江戸庶民の食事処
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資料:江戸庶民の食事処
煮売り屋、煮売り酒屋

 
「煮売り屋」、「煮売り酒屋」、「煮売り茶屋」、「居酒屋」。 『江戸庶民風俗図絵』三谷一馬 著(1975年)より。
「煮売り屋」の店頭の文字は右から、おすいもの、御にざかな、さしみ、なべやき。

煮売りというのは、飯と魚、野菜、豆などを煮たおかずを売る店で、酒も飲ませたから、居酒屋とほとんど区別できない。煮売りにも、担い屋台、辻売り屋台、店の三種があった。前者のふたつを振売りの煮売り、後者を茶屋煮売りという。惣菜用の料理を扱う「煮売り屋」が茶屋(煮売茶屋)を兼ねて料理を提供することもあった。
『煮売り屋』とは惣菜屋のことで、菜屋(さいや)ともいい、煮豆・煮魚・煮しめなど、すぐに食べられる形に調理した惣菜を売っていた。『守貞漫稿』によると、『江戸諸所往々これあり。生あわび、するめ、刻みするめ、焼き豆腐、こんにゃく、くわい、れんこん、ゴボウなどの類を醤油の煮しめとなして、大丼鉢に盛り、見世棚にならべ、これを売る。煮豆売りを兼ねたるものあり』と記している。

煮物を中心に簡単な食事と湯茶・酒などを出した茶店の『煮売り茶屋』は、酒を出す店が増えて、寛政年間( 1789~1800)には『煮売り酒屋』と呼ばれるようになる。煮売り酒屋と居酒屋は区別されていたが、居酒屋が酒の肴を充実させるにつれて区別がつきにくくなり、両者をあわせて煮売り居酒屋という業種ができ、これが江戸の『居酒屋』になる。
文化年間(1804~18)の『居酒屋』のメニューには「ふぐの吸物、しょうさいふぐのすっぽん煮、鮟鱇汁、葱鮪、まぐろの刺身、湯豆腐、から汁、芋の煮ころばし」等がある。

 

また、徳利が発明されたのは文政時代(1818~30)で、それが普及したのが安政年間(1854~60)である。それ以前は徳利に酒を入れることはなく、酒はちろりと呼ばれる金属性の道具から直接猪口になどに注いでいた。



醤油売り(振り売り)

『江戸商売図絵』 三谷一馬著(中公文庫)
井原西鶴は『日本永代蔵』貞享五年(1688)刊に、醤油屋の話を登場させている。
近江大津の醤油屋喜平次という者が、醤油の荷桶を担ぎ、市中を廻って計り売りをして生計を立てている様子を描いている。西鶴の作品には、醤油で財を成したり、醤油の担ぎ売りをする人が話題に取りあげられている。

振り売り(ふりうり)は、天秤棒の両端に荷(商品)を振り分けにして担いで、物の名を唱えながら売り歩く小商人(こあきんど)や売り歩く人のことをいい振売り(ふれうり)ともいう。または「棒手振」(ぼてふり)ともいう。彼らの多くは裏長屋の住人たちであったが、町人にとっては便利な行商人であった。「振り売り」「棒手振」が扱ったのは、日用品だけでなく、季節の商品から古物まで幅広かった。また、各種修理屋も街を行商した。

庶民相手の商売で、幕府が振り売り商人の許可制(鑑札)としたのが万治元年(1658)で運上金を徴収した。夜間での振り売りが許可されたのが貞享三年(1686)である。
日用品のほとんどは振り売り(流し)が扱っており、流しているところを呼び止めて購入した。振り売りは約50種類あったといわれ、たばこ売り・塩売り・飴おこし売り・下駄足駄売り・味噌売り・酢醤油売り・紙売り・小間物売り・春米(つきまい)売り・傘売り・油売り・木綿売り・薪売り・冷水(ひやみず)売り・豆腐こんにゃく売り・煎茶売りなどであった。



二八そばの屋台(夜鷹そば・夜鳴き蕎麦とも言う)

  
錦絵の『二八そば 与兵衛』(三代歌川豊国)では、「二八そば・うんどん(饂飩)」の文字が読み取れる。荷を担ぎながら町を流して歩くそば屋である。また、『神無月 はつ雪のそうか』(歌川国貞)では、夜鷹そばを描いており、降りしきる雪の中で、春をひさぐ貧しい夜鷹の女性が温かい蕎麦をすすり、暖をとっている。
夜蕎麦売りの屋台は、天秤棒の両端に道具入れになる縦長の箱がつき、この箱の上に雨よけの屋根がのせられたつくりになっていた。蕎麦売りは天秤棒をかついで移動し、これが降ろされると天秤棒の両端に付いた箱が屋台の柱となった。二八そばは、蕎麦粉八、うどん粉二の割合で打った蕎麦で寛文年間(1661-73年)頃に定式化したと云われ、その売値は天保の頃、屋台や店構えをした蕎麦屋でも、もり蕎麦・かけ蕎麦一杯が一六文であった。

江戸時代以前は、熱湯に蕎麦粉を入れて練って餅状に仕上げた「蕎麦がき」に汁をつけて食べるのが主流であった。江戸初期の寛文四年(1664)頃に、繋(つな)ぎに小麦粉を使う製法が伝来し、饂飩(うどん)のように細長く切った麺をつゆに浸して食べる蕎麦切り、現在の「ざる蕎麦」が生まれた。江戸中期の元禄(1688〜1704)頃には、蕎麦を入れた丼に冷たいつゆをかける「ぶっかけ蕎麦」が江戸庶民の食べ方であり、手軽さもあって人気を博し、寛政年間(1789~1801)頃には、熱い汁をかける「かけ蕎麦」が定着していた。

醤油が普及していなかった江戸時代初期には、茹で上がった麺に大根などの辛みをからませダシ汁をかけて食していた。屋台のそば屋が登場した当時はまだ1日2食、夜になると腹が減るので夜そば売りが流行した。江戸時代後期には、濃口醤油に亀節や鯖節などの雑節をじっくり煮込んで濃厚且つ、辛い蕎麦汁が味の基本となった。そして、万延年間(1860-61)には、江戸市中に3000軒を超える立ち食いそば屋があったという。

現在のそばの原型といわれる二八蕎麦の始まりは、江戸中期、八代将軍徳川吉宗の享保年間(1716-36年)頃から「二八そば」が使われはじめる。そば粉二割にうどん粉八割のそばの混合比説、あるいは、そば一杯の代金が十六文(2×8=16で16文)なので二八、十六の語呂で「二八そば」との代価説とがある。

「二八そば」の言葉が最初に登場する文献として『衣食住の記』がある。それには『享保半頃、神田辺にて、二八即座けんとん といふ かん板を出す、かゝればそぱをもうどん桶に入れたり、二八そばといふこと此時始なるべし』と書かれている。このように、蕎麦切りが一般的になった享保年間の半ば(享保十三年(1728)頃)に、神田あたりに「二八即座けんどん」という看板を出した店売りの「二八そば屋」が登場したとある。「けんどん」とは、一杯ずつ盛り切りして売る「そば」のことである。他では、『享保世説』の享保十三年(1728)の記述には『仕出したは 即座麦めし二八蕎麦 みその賃ずき 茶のほうじ売り』という世相を風刺した狂歌が載っており、「二八そば」が享保年間に登場したことが判る。

ぶっかけそばを供する夜蕎麦売りが「夜鷹蕎麦(夜鳴き蕎麦とも)」と言われだすのは、夜の街娼「夜鷹」が食べることが多くなった元文(1736~41)頃と言われる。また、夜鷹の花代とそばの値段が同じだったからという説もある。夜鷹蕎麦は、温かいツユをを使ったぶっかけを「かけ」と呼び、「かけそば」となった。宝暦(1751~64)の頃になると、屋台に風鈴をつけ、鳴らしながら担ぐ「風鈴そば」売りが登場している。器なども清潔な物を使って、蕎麦の上にのせる「しっぽく」(かやくの一種で、焼き卵・かまぼこ・椎茸・鶏肉)などの種ものも扱うようになっていった。

嘉永六年(1883)の『守貞漫稿(もりさだまんこう)』には、夜鳴き蕎麦について次のように書いている。
『江戸は蕎麦を専らとしてうどんは兼して売っている程度だ。京坂では担ぎ売りを夜啼きうどんと言っているが、江戸では夜鷹蕎麦と呼んでいる。夜鷹は街娼の呼び名で、この蕎麦をよく食べるからこんな名がついた。江戸の夜鷹蕎麦売りの屋台には必ず風鈴が吊るしてある。京坂も天保以降 風鈴は京都、大阪、江戸とも、うどんや蕎麦は一椀16文......』

江戸も始めの頃には、西国からやってきた者が多く、上方食文化の影響を受けて、うどんが愛好されていたが、後になると次第に東国の者が江戸に集まるようになり、自然とそばの方が好まれるようになった。
上方の薄味の醤油から関東の濃口醤油への転換もそうした動きに照応している。江戸蕎麦は、野田や銚子の濃口醤油に亀節や鯖節などの雑節を使って仕込んだ濃厚で辛いそば汁であった。江戸でそばが好まれた一因として、関西ではうどんの原料の小麦栽培が多かったのに対し、関東は火山灰が堆積した土地が多く、その土壌に合うソバ栽培が盛んとなり、関東でそばが好まれたと考えられている。



天ぷら屋台店(屋台見世)

 

屋台の天ぷらは「たね七分に腕三分」といわれるように、「たね」がきめてとなる。高価な鯛などではなく、江戸前で獲れる車えび、あなご、はぜ、きす、白魚、馬鹿貝など、安くて新鮮な江戸前の魚介類が絶好のたねとなった。おいしいばかりか栄養に富み、しかもきわめて安価なこの屋台料理に江戸庶民は群がった。屋台の天ぷら屋を当時の風俗画などで見ると、立ち食いに便利なように、天ぷらは一切れ一切れに串を刺して揚げ、客は共通の深鉢の中のつけ汁(醤油をだしで割り、大根おろしを入れたもの)に、串刺しの天ぷらを突っ込んでから食べていたようである。
また、当時、野菜類を揚げたものは天ぷらとはいわず「精進揚げ」と呼んで区別していた。天ぷらの衣に関する区別も存在し、卵黄の比率を多くして黄色みを強くした天ぷらを「金ぷら」。卵白だけを使って白く揚げた物を「銀ぷら」と呼んだ。

現在のような衣揚げの天ぷらの調理法は、1748(寛延元)年発行の料理書『歌仙の組糸』等に見ることができる。同書には『てんぷらは何魚にても饂飩(うんとん)の粉まぶして油にて揚る也 但前にあるきくの葉てんぷら又牛蒡蓮根(れんこん)長いも其外何にてもてんぷらにせん時は饂飩の粉を水醤油とき塗付て揚る也 常にも右之通にしてもよろし又葛の粉能くくるみて揚るも猶宜し』と、具体的な調理法が記述されており、今日のような天ぷらが一般的になったのは、この頃とされる。

天ぷらは、揚げたてを串にさして屋台で立食いする大衆的な料理であった。蕎麦と同じく庶民の食べ物として根づいた天ぷらであったが、時代が下るとともに、高級料理化が進んだ。江戸後期、安政期(1854~1859年)の頃には、店構えの料理屋で出す際に、屋台の天ぷらとの差をつけるために、高級な食材を使い、当時は高級食材だった「卵」を衣に加えたお座敷天ぷら屋が現れ、高級天ぷらの「金ぷら」として料亭でも出されるようになった。「金ぷら」は、卵の黄身のみで衣を作り、ごま油で揚げた黄金色の天ぷらのことをいう。

「金ぷら」は、文政年間に両国柳橋・深川亭文吉が創始したといわれ、屋台料理であった天ぷらを座敷で食べる高級料理であった。

左の絵は、嘉永年間(1848~1854)頃の『新版御府内流行名物案内双六』(しんぱんごふないりゅうこうめいぶつあんないすごろく)の一部である。
双六の図には、天ぷら屋の「すわ町 金ぷら」という文字、そして黄色い天ぷらの絵が書かれている。「金ぷら」とは卵黄を加えた小麦粉の衣をつけた天ぷら(衣に蕎麦粉を使った天ぷらを指すことも)のこと。高価な卵を使うことによって屋台の天ぷらとは一線を画したと言われ、諏訪町(台東区駒形あたり)にあった「金麩羅屋」は、その「金ぷら」を出すお店として繁盛した。
また、江戸末期の『江戸名物狂詩選』に、衣にそば粉を加え、卵黄を多く用いて椿(つばき)油で揚げるのが金麩羅とある。

天ぷらから派生した江戸料理が「天ぷらそば」「天丼」である。天ぷらそばがいつ頃からあったのかは定かではないが、文政10年(1829)頃には売られていたようである。「守貞曼稿」が紹介している天ぷらそばは「芝海老の油あげ三四を加ふ」、売値は「三十二文」とあり、そば屋の最初の天ぷらそばは芝海老のかき揚げだったようである。幕末も近い文化・文政時代には屋台で、より手軽に空腹を満たすために、天ぷらをどんぶり飯にのせて天つゆをかけた「天丼」が誕生した。

江戸末期に書かれた『守貞漫稿』(嘉永六年:1853)には、『江戸の天麩羅は、あなご・芝えび・こほだ・貝の柱・するめなどの魚介類で、うどん粉をゆるくといて衣とし、油揚げしたものをいう。野菜の油揚げは江戸でも天麩羅といわずあげものという』としている。



江戸末期の芝居茶屋での食事

「江戸自慢三十六興 猿若街顔見せ」元治元年(1864) より(国立国会図書館所蔵)
芝居小屋は『東都名所 猿若町芝居』 歌川広重(天保3年,1832)
 

芝居の興行は、明け六つ(午前6時頃)から、暮れ七つ半(午後5時頃)までが原則だったため、芝居見物に行く日は一日がかりだったという。芝居茶屋(一般に芝居小屋と隣接した食事処)は劇場の周りの前後左右に数十件ほどあったという。この座付きの専門業者を通して「桟敷(さじき)専用口」から芝居小屋に入るのは上客で、平土間より高い本舞台をはさんだ左右の桟敷(さじき)席での観劇となる。一般の客は木戸から入り本舞台の正面にある平土間(ひらどま)の桝席(ますせき)で観るのが普通だった。一桝の定員は六名。芝居見物は、舞台を観る以外にも芝居茶屋での食事も楽しみのひとつであった。 芝居小屋の料金は、江戸後期で「上桟敷」で銀 30匁(銭4,000文=銀 二分)、一般席の「枡席」で銭132文くらいであった。



「芝居茶屋」は、1624年頃、江戸に雨風をしのいで茶を出す程度の掛茶屋(小屋がけの粗末な茶屋)であった。
明和年間(1764 - 71)になると、幕府公認の芝居小屋として櫓【やぐら】をあげることができた江戸三座(中村座・市村座・森田座)は、中村座で大茶屋が16軒と小茶屋が15軒、市村座で大茶屋10軒と小茶屋が15軒、森田座で大茶屋7軒があった。元禄時代の江戸三座のほかに小芝居・宮地芝居が多く存在した。

「芝居茶屋」は芝居小屋の周囲にあって、観客のために木戸札を予約したり、飲食の世話をするところであった。
芝居茶屋の料理は、当時の最高の料亭にもひけをとらなかった。当時の茶屋には等級があって「大茶屋」「小茶屋」「水茶屋」の区別があった。大茶屋は「表茶屋」ともよび、芝居小屋内の一角にあって富裕な人々に利用された。小茶屋は「出茶屋」といって、中流以下の庶民が利用した。水茶屋は主として場内の飲食物を扱うところであった。
「水茶屋」は、のちに料亭や、相撲茶屋などに発展して分かれていった。建物を持った常設の店になったのは享保九年(1724)のことで、次々と水茶屋が建てられ、寛政年間(1789~1801年)には水茶屋は、江戸中に二万八千軒ほどあったという。



うなぎの蒲焼き

『役者尽くし』歌川國芳 天保二年(1831)
 

上の錦絵では、さばいた鰻を横にある炭火で焼いて販売していたことがわかる。天明から寛政の時期になって、本格的な「江戸前の大蒲焼き」が登場する。天明年間(1781年~1789年)千葉県銚子や野田などの濃口醤油が流通して蒲焼きの流行に拍車をかけた。

『茶湯献立指南』巻四〔元禄九年(1696年)刊〕には、『鰻かば焼 うなぎは大なるにあく事はなし 背よりたちひらき二処串にさしあふるべし 醤油をかけル』と、背開きにして醤油を掛けて焼く方法が紹介されている。『増補食物和歌本草』(1723年)には、やきうなぎは山椒みそよし醤油にて、、、、と記されている。

享保13年(1728)に発行された『料理網目調味抄』や、寛政12年(1800)の『万宝料理秘密箱』には、現在のものと近い蒲焼きの調理法が書かれている。このことから、タレを使った鰻の蒲焼きは、江戸時代中期以降にうまれたものとされる。タレもはじめは醤油に酒をあしらったものであったが、文政頃から味醂を加えるようになった。ちょうど江戸に関東の濃口醤油や味醂が普及した時期である。
文化・文政から嘉永年間(1804~54年)には江戸で蒲焼きが全盛期を向かえる。これには、天明年間(1781~89年)に銚子で開発された濃口醤油が関係している。

「今日は土用の丑の日」
「土用丑の日」を決めたのは、博物学者の平賀源内(1728~1779年)という説があります。ウナギが大好物の源内源内が、なじみみの鰻屋に看板を頼まれて「本日土用丑の日」と大きく書いて店先に置いたのが評判になったというのが定説のようです。丑(うし)の日に「う」の付く物(うどん・うり・梅干など)食べると体に良いとの言い伝えがあり、「うなぎ」が合致したと考えられます。



稲荷鮨の屋台

新版御府内流行名物案内双六より、一英斎芳艶(弘化4~嘉永5)
天明の大飢饉(1782-88年 天明2年-8年)のおり、油揚げの中に飯のかわりに「おから」をつめて屋台で売ったのが始まりと伝えられており、魚を使っていないから、極めて安く人気を呼んだ。

江戸末期に書かれた『守貞漫稿』によると、『天保末年(1830~44年)江戸にて、油あげ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸(きくらげ)・干瓢(かんぴょう)等を刻み交へたる飯をいれて鮨として売り巡る。日夜これを売れども夜を専らとし、行燈に華表(とりい)を画き、号して稲荷鮨あるひは篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異称)は油揚を好むもの故に名とす。最も賤価鮨なり。 尾の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。 』
(天保時代、江戸に稲荷鮨 (篠田鮨) という最も安価な鮨を売っているが、以前から名古屋にあった。江戸でもその前から売ってる店があったかも。)

「藤岡屋日記」では、「弘化2年(1845年)10月くらいから流行し、1つ8文で山葵醤油で食べる。日暮れから夜にかけて露店で売った」とある。

『近世商賈尽狂歌合』(1852年)の稲荷ずし売りの挿絵には、細長い稲荷ずしを、切り売りする屋台の様子が描かれている。
『一本が十六文、半分が八文、一切が四文」とあり、まな板の上には包丁も描かれているので、当時は細長い稲荷ずしを切り売りしていたようある。
客寄せの口上として「壹本(いっぽん)が十六文、ヘイ~~ ありがたひ、半ぶんが八文、ヘイ~~ ありがたひ、一ト切(ひときれ)が四もん、サア~あがれ~、うまふて大きい~~、稲なりさま~~』と記されている。


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天保年間(1830~44年)の終わりごろには、寿司飯を詰めたいなり寿司を売り歩く行商が増えたようだ。夜には、提灯に赤で鳥居の絵を描いた屋台が、「おいなりさあん」といいながら両国界隈を中心に行商し、庶民から重宝がられた。中でも日本橋の十軒店(じっけんだな)に屋台を構えていた稲荷屋治郎右衛門のいなりずしが大評判だったという。
 『江戸風流「食」ばなし』(1997年3月、講談社、2000年12月、講談社文庫)
田楽茶屋

『豆腐百珍』で使われた豆腐田楽の調味料の主役は味噌と思われているが、意外にも最も多く使用されたのが「醤油」であった。

焼き田楽の絵図と「木の芽田楽」の調理法の頁
 
『豆腐百珍』(1782年)(国立国会図書館蔵)


江戸時代には、浅草から吉原にかけて「田楽茶屋」が数多く軒を連ねていた。「田楽」といえば「豆腐田楽」のことをいった。江戸では先割れしていない串を1本使い赤味噌をつけ、上方では先割れの串2本に白味噌を使って焼く豆腐田楽であった。

『守貞漫稿』に「京阪の田楽串は股(また)あるを二本用ふ。江戸は股無きを一本貫く也。京阪は白味噌を用い。江戸は赤味噌を用ふ。各砂糖を加えする也。京阪はそれぞれ山椒の若芽を味噌にすり入れる。江戸はすり入れずに上に置く也。各木(それぞれ)の芽田楽という。夏以後は辛子粉をぬつて上に置く」とある。

江戸中期の天明二年(1782)に大坂で出版された『豆腐百珍』は翌年江戸でも刊行され、ただちに続編や「豆腐百珍余録」の刊行が続いた。
『豆腐百珍』の豆腐調理法は「尋常品」「通品」「佳品」「奇品」「妙品」「絶品」の六種類にわけて100品の調理法が説明されている。『豆腐百珍』に紹介されているさまざまな豆腐料理の中で、特に流行したのが田楽である。江戸時代後期には、道中の掛茶屋で旅人に盛んに食味されており、弥次・喜多で有名な十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中にも豆腐田楽が登場する。
『豆腐百珍』で使われた調味料は、「醤油44品」、味噌18品、酢3品、塩3品、調味料に触れていないもの25品となっており、醤油が調味料の主役となっている。

江戸の田楽は、長方形の豆腐に串を刺し、甘い練り味噌をつけて焼いたもの。江戸時代に豆腐田楽が流行したのは、当時の豆腐はかたくて、水切りの必要がなく、そのまま切って串にさすことが出来たのが理由と考えられる。江戸では、外で手軽に食べる料理が発達していたこともあり、串に刺さっていて食べやすい田楽料理が流行ったようです。


江戸の豆腐料理本『豆腐百珍』に紹介されている豆腐田楽の料理法の説明は次のとおり。

「尋常品」の豆腐料理
・木の芽田楽
温湯を大盤に湛え切るにもまた串に刺すも其の湯の中にてすべし。柔かなる豆腐にても危くおつるなどの憂いなし。湯よりひきあげすぐに火にかけて焼くなり。味噌に木の芽を入るるは無論なり。なお醴《あまざけ》のかた入《いれ》を二分どおりみそに摺り混ぜれば最も佳し。多く入れて甘過ぎてよろしからず。
(お湯の中で豆腐を串にさし、火にかける。木の芽を入れた味噌に少しだけ甘酒を加え、豆腐にかけて食べる)
・雉子(きじ)焼き田楽
きつね色に豆腐を焼いて、煮かえし「醤油」を猪口(さかずき)に入れ摺り柚子を添える。
・再炙(ふたたび)でんがく
適当な大きさに切った豆腐を「醤油」のつけ焼にして、少しかわかす。かわいたら味噌を付けて再度焼く。あまり焼き過ぎないようにする。


「通品」の豆腐料理
・油揚(あげ)でんがく
油で中位に煮揚げ、串にさし味噌を付ける。
・葛(くづ)でんがく 祇園とうふ
田楽用に切った豆腐を串にさし焼き、葛あんをのせる。


「佳品」の豆腐料理
・浅茅(あさじ)でんがく
稀醤のつけ炙にして、梅醤をぬりて、ゐりたる芥子(けし)を、密とかける也
(豆腐を「うす醤油」のつけ焼きにして梅味噌を塗り、炒った芥子をふりかける)
・海胆(うに)田楽
うにを酒にてよき加減に溶き、これを豆腐に塗りて、常の田楽の如くす。
(酒でといた雲丹をでんがくにする)


「奇品」の豆腐料理
・精進の海胆(うに)でんがく
麹、みりん、「醤油」を同量で混ぜ、唐辛子の粉を加える。よく熟成させて、すり合わせ、でんがくに付ける。
・繭(まゆ)でんがく
つきたての餅をうすく延ばして炙り、山椒味噌の付け焼きにしたでんがくを包む。
・簑(みの)でんがく
辛さ控えめの味噌を付けたでんがくに花かつおを味噌の上にたくさんかける。


「妙品」の豆腐料理
・高趾(こうち)でんがく
でんがくの様に串に豆腐をさし、鍋にごま油をひき、豆腐にとうがらし味噌をぬって、つけ焼きにする。
・阿漕(あこぎ)でんがく
適当な大きさに切った豆腐をさっと焼く。「うす醤油」で煮詰めて胡麻の油で揚げる。これに味噌を付け、でんがくにして焼き、すった柚子をつける。
・鶏卵(たまご)でんがく
鶏卵に「醤油」と酒を少し入れ、少し酢を加えて、よくかきまぜる。田楽にぬってふくれる程度に焼く。芥子とおろしワサビを添える。


「絶品」の豆腐料理
・礫(つぶて)でんがく
豆腐を八分角(3センチたらず)、厚さ四、五分(約1.5センチ)に切り、串に三つづつ刺して、雉子(きじ)焼き田楽のようにキツネ色に焼く。焼けると串を抜いて、楽焼きの蓋茶碗に入れ、からし酢味噌をかけ、芥子をふりかける。






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