日本料理の種類と歴史
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日本料理の種類と歴史
1.本膳料理・会席料理・懐石料理の違いと特徴

歴史的に今の日本料理の基礎が出来上がったのは、鎌倉・室町時代といわれています。室町以前も公家などの間では刀などで魚をさばいていましたが、庶民にも包丁や鍋などが行き渡るようになったのは室町時代でした。その頃から魚を包丁でさばくなど、日本独自の調理法が生まれ、一般家庭でも日本料理の原形が確立しました。
この頃、公式料理をつくる作法を受け継いでいる一派として知られる四条流から「四条流包丁書」という包丁に関する作法の伝書が出ています。その流れの中で、日本式の礼法を整える過程で誕生したのが本膳料理でした。本膳料理は、約束ごとにのっとってつくられた料理を脚付きの角膳に並べたものです。位の高さやもてなしによって膳の数が増えたり、料理の品数が増えたりするのが特徴です。
この本膳料理が、江戸時代になって約束ごとなどが緩やかになり、気楽にお酒を飲むための膳になったのが「会席」料理です。
一方の懐石料理は、茶道の創始者である千利休が安土・桃山時代に茶道を確立していく中で、茶を美味しくいただくために作った料理です。「懐石」の由来は、修業中の禅僧があたためた石を懐にいれて空腹をしのいだという逸話によるものです。
このように会席料理は、お酒の席を楽しくする「宴」での料理のことで、懐石は茶を美味しくいただくための茶事の流れの中で生まれた料理です。
(出展:知っておきたい和食の知識 www.fundokin.co.jp/washoku/99725.html)


江戸後期 料理本「料理早指南 初編」の本膳、会席料理

全4編1冊、著者:醍醐山人


料理様式の成立
平安時代以降、、「料理を一定のしきたりに従って配膳し供する形式」、いわゆる料理様式が成立していった。「精進料理」は、中世に伝来した禅宗の寺院で、僧侶たちが修行生活の中でとった食事様式で、食は人格形成、仏道成就に通じるという食哲学を反映したものであった。その基本は、①五法(生食、煮る、焼く、揚げる、蒸すの調理法)、 ②五味(塩味、甘味、酸味、苦味、辛味)、 ③五色(赤、緑、黄、黒、白の素材) を組合わせた季節感あふれるものであった。

武士の権力が増大していった室町時代後期以降、食事の礼儀作法を尊ぶ「本膳料理」が武家階層の正式なもてなし料理として完成していった。式三献の儀礼である酒の献酬のあと、朱塗りの足つき膳と食器で料理が出された。本膳には飯、本汁、膾(なます)、坪、香の物、二の膳には二の汁、平(ひら)、猪口(ちょく)、そして、焼き物膳、台引などが配置された。膳の数、料理の数などで武士の権威を示す意味もあった。


江戸時代の料理書「料理早指南」初編に紹介された本膳料理
朱塗りの足つきの本膳には飯、汁、膾(なます)、坪、手塩皿(香の物)。二の膳には汁、刺身、平(ひら)皿、その他、長皿、吸い物、大猪口が配置されている。

(※)江戸時代の民間の本膳の形は町民社会の一般的なものとしてみられるが、近代の本膳と比較するとやや異なるものがある。膳の形式は本膳、二の膳、脇膳の三であるが、献立様式にみてみると、二の膳の刺身は近代の様式では猪口であり、刺身としては脇膳に組む。これは武家の本膳の形である。
長皿は武家の脇膳の場合には、現代の鉢肴または中皿の如き内容であったが、ここでは焼物皿としてあったものではなかろうか。吸物はこの時代には、武家の向詰、引而につづく吸物の形をならっていたものとみられる。このような点から考察して近代の本膳の形が定まったのは明治維新後、武家と町民の別が除かれてからのことではなかろうか。

江戸文化の欄塾期といわれる文化・文政の時代となると、他兵の世を反映した町人文化の中で「会席料理」が発達した。形式的で煩雑な本膳料理を簡略したもので、折敷(おしき)の膳を用い、飯、汁、膾、附合、手塩皿を中心に、平皿、大猪口、茶碗、重引(じゅうびき)などが配膳された。会席料理は料理の味付けに重点を置いた実質的な料理儀式として発達し、近代になって、民間の婚礼や祭りなどの儀礼食として広まり、もてなし料理の基本となった。現代では酒杯と前菜(お通し・つき出し)で始まり、順次、向付、椀、口取り、鉢肴、煮物、小丼が出され、最後に止椀(みそ汁)と飯と香の物が供されしめくくられる。


江戸時代の料理書「料理早指南」初編に紹介された会席料理
折敷(おしき)の膳をには飯、汁、膾、附合(つけあわせ)、手塩皿(香の物)が、膳の外に平皿、大猪口、茶碗、重引(じゅうびき)が配膳されている。

(※)『古事類苑』飲食部「会席料理」に「本膳を用いざる略式の料理を会席と称す。会席料理は茶会に用いし料理にて後終に一般に流行するに至れり。固より本膳とその器具を異にし、菜数も数種に止まり、二膳以下を羞ることなし」とあり、江戸時代に於ける会席のあり方をうかがうことが出来る。同時代に於て、現代の懐石と会席の区別は殆どなく、懐石即会席として文献にみられる。
このような形を一応のきまりとして、江戸時代の料理茶屋の献立表には、さまざまな形がみられるが、いずれもその様式は懐石に拠ったものである。これによって江戸時代の会席料理は懐石様式で行なわれていたとみることが出来る。



管理栄養士養成『料理学 第二版』青木三恵子著より引用、(※)部は『客膳形態の変遷と現代の様相』谷口歌子より引用。






本膳料理
本膳料理とは、室町幕府の将軍家を中心として行われた七五三膳や五五三膳と呼ばれた複雑な饗膳の様式をもととして、これを要約、改良して定められた江戸幕府に始まる饗膳の様式です。本膳料理は「儀式」としての意味合いが強いのが特徴で、日本料理の最も本格的なもてなしの料理です。献立内容、食べ方、服装などの作法も細かく決められています。料理が並べられた脚付きの膳が5膳出るのが最高級とされています。現在では一部の日本料理店を除き、あまり見られなくなりました。

本膳……飯、汁、香の物、煮物、なます
二の膳…汁、猪口(ちょく)、煮物
三の膳…汁、椀、刺身
与の膳…焼き物
五の膳…引き物






懐石料理
懐石料理…茶懐石ともいう。安土桃山期に千利休により完成された茶の湯に伴って懐石料理が誕生し、江戸期には茶道の交流により大いに発展し、末期には懐石料理として確立されました。懐石とは、茶事や茶会の席で出す料理をいいます。懐石料理はお茶をおいしくいただくための「茶会の席」(茶懐石料理)で、料理は一品ずつ出て、ゆっくりと落ち着いて食べるのが特徴です。料理や雰囲気も会席のときほどのにぎやかさはなく、どちらかといえば落ち着いてゆっくり食べる雰囲気があります。 一般的に、ご飯や吸い物が出てきた後にお酒が出てきます。懐石料理の献立は、折敷膳(向付、ご飯、味噌汁)、煮物、焼き物、強肴(しいざかな。炊き合わせなど)、吸い物、八寸(海山の幸の盛り合わせ)、湯桶(お湯とおこげなど)、香の物、菓子、抹茶の流れで出されます。
写真:茶懐石「點心」



会席料理
本膳料理を簡素化されたものとして台頭してきたのが「会席料理」です。また、会席料理には、本膳形式と茶懐石の流れを汲むものがあります。会席料理はお酒をおいしくいただくための「宴会の席」であり、お酒が最初に出てきて、次にご飯や吸い物が出てくる場合が多く、旅館や料亭などで出される日本料理といえば、ほとんどが会席料理です。(一品ずつのときもあれば、最初から並べられている場合もあります)
会席料理の献立は、一汁三菜(吸い物、刺身、焼き物、煮物)が基本でこれにお通し、揚げ物、蒸し物、和え物、酢の物などの肴が加えられます。最後にご飯と味噌汁、香の物が出されます。
写真:日本料理「慈こう」











2.精進料理と普茶料理

『普茶料理抄』(ふちゃりょうりしょう) 2巻 西村未達 明和9年(1772)
『普茶料理抄』には、 普茶料理を座敷机の上で食する図が描かれている。 机には更紗風の意匠をもつ袱紗がかかり、たくさんの器物が載せられるなかで、中央には深鉢の「大菜陶」が配されている。深鉢のとなりに仙盞瓶の酒次が描かれている。



精進料理とは、仏教では僧は戒律五戒で殺生が禁じられており、大乗仏教で肉食も禁止されたため、僧への布施として野菜や豆類、穀類を工夫して調理した料理のことです。普茶料理とは、京都宇治に黄蘗(おうばく)山万福寺を開山した隠元禅師が江戸初期に伝えた中国風の精進料理です。
「普茶」とは「普く(あまねく) 衆人に茶をほどこす」の意で、料理を仲立ちとして親睦を深め、その日の労をねぎらうといった意味合いを含んでいます。
普茶料理と日本の精進料理との違いは、一人一膳の木器ではなく、四人が一つの長方形の卓に向かい合って座り食事をすることです。料理の前には、まず煎茶が出されます。そして小皿または丼に盛られる小菜類、大皿に盛られる大菜類が順に運ばれ、陶器の大皿に盛ってある料理を取り箸もなく、直き箸(自分の箸)で、銘々が取り皿に取り回して食事は進んで行きます。料理には、麻腐(まふ:胡麻豆腐)をはじめ、涼伴(和え物)、雲片(うんぺん:油で炒めた野菜の葛煮)、笋羮(しゅんかん:煮野菜の盛り合わせ)、油茲(ゆじ:野菜の味付け天麩羅)、素汁(すまし汁)、行堂(ご飯またはお粥)などがあります。



料理本『江戸流行料理通』4編・普茶卓袱(ふちゃしっぽく)料理、天保6(1833)年刊の料亭「八百膳」の普茶料理からの挿絵


『客膳形態の変遷と現代の様相』谷口歌子著には、普茶料理として以下の記述がなされている。
「四代将軍家綱の承応三年(1654年)中国から隠元禅師が来朝し、宇治に黄檗宗本山万福寺を開基している。こめ隠元禅師によって、ひろめられた中国風の精進料理が普茶料理である。 …略… 客膳の形式は客四人を一卓とし、予め菓子と小菜、箸と単票(匙)、皿、飯茶碗などを卓上に並べておき、客を招じ、着席をまって茶をすすめる。菓子、小菜とともに茶を喫して後、茶碗を下げると引替に酒瓶をはこぶ。つづいて煮菜二,三種、菜包の類を二,三種出し、献立の中ばで飯を出し、そのあと一種ずつ菜をすすめる。献立の軽重は菜の数により、四椀(煮菜四椀、小菜四椀)から十二椀の形式まで多様である。」


■『和漢精進料理抄』より「会席普茶料理略式」の記述

普茶といふは、唐風の調味にて、精進の卓子なり、長崎の禅寺、宇治の黄檗(おうばく)などにて、客を迎るには、必ず普茶料理にて饗應す事常例なり、近来上方にて専ら流行して、会席に略してする様になれり、
客四人を一脚と唱へて、客七人なれば卓子台を二脚とし、主人も其中に加りて供に相伴する事なり、原來酒を多く進る料にあらざれば、下戸口にあふ調味ながら、大菜小菜の中に上戸の意に叶ふ品を調ふべき事なり、
まづ煎茶を出して、座附吸物といふ処から、直に卓子台を持出すなり、小菜八品、大菜十二品にて、皆長の數なり、次第は図に出せり、引合せて見給ふべし、
卓子料理の内にも、当時の清風と、おらんだ流とて、大に異なれども、尤それは長崎に於て、通詞衆の宅などにて催す事なれば、白煮の猪(ぶた)の蹄、丸煮の鶏、焼羊の属、日本にて調味しがたき物は、その時々魚鳥に更て庖丁す、
世に普茶卓子などいへば、諸事費多く驕奢の沙汰に聞ゆれども左にあらず、その仕様に依て、有合の物到来の品にても済事なり、唯器物の次第、席上に持出して物々敷盛並る故に、目新しく一入の興になりて、客の歓ぶものなれば、其略式に倣ひて試み給ふべきなり


■『和漢精進料理抄』より「普茶卓子略式心得」の記述

一、卓子料理は、清風(からふう)の茶の会席に斉しく、貴賤のへだてなく、懇意を結び交りを厚くするの一なり、器の中へ與に箸を入て食する物なれど、正客より順に賞翫すべし。

一、こつぷ酒鍾(さかづき)は、銘々ひかへあれど、酒たけなはにおよびて、各互ひに盃をとりかへて飮事なり。

一、台上に汁をこぼす事なかれ、若あやまちてこぼす時は拭ひとるべし、箸に挾みて喰物は、碟兒(こざら)にとりて食べし、湯匙(ちりれんげ)は左の手に持べし、骨ある物は皿子に残し置、直に渣斗(ほねはき)に入れるなり。

一、席中都て雅言を用ゆ、小皿を碟兒(てうじ)とよび、皿子(べいし)といふ、盃を爵といひ、又單提といひ、盃猪口を十景套盃(じつきんぱい)、また石(いし)ともいふ、吸物椀を蓋碗といひ、銚子を酎瓶(ちうびん)といひ、散蓮華(ちりれんげ)を湯匙(たんすう)といふ、土瓶を茶瓶(さびん)といひ、箸を牙筋(げちよ)といふ、箸紙に差て細き朱唐紙にてまき、福禄寿などの目出度文字をかく。

一、大菜小菜とて、別に器のかはる事なし、常々の皿丼(どんぶり)大平台重鍋なども遣ふべし、只名目のからめきたるのみにて、異様の調味すべからず、客の上戸下戸を窺ひ、腹をうがち、臨機応変見はからひに有べし。






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