牛蒡を敷き其上に菊花の如く鰌をならべ鶏卵閉にする也下の土鍋には沸湯を入れ席上冷ざるに備へ且形深く外見乏からざるが如くするの意あり」

とある。これによれば、一鍋二百文。ささがき牛蒡の上に菊花状に骨抜にした鰌を並べ、それを卵とじにしたという。先に見た記事に従えば、味付けは醤油である。土鍋は二重になっており、下の土鍋には湯を張り、冷えるのを防ぐ。また、牛蒡と骨抜鰌だけでは量が少なく見えるので、二重にすることによって見た目を良くする役割もあるという。ともあれ、骨抜の手間もあろうが、一鍋二百文は存外高価である。江戸人に最も膾炙したのは、単なる鰌汁であろう。「味噌汁にいれ鰌汁と云三都専食之・・・鰌汁鯨汁ともに一椀十六文」とあり、鰌の味噌汁が広く行われ、外食しても安価であったようである。

 
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■一般的だったドジョウ食
・・・「ドジョウ鍋」https://www.videlicio.us/CULTURE/QLd7imxf より
「ドジョウは栄養価が高く、精力がつくことから、昔からよく食べられていたようです。『当流節用料理大全』(正徳四年、1714)ではドジョウの効能と毒性について「百病にたたらぬ物」とあります。『本朝食鑑』(元禄十年、1697)にも身体を暖め、気を増し、腎を補い、血を調え……と多くの効能が挙げられている。
元々は内蔵や頭が付いた丸のまま味噌汁で煮たドジョウ汁が始まり。江戸、京都、大坂の三都でよく食べられていたもので、京坂では生簀に囲っておいて売ったそうです。(略)『料理物語』(寛永二十年、1643)をはじめとする料理本にもほぼ味噌で煮る調理法が書かれています。ゴボウや大根を一緒にいれて煮て、山椒をかけて出すのが一般的だったようです。
料理本にも取り立てのドジョウは塩水に少し入れておきゴミを吐かせるなどの手法が載っています。また、酒に漬けたものを煮ると骨まで軟らかくなったそうです。(略)「味噌汁」ばかりでなく、「醤油」で丸のまま煮付けたものを「丸煮」と言って売りました。この頃ではドジョウ汁、鯨汁は一緒に売られていたようで、どちらも1杯16文でした。これを鍋にしたものは48文だったそうです。」(略)『守貞謾稿』(嘉永六年、1853)によれば頭、内蔵と骨を取って鍋にしたのは文政の初めごろのことだそうです。
始めは鰻だったそうですが、後にドジョウでも同じように処理されるようになったようです。その後、天保年間(1830~1843)には、柳川鍋が登場します。裏長屋の四畳ばかりの所を客席にし、なべ底にささがきゴボウを敷いて上にドジョウを並べ、玉子でとじたドジョウ鍋を出したのが「柳川」と言う店だったため、これを柳川鍋と呼ぶようになったとか、鍋が福岡の柳川で作られた土鍋だったから「柳川鍋」と呼ばれるようになったなど、諸説あります。」



二八蕎麦屋(店)

■蕎麦切りの発展
江戸時代以前は、熱湯に蕎麦粉を入れて練って餅状に仕上げた「蕎麦がき」に汁をつけて食べるのが主流であった。蕎麦粉をこねて細く切った「蕎麦切り」が誕生し、それまでの「蕎麦がき」と区別されるようになった。江戸初期の寛文四年(1664)頃に、繋(つな)ぎに小麦粉を使う製法が伝来し、饂飩(うどん)のように細長く切った麺をつゆに浸して食べる蕎麦切り、現在の「ざる蕎麦」が生まれた。
江戸中期の元禄年間(1688〜1704)頃には、蕎麦を入れた丼に冷たいつゆをかける「ぶっかけ蕎麦」が江戸庶民の食べ方であり、手軽さもあって人気を博し、寛政年間(1789~1801)頃には、温かい汁をかける「かけ蕎麦」が定着し、さらには芝えびの天ぷらなど「種物」と呼ばれる具をあしらった蕎麦へと展開していく。また、醤油が庶民の生活にも普及すると、それまで「振売り」形式の屋台形態であった屋台店が、蕎麦屋などの形態をとる店になった。

■二八蕎麦と蕎麦屋(店)の初出
「二八蕎麦」の言葉が最初に登場する文献として『衣食住の記』がある。それには、「享保半頃、神田辺にて、二八即座けんとん といふ かん板を出す、かゝればそぱをもうどん桶に入れたり、二八そばといふこと此時始なるべし」と書かれている。このように、「蕎麦切り」が一般的になった享保年間の半ば(享保十三年(1728)頃)に、神田あたりに「二八即座けんどん」という看板を出した店売りの「二八そば屋」が登場したとある。「けんどん」とは、一杯ずつ盛り切りして売る「そば」のことである。
他では、『享保世説』の享保十三年(1728)の記述には「仕出したは 即座麦めし二八蕎麦 みその賃ずき 茶のほうじ売り」という世相を風刺した狂歌が載っており、「二八そば」が享保年間に登場したことが判る。

■蕎麦の売値
現在のそばの原型といわれる二八蕎麦の始まりは、江戸中期、八代将軍徳川吉宗の享保年間(1716-36年)頃から「二八そば」が使われはじめる。二八蕎麦は、蕎麦粉八、うどん粉二の割合のそばの混合比説、あるいは、そば一杯の代金が十六文(2×8=16で16文)なので二八、十六の語呂で「二八そば」との代価説とがある。二八蕎麦は、寛文年間(1661-73年)頃に定式化したと云われ、その売値は天保の頃、屋台や店構えをした蕎麦屋でも、もり蕎麦・かけ蕎麦一杯が十六文であった。


黄表紙「仇敵 手打新蕎麦」文化4年版(1807)南杣笑楚満人作/歌川豊広画
二八蕎麦屋「つる屋」の蕎麦打ちの図。座位の姿勢で蕎麦打ちをする職人。職人の後ろに生舟(なまぶね)という切り蕎麦を入れる三箱重ね木箱、壁には長短・複数の麺棒が見える。



『花の御江戸』北尾正美画 天明3年(1783)/上野山下の二八蕎麦屋の絵、享保年間(1716~36)には蕎麦の名店も生まれ蕎麦屋は二八の看板を掲げて営業し、江戸はうどんの町から蕎麦の町になっていった。

■年越し蕎麦
大晦日に食べる蕎麦を〝年越し蕎麦〟と呼ぶようになったのは、江戸時代の中期頃と言われている。
『大坂繁花風土記』(1814)の記述は「十二月三十日晦日そばとて。皆々そば切をくろふ。当月節分、年越蕎麦とて食す。正月十四日十四日年越とて、節分になぞらへ祝う。この日そば切を食ふ人多し。」とある。
おおよその意味は、(お江戸では、)12月の晦日に皆が蕎麦切りを年越し蕎麦として食べるそうだ。これは、1月14日を小正月として年越し蕎麦を節分に食べて祝うことに倣ったもので、大勢の人々が蕎麦を食べて祝うようだ。

『大晦日曙草紙』香蝶楼国貞(歌川国貞) 画 天保10年(1839) 、「二八蕎麦屋のみせ」で晦日(みそか)蕎麦を食する図、万永元年(1860年)には、江戸に3,763 軒もの座敷のある蕎麦屋があったとされています。



蕎麦屋(担ぎ屋台)

当時の屋台(屋体・屋躰)の形態としては2種類あり、肩に担いだ状態で移動しながら商売を行う 「担ぎ屋台」と、仮設の店舗を建て、前者のように移動せずに商売を行う「立ち売り」(天ぷら屋の床店,とこみせ)が存在した。火を持ち歩いて暖かい食べものを売り歩く屋台のそば屋は、中央の担ぎ棒を担いで移動する。左右の箱型の中には、七輪(しちりん)とそばをゆがく鍋釜、水桶がしまえ、そば玉などを入れる引き出しや、どんぶりや箸などを置く棚があった。蕎麦も夜間に屋台で売られていた。夜そば売りの屋台は、天秤棒の両端に道具入れになる縦長の箱がつき、この箱の上に雨よけの簡単な屋根がのせられたつくりになっていた。蕎麦売りは天秤棒をかついで移動し、これが降ろされると天秤棒の両端に付いた箱が屋台の柱となり、暖かいぶっかけそばを売っていた。
夜蕎麦売りのそば売りの時刻として『守貞謾稿』(1853)は、二更(にこう)以降、五更までの夜のみ市街を巡る生業の一つとして蕎麦屋をあげている。更とは一夜を初更・二更・三更・四更・五更に五等分した時刻の名称で季節によって相違する。初更は現在の時刻で午後7時~9時、二更は現在の午後9時~午後11時をいい、五更は午前3時~5時になる。

 
夜蕎麦売り『二八そば 与兵衛』(三代歌川豊国) 
錦絵の『二八そば与兵衛』(三代歌川豊国)では、「二八そば・うんどん(饂飩)」の文字が読み取れる。荷を担ぎながら町を流して歩くそば屋である。夜蕎麦売りの屋台は、天秤棒の両端に道具入れになる縦長の箱がつき、この箱の上に雨よけの屋根がのせられたつくりになっていた。蕎麦売りは天秤棒をかついで移動し、これが降ろされると天秤棒の両端に付いた箱が屋台の柱となった。


■うどんから蕎麦へ
江戸も始めの頃には、西国からやってきた者が多く、上方食文化の影響を受けて、うどんが愛好されていたが、後になると次第に東国の者が江戸に集まるようになり、自然とそばの方が好まれるようになった。
上方の薄味の醤油から関東の濃口醤油への転換もそうした動きに照応している。江戸蕎麦は、野田や銚子の濃口醤油に亀節や鯖節などの雑節を使って仕込んだ濃厚で辛いそば汁であった。江戸でそばが好まれた一因として、関西ではうどんの原料の小麦栽培が多かったのに対し、関東は火山灰が堆積した土地が多く、その土壌に合うソバ栽培が盛んとなり、関東でそばが好まれたと考えられている。

醤油が普及していなかった江戸時代初期には、茹で上がった麺に大根などの辛みをからませダシ汁をかけて食していた。屋台のそば屋が登場した当時はまだ1日2食、夜になると腹が減るので夜そば売りが流行した。江戸時代後期には、濃口醤油に亀節や鯖節などの雑節をじっくり煮込んで濃厚且つ、辛い蕎麦汁が味の基本となった。そして、万延年間(1860-61)には、江戸市中に3000軒を超える立ち食いそば屋があったという。

■夜鷹蕎麦(屋台)
夜鷹そばの由来として、夜鷹相手に商売したから「夜鷹そば」という名前がついたという。『守貞漫稿』には「江戸にては、夜鷹蕎麦と云う。夜たかは土妓の名、かの徒、専らこれを食すによる」と書いている。その他、中公文庫「蕎麦の事典」には次のように書いている。「夜鷹には"二十四文"の異名があって二四文が相場だったが、最下等の夜鷹が十文で買えたことから"十文"と称し、それから転じて十文売りの夜そばを夜鷹そばといったとの説もある。」 

『神無月はつ雪のそうか』(夜鷹そば)歌川国貞
この錦絵は屋台の夜そば屋に暫しの暖を取ろうと群がる夜鷹(はだしの者もいる)を描いています。春をひさぐ貧しい「そうか」(夜鷹)の女性たちが降りしきる雪の夜、屋台を囲み、温かい"かけそば"を食べています。彼女らの中には冷たい雪夜、素足のまま1本の番傘を2人で持つ夜鷹、傘も差さず白木綿の手拭いをかぷり素足で歩く最下等の夜鷹も描かれています。
神無月とは旧暦10月、現在の暦では10月下旬から12月中旬の間となります。「そうか」は、総嫁・惣嫁あるいは嬬嫁等の字をあて、夜の路傍で春をひさぐ最下級の娼婦のことです。京阪の方言でこういい、江戸では夜鷹と呼びならわされています。『守貞漫稿』の夜鷹の項に、「京で辻君、大阪で嬬嫁、江戸の夜鷹は吉田町」という流行歌のあったことを紹介し、江戸の夜鷹は本所吉田町に多く、両国橋東、永代橋西、御厩河岸(おうまやがし)等にも徘徊したと述べています。

夜そば売りは江戸では夜鷹(よたか)蕎麦とも呼ばれていた。「ぶっかけ」蕎麦とは、荷物運びの人足が素早く立ち食いできるように冷たいツユをかけた蕎麦のことで、出始めの頃は下賎な食べものとされていた。ぶっかけそばを供する夜蕎麦売りが「夜鷹蕎麦(夜鳴き蕎麦とも)」と言われだすのは、夜の街娼「夜鷹」が食べることが多くなった元文(1736~41)頃と言われる。また、夜鷹の花代とそばの値段が同じだったからという説もある。夜鷹蕎麦は、温かいツユをを使ったぶっかけを「かけ」と呼び、「かけそば」となった。(それまで、ぶっかけと呼ばれた冷たい蕎麦は「もり」とよばれるようになったといわれている)
宝暦(1751~64)の頃になると、屋台に風鈴をつけ、鳴らしながら担ぐ、「しっぽく」と呼ばれる蕎麦「風鈴そば」売りが登場している。器なども清潔な物を使って、蕎麦の上にのせる「しっぽく」(かやくの一種で、焼き卵・かまぼこ・椎茸・鶏肉・慈姑)などの種もの


も扱うようになっていった。

嘉永六年(1883)の『守貞漫稿(もりさだまんこう)』には、夜鳴き蕎麦について次のように書いている。
『江戸は蕎麦を専らとしてうどんは兼して売っている程度だ。京坂では担ぎ売りを夜啼きうどんと言っているが、江戸では夜鷹蕎麦と呼んでいる。夜鷹は街娼の呼び名で、この蕎麦をよく食べるからこんな名がついた。江戸の夜鷹蕎麦売りの屋台には必ず風鈴が吊るしてある。京坂も天保以降 風鈴は京都、大阪、江戸とも、うどんや蕎麦は一椀16文......』、屋台の蕎麦が16文という値段は、寛文年間(1661~1673)に決まり、幕末まで200年間変わらなかった。



うなぎ蒲焼の路地売り

蒲焼屋の中には、飯屋を兼ねた鰻屋もあったが「蒲焼」だけを売る鰻屋があった。鰻屋が登場した頃の庶民的な「露店的な鰻屋」や天秤棒で焼きながら蒲焼を振り売り歩く「蒲焼売り」が江戸時代が終わるまで多く存在し続けた。


『広重の描く「浄るりまち繁盛の図」』歌川広重/画、嘉永五年(幕末)
露天で行う蒲焼き売りが見受けられる。その掲げる行燈には「鰻さきうり・かばやき」と記されていた。 人の集まるところでは、このような屋台や床店風の仮店舗で飲食物を売るのが盛んだった。


江戸時代の風俗を記した『守貞漫稿』(嘉永六年:1853)によると、京や大阪では、鰻の蒲焼に必要な道具全てを担いで、路上で鰻を裂いて焼く、“鰻蒲焼売り”が商いをしていた。


『守貞漫稿』の鰻蒲焼売りの項には、
「京坂は諸具ともに担ひ巡りて阡陌に鰻をさき焼て売之江戸にては家にて焼たるを岡持と云手桶に納れ携へ巡る・・・京坂蒲焼は朱漆の太平椀に盛る大価銀三匁小二匁江戸は陶皿に盛る一大串中二三串小四五串を一皿とす各価二百銭」。
とある。うなぎ蒲焼売は、うなぎを割いて焼いて売る京坂の辻売で、江戸では、その場で調理して販売するのではなく、家・店で調理した鰻を岡持(おかもち)という手桶に入れて売り歩くようである。京坂は朱塗の大平椀に盛るが、一皿二百文というから、決して安い食べ物ではない。
「京坂は鰻をさきて大骨を去り首尾全体にて焼之而後斬て椀に盛り焼之時鉄串を用ひ串を去て椀に盛る江戸は大骨を去り鰻の大小に応じ二三寸に斬り各竹串二本を貫き焼て串を去す皿に盛る江戸は焼之に醤油に美醂(みりん)酒を和す京坂は諸白酒を和す諸食ともに京坂にては諸白を交へ江戸にてはみりんを交ゆ也又京坂は鰻を腹を裂き江戸は背をさく也」
ともある。京坂はうなぎを腹から割き、江戸は背から割く。京坂は大骨を除いたうなぎを首尾全体に鉄串をさして焼き、串をとって大平椀に盛るが、江戸は大骨を除いたうなぎを二、三寸に切り、それぞれに竹串をさして焼き、串をとらず陶皿に盛る。焼く時に付けるたれは、江戸は醤油にみりんをまぜ、京坂は醤油に諸白(もろはく)酒をまぜる。 関東と関西で背開き・腹開きの別があることと、江戸では味醂を多く用いる事などの説明が書かれている。



一膳飯屋・料理茶屋

文化元年(1789)には江戸には6160軒の料理屋があったとあり、この頃には江戸の下層にまで外食文化が浸透し始めた。庶民が使った料理屋は『煮売茶屋』や『一膳飯屋』(今でいう大衆食堂)で、飯や惣菜の簡単な食事と、湯茶、酒などを売る料理屋で土間に並べられた床几(しょうぎ)に小あがりの座敷などで膳で食べていた。一方、『料理茶屋』とは茶屋に酒を置き、調理した料理とお茶・酒を提供する店で、給仕女が雇われた。簡単なつまみや菓子を出す『茶屋』とは区別され、この『茶屋』が発展した形態を『料理茶屋』と呼ぶようになった。現在では料理屋、割烹(かつぽう)店、料亭などと云う。

 
料理を運ぶ料理茶屋の仲居。いづれも画の一部を切り取ったもの。
左絵、「江戸名所百人美女 目黒瀧泉寺」歌川豊国/安政4年(1857)で、茶屋の仲居が硯蓋すずりぶたに口取肴を盛り、銚子で酒を運ぶ姿を描いたもの。茶屋の仲居が運んでいる料理は蒲鉾、大根、ぎんなん、焼き栗、煮凝りもしくは煮寄(によせ―野菜を細かく切って煮たり、煮てから潰して寒天を加えて固めた物)のようなものと思われる。
右絵、「當盛江戸鹿子(とうせいえどかのこ) 永代橋ノ景」歌川国芳/天保3年(1832)、仲居が運ぶお膳の上には、二人分の重箱に汁椀2個と野菜らしきものが入った2種類の深鉢が描かれている。


 
上の「江戸高名会亭尽(えどこうめいかいていづくし)」の図は料亭「牛嶋・武蔵屋」の一部で数寄を凝らした座敷と庭が描かれている。その画の庭から料理を出す仲居の姿を切り取ったものである。「江戸高名会亭尽」は、30枚揃いの錦絵で八百善、平清といった本格的な料理を供する店だけではなく、白山の万金や浅草雷門前の亀屋のように、簡便な即席料理を供する店も含まれている。


「即席料理屋」梅川の絵

『江戸高名会亭尽』 「両国柳ばし」 歌川広重/画 天保6~13年(1835-1842)
料理屋の入口に “即席御料理 梅川” と書かれている。料理屋の前には、江戸芸者や供を連れた相撲取りも描かれている。梅川は比較的老舗の料理茶屋であった。
柳橋は神田川の喉首、両国橋と隔たること数十間、水運が中心であった江戸時代の交通の要衝として、屋根船、猪牙船の来往も多かった。また、柳橋の場所柄から船宿が多いことは当然であるが、料亭もまた多く、橋の北には川長、万八、南には、梅川、亀清、河半、柳屋などの高級料亭がひしめいていた。



天ぷら屋台店(屋台見世)

 

屋台の天ぷらは「たね七分に腕三分」といわれるように、「たね」がきめてとなる。高価な鯛などではなく、江戸前で獲れる車えび、あなご、はぜ、きす、白魚、馬鹿貝など、安くて新鮮な江戸前の魚介類が絶好のたねとなった。おいしいばかりか栄養に富み、しかもきわめて安価なこの屋台料理に江戸庶民は群がった。屋台の天ぷら屋を当時の風俗画などで見ると、立ち食いに便利なように、天ぷらは一切れ一切れに串を刺して揚げ、客は共通の深鉢の中のつけ汁(醤油をだしで割り、大根おろしを入れたもの)に、串刺しの天ぷらを突っ込んでから食べていたようである。
また、当時、野菜類を揚げたものは天ぷらとはいわず「精進揚げ」と呼んで区別していた。天ぷらの衣に関する区別も存在し、卵黄の比率を多くして黄色みを強くした天ぷらを「金ぷら」。卵白だけを使って白く揚げた物を「銀ぷら」と呼んだ。
 
現在のような衣揚げの天ぷらの調理法は、1748(寛延元)年発行の料理書『歌仙の組糸』等に見ることができる。同書には『てんぷらは何魚にても饂飩(うんとん)の粉まぶして油にて揚る也 但前にあるきくの葉てんぷら又牛蒡蓮根(れんこん)長いも其外何にてもてんぷらにせん時は饂飩の粉を水醤油とき塗付て揚る也 常にも右之通にしてもよろし又葛の粉能くくるみて揚るも猶宜し』と、具体的な調理法が記述されており、今日のような天ぷらが一般的になったのは、この頃とされる。

■金ぷら(お座敷天ぷら)
天ぷらはもともと、揚げたてを串にさして、四文銭一枚で食べられる屋台で立食いする大衆的な料理であった。蕎麦と同じく、武家の奉公人や商家の丁稚といった低所得層の庶民の食べ物として根づいた天ぷらであったが、時代が下るとともに、やがて女性や武士にまで客層が広まり高級料理化が進んだ。天ぷら人気が広まり、高級志向の天ぷら店が出現する中で登場したのが「金麩羅(ぷら)」であった。「金ぷら」は、文政年間に両国柳橋・深川亭文吉が創始したといわれ、屋台料理ではなく天ぷらを座敷で食べさせる高級な天ぷら料理であった。
江戸後期、安政期(1854~1859年)の頃には、店構えの料理屋で出す際に、屋台の天ぷらとの差をつけるために、高級な食材を使い、当時は高級食材だった「卵」を衣に加えたお座敷天ぷら屋が現れ、高級天ぷらの「金ぷら」として料亭でも出されるようになった。「金ぷら」は、卵の黄身のみで衣を作り、ごま油で揚げた黄金色の天ぷらのことをいう。


天ぷら屋の「す田町 金ぷら」

上の絵は、嘉永年間(1848~1854)頃の『新版御府内流行名物案内双六』(しんぱんごふないりゅうこうめいぶつあんないすごろく)の一部である。
双六の図には、天ぷら屋の「す田町 金ぷら」という文字、そして黄色い天ぷらの絵が書かれている。「金ぷら」とは卵黄を加えた小麦粉の衣をつけた天ぷら(衣に蕎麦粉を使った天ぷらを指すことも)のこと。 高価な卵を使うことによって屋台の天ぷらとは一線を画したと言われ、諏訪町(台東区駒形あたり)にあった「金麩羅屋」は、その「金ぷら」を出すお店として繁盛した。また、江戸末期の『江戸名物狂詩選』に、衣にそば粉を加え、卵黄を多く用いて椿(つばき)油で揚げるのが金麩羅とある。

■天ぷらそば
天ぷらから派生した江戸料理が「天ぷらそば」と「天丼」である。
天ぷらが広まっていく中で生み出されたのが、そばと組み合わせた「天ぷらそば」である。天ぷらそばがいつ頃からあったのかは定かではないが、文政10年(1829)頃には売られていたようである。文政10年の川柳で「沢蔵主天麩羅蕎麦が御意に入り」このように読まれている。天ぷらそばの始まりが、日本橋南詰の天ぷら屋台の名店「吉兵衛」の客が、隣り合わせた屋台のかけ蕎麦に天ぷらを浮かべることを思いついて誕生したという説がある。
「守貞曼稿」に「江戸の"天麩羅"はアナゴ芝えび・・・しかる後に油揚げにしたる」とあり、芝えびがよく使われていた。さらに、「守貞曼稿」が紹介している"天ぷらそば"は「芝海老の油あげ三四を加ふ」、売値は「三十二文」とあり、そば屋の最初の「天ぷらそば」は"芝海老のかき揚げ"だったようである。そして、幕末も近い文化・文政時代には「天丼」が浅草で生まれたという説もある。より手軽に空腹を満たすために、天ぷら屋台で、天ぷらをどんぶり飯にのせて天つゆをかけたのが「天丼」である。





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