日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-
江戸の外食・醤油文化 | ||
2章:すしの歴史/江戸の握り寿司文化と華屋与兵衛 |
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1章【寿司の歴史/熟れずしから江戸前握り鮨の誕生まで】に戻る 1.江戸前握りずしの誕生 江戸時代初期の寿司は全てが「なれ鮨」であったが、江戸中期には醸造酢を用いてつくる寿司が開発され、即席で寿司ができるようになったので、これを「早ずし」といった。 「早ずし」は一晩で出来上がることから、「一夜漬けずし」、「当座ずし」などともいった。アユ、サバ、アジなどの姿ずし、枠に入れて圧力を加える押しずしなどもできてきた。酢を使った「早ずし」の登場は、押しずしや握りずしへと発展していった。 江戸前の握り寿司が登場したのは江戸時代の後期、18世紀に入った頃の江戸で、新鮮なネタで寿司を客の前で即席で握るという発想で生まれた。この「握ったすし」を「江戸前寿司」と言ったという。 庶民の食文化が発達した江戸時代、醤油、味噌とともに〝酢〟も庶民の食生活に普及した。この時代、江戸の町には屋台を中心とする外食産業が普及し、その中で「握りずし」が世に登場する。元禄のころには酢を使うことが一般的になり、その後、文政年間(1818〜1830)に酢飯と生魚を合わせて握る「握りずし」が生まれた。 それ以前は寿司といえば、関西が発祥の「押し寿司」だけであったが、町人文化が栄えたこの時期、江戸の町に多く見られた屋台で、江戸前浜の海で獲れた魚介類と海苔を寿司ネタとして使った。この江戸発祥の寿司を「江戸前寿司」という。 ![]()
江戸前の海の多用な魚貝を「握りずし」として成立させるために、江戸の後背地、利根川や江戸川の海運によって成長した野田や銚子の「濃口醤油」や「酢」の醸造場の発展もあった。濃口醤油(関東地廻り醤油)は、これまでの上方の下り醤油とは異なり、小麦を使うことにより香りの高い醤油となり、江戸前の魚料理に合う醤油であった。 江戸の町には早ずし等と言われ屋台の握り鮨屋が既にあったとされている。その中から財を蓄えた商人や宵越しの銭を持たない江戸っ子気質に後押しされ高級を売り物にする鮨店が店を構えるようになった。 江戸の両国・回向院門前(両国広小路)にあった「興兵衛ずし」もその一軒であった。江戸風の握りずしは「興兵衛ずし」の華屋与兵衛(はなや よへえ)により、店を出した数年後に創作されたといわれる。 1830年ごろ作られた握りずしは、庶民に広がり1849年の『守貞謾稿』に、「江戸ハ酢店甚ダ多ク毎町三戸蕎麦屋三町ニー戸アリ」とあるように急速に江戸の町に広がった。『守貞謾稿』によれば「握りずし」が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず、文政末には大坂の戎橋南で〝松ノ鮓〟が江戸風の握りずしを売り始めた。 ![]() 喜多川守貞「守貞謾稿」の江戸寿司と押しずし(箱寿司) 〔白魚は現代の握りではあまり見かけないが、江戸時代は佃島のあたりで“江戸前”の白魚漁が盛んであった。〕 2.握りずしの始祖「華屋与兵衛」 ■握り寿司の発明 現在の握り寿司の原型である江戸前寿司の発祥については多くの書籍に記載され、文政年間(1818〜1830)に「与兵衛鮓」の華屋与兵衛が考案したという説が有力である。 一方、喜多村信節が江戸時代後期の風俗習慣、歌舞音曲などについて書いた随筆『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)文政13年 (1830年) には「松の鮓」の堺屋松五郎であるとされるなど諸説ある。 華屋与兵衛は早ずしの開発を試行錯誤する中で尾州半田の「粕酢」と出会い、粕酢を飯に混ぜ、酢飯にすることで今までの発酵させるなどの手間がなくなり、現在の江戸前寿司がこの世に誕生したと言われている。さらに与兵衛は酢飯とネタの間に「ワサビ」を入れる工夫をしている。
■華屋与兵衛の「与兵衛鮓」 江戸の町に初めて寿司屋が登場したのは貞享年間(1684~1687年)のことであった。この頃の寿司は、まだ関西風の「箱ずし」・「押ずし」で、上方から伝えられたものである。その後に登場するが手で握る「早ずし」で、これが改良されて江戸式の「握りずし」が登場したのが江戸時代後期の文政年間(1818~1830年)であった。
![]() 江戸前寿司は、白米であるシャリの上に魚の切り身をのせた「握りずし」で、考案したのは本所元町のすし屋『華屋与兵衛』(はなやよへい)といわれている。「握るすし」というのは華屋与兵衛以前にもあった。しかし、それは、小さく握った飯の上に魚を貼り付け、箱の中で笹の葉(熊笹)で仕切りをして押しをかける「箱ずし」であった。 華屋与兵衛は、この手間と押し付けることで魚の脂分が抜け出てしまうのをきらった。与兵衛は、その場で「握り早漬け」という、握った酢飯に、下ごしらえした魚の切り身をのせただけで、すぐに食べられる「握り寿司」を編み出した。当初は、岡持ちを持って岡場所(私娼窟)を夜明け頃まで街中を歩き売りしていたが、人気が出て繁盛すると、文化七年(1810)に江戸本所横綱(現在の墨田区両国)に屋台見世を出して、客の目の前で寿司を握って商売を始めた。 その後、文政七年(1824)、江戸の尾上町(両国回向院前)に「華屋」という店を構え、与兵衛はコハダやエビの握りずしを「与兵衛鮓(すし)」として売り出した。また、「与兵衛鮓」はタネ(マグロ,コハダ)と酢飯のあいだに “ワサビ” を挟ませた。これが評判を呼んで、他にも握り寿司を出す店が江戸中に広がった。
『偲ぶ与兵衛の鮓』の絵/小泉清三郎著 ![]() 『偲ぶ与兵衛の鮓』の絵では左上から、小鯛、その下がミル貝、キス、イカの輪切り(胴体にシャリを詰めて輪切りにした寿司)。小鯛の横が白魚、その下の赤いのがマス、コハダ、下にアジ、海苔細巻き、赤貝。右上が鮎の姿寿司、その下が厚焼き玉子と海苔太巻き、下に車エビ、サバの押し寿司。 ![]() 『偲ぶ与兵衛の鮓』の絵を元に江戸前寿司を再現 (東京 日本すし学院 川澄 健)
3.握りずし ■握りずしの普及 握り寿司は、押し寿司から派生し、文政年間(1818-30)に江戸に広まったと言われる。 握りずしは、関西での寿司の「なれずし」(甘酢で味付けした米飯に開いた生魚を載せて一晩寝かせ発酵させ出したもの)とは違い、飯に酢を混ぜ、魚だけでなく野菜・乾物などを用いて江戸独自の手法で作られた寿司である。すぐに食べられる事から、"当時は握りずしは「早ずし(はやずし)」「握り早漬け」と呼んだ"という。 当時、拳ぐらいの大きさがあった握りずしが庶民に広まったのは江戸時代後期である。握りずしが普及したのは、米酢よりも値段が安く、酒粕を利用した三河の粕酢(かすず)の甘味や旨みがすし飯に合うことがきっかけとなったという。 「粕酢」は、それまでの米酢とは異なった、こくのある風味と濃厚な色を備えた酢で、大坂ずしのようにみりんや砂糖を加えなくても塩と酢のみの調味でおいしいすし飯ができ、生魚の味を引き立て、この味は江戸っ子の好みに合致していた。 ![]() 『江戸名所道戯尽(えどめいしょどうけづくし) 両国米沢町』より一部分、歌川広景、安政六年頃(1859) ■守貞謾稿の江戸の握りずしについての記述
■江戸時代の握りずしを復元した「早すし」 ![]() ![]() ふつうの握り寿司(手前)の2倍の大きさの早すし。
4.江戸三鮨 「江戸三鮨」の有名なすし屋は、屋台ではなく店構えであった。「江戸三鮨(えどさんすし)」と謳われたのが、両国東の「與兵衛ずし」、深川安宅六軒堀の堺屋松五郎の「安宅(あたけ) の松が鮓」、竈河岸(へっついがし)の「笹巻毛抜鮨(ささまきけぬきすし)」である。 ■「與兵衛(よへえ)鮓」華屋与兵衛 華屋与兵衛は福井藩の出身である。九歳の時に江戸・蔵前の札差「板倉屋清兵衛」方に下男奉公に入り、十数年間勤め上げ、二十数歳で板倉屋を退いた。その後は古道具屋、干菓子屋等々と何度かの商売を変えた末に「握りずし」を考案したと伝えられている。 与兵衛は文政年間(1818年~1830年)に当時住んでいた本所横綱の近くで毎夜、松井町界隈の岡場所を夜明けごろまで握りすしを売り歩き、尾上町(両国回向院前)に小さな店を構え「與兵衛ずし」の看板を上げたという。 この店が「松が鮓」と同じく武家屋敷からの注文も多く 『こみあいて 待ちくたびれる与兵衛鮨 客も諸とも手を握りけり』(安政3年・1856年『武総両岸図抄』-「与兵衛鮨」)という狂歌があるくらい江戸中の評判となった。また、天保7年・1836年『江戸名物詩初編(江戸名物狂詩選)』に書かれた「與兵衞鮓」には、以下のように記されている。
■笹巻毛抜鮨(ささまきけぬきすし) 元禄15年(1702)に初代の松崎喜右衛門が竈河岸(へっついがし : 現在の日本橋人形町付近)で創業。笹の葉で巻いた押し寿司の一種で、保存食とするため飯を強めの酢でしめてあるのが特徴で、寿司だねも塩漬けで1日、酸味の強い酢(一番酢)で1日、次に酸味の弱い酢(二番酢) で 3日から4日漬ける。巻き寿司や握り寿司に比べて歴史が古く、巻いた笹を外すと握り寿司と同じ姿が現れる。 毛抜鮓〔笹巻けぬきすし〕の調理方法が『守貞謾稿』に記載されている。すしダネを酢飯にのせて笹で巻き、桶(おけ)に入れて上から重しの石を置く。仕込みの段階で「毛抜き」を使い、魚の小骨を丁ねいに抜いてたことから「毛抜すし」と呼ばれた。 ![]() 写真:創業元禄十五年「笹巻けぬきすし総本店」 (笹巻毛抜鮨とは、すしダネの鯛、コハダ、海老、白魚、さより等の魚を1週間ほど塩に漬け、さらに酢でしめた後、毛抜きで魚の小骨を抜き、酢の利いた飯と一緒に熊笹の葉で巻いたものである。)
■安宅の松が鮓 文政13年(1830)に大阪から進出して深川安宅六間堀(現在の江東区)で開業した「いさごずし」は、付近の名勝「安宅(あたか)の松」にちなんで通称「松が鮓」「松の鮓」「安宅の鮓」などと呼ばれた。 関西泉州境生まれの堺屋松五郎が「松が鮨」を構えたのは、華屋与兵衛の「與兵衛ずし」から6年遅れての文政13年(1830)である。地名から安宅の鮓(あたかのすし)とも呼ばれたが、「松が鮨」、「安宅松が鮨」、「松の鮨」ともいわれている。やがて、「松が鮨」は江戸中で、「玉子は金のようで、魚は水晶のようだ」と美しさをたたえられる贅沢寿司となり、「松ヶ鮓 一分ぺろりと 猫が食い」とも川柳にも詠まれている。(一分とは銀一分=一両の四分の一。高価な鮨である。猫とは本所回向院前の岡場所の遊女の意味=金猫銀猫) 安宅松が鮨について『守貞謾稿』には、「江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の“阿武松のすし”、上略して“松の寿司”と云ふ。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す。」と書かれている。 その他にも、「松が鮨」の高級すし屋を表わす記述がある。『甲子夜話』には、「近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは売る人の名なり。これよい味、一時、最賞用す。この鮓の価、ことに貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、小判三両に換えるとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、即ち、棄てて顧みずと云う。この如く貴価の品、今に行はるるも、また世風を観るべし」とある。 ![]() 5.天保の改革と高級すし ■江戸の贅沢すし 江戸前寿司の店舗の形態は「高級すし屋」「すし屋(内店)」「屋台」「岡持(振売り)」の大きく4つに分かれており、現在のようにその場で江戸前寿司を食べることができたのは主に屋台であった。当時は、まだ「屋台の寿司」が中心で庶民の胃袋を支えた。 ![]() 江戸後期の歌川広重「鮨 団扇絵」 鮨屋店 「与兵衛鮓」や「安宅の松が鮓」のように立派な店舗を構え、職人を多く抱えた寿司屋は主に富裕層を相手にした高級すし店であった。高級すし店の寿司は、町民などの庶民が食べられるような値段ではなく、寿司一人前が2両とも3両とも言われる値段で、豪商や幕府の高官などが食事や土産物として利用していたという。 「安宅の松が鮓」の逸話には、 松が鮓の寿司が5人前で本漆の高級漆器込みで3両もしたこと。また、 「心つけ給えと言って鮓の中に壱朱銀などを入れおきしなり・・・・」とあように寿司飯の中に壱朱銀(250文)を入れていたようである。 『守貞謾稿』には握りずしの平均的な値段が出てくる。車エビやマグロなどは一つ8文程度。しかし、『江戸たべもの歳時記』(浜田義一郎著)によると、「松がすし」は一つ250文もしたという記述がある。 第12代将軍、徳川家慶の老中・水野忠邦が行った質素・倹約を命じた「天保の改革」(1841~43年)の一連の奢侈(しゃし)禁止令で、贅沢品を販売したことで衣類の仕立屋、下駄屋、小間物屋等がおとがめになり、寿司屋も見栄えの派手さに力を入れている店が多く競い合いが起きて、これが贅沢品と見なされ、握りずしも取締りの対象となった。 高価な寿司を売った寿司職人200人余りが召し捕えられた。江戸の「江戸三鮨」と呼ばれた鮨屋店の華屋与兵衛の「与兵衛鮓」、堺屋松五郎の「松が鮓」、松崎喜右衛門の「笹巻き毛抜鮨」 の中では、華屋与兵衛、堺屋松五郎の両名共に捕縛され手鎖(てぐさり)の刑に処せられている。
高級な店は、天保の改革時に質素倹約令に触れて処罰され、これにより江戸の町から握り寿司が消えることになってしまうが、天保の改革を主導していた水野忠邦が失脚した後に江戸の町で再び握り寿司が復活した。 ■高級寿司の「安宅の松が鮓」 江戸で一番豪華な寿司といわれた堺屋松五郎の「松が鮓」が考案して売り世した寿司は豪華絢爛で、江戸名物詩と言う書籍には『卵は金の如く魚は水の如し』と書かれ、大判錦絵にも描かれるなど評判を呼ぶが、「天保の改革」の倹約令に触れて堺屋松五郎も処罰を受けた。 『松の鮓』の人気は、天保7年・1836年に方外道人(木下梅庵)が書いた『江戸名物詩』にも登場し、「他に並ぶものもなかった」と記されている。
◇『江戸名物酒飯手引草』嘉永元年(1848)刊 ![]() 安宅の松の鮨は『守貞護稿』にも名のある店として紹介されている。文化文政のころの狂歌に「伊豆わさび/隠しに入れて/人までも/泣かす安宅の/丸漬けのすし」というのがある。「安宅」とは江戸深川の地名で、そのあたりにあった「いさごずし」のこと。(浄瑠璃の「安宅の松」と店主松五郎の名にちなんで「松が鮨」と通称された) ![]() ![]() 歌川国芳 『縞揃女弁慶』/天保15年(1844) 画中に添えた狂歌は、梅屋『をさな子も ねだる安宅の松の鮓 あふぎづけなる袖にすがりて』である。
6.江戸時代の寿司ネタ ■江戸時代、寿司ネタの嗜好 握り寿司といえば、現在ではマグロで、それも脂ののった大トロが好まれるが、江戸時代は新鮮なマグロは冷凍設備がないことからマグロは醤油漬け(ヅケ)にして握られていた。嗜好的に淡泊な味を好んで脂肪分の多い魚を敬遠し、江戸前で採れる新鮮な近海魚であるコハダやアジが好まれた。 マグロは安価なイワシなどと同様に下魚(げぎょ)として取引され、あまり人気のある魚ではなかった。脂肪分の多いトロの部分は何でも食べる猫でさえ、またいで避ける「猫またぎ」という蔑称で呼ばれて大衆受けされず捨てられていた。このため、マグロの脂肪の少ない赤身(守貞漫稿ではマグロ刺身という)を醤油漬けして「ヅケ」と呼んで握られていた。 「江戸前寿司」は、〆る蒸す漬けるなどの仕事をネタにほどこして江戸前を名乗る寿司であって、マグロのトロなどは、〆るにも蒸すにも漬けるにもその「脂」が邪魔になった。 天保(1830~44)以前はマグロは全然用いられていなかった。1836~1837年(天保7~8)ごろ江戸近海でマグロの大漁があり、処分に困ってすし屋に使用を勧めたが、みな断り、日本橋馬喰(ばくろ)町の屋台店「恵比寿鮨(えびすずし)」が醤油漬け「ヅケ」の調理方法を試みたところ、江戸ッ子の気風にあって、たちまちマグロは握りずしの代表的ネタになったという。(元来マグロのヅケとは切ったネタを、醤油、酢などで洗い醤油漬けしたもの)
■寿司ネタの酢締め・醤油ヅケ この時代の握りずしのネタはだいたいが塩漬けしたあとに酢漬けにしたものである。冷蔵保存技術のない江戸時代でもあり、寿司ネタの鮮度維持のため、「酢でしめる」、「茹でる」、「炙る」といったネタに手を加え、日もちするように工夫がなされた。酢締めは、コハダやサバなどの青魚特有の生臭味を取るため、また穴子やタコなどはそれぞれに合う味付けで「茹でる」といった手間をかけた。 寛永年間(1640年頃)に、濃口醤油(関東地廻り醤油)が普及してからは、たれに漬け込むといった「醤油漬け(ヅケ)」が行われた。寿司ネタのマグロは、魚体が大きすぎて足の早い(腐りやすい)魚であった。 そのため、マグロ身の鮮度が落ちるのを防ぐ目的で、マグロの脂肪の少ない赤身(守貞漫稿ではマグロ刺身という)を湯引きして、“醤油(味醂との合わせ汁)に漬け込み、醤油の塩分で日持ちさせるといった手間をかけるようになった。 今では高級ネタとなっているマグロの脂身、つまり「トロ」は脂っ気が邪魔して醤油をはじいてしまうので「漬け(ヅケ)」にできずに捨てていた。あまり脂の強いのは「下等」で「下賤」だという日本文化特有の思考もあった。 マグロの「トロ」は、寿司ネタとしては扱われずにネギマ鍋にしたりと、二束三文の下魚として扱われていた。現在のように脂肪の多い部分が好まれ、クロマグロが高級品になるのは関東大震災以後であり、トロに人気が出るようになったのは昭和初期からである。 ![]()
■握りずしの寿司ネタと付け合せ 守貞漫稿(『近世風俗志』)には、「江戸、今製は握り鮓なり。・・・その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添うるに新生蓼の酢漬、姫蓼等なり。また隔て等には熊笹を用い、また鮓折詰などには鮓上に下図のごとく熊笹を斬りて、これを置き飾りとす。京阪にては隔てに、はらんを用い、また添え物には紅生姜と云いて梅酢漬を用う」 当時の握りずしの寿司ネタは、卵焼き・アナゴ・シラウオ・ヒラメ・コハダ・貝類などが使われた。海苔巻き(細巻き)や玉子巻きなども一緒に商われていた。このうち、マグロ刺身(ズケマグロ)とコハダを握る時のみ、間にワサビがはさんであった。 付け合わせは京坂では梅酢に漬けた紅生姜、江戸では酢漬の新生蓼(しんしょうが=ガリ)や姫蓼(ヒメタデ)を添え、笹折に詰めるとき、仕切りに葉蘭(はらん)や熊笹(くまざさ)の葉を用いたという。 ![]() ![]() 握り鮨の大きさが拳ぐらいあったので、握り5個と海苔巻き(細巻き)1本の酢飯のボリュームは、米約1合分位あった。 7.現在の握り寿司との違い ■江戸時代の寿司屋
![]() ■江戸前の寿司 江戸時代、江戸っ子が屋台でつまむ握りずしは「一貫一口半」といわれるほど、すし種(タネ)に対してすし飯が格段に大きかったという。「※1:すし飯の大きさは現在の約2倍(約45g)だったと考えられてる。」現在の握りずしは生魚を使い、握りのサイズが「一口」サイズに小さくなったのが明治後期である。 江戸時代の握りずしは「一口半」サイズで、江戸前寿司で用いられるタネも生物を使わず、すし種(タネ)を醤油に漬け込んだ「ヅケ」や塩漬けし酢漬けにしたもの、煮たり焼いたりと食材に調理を加えていた。かつての江戸前寿司は、すし種(タネ)を醤油に浸けたり酢で締めたりとひと手間加え、下味をつけてあるため、「つけ醤油」は不要で、すし飯用合わせ酢の割合は現代のすし飯と比べると、酢の量※2は約半分、塩の量は約3倍と塩辛い味であった。 また、すし飯の味付けも酢と塩だけで砂糖を加えないのが一般的であった。当時の寿司は、今よりは味が濃くて砂糖が高価で使えないので塩が多く使われた。酢は粕酢(赤酢)を使用した。「江戸前」寿司と言ったら、マグロの漬け(づけ)や酢で〆たコハダ、煮物など、ひと手間を加えたものが正しいとされている。 ![]() ※1,※2 : 「にぎり寿司を大成・普及させた酒粕酢」(㈱ミツカングループ本社 広報室)
■現在の握り寿司との違い
8.すしと醤油 参考文献 「すしの事典」著者 日比野光敏
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