日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-



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第1章 日本醤油の起源と歴史




第2章「醤油の原材料」に進む

 第1章 日本醤油の歴史

日本の伝統的な発酵食品



■日本の伝統的な調味料
醤油や味噌、漬物、塩辛、納豆、酢などは、私たちの食事に欠かせない身近な発酵食品です。日本の伝統的食文化(和食)を特徴づける食品や調味料はどれも微生物の力を借りて作られています。和食における調味料の特徴は、発酵調味料が非常に多く、大豆、麹、塩を発酵させて作る「醤油」や「味噌」、米や米焼酎を発酵させた「米酢」や「みりん」、また、「鰹節」も黴付けして発酵させています。

日本の醤油は、大豆と小麦、塩を原料として発酵、熟成させたものです。日本の調味料の代表ともいえる醤油は、和食はもちろん、あらゆる料理に欠かせない調味料で、塩辛み、うま味、酸味、甘みが混じり合って、料理の味付けの主役といえます。醤油は味噌と共に、大豆を主原料とする日本独特のグルタミン酸などの「うま味」成分を多く含む発酵調味料です。
日本は、四季の変化に富み湿度が高いため、この気候を利用した、いろいろな植物性発酵食品(醤油や味噌、日本酒、漬け物、納豆など)が、日本の長い食文化の歴史の中で創意工夫されて発達し、私達の食生活に欠くことのできないものとなりました。日本独特の醤油は、小麦・大豆を原料とし、蒸した大豆に炒った小麦を混ぜ、麹菌をつけて麹(こうじ)を造る。木桶に塩水と麹を入れ、混ぜ合わせて約1年、発酵熟成させて袋に入れて絞った液汁が醤油です。醤油の栄養分は、原料となる大豆や小麦の栄養分がそのまま含まれています。

■醤油の異称
醤油の種類には、濃口醤油・薄口醤油・たまり醤油・再仕込み醤油(甘露醤油)・白醤油の5種類があります。
そして、醤油の当て字として 「正油」とも書きます。醤油の異称「下地 したじ」もしくは「紫 むらさき」ともいいます。「したじ」は吸い物で主に醤油を下地に使っただし汁やつけ汁のことを指し、そこから醤油そのものも下地と呼ぶようになったと考えられています。醤油を丁寧語にした場合「御下地 おしたじ」と呼ぶことがあります。また、醤油の色から「むらさき」などともよばれます。「むらさき」とよぶ語源には諸説あります。
昔の人は赤褐色のことを紫と言い、小皿に垂らしたおしょうゆの色が赤褐色だったため「むらさき」と呼ぶようになったという説、江戸時代に高価で貴重であった醤油を古来高貴の象徴とされてきた「紫」にたとえて「むらさき」と呼んだという説、醤油の原料の一つである大豆に、丹波の黒豆(むらさき色の大豆)を使用すると、醤油がむらさき色になったことから「むらさき」と呼ぶようになったという説などです。


<はじめに>
  • 醤油の歴史はとても長く、ルーツは約3000年前の中国の醤(ショウ・ジャン)まで遡ります。日本において現在馴染みのある固液分離された液体調味料の醤油が登場したのは室町時代といわれています。これは、大豆を主体とした穀物に麹菌を生育させたものを食塩水で仕込んで発酵熟成させて醤(ひしお)や味噌を造った後、食塩水などで薄めて布やザルで濾したもので、現在のたまり醤油の原型です。それ以来日本各地に広まり、各地で製法の改良が重ねられます。江戸時代後期には現在の濃口醤油や淡口醤油の製法が確立し、和食文化に欠かせない調味料となりました。
  • 醤油の原料の大豆は、中国では5000年も昔から栽培されていました。日本に伝わった時期は定かではありませんが、縄文時代の竪穴遺跡から大豆の炭化物が出土していることから、大豆は縄文時代に中国から朝鮮半島を経て、伝来したと推定されています。
    大豆は水稲とともに、弥生時代にはすでに栽培が行われていたといわれています。日本で大豆栽培が広く始まったのは鎌倉時代以降のようです。また、小麦も朝鮮半島を経由して弥生時代中期頃に日本に伝えられ、水田稲作とともに麦類が栽培されていました。江戸時代には稲の裏作としての小麦栽培が全国的に広まりました。
  • 日本でいつ頃から醤油が食されるようになったかと言うと、しょうゆのルーツ醤(ひしお)のたぐいが、縄文時代末頃からあったといわれ、縄文時代の遺跡からは、熟鮨(魚醤)の原型と思われるものが出土しています。本格的に醤(ひしお)が作られるようになったのは、中国や朝鮮半島から製法が伝えられた大和朝廷時代頃のことでした。奈良時代に醤(ひしお)が生産されていますが、これは調味料というより、そのまま、おかずとして食べる"なめもの"の一種として食されたものといわれています。
  • 調味料として「しょうゆ」という言葉が最初に文献に現れたのは室町時代です。室町時代末期(1530年代)に調味料として醤油が生産されるようになり、当時の文化の中心であった関西地方を中心に、醤油製造を家業とする人たちが現れます。この時代の醤油は現在のものに近いと思われ、その製法や品質についてはほとんど示されず、秘伝口授のようでした。そして、関西地方(湯浅、龍野、堺)で生産された味も品質も良い下り醤油はやがて関東(銚子、野田)へ、そして全国に広まっていきます。
  • 江戸時代、醤油が普及するまでは膾(なます)や、さしみに欠かせない調味料として「煎り酒」が使用されました。醤油が広く庶民に普及したのは、関西では江戸時代初期、関東では江戸時代中期以降からです。この江戸時代中期に、醤油は日本独自の発酵食品の醤油として完成しました。
    紀州(現在の和歌山県)の湯浅が発祥とされる「たまり醤油」はすでに室町時代の頃に流通しており、江戸時代に主に関東地方で発達した「濃口醤油」と播州龍野で製造されるようになった「薄口醤油」は江戸時代中期頃にその基本が確立されました。醤油を二度醸造するような製法で造られる「再仕込醤油」は江戸時代後期に、小麦を主原料に大豆を少量用いて造られる「白醤油」は江戸時代末期から明治時代初めに確立されたとされています。


<醤油の起源>

醤油の起源には諸説あります。

■醤油の原型は「醤」
醤油の原型は、紀元前700年頃の中国・周王朝の古文書「周礼(しゅうらい)」に「醤」(ひしお)が記されており「ひしお」が、そのルーツではないかと言われています。中国の古文書による「醤(しょう/ひしお)」とは、当時の貯蔵食品の総称で、動物・魚類の内臓や生肉、血、骨などを一緒にして、たたき潰して塩と酒とともに百日ほどかけて漬け込み、形も崩れてどろどろになった発酵したものを言い、多種多様なものがあったといいます。
醤油の「醤」という字を使うこの言葉は、広く発酵調味料のことをさして使われています。「油」という字は、古くは“液汁”を意味してました。「醤」は、魚介・鳥獣の肉や内臓、野菜などを塩漬けにして、熟成させたもので固形に近いものと考えられています。日本でも縄文時代には、魚を原料とした醤の類のものが利用されていたようですが、本格的につくられるようになったのは、大和朝廷が誕生してからです。醤(ひしお)とは、食品の保存のための塩蔵品の一種に当たる塩漬発酵品のことです。
日本古来からの醤(ひしお)としては、3種類があり、魚や肉を使った「魚醤(うおびしお)」や「肉醤(ししびしお)」、果実・野菜・海草等を原料にした「草醤(くさびしお)」が縄文時代末頃から並行して使われていました。縄文時代につづく弥生時代の遺跡からは、醤(ひしお)と言われる塩漬けの保存食が出土しています。

奈良時代には、中国や朝鮮半島から穀物を原料とする「穀醤(こくびしお)」が日本に伝わりましたが、中国からのものを「唐醤(からびしお)」、朝鮮半島から来たものを「高麗醤(こまびしお)」と呼んで他の醤と区別していました。これら穀物を材料にした穀醤が、今日の醤油や味噌の元祖といわれています。

日本人は「穀醤」を好みました。大豆を煮てそのまま放置しておくことで自然と空気中の微生物(コウジカビ,乳酸菌,酵母)が付着して“発酵”を始めます。少し湿らした状態にしておくので“液体”が浮き出てきて、その液体を集め食べ物につけると非常においしい。これが醤の最初の醤油の原形のものです。液体ではなく残った固まりを現在の味噌の祖となる未醤(みしょう)と言いました。

末醤=未醤=味噌で、味噌の由来のもうひとつの説は『大宝令』(701年)には「醤」「豉(くき)」のほかに「末醤(まっしょう)」が収録されていることから、「末醤」は日本独自のものと云える。日本では醤油に近い系列の醤と末醤は最初から別物と認識していた。朝鮮の文献に見られる末醤・未醤(みしょう)は、明らかに日本語からの借用で、おそらくは、15世紀前半の室町期に3回(1420年、1439年、1443年) 来日した朝鮮通信使とは無関係ではなかろうと推測できる。ちなみに、当時の末醤は水気の多いペースト状であったと推測できる)

いろいろな説がありますが、奈良時代にはすでに、大豆を原料にした醤(ひしお)という発酵食品があって、醤(ひしお)は現在の醤油や味噌の原型と言われています。醤(ひしお)の呼び名は奈良時代の後の平安時代まで継承されたようです。

醤(ひしお)をルーツとする発酵調味料や食品としては、魚醤(うおびしお)が今の塩辛や塩魚汁(しょっつる)に、草醤が今の漬物に、肉醤は塩辛類に、そして、米・麦・豆などの穀物を原料とした穀醤がのちの『味噌、醤油』に発展していったと考えられています。高麗醤(こまびしお)は味噌の原形(未醤)とされ、今日の味噌は江戸時代に完成したと言われています。
醤油に結びつく「穀醤」には大豆が使用されていましたが、江戸時代の初期から中期にかけて日本人の知恵で大麦、その後、小麦を炒って使用するようになりました。ほぼ等量の「大豆」と「小麦」を使って全量を散麹(ばらこうじ)とし、塩水と混ぜて諸味とする日本独自の醤油製法は独特の豊かな風味を醸し出しました。現在の日本の紅く澄んで香り高い醤油は、日本人が長い時をかけて、これらの発酵食品を改良し発展させることで独自に作り上げたものなのです。

■もうひとつの説は溜り
日本における醤油の発祥は、鎌倉時代といわれています。鎌倉時代の禅僧、覚心(かくしん:1254年)が、中国(宋)の浙江省にある禅宗五山の一つ、径山寺(径山興聖万寿禅寺)で6年間の修行を積み帰国後、紀州・由良(和歌山県湯浅町)に西方寺(後の興国寺)を開きます。
虚無僧(こむそう)の開祖でもある覚心は、精進料理として径山寺(きんざんじ)で学んだ醸造法で、大豆と大麦をあわせて作った麹に、下漬けをした茄子、瓜、胡瓜、生姜などの野菜を混ぜて桶にいれ、塩水を加えて発酵させた保存食の「なめ味噌」(径山寺味噌)造りを広めました。
禅僧「覚心」(法灯国師 ほっとうこくし)

なめ味噌の製造過程で塩の浸透圧により野菜から出る水分は、コウジカビの腐る原因になるとして、それまで捨てられていましたが、捨てていた味噌の「上澄み液」で食物を煮ると、これまでにないうま味がついて煮物の味付けに良いことが発見されました。これが「溜」(たまり)と呼ばれる調味料(醤油の最初の形)の始まりです。それ以後、水分の多い径山寺味噌(きんざんじみそ)を造るようになり、径山寺味噌の桶の底や味噌の上にたまった液汁(溜)を調理に用いるようになり、今の「溜(たまり)醤油」に近いものが生産されるようになりました。


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■醤油醸造の発祥地は関西圏
現在の日本で生産されている醤油は、穀醤、または、径山寺味噌の上澄み液などから発展したものであると伝えられていますが、これらはみな現在の日本の醤油とは、似て非なるものです。醤油は、これらの発酵食品を元にして、長い時の中で、その土地の風土・気質に合うように、またよりおいしく生産効率を上げるために改良に改良を重ね、日本で独自に作り上げられた調味料です。
特に、穀醤が発展した奈良や京都を始め、径山寺味噌が作られ始めた紀州の湯浅、明の時代に中国醤油が輸入された大阪の堺など、醤油の発展に関った地域はすべて関西圏に属します。

すなわち、現在の日本の醤油の成立には、関西が大きく関与したといえます。そして、関西で発展した醤油の製造方法は、その後、湯浅の濃口醤油醸造の技術が現在の千葉県の銚子や野田に伝わり、関西地方だけでなく関東にも日本を代表する醤油メーカーを生み出しました。さらに、関西では、濃口醤油の製造方法が確立されただけではなく、より関西人の味覚に合う淡口醤油が生み出されたのです。



<醤油誕生・発展の歴史>

■飛鳥・白鳳時代
日本では、飛鳥・白鳳時代に国家統治の法典として、忍壁親王(おさかべしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)らによって編纂された大宝律令(701年制定、702年施行)に、大豆を原料とする「醤(ひしお)」に関する記述がみられます。大宝律令は、原始封建国家の職制を確立したもので、中国の「周礼(しゅらい)」に学んだものといわれています。

大宝律令(701年)には、宮内省「大膳職(おおかしわでのつかさ)」の中に「醤(ひしお)」を造る「醤院」(ひしおつかさ)が記されています。
食材を塩漬けにして発酵させた塩蔵品のものを醤といい、醤を造る「醤院」という制度のもとに、各地から朝廷に米の代りに醤大豆や小豆類が租税の一部として納められていました。当時は塩蔵品のことを総称して醤(ひしお)と呼んでいたようです。醤は高級官僚の給料として用いられる上流階級の調味料とあります。いろいろな「醤」や「未醤(みそ)」(現在の味噌の祖)をつくり、管理されていました。
醤油の原形である「醤(ひしお)」は大豆、米 麹、小麦、塩などであると記されています。このことから、「醤院」で管理されていた「醤」は、穀醤であり、貴重な調味料として意識されていたことが分かります。

藤原京(694-710)の遺跡から出土した木簡には、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤(ひしお)と末醤(高麗醤)を請求した文書が記されています。
出土した木簡は、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤(ひしお)と末醤(高麗醤)を請求した文書。
左:「謹啓今忽有用処故醤」(表)
右:「及末醤欲給恐々謹請 馬寮」(裏)

出典:奈良文化財研究所 飛鳥資料館
藤原京(694-710)の遺跡から出土した木簡


奈良時代(古代と醤油)

■奈良時代
奈良時代には、遣唐使によって多くの中国文化が伝えられ、漬け物(醤漬)や味噌(未醤または高麗醤)を始めとするさまざまな発酵食品がつくられるようになりました。

それに伴い「醤(ひしお)」が急速に発展して醤の種類も増え、その原料も大豆・米・麦・糯米(もちごめ)などが用いられました。それらの材料に塩と麹を混ぜて発酵させて、今の醤油と味噌の中間のような「醤」や「未醤」、中には天日干しにして「堅味噌のようにした醤」も現れました。当時、中国から「唐醤(からびしお)」が、朝鮮半島から「高麗醤(こまびしお)」が伝えられて種類も多くなり、これら穀類を材料にしたものが「醤」の中心となります。

ひしお
古代発酵食品、醤(ひしお) の復元
(日本では古代の早くから液体状の醤が造られていた可能性があるが、醤はすべて液体状であったとは考えにくい。醤はドロドロしたもろみ状態で利用されることが多く、液体状の醤は貴重品であったと考えられている)


奈良時代は、庶民の調味料は塩だけであり、塩漬け以外には味をつけて調味をするということはなかったようです。一方、醤(ひしお)は上流階級の調味料とされ、寺院や貴族だけが口に出来る贅沢な食べ物でした。
奈良時代の『万葉集』巻十六には酢、醤、蒜、鯛、水葱を詠める歌と題し「醤(ひしお)酢(す)に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛願ふ 吾にな見えそ水(な)葱(ぎ)の羹(あつもの)※」(長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が宮廷の宴席の食膳を詠んだ和歌)という記述があります。
※意味:醤と酢に蒜をつきこんであえたものと、鯛を食べたいと願っている私に、ナギの羹など見せてほしくない。


奈良時代の天平年間に仏教的な観点から鳥獣の殺生禁止令が出されましたが、日本人も奈良時代の後半には平城宮内の役人らが牛や豚の肉を食べていたことが人糞の調査で判明しています。また、イノシシを献上する木簡の出土などの最近の発掘資料からも肉食の習慣が確認されています。しかし、穀醤の醤(ひしお)は仏教の殺生禁断の精進の根幹を守るために、米を食事の中心とした菜食の味付けとして使用されました。

天平宝字元年(757年)に施行され、古代日本の政治体制を規定した法令である『養老律令』の「大膳職(副食・調味料などの調達・調理)」条には、「主醤(ひしおのつかさ)二人。掌。造雑醤鼓未醤等事。」という記述があります。すなわち、醤(ひしお)や鼓(くき)や未醤(みしょう)といった調味料が朝廷の大膳職という役所で、主醤という役職の役人によって作られていたという内容のことが記されています。
「大膳職下」の「造雑物(ぞうざつぶつ)法」には「供御醤(くごびしお)料。大豆三石。米一斗五升。麹料(よねのもやし)。糯米四升三合三勺二厘。小麦。酒各一斗五升。塩一石五斗。得一石五斗。」「未醤量。醤大豆一石。米五升四合。麹料。小麦五升四合。酒八升。塩四斗。得一石。」という記述が認められます。醤油の祖の「醤」の材料が大豆、米、もち米の麹、小麦、酒、塩で、味噌の祖の「未醤」の材料が大豆、米、小麦麹、酒、塩であり、それぞれ異なるということが推察できます。


平城宮跡から発掘された木簡
764年に起きた藤原仲麻呂の乱で、法華寺にいた孝謙太上天皇の側近の女官から、平城宮内の食料担当・大膳職に、天皇の食事用として、小豆・醤・酢・末醤(まっしょう)の食材を請求する木簡。

表に「寺請 小豆一斗 醤一斗(斗カ)五升 大床所 酢 末醤等」
裏に「右四種物竹波命婦御所 三月六日」

とあり、「大床所」とは、清涼殿昼御座の御膳のことで、法華寺が竹波命婦(女官)の指示によって、御所の用料として小豆、、酢、末醤(味噌)の支給を請求したものである。「竹波命婦(つくばのみょうぶ)」は、『続日本紀』神護景雲二年(七六八)六月戊寅(六日)条に、「掌膳常陸国筑波采女従五位下勲五等壬生宿禰小家主」とみえ、常陸国筑波郡出身の采女であり、孝謙天皇(称徳天皇)の食膳をつかさどっていた側近の女官であった。





天皇用の調味料の付札 (四七二号木簡)

「御」は天皇専用の意味。「供御(くご)」は御に供える、すなわち天皇専用に調整する物品をいう。「御」の上が一文字分空白になっているのは、闕(けつ)字(じ)といい天皇に敬意を表する表記法。「末醤(まっしょう)」は味噌の前身の調味料。「一石二斗」は今の四斗八升、約86リットル。
・・・中国の文献には末醤・未醤という醤は見当たらない。末醤についての「和名類聚抄」(931~38年)の記述には 「末醤は、高麗醤(こまびしお)ともいい、美蘇のことである。俗に味醤の字を用いる。本来は末醤といったが、末は搗末の意味である。末を訛って未とし、未を点じて味としたのである」とある。(末醤から未醤そして味噌という文字が生まれた)



平安時代

■平安時代
平安時代になると、醤(ひしお)の技術も進み、醤の形状が固形に近いものから、ドロドロの液状へと変化し、より醤油に近いものが作られるようになりました。この時代に編纂された日本最古の漢和辞典『倭名(和名)抄類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(903年)飲食部には「醤 四聲字苑云醤 即亮反和名比之保別有唐醤 豆醢也」という記述があり、「醤は和名で比之保(ひしほ・ひしお)と訓む、別に唐醤あり豆麹なり」と記されています。



また、宮中貴族の饗宴は、正月の公事や、大臣が任官されたときなどに盛大に行われていました。貴族の食事は、足の付いた高杯(たかつき)と呼ばれる置き台に皿をいくつか置いて食材を盛り付けたものが、次々に出てくる形式で、精進なら精進ばかり、魚鳥を使う時はそればかりで構成するもののようです。当時は、調味という概念はなかったようで、焼く、煮る、蒸すなどシンプルな調理法しかなく、厨房で味付けをするということはありませんでした。

料理は単品で鯛、鯉、鱒、蛸、雉などが皿に盛られました。手元には4種類の調味料の「酢」、「塩」、「」、「酒」が小さな器に添えられていました。
小さく切って盛り付けられた料理の味付けは食膳に置かれている「酢・塩・醤・酒」などに、素材を浸し、自分で好みの味付けにして食べていました。これらの4種類の調味料は『四種器(よぐさもの)』と呼ばれる貴重なものでした。この場合の「醤」は酢や酒と同じく液体状と考えられています。
しかし、『四種器』の調味料は正客と身分の高い高貴な人たちのものであり、それ以外の少納言や弁官以下(延喜式の律令)、そして庶民の調味料は「塩」と「酢」であったといわれています。こちらの塩と酢は「二種物」と呼ばれていました。


四種器(よぐさもの)、平安時代の調味料の「酢、塩、醤、酒」。
酒  醤
酢  塩

平安時代の中期に編纂された格式『延喜式(えんぎしき)』には、大豆の栽培法や、大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されている。また、『延喜式』には瀬戸内海の沿岸や畿内、山陰道など、京都に近い・諸国からは、調(ちょう)として醤大豆が貢納され、平安京では毎月15日まで東の市、16日以降は西の市に集まるとして「醤」の店を含め51店あったこと、西の市では「味噌」の店を含め33店あったことも記述されています。(『延喜式』の巻第四十二には、「左右京職 東市司 西市司准此。 …凡毎月十五日以前集東市。十六日以後集西市。…醤廛 右五十一廛東市。…未醤廛 右三十三廛西市」とある)

「料理」という言葉が初めて登場するのは、宮中の儀式や制度を記録した平安時代の『延喜式』という書物で、そこからも日本料理が儀式、つまり〝饗〟の概念と深く関わっていることがうかがい知れます。

麹売り『七十一番職人歌合』より

平安時代の末期から室町時代にかけて、発酵食品を造る上で画期的な発明がありました。「種麹(たねこうじ)」です。
蒸した米に麹菌を繁殖させ、それを長く続けると麹菌は多数の胞子を着生します。それを絹製のふるいでふるって米粒と胞子とを分け、胞子だけを多量に集めて乾燥し、保存することを考え出しました。
こうすることにより、得られた胞子を蒸した米や大豆に撒くことによって、確実に多量の米麹や大豆麹を得ることが可能となり、麹を専門に製造・販売する「種麹屋」が生まれます。種麹屋は酒造家のみならず、醤油屋、みそ屋などにも純粋な麹を供給するようになり、醤油や味噌や酒の大量生産につながったのです。



鎌倉時代

■鎌倉時代
鎌倉時代は、肥料の使用や農具の改良等によって日本の農業の生産性が向上し、西日本に偏っていた大豆栽培も鎌倉時代には国内で広く栽培されるようになりました。
また、鎌倉時代に始まったといわれる精進料理は、菜食を主にした料理で禅宗の僧が広めたのが始まりです。この時代、仏教や道教の教えの殺生禁断の広まりによって、動物性食材等が禁じられ植物性食材がを主となりました。従って、醤(ひしお)も肉醤・魚醤でなく穀醤が主となり、禅宗寺院で味噌などの大豆食品が大量に作られるようになりました。
また、味噌汁は禅僧が考え出したと言われています。鎌倉時代に入ると、すり鉢が使われるようになり、粒味噌をすりつぶし溶かして汁状のものが飲まれるようになり、これが味噌汁の原型となったとされます。みそ汁の登場によって「一汁一菜(主食、汁もの、おかず、香の物)」という鎌倉武士の食事の基本が確立されたと言われています。

鎌倉時代に、醤油の元になったと考えられる調味料「溜」(たまり)が現れます。1249年(建長元年)信州の禅僧、覚信が宋に渡って修行し、1254年(同6年)帰朝して、なめ味噌の製法を持ち帰り紀州でこの作り方を教えたのが金山寺味噌の起こりとされています。醤の一つである径山寺(金山寺)味噌(きんざんじみそ)をつくる過程で味噌桶の底に溜まった液体(たまり)を調味料として使用しました。この味噌桶の底に溜まった液体の溜(たまり)こそが醤油の原型です。



室町時代

■室町時代
室町時代の中頃には、ほぼ現在の醤油に近いものが造られるようになりました。「醤油」という文字が誕生したのもこの頃です。

室町時代は武家にも食礼式が発達しました。和食の原型といわれる魚鳥類を中心とする料理法「四条流包丁書」(1487年)が奥秘として四条・大草両家に伝わり、味噌からつくる溜醤油状の「たれ味噌」「薄垂れ(うすたれ)」など現代の醤油に近いと思われる調味料が記されており、「たれ味噌」は「味噌一升に水三升五合を混ぜ、煮詰めて三升とし袋に入れ、それを締めて垂らした液体」という記述が残っています。

《『守貞(もりさだ)漫稿』(1853)には、「醤油昔は無之、足利氏の包丁大草家の書等に醤油と云こと無之、垂味噌(たれみそ)を用いたり。垂味噌は今田舎(いなか)にて用ふたまりのこと也。……醤油の名、庭訓往来及下学集(かがくしゅう)に未記之。節用集に始て有之……」とある。》

出典:安田女子大学図書館

また、室町時代初期、応永年間(1394~1428)の『庭訓往来(ていきんおうらい)』の往復書簡の中には、
「不審千万之処、玉章忽到来。更無貽余欝。」(御無沙汰のため、あなたの御様子を心配しておりましたら早速お手紙を頂戴いたしましたので、気持ちが晴れ晴れ致しました。)…(略)…「能米・大豆・秣・糠・藁・味噌・醤・酢・酒・塩梅、并、初献料、海月・熨斗鮑・梅干。」…(略)…「或買之、或乞索之、令進候。猶以、不足事候者、可給使者也。」(これらを購入したり、探して、貴殿にお届け致しましょう。このほかに必要なものがあれば、遠慮なく使者を遣わして下さい)
とあります。
室町時代・初期は、まだ「塩」の時代であり、「醤(ひしお)」の時代であったと考えられています。

日本においては「しょうゆ」という語は、室町時代に、日本で初めて「醤油」の文字が文献に現れました。「醤油」という言葉が初めて出てくる文献は、室町時代・中期から後期にかけての古辞書『文明本 節用集』文明6年(1474年)に、「漿醤あるいは醤漿」という記載があります。
そして、京都相国寺鹿苑院の歴代僧録の日記、天文5年(1536年)の『鹿苑日録』(ろくおんにちろく)には「漿油(シヤウユ)」が、1559年の中流貴族の権大納言 山科言継(やましなことつぐ)が著した日記『言継卿記』(ときつぐきょうき)には「シヤウユウ小桶、遣之」(シヤウユウを小桶に入れて贈り物とした)といった表記が、永禄11年(1568年)の『多聞院日記』(奈良興福寺の一院である多聞院の記録)では、「醤油」「正ユウ」の名が出てきます。このように、「醤」から「醤油」への変化がこの時代に見てとれます。

そして、安土桃山時代、慶長二年(1597)には「易林本 節用集」(えきりんぼん せつようしゅう)に「醤油」という名称が見られ、調味料としての液状「醤油」が定着したようです。


金沢の本膳料理(復元)

室町時代は、武家が公家社会のしきたりを次第に吸収し、礼法が確立していきます。禅宗を中心に起こった武家文化は、室町時代になると茶道や本膳料理(ほんぜんりょうり)が武家社会の礼法(主従関係の確認の場)として生まれた。
この時代、四種器(よぐさもの)の調味料の他に、味噌や醤油、味醂、酢といった現代のものに近い調味料なども使われるようになり、今で言う
「たまりしょうゆ」の原型が出来上がったとされています。当時は貴族階級や武家社会でしか使われない高級な調味料でした。

文献上に「たまり」が初出したのは江戸時代初期の1603年(慶長8年)に刊行された『日葡辞書』で、同書には「Tamari.Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」との記述があります。日本イエズス会が刊行した『日葡辞書』は、来日ポルトガル人宣教師が布教のために編纂した日本語辞書です。
(文献に登場し始めた時代の「たまり醤油」は、原料となる大豆を水に浸してその後、蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたものです)


戦国・安土桃山時代

安土桃山時代は商工業の発達によって、東は下総の野田や市川、西は播磨竜野(1587年)や紀州湯浅(1580年頃)などで醤油醸造業が興りました。慶長2年(1597年)に刊行された日常用語辞典である『易林本節用集』(えきりんぼんせつようしゅう)の中に初めて「醤油」という名称が見られ、調味料としての液状の「醤油」が定着してきたと考えられています。この頃から醤油の醸造が盛んになり、当時の文化の中心地であった関西から工業化が始まりました。安土桃山時代は町人を中心とする貨幣経済が発達し、物資の流通も活発化して醤油も徐々に庶民に普及するようになりました。

 
『易林本中』の「醤油」の文字


江戸時代初期

江戸時代には醤油の工業的生産が始まりました。江戸時代初期は、醤油の原料に「大豆」と「大麦」が使われていましたが、江戸時代中期(享保17年)には麹菌を造るのに「大麦」だけでなく「小麦」も加えられるようになり、今日の濃口醤油に近い風味の優れたものが量産されるようになりました。時代が進むと大麦を混ぜる量は次第に減っていき、後に小麦だけが使われるようになったのです。
1716年刊の造酒製法(醤油造之法)の中に「友もやし」の記載があり、「醤油之糀(こうじ)を用いるを友もやしと云う」とあり、最初は醤油も酒と同じ「米麹(こうじ)」を使っていたのが、この頃になると醤油専用の「麦麹(種麹)」が考えだされ、それを使うようになりました。



醤油の製法と醤油樽
『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』正徳2年(1715)

『和漢三才図絵』には、「醤、和名は比之保(ひしほ)、わが国では俗に油の字をくわえる。まだ搾らないものを醤(ひしほ)というので、醤と醤油は別物としてもよい」(醤=諸味(もろみ)を圧搾したものが現代でいう醤油である)。また、「凡、市鄽(してん)之醤油皆用小麦也、用大麦者味不佳」とあり、大体、店で売っている醤油は小麦を用いている、大麦を用いたものは味が良くない。そして「然病人吃之不妨、蓋未醤及病油者、本朝庖厨一日不可無者也、猶華人尚麻油」そもそも未醤や醤油はわが国の台所で一日も欠かすことのできないものである。それはあたかも中華の人が麻油(ごまあぶら)を尚ぶ(たっとぶ)のに似ている。とある。

江戸時代初期は、醤油の産地や食文化を含めた文化は上方(関西)が中心で、温暖な気候風土と良質の小麦や塩などの原料を産出するなど、醤油醸造に最適な環境にあった播磨の龍野(1587年)や紀州の湯浅(1580年)、讃岐の小豆島(1592年)などの地域で発達しました。これらの醤油産地の記録から京都には竜野、備前、尼ケ崎の醤油が、大坂には湯浅、小豆島の醤油が主として需要されたようです。


寛文6(1666)年、それまでの醤油とは違う「淡口醤油」が龍野で誕生します。藩主の脇坂安政がこの増産に力を入れた結果、龍野の醤油は淡口醤油に切り替わりました。やがてこの醤油は、京都の懐石料理や精進料理などで使われるようになっていきます。

関西醤油の発祥地 江戸周辺の醤油発祥地

この後に、紀州湯浅で始まった醤油醸造が房総半島経由で関東に伝えられました。江戸という巨大な市場を控えた関東地方の醤油は、、利根川河口の銚子では1616年(元和2)、野田では1624年(元和10年/寛永元年)に、そして小野川(利根川の支流)の佐原で醤油醸造が始まりました。
銚子や野田の近隣には、良質の大豆(常陸)や小麦(下総、武蔵)、塩(行徳)があり、江戸川と利根川の水運を利用して醤油原料を入手できるなど、醤油の醸造業発達の要因が揃っていました。野田の醤油は江戸川を下り、銚子の醤油は利根川の長流を遡行し、関宿から迂廻して江戸川を下りました。共に高瀬船を唯一の輪送機関として江戸の市場へ出荷しました。
【天明元年(1781年)には、岩国藩の柳井津で「甘露醤油」というものが作られました。「再仕込み醤油」「さしみ醤油」ともいわれているものです】

江戸の消費需要が盛り上がるにつれ、日本全国から多種多様な物産が“海運”で運び込まれるようになります。1619年(元和5年)には、泉州堺の商人が紀州富田浦の250石積廻船を雇い、大坂より江戸への日常物資の木綿、油、酒、酢、そして醤油などを積み入れて、江戸まで海上輸送したことが菱垣(ひがき)廻船の始まりと言われています。1627年には、大坂に海上輸送の菱垣廻船問屋が成立し、紀州や大坂周辺の廻船を雇って菱垣廻船にしたて、幕府御城米や商人荷物を江戸に輸送するようになりました。

菱垣廻船画を見る-リンク

復元した千石船
全長29.4m、船幅7.4m、深さ2.4m、帆柱の長さ約27m、帆の大きさ18mX20m、荷物の積載可能量は千石積で150Ton

参勤交代の行われた江戸は消費都市として巨大化しつつあり、江戸では塩・木綿・酒・味噌・醤油・菜種油・紙などの日用品も一級品が求められました。醤油が生業として本格的に始まったのは上方(関西)が早く、江戸へ送られた関西の醤油は、下総などの関東醤油に比べて品質が優れており、江戸に「下る」品物は上等なものといわれ、多くの「下りもの」が江戸へ運ばれました。
「醤油」や灘の「酒」のように上方(関西)ものが品質がよく高級品であり、上方から江戸へ、極上の「醤油」や「酒」が樽に入れられて廻船で送られてきたことから「下り醤油」「下り酒」と呼ばれました。江戸で「下り醤油」と呼ばれた上方産醤油は、輸送費が掛かることから関東で非常に高価なものとなり、酒と値段が変わらないという時代もあったようです。江戸時代初期の関東で酒と共に上方文化の象徴として扱われた高品質の関西産醤油は関東産のものより2倍近く価格が高かったといいます。



江戸時代中期

江戸時代中期からは、醤油が庶民のあいだにも幅広く使われるようになり、醤油醸造が本格的に手工業化されます。醤油の原料は大豆と小麦です。これに、塩・糀・仕込みの水、燃料の薪炭や樽の材料などが必要です。これらの原料を買い集め、醤油を江戸に送るために、河川水運は不可欠でした。
江戸は、醤油製造の材料やそれを運ぶための利根川や江戸川の水運などの立地に恵まれていました。「行徳の塩,銚子・野田の醤油,佐原(さわら)の酒と醤油,流山の味醂など、有名な産業はすべて下総で、しかも、ほとんどが利根川流域でした。
関東平野の穀倉地帯から原料の大豆・小麦が、江戸湾に面する行徳からは塩が江戸川から運ばれるなど、江戸に近く江戸川・利根川などの水運の便など地理的条件に恵まれた下総国(千葉県)の野田・銚子などで醤油醸造が始まり、醤油生産の中心地として発展し、大消費地であった江戸に中心的に供給されました。


『下総国醤油製造之図』 歌川広重(1842-1894)

当時、関東に広まった醤油は、大豆を原料とする「溜まり醤油」でしたが、元禄時代から享保時代(1688~1736年)になると、江戸の人口が増えると共に生産量も増大するにつれて江戸商人が台頭し、関東の地廻り醤油(濃口醤油)の需要が増えました。関東地廻り醤油の産地は銚子、野田、土浦などでした。とくに銚子では宝暦4(1754)年、野田では天明元(1781)年にそれぞれ造醤油仲間が結成され、以後生産量を着実に増やしていきます。

関西から来る「下り醤油」に対抗して、江戸庶民の嗜好に合わせて工夫を凝らし、“大豆”と“小麦”を多用した香り高い「関東地廻り醤油」は、新鮮な江戸前の魚介類と相性が良く、「江戸前の味」に欠かせないものとなりました。また、独自の江戸食文化(寿司・蕎麦・うなぎの蒲焼きなど)が形成しつつあった元禄時代頃には、濃い口の地廻り醤油が江戸市場を独占するようになり、また、江戸における「下り醤油」の消費量は次第に減っていきました。ただし世間的な評価では、依然、下り醤油が名声を保っており、地廻り醤油は下に見られる傾向が続いてました。


商品経済の発達につれて幕府も年貢米を財政基盤とする体制から、商品流通に財源を求めます。元和年間(1615~1623年)には、既に問屋と仲買の明確な区別ができていました。
一般に、市売り・入札売り・相対売りの3つの方法で仲買に販売するものを問屋と呼びました。そして問屋から品物を購入して、地方や市中に転売するものを仲買といいました。江戸商業の中心をなす問屋商人の営業形態が、荷受(にうけ)問屋から仕入(しいれ)問屋へと変化していきました。

野田や銚子の醸造家は関西からの「下り醤油」に対抗するため“造醤油仲間”を結成し、江戸の問屋との交渉や、原料の塩の購入などを共同で行いました。また、酒・味噌・醤油問屋などの特定の商品を取り扱う専業問屋も増加し、業種ごとに問屋株仲間も結成され、商売の独占を認めるように変化し、幕府は問屋株仲間を公認して独占を許すとともに、その対価として冥加金、運上といった「間接税」の徴収を行いました。


醤油問屋行事が江戸町年寄りに提出した上申書によると、享保11年(1726)に上方から江戸に入った下り醤油は全体の76%を占めていましたが、安政3年(1856年)に江戸に入荷した156万5,000樽の内、下り醤油は9万樽、わずか6%以下となっています。このように下り醤油が減少し、江戸の醤油は上総・下総その他関東域からの地回り醤油となります。それでも下り物を高級品として尊重する気風は、江戸時代を通じて保たれました。

江戸の醤油の消費量の変化(1樽は約9リットル入り)
 1726年(享保11年) 13万樽(内下り醤油76%)
 1730年(享保15年) 21万樽(内下り醤油78%)
 1821年(文政4年)  125万樽(内下り醤油 2%)
 1856年(安政3年)  156万樽(内下り醤油 6%)


関東周辺から江戸へ入る回送品のことを“地廻り物”と呼び、醤油も「地廻り醤油」と呼ばれました。そして、1700年代に入って地廻り醤油の生産が飛躍的に増大し、「関東地廻り醤油」の品質が向上しました。それまで大坂から江戸へ菱垣廻船や樽回船(約1,700石積み=約250Ton)によって大量に運び込まれていた高価な「下り醤油」が減少し「関東地廻り醤油」が江戸市中の需要を賄うようになりました。

「下り醤油」が減少したのは、寛永年間(1624~44)に江戸川(利根川から分流し、野田・流山・行徳を経て東京湾につながる)開削工事が完成して野田から江戸へ、1隻の高瀬船で1000樽もの醤油が約1日で出荷され、また、帰り船で利根川沿岸の関東平野で生産された大豆・小麦などの原料が、野田や銚子の醤油生産地に輸送できたことも大坂から来る高価な「下り醤油」が激減した理由のひとつでした。

江戸時代には、薄口醤油、白醤油(小麦主体麹を食塩水で仕込む)も誕生しました。現在の「薄口醤油」に近いものが誕生したのは、龍野醤油の醸造の始まり天正15年(1587年)から後の寛文年間(1670年)に、当時、醸造業者の発案により醤油もろみに、米を糖化した甘酒を混入して搾った色がうすく香りの良い「うすくち醤油」(うす醤油)が発明され、独自の風味が、京・大坂の上方の嗜好に合い素材を生かす上方の食文化を作り出しました。
上方の味(関西)と江戸の味(関東)の分化は江戸中期頃であり、その嗜好の違い(濃味の関東、薄味の関西)は、江戸時代から今日まで続いています。



江戸時代後期


シーボルト著『NIPPON』の挿図で、左から「番人小屋」「醤油屋」「名主の住まい」である。江戸時代、長崎・出島のオランダ商館医として来日したシーボルトは(在日期間1823~1829年)長崎だけでなく江戸参府などを通じて多くの日本情報を収集している。

江戸時代後期の文政年間(1819-1829年)になると、江戸に持ち込まれた醤油は年間約125万樽と10倍となり、その内120万樽は安房、下総、常陸、武蔵、下野、相模などの関東物醤油、残り2万樽が上方醤油という状態になり、「関東地廻り醤油」が江戸に根付くことになりました。

江戸の人口100万人が超えたといわれ、町人の人口は60万~65万人と考えられています。この人口を養うためには膨大な食料が必要とされ、そこから寿司・天ぷら・蕎麦・鰻の蒲焼などの日本的な食文化が形成されました。これに欠かせないものが醤油でした。
(参考:この時代の大坂の人口は、30万人から40 万人台、京都で約40 万人であった)


天ぷら(海老天ぷら)

江戸前寿司

蕎麦

江戸前大蒲焼
江戸に根付いた「関東地廻り醤油」は、江戸食文化特有の料理が発達して、江戸前寿司そば・天ぷらに、そして、江戸名物の第一とされた鰻の蒲焼き等に地回り醤油を使った外食産業が出揃い、味も江戸の人々の嗜好に合わせて、今日の濃口醤油に近い関東風の醤油になりました。江戸時代の幕末には醤油は煮物・吸物・焼物などの各料理に、また付け汁や掛け汁としても使われる庶民の調味料として定着しました。


明治時代
明治時代には醤油は庶民の生活必需品として定着し、消費量が増えていきました。醤油産業もまだ手工業的要素が強く、明治中期までは江戸時代の延長で醤油醸造が行なわれており醤油醸造の近代化が進んでいませんでした。
日本の醤油産業は明治15年以降に西欧の科学知識が導入され、味噌・醤油の旨み成分の微生物学的、化学成分的研究が進みました。その結果、明治時代以前は醤油の製造に種麹を使用することがほとんどなく、蒸した穀物に自然に発生したカビや前回製造した麹の残りを混合して麹を造っていましたが、明治中期以降には醤油製造に種麹が使用されるようになり、醤油製造設備も原料貯蔵、原料処理、製麹、仕込み、圧搾・火入れ、詰め、輸送などすべての工程で近代化が進みました。
明治の末期には、全面的に諸味の加温を採用して醤油を市場に提供する企業が現れますが品質に問題があり販売を中止しました。諸味の加温など現在に繋がる各種速醸法の研究が歩みだしました。



大正時代
第一次世界大戦後(1918年)の好景気で醤油が一気に増産され、家庭へ普及しました。大正期以降には家業的醤油生産から会社化され、醤油製造の機械化などの近代化や醤油醸造業の合併や企業合同による近代企業の設立によって大量生産体制に移行していきました。醤油工場の設立は、大正9年(1920)以降生産過剰をもたらして過当競争時代を迎えることになりました。


昭和時代
昭和になるまでは、多くの醤油は江戸時代後期に確立した醤油醸造法とほぼ変わらない製法で作られてきました。しかし、現在では一部の「手づくり醤油」を除いては自動化された大量生産の工場で造られています。昭和の初め頃には、原料が丸大豆から脱脂加工大豆が使われるようになります。さらに、戦後の原料不足により、本物の天然醸造(本醸造)醤油が次々と姿を消していきました。
昭和30年(1955)になると著しい技術革新が行われて製麹技術が人力から全工程にわたり設備が刷新され機械化が進みました。その後、もろみ管理技術の著しい進歩によって従来は一年ないし一年半の期間を要した醤油醸造が3ヶ月から半年足らずの期間に短縮されるという早醸技術まで進歩しました。



現在
平成から令和に変った現在では、消費者の本物志向・自然志向により、日本の伝統製法で大豆・小麦・塩水だけを使い天然熟成させてつくる「天然醸造(本醸造)醤油」が再び見直されています。昔ながらの醸造方法で作られる天然醸造醤油には、他に調味料を加えなくても、十分なコクと旨みがあります。人間が作り出す調味料がどんなに発達しても、微生物が作り出す天然の“うまみ”を再現することはできません。同じ本醸造醤油といっても、加温し発酵熟成を早め、約半年の短期間で大量生産する醤油大手メーカの本醸造醤油と昔ながらの長い年月をかけて日本伝統製法で造られる「天然醸造(本醸造)醤油」とは全く醸造(熟成)方式が違う醤油です。

醤油製造業の全国事業所数は、平成28年度で1230社あまり。醤油製造業は大手メーカーの寡占化が進み、上位5メーカーで全国の総出荷額の53%を占めています。
しかし、同じ「濃口醤油」と言っても、製造メーカーや地方特有の食文化から、味はかなり異なっています。例えば、九州の醤油の濃口醤油でも関東のものに比べ甘みが多く、同じ濃口醤油でも「うまくち醤油」と呼称して区別する場合があります。醤油製造メーカによって醤油の味に“特色”が出ます。醤油の旨味は、冷や奴や刺身に用いると醤油が持つ味の違いがわかります。
各地で長い歴史と環境のもとに育まれた各地方独自の食文化に応じた地方色豊かな醤油が、自分の好みにあった醤油を探す多様な消費者に求められる時代になったといえます。



日本から世界へ

日本から海外への醤油の輸出は、江戸時代のオランダ 貿易に始まり、ヨーロッパだけでなく中国やインドにも運ばれていた記録があります。
日本の濃口醤油は、江戸時代後期には鎖国状態だったにもかかわらず、日蘭貿易の最盛期・1650年頃から明治末期頃まで、欧州に向けて長崎の出島からオランダ商人らによって、醤油を伊万里焼の瓶に詰め、「金富良(こんぷら)醤油」の名で輸出されていました。その量はコンプラ瓶の1年間の生産量から推測すると年間40万本(約200KL)にまで達していたようです。輸送に用いられた「コンプラ瓶」は陶器製で、密栓をした後、栓を覆うように瀝青(れきせい=コールタール)を塗ったと記録されています。
このコンプラ瓶の瀝青により、醤油の香気成分の揮発や、酸化劣化が抑制され、諸外国に輸出された醤油の品質はまったく劣らなかったそうです。コンプラ醤油は宮廷や王室専用の調味料として貴重品に扱われていたようで、フランスのルイ14世が宮廷料理に、肉料理の隠し味に醤油が用いられました。ヨーロッパ人が醤油を知ったのは、18世紀フランスのディドロによる『百科全書』の記述が最初でした。日本の伝統的な発酵食品しょうゆの輸出は「日本食文化」の輸出と言えるでしょう。

醤油は大豆と小麦粉を原材料とし、その汎用性の高さから万能調味料とも呼ばれる日本の食卓には欠かせない調味料の一つです。醤油の全国需要は年間約80万キロリットルにもなります。昨今の健康食・日本食ブームからその利用は国内に留まらず、世界各国へも多く輸出されており、その国々で広く受け入れられています。
海外での醤油需要は健康志向による日本食ブームを要因として醤油の輸出量が年々増加しています。現在、醤油はアメリカ、中国、オーストラリア、英国、韓国、香港、フランスなど、世界各国67カ国(平成27年度)に輸出されています。主な輸出先は、北米、東南アジア(中国含む)を中心に欧州、オセアニア、南米などです。東欧やロシアを含めた欧州でも、醤油の市場は急速に成長しているようです。さらに、南米やアフリカなどでも、肉との相性がいい醤油は市場拡大の可能性があります。醤油の全世界への輸出実績は、平成21年(2009年)の20,755トン(39.7億円)、平成26年(2014年)の26,433トン(51.8億円)、平成30年(2018年)には、40,901トン(77.3億円)へと増加(資料:財務省「貿易統計」)しています。(参考までに日本式醤油の海外での現地生産量は約23万KL)
日本の醤油はアメリカ、中国等を中心に万能調味料として認知されており、和・洋・中の様々な料理に使用されて、醤油は日本ばかりでなく世界の調味料「ソイ・ソース (Soy Sauce) 」として定着し、世界の食文化との融合を果たしつつあると言えるでしょう。




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