日本食文化の醤油を知る「江戸の外食文化と醤油」


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文化2年(1805年)頃の日本橋通りを描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」の一部

地廻り醤油と江戸食文化
醤油と江戸の味

 出前蕎麦
左手に持つ盛り蕎麦は芝居小屋/市村座の東隣の蕎麦屋の福山からの出前と考えられる。
 『助六由縁江戸桜 助六』 画/五渡亭国貞(1786-1865年)
■下り醤油から地廻り醤油へ
江戸時代の初期の江戸の醤油は、紀州(和歌山県)、播州(兵庫県)、備前(岡山県)などの上方(関西)に供給を仰いでいた。
江戸に上方から廻船で運ばれてくる良質な醤油を「下り醤油」といった。江戸に運ばれた「下り醤油」は、その後、元禄から享保年間(1700年代前半)に入ると、江戸周辺に近い安房や上総、下総(いずれも千葉県)で造られて発達した安価な「関東地廻り醤油」に次第に代わっていった。
化政期(1804~30年)に入ると、江戸の醤油は上方依存から脱却し、関東地廻り醤油が江戸の需要を賄うようになった。江戸では高級とされていた上方(関西)から江戸に入る「下り醤油」は淡口的な醤油であったが、江戸で広く使われた小麦を多用してつくられた「関東地廻り醤油」は濃口で、香りがあり、色的には透明感のある赤銅色であった。
江戸市場において「下り醤油」から「関東地廻り醤油」へ転換した時期が化政期1804~1830年である。この時期は現在、和食と呼ばれる蕎麦、握り寿司、天麩羅、鰻の蒲焼、佃煮などの料理が江戸で完成する時期でもある。これらの料理の味付けは「関東地廻り醤油」(濃口醤油)の登場があって完成したと考えられる。

■醤油が普及するまでの調味料「煎酒(いりざけ)」
関東で地廻り醤油が広く普及し定着する江戸中期から後期までは、調味酢のほか「煎酒(いりざけ)」がよく用いられていた。煎酒(いりざけ)は古酒に削り鰹節と梅干を入れて半量になるまで煮つめて作り、色がうすく旨味が強い。なま物や和え物によく合う調味料として江戸中期頃まで、主として刺身や鮒などに使用された。
江戸後期には、梅干を省略して代わりに醤油を加える製法が現われた。文化・文政時代に刊行の『卯花園漫録(ぼうかえんまんろく)』には、煎酒(いりざけ)早作り法が次のように記録されている。
「酒二盃、醤油半盃、大梅五つ、鰹節沢山にて、右の割合にてよし。色赤過ぎると思わば、醤油を減じ焼き塩を加え、あんばいすべし。」

■地廻り醤油が江戸に普及した
享保の段階では、まだ醤油という調味料が人々の間で定着していなかったが、文政の段階では地廻り醤油が江戸庶民に広く定着して普及した。地廻り醤油(濃口醤油)は、蒲焼のたれ・蕎麦のかけ汁・すしや刺身につけるなど、化政期(文化・文政期1804~30年)の江戸料理には欠かせない調味料となった。文化・文政年間は食においても、握り寿司や二八そばが盛んになり、湯浅醤油などの下り物(下り醤油)から野田や銚子で作られる濃い口の地廻り醤油が使われるようになるなど、江戸前が主流となる。(下り醤油:1升 100文、地廻り醤油:1升 60文) この頃になると、人々の暮らしも豊かになり、庶民も調味料も赤味噌を使った味付けから地廻り醤油や味りんを使った味付けに取って代わった。

■地廻り醤油が庶民料理を作った
江戸時代の天保以降にはマグロが食されるようになり、当時は赤身は主に地廻り醤油(濃口醤油)に漬けて保存された。この保存法をヅケ(漬け)というが、醤油をはじき返す脂身(現代に言うトロの部分)は腐るだけの余り物で、肥料にされるか廃棄された。しかし、ただ同然の部位だったマグロの脂身トロは裏長屋の庶民には人気があったようである。庶民は保存のきかないトロを上手く工夫して、ぶつ切りのネギと共に醤油で煮て食べたものが「葱鮪(ねぎま)鍋」、吸物仕立にしたものが「葱鮪(ねぎま)汁」である。葱鮪鍋は庶民の味覚として、葱鮪鍋を略して「ねぎま」と呼び、俳句の冬の季語にもなっている。


『日本橋魚市繁栄図』(部分) 歌川国安(1794-1832)画、二人がかりで大きなマグロを天秤棒で担ぐ若衆の姿が描かれている。

江戸時代中期に江戸の町で屋台料理として生まれた「田楽」は、豆腐やこんにゃくを串に刺して味噌を塗って焼いたものでした。江戸時代後期に入った天保元年(1830年)頃から、江戸で地廻り醤油(濃口醤油)で煮込む料理がはやり、串で刺した「煮込み田楽(おでん)」が、屋台、茶飯屋で親しまれるようになる。江戸っ子の食卓には欠かせない今のように醤油で煮る「佃煮」は醤油が本格的に流通する江戸後期以降に登場した。
また、江戸では濃口醤油に負けないしっかりとした味わいが持ち味の「鰹だし」や「赤酢」のしっかりした味付けの料理が好まれた。

■白砂糖の普及
砂糖は、江戸後期の寛政六年(1794)から紀州・讃岐などの国内産白砂糖が大坂にもたらされ、天保五年(1834)には国産白砂糖を専門に扱う和砂糖問屋ができた。砂糖は大坂から当時最大の消費地であった江戸へ廻船で輸送され江戸市中に流通した。当時の白砂糖は、現在でも高級和菓子に使用される「和三盆糖」として残っている。
 
  「江都名物当時流行双六」より、隅田川のさくら餅           江戸、深川佐賀町「船橋屋」の練りようかん

1824(文政七)年に刊行された有名な商店2622軒を記載した「江戸買物独(ひとり)案内」には、食品関係の店で最も多いのは菓子屋で、120軒も記載されている。とくにサッと手にとって食べることができる串だんごは、手軽なおやつとして街道の茶屋や寺社の門前で人気があった。江戸向島(むこうじま)、花見客でにきわう隅田川の堤で名物となった桜餅は、どれほどの人気を集めたかというと、1825(文政八)年の『兎園(とえん)小説』のなかで、「桜餅は(前の年には1年で)38万7500個も売れ、そのために漬け込んだ桜の葉は77万5000枚にもおよんだ」と書かれている。

■「甘辛文化」の誕生・白砂糖が調味料となって、出汁・醤油と出会う
江戸中期に入ると江戸の「甘辛文化」が誕生した。この甘辛味は、基本的に醤油と砂糖、もしくは醤油と味醂を和して生まれた。
砂糖が菓子だけでなく、調味料に使われたのは江戸の町だった。幕末の江戸では、白砂糖は菓子用だけでなく一切の食物に用いられ、料理屋・蕎麦屋・天麩羅屋や蒲鉾にまで用いられた。
砂糖は『守貞漫稿』(1867年)にも記載がある。それには「江戸は専ら鰹節だしに味淋酒を加え、或は砂糖を以て之に代う。醤油を以て塩味を付る故に、口に甘く旨しと云えど も、其物の味を損すに似たり」と述べている。
昆布だしの関西の「薄味」と異なり、味を濃厚にする調味には、地廻り醤油(濃口醤油)・鰹節と並んで砂糖が欠かせぬ存在となった。甘くて辛い江戸前の「濃い味」の確立である。

■十組醤油酢問屋と塩問屋の関係(濃口醤油と塩と水運)
関東地方には、江戸湾に面する行徳塩田があり、かなりの量の塩を産していたが、その行徳塩の大部分は将軍家へ軍事用として優先して納められたことが知られている。江戸後期の段階では、行徳塩も醤油用として関東各地へ販売されたと考えられている。江戸末期には、瀬戸内海沿岸の塩田では、全国の産塩量四百七十万石のうち九割もの塩(十州塩)が生産され、ここから塩廻船によって、江戸、大坂を中心に全国各地へ大量に運ばれた。このときの下総・行徳の塩生産は年間四万石である。(「十州塩」というのは播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,阿波,讃岐,伊予の十州で作られた良質な塩である)

■江戸の醤油問屋
江戸の醤油問屋の多くは、日本橋の河川周辺の町に店を構えていた。日本橋川の両岸は江戸商業の中心地であり、江戸後期(文政期1818-30)の日本橋には「醤油酢問屋」が70軒あった。文政四年(1821)の統計によると、江戸に入る醤油の数量は年間125万樽で、その約9割が下総国(千葉県)の銚子や野田から運ばれてくる「地廻り醤油(濃口醤油)」であった。醤油は箱崎川周辺の行徳河岸(かし)で揚げることが多かった。
日本橋
『江戸名所図会 一巻』の挿絵より「日本橋」/長谷川雪旦(はせがわせったん)画 天保5年(1834)刊
日本橋の挿絵には川辺に密集していた白漆喰の蔵屋敷、橋の上には町人や旅人、馬上の侍、槍持ち、僧侶、駕篭かき等、さまざまな群衆、川面には酒樽・米俵・材木など様々な荷を運ぶ多くの川船と人を運ぶ乗客船や屋形船・屋根船のような船宿の客船が描写されており、日本橋地区が物流拠点であったことを物語っている。橋の手前が日本橋室町、向こう側が日本橋一丁目に当たる。橋の手前に魚市場があり、大量の魚が所狭しと並べられている。


■日本橋河岸の問屋の賑わい
江戸初期には日本橋を中心に京橋、本所、深川地域に多数の川(堀)が縦横に廻らされ、水運が盛んで各地の物資が河岸で陸揚げされた。江戸で消費される日用消費物資は、繰綿(くりわた)・木綿・醤油・酒・油などの加工品が多く、上方(関西)から千石船(後に菱垣・樽廻船)で送られてくる“下り物”であったが、米・炭・薪(まき)・味噌・魚油・塩などの商品は、江戸周辺や関東地域の“地廻り物”で維持されていた。塩、油、米、酒、醤油などの食品問屋は「奥川筋船積問屋」や「船宿」を兼業しているところが多く、日本橋川は下り物と関東地廻り物の伝馬船(てんません)が多く出入りして賑わっていた。

関東一帯の塩は、幕府の保護のもとに下総の行徳産の地廻り塩に依存していたが、江戸の人口が増えるにつれて瀬戸内塩(十州塩)の「下り塩」が塩廻船によって大量に江戸へ運ばれるようになった。承応年間(1652-55)に、江戸に入った塩廻船は250~300艘、積載量約50万俵にもなった。十組問屋仲間には加盟していなかった塩廻船は、菱垣廻船や樽廻船と異なり、船頭自らの裁量で産地で塩を買い積み、これを江戸に運び、「廻船下り塩問屋」により所定の仲買達に売るというものであった。
文化六年(1809)に廻船下り塩問屋・仲買は、大坂との商いを扱った江戸の問屋仲間「十組問屋」に加入する。江戸に入る塩は北新堀町、四軒の「下り塩問屋」(松本屋、渡辺屋、長嶋屋、秋田屋)が仕切り、21軒の仲買が配給していた。北新堀町の他には、小網町三丁目の熊野屋、 山本屋、釜屋、松屋、廣屋の五軒があった。その中でも廣屋は「下り塩問屋」・「醤油酢問屋」・「奥川筋船積問屋」の3組で「十組問屋」に名を連ねており江戸の有力問屋であった。この小網町で重要な商いは、地廻り塩の“行徳塩”と”下り塩”の取引であった。小網町の”廣屋”は、地廻り塩も扱い、醤油問屋の大店でもある。
これらの下り塩問屋には醤油酢問屋を兼ねているものがあり、銚子から「地廻り醤油(濃口醤油)」を仕入れるようになった。下り塩問屋が醤油酢問屋を兼ねていたのは、原料としての塩を購入し、製品として”地廻り醤油”を江戸で販売するためでもあった。

(小網町の「下り塩問屋」廣屋吉右衛門店は、日本橋・箱崎橋北詰の行徳河岸の角地にある大店であった。この店は、元禄期 (1688~1704)に銚子でヤマサ醤油の醸造を始めた廣屋儀兵衛店が、原料の塩の確保と地廻り醤油の販売を目的に、享保の頃(1716-36 )、廣屋吉右衛門に小網町で店を開かせたのに始まるという。天保の頃(1831-45)には、小網町だけでは手狭になり、日本橋・箱崎町に下り塩問屋の分店を出すに至った)

江戸時代の「小網町河岸」一帯には奥川筋船積問屋の蔵が軒を並べ、川筋には数多の船が出入りし、あるいは繋船され、この辺りの船は日本橋川の3分の2に達するほどの賑わいだった。奥川筋船積問屋三十六軒のうち二十二軒も集まっていた場所がこの小網町である。(奥川筋とは武蔵・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・常陸(ひたち)・下総(しもうさ)などの内陸奥地の川を指します)
毎夕、この小網町一丁目思案橋側から、年貢米や薪炭、旅客等を運ぶ五大力船(近距離の荷船)の登戸・曽我野湊行の木更津船が発船し、小網町三丁目の行徳河岸より上総・下総ゆきの乗合船が出、 その河岸には乗降の船客の便のために数軒の船宿もあった。

下総国・行徳船場小名木川・五本松 「行徳船」
『江戸名所図会 七巻』の挿絵より「行徳船場」/長谷川雪旦画 天保7年(1836)、(千葉県の行徳の宿場)
挿絵中には『大江戸小網町三丁目行徳河岸といえるより此地まで船路三里八丁あり。房総の駅路(うまやじ)にして旅亭(はたごや)あり。故に行人絡繹(らくえき)として繁盛の地なり。ことさら正五九月は成田不動尊へ参詣の人夥しく賑い大方ならず』とある。

『江戸名所図会 七巻』の挿絵/「行徳船場」には、”行徳船場”と書かれた下に、名物「笹屋うどん」と書かれている店や居酒屋・茶屋、八幡宮と神明宮の神社が描かれ、笹屋うどん店の斜め前には旅籠屋があり、大きな通りには旅人・物売り・荷馬などの往来が多い。絵の下には、江戸川の新河岸(しんかし)と書かれた船着場があって、河岸の常夜灯や旅人を乗せた三艘の行徳船(ぎょうとくぶね)、材木や俵を乗せた荷役船が三艘、河岸の両脇には高札場・見張小屋が描かれている。文化・文政のころからは、江戸で成田山詣でが流行し、行徳は船場、宿場として活況を呈した。
下総の本行徳河岸(行徳新河岸)を出港した“行徳船”は江戸川を下り、新川・小名木(おなぎ)川を経て日本橋小網町・行徳河岸まで、その間、三里八町(約12.6km)という長い距離を渡し船のように就航した。このため、行徳船は長渡船ともいわれた。小名木川と新川の2つの川を合わせて「行徳川」とも呼ぶ。

■下総(千葉県)の行徳の塩
行徳産の塩も行徳船を利用して江戸に運ばれ、関東を中心に行徳塩が流通していた。行徳の塩が江戸だけではなく、利根川筋の北関東、さらに信州や白河(福島)まで運ばれたという説がある。塩以外では行徳を経由して、米や鮮魚、醤油、味噌など多くの産品が運ばれた。
また、「行徳川」は塩の道だけでなく、江戸の人が成田参詣(なりたさんけい)に出かける場合に最も速く楽なのが、日本橋小網町から出ていた24人乗りの行徳船で小名木川・新川を通り、下総・行徳で下船して陸路を行くコースであった。そのため、船場・宿場町としても栄えた行徳は俗に「戸数千軒寺百軒」と称され、成田参詣の講中で大変繁盛したという。



地廻り醤油が育てた江戸外食文化

■うなぎ蒲焼屋
守貞漫稿の鰻飯
蕎麦屋の品書き(幕末期)
江戸時代には醤油や味醂などといった調味料の普及もあり、現代でも好まれている様々な料理が現れた。
寛延(1750年)の頃には蒲焼屋が多数確認できるが、店作りはまだ露店的な簡易なものであった。
江戸のうなぎの名産地は深川であった。『新増江戸鹿子』(1751年/寛延4)には「深川、鰻名産なり、八幡宮門前の町にて多く売る」と書かれている。
『明和誌』文政5年(1822年)には、土用の丑の日に鰻を食する習慣は安永・天明期(1772-1789年)の頃より始まったとする記述が見られる。「土用」というのは、季節の変わり目の約18日間のことをいって、年に4回ある。そのうち立秋前の「土用丑の日」に鰻を食べる習慣が江戸時代から始まった。
鰻丼(どんぶり)が考案されたのが文化年間(1804-1817年)とされ、鰻丼の元祖は葺屋町(ふきやちやう)の大野屋といわれる。『守貞漫稿』嘉永六年(1853年)には「鰻飯、京坂にて、まぶし、江戸にて、どんぶりと云ふ。鰻丼飯の略なり」「焼く時に付けるたれは、江戸は醤油にみりんをまぜ、京坂は醤油に諸白(もろはく)酒をまぜる」とある。
また、鰻丼の値段は「江戸鰻飯 百文ト百四十八文、二百文」と記述がある。鰻蒲焼(うなぎかぱやき)は江戸自慢の食物で、鰻屋なら大きいものは1串、中くらいで2、3串、小さいものは4、5串乗って1皿200文、粗末な道端の屋台なら1串16文くらいであった。

■饂飩(うどん)蕎麦屋
江戸末期の風俗記『守貞漫稿』には「京坂は、温飩を好む人多く、又、売る家も専之とし、温飩屋と云也。 然も、温どんやにて、そばも兼ね売る也。江戸は、蕎麦を好む人多く、商人も専とし、温飩は兼て沽る也。故に、蕎麦屋と云。」とあり、江戸では蕎麦屋でうどんも一緒に売っていたが、蕎麦のほうが江戸庶民に好まれていたようである。
また、蕎麦屋の繁盛振りを次のように書いている。「今ノ世、江戸ノ蕎麦屋、大略毎町一戸アリ。不繁盛ノ地ニテモ、四五町一戸也」「万延元年、蕎麦高價ノコトニ係リ、江戸府内、蕎麦店會合ス。其戸数三千七百六十三店」と述べており、江戸では蕎麦屋は「毎町一戸」、繁盛していない地域でも「四五町に一戸」はあったことがわかる。万延元年(1860)には夜鳴き蕎麦屋を除き、3763軒の蕎麦屋があったことを記している。
『守貞饅稿』には当時のそば屋の品書きが記されている。それによると、御膳大蒸籠(蕎麦の大盛り)四十八文・そば(盛り蕎麦)十六文・あんかけうどん十六文・あられ(バカ貝の子柱をのせたもの)二十四文・天ぷら(芝海老3~4尾のせた)三十二文・花まき(焼き海苔をのせたもの)二十四文・しっぽく蕎麦(蒲鉾・椎茸・焼き鶏卵をのせたもの)二十四文・玉子とじ三十二文・そして上酒一合四十文としている。

■醤油煮しめ料理屋
江戸には煮しめなどを売る「菜屋」もあったと書かれている。『守貞饅稿』によると、「菜屋」と呼ばれ「生あわび、するめ、刻みするめ、焼き豆腐、コンニャク、くわい、レンコン、ゴボウ、刻みゴボウなどを醤油の煮染(にしめ)にして大皿鉢に盛り、見世(店)の棚にならべこれを売る」、「江戸諸処往々これあり」とある。このように、惣菜の持ち帰りも揃っており、飯だけ用意できれば食事ができる時代であった。
江戸後期になると、煮売屋が増え、品目も充実して、下級武士の食事も変化に富むようになった。江戸には「賄い屋」がいて、江戸城中の宿直役人(夜間勤務の役人)や組屋敷の独身者などに、一汁一菜の弁当を運んでいた。また、「菜屋」という商人は、煮しめなどの惣菜をもち、武家屋敷の長屋などを売り歩いたという。

■江戸末期の風俗記『守貞饅稿』(1853年)に記載された江戸の「寿司」「稲荷ずし」「天ぷら」は次のとおりである。
  • 寿司について
  • 屋台すしは「鮓と天麩羅の屋台見世は、夜行(やこう)繁き所(夜人通りが多いところ)には、毎町各三、四ヶ所あり」と記されている。また、店構えのすし屋は「江戸は 鮨店 甚だ(はなはだ) 多く 毎町一、二戸」「江戸、今製ハ、握リ鮓也。鶏卵焼、車海老、海老ソボロ、白魚、マクロサシミ、コハダ、アナゴ甘煮長ノマゝ也」とある。
  • 今の握り寿司は醤油をつけて食べるが、江戸の寿司にはツメ(煮詰め・煮切り)と呼ばれるタレが塗ってあり、そのまま食べられた。そのツメはアナゴの頭・骨を酒・地廻り醤油(濃口醤油)・砂糖で煮詰めて作った。
  • 「稲荷ずし 御府内各所に定見世また家台見世にあり。油揚の中に野菜を入れし鮨なり。主なるは、お蔵前の玉ずし、十軒店の治郎公、吉原江戸町角の夜あかし、千住大橋際、和泉町、人形町通り夜店、久保町そのほか各町にあり。価廉にして風味佳なる物あり。」
  • 「天麩羅(てんぶら)は上流の料理に出さぬではなきも、多くは即席料理店の出し物にして天鉄羅専門の料理店というほどの家はあらず。多くは家台見世のものにて天麩羅茶漬店、飯付き一人前二十四文か三十二文、せいぜい四十八文ぐらゐのもの。」
■料理茶屋の料理
客の注文に応じてすぐ料理を出す料理屋は、一般に「料理茶屋」または「会席茶屋」(会席即席茶屋)と称していた。
『守貞漫稿』に「今の世、三都(江戸・京都・大坂)ともに士民奢侈を旨とし、徳に食類に至りては、衣服等と異にして、貴賤貧富の差別なきがごとし」と、衣服で武士と庶民の差があっても、領地ではほとんど差がないと述べており、身分の違いを越えて食文化が発達したようすがうかがえる。



江戸の刺身料理

現在は「刺身」という漢字が使われるが、古くは「指身」「指味」「差味」「刺躬」などとさまざまな漢字が当てられていた 。江戸時代の錦絵を見ても、刺身は皿の上のクマザサの葉や巻き簾の上に盛ってあって、当時から刺身は皿からとって、タレに漬けて食べていたことがわかる。

江戸時代、刺身や鱠を庶民が盛んに食べるようになった。
当時の生魚の食べ方としては、鱠はショウガ、タデ、芥子、ワサビなどをつけて、酢を和して食べると1695 年に刊行された本朝食鑑にある。
一方、「刺身にもこの数品を用い、炒り酒を和して食べる」とある。刺身の調味料は酢を主体にしたものであったが、酒に削り鰹節と梅干を入れて煮詰め漉して作る煎酒が加わり、さらに醤油に置き換わる。

江戸時代初期までは、日本の醤油の主流は大豆でつくる溜まり醤油に近いもので、生産は上方に集中していた。江戸ではいわゆる上方の「下り醤油」が流通するが、非常に高値で庶民の手には届かなかった。18世紀初頭、江戸で使われていた7割以上が「薄口しょうゆ」と言われる上方産のものだった。






■刺身料理の普及は濃口醤油に関係していた
一般庶民に刺身料理が広まったのは、銚子や野田で大豆と小麦からつくられる「地廻り醤油」(濃口醤油)が増えて、下り醤油から置き換わった濃口醤油が庶民にも普及した江戸時代の末期からである。江戸前の海で取れる魚は青魚や赤身の魚など臭みのある魚が多く、新鮮な魚の切り身を生で食べるとき、香りの強い濃口醤油(地廻り醤油)がよく合った。


■関東と関西で異なる魚類のおろし方
魚のおろし方には地方性があり、江戸おろしと、関西おろしがある。
江戸おろしというのは、自分から見て、魚の頭が右、尾が左、手前に背中、向こうを腹にして、右の頭のつけ根から左に捌(さば)くのが江戸おろしである。穴子や鰻ばかりでなく、鯛なども関東は背からおろしていく。一方、関西は腹からおろしていった。
江戸おろしは、魚の表身を尊重し、魚の頭を右にして進行方向の左側を上にすると、かならず手前に背がくる。頭に近い背側からおろす、腹側からはおろさない。そういう決まりは、江戸時代に江戸の日本橋魚河岸で作られた。


■刺身は猪口(ちょく)の醤油につけて食べた
刺身を醤油につけて食べる習慣は、文化文政に入ってから、1800年代の初め頃に出てくる。そのころの江戸の料理を解釈した本には、『つけじょうゆをのぞきに入れて食べた。のぞきとはなんぞや。』と書いてある。「のぞき」というのは、蕎麦猪口(そばちょこ)のような形で、刺身用に醤油を入れて添える小さく深い陶磁器(刺身猪口)をいう。
江戸での刺身は、鯛、鮃は辛味噌かわさび醤油、マグロとカツオは大根おろしと醤油で食べ、数種類のつまを組合わせていた。刺身の薬味や「つま」は、千切りにした「ウド」、「生の海苔」、防風の芽(浜防風)、タデの芽の「姫蓼(ひめたで)」をつけたのが上等な刺身であった。安いものでは「黄菊」海藻の「ウゴ」をつけた。

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・江戸時代の刺身の毒消し法について
江戸後期に書かれた『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には「鯛・鮃には辛味噌あるいはわさび醤油を用い、鮪・鰹等には大根おろしの醤油を好しとす」と書かれている。江戸っ子は、刺身にも大根おろしを添えていた。江戸時代に「魚の毒を消す薬味」と考えられていたのは「大根おろし」や「山葵(わさび)」であった。
また『守貞謾稿』には「江戸、刺身添え物、三、四種を加う。糸切大根、糸切うど、生紫海苔、生防風、姫蓼(ひめたで)。粗なる物には、黄菊、うご(海藻のオゴノリの異名)、大根おろし等を専らとす」と書かれていることから、江戸時代にはつまを数種類組み合わせており、臭みを取り、消化を促し、毒を消す効果を狙っただけでなく、箸休めとして楽しんでいたことがわかる。
醤油では『本朝食鑑』の醤油の項に、「一切の飲食および百薬の毒を殺す。台所には一日たりとも無くてはすませることはできないものである」とある。
 ・・・ 小学館『サライ』“ 江戸時代に「魚の毒を消す」と信じられていた意外な食品とは【江戸庶民の食の知恵】”より一部を引用
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『当世娘評判記』三代歌川豊国 文政11-天保13年 より一部(刺身とつま・のぞき)


『見立源氏はなの宴』三代歌川豊国 安政2年(855) より一部(刺身とつま・のぞき)
大皿に載せられた赤身と白身の刺身盛り合わせ

■刺身魚と合わせ醤油
刺身料理に醤油が使われた記述として、『守貞漫稿』によると、『鯛・ひらめには辛味噌あるひはわさび醤油を用ひ、まぐろ・鰹等には大根おろしの醤油を好しとす。夏は血水底に溜まる故に、江戸にては、葭簀(よしず)あるひは硝子簾(がらすすだれ)を敷きて、その上にさしみを盛る。江戸、刺身添へ物、三、四種を加ふ。糸切大根、同うど、生紫海苔、生防風、姫蓼(ひめたで)。粗なる物には、黄菊、うご(おごのり)、大根おろし等を専らとす』とある。

喜多川歌麿「初夢見立 刺身」(1789-1801)より一部拡大 刺身(鰹)皿とつまの大根を下ろす絵

■下魚マグロの刺身
マグロは現代では高級魚の感が強いが、江戸時代は、ナマよりも塩まぐろが多かった。江戸前期、マグロの食材としての評価は低いものであった。これは当時、マグロは江戸、京、大坂などの消費地から遠く離れた五島列島、三陸海岸などで漁獲され、輸送に時間がかかり、さらにマグロには脂分が多かったため、加工が難しかったからである。そのような事実から、江戸期全体を通してマグロの利用法は加工が単純な塩マグロが主流となっていた。

江戸中期に至り、定置網漁が発達するとマグロが本格的に漁獲されるようになった。同時期に江戸近郊で関東地廻り醤油が発達し、マグロの赤身を濃口醤油に漬けて「ヅケ」で食べるようになり、マグロの消費が拡大していく。江戸末期になると、海況変化のため、紀伊半島から三浦半島にかけてマグロが大量に漁獲されはじめ、マグロは江戸前ずしの種に加わり、また刺身としても食べられようになった。
為永春水の『春色梅児誉美(しゅんしよくうめごよみ)』(天保三年、1832)にも、「天麹羅か、黒漫魚(マグロ)のさしみで、油の乗った、あいさつが聞きてえの」とあり、マグロの刺し身が食膳に供せられるようになった。


■マグロの魚売り
駿河湾沿岸などで獲れるマグロは、江戸の魚河岸に運ばれるうちに傷み始めて身崩れするために、イワシやサンマなどと同様に下魚(げぎょ)として扱われた。マグロが頻繁に食べられるようになったのは、江戸時代のこと。ただ、武士の間では鮪の旧名であるシビが「死日」に通じるために、あまり良い印象は持っていなかった。また「鮪売り 安いものさと 鉈(ナタ)を出し」という川柳があるように、魚売りは客の要望に応じて、低級魚の扱いのマグロをナタでたたき切って売っている様子を詠んでいる。このように、マグロは安く大衆魚の代名詞でもあった。

江戸時代の川柳 『まぐろ売り 生きているとは いいにくい』(明和二年、1765)
マグロを売っている魚売りは「さっきまで海で泳いでいて、まだ生きてるよ」なんて威勢のいいことを言ってアジやイワシを売って歩く。しかし、そういう台詞も通じないのが、マグロや鯨だ。「古くはないかい」と聞かれて、冗談じゃねえ。この通りまだピンピン生きている……わけじゃないけどね。」


■下魚マグロの高級化
江戸後期になると、天保時代、江戸近海で獲れたマグロの大漁がきっかけとなって、江戸前の握り寿司のネタとして「マグロのヅケ」が登場する。マグロの鮮度が落ちるのを防ぐ目的で、マグロの切身(赤身)を塩気の強い醤油や酒に漬け込んだものが、江戸っ子の間で評判となり、マグロも徐々に高級魚になっていった。随筆『飛鳥川』(文化七年、1810刊)に「昔はまぐろを食いたるを、人に物語するにも、耳に寄せて、ひそかに咄したるに、今は、歴々の御料理に出るもおかし」とあるように、江戸後期になって高級化していった。
 
『天保三年伊豆紀行画帖』の「長浜村漁猟場の景」絵図 (幕府浜御殿奉行 木村喜繁、1832年) 
駿河湾、長浜村で船と網でマグロの群れを浜に追い込み、海に入った漁師がシビカギという丈夫な手鉤でマグロを引っ掛けて水揚げするマグロ漁の様子。(建切網漁)
『此辺ヘは江戸并(ならびに)駿府甲州より魚商ふもの参り居て、魚取れたりと聞と直に其処へ来り、夫々の漁師頭へ直段の押合する由』とあるように、マグロは、江戸、駿府、甲府などの魚商人が買い付け、馬や船を利用して各地に輸送された。
文化七年(1810)の冬や天保三年(1832)の春先には、伊豆半島から三浦半島にかけて、黒潮に乗って回遊してくるマグロの大群が押し寄せたと記録が残されている。豊漁つづきのマグロは、日本橋にあった魚河岸にあふれかえった。さばききれない大量のマグロは塩漬けや醤油漬けにした。



さしみ屋

江戸時代中期までは、江戸ではマグロは不人気な魚であった。マグロの刺身の記述として『宝暦現来集』天保二年(1831)に「塩鮪を止めて、すき身が売れる」とある。この頃からマグロの刺身が庶民の間に広がったようである。

もっともこの時代に食べられたのは赤身だけである。江戸末期の風俗記『守貞漫稿』(1853年)の喜多川守貞は、江戸だけにある商売として刺身屋をあげて、「刺身屋」なる刺身一種を盛業としている屋台(惣菜屋の一種)が登場したことを記しており、次の記述がある。
『刺身屋、鰹及びまぐろの刺身をもっぱらとし、この一種を生業とする者、諸所に多し。銭五十文、百文ばかりを得る。粗製なれど、料理屋より下直なる故に行きはる』
つまり、刺身屋で売っているのはおもに鰹と鮪の刺身で、料理屋のものより品質は劣るが、刺身を五十文、百文という値段で売り、値段が安いのでよく売れていると書いており、庶民たちに歓迎されていたようである。

江戸の町には、刺身を専門に食べさせる店も多く誕生し、1食100文程度で利用できる刺身屋は料理屋より安く評判であった。この時、お皿持参で買いに行き、好みの刺身を盛ってもらったことにより、刺身盛り合わせと言う形式が誕生し、一器一種が基本だった刺身の盛り付けに変化が訪れた。魚を売る棒手振りもまた、魚だけでなく包丁とまな板を持ち歩き、生魚を刺身にして売ることもあった。


「赤 浮世五色合」 歌川豊国(三代)画 天保14(1843)年~弘化4(1847)年


享和元年(1801)の『料理早指南(りょうりはやしなん)』では、「春にはかつお を酢醤油でたべ」たり、「霜降りさしみでからしみそで食べたり むして くずかけわさびで食べる」とある。
江戸では「鰹は刺身・刺身は鰹」といってカツオを珍重し、カツオをたたきではなく、そのまま刺身にして酢醤油で食べるのが一般的であった。現在のカツオの食べ方は火に炙ったたたきだが、当時は三枚におろした半身を腹と背に切り分け、背身は炙って冷水に浸して焼霜造りにして、腹身はそのまま刺身にして食べていた。


卯の花月(うのはなづき) 歌川豊国(三代)画 嘉永頃(1848~1854)刊

作品名に「卯の花月」とあるように、4月(新暦では5月)の江戸の町の様子を描いた作品。 魚屋の棒手振りは、町中でカツオをさばき、庶民は切り身を買った。初鰹をさばく魚屋のところにお皿を持って駆けつけるかみさんたちが描かれている。初夏の到来とともに、江戸っ子は初鰹を好んで食べた。


溪斎英泉画 江戸後期 「十二ヶ月の内四月 ほととぎす・かつほ」の一部

初物(はつもの)文化が広まった江戸時代、江戸で一番珍重されたカツオは相模湾で獲れたもの。相模湾で獲れたカツオは、約10mの船体に3つの帆と漕ぎ手8人が備わった高速船「押送船(おしおくりぶね)」で江戸まで運ばれた。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」(江戸中期の俳人・山口素堂、1678年)にあるように、鰹の刺身は5、6月に旬を迎える。この句が一躍有名となり、初物食いに意地をみせる江戸っ子の間では、初夏に出回る「初鰹」を食べるのが粋の証であった。血の気の多い喧嘩早い江戸っ子は、青葉の季節になると、寒い間着ていた「どてら(綿人れ)」もいらなくなるから、これを質屋に入れて、鰹を食べて自慢した。この時代は今日と違いマグロは安い魚で、カツオの方が高級魚として扱われた。







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