日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 地廻り醤油と江戸食文化


江戸で生まれた濃口醤油

■日本醤油の歴史
「しょうゆの豆知識」“第1章 醤油の歴史”を開く(新しいウィンドウが開きます)


■下り醤油から地廻り濃口醤油へ
江戸時代の初期の江戸の醤油は、紀州湯浅(和歌山県)、播州龍野(兵庫県西南部)、備前(岡山県)などの上方(関西)に供給を仰いでいた。江戸において消費される醤油の大半は大坂から供給されたものであった。
江戸時代初頭まで、上方の「醤油」は色の濃い「溜まり醤油」が一般的で、17世紀中頃から濁り酒と異なる清酒を漉(こ)す技法「澄(すみ)酒」を転用した醤油のもろみを漉し取った「すみ(澄み)醤油」へ移行し生産が増大していくが、江戸後期にはうす醤油が主流となり澄み醤油は姿を消していく。関東で「すみ醤油」がつくられるようになるのは正徳年間(1711-16年)頃からだと考えられている。 江戸時代後期になると江戸で使用される醤油は、上方のうす醤油(薄口醤油)から関東醤油(濃口醤油)が大半を占めるようになる。

関東の野田、銚子の醤油も最初は溜まり醤油であつた。一方江戸においては、上方の溜まり醤油の技法を習うて創業したと伝えられる下総(現在の千葉県)の銚子や佐原(さわら)の醤油、更に野田独特の溜まり生揚醤油も、関西醤油に対してその精製が工夫され、江戸趣味の味覚(甘く濃い味)を生み出し、関東濃口醤油の素地が造られてきた。

江戸では、上方からもたらされた品物を「下り物」「下り荷」と呼んでいた。一方、江戸の近郊、関東各地から来た品物は「地廻り物」と呼ばれた。江戸に上方から菱垣廻船で運ばれてくる良質な醤油を「下り醤油」といった。
江戸に運ばれた「下り醤油」は、その後、元禄から享保年間(1700年代前半)に入ると、江戸を中心とした江戸地廻り経済圏内の地場産業も盛んになり、野田・銚子で江戸っ子好みの濃い口の醤油が江戸周辺に近い安房(あわ)や上総、下総(いずれも千葉県)で造られた。
それに連れて下り物の割合は減っていく。そして、江戸地廻り経済で発達した安価な「関東地廻り醤油」(濃口醤油)に次第に代わっていった。こうして、濃口醤油が江戸で日常の調味料となった。それでも「下り醤油」を高級品として尊重する気風は、江戸時代を通じて保たれた。



関東地廻り醤油の原料である大豆・小麦・塩は、常陸の筑波大豆や下総の良質な小麦が霞ヶ浦沿岸の府中・小川・土浦などから舟で出荷され、利根川、江戸川経由で醸造地まで運ばれた。(小麦は下総台地や上州・相模などから仕入れたともある)
塩は幕府よって開発された江戸川河口の下総・行徳塩田の塩「地廻り塩」が、江戸川、利根川の舟運で醤油産地に運ぼれた。塩は、やがて醤油業の発展と共に赤穂産などの「下り塩」に依存するようになった。

 

濃口醤油は、江戸時代に主に関東地方で発達した。濃口醤油は、上方産の「下り醤油澄み醤油」に対して、関東の「地廻り醤油」と呼ばれる。このような大量の醤油原料の輸送は高瀬舟の舟運により、江戸川・利根川経由で銚子と野田の醤油醸造地まで運ばれた。高瀬舟は利根川中流域や江戸川の浅瀬に対応できるように吃水が浅く舟底が平たく作られていた。野田の醤油は、高瀬舟で朝に野田河岸を積み出せば、夕方には江戸の問屋に手渡すことができた。
その後、出来上がった濃口醤油の運搬は消費地である江戸へと江戸川と利根川の水運を利用したのである。


「調味料から見る江戸の味-江戸人の嗜好をを探る-」、http://www.jlds.co.jp/ebiken/9.html#interview

化政期(1804~30年)に入ると、江戸の醤油は上方依存から脱却し、上方好みの薄口醤油から江戸っ子の食文化の噌好に合った濃口醤油=関東地廻り醤油が江戸の需要を賄うようになった。
江戸では高級とされていた上方(関西)から江戸に入る「下り醤油」は淡口的な醤油であったが、江戸で広く使われた小麦を多用してつくられた「関東地廻り醤油」は濃口で、香りがあり、色的には透明感のある赤銅色であった。
【江戸時代を通して料理本に淡口醤油・薄口醤油等は登場せず「うすくちしょうゆ」を連想させる薄醤油、淡醤油等の“うすしょうゆ”の表記があり、守貞慢稿にも「京阪ハ・・・淡薄ノ中ニ其物ノ味アリテ、是ヲ好トス」と表現した薄(淡)醤油がみられる。
また、江戸時代に刊行された料理本76冊には「うすくちしょうゆ」の表記は見られず、「たまり」と「いり酒」の表記が江戸時代前期から減少していく。そして、江戸時代中期以後に「淡(うす)」「薄(うす)」「稀(うす)」等の表記が増加する。江戸時代の料理書にも「うすしょうゆ」等の表記があり、揚げ鯛を「淡(うす)醤油」で煮る等の料理が紹介されている。さらに「薄(うす)しょうゆ」、「稀)うす)しょうゆ」は京都や大坂に居住する著者の本に多く見られ、関西でのうす色・うす味文化は江戸中期に形成されたと推察されている。】


地廻り醤油(濃口醤油)の普及


■江戸料理の決め手「濃口醤油」
「寿司」「天ぷら」「うなぎ」「蕎麦」の江戸前四天王を始め、魚料理、豆腐料理など、ほぼすべての江戸の料理に欠かせない調味料として使われたのが「醤油」である。江戸の醤油は、いわゆる「濃口醤油」で、関西風とは違って塩気が強いのが特徴である。
そんな江戸の醤油文化は、4代将軍家綱の時代に生まれた。それまでは関西から入ってきた薄味の「下り醤油」が主流であったが、4代将軍家綱の時代に入ると、醤油の本場である和歌山・湯浅から関東へと職人が移住して来た。醤油づくりに適した地形や気候を備えていた野田や銚子で、江戸庶民好みの旨味と香りが強い濃口醤油の大量生産が始まり、それとともに、「濃口醤油」がベースの江戸料理が作られていった。

江戸の庶民が「江戸っ子」と自称するようになったのは、化政期(1804年〜)頃からという。そして、江戸市場において「下り醤油」から「関東地廻り醤油(濃口醤油)」へ転換した時期が化政期1804~1830年である。
関東の濃口醤油が江戸の味、「蕎麦つゆ」,「鰻の蒲焼のタレ」,「握り寿司のつけ醤油」などの味を作り出していった。江戸っ子はうどんから蕎麦好きになり、江戸以外の地で生まれた「天麩羅」,「鰻の蒲焼」などの料理が「佃煮」,「握り寿司」などとともに江戸前料理として完成していった。

この時期は現在、和食と呼ばれる蕎麦、握り寿司、天麩羅、鰻の蒲焼、佃煮などの料理が江戸で完成する時期でもある。これらの料理の味付けは関東地廻りの濃口醤油の登場があって完成したと考えられる。


■関東地廻り醤油『醤油見立番付』

『醤油見立番付』天保11年(1840):「関東醤油 為便覧(べんらんのため)」
天保11年正月に江戸馬喰町吉田屋小吉によって版行された関東の醤油醸造家の番付。関東醤油番付の行司はヤマサ醤油の下総国銚子の「廣屋儀兵衛(ヤマサ印)」。醤油見立番付の両大関は、下総国上花輪村の「花輪・高梨兵左衛門(ジョウジュウ印)」と下総野田の「野田・柏屋七郎右衛門(キハク印)」、関脇が「野田・茂木佐平治(キッコーマン印)」である。天保期には関東一帯で多数の醸造家による醤油生産が行われていたことが、この番付表からみてとれる。


■関東地廻り醤油の大量生産地「野田」
醤油醸造家の茂木家・高梨家は、キッコーマン株式会社の基盤となった江戸時代からの醤油メーカーの一族である。幕末・維新期には茂木家・高梨家一族だけで野田の生産量の8~9割を占めていたという。


〇醤油醸造
寛文二年(1662)、茂木七左衛門家で味噌醸造業開始。→ 明和三年(1766)、5代・茂木七左衛門が醤油醸造業開始。→ 文政五年(1822)、茂木勇右衛門が茂木七左衛門家より分家、新に醤油醸造を始めている。
野田は江戸という巨大な消費市場に近いだけでなく、関東地廻り経済圏の穀倉地帯にも近かった。江戸の大消費地へ野田の濃口醤油は、高瀬舟で朝に野田河岸を積み出せば、夕には江戸の問屋に手渡すことができた。醤油の原料は、野田近傍の相州産(神奈川県)小麦、大豆は常陸(ひたち,茨城県)の筑波山麓産、塩は下総(千葉県)の行徳塩、後に播州(兵庫県)の赤穂塩などが江戸川によって容易に運ばれた。

■関東醤油(野田・銚子)の「地域性・資本力・大量生産」の特質
  1. 『相模国における在郷商人とその地域的ネットワーク』/馬楊弘臣より以下を引用する。
    「江戸に隣接する相模国(神奈川県)の相模平野と呼ばれる穀倉地帯を中心とした地域で生産される小麦や大豆は、極めて良質であったことから、野田や銚子などの醤油醸造の材料として珍重されていた。相模国の在郷商人の川崎屋川崎孫右衛門の「吟味伺書」には、「所持之穀物其外下総国花輪村高梨兵左衛門より醤油仕込二相成候小麦等年来買出遣、去申年も此もの方二預置候分」とあり、川崎孫右衛門が商った小麦や大豆が、下総国花輪村(千葉県野田市)の高梨兵左衛門の醤油造のために出荷されていたことがわかる。
    (高梨兵左衛門は、「野田の高梨」と謳われ、寛文元年(1661)に創業したとされる関東屈指の醸造業家である。現在のキッコーマン株式会社の祖となったのが高梨兵左衛門と茂木七左衞門であった。高梨家は文政12年(1829)に幕府本九・西丸に上十(ジョウジュウ)印醤油を献上して御用醸造となった。)以上のように相模平野で産出された相州小麦に大豆は、野田や銚子の醤油醸造業者に出荷されることで、関東地廻り経済の発展を支えていたのである。」

  2. 『日本における資本主義的生産の成立をどう教えるか』/荒井眞一(北海道大学大学院教育学研究科修士課程)より以下を引用する。
    「しょうゆ醸造業において問屋制家内工業は見られない。これは、大量生産の方がより短期間により良質のものを熟成させるのに有利であったことによる。それゆえ、醸造家のほとんどの者は「資本力を持った農民や商人」であった。いくつかの例を挙げるならば、野田しょうゆの創始者である高梨兵左衛門家は上花輪村の名主で土地持ちであり、ヒゲタ醤油の創業者である田中玄蕃は飯沼村の草分百姓で、名主を勤め」ていたのである。
    田中玄蕃によってしょうゆ醸造の行われた銚子は、文禄・慶長(1592-1614)の頃から紀州人が漁場を求めて房総沿岸に渡来することで発展した地域で、田中玄蕃家は、干鰯生産などによる漁業資本を貯えていた。これは一例に過ぎないが、村名主級や商人で付近の労働力を集め得る階層が、貨幣経済の発達にともない、資本を貯え、それを醤油醸造に振り向けるという部分において、しょうゆ醸造家は共通の基盤を有する。」

  3. 『進化の経営史-人と組織のフレキシビリティ』/有斐閣(橘川 武郎/島田 昌和) より以下を引用する。
    「1863(文久3)年、野田醤油造仲間の調査によると、仕込み高合計は4万4076石、最大の茂木佐平治が1万2955石、ついで柏屋七郎右衛門9198石。高梨兵左衛門6672石、茂木七左衛門3520石などとなっており、野田においては大量生産が一般化していた。野田ほどではなくても、土浦の大国屋は3000石、銚子のヤマサは2000石前後と、地回り産地には大量生産メーカーが育っていた。」

■醤油の普及前の調味料「煎り酒」
関東醤油の濃口醤油が広く普及し定着する江戸中期から後期までは、調味酢のほか「煎り酒(いりざけ)」がよく用いられていた。煎り酒は古酒に削り鰹節と梅干を入れて半量になるまで煮つめて作り、色がうすく旨味が強い。なま物や和え物によく合う調味料として江戸中期頃まで、主として刺身や鮒などに使用された。

(江戸初期の『料理物語』に出てくる刺身の素材とつけ汁は次の通り。まながつお…煎酒、ショウガ酢、くじら…山椒味噌酢、うなぎ…白焼きにして青酢、鮎…煎酒、鯉・鮒…煎酒、さわら…煎酒か生姜酢、ふか…生姜酢、きじ…丸煮にしてむしり山椒味噌酢)

江戸後期には、梅干を省略して代わりに醤油を加える製法が現われた。文化・文政時代に刊行の『卯花園漫録(ぼうかえんまんろく)』には、“煎り酒の早作り法”が、「酒二盃、醤油半盃、大梅五つ、鰹節沢山にて、右の割合にてよし。色赤過ぎると思わば、醤油を減じ焼き塩を加え、あんばいすべし。」のように記録されている。
初期の煎り酒は、日本酒に梅干と鰹節をいれて静かに煮詰め、酒精分がなくなったころ漉して滓を取り除いたものであった。江戸期後半には、梅干を省略して、代わりに醤油を加える製法が現われ、その後、醤油の普及とともに一般には煎酒が使われることは次第に少なくなった。(幕末の『守貞漫稿』に出てくる刺身の素材とつけ汁は醤油である。鯛…酢味噌や山葵醤油、鯛・平目…辛味噌か山葵醤油、鮪・鰹…大根おろしの醤油)


■地廻り醤油が江戸で普及する
享保の段階では、まだ醤油という調味料が人々の間で定着していなかったが、文政の段階では地廻り醤油が江戸庶民に広く定着して普及した。地廻り醤油(濃口醤油)は、蒲焼のたれ・蕎麦のかけ汁・すしや刺身につけるなど、化政期(文化・文政期1804~30年)の江戸料理には欠かせない調味料となった。
文化・文政年間は食においても、握り寿司や二八そばが盛んになり、湯浅醤油などの下り物(下り醤油)から野田や銚子で作られる濃い口の地廻り醤油が使われるようになるなど、江戸前が主流となる。この頃になると、人々の暮らしも豊かになり、庶民も調味料も赤味噌を使った味付けから関東醤油の濃口醤油や味醂を使った味付けに取って代わった。


■下り醤油と関東地廻り醤油の価格
江戸の市場が上方の醤油に圧倒されていた時代の価格で、銚子の醤油が大阪の河内屋の醤油の約半額であった。
  
『酒酢醤油直段附(ひきふだ)』鍛治橋御門前南角 小島屋嘉兵衛 に、酒・醤油・酢の小売り値段が記載されている。
(守貞漫稿に記されている、慶安年中{1647年}の写し)
酢醤油壱升に付
一、大坂河内屋 代 百八文   一、佐原  代 五拾弐文
一、鴻池類   同 七拾弐文  一、結城  同 四拾五文
一、近江屋類  同 七拾文   一、尾張酢 同 弐拾八文
一、てうし   同 六拾文   一、北風酢 同 四拾八文
江戸では高級とされていた上方醤油「下り醤油」の1升の値段が108文-70文、関東醤油の佐原(下総/銚子)や結城醤油(常陸(ひたち、現在の茨城県))が1升52文-45文であった。


地廻り醤油(濃口醤油)と江戸の味

■地廻り醤油と庶民料理(葱鮪鍋)
日本ではまぐろを「しび」といった。「しび」という発音が「死日」に聞こえるので、不吉な魚だと考えられていた。のちに「鮪」という字が当てられる。そして、目が黒いところから、目黒(まぐろ)と呼ばれ、これが変化して「まぐろ」になったという説がある。

現在は高級魚とされる鮪も、江戸時代は下魚とされ、ことにトロの脂は「脂っこくていただけない」と敬遠されたが、江戸後期には徐々に江戸っ子の口に入るようになった。当時のマグロは安価で庶民が惣菜にする魚だった。そば一杯が十六文の時代に三尺(約90センチ)ほどのものが二百文(現在の約3000円)出せば丸ごと買えたという。

天保のころ、江戸湾(いわゆる「江戸前」)で、大量に獲れた時期があって、マグロを食べることが増えた。江戸時代の天保以降にはマグロが食されるようになり、当時はマグロの赤身は主に地廻り醤油(濃口醤油)に漬けて保存された。この保存法をヅケ(漬け)というが、醤油をはじき返す脂身(現代に言うトロの部分)は傷みやすく保存に適さないだけの余り物で、肥料にされるか廃棄された。

 

しかし、ただ同然の部位だったマグロの脂身トロは裏長屋の庶民には人気があったようである。その脂身トロを何とか捨てずに料理に出来ないかと考えだされたのが江戸の町で生まれた「ねぎま鍋」である。庶民は保存のきかないトロを上手く工夫して、ぶつ切りのネギとともに、醤油と酒で味つけをした汁で煮て食べたものが「葱鮪(ねぎま)鍋」、吸物仕立にしたものが「葱鮪(ねぎま)汁」である。マグロの脂身も、鍋に入れると脂がすっと抜け、出汁に溶けて、その旨味がネギにからんで美味しくなる。

『東海道中膝栗毛』にも「ねぎま鍋」が登場し、鍋で根深葱と鮪を一緒に煮て七味唐辛子や粉山椒で食べている。葱鮪鍋は江戸庶民の味覚として、葱鮪鍋を略して「ねぎま」と呼び、俳句の冬の季語にもなっている。


『日本橋魚市繁栄図』(部分) 歌川国安(1794-1832)画、二人がかりで大きなマグロを天秤棒で担ぐ若衆の姿が描かれている。
日本橋の界隈には食料品はじめ、ありとあらゆる商品の荷揚げ場が集中していた。なかでも活況を呈していたのが魚河岸。昼の芝居町、夜の吉原と並び、「朝の魚河岸は一日で千両動く」と謳われるほどの一大産業で、1851(嘉永4)年の魚問屋名簿には、問屋商人209人、問屋数126軒と記録されている。


■田楽豆腐、煮込み田楽(おでん)
江戸庶民が豆腐を食べられるようになるのは江戸時代中頃からで、江戸や京都、大坂などの大都市に限られていたようである。
江戸時代中期に江戸の町で屋台料理として生まれた「田楽」は、豆腐やこんにゃくを串に刺して味噌を塗って焼いたものであった。江戸では、外で手軽に食べる料理が発達していたこともあり、串に刺さっていて食べやすい田楽料理が流行ったようである。

1782年以降に、豆腐料理のみ100品とその作り方を掲載した「豆腐百珍(とうふひゃくちん)」、「豆腐百珍続編」という本が発刊された。身近で淡白な豆腐という一つの素材で百通りの料理を紹介するという料理本である。豆腐百珍の調理分類としては、煮物が55品、焼き物が20品、揚げ物が16品で多く、調味分類では醤油を使った料理が44品、味噌を使った料理が18品で、この頃、醤油を使って煮物をする食文化が完成されていたことがうかがえる。また味噌を使った「田楽」も多く扱われており、全国各地で伝統的な田楽の名物料理がつくられた。



江戸時代後期に入った天保元年(1830年)頃から、江戸で濃口醤油で煮込む料理が流行るようになる。そして、鰹出汁に醤油や砂糖、みりんを入れて煮込む「煮込み田楽」(おでん)が、屋台、茶飯屋で親しまれるようになる。
醤油で煮込む田楽料理(おでん)以外に、江戸で生まれたのが「佃煮」である。江戸っ子の食卓に欠かせない醤油で煮る「佃煮」は、濃口醤油が本格的に流通する江戸後期以降に登場した。また、江戸っ子の料理の嗜好は、濃口醤油と「鰹だし」や「赤酢」がしっかり効いた味が好まれた。


江戸の甘辛文化の誕生

■江戸の甘辛文化の誕生
江戸後期、天明五(1785)年に出版された『萬寶料理秘密箱』という料理本で、この本で初めて「味醂」が調味料として登場し、以後出版された料理本には、味醂に醤油を加えた調味料がたくさん出てくるようになる。以上のことから「醤油」と「味醂」の出合いによる両味、あまからのタレができたのは、江戸後期頃のことと推測される。

江戸時代後期に国産砂糖が普及すると、江戸では醤油による砂糖の甘辛い味が考案される。白砂糖、鰹節のだし、醤油との出あいが江戸の「甘辛文化」を誕生させた。江戸中期に入ると江戸の「甘辛文化」が誕生した。この甘辛味は、基本的に醤油と砂糖、もしくは醤油と味醂を和して生まれた。
砂糖が菓子だけでなく、調味料に使われたのは江戸の町だった。江戸では一日に、160樽もの砂糖が消費されたといわれる。うま煮、煮つけ、酢の物、甘露煮、佃煮などは濃口醤油に砂糖を合わせた濃厚な味であり、江戸っ子の好みに合った味でもあった。幕末の江戸では、白砂糖は菓子用だけでなく一切の食物に用いられ、料理屋・蕎麦屋・天麩羅屋や蒲鉾にまで用いられた。

砂糖は『守貞漫稿』の料理茶屋(1867年)に記載がある。それには「江戸は専ら鰹節だしに味淋酒を加え、或は砂糖を以て之に代う。醤油を以て塩味を付る故に、口に甘く旨しと云えど も、其物の味を損すに似たり」と述べている。
《守貞漫稿の現代訳:江戸の料理の味つけとしては、鰹節だしに味醂または砂糖で甘味を加え、醤油で塩味をつけるとしている。このとから、甘くて旨いけれども素材の味が損なわれている》
さらに、味醂に関して『守貞漫稿』に「諸食物、醤油と加之煮る」とあるが、砂糖は蕎麦屋で使うこと甚だしいと書いている。したがって、鰹節のだしに濃口醤油、味醂、砂糖という「江戸のそばつゆ」は、遅くも文化文政時代(1804~30)頃には完成されていたと考えられる。

江戸前の蕎麦の登場は、上方の天ぷらや寿司が江戸で独自に変化して発展したこととは少し違っている。なぜなら、江戸っ子の気の短さ(食べ方)と調味料の存在に依存していたからである。江戸蕎麦の味の誕生は、調味料としての濃口醤油と出汁(鰹ぶし)の存在が大きい。野田や銚子で濃口醤油が生まれなければ、江戸で蕎麦が広く普及することはなかったし、鰹節(かつお出汁)の発明がないと、江戸の蕎麦文化は生まれなかった。


関東平野と醤油酢問屋

■江戸積問屋
江戸においては、元和年間(1615~1623年)には、既に問屋と仲買の明確な区別ができていた。一般に、市売り、入札売り、相対売りの3つの方法で仲買に販売するものを問屋と呼んだ。そして問屋から品物を購入して、地方や市中に転売するものを仲買と言った。

仲買業成立のきっかけは、元和3年(1617年)、生魚の入荷があまりに多すぎて、市場で売買できない事態となった。問屋がそれぞれに雇い人を駆使して、直接買い手に売り渡した。この時の活躍を機に、雇い人達が独立し、仲買としての地位を固めていった。また大坂の問屋は、寛文年間には既に、普段から大量の委託販売をこなし、掛け売り商売を行っていた。大坂の問屋は消費の中心地となった江戸を目指して江戸への輸送を開始した。
その前提に海運の発達があった。元和5年(1619年)、堺の船問屋某が、紀州富田浦から250石積みの廻船を借り受けて、江戸に大量の商品を出荷した。菱垣廻船、樽廻船の始まりである。主な荷としては、木綿,水油,綿,酒,酢,醤油などがあった。


■十組醤油酢問屋と塩問屋の関係
利根川水系にある銚子や野田からは「醤油」、行徳(ぎょうとく)からは「塩」が大量に江戸に運ばれた。関東地方には、江戸湾最奥部に位置する入浜塩田の「行徳塩田」があり、行徳の塩浜での製塩が盛んにおこなわれ、かなりの量の塩(焼き塩)を産していた。

行徳塩は焼き塩後、半年近く寝かされ、そのため水分が完全に抜け流通経路での水分蒸発による、目減りが無く上質塩として信用が高い商品であった。その「行徳塩」の大部分は将軍家へ軍事用として優先して納められたことが知られている。江戸後期の段階では、「行徳塩」も醤油用として関東各地へ販売されたと考えられている。


江戸時代、日本全国で塩の製造が行われた。江戸時代後半、瀬戸内地方は塩の生産で圧倒的に発展し十州塩田と呼ばれた。瀬戸内海の塩の生産は、塩田への海水を引く方法に潮の満ち引きを利用した“入浜式製塩法”が確立して全国の産塩量四百七十万石のうち九割もの塩「十州塩」が生産された。ここから「塩廻船」によって、江戸、大坂を中心に全国各地へ大量に運ばれた。このときの下総・行徳の塩生産は年間四万石であった。
(「十州塩」というのは播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,阿波,讃岐,伊予の十州で作られた良質な塩で、特に播磨は赤穂の塩が上品だとされた)


行徳塩「焼き塩屋」浅いザルの中に焼き塩を入れて、それを天秤で担いでいた。


■江戸の醤油酢問屋
『近世の醤油取引と印-髙梨兵左衛門家を中心に-』石崎亜美 から以下を引用する。
「江戸での醤油販売は、販売額の一定割合の手数料を問屋に支払って商品の販売を委託する、委託販売方式であった。そして、問屋は受け取った醤油を販売し、年に2 回、醸造家に支払う代金の算出を行い、債権・債務を決済する「仕切り」を行った。
この仕切りでは、半年間に送られてきた樽数に、単一の仕切り値段を掛け合わせ、その金額を半年間の問屋の販売額としていた。この販売額は、実際に店頭で売られた価格の合計ではなく、価格の決定権は問屋が握っていた。
また、問屋は見詰金と称する内金を、ヤマサ醤油の場合、文政期には年に二回、醸造家に送付していた。一方、髙梨家(後のキッコーマン)の場合、問屋からの内金は、半年の内に2~4回渡されている。
商品の値段は、問屋と醸造家の交渉によって決められたが、最終的な価格の決定権は問屋側が握っていた。(中略)このような事態に対抗するため、醸造家は地域ごとに結成された「造醤油仲間」を基に団結した。このような江戸の「醤油問屋」と「醸造元」の関係は、明治期以降も継続していったとされる。」
当時の醤油の輸送は高瀬舟による舟運であった。荷揚げの利便のため、江戸の醤油問屋の多くは、日本橋の河川周辺の町に店を構えていた。日本橋川の両岸は江戸商業の中心地であり、江戸後期(文政期1818-30年)の日本橋には「醤油酢問屋」が70軒あった。
文政四年(1821)の統計によると、江戸に入る醤油の数量は年間125万樽で、その約9割が下総国(千葉県)の銚子や野田から運ばれてくる「地廻り醤油(濃口醤油)」であった。醤油は箱崎川周辺の行徳河岸(かし)で揚げることが多かった。


『熈代勝覧(きだいしょうらん)』文化二年(1805)の江戸日本橋を描いた絵巻より「江戸・日本橋のにぎわい」
日本橋の長さは二十八間(約50m)である。日本橋の挿絵には川辺に密集していた白漆喰の蔵屋敷で伊勢商人や近江商人・大坂商人など上方商人の土蔵が多かった。橋の上には町人や旅人、馬上の侍、槍持ち、僧侶、貸本屋の行商人、さまざまな群衆、川面には酒樽・米俵・材木など様々な荷を運ぶ多くの川船と人を運ぶ乗客船や屋形船・屋根船のような船宿の客船が描写されており、日本橋地区が物流拠点であったことを物語っている。橋の右手側が日本橋室町、左手側が日本橋一丁目に当たる。橋の右手側に魚市場があり、大量の魚が所狭しと並べられている。

■廣屋吉右衛門 - 醤油酢問屋 -

『江戸買物獨案内』(文政七年,1824)にみる江戸の問屋「醤油・酢問屋」に、廣屋の当主名「廣屋吉右衛門」の名がある。
廣屋はそもそも紀州湯浅に近い廣村出身者が使っていた屋号で、ヤマサの醤油は湯浅の醸造技術から始まった。廣屋初代濱口吉右衛門は、延宝年間(1673~81年)に醤油の醸造をはじめた「廣屋儀兵衛商店」(ヤマサ)の創業者である濱口儀兵衛の兄で、江戸の問屋「廣屋」は三代吉右衛門が享保元年(1716)に創業した。



地廻り"行徳塩",下り塩"十州塩"

■日本橋河岸の問屋と「行徳の塩」
江戸初期には日本橋を中心に京橋、本所、深川地域に多数の川(堀)が縦横に廻らされ、水運が盛んで各地の物資が河岸で陸揚げされた。江戸で消費される日用消費物資は、繰綿(くりわた)・木綿・醤油・酒・油などの加工品が多く、上方から千石船(後に菱垣・樽廻船)で送られてくる“下り物”であったが、米・炭・薪(まき)・味噌・魚油・塩などの商品は、江戸周辺や関東地域の“地廻り物”で維持されていた。
塩、油、米、酒、醤油などの食品問屋は「奥川筋船積問屋」や「船宿」を兼業しているところが多く、日本橋川は下り物と関東地廻り物の伝馬船(てんません)が多く出入りして賑わっていた。


日本橋川東側にある小網町河岸には川舟積問屋が多く、他にも水油仲買問屋や醤油酢問屋があった(買物独案内)。一丁目の河岸地は「末広河岸」、二丁目は日本橋川に沿った「鎧河岸」、三丁目の箱崎川の河岸地は1632(寛永9)年以降、下総本行徳村が幕府の許可を得て、小荷物や旅客の荷揚場として利用したので「行徳河岸」と呼ばれた。享保期(1716-1736年)以降になると、本船町,伊勢町,小網町,小舟町,八間町,堀留町,堀江町及び堀江六間町の八町には米問屋が集まって「河岸八町」と呼ばれた。

関東一帯の塩は、幕府の保護のもとに下総の「行徳産」の「地廻り塩」に依存していた。
江戸時代、江戸湾最大の入浜式塩田が下総の行徳(千葉県)にあった。幕府は行徳の塩田を保護し、その塩を江戸に運ぶため、隅田川と中川を結ぶ小名木川、さらには中川と江戸川を結ぶ新川を開削し、舟運の整備を行った。行徳塩田で得られた塩田砂を利用して煮詰めた製塩は、新川と小名木川を経由して江戸に送られた。行徳から江戸日本橋の小網町まで水路約13kmを結び、「塩の道」と呼ばれた。


成田参詣に出かける行徳船。
江戸の人が成田参詣に出かける場合に最も速く楽なのが、日本橋小網町から出ていた24人乗りの行徳船で小名木川・新川を通り、下総・行徳で下船して陸路を行くコースであった。そのため、船場・宿場町としても栄えた行徳は成田参詣の講中で大変繁盛したという。

江戸の水運は、銚子から川舟によって利根川を上り、関宿から江戸川を経て新川と小名木川を通って隅田川に至る航路を「内川廻し」と呼んだ。内川廻しは当初、東北方面からの廻米の運搬が主要な目的であったが、河岸周辺の地場産業が発展するに伴い、銚子からは鮮魚や醤油のほか、味噌、酒粕が、野田からの醤油、行徳からは塩が、日本橋川・箱崎川にある小網町「行徳河岸」周辺の問屋へと運ばれた。
行徳産の塩は江戸に運ばれ、関東を中心に行徳塩が流通していた。行徳の塩が江戸だけではなく、利根川筋の北関東、さらに信州や白河(福島)まで運ばれたという説もある。



江戸の人口が増えるにつれて塩の需要が増えた江戸では不足分を補うため、瀬戸内沿岸で作られた「十州塩」の「下り塩」が塩廻船によって大量に江戸へ運ばれるようになり、行徳の塩は押されていくようになる。承応年間(1652-55年)に、江戸に入った塩廻船は250~300艘、積載量約50万俵にもなった。十組問屋仲間には加盟していなかった塩廻船は、菱垣廻船や樽廻船と異なり、船頭自らの裁量で産地で塩を買い積み、これを江戸に運び、「廻船下り塩問屋」により所定の仲買達に売るというものであった。

文化六年(1809)に廻船下り塩問屋・仲買は、大坂との商いを扱った江戸の問屋仲間「十組問屋」に加入する。江戸に入る塩は北新堀町、四軒の「下り塩問屋」(松本屋、渡辺屋、長嶋屋、秋田屋)が仕切り、21軒の仲買が配給していた。北新堀町の他には、小網町三丁目の熊野屋、 山本屋、釜屋、松屋、廣屋の五軒があった。その中でも廣屋は「下り塩問屋」・「醤油酢問屋」・「奥川筋船積問屋」の3組で「十組問屋」に名を連ねており江戸の有力問屋であった。
この小網町で重要な商いは、地廻り塩の“行徳塩”と”下り塩”の取引であった。小網町の”廣屋”は、行徳産の地廻り塩も扱い、醤油問屋の大店でもある。
これらの下り塩問屋には醤油酢問屋を兼ねているものがあり、銚子から「地廻り醤油(濃口醤油)」を仕入れるようになった。下り塩問屋が醤油酢問屋を兼ねていたのは、原料としての塩を購入し、製品として”地廻り醤油”を江戸で販売するためでもあった。

小網町の「下り塩問屋」の廣屋吉右衛門店は、日本橋・箱崎橋北詰の行徳河岸の角地にある大店であった。この店は、元禄期(1688~1704)に銚子でヤマサ醤油の醸造を始めた廣屋儀兵衛店が、原料の塩(行徳産)の確保と地廻り醤油の販売を目的に、享保の頃(1716-36年)、廣屋吉右衛門に小網町で店を開かせたのに始まるという。天保の頃(1831-45年)には、小網町だけでは手狭になり、日本橋・箱崎町に下り塩問屋の分店を出すに至った。


■行徳の塩と播州の塩
『和漢三才図会』聖徳二年(1712)によると、「播州赤穂、備前の樫野、武州の行徳、共に潔自にて美味なり」とある。特に武州の行徳は、江戸開府以来、徳川家康の庇護のもと、寛永年間には4万石程度の生産量であったと考えられている。一方、塩の名産地である播州を含む、塩十州での生産量は江戸中期で350万石から450万石であり、江戸にも「下り塩」として多く運ばれた。
勝海舟の記した書『吹塵録』には、「下り塩」の量は承応3年(1645)30万石、享保11年(1726)には84万石言われている。この量は江戸の人々全員が使っても十分に補える量であり、江戸の市場を席巻していたのが分かる。
また、元禄10年(1697)刊の『本朝食鑑』には「日用の食物の調味には、播州、行徳の産を、塩蔵の場合は上総や他の塩を用いるべし」とあり、行徳の塩が播州のものと同じぐらい上質であったことがわかる。(特別講演「塩と江戸料理」柳原尚之より抜粋)


■「行徳塩」の記述
『江戸名所図絵』天保年間(1830~44)による「行徳塩」の記述は次のとおり。
「塩濱(現・千葉県市川市、江戸川東岸の海岸) 同所海濱十八箇村に渉(わた)れりと云、風光幽趣(ふうこうゆうしゅ=奥ゆかしい、静かな眺め)あり。土人(どじん=その土地に生れ住む人)云、此塩濱の権輿(けんよ=はじまり)は最久しく(もっともひさしく=とても古く)其始をしらずといへり。
然に天正十八年(1590)関東御入国(徳川家康江戸入り)の後、南総東金(現・千葉県東金市)へ御遊猟(ごゆうりょう=鷹狩り)の頃、此塩濱を見そなはせられ、船橋御殿(現・千葉県船橋市に設けた将軍用宿舎)へ塩焼(製塩業)の賎(しず=貧しい)の男を召し、製作の事を具(つぶさ)に聞き召され、御感悦(ごかんえつ=感じ入ってよろこぶ)のあまり御金若干(そこばく=いくらか)を賜り、猶(なお)末永く塩竈(しおかま)の煙絶ず営(いとなみ)て天が下の宝とすべき旨欽命(きんめい=天子の命令)ありしより・・・(中略)事跡合考(じせきがっこう=故事について記した本)に云、此地に塩を焼事(やくこと)は凡(およそ)一千有余年にあまれりと。
又同書に、天正十八年御入国の後、日あらず此行徳の塩濱への船路を開かせらる々由(よし)みゆ、今の小名木川(当時の東両国から行徳に至る運河)是なり。此地の塩鍋(しおなべ=塩の事)は其製地に超(こえ)堅強(けんきょう=かたくてつよい)にして保(たもつ)事久しとぞ、東八州(かんはっしゅう=相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野=現代の神奈川・東京・千葉・茨城・群馬・栃木)悉(ことごと)く是を用ひて食料の用とす。」


地廻り醤油(濃口醤油)が育てた江戸外食文化

■うなぎ蒲焼屋
江戸時代、辻売りや屋台から始まった江戸の蒲焼売りも、19世紀に入ると料亭のような座敷のある鰻屋が徐々に増えてき、1852年(嘉永5年)には「江戸前蒲焼番付」なるものまで発行されている。また、一説には江戸時代の江戸の町には400軒を超える「鰻屋」があり、蒲焼売りとされる「露店」を入れると800件くらいの鰻屋がひしめき合っていたのではないかと言われている。現在定番となっている蒲焼は江戸時代中期に関西の調理方をまねて江戸の職人が完成させたと言う説が一般的である。

今のように蒲焼にする鰻を割いて開き、タレをつけて焼く製法は、江戸中期に上方から江戸に伝わったとされている。歴史ある鰻店で最も大切にされている秘伝のタレであるが意外に配合自体はシンプルな物が多い。タレは醤油と味醂のみを配合し、それ以外の調味料や糖類は一切使わないそうである。
企業秘密で実は隠し味があるのではと邪念も抱くが、実は長年蒲焼を焼いて来たが故のうま味成分が蓄積される事に秘密があるらしい。何度もタレ付けされて焼かれた蒲焼は、メイラード反応を起こしてコクと深みを増し同時に鰻からのうま味成分が加わる。それらを含んだタレは独特の風味を持つ事になり、歴史によって作られるその店独特のタレとなる。

江戸時代には「醤油」や「味醂」などといった調味料の普及もあり、現代でも好まれている様々な料理が現れた。元禄年間(1688-1704年)には蒲焼の小屋掛け程度の店は登場したと思える。寛延(1750年)の頃には蒲焼屋が多数確認できるが、店作りはまだ露店的な簡易なものであった。

江戸のうなぎの名産地は深川であった。『新増江戸鹿子』(寛延4年,1751年)には「深川、鰻名産なり、八幡宮門前の町にて多く売る」と書かれている。また、江戸の商店、飲食店を案内する『江戸買物独案内』飲食之部(文政7年,1824年)には、江戸のうなぎ蒲焼屋の住所、屋号と紋、店主の名前「尾張町 江戸名物"鰻御蒲焼" 鈴木源六」や「麻布市兵衛町 幕之内御折詰"蒲焼所" 新井傳吉」などと鰻の蒲焼きの名店22軒が記されている。


『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』より「飲食之部」口絵と目録(目次) 文政7年(1824)
『江戸買物独案内』は江戸の買い物ガイドといえる『江戸買物独案内』の食べ物の巻。会席料理を供する料理茶屋だけではく、茶漬けや蕎麦、鰻の蒲焼、寿司などの店も取り上げられている。口絵の作者は葛飾北斎。

■鰻丼(どんぶり)
『明和誌』(文政5年,1822年)には、土用の丑の日に鰻を食する習慣は安永・天明期(1772-1789年)の頃より始まったとする記述が見られる。「土用」というのは、季節の変わり目の約18日間のことをいって、年に、立夏、立秋、立冬、立春の前の4回ある。そのうち立秋前の「土用丑の日」に鰻を食べる習慣が江戸時代から始まった。


『守貞漫稿』の鰻飯

鰻丼(どんぶり)が考案されたのが文化年間(1804-1817年)とされ、鰻丼の元祖は葺屋町(ふきやちやう)の大野屋といわれる。
『守貞漫稿』嘉永六年(1853年)には「鰻飯、京坂にて、まぶし、江戸にて、どんぶりと云ふ。鰻丼飯の略なり」、焼く時に付ける蒲焼のタレは、江戸は「醤油に味醂酒を加へ」、京坂は「醤油に諸白(もろはく)酒を加へたる」とある。
江戸のうなぎ蒲焼きのタレは、醤油と味醂が生み出す甘辛さにあり、うなぎ蒲焼きの文化と味を育てたのは江戸であった。また、鰻丼の値段は「江戸鰻飯 百文ト百四十八文、二百文」と記述がある。鰻蒲焼(うなぎかぱやき)は江戸自慢の食物で、鰻屋なら大きいものは1串、中くらいで2、3串、小さいものは4、5串乗って1皿200文、粗末な道端の屋台なら1串16文くらいであった。


■温飩(うどん)蕎麦屋
江戸市中でそば屋が増えるのは、寛延(1748-51年)から安永(1772-81年)にかけての頃とされ、この時期には、上方の良質な醤油「下り醤油」に変わり、安くて品質のよい関東の地回り醤油(濃口醤油)が、江戸市中で大量に出回るようになった。

江戸末期の風俗記『守貞漫稿』には「京坂は、温飩を好む人多く、又、売る家も専之とし、温飩屋と云也。 然も、温どんやにて、そばも兼ね売る也。江戸は蕎麦を好む人多く、商人も専とし、温飩は兼て沽る(売る)也。故に、蕎麦屋と云。」とあり、江戸では蕎麦屋でうどんも一緒に売っていたが、蕎麦のほうが江戸庶民に好まれていたようである。
また、蕎麦屋の繁盛振りを次のように書いている。「今ノ世、江戸ノ蕎麦屋、大略毎町一戸アリ。不繁盛ノ地ニテモ、四五町一戸也」と述べており、江戸では蕎麦屋は「毎町一戸」、繁盛していない地域でも「四五町に一戸」はあったことがわかる。
「万延元年、蕎麦高價ノコトニ係リ、江戸府内、蕎麦店會合ス。其戸数三千七百六十三店蓋夜商俗に云よたかそば屋は除之」ともあり、万延元年(1860)には夜鳴き蕎麦屋を除き、3763軒の蕎麦屋があったことを記している。


『守貞漫稿』 蕎麦屋の品書き(幕末期)

『守貞饅稿』には当時の「そば屋の品書き」、そばの種「あられ・天ぷら・花巻・しっぽく・玉子とじ」の説明が記されている。
  • ・御膳大蒸籠(蕎麦の大盛り)四十八文
  • ・そば(盛り蕎麦)十六文
  • ・あんかけうどん十六文
  • ・あられ(ばかという貝の柱をそばの上に加う)二十四文
  • ・天ぷら(芝海老の油揚げ3.4を加う)三十二文
  • ・花まき(浅草海苔をあぶりて揉み加う)二十四文
  • ・しっぽく(焼き卵、蒲鉾、椎茸、くわいなどを加え)二十四文
  • ・玉子とじ(鶏卵とじ)三十二文
  • ・上酒一合四十文
これらの品書き以外に、鴨南蛮(鴨肉ト葱ヲ加フ、冬ヲ専トス)と親子南蛮(鴨肉にを加えし鶏卵とじなり)があるが「けだし鴨肉といえども多くは鴈などを用ふるものなり」と記されている。また、「天ぷら、花巻、しっぽく、あられ、南蛮等 皆丼鉢に盛る」とある。

 
『守貞漫稿』 二八蕎麦の挿絵で外面朱塗り内黒の器
守貞漫稿 には「江戸は、二八の蕎麦にも皿を用ひず、外面朱ぬり、内黒なり、底横木二本ありて竹簀をしき、其上にそばを盛る。是を盛りと云。盛そばの下略也。だし汁かけたるを上略して、掛と云。かけは丼鉢に盛る。天ぷら、花巻、しっぽく、あられ、なんばん等、皆丼鉢に盛る。」と記述がある。
図には、四段重ねにした蒸籠とつゆ徳利、猪口、薬味皿が描かれている。蒸籠の最上段には蓋をするようになっているものの、現在と同じ供し方である。冷たいそばの器は蒸籠、温かいそばの器は丼鉢というスタイルが江戸のそば屋に定着したのは、文政(1818~30年)から天保にかけての時期だった。



以下は一般社団法人日本麺類業団体連合会「そばの散歩道」より「江戸のそばつゆ」を一部引用する。
天保・嘉永期(1830~54)の江戸風俗を記録した『守貞謾稿』では、そば屋の品書きなどは詳細に述べているのに、つゆについては直接触れていない。しかし、江戸の料理の味つけとして、鰹節のだしに味醂または砂糖を加え、醤油で塩味をつけるとしている。
しかも、味醂に関しては「諸食物、醤油ト加之煮ル」とあるだけだが、砂糖はそば屋で使うこと甚だしいとまで書いている。したがって、鰹節のだしに濃口醤油、味醂、砂糖という「江戸のそばつゆ」は、遅くも文化文政時代(1804~30)頃には完成されていたと考えられる。


■醤油煮しめ料理屋
江戸には煮しめなどを売る「菜屋」もあったと書かれている。『守貞饅稿』によると、「菜屋」と呼ばれ「生あわび、するめ、刻みするめ、焼き豆腐、コンニャク、くわい、レンコン、ゴボウ、刻みゴボウなどを醤油の煮染(にしめ)にして大皿鉢に盛り、見世(店)の棚にならべこれを売る」、「江戸諸処往々これあり」とある。このように、惣菜の持ち帰りも揃っており、飯だけ用意できれば食事ができる時代であった。
江戸後期になると、煮売屋が増え、品目も充実して、下級武士の食事も変化に富むようになった。江戸には「賄い屋」がいて、江戸城中の宿直役人(夜間勤務の役人)や組屋敷の独身者などに、一汁一菜の弁当を運んでいた。また、「菜屋」という商人は、煮しめなどの惣菜をもち、武家屋敷の長屋などを売り歩いたという。


■江戸の寿司・稲荷ずし・天ぷら
江戸末期の風俗記『守貞饅稿』(1853年)に記載された江戸の「寿司」「稲荷ずし」「天ぷら」は次のとおりである。
  • 寿司について
    屋台すしは「鮓と天麩羅の屋台見世は、夜行(やこう)繁き所(夜人通りが多いところ)には、毎町各三、四ヶ所あり」と記されている。また、店構えのすし屋は「江戸は 鮨店 甚だ(はなはだ) 多く 毎町一、二戸」「江戸、今製ハ、握リ鮓也。鶏卵焼、車海老、海老ソボロ、白魚、マクロサシミ、コハダ、アナゴ甘煮長ノマゝ也」とある。
  • 今の握り寿司は醤油をつけて食べるが、江戸の寿司にはツメ(煮詰め・煮切り)と呼ばれるタレが塗ってあり、そのまま食べられた。そのツメはアナゴの頭・骨を酒・地廻り醤油(濃口醤油)・砂糖で煮詰めて作った。
  • 「稲荷ずし 御府内各所に定見世また家台見世にあり。油揚の中に野菜を入れし鮨なり。主なるは、お蔵前の玉ずし、十軒店の治郎公、吉原江戸町角の夜あかし、千住大橋際、和泉町、人形町通り夜店、久保町そのほか各町にあり。価廉にして風味佳なる物あり。」
  • 「天麩羅(てんぶら)は上流の料理に出さぬではなきも、多くは即席料理店の出し物にして天鉄羅専門の料理店というほどの家はあらず。多くは家台見世のものにて天麩羅茶漬店、飯付き一人前二十四文か三十二文、せいぜい四十八文ぐらゐのもの。」

■「料理茶屋」の贅を凝らした料理
江戸の隆盛を極めた「料理茶屋」(料亭)は、建物内に座敷を有し、厨房を構えて調理を行い、敷地内に庭園を設けるといった工夫を凝らしていた。これらの料亭は、閑静な景勝地で河川沿いや敷地内に船着き場を設置し、舟上における料理の提供、水辺風景の景観を眺望できる造りでもあった。
江戸の末期、客の注文に応じてすぐ料理を出す(料理の支度をしておいて、客が来ればすぐ料埋を出す)即席料理屋は、一般に「料理茶屋」または「会席茶屋」(会席即席料理)と称していた。


『江戸買物独案内』(文政七年,1824年)には、貸座敷、料理と書いてある店にも、仕出しを受け付ける旨を書いている店もあり、『江戸名物酒飯手引草』(嘉永元年,1848年)には、料理茶屋の部分には貸座敷、御料理。そして、会席(懐石)、即席と書いている。このように、江戸後期には料理だけの提供や予約なく店に行って料理を食べることが出来た。
『守貞漫稿』(1853年)に高級な料理茶屋(今でいう料亭)のコース料理の記述がある。
「江戸では、近頃、会席風と名づけ、客の人数に応じて加不足なく、わずかに余るほどに出し、費用をへらすが、肴数はへらさない。京坂のように、肴を多くせず、まづ、第一に味噌吸物、次に二つ物、次にさしみ、次にすまし吸物、あるいは茶碗もの、以上が酒肴である。次に一汁一菜、あるいは一汁二菜の飯である」
「今の世、三都(江戸・京都・大坂)ともに士民奢侈(しゃし)を旨とし、徳に食類に至りては、衣服等と異にして、貴賤貧富の差別なきがごとし」
とあって、最初と最後には茶菓子を添えた茶を出したと言う。要望があれば料理茶屋で風呂にも入れ、余った料理は笹折に詰めて持ち帰るように用意し、夜ともなれば提灯を持たせて送り出すといった持て成しぶりであった。また、衣服で武士と庶民の差があっても、領地ではほとんど差がないと述べており、身分の違いを越えて、江戸時代に外食文化が発達した様子がうかがえる。

□会席料理屋の図(1)
  
『田中庵』会席の図(団扇絵)/歌川国貞(香蝶楼)

『江戸食文化紀行-江戸の美味探訪-』 納涼と会席/松下幸子著より一部引用:「絵の中に“田中庵 奥の亭より杜若(かきつばた)別荘を見る図”と書かれています。(中略)宴席の中央に大皿と大鉢に盛った料理が見え、次の料理が運ばれてきています。会席というと、現在は会席料理をさしますが、もとは何人かの人が会合する席のことで、その席で酒とともに出す料理を会席料理と呼んでいました。この絵の会席も何か趣味の集まりのように見えます。」


□会席料理屋の図(2)
 
『むさし屋』会席の図(団扇絵)/歌川国貞(三代豊国)
江戸時代の有名な料亭 で、鯉の生簀(いけす)料理で知られた向島牛島の料理茶屋「武蔵屋」である。川沿いの門には「むさし屋」と「即席御料理」の看板が掲げてある。料亭の脇には船着場が置かれ、客は直接の乗り入れができた他、舟上における料理を楽しむこともできた。
『守貞謾稿』(1853年)は、生簀(いけす)について次のように記している。「普通の料理屋とは別にて、鯉のみそ汁、鮒の刺身等河魚を専らとし、また海魚も交へ用ふ。しかれども掛行燈(かけあんどん)には必ず万川魚(よろずかわうお)と記せり。俗にこれを号して生洲(いけす)という」

江戸の料理茶屋を相撲の番付に似せてランキングにした「八百善御料理献立」(江戸料理茶屋番付) 江戸末期の茶屋の番付では「武蔵屋」は西之方・前頭となっている名店である。ちなみに、東之方・前頭はペリー提督の饗宴の料理を幕府から受けた「百川」の名となっている。


『八百善御料理献立』(江戸料理茶屋番付) 江戸末期 国立歴史民俗博物館蔵


『江戸高名会亭尽(えどこうめいかいていづくし) 山谷 八百善』
江戸の料理茶屋の筆頭株ともいえる八百善の座敷を描く。長押には江戸南画の大家である谷文晁(たにぶんちょう)の描いた額がかかっている。






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