日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


日本醤油の歴史文献

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易林本 節用集

 易林本節用集(えきりんぼん せつようしゅう)

   
易林本 節用集

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伝統的な「節用集」では、言葉の最初の仮名でイロハ順にし、イロハ47部(44部)立ての字のそれぞれのなかを意味によって分類します。
「白鷺」なら、シではじまる動物なので、シ部・気形門にあることになります。
語の配列は、語頭の仮名のイロハ順(部)で大別し、その下を十数の意義範疇(門)で細分するものです。
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「節用集」(せつようしゅう)とは、室町時代中期1460年頃に成立し、江戸時代を経て明治初期まで広く使われた 「いろは引き」の通俗辞書で、日常生活百般に要用の用語を示し、その原本に何人かの人が次々と手をくわえ、語義 ・ 語源にも触れた一種の百科事典である。

成立は15世紀後半、先行の『色葉字類抄』や『下学集』(意義分類の用語集)などを参考にして編纂されたと推定されているが、原本がすでになくその成立当初の内容は不明である。
長い時代にわたり、少しづつ内容の異なる幾種類かの「節用集」ができ、おびただしい写本・板本を生んだ。江戸時代に入って出版が盛んになった結果、幕末までに様々な形態のものが数百種類も刊行された。

慶長(1596~1614)ころ、定家仮名遣いによってヰヱオ部を独立させ、47部立てとした節用集ができた。易林本とは跋文(ばつぶん)に「慶長二丁酉易林誌」とあることによる呼称である。
この本は、木版印刷で、「跋」(あとがき)の署名に「易林」とあるので「易林本」とも呼ばれている。易林とは人の名で夢梅とも号した人物とされる。
正書の楷書の字体で節用集ができあがるのは慶長2年の『易林本節用集』からであり、それまではお経の写経の文字で書かれていた。

『易林本』は西本願寺の士人(※)であった平井休与易林(号は夢梅)が編集したので、多くの節用集の中で特異な存在で区別するために呼ばれる通称である。(※)士人(シジン):高い教養と徳を備えた人。また、社会的地位の高い人。
本書の特色の一つとして、清音と濁音においては、同時時代の京都を中心とする語の訓(よみ)を正確に表していることがあげられる。本書は上巻下巻の2巻本であった。



■「古本節用集」と「節用集」と区別
「節用集」は、日本語の語を書き表すべき漢字を求めるため、当時の書き言葉を語頭のイロハ順に語が分類・配列されており、天地・時節・草木・人倫など12前後の意義部門別に多少の注記をほどこして示した各種用語の解説書である。
また、室町時代末から江戸時代初期までの写本や刊本を特に「古本節用集」と称し、それ以降の「節用集」と区別する。


■節用集の分類
節用集の諸本につては上田萬年・橋本進吉『古本節用集の研究』によって、伊勢本系・印度本系・乾本系の三類に整理された。 これは節用集の[イ]の部天地門がどの語によってはじまるかという基準によって分類したもので、以後分類整理する上で基準となっている。
「伊勢」本系がもっとも古く、ついでその一類から「印度本」系が生まれ、さらにその一類から「乾本系」が成立したとされる。



節用集は、長い時代にわたり、広範に用いられたため、おびただしい写本・板本を生んだ。
伊勢本も印度本も、イロハ47文字のうち、ヰヱオ部がなく44部立てであった。諸本の系統を知るには、辞書の冒頭イの部の天地門最初の語を見るのが近道である。

「伊勢本」では、天地門のはじめに旧国名があり、国名「伊勢」(イセ) が最初であれば、その本は原本に近い「伊勢」本類に属する。のちにこの「伊勢」が巻末の「日本国名尽」に移されたためイ部・天地門が「印度」(インド)で始まることになった「印度」本類が現われた。

続いて、慶長(1596~1614)ころ、定家仮名遣いによってヰヱオ部を独立させ、47部立てとした節用集ができた。イロハ順の整備によって「印度」がヰの部に移り、「乾」(イヌヰ)を最初とする「乾」本が作られたと推定されている。


江戸時代に流布した節用集の基となったのが『節用集(易林本)』である。易林本節用集は、古本節用集の中でも語彙数が多く、かつ、他の節用集に見られない語彙を多く含んでいる。「古本節用集」の一つである「乾 (いぬい本) 」は、慶長2年(1597)平井易林が刊行した。

『易林本 節用集』は、文明年間(1469~1487年)につくられたものを慶長2年に伝写したと推定されている。慶長(1596‐1615)の初め平井易林が印行したいわゆる易林本は、〈い〉の部が〈乾(いぬい)〉の項から始まる乾本系節用集としてとよばれる。



「節用集」にみる醤油

■「醤油」の成語の初見は、慶長二年(1597)の『易林節用集』とされる。醤油は「醤の油(液汁)」の意味で、味噌から派生した調味料である。現存最古の写本1470年頃の「文明本節用集」の飲食門に、漿醤に「シヤウユ」読み仮名が記載してある。

醤油」と漢字で書いて「シヤウユ」と読ませる成語が初めて現れるのは、安土桃山時代の慶長2年(1597年)に刊行された『易林本節用集』(各種用語の解説書)の食服の項である。
易林節用集食服の項の終りに、「湘加紐、辣羮、瀉薬、糂太、醤油、●、蒸飯、旨酒、准麩、鹹、醞、●、粃、醭」とあつて、この中に始めて「醤油」が成語として記されている。

 
「易林本節用集・下巻」1597[慶長2]年刊/易林本中の食服門に収載されている「醤油」の文字。
本書は「乾」字の項から始まる漢字を揚げ、その右傍(時に左傍にも)片仮名の音もしくは訓を付している。


■「守貞謾稿 」の節用集・醤油
幕末に書かれた「守貞謾稿 」によれば醤油の文字は、
『足利氏(室町時代)の料理の本には「醤油」という ものは見当たらない。垂味噌(たれみそ)というものを使っている。垂味噌は溜り(たまり)のことで、味噌桶を凹にして、そこに笊(ザル)を沈め、その中に溜まったものを汲み出して使った。醤油の名は庭訓往来 (南北朝~室町初期)には載っていないが、節用集 (室町後)に初めて見える』
と書かれている。

■醤油の発祥は関西か?
日本食生活学会誌Vol.9 No.4(1999)、茂木孝也より以下を引用する。
「文献上に「醤油」という言葉が登場するのは16世紀の終わり頃に著された「易林本節用集」 (慶長2年:1597)という書物で、その中に「大永年間(1521~28年)足利義晴の頃、京都の醤油が創醸された」という意味のことが書かれている。これが、現代の醤油(濃口)の発祥は京都だといわれる説の根拠になっている。
しかし、単に「易林本節用集」という文書(もんじょ)の上にそう書いてあるというだけでは(それがどんな醤油だったのか、どんな作り方だったのか判らないのでは)、そう言い切って良いのかと筆者は疑問に思っていたが、大徳寺納豆に関する畑明美先生の研究を知り、室町時代末期に京都(少なくとも僧院)には現代の醤油に通じる技法が存在したであろうと信ずるに至った。
醤油は上方(関西)でより早い時期に発達した。江戸時代になると、様々な文献も登場し、上方産の醤油が江戸へたくさん運ばれていったという記録がある。
江戸時代後期には、野田と銚子の醤油が江戸市場の主流となって行く、現在、醤油の大醸造地は、野田、銚子、龍野、小豆島であるが、これらの土地は、江戸時代に既に醤油の名醸地として確立していたことが分かる。」



「節用集」にみる穀類・飯・小麦加工品の語彙

■「節用集」に出る穀類関係語彙
米の名称では、米(こめ)、八木(はちぼく)、米(よね),(べい),(めめ)、地味(じみ)などの同意語がみられる。
白米では、精(しらげ)が最も普及した呼び名で、名称同意語は、粕米(はくまい,米が白いと書いて「粕」です)、淅(かしょね)、舂米(つきこめ=搗き米)、精米(しょうまい)、粲(しらげよね)などもみられた。
玄米は、黒米(くろこめ)、能米(のうまい)の他、雉目(ちぼく)、玄米(げんまい)などがあった。

(江戸時代、精米は米搗臼(こめつきうす)地に埋めた臼の中に玄米を入れて、足踏みで杵を上下させてついた。また、搗臼(つきうす)や踏臼(ふみうす)、水車を使う場合もある。
米問屋や札差自身が店舗を構えて精米するようになった米屋を舂米屋(つきごめや)と呼び、現在の米屋の原型になる。舂米屋は時には「御舂入」と称して大名・旗本の大口米も精米する者達もいた)



麦は、挽(ひきわり),(わり=注:麦の),(むぎのひきわり)、割麦(わりむぎ)、恁麦(えぼしむぎ)、乾麦(ほしむぎ)などがあった。麦食(ばくし ょく)、新麦(しんむぎ)、古麦(ふるむぎ)もあり、麦の御所言葉として、牟文字(むもじ) があげられていた。


■「節用集」に出る飯の語彙
飯は、飯(いい)、供御(くご)、生飯(さば)、台飯(だいはん)の4語で、中世から江戸末期まで引き継がれた。
近世初頭に採録されてよく継承された語は、飯(めし),(おもの)、添飯(てんはん)、赤飯、麦飯(ばくはん),(むぎいい)、鮓(すし)、包飯(ほうはん=器に盛った飯の上に煮物を乗せ汁をかけたもの)、湯漬飯(ゆづけめし)、強飯(こわいい)などであった。

また、近世初頭においては、,鮓(すし)1語しかなかったすしの小区分内も、早ずし(押しずし)の工夫によってしだいに普及し、18世紀には、釣瓶鮨(つるべずし)、宇志丸鮨(うじまるのすし)、鱗鮨(こけらずし)の3語が採録され、さらに19世紀になると、文政のころ、江戸で握りずしが考案されたため、鰯鮨(いわしずし)、鯛鮨(たいのすし)、鰺鮨(あじのすし)など、各種の魚の名を冠した語が加えらた。掻扮蒸(かきまぜずし=五目ずし)の採録も19世紀になってからである。


■「節用集」に出る語彙の小麦粉の加工品としては、以下が見られる。
  • 索麺(そうめん)これを、索麺(むぎなわ)とも呼び、御所言葉では、白糸(しらいと)と呼んだ。そうめんを汁で煮る入麺(にゅうめん)、ゆでたそうめんに、煮た鯛の肉と汁を添えた鯛麺などもみられる。
  • 冷麺(ひやむぎ)、斬粥(きりむぎ)、温鈍(うどん)。
  • うどんは、饒鈍(こんとん)、湯餅(とうべい)、蒸鶴(むしむぎ)などとも呼ばれた。その他、干温鈍(ほしうどん)、饒麺(うんめん)、倹鈍(けんどん=1杯ずつ盛りきりにして売ったうどん)、卵麺(らんめん)、文葉第(あいようめん)などもみられる。
  • そばでは、蕎麦窮(そばきり)をはじめとして、生蕎麦(きそば)、新蕎麦、冷蕎麦(ひやそば)、氷蕎麦、蕎麦粉など。その他、そばがきの名称に、河漏(そばがゆもち)、河漏(そばもち)、蕎麦錬(そばがき)、褒屑鰺(そばのかいもち)の4種がみられた。
  • 水団(すいとん)、麩焼(ふのやき=小麦粉を水でとき熱したなべに薄く延ぽして焼き、片面にみそをつけ巻いて食べる) がみられた。麩焼の御所言葉に、朝魚(あさうお) があった。

参考文献:現代社会研究、言語文化論集、慶應義塾大学論文集、茨城大学論文集、『易林本平井板節用集』解説(川嶋秀之)、国語語彙史の研究、熊本県立大学、筑波大学論文集、醤油の由來とその発達、家政学雑誌Vol.35 No.3(1984)、他






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