江戸の外食文化 資料 | ||
長崎・出島と醤油、鎖国政策 |
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長崎の出島とは ■出島,海外に開かれた唯一の窓口 幕府は、キリスト教(カトリック)の禁教と貿易の統制を目的に日本人の海外渡航を厳禁し、外国船の渡航を制限して、一方で長崎出島ではオランダ・中国との貿易を認め、来航したオランダ人が「出島」(1641–1860年)に、中国人が「唐人屋敷」(1689–1870年)に賃貸料を払ってそれぞれ滞在した。 長崎の出島(3,969坪)は寛永13年(1636)にキリスト教布教を阻止するために築かれ、市中に居住していたポルトガル人(カトリック)は、この島に隔離された。寛永14年(1637)に「島原の乱」が起き、幕府はこの一揆をキリシタンの反乱とて鎮圧したが、この乱によってキリスト教の脅威を感じた幕府は禁教徹底のためポルトガル船の入港を禁じた。 寛永16年(1639年)には第5次鎖国令(ポルトガル船の来航禁止)を発布し、ポルトガル人は日本から追放されて来航も禁止された。南蛮諸国の中で、日本にとって最大の貿易相手国はポルトガルであったが、寛永16年(1639)、ポルトガルとの関係悪化によりポルトガル人が追放されると出島は無人となった。 寛永18年(1641)幕府はキリシタン禁圧と貿易統制を目的として平戸オランダ商館(1609年、日本の平戸にオランダ貿易商館を開設)を閉鎖して出島にオランダ人を移住させた。居留オランダ人(出島オランダ商館)は全て出島に隔離収容され、平戸商館時代のように日常的な日本人との自由な交流は一切禁止された。幕府はオランダ(プロテスタント)がキリスト教布教の意志がないことを認め、南蛮貿易の相手をオランダ1国に限り、日本来航の継続を許した。これにより「出島」は約220年間の鎖国期の海外に開かれた唯一の窓口となった。 ■オランダ船入港と江戸参府 「出島」のオランダ商館員たちは、わずか3,969坪(1万5000平方メートル余)、本土とは1つの石橋のみでつながった出島に押し込められ、厳しい監視を受けた。島内には60棟余の建物があり、菜園などもあった。日本人が「カピタン」と呼んだ商館長、商館長次席(ヘトルと呼ばれた)、貨物管理の責任者である荷役役、会計総括の決算役、書記役などの商館員や、医師、大工、料理人など10~15人くらいのオランダ人、さらにジャワなどから召使として連れてきた現地住民もいた。他に多くの通詞などが働いていた。 オランダ人たちは自由に島外へ出られず、日本人の出入りも厳しく制限されていた。オランダ船の入港は年1回、貿易品の品目や数量、価格等にも厳重な統制があった。しかし、それなりの利益は確実にあがるので、オランダ側も不自由な条件の下でも貿易の特権を放棄せず、商館長は数量等の拡大、あるいは維持を常に願い出ている。また、幕府との公式な貿易の外に、商館員が特定の品を個人的に売りさばくこと(脇荷)も認められていた。 幕府は長崎を窓口としてヨーロッパの文物を輸入し、オランダ船が来航するたびにオランダ商館長(甲比丹,カピタン)が提出する「オランダ風説書」によって、海外の事情を知ることができた。出島のオランダ商館長一行は貿易許可・継続のお礼として江戸に赴き、将軍に謁見して献上物を捧呈する「江戸参府」が毎年行われた。江戸参府は、商館長を先頭に商館医と商館員数名、それに加えて阿蘭陀通詞と長崎の役人も随行し、一団はおよそ150人から200人で構成された。全行程を終えるには平均90日前後を要し、江戸には2,3週間滞在していた。 江戸参府は、1633(寛永10)年から毎年1回150回目くらいまで定期的に行われたが、1790(寛政2)年からは4,5年に1回の割合で、1850(嘉永3)年まで合計167回行われた。 自由貿易港 出島 ■幕府の統制下の貿易 「出島」とは江戸幕府の鎖国政策として長崎の海中を埋めたてて造られた扇形の人工島である。出島と江戸町とは出島の北側にある表門の出島橋(一ノ橋)で結ばれていた。幕府は長崎出島にオランダ東インド会社の貿易拠点「オランダ商館」を置き、長崎奉行の管轄下でオランダ貿易を行なった。また、中国からも私貿易船が多く来航したため、幕府は市中に「唐人屋敷」を設置するなど統制した。
■オランダと日本のの貿易品 オランダ船の貿易品は、沖に停泊している本船から小舟で出島の水門に搬入された。水門は出島の西側にあり二ノ門とも呼ばれ、この門はオランダ船入港時の荷揚げや出航時の輸出品積み出しの際に開かれるだけで通常は厳重に閉鎖されていた。出島には多くの日本人も働いていた。 出島は長崎奉行の管理下にあり、町年寄の支配のもと、出島乙名(でじまおとな)やオランダ通詞などの地役人が関与した。出島乙名の職務は貿易についての監督や出島内で働いている日本人の監督、指導、出島に出入するための門鑑(もんかん・通行許可書)の発行、公共施設の監視、商館員の使用人の割り振り、商館員の生活や行動の監視などであった。 オランダ船は毎年6,7月頃に入港し、主な輸入品には砂糖,胡椒,丁子,甘草,サフラン,肉桂,ビロード,羅紗,水牛角,象牙,齊角,書籍,天球儀,地球儀があった。砂糖は、18世紀になって輸入量が増えてきた。当時オランダの植民地であったインドネシアで砂糖の生産が増大したこともあって、砂糖は幕末まで主力の輸入品であった。 日本からは、陶磁器,漆器(しっき),屏風,木材,(※)「金,銀,銅」,樟脳,煙草,そして「醤油」などが輸出された。日本の醤油は、「JAPANSCH ZOYA(ヤパンセ・ソヤー日本の醤油)」または「JAPANSCH SOYA(ヤパンセ・ソイア)」の名で、オランダとの長崎での貿易を通じてヨーロッパに輸出されていた。 江戸時代、記録に残るところでは、正保4年(1647)に、オランダ商人によって樽詰めされた醤油が初めて輸出されている。 ・・・これは『長崎商館仕訳帳』に記載される「本方荷物」と呼ばれる商館正式の積荷で、台湾の安平商館(ゼーランディア城)宛、10樽分の醤油が海を渡ったとされている。・・・ また、江戸時代中期の寛政2年(1790)には、オランダ東インド会社によって陶器の瓶につめた醤油が長崎から輸出されるようになった。 ※:輸出品の「金・銀・銅」の初めの頃は輸出額の82%を「銀」、14%を「銅」が占めていた。江戸時代の初期、日本で採れた銀は非常に良質なもので、オランダの貿易も、銀が目当てであったと言われている。大量に「銀」が流出することを問題にした幕府は、銀に変わって輸出品を「金と銅」に切り替えた。 ■長崎貿易 長崎貿易「鎖国」により、貿易港は長崎1港に限られた。長崎に来航する貿易船は、オランダ船と中国船だけになった。オランダはバタヴィア(現ジャカルタ)においた東インド会社の一出張所として長崎の出島に商館をおき、貿易の利益を求めた。オランダ船は生糸や毛織物・絹織物・綿織物などの織物類や薬品・時計・書籍などをもたらした。反対に日本から輸出されたものは、初期には銀と銅、中期以降には伊万里焼や薩摩藩の樟脳(しょうのう)が主であった。とくにアムステルダムで売り出された日本の磁器は人気を集め、伊万里焼や柿右衛門は貴重品とされ、王侯貴族に収集された。 長崎には中国船も来航した。明代は長崎の町中に、中国人(唐人)が雑居するかたちで民間の町人との交渉をもってきた。(※)明清交替(みんしんこうたい)で明が滅び清朝が樹立したのちは、清船が自国産の生糸・絹織物、書籍のほか、ヨーロッパからの綿織物・毛織物・南洋産の砂糖・蘇木・香木などをもたらした。幕府は1685(貞享2)年に貿易統制を行って糸割符制度を再興し、貿易額もオランダ船3000貫、清船6000貫に制限したが、さらに1688(元禄元)年に清船を年に70隻と限った。また幕府は翌年、長崎の町に「唐人屋敷」を完成させ、約3万㎡の屋敷内に清国人の居住を限定し、監視できるようにした。 ※:明清交替は、それまで中国大陸を支配していた明から、中国東北部に居住していた満洲族の愛新覚羅氏が建国した清への移行を指す。 この移行は、17世紀初頭から数十年をかけて行われた。 出島からの醤油の輸出 ■醤油の輸出 江戸時代には、長崎・出島を通して醤油が輸出されていた。この輸出された陶器の醤油容器には「JAPANSH ZOYA」と書かれていた。 オランダ船と中国船によって長崎から運ばれた醤油は、おもに中国大陸や東南アジア、インドやスリランカなどで使われた。さらに一部はオランダ本国まで運ばれ、極東の調味料としてヨーロッパでも高い評価を得ていた。輸出された醤油は、香辛料・調味料の一種として、スープやソースに混ぜて使われた。17~18世紀のヨーロッパ人にとって、醤油は胡椒などと同じく、遥か遠くからもたらされた高価で珍しく美味しいソースだった。 江戸時代、ヨーロッパ諸国中で唯一日本との貿易を許されたのがオランダである。醤油の輸出はオランダ東インド会社が正保4年(1647)にオランダ商人によって10樽分の樽詰めされた醤油が長崎の出島より、台湾の安平商館(ゼーランディア城)へ搬送したのが最初といわれ、ヨーロッパにはオランダへ1737年に35樽が初めて出荷されている。『長崎商館仕訳帳』という資料によると輸出された醤油の単位が「樽」で記録されている。「樽」には大樽と小樽があり、それぞれ29リットル強、15リットル弱の醤油が詰められていたようである。 1647年に始まった醤油の輸出も幕府の鎖国政策の行き詰まりで、1854年には日米和親条約が結ばれ、そして、1855年、日蘭和親条約が締結され、オランダ人も長崎市内に出入りすることができるようになる。オランダ人の貿易独占特権は1859年に失われ、その存在意義を無くした出島のオランダ商館は閉館された。コンプラ株仲間の特権も1866年には廃止された。 ■コンプラ醤油瓶 当時の輸出醤油は京都と大坂・堺(※)のものが主流で、ワインやリキュールを入れる四角のガラス製の「ケンデル瓶」に煮沸した醤油を詰め、栓にコールタールを塗って密閉した15本入りの専用「ケンデル箱」で送られたようである。その後「コンプラ瓶」が登場するが、これは商館がコンプラ株仲間にケンデル瓶に代わる瓶の調達を命じて生まれたものである。 当時、醤油の名産とされていた大坂・堺には4軒の醤油製造業者があった。堺から長崎までの運搬に使われたのが、中国から長崎に入ってきていた生糸を堺に運ぶために定期的に運航されていた「堺糸荷回船」の帰りの便船である。この船に大坂・堺産の「醤油」が積み込まれ、長崎・出島へと運ばれた。
寛政11年(1799)前後からびん詰めの輸出醤油が出てくる。初めはオランダからブランデーやウィスキーなどを詰めてきた四角いガラス瓶で「ケルデル瓶」と呼ばれた。その後、ケルデル瓶が足りなくなり、赤道下での変質を防ぐため、長崎の波佐見町で焼かれた白磁染付の徳利型の陶器の「コンプラ醤油瓶」と呼ばれるものが使われるようになった。江戸時代中期の寛政2年(1790)には、オランダ東インド会社によって陶器の瓶(コンプラ瓶)につめた醤油が長崎から輸出されるようになった。 江戸時代、長崎の出島から初期には東インド会社を通じ、東南アジアや遠くヨーロッパに輸出されていた“JAPANSCHZOYA”(オランダ語でヤパンセ・ソヤー日本の醤油)という磁器の「染付醤油瓶」であった。この醤油瓶は、「コンプラ瓶」と呼ばれるもので、長崎県の大村湾東側の東彼杵郡波佐見町で焼かれた「波佐見焼き」の徳利だ。おおよそ三合入りでバラツキはあるものの、540mlほどの内容量だった。 「醤油」は京都産のものが、堺から長崎へ樽で運ばれ、オランダ商会・東インド会社の指導で、その醤油を鉄の釜で煮て、瓶に詰め、コルクで栓をして密封、保存性を高めたという。 鎖国政策の確立 「鎖国」という言葉は、ドイツ人医師ケンペル(1651〜1716)がその著書『日本誌』で、日本が長崎を通してオランダとのみ交渉をもつ、閉ざされた状態であることを指摘したのを享和元年(1801)、オランダ通詞 志筑忠雄(1760-1806) が邦訳して「鎖国論」と題したのに始まる。「鎖国」の言葉は、つまりヨーロッパとの関係において国を鎖(とざし)たということになる。 ■鎖国政策下の「四つの口」 江戸時代の日本は完全に国を 鎖していたわけではない。近年では、江戸時代の鎖国体制化の対外関係のあり方を「四つの口」または「四つの窓」と呼ぶ。 鎖国下の幕府は、長崎口(オランダ・中国との貿易)、対馬口(朝鮮との国交)・薩摩口(琉球王国との国交)・松前口(アイヌとの独占交易権)の4つの外交窓口で外国と結びつき、関わりがあった。この4カ所を「四つの口」体制という。 三代将軍家光の時代に起こった島原の乱(1637年)の後、キリスト教の影響を恐れた幕府は、禁教令によるキリスト教(カトリック教)の日本への流入を食い止める宗教政策・日本人の海外渡航の禁止・キリスト教の布教に熱心なスペイン・ポルトガル船の来航を禁止し、長崎出島には、キリスト教の布教をしないオランダのオランダ商船と中国商船のみの渡来を許可するという制限的な貿易秩序(幕府による海外貿易の独占)の鎖国を完成させていく。 その後、幕府は二百年以上鎖国政策をとった。鎖国によって幕藩体制が強化・安定し、「徳川の平和=Pax Tokugawa」とよばれる天下泰平の世が続いた。しかし、幕府は日本と海外につながる「四つの窓」があり、鎖国後も直轄や大名を通じた貿易・交易が行われ、品物のやり取りや文化の交流もあり、江戸幕府は鎖国下においても海外の情報収集は続けていた。 海外との貿易が四つの口(松前・薩摩・長崎・対馬)に限定された「四口体制」が成立されて、鎖国体制が完成された。対馬・薩摩・松前の三口は大名家(藩)による管理であったが、長崎のみ幕府の直轄地として重要視されていた。 幕府は朝鮮(窓口:対馬藩主の宗氏)・琉球王国(窓口:薩摩藩の島津氏)と国交を結んで将軍の代替わりごとに使節(朝鮮通信使・琉球の慶賀使)を迎え、中国とオランダの交易関係により生糸・絹織物や薬品が輸入され、蝦夷地(窓口:松前藩主の松前氏)からは木材や海産物などを交易で得た。 また、長崎を窓口としてヨーロッパの文物を輸入し、オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が提出する「オランダ風説書」によって、海外の情報を知ることができた。このように、幕府は窓口を制限することで海外からの情報と貿易を独占しようとした。同時にそれまで九州全域で行われていた唐船との貿易を一括して管理するという幕府政策の大きな流れの中で、長崎口は生まれた。 ■「四つの口」,長崎・オランダ 荒野泰典「公益財団法人ニッポンドットコム」-近世日本の国際関係再考のために- から以下を引用する。 「近世の国際関係というと、多くの人はほとんど反射的に、「長崎・オランダ」を思い浮かべるのではなかろうか。しかし、長崎における貿易の実際を見ると、貿易量ではオランダは中国のほぼ3分の1、長崎に滞在した人数も、最盛期の17世紀には数10人規模のこともあったが、18世紀に入るとほぼ20人余りにとどまり、その中にはアフリカや東南アジアから召使などとして連れてこられた人々も交じっていた。 17世紀の後半までは日本貿易は、オランダ東インド会社にとってドル箱だったが、シナ海交易の拠点だった台湾から鄭成功に追い出され(1662年)、さらに、日本からの銀輸出が不可能になると、利益率は急速に落ち、18世紀に入ると、日本市場からの撤退を検討するようになる。 オランダ商館長日記には、貿易不調に対する苦情などがあふれている。それにもかかわらず、それから約1世紀半の間オランダ人が出島に留まり続けた。その理由は実はまだ明確になっていないのだが、今、私に考えられる理由は、17世紀ほどの莫大な利益は得られないものの、断念するまでにはいたらないほど、「そこそこ」の利益が見込まれたからではなかろか。 新井白石の正徳新例の目的は、崩壊の危機に瀕した長崎貿易を、都市長崎そのものを立て直すことだった。その方法は簡単に言えば、都市長崎とそれによって成り立っている貿易体制を維持するために、貿易そのものを組み替えること、より具体的には、輸出品が調達できる範囲に貿易量を抑えるということだった。 言いかえれば、貿易を持続可能なものに組みかえることによって、体制も維持するということだった。この施策の成功によって、長崎の貿易とそれによって支えられていた国際関係の管理統括の体制も、幕末まで維持されたのだった。 オランダとの関係が重要な意味を持つようになってくるのは、18・19世紀の交(こう)、いわゆる「外圧」(欧米諸国の通商要求)に入ってからのことだ。 いわゆる「鎖国」という和製漢語が、志筑忠雄によって創出されるのがこの時期であることは(志筑忠雄『鎖国論』1801年)、その歴史的意義までも象徴しているように私には思える。」 ■鎖国政策 江戸幕府初期の対外政策は、キリスト教は禁じるが、貿易は奨励するというものであり、海外貿易は活発であった。しかし、幕府がキリスト教の禁教を進めたため、日本人の海外渡航や貿易にも制限を加えざるを得なくなった。また、幕府は西国大名が貿易で利益をあげるのをおさえ、幕府のみが貿易利益を独占するために、盛んになった貿易を幕府の厳重な統制のもとにおいて管理する必要に迫られた。 そのため、1624(寛永元)年に、スペイン船の来航を禁じた。また、イギリスもオランダとの競争に敗れ、1623(元和9)年に平戸商館を閉鎖した。ついで1633(寛永10)年には、朱印状のほかに老中奉書を携えた奉書船以外の海外渡航を禁止し、さらに1635(寛永12)年、日本人の海外渡航を全面的に禁止したうえに、すでに渡航していた在外日本人の帰国も禁止した。 その後、1637(寛永14)年から翌年にかけておこった島原の乱の影響から、幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに深まり、1639(寛永16)年、ポルトガル船の来航を禁止した。さらには、平戸にあったオランダ商館を1641(寛永18)年に長崎の出島に移し、唯一残されたヨーロッパ人であるオランダ人と日本人との自由な交流を禁止して、長崎奉行の厳しい監視のもとにおいた。 こうして東アジアを舞台に展開してきた日本の貿易船やスペイン・ポルトガル・イギリス・オランダ商人の活動を統制する一方、幕府は中国(明朝)との国交を回復させようと、朝鮮(李氏朝鮮)や琉球を介して交渉したが明(王朝)からは拒否された。 しかし、中国の民間商船も活動はヨ一ロッパ勢に劣らず活発で、九州各地に訪れていた。もはや中国との正式な国交回復を断念した幕府は、中国船との私貿易を長崎に限定して統制下におき、そのほかの場所での貿易は密貿易として禁止した。こうして、いわゆる「鎖国」の状態となった。
■「鎖国」 へ至る過程 1612年 幕府がキリスト教の禁教令を出す 1616年 中国(明)以外の船の入港を長崎・平戸に限定 1623年 イギリスが平戸商館を閉鎖 1624年 イスパニア(スペイン)との国交を断絶、来航を禁止 1631年 奉書船(渡航が許可された船)制度の開始、朱印状以外に老中の泰書が必要となる 1633年 奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国禁止 1635年 中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、日本人の渡航と帰国の禁止 1637年 島原の乱(1637~38) 1639年 「鎖国令」、キリスト教布教禁止、ポルトガル船の来航を禁止 1641年 オランダ商館を平戸から長崎・出島へ移転 ■鎖国令と長崎出島 以下の「鎖国令」は、1633年から1639年の寛永期にかけて、三代将軍の徳川家光が5度にわたって発布した。この鎖国令はポルトガルの日本貿易独占の排除とキリスト教禁止を主目的としているが、貿易そのものを閉ざすものではなく、ポルトガル貿易に変って、新しいキリスト教と関係のないオランダ・中国との交易を進めることであった。 幕府はポルトガル貿易の代替物をオランダ・中国に求め、代替物の筆頭としての生糸(白糸)の輸入も安定して行われていることからも幕府の意図を解することができる。この条項によって日本船の全面渡航が禁止され、一般国民は諸外国との接触は完全に閉ざされた。 ・寛永10年(1633年)第1次鎖国令。奉書船(幕府公認の船)以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。 ・寛永11年(1634年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達、海外渡航・長崎寄港制限。 ・寛永12年(1635年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。日本人の海外渡航と帰国を禁じた。 ・寛永13年(1636年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人を追放、残りのポルトガル人を長崎出島に移す。 ・寛永16年(1639年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。 → 一般にこれをもって鎖国の完成とする。 ・寛永18年(1641年)鎖国体制の完成。平戸のオランダ商館を出島に移す。 1859年に開国するまでの217年間、出島はオランダ人の日本における唯一の商業基地になった。出島内には60棟余の建物があり、菜園などもあった。出島は原則として日本人の関係者以外出入りが禁止されており、オランダ人もオランダ商館付医官に赴任した蘭学医シーボルトなど以外の者は出島に軟禁状態とした。江戸時代、わが国に来航したオランダ船は、1641年から1859年までの217年間に延べ700隻以上にものぼった。
■「鎖国」下の海外情報収集 「鎖国」体制下の幕府にとって、海外情報に大きな関心が払われたのは当然である。その代表が、長崎出島から発せられる『阿蘭陀風説書』で、これはヨーロッパ・インド(ジャカルタをふくむ)・中国の各風説の3部からなるが、それ以外の世界の多岐にわたる情報もふくまれる。 近世末期には、定型化されない『別段風説書』、それに唐通詞を媒介とする『唐風説書』も書かれたが、これらは通詞仲間などを経由して幕閣のほか諸大名・公家その他にひろまった。特に西南大名などは長崎の蔵屋敷に聞役(ききやく)を配置して、国内外の情報収集に努めたが、江戸参府途中のオランダ商館長やその一行からも海外の知識や情報が知識人・民衆にもたらされ、また日本国内の諸情報がヨーロッパ諸国に伝播していった。 こうした情報伝達のルートは、陸上の主要街道(長崎路~中国路~東海道・中山道)の諸飛脚のみならず、海上航路(玄界灘~瀬戸内梅)の飛脚船をも利用した。 参考文献 鎖国政策下の日本貿易、産業技術史資料に基づいた日本の技術革新に関する研究、「お醤油の来た道」徳間書店、「オランダ東インド会社」講談社学術文庫、「しょうゆの不思議」日本醤油協会、「江戸のオランダ人」中公新書、石川の日本史入門「ニッポン」の誕生、「ツンベルグ日本紀行(昭和16年)」奥川書房、「30の発明からよむ日本史」日本経済新聞出版社、福岡県立図書館郷土資料課『NIPPON』、シーボルトがみた日本の近世町家の特質「オランダへ渡った日本の町家模型の分析」、「公益財団法人ニッポンドットコム-近世日本の国際関係再考のために-」荒野泰典、「近世の公用交通路と情報の伝達」丸山雍成、他
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