日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 江戸前寿司と醤油


すしの歴史


生魚を米と一緒に発酵されることで旨味が生まれ、保存も可能となる「すし」は古来より日本各地で作られてきました。江戸時代になると酢の普及にともない、酢飯を用いる「押しずし」が盛んに作られるようになります。そして文政年間(1818~30)には握った酢飯の上に味付けをした魚介をのせる「握りずし」が登場しました。
私たちが慣れ親しむ「江戸前の魚介」で、酢で締めたり、醤油に漬けたり、茹でて煮詰めをかけたりと具材の鮮度をによらない工夫がほどこされました。握りずしは江戸ではまずは屋台で広まります。次第にすし専門店も誕生し、気軽なものから高級なものまで幅広く多くの人に愛されるようになりました。(引用:おいしい浮世絵展 ~北斎・広重・国芳たちが描いた江戸の味わい~/株式会社蔦屋書店)


「すし」の名
「すし」の語源
「すし」の語源は江戸時代中期、元禄12年(1699年)に編まれた『日本釈名(にほんせきめい)』や享保2年(1717年)『東雅』の語源辞書で、その味が酸っぱいから「酸し(すし)」であるとした説が有力とされている。「すし」は「鮨」の字があてられるが、近畿では「鮓」が使用される。
現在よく見かける「寿司」の字は、江戸時代の当て字といわれる。「寿司」は「寿(ことぶき)に司(つかさど)る」にかけた意味。また、賀寿(長寿)の祝いの言葉を意味する「寿詞(じゅし)」に由来するとの説もある。
また、明治期に執筆された小泉清三郎『家庭 鮨のつけかた』(大蔵書店、1910年)には、
「当今では重(おも)に、鮓と鮨の二つが一般に行はれて、又 中には気取って、壽司などゝアテ字を看板に書く鮓屋などもあります。しかし、 此の壽司と云ふ文字は、無暗(むやみ)に縁喜(えんぎ)をかつぐ水商売の常套手段の名稱で、別段深い意味のあるものではないのです。」という説明がある。
つまり、江戸期に作り出された江戸前すしは「鮨」、それ以外あるいはそれ以前のすしは「鮓」、そして明治期以降、日本で一般化したすしは「寿司」の文字を使うとしている。
平安時代のすしの記述(参考文献:国立民族学博物館・日本大百科全書・他)
寿司は紀元前4世紀頃の東南アジアで誕生したといわれており、日本へ伝わったのは平安時代と考えられている。
平安時代の『延喜式(えんぎしき)』(927年)の「巻第二十四 主計式」には諸国からの貢納品が記されており、鮒鮨、年魚鮓、阿米魚(あめのうお=アマゴ)鮓などの字が見られる。延喜式には「酢」、「鮨」の文字が158件出現するが、そのうち原料が記されているものとしては、フナ・アワビ・イガイ・ホヤ・アユ・アメノウオ・サケ・オオイワシ・タコブネ・雑魚の魚介類のほかに、イノシシ(猪鮓=いすし)・シカ(鹿鮓=しかすし)の哺乳類のスシと雑鮨、手綱鮨(たづなずし)がある。
これらの古代のナレズシの中で「延喜式」の雑鮨、手綱鮨、平城京の出土木簡にある煮汗酢の実態は不明である。フナズシは「延喜式」では、河内,摂津,近江,筑後,筑前から貢納されている。 これらのすしの原料の内で、鮎では大和と紀伊が、猪、鹿では紀伊の名がみられる。
『延喜式』(主計寮式)には諸国からの貢納品が記されている。鮓を貢納する諸国の食材は淡水魚が中心で、地域的には九州北部(筑後,筑前)・四国北部・畿内(河内,摂津,近江)などの西日本がほとんどを占め、それ以外では北陸の一部(現在の富山あたり)だけである。
東海から関東、甲信越や北陸では貢納する諸国の名が見当たらない。当時の詳しい製法を知る資料には乏しいが、魚(または肉)を塩と発酵用の素材であった飯で漬け込み熟成させ、食べるときには飯を除いて食べる、「なれずし=ホンナレ(本成れ)」の寿司と考えられている。
(註)ナレズシには馴酢,熟酢,馴鮨,熟鮨の漢字があてられる。平安時代の《延喜式》には、どういうわけか鮓の字の使用が少なく、もっぱら鮨の字が使われている。
すしの名「寿司・鮨・鮓の違い」のまとめ
すしの漢字表記といえば「寿司」が最も一般的であるが、寿司屋の看板などで「鮓」や「鮨」という字を見かけることがある。「鮓」と「鮨」の字は、昔はそれぞれ魚料理の「漬魚=つけうお」と「魚醤=うおびしお」を意味していた。そこに「すし」という読みがなを当てた。
「鮓」は魚を発酵させてつくる鮒鮓(ふな寿司)などの馴れずしを指し、「鮨」は〝鮓〟以外の握り鮨、押し寿司、棒寿司を指すとも言われている。「寿司」は、おめでたい意味の当て字を使ったもので、朝廷に〝鮓〟を献上する際に使われていた。今日では、寿司の字は、いろんな〝すし〟の総称として用いられている。
寿司が庶民の口にも入るようになった江戸時代、江戸では「鮨」、大坂では「鮓」が使用されていた。「すし」という読み方の起源は、江戸時代、シャリの酸っぱさから「酸し」と呼ばれるようになったことと言われている。

江戸時代、すし屋の概要
伝統食「すし」の変貌とグローバル化(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第24号、並松信久)より、以下を引用する。
「現在に続く江戸前鮨が誕生したのは、約200年前の江戸期・文政年間(1818~1830年)であったとされる(すしの起源については諸説あるが、とりあえず江戸前鮨を対象にする)、江戸風俗文化の研究家である三田村鳶魚(えんぎょ)(1870-1952)によれば「鮨が盛んになったのは、往来の屋台店で食物を売るようになってからのことで、これは天明の飢饉から始まったのだが、それがだんだんに(中略)屋台店の種類が殖えてきて、それがために、鮨の立食いが始まったのである」という。
握り鮨の定着とともに、すし屋の数が急速に増えた。握り鮨誕生前の1811(文化8)年では、すし屋の数は217軒であった(『類集撰要』)。この時のそば屋の数は718軒であったので、すし屋の数はそば屋の3分の1ほどであった。ところが、握り鮨が誕生した後、すし屋の数がそば屋の数を上回るようになり「江戸は鮓店はなはだ多く、毎町一、二戸。蕎麦屋一、二町に一戸あ り。鮓屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世は専らこれを置く。また 屋たいみせのみにて売るも多し」という状況になった。
すし屋の場合、屋台店は高級店ではなく、その屋台店には屋台専門の店と、一般店(内店)が屋台を店舗の傍らに出していたものがあった。『守貞謾稿』が刊行された1853(嘉永6)年には、すし屋の数がそば屋を上回っていたとすれば、1811(文化8)年から1853(嘉永6)年までの約40年間で、すし屋の数は217軒から700軒以上に増えたことになる。すし屋は握り鮨を出すようになって、その数を増やし、会席料理屋のメニューにも握り鮨が加えられるようになった。」



発酵食品、ふなずし(なれずし)が寿司の原点
「熟れずし(なれずし)」とは、塩漬けした魚介類を米飯に漬け込み、自然発酵させた発酵食品の総称である。ふなずし、さばなれずし、いずしなど、日本各地に地方色も豊かに多種類伝わっている。中でも、最も古い形態を残しているのが平安時代から存在する「ふなずし」である。
作り方は、まずえらを取り、そこから 内臓を除去する。魚卵は体内に残したまま腹腔ヘ食塩を詰め込み、それを桶中に何層にも重ねた状態で重石をして塩漬けにする。そのまま約1年ねかせたら、塩を全部洗い出し、次に米飯に漬け込み、さらに約1年間熟成させる。米飯漬け作業は夏の土用の頃に行い、急激に乳酸発酵をさせることで腐敗菌や食中毒菌の増殖を抑える。
この発酵過程は嫌気性であるので、重石をして、さらに押し板の上を水で満たして気密を保つようにする。こうした手間ひまを経て、乳酸発酵によるにおいと酸味の強い個性的な発酵食品、ふなずしが出来上がる。
室町時代になると、もう少しにおいが弱く、できあがるまでの日数も短い、いわゆる「生成れずし」が作られるようになった。これも乳酸発酵を利用しているが、熟れずしより米飯が形をとどめ、この米飯も魚とともに食するのが一般的である。 和歌山のさば熟れずしなどがそれで、今日でもまだ各地に残っている。
その後、東北や北海道では麹を用いるいずしが考案された。麹を用いるのは寒冷地で発酵を早めるための工夫といわれるが、それでも発酵が不十分だと生臭みが残るため香辛料や野菜が一緒に用いられる。いずれも魚と 米飯を一緒に乳酸発酵させるのが基本である。元禄時代になると、「早ずし」といって、米を乳酸発酵させずに、酢を用いた米飯(酢飯)と魚をともに食すようになり、それが現在の「握りずし」へと変遷していった。 ・・・「多彩なる魚介の発酵」藤井建夫(東京家政大学生活科学研究所所長)


すしの原型ナレズシから箱ずし、江戸の握りずしへ
奈良時代以前に、寿司の源流となる塩漬けにした魚を米飯に漬け、乳酸発酵させて一年以上かけてつくる「なれずし(熟れずし)」が日本に登場したが、当時は「魚の保存食」であった。こうして漬けられた魚(熟れずし)は神撰用であった。
次に「なれずし」から「生成れ(ナマナレ)」すしへの変化が始まる。 室町時代になると、酢を一部加えて発酵を早めた押しずしの一種、いわゆる「生成れ」ずしが出現した。



鎌倉時代から室町時代、公家や武家の残した諸記録、日記類に数多く見られる寿司は、生成れのすしである。生成れのすしでも多いのが、フナずし、アユずしを主要にフナ生なれ、コイ生なれ等の記録である。
室町時代の書物『蜷川親元(にながわちかもと)日記』(1473-1486年)によれば「生成れ」、または「半なれ(半熟れ)」ともよぶ寿司が登場している。「生成れ(ナマナレ)」は、漬け込む期間を短くし、魚の発酵を浅く止め、これまで除かれていた飯も共に食した寿司のことである。生成れ(ナマナレ)が寿司の呼び名として分かるのが日本耶蘇会の刊行した『日葡辞書』(1603年)に「ナマナリスシ」と出てくるのが最初である。

そして、江戸時代からは「酢」を用いた例が散見されるようになる。寿司に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、魚を自然発酵させずに飯に酢を混ぜ、魚の他、野菜や乾物などを用いて食する現在の“握りずし”の原型となった「早ずし」が誕生する。すしに酢を用いた「早ずし」を広めたのは江戸の医者で4代将軍綱吉の御典医になった松本善甫ともいわれている。この早ずしとは酢と塩で飯に味を付け、飯の発酵を待たずに食べる。
早ずしは、飯に酢と塩で味付けした酢飯を箱に敷き詰め、すしダネを並べて落し蓋を落とし、重しをかけて1日で食べられるように作る「押しずし」のこと。この押しずしは、四角い箱に詰めて押しかためたところから、「箱鮨」ともよばれた。

早すし

江戸初期の頃までは室町時代のすし形「生成れ」を受け継いでいる。江戸に上方の押し鮨(早ずし)が京都から伝えられ、押し鮨(早ずし)が江戸で売られるようになるのは元文から延享年間(1736~1748年)の頃とされている。宝暦年間(1751年)頃になると、立ち売り屋台で四角い箱に並べた押し鮨(早ずし)が売られるようになる。そして、押し鮨を作る時間を短縮するために即席の押し鮨として生まれたのが「握りずし」である。

江戸前のすしとは、江戸湊(湾)とその近海で獲れた魚を酢飯にのせて握った“握りずし”にしたもので、江戸時代後期の文政年間(1818~1830年)に「華屋與兵衛」(はなやよへい)が考案したという説が有力である。華屋與兵衛は早漬けずし(早ずし)の開発を試行錯誤する中で尾州半田の「粕酢」と出会い、ワサビを用い、コハダを主とする当時「握り早漬け」と呼ぶ客の目の前で握って即座に食べられる握りずしを作った。こうして、現在の握り鮨の原型である江戸前寿司が誕生したと言われている。

花屋与兵衛の用いた酢は今までの米酢ではなく風味ある濃厚な色の酢で粕酢である。粕酢醸造図(中埜酢店蔵)によると、粕酢が創業されたのは文化元年(1804年)のことで、尾張の半田村の中埜酢店の初代中埜叉衛門が、当時利用のすべのなかった酒粕からの酢作りを発想したものである。花屋与兵衛の“握りずし”は、この粕酢と解毒剤の働きのワサビの風味が江戸の人々に受けて江戸の名物となった。

 
「東都名所 高輪廿六夜待遊興之図」歌川広重、天保12-13年頃(1841-42)のすしの屋台


■すしというもの
○鮨
すしとは飯に酢をうちたるを鮓にそえ、また蔬菜(そさい)を煮て加えたるものをいう。其のままなるを、ちらしといい、はこに入れておしかためて切るを、おしずしといい、握りまろむるを、にぎりずしという。さてすし飯は普通の飯と大に異なり、よほど水を減じて仕掛け、たきたる後も、むらし方を短かくし、手早く木鉢の類にうつし、すぐ飯杓子を以てうけながら、酢(一升に上等酢一合、塩、盃一杯の割合にて、前以て混和し置くべし)を一様にふりかけ、団扇にてあおぎながら、飯杓子にてかきまぜ、全くひえたる後、随意のすしに裂するなり。若しあおぎ足らざる時は飯に水気あまりて風味を損い、且つつやを発せず。すし種は季節により多少異なり、春は白魚、ひらめ、さより、鯵、ます、小鯛、あなご、おぼろ等を主とし、夏は車海老、鮑、きす、あじ等を主とし、秋は、さば、鮎、こはだ等を主とし、冬は赤貝、いか、鳥貝、海苔、たまご等を主とす。但し海苔巻たまご巻は四季に通じてよし。
○にぎりずし
「すし飯をよき程ににぎり、魚肉をそぎて、すぐ其のままあるいは煮、あるいは酢につけて置きたるを、あるいは焼たまごを其の飯の上にのせて製す。皿にくま笹などを敷き、まきずしにまぜて体裁よく盛るべし。また、すしには総べてしようがを添うべし。しようがは薄くへがすか、せんに打ちて水につけ、酢塩に浸しおきて酢を切り用いるべし。さて魚肉の調理は種々あるべけれど、まず、たい及びまぐろは生にて用い、おろしわさびを肉との問に少しづつ入れ置き、醤油をつけて食す。こはだ、さより、きす、赤貝などは酢につけ、いか、たこ、鮑等は煮て、たれ(醤油に砂糖あるいは味醂を加え、葛粉少しを水にときで加え煮つめたもの)を肉の上に塗り、やきたまごは薄く短冊形に切りて用いる。」
○まきずし
「乾海苔をあぷり、又たまごを薄く焼き、いずれにても竹簀(たけす)の上にのべ、手に酢をつけて、其の上にすし飯をかたよらぬように押しひろげ、煮たる干瓢三、四本を中心に入れて簀ながら巻き、これを小口より厚さ四、五分に切るなり、但し庖丁に酢をつけながら切れば、飯のつきて切り悪きことなし。」
同じ海苔を使ったすしでありながら、関西と関東では名前の呼び方や素材の扱い方に違いが見られる。まず、関西では「巻きずし」、関東では「海苔巻き」。その中身も昔関西には細巻きはなかったので、すべて「巻きずし」と呼んだ。江戸の巻きずしは細巻きでそれに対し、一枚巻き以上の太い海苔巻きを「大巻き」(フトマキ)と呼んだ。この江戸の大巻きは、海苔も1枚半が一般的で2~3枚使い巻き上げたものである。具は時によりいろいろ異なるが、たまご、オボロ(デンブ)カンピョウ、シイタケなどは欠かせない材料である。海苔の扱い方では関西は焼かない海苔で巻き、関東は焼いた海苔を使って巻いて作られる。
○いなりずし(稲荷ずし)
天保4年(1833年)11代将軍家斉のとき諸国に飢饅が起こった。それから天保7~8年と飢饅があった。このころの名古屋で油揚げの中に鮨飯を詰める稲荷鮨が考えられた。飢饅で米が不作となり、最初は甘く煮た油揚げを袋状に開いてた中にオカラを詰めて作られた。天保の末年(1844年)には「稲荷寿司」を売り歩く「振売り」も現れたという。
稲荷ずしにっては不明な点が多く、『天言筆記』に「...さる巳年(1845年)10月頃より 稲荷ずし流行せしり。本家は平永町(現在の神田須田町1丁目)にて筋違(須田町の北、昌平橋と泉橋の間)の内に出る。其の後所々へ出る。此のすしは、豆腐の油揚げに、飯、豆腐のカラ、色々のものを入れ、一つ8文なり。甚下直にて、わさび醤油にて喰するなり、暮時より夜をかけて往来のしげき辻々に出て商うなり。弘化3年(1846年)の春になりても・益々大繁盛なれば...」。そのころ、稲荷ずしのような下直な食べ物を山葵醤油を使用したもので食べさせたとある。
 また、『守貞護稿』に「天保の頃(1830~1844年末)、江戸ニ油アゲ豆腐ノー方ヲサキ袋状ニシ、 木茸、干瓢等ヲ刻ミ交ヘタル飯ヲ納テ鮨トシテ売巡ル。日夜売ㇾ之ドモ、夜ヲ専ラトシ、行灯ニ華表ヲ画キ、号テ稲荷鮨、アルイハ、篠田鮨ト云い、トモニキッネニ因アル名ニテ、野干(狐の異名)ハ油揚ヲ好ム者故ニ名トス。最モ賊価鮨也。尾(尾張)ノ名古屋等従来有ㇾ之。江戸モ天保前ヨリ店売ニハ有ㇾ之興。蓋両国等田舎人ノミト専ラトスル鮨店ニ従来有ㇾ之興也」
 
稲荷ずしは、天保の末年(1844年)には、屋台や稲荷鮨を売り歩く振売りなどを通じて江戸の市民にも親しまれた。
稲荷ずしの名まえについては、油揚げを狐が好むといわれているところから、キッネを霊獣とする稲荷信仰と関連させて、稲荷ずしと呼ばれるようになった。



江戸前握りずしの誕生

江戸時代初期の寿司は全てが「なれ鮨」であったが、江戸中期には醸造酢を用いてつくる寿司が開発され、即席で寿司ができるようになったので、これを「早ずし」といった。「早ずし」は一晩で出来上がることから、「一夜漬けずし」、「当座ずし」などともいった。アユ、サバ、アジなどの姿ずし、枠に入れて圧力を加える押しずしなどもできてきた。酢を使った「早ずし」の登場は、押しずしや握りずしへと発展していった。
江戸前の握り寿司が登場したのは江戸時代の後期、18世紀に入った頃の江戸で、新鮮なネタで寿司を客の前で即席で握るという発想で生まれた。この「握ったすし」を「江戸前寿司」と言ったという。

庶民の食文化が発達した江戸時代、醤油、味噌とともに〝酢〟も庶民の食生活に普及した。この時代、江戸の町には屋台を中心とする外食産業が普及し、その中で「握りずし」が世に登場する。元禄のころには酢を使うことが一般的になり、その後、文政年間に酢飯と生魚を合わせて握る「握りずし」が生まれた。
それ以前は寿司といえば、関西が発祥の「押し寿司」だけであったが、町人文化が栄えたこの時期、江戸の町に多く見られた屋台で、江戸前浜の海で獲れた魚介類と海苔を寿司ネタとして使った。この江戸発祥の寿司を「江戸前寿司」という。

江戸前の海の多用な魚貝を「握りずし」として成立させるために、江戸の後背地、利根川や江戸川の海運によって成長した野田や銚子の「濃口醤油」や「酢」の醸造場の発展もあった。濃口醤油(関東地廻り醤油)は、これまでの上方の下り醤油とは異なり、小麦を使うことにより香りの高い醤油となり、江戸前の魚料理に合う醤油であった。

江戸の町には早ずし等と言われ屋台の握り鮨屋が既にあったとされている。その中から財を蓄えた商人や宵越しの銭を持たない江戸っ子気質に後押しされ高級を売り物にする鮨店が店を構えるようになった。
江戸の両国・回向院門前(両国広小路)にあった「興兵衛ずし」もその一軒であった。江戸風の握りずしは「興兵衛ずし」の華屋与兵衛(はなや よへえ)により、店を出した数年後に創作されたといわれる。

1830年ごろ作られた握りずしは、庶民に広がり1849年の『守貞謾稿』に「江戸ハ酢店甚ダ多ク毎町三戸蕎麦屋三町ニー戸アリ」とあるように急速に江戸の町に広がった。『守貞謾稿』によれば「握りずし」が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず、文政末には大坂の戎橋南で〝松ノ鮓〟が江戸風の握りずしを売り始めた。

 
江戸後期の歌川広重「鮨 団扇絵」 ,喜多川守貞「守貞謾稿」の江戸鮓と押しずし(箱鮓)



握りずしの始祖「華屋与兵衛」

握り寿司の発明
江戸後期江戸で「寿司」といえば、もともと押し寿司であったが、1800年代初め以降、握り寿司が考案されると徐々に広まり安政の頃(1854年頃)には、江戸で寿司といえば握り寿司だと「守貞護稿」にある。握り寿司の考案者は『家庭 鮨のつけかた(小泉清三郎著)』では、「与兵衛鮓」の華屋与兵衛であるとされ、一方『嬉遊笑覧』には「松の鮓」の堺屋松五郎であるとされるなど諸説ある。

華屋与兵衛の「与兵衛鮓」
江戸の町に初めて寿司屋が登場したのは貞享年間(1684~1687年)のことであった。この頃の寿司はまだ関西風の箱ずし・押ずしで、上方から伝えられたものである。その後に登場するが手で握る早ずしで、これが改良されて江戸式の握りずしが登場したのが江戸時代後期の文政年間(1818~1830年)であった。



江戸前寿司は、白米であるシャリの上に魚の切り身をのせた「握りずし」で、考案したのは本所元町のすし屋『華屋与兵衛』(はなやよへい)といわれている。「握るすし」というのは華屋与兵衛以前にもあった。しかし、それは、小さく握った飯の上に魚を貼り付け、箱の中で笹の葉(熊笹)で仕切りをして押しをかける「箱ずし」であった。

華屋与兵衛は、この手間と押し付けることで魚の脂分が抜け出てしまうのをきらった。与兵衛は、その場で「握り早漬け」という、握った酢飯に、下ごしらえした魚の切り身をのせただけで、すぐに食べられる「握り寿司」を編み出した。
当初は、岡持ちを持って岡場所(私娼窟)を夜明け頃まで街中を歩き売りしていたが、人気が出て繁盛すると、文化七年(1810)に江戸本所横綱(現在の墨田区両国)に屋台見世を出して、客の目の前で寿司を握って商売を始めた。その後、文政七年(1824)、江戸の尾上町(両国回向院前)に「華屋」という店を構え、与兵衛はコハダやエビの握りずしを「与兵衛鮓(すし)」として売り出した。
また、与兵衛鮓はタネと酢飯のあいだに “ワサビ” を挟ませた。これが評判を呼んで、他にも握り寿司を出す店が江戸中に広がった。

華屋与兵衛は、いろいろ試みた末に、酢でしめた握り飯の上に江戸前で取れる新鮮な魚の切身をのせ、それを掌で握りしめて客に出した。華屋与兵衛の用いた酢は、今までの「米酢」ではなく風味ある濃厚な色の酢で「粕酢」である。魚を下ごしらえした上で、酢飯にのせることや、“ワサビ”を挟むやり方も与兵衛の考案になるという。
しかし、当時ワサビを入れるのはマグロ(守貞漫稿ではマグロ刺身という)とコハダだけだったようである。 こうして誕生した握りずしは、手軽な屋台料理として粕酢とワサビの風味が江戸っ子にもてはやされ、瞬く間に江戸市中に鮨の立食いが拡がった。

当時の握りずしは大きく、今の握りが一口で食べられるのに対し、当時の握りは「一口半」から「二口」もあり、口にほうばるぐらいの大きさがあったという。
握りずしの屋台では、ツケ台に大きな握りずしを並べて置いてあり、江戸っ子は2個、3個を買い、立って食べるという立ち食い形式が一般的であった。後に、その大きさでは食べにくいと言うことで二つに切って供したのが、二貫ずつ出す寿司のはじまりと言われている。


『偲ぶ与兵衛の鮓』の絵/小泉清三郎著
 
左上から、小鯛、その下がミル貝、キス、イカの輪切り(胴体にシャリを詰めて輪切りにした寿司)。小鯛の横が白魚、その下の赤いのがマス、コハダ、下にアジ、海苔細巻き、赤貝。右上が鮎の姿寿司、その下が厚焼き玉子と海苔太巻き、下に車エビ、サバの押し寿司。
『偲ぶ与兵衛の鮓』画では、イカの輪切り、白魚、厚焼き玉子、車エビのシャリには、米飯の中に海苔やしいたけを甘辛く刻んだものと白身魚やエビを調味して炊いたオボロを混ぜている。


『偲ぶ与兵衛の鮓』の絵を元に江戸前寿司を再現 (東京 日本すし学院 川澄 健)
左上から、小鯛、白魚煮付け、しめさば、稚鮎の姿酢じめ、白ぎす酢じめ、づけ鮪、車海老、煮いか、小あじ、赤貝、サバずし


江戸三鮨

「江戸三鮨」の有名なすし屋は、屋台ではなく店構えであった。「江戸三鮨(えどさんすし)」と謳われたのが、両国東の「與兵衛ずし」、深川安宅六軒堀の堺屋松五郎の「安宅(あたけ) の松が鮓」、竈河岸(へっついがし)の「笹巻毛抜鮨(ささまきけぬきすし)」である。

「與兵衛(よへえ)鮓」華屋与兵衛
華屋与兵衛は福井藩の出身である。九歳の時に江戸・蔵前の札差「板倉屋清兵衛」方に下男奉公に入り、十数年間勤め上げ、二十数歳で板倉屋を退いた。その後は古道具屋、干菓子屋等々と何度かの商売を変えた末に握りずしを考案したと伝えられている。
文政年間(1818年~1830年)に当時住んでいた本所横綱の近くで毎夜、松井町界隈の岡場所を夜明けごろまで握りすしを売り歩き、尾上町(両国回向院前)に小さな店を構え「與兵衛ずし」の看板を上げたという。この店が「松が鮓」と同じく武家屋敷からの注文も多く 『こみあいて 待ちくたびれる与兵衛鮨 客も諸とも手を握りけり』(安政3年・1856年『武総両岸図抄』-「与兵衛鮨」)という狂歌があるくらい江戸中の評判となった。
また、天保7年・1836年『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』に書かれた「與兵衞鮓」には、以下のように記されている。
『流行鮓屋町々在 此頃新開两國東 路地奥名與兵衛 客来争坐二間中』・・・「江戸の町々に、はやりのすし屋があるが、最近、両国東の路地奥に与兵衛鮓というのが出来て、 二間(ふたま) ほどの店だが客が席を争っている」。
笹巻毛抜鮨(ささまきけぬきすし)
元禄15年(1702)に初代の松崎喜右衛門が竈河岸(へっついがし : 現在の日本橋人形町付近)で創業。笹の葉で巻いた押し寿司の一種で、保存食とするため飯を強めの酢でしめてあるのが特徴で、寿司だねも塩漬けで1日、酸味の強い酢(一番酢)で1日、次に酸味の弱い酢(二番酢) で 3日から4日漬ける。巻き寿司や握り寿司に比べて歴史が古く、巻いた笹を外すと握り寿司と同じ姿が現れる。

写真:創業元禄十五年「笹巻けぬきすし総本店」 (笹巻毛抜鮨とは、すしダネの鯛、コハダ、海老、白魚、さより等の魚を1週間ほど塩に漬け、さらに酢でしめた後、毛抜きで魚の小骨を抜き、酢の利いた飯と一緒に熊笹の葉で巻いたものである。)

幕末に書かれた喜田川守貞の近世風俗志「守貞謾稿 巻之六」(嘉永6年-1853刊)には、『毛ぬきずしと云ふは、握りずしを一つづゝくま笹に巻きて押したり。値一[つ]六文ばかり。毛ぬきずしの他は貴価のもの多く、鮨一つ値四文より五、六十文に至る。天保府命の時、貴価の鮨を売る者二百余人を捕へて手鎖(てぐさり)にす。その後、皆四文・八文のみ。府命弛(ゆる)みて、近年二、三十文の鮨を製すものあり』とある。
毛抜鮓〔笹巻けぬきすし〕の調理方法が『守貞謾稿』に記載されている。すしダネを酢飯にのせて笹で巻き、桶(おけ)に入れて上から重しの石を置く。仕込みの段階で「毛抜き」を使い、魚の小骨を丁ねいに抜いてたことから「毛抜すし」と呼ばれた。

安宅の松が鮓
関西泉州境生まれの堺屋松五郎が深川安宅六間堀(現在の江東区)に「松が鮨」を構えたのは、華屋与兵衛の「與兵衛ずし」から6年遅れての文政13年(1830)である。地名から安宅の鮓(あたかのすし)とも呼ばれたが、「松が鮨」、「安宅松が鮨」、「松の鮨」ともいわれている。
やがて、「松が鮨」は江戸中で、「玉子は金のようで、魚は水晶のようだ」と美しさをたたえられる贅沢寿司となり、「松ヶ鮓 一分ぺろりと 猫が食い」とも川柳にも詠まれている。(一分とは銀一分=一両の四分の一。高価な鮨である。猫とは本所回向院前の岡場所の遊女の意味=金猫銀猫)

安宅松が鮨について『守貞謾稿』には、「江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の“阿武松のすし”、上略して“松の寿司”と云ふ。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す。」と書かれている。
その他にも、「松が鮨」の高級すし屋を表わす記述がある。『甲子夜話』には、「近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは売る人の名なり。これよい味、一時、最賞用す。この鮓の価、ことに貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、小判三両に換えるとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、即ち、棄てて顧みずと云う。この如く貴価の品、今に行はるるも、また世風を観るべし」とある。




天保の改革と高級すし

江戸の贅沢すし
江戸前寿司の店舗の形態は「高級すし屋」「すし屋(内店)」「屋台」「岡持(振売り)」の大きく4つに分かれており、現在のようにその場で江戸前寿司を食べることができたのは主に屋台であった。当時は、まだ「屋台の寿司」が中心で庶民の胃袋を支えた。
鮨屋店 「与兵衛ずし」や「安宅の松が鮓」のように立派な店舗を構え、職人を多く抱えた寿司屋は主に富裕層を相手にした高級すし店であった。高級すし店の寿司は、町民などの庶民が食べられるような値段ではなく、寿司一人前が2両とも3両とも言われる値段で、豪商や幕府の高官などが食事や土産物として利用していたという。
安宅の松が鮓の逸話には、 松が鮓の寿司が5人前で本漆の高級漆器込みで3両もしたこと。また、 「心つけ給えと言って鮓の中に壱朱銀などを入れおきしなり・・・・」とあように寿司飯の中に壱朱銀(250文)を入れていたようである。

第12代将軍、徳川家慶の老中水野忠邦が行った質素・倹約を命じた「天保の改革」(1830~44年)の一連の奢侈(しゃし)禁止令で、贅沢品を販売したことで衣類の仕立屋、下駄屋、小間物屋等がおとがめになり、鮨も例外ではなく、取締りの対象となった。
高価な寿司を売った鮓屋200人余りが召し捕えられた。江戸の三大鮨屋店、華屋与兵衛の「與兵衛ずし」、堺屋松五郎の「松が鮨」、松崎喜右衛門の「笹巻き毛抜鮨」 の中では、華屋与兵衛、堺屋松五郎の両名共に捕縛され手鎖(てぐさり)の刑に処せられている。

水野忠邦の「天保の改革」の記述書『守貞謾稿』・『きゝのまにまに』
『守貞謾稿』の記述には「毛ぬきずしの他は貴価のもの多く・・・天保府命の時、貴価の鮨を売る者二百余人を捕へて手鎖にす。」とある。
また、喜多村筠庭『きゝのまにまに』天保十三年四月の条には「(上略)又此頃照降町に種々当世向之高価なる衣類を仕立て商ふ店あり、あざなをゼイタクヤと呼り、又乗物町河岸に六門屋と云下踏草履を售る、高価なる品多し、時好に叶ひて行はれぬ、又本町辺には丸利と云小間物屋流行て、種々高貴のもの多し、これら皆召捕われ、土蔵に封印付て御改め有、又油町新道鼈甲細工商ふ上総屋并に同所但馬や、又横山町の上総屋と云呉服屋、大橋安宅の松が鮨、両国元町の与兵衛が鮓、是らも被召捕たり」とあるように、与兵衛寿司と松が鮨は豪華な、そして高価な鮨だったようで、それにより水野忠邦による天保の改革では、華美で贅沢として倹約令に触れ、処罰されるほどであった。

 
『江戸名所道戯尽(えどめいしょどうけづくし) 両国米沢町』より一部分、歌川広景、安政六年頃(1859)

江戸深川、堺屋松五郎の「松が鮓」(屋号は「砂子鮨(いさごずし)」)について、次のような記録がある。
『近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは売る人の名なり。これよい味、一時、最賞用す。この鮓の価、ことに貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、小判三両に換えるとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、即ち、棄てて顧みずと云う。この如く貴価の品、今に行はるるも、また世風を観るべし』(松浦静山(1760~1841)『甲子夜話』)

 
歌川国芳 『縞揃女弁慶』/天保15年(1844)
画中に添えた狂歌は、梅屋『をさな子も ねだる安宅の松の鮓 あふぎづけなる袖にすがりて』である。
当時流行の「弁慶縞(べんけいじま)」の衣装を身にまとう女性が、酢で〆たコハダの押しずしに、卵巻きずし(海苔ではなく厚焼き卵で巻いた太巻き)をのせ、上に海老の握り鮨をのせた小皿を手にしている。折箱には「あたけ 松のすし」と書いてあり、これは当時の立派な寿司店「安宅(あたけ)の松が鮓」である。


『江戸名物酒飯手引草』嘉永元年(1848)刊、安宅の松の鮨は『守貞護稿』にも名のある店として紹介されている。


高級寿司の「安宅の松が鮓」
『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』天保7年(1836)
「本所一番安宅鮓 高名當時莫可并 權家進物三重折 玉子如金魚水晶」・・・「本所一番安宅のすしは、名が高く当時他に並ぶものもなかった。当時の権勢のある家が進物に使うのは「松のずし」の三重の折り詰めで、玉子は金のようで、魚は水晶のようであった」。
『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』
明和2年から天保11年(1765-1840)に書かれた「安宅松鮓」について、江戸時代中期から幕末までの川柳・狂歌集には、『おはしたの口へはいらぬ松の鲊』の1句がある。安宅(あたけ) の松が鮓は、使用人は口にすることができないくらい高価だったということである。

「阿たけまつ本店」歌川豊国 錦絵。
上の錦絵は、堺屋松五郎が創業した安宅の松のすし本店の錦絵で、桶に入った押し寿司と折箱に詰められた握り寿司が描かれている。
「阿たけまつ本店」歌川豊国絵の説明、「店の前にすし桶を持つ女性が立ち、左手の天水桶には浅草平右衛門町とあって、山形に松の字が大きく書かれています。また上の方に見えるのれんには本店とありますから、松のすし本店前の光景です。女性の持っているすし桶には押し蓋がありますから、中に入っているのは押しずしで、上にのせた折箱に握りずしが入っているようです。松のすしでは握りずしだけでなく、押しずしもつくっていたことがこの絵からもわかります」 … 『江戸食文化紀行-江戸の美味探訪-』より引用。


握りずし

握りずしの普及
握り寿司は、押し寿司から派生し、文政年間(1818-30)に江戸に広まったと言われる。
握りずしは、関西での寿司の「なれずし」(甘酢で味付けした米飯に開いた生魚を載せて一晩寝かせ発酵させ出したもの)とは違い、飯に酢を混ぜ、魚だけでなく野菜・乾物などを用いて江戸独自の手法で作られた寿司である。すぐに食べられる事から当時は握りずしは「早ずし(はやずし)」「握り早漬け」と呼んだという。
当時、拳ぐらいの大きさがあった握りずしが庶民に広まったのは江戸時代後期である。握りずしが普及したのは、米酢よりも値段が安く、酒粕を利用した三河の粕酢(かすず)の甘味や旨みがすし飯に合うことがきっかけとなった。
「粕酢(かすず)」は、それまでの米酢とは異なった、こくのある風味と濃厚な色を備えた酢で、大坂ずしのようにみりんや砂糖を加えなくても塩と酢のみの調味でおいしいすし飯ができ、生魚の味を引き立て、この味は江戸っ子の好みに合致していた。


守貞謾稿の江戸の握りずしについての記述
『守貞漫稿』(嘉永6年、喜多川守貞著)には、
『すしのこと、(略)三都とも押鮓なりしが、江戸はいつ比よりか押したる筥(はこ)鮓廃し、握り鮓のみとなる。(略)筥鮓の廃せしは五、六十年以来やうやくに廃すとなり。江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼、車海老、海老そぼろ、白魚、まぐろさしみ、こはだ、あなご甘煮長のままなり。以上、大略、価八文鮓なり、その中、玉子巻は十六文ばかり也。これに添ふるに新生姜(しんしょうが)の酢漬、姫蓼(ひめたで)等なり。」とある。

握り鮓のマグロについての説明には、「(マグロ)刺身及びこはだ等には、飯の上、肉の下に山葵を入る」とある。刺身用マグロの握りや寿司に付合せの「ガリ」を添えること、酢飯にワサビを載せ、その上に具(タネ)のせていたことがわかり、ほとんど現代の握り鮨と同じである。


江戸時代の握りずしを復元した「早すし」
 
ふつうの握り寿司(手前)の2倍の大きさの早すし。
「早すし」は大きく、1個に使う握りずしに使うシャリは、今の時代は米が20グラムぐらいに対して、江戸時代のは50グラムぐらいの大きさとなる。
江戸時代は酒粕から作る粕酢(赤酢)をシャリに混ぜているので酢飯は赤みがある。また、酢飯には粕酢の味も付いており、また、ネタの魚貝類にも酢締めや、醤油漬け、火を通すなど処理を施すなどでネタに味が付いており、醤油をつけずに食べていたとも云われている。



江戸時代の寿司ネタ

江戸時代、寿司ネタの嗜好
握り寿司といえば、現在ではマグロで、それも脂ののった大トロが好まれるが、江戸時代は新鮮なマグロは冷凍設備がないことからマグロは醤油漬け(ヅケ)にして握られていた。嗜好的に淡泊な味を好んで脂肪分の多い魚を敬遠し、江戸前で採れる新鮮な近海魚であるコハダやアジが好まれた。

マグロは下魚とされ、あまり人気のある魚ではなく、トロの部分は「猫またぎ」といって何でも食べる猫でさえ、またいで避けるほど、大衆には受けず捨てられていた。このため、マグロの脂肪の少ない赤身(守貞漫稿ではマグロ刺身という)を醤油漬けして「ヅケ」と呼んで握られていた。

天保(1830~44)以前はマグロは全然用いられていなかった。1836~1837年(天保7~8)ごろ江戸近海でマグロの大漁があり、処分に困ってすし屋に使用を勧めたが、みな断り、日本橋馬喰(ばくろ)町の屋台店「恵比寿鮨(えびすずし)」が醤油漬け「ヅケ」の調理方法を試みたところ、江戸ッ子の気風にあって、たちまちマグロは握りずしの代表的ネタになったという。(元来マグロのヅケとは切ったネタを、醤油、酢などで洗い醤油漬けしたもの)


寿司ネタ
(日本調理科学会誌 Vol.41No.3 [赤野裕文])より以下を記す。
寿司ネタは、保存の関係上、江戸湾で獲れた魚が中心であ り、外洋の魚は用いられなかった。 またマグロやタコは、魚としての評価が低かったこともあり、当初は用いられなかったようである。季節ごとの代表的な寿司ネタを下記に記載した。
 〈春:2~4月 〉 穴子,さより,玉子巻,おぼろ,白魚,ひらめ,かすご鯛,玉子,真鯛
 〈夏:5~7月 〉 穴子,きす,小鯛,あわび,車海老,いぼ鯛,小鯵
 〈秋:8~10月 〉 穴子,小鰭(コハダ),細巻,鮎,玉子,いぼ鯛,玉子巻
 〈冬:11~1月 〉 赤貝,おぼろ,玉子巻,いか,小鰭(コハダ),はまぐり,大巻玉子

江戸前寿司の「ネタの下仕事」
(日本調理科学会誌 Vol.41No.3 [赤野裕文])より以下を記す。 
握り寿司は、塩や酢で〆る、蒸す、煮る、タレを塗る、漬ける...といったさまざまな工夫(下仕事)がネタに施されている。江戸前寿司のネタは生ではなく、下仕事がなされていた 。 ネタの下仕事は下記の5種に大きく分けることができる。
  • ① 酢に漬ける … いか、いぽ鯛、かすご鯛、きす、小鯵(小アジ)、小鯛、小鰭(コハダ)、さより、ひらめ、真鯛
  • ② 醤油にくぐらせる …ひらめ、真鯛
  • ③ 火を通す(焼く/茄でる/蒸す) …穴子(焼物)、あわび(塩蒸)、車海老(茹物)、玉子(焼物)
  • ④ 醤油,味醂, あく引きなどで煮る …穴子、あわび、いか、大巻(干瓢・椎茸・木耳・おぼろ)、おぼろ、白魚、細巻(干瓢)
  • ⑤ その他 … 赤貝:握る直前に二杯酢にさっとくぐらせる、鮎:酢に漬けてから押しずしにする、はまぐり:味醂,あく引き,醤油,酒でつくった調味液に浸す

寿司ネタの酢締め・醤油ヅケ
この時代の握りずしのネタはだいたいが塩漬けしたあとに酢漬けにしたもの。冷蔵保存技術のない江戸時代でもあり、寿司ネタの鮮度維持のため、「酢でしめる」、「茹でる」、「炙る」といったネタに手を加え、日もちするように工夫がなされた。酢締めは、コハダやサバなどの青魚特有の生臭味を取るため、また穴子やタコなどはそれぞれに合う味付けで茹でるといった手間をかけた。
寛永年間(1640年頃)に、濃口醤油(関東地廻り醤油)が普及してからは、たれに漬け込むといった「漬け(ヅケ)」が行われた。寿司ネタのマグロは、魚体が大きすぎて足の早い(腐りやすい)魚であった。そのため、マグロ身の鮮度が落ちるのを防ぐ目的で、マグロの脂肪の少ない赤身(守貞漫稿ではマグロ刺身という)を“醤油(味醂との合わせ汁)に漬け込み、醤油の塩分で日持ちさせるといった手間をかけるようになった。

今では高級ネタとなっているマグロの脂身、つまり「トロ」は脂っ気が邪魔して醤油をはじいてしまうので「漬け(ヅケ)」にできずに捨てていた。あまり脂の強いのは「下等」で「下賤」だという日本文化特有の思考もあった。
マグロの「トロ」は、寿司ネタとしては扱われずにネギマ鍋にしたりと、二束三文の下魚として扱われていた。現在のように脂肪の多い部分が好まれ、クロマグロが高級品になるのは関東大震災以後であり、トロに人気が出るようになったのは昭和初期からである。


マグロの絵。マグロは江戸時代中期までは「シビ」と呼ばれ、カツオと一緒に取れるが縁起の悪い魚として嫌われていた。鎌倉時代(西暦1192~1333年頃)には、鮪を「宍魚」と書いて「シビ」と読むんだが、「宍」という漢字は「獣の肉」を意味し、マグロの赤身が獣の肉に似ていることからよばれたらしい。鎌倉時代以降、江戸時代(1603~1868年頃)の中期頃までは、マグロは、縁起の悪い魚として忌み嫌われていただけでなく、味の悪い低級魚とされ、とても安い価格で売られていた。


江戸時代のレシピ通りに復元した「握り寿司」(江戸時代のすしダネ)
「握り寿司」のネタは、アナゴ、マグロの漬け(づけ鮪)、エビ、コハダ(酢漬け)、イカの印籠(2切れ)。エビは塩ゆでにして酢に漬けシャリには海苔が入っている。イカの印籠のシャリには、シイタケ、海苔、エビのおぼろの混ぜご飯である。


巻きずし・海苔巻きずし
すしの巻もの全般を江戸前では「海苔巻」、関西では「巻ずし」と呼ぶのが一般的になっている。また、江戸前の巻ものは焼き海苔で巻いて香りとパリッとした歯ざわりを出すのに対し、関西では海苔を生のまま使っている。
元々「なれずし」から始まった寿司は、歴史的に見て上方から始まり、江戸に入って花開き、握りずしが大成した。海苔巻ずしは握りずしと同様に江戸が元祖のようである。同じ海苔を使った寿司でありながら、関西と関東では名前の呼び方に違いが見られる。まず、関西では「巻きずし」・関東では「海苔巻き」。その中身も昔関西には細巻きはなかったので、すべて「巻きずし」と呼んだ。
江戸の巻きずしは細巻きでそれに対し、一枚巻き以上の太い海苔巻きを「大巻き」(フトマキ)と呼んだ。この江戸の大巻きは、海苔も1枚半が一般的で2~3枚使い巻き上げたものである。海苔の扱い方では関西は焼かない海苔で巻き、関東は焼いた海苔を使って巻いて作られる。

巻ずしに関する記述として、『名部類、付録』(1802年10月)に、「巻きずし(叉紫菜(のり)=海苔の古名=のりずし)浅草紫菜を板状にひろげて、前の如きこけらずし(箱ずしのこと)の飯を置き、加料(かぐ)には鯛、あわび、椎茸、野蜀葵(みつば)、芽紫蘇(めじそ)、の類を用い堅く巻、布を水にしめし上に覆い、しばらくして切る。紀州・加太の〆巻きずし(わかめで巻いたもの)」とあり、海苔巻きで上方の海苔巻きずしを巻すしといい、これは1枚巻きで今に続く関西流巻きずしの原形といえる。


握りずしの寿司ネタと付け合せ
守貞漫稿(『近世風俗志』)には、「江戸、今製は握り鮓なり。・・・その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添うるに新生蓼の酢漬、姫蓼等なり。また隔て等には熊笹を用い、また鮓折詰などには鮓上に下図のごとく熊笹を斬りて、これを置き飾りとす。京阪にては隔てに、はらんを用い、また添え物には紅生姜と云いて梅酢漬を用う」

当時の握りずしの寿司ネタは、卵焼き・アナゴ・シラウオ・ヒラメ・コハダ・貝類などが使われた。海苔巻き(細巻き)や玉子巻きなども一緒に商われていた。このうち、マグロ刺身(ズケマグロ)とコハダを握る時のみ、間にワサビがはさんであった。
付け合わせは京坂では梅酢に漬けた紅生姜、江戸では酢漬の新生蓼(しんしょうが=ガリ)や姫蓼(ヒメタデ)を添え、笹折に詰めるとき、仕切りに葉蘭(はらん)や熊笹(くまざさ)の葉を用いたという。
 



現在の握り寿司との違い



江戸時代、江戸っ子が屋台でつまむ握りずしは「一貫一口半」といわれるほど、ネタに対してすし飯が格段に大きかったという。「※1:すし飯の大きさは現在の約2倍(約45g)だったと考えられてる。」現在の握りずしは生魚を使い、握りのサイズが「一口」サイズに小さくなったのが明治後期である。
江戸時代の握りずしは「一口半」サイズで、江戸前寿司で用いられるネタも生物を使わず、すしネタを醤油に漬け込んだ「ヅケ」や塩漬けし酢漬けにしたもの、煮たり焼いたりと調理を加えていた。



かつての江戸前寿司は、すしネタを醤油に浸けたり酢で締めたりとひと手間加え、下味をつけてあるため、「つけ醤油」は不要で、すし飯用合わせ酢の割合は現代のすし飯と比べると「※2:酢の量は約半分、塩の量は約3倍と塩辛い味であった。」また、すし飯の味付けも酢と塩だけで砂糖を加えないのが一般的であった。当時の寿司は、今よりは味が濃くて砂糖が高価で使えないので塩が多く使われた。酢は粕酢(赤酢)を使用した。「江戸前」寿司と言ったら、マグロの漬け(づけ)や酢で〆たコハダ、煮物など、ひと手間を加えたものが正しいとされている。

※1,※2 : 「にぎり寿司を大成・普及させた酒粕酢」(㈱ミツカングループ本社 広報室)
【酢と塩の割合は、米二升に対し、酢一合、塩一合弱とある。当時の握り寿司は酢と塩だけで合わせたものであった。そのため粕酢の持つ独特の風味がすし飯には最適とされており、多くのすし屋で粕酢が使われていた。
また、この処方によれば現在の処方と比べて、塩分濃度は約3倍もあったと推定できる。塩の量が多い為、合わせ酢にせず、酢と塩を炊き上がった飯に直接振り入れかき混ぜる。握り寿司のすし飯の大きさは、現在の約2.5倍、約45g 程度と推定でき、ちょうど一口半からニ口で食べられる大きさであったようだ。 … 明治期に執筆された小泉清三郎『家庭 鮨のつけかた』(大蔵書店、1910年)より】
 
注)静岡県鮨商生活衛生同業組合によれば、江戸の昔の合わせ酢は シャリ(米)1升(10合)に対し、酢1合(180cc)、塩1合(230g)とある。だだし、1合升での計量仕込みとすれば 酢:塩 ≒ 1:1 の比率となる。いづれにしても、江戸時代の合わせ酢は、酢と塩だけを使っており、酢と塩は同量である。
現在の握り寿司の合せ酢の比率は、寿司屋によって違いがある。大まかであるが関東は米1合に対し、酢20cc、砂糖10g、塩5gで、比率は、米酢:砂糖:塩=4:2:1である。
 
 

現在の握り寿司との違い
  1. 江戸時代、すし飯自体の味が重要とされ、酢も酸味の強い粕酢(赤酢)を使用しておりシャリ(酢飯)の色は醤油に浸したような薄赤い茶色、塩も多めで塩辛いものであった。
  2. 一口で食べられる今の握り寿司と比べて、江戸時代の握り寿司は今の2~3倍と大きかった。おむすび並みの大きさであった握り寿司は大きく、一口では食べにくいので、包丁で二つに切って供するようになった。これが「2貫づけ」の起源となった。
  3. 江戸時代は生魚のタネ(ネタとはすし屋は言わない)はなかった。保存技術がなかったこともあり、タネは生ではなく煮たり醤油や酢で漬けたり塩を利かせたりと必ずひと手間加えていた。すしダネにはすべて調味が施しており、「つけ醤油」は不要であった。当時のネタの数はだいたい10種類以内だった。
    (寿司のつけ醤油は、明治中期頃から握りずしに下味をつける手間を省いて、生のままの魚介類を切り身にして、そのまま握るようになった。そこで「つけ醤油」が必要となった)
  4. 江戸では、小鰭(コハダ)や鯵などさっぱりとした淡泊な魚が好まれ、現代では定番のマグロやタコは魚としての評価が低かったため、用いられなかった。現代もっとも人気のあるトロのマグロは脂が多いと嫌われた。江戸町民にとってマグロと言えば赤身であり、トロは犬猫の餌や料理に使っても汁の具(ネギマ汁)程度だった。
  5. 現在、すしダネとしてもっとも人気があるマグロは好まれず、醤油に浸け込んだヅケ(漬けるの略)にして使われた。しかし、適度に醤油を吸った鮪の赤身は独特の旨みがあり、昔の江戸前仕事を続ける一部の寿司屋では変わらず湯引きマグロの漬け「柵づけ」を出しているところがある。



※:寿司の原点となる「熟れ鮨(なれずし)」は米や麦などの穀物を炊き上げて、その中に魚などを詰め込乳酸菌の力で乳酸発酵させた発酵食品の一種です。熟れ鮨の「ズシ」の字を見て判るように、昔は寿司を「鮨」もしくは「鮓」と書いていました。『魚へんに旨い』、『魚へんに酢っぱい』と書いていたのです。乳酸発酵によって、米などの穀物が持つでんぷんや糖質は分解されてドロドロになります。この時乳酸菌は酢酸などを生成し、ビタミンと酸っぱさを加えていきます。この酸っぱさが不思議と魚と米を結びつけ、美味にすることを知った日本人は鮨・鮓を寿司へと昇華していくのです。






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