日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 江戸時代の醤油輸出

コンプラ瓶(金富良瓶)

「soy や soya は17世紀末頃オランダ語から英語に入ったと考えられている。この語がオランダ語を通じて入ったことは醤油輸出の歴史をみれば明らかだ。『バタビア城日誌』には1669年。日本からバタビアに来た中国船が醤油20樽を積んで来たと記されている。また、オランダのハーグ文書館には1670年に日本より醤油30樽が注文に応じて送られたという文書が残っている。
オランダ貿易において、コンプラ仲間が作っていた「金富良(こんぷら)商社」という名のブランドがあり、そこが九州肥前の波佐見焼の瓶に醤油や酒をつめ出島から輸出していた。その輸出用の瓶をコンプラ瓶と呼んだ。波佐見焼自体は1665年から1873年のあいだに発展し隆盛を極めたが、いつ頃からコンブラ瓶として用いられたかは定かでない。一説に、1790年、初めて輸出用に550本使用されたとされている。しかし、長崎商館は1793年から醤油の輪出を禁止する。また、1799年にはオランダ東インド会社が解散。その後.長崎商館はバタビアの東インド政庁の管理下に置かれ、醤油の輸出を再開する。その際に1790年のコンプラ瓶を模倣踏襲したと考えられている。瓶の高さは20センチ程度、容量は500ミリリットル前後、口はコルク栓で密閉されていた。」(「英語になった日本語」春風社、「醤油の輸出」より引用)


■JAPNSCHZOYA(ヤパンセ・ソヤー日本の醤油)


コンプラの語源は、ポルトガル語のコンプラドール(Comprador)の略称(CPD)で、「買付け」「仲買人」の意味からきている。長崎の商人たちが「金富良(こんぷら)社」という組合を作り、東インド会社V.O.C.を介して、長崎出島からオランダやポルトガルを中心とした西洋や東南アジア向けに「醤油(JAPANSCH ZOYA)」や「酒(JAPANSCH ZAKY)」を入れて輸出した。 コンプラ瓶は、高さ20cm程度、容量は500ミリリットル前後、口はコルク栓で密閉されていた。


■コンプラ瓶(江戸期) と コンプラ瓶(明治期)
 

コンプラ瓶(輸出用醤油瓶)は瓶の肩に『JAPNSCHZOYA』とかかれていた。“JAPNSCH”はオランダ語で「日本の」の意味、“ZOYA”は醤油を意味する。明治期のコンプラ瓶の下部には、“DECIMA(出島)”や、「長崎金富良商会」の略文字(CPD=COMPRADOR)も印字されていた。不思議なことに、“COMPRADOR”はオランダ語でなくポルトガル語で「仲買人」の意味である。
コンプラ瓶には、オランダ語で JAPNSCHZOYA(ヤパンセ・ソヤー日本の醤油)、JAPANSCHZAKY(ヤパンセ・サキー日本の酒)と染付されている文字は手描きのものが多いが、型紙摺りによるものもある。主に長崎県波佐見諸窯で生産されたものである。窯跡では三股(みつのまた)諸窯、永尾本登窯や中尾上登窯で出土している。国内の消費地遺跡では長崎の出島和蘭商館跡から大量に出土するが、その他、北海道内の遺跡で出土する例が多いことが知られている。
九州肥前の波佐見焼き自体は1665年から1873年の間に発展し隆盛を極めたが、いつ頃からコンプラ瓶に醤油や酒が詰められて用いられたかは定かではない。しかし、フランスでの日本産醤油に関する記述は『百科全書』(1765年)に現れる。当時の記録によると腐敗防止のために、醤油を一旦沸騰させて陶器に詰めて歴青(せきれい、コールタールの意)で密封したという。

染付白磁の燗付(かんつけ)徳利に似た「コンプラ瓶」は別名「蘭瓶(らんびん)」とも呼ばれ、肥前大村藩の三股・皿山役所(窯業管理機関)のもとで急速に成長した「金富良(こんぷら)商社」が、日蘭貿易の最盛期・1650年ごろから明治末期ごろまで、日本酒や醤油を東南アジアやオランダ本国向けに盛んに輸出したので、その容器が「コンプラ瓶」と呼ばれるようになった。 『波佐見陶磁器工業協同組合』によると、「独自のデザインと洋文字はオランダ人の注文で、どっしりとした形は安定を考えたもの」といわれている。


■オランダ貿易と醤油
コンプラドール(Comprador)の「仲買人」は、長崎奉行によって、「出島諸色売込人(でじましょしきうりこみにん)」と改められた。「出島諸色売込人」とは、長崎出島のオランダ商館員や来航船の乗組員のために、日用品、輸出品、および貨物梱包品などいわゆる諸色を、日本商人との間に立って取次ぎ、仲立ちをした特権商人達を「コンプラ株仲間」または「コンプラ商人」と呼ぶ。コンプラ株仲間は寛文6年(1666年)長崎奉行河野権右衛門通定の認可によって成立した16株、16人の株仲間でつくられた。


オランダ東インド会社V.O.C

オランダ貿易において、長崎の商人たちが「金富良(こんぷら)株仲間」という組合を作り、オランダ(連合)東インド会社V.O.C(De Vereenigde Nederlandsche Oost-Indische Compagnieの略称)を通じて醤油を輸出した。オランダ東インド会社は、バタヴィア(今のインドネシアのジャカルタ)に総督府がおかれ、ここを拠点に香辛料の貿易を中心として、ヨーロッパ・インド・ペルシア・東南アジア・中国・日本(長崎出島)を結ぶ中継貿易を行っていた。オランダ船は、それぞれの国が必要とするものを運び販売する仕事をしていた。醤油はコンプラ瓶(日本名:金富良瓶)にコルクの栓で密封し詰められて長崎出島から輸出された。



日本の醤油の評判

■ツンベルグ:日本紀行(仏語初版) 全4 冊

スウェーデンの博物学者ツンベルグ(トゥーンベリ)は、オランダ東インド会社の出島オランダ商館付きの医師として安永4年(1775年)に日本に派遣された。以来、1年数ケ月をかけて出島の商館付き医師を任ずるかたわら日本研究に没頭し、帰国後1788~93年にかけてこれらの調査資料(アフリカのものも含む)をまとめて刊行した。内容はほぼ半分を日本関係がしめており、出島における日常生活、日本の産業、貨幣、暦、言語、宗教、文学、地理、風俗、政治、動植物について詳細に記述されている。

■ 『ツンベルグ日本紀行』/山田珠樹 訳註 から醤油に関する記述は次の通り
日本の醤油がヨーロッパでも高い評価を得ていたことは、文献で確認できます。安永4(1775)年から1年ほど長崎の出島で暮らしたスウェーデンの医師・植物学者のツンベルクが記した「ツンベルク日本紀行」には、次のように書かれています。
“第23章 生産物の用途及び特質”
「日本人にとって一番必要な穀物は米である。藁麦、裸麦、大麦、また小麦などは別に大事なものではない。・・・日本人は、隠元豆・豌豆〈エンドウ〉・蚕豆〈ソラマメ〉・大小各種の味豆を盛んに栽培する。ダイズ(Daiso)と云う豆の粉は、いろいろの料理に使われる。これを圧搾して出した汁は醤油となる」
“第26章 日本人の商業”
「茶の輸出は少ない。・・・その代わり(日本人は)非常に上質の醤油を造る。これは支那の醤油に比し遥かに上質である。多量の醤油樽が、バタビア(現ジャカルタ)、印度、および欧羅巴(ヨーロッパ)に運ばれる(輸出されている)。互いに劣らず上質の醤油を作る国々がある。和蘭(オランダ)人は醤油に暑気の影響を受けしめず、又その発酵を防ぐ確かな方法を発見した。和蘭人はこれを鉄の釜で煮沸して壜詰(びんづめ)とし、その栓に瀝青(れきせい=コールタールの意)を塗る。かくの如くにすれば醤油はよく、その力を保ち、あらゆるソースに混ぜることが出来る。醤油は欧羅巴の各国にも輸入されているが、醤油豆(大豆)と裸麦或いは小麦及び塩で作られるものである。」
ここに登場する瓶詰というのがこの”コンプラ瓶”です。



参考文献
コンプラ瓶の生産と流通、徳間書店/お醤油の来た道、しょうゆの不思議/日本醤油協会、波佐見町観光協会、日蘭交流の歴史を歩く、古美術青華堂、日本観光文化研究所、キッコーマン、奥川書房/ツンベルグ日本紀行(昭和16年)・他






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