日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


日本醤油の歴史文献

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四条流庖丁書

 庖丁式、四条流庖丁儀式


■庖丁流派:公家
宮廷公家には、家ごとに諸芸道を伝える「家業」があった。これは、公家文化の独自性を残すという面の他に、武家政権樹立後は公家衆の経済の重要な収入源ともなったのである。特殊な技芸を伝承したのは、概ね中流の公家衆であり、庖丁道を伝えた四条家も、この一つ羽林家と呼ばれる家柄であった。『幕末の宮廷』の著者で摂関家一条家の侍であった下橋敬長も「庖丁の家」と、四条家を称している。
四条家は、奈良時代末の称徳天皇と光仁天皇の信任厚く正一位左大臣に昇った藤原魚名を祖としている。しかし、魚名が失脚した後は、貴族としての昇進の道からは大きく外れ、大部分の者は、各国の受領に滞るという中流貴族となった。こうした中で、光孝天皇に重用され、従三位中納言となったのが藤原山蔭であり、彼が庖丁道の祖と仰がれるのである。
料理に造詣の深い天皇より、藤原山蔭は勅命を受けて、材料の吟味、調理から盛り付け方、さらに料理人の有り様までの基本的な体系を作らせたのが、庖丁道の始まりであるとされる。

■四条流庖丁聞書と醤油
一つの料理書奥秘として四条、大草の両家が世に伝えたが、その中で醤油の発明は調味の秘伝口授となり、永く世に出なかつたものだとの説もある。即ち、足利義政の長享三年(西暦1489年) の奥書、四条流庖丁聞書に「たれ味噌」「うすたれ」等で調味した文字がある。
うすたれの製法は、「味噌一升に水三升を加え、もみ立て袋に入れ、垂れ来る液を集めたもの」とある。又足利義晴の天文六年(西暦1537年)四条隆重卿よりの伝授と奥書がある、武家調味故実に「ひしほいり」「ひしほの汁」等がある。この「ひしほいり」に醤煎のことで、「ひしほの汁」は醤の汁で、これらは明らかに醤油と見らるべきものである。

「四条流庖丁書」の魚の調理法と調味料
醤油の記録は1597年版「易林本節用集」が最初であり、味噌よりも遅い。室町時代になると京都五山僧徒の問に割烹調理が発達し、「醤」を工夫した調味料が醤油の前段階として使われた。これが奥義秘法として平安時代から続く日本料理の流派である四条家や大草家に伝えられ、その料理書「四条流庖丁書」,「大草料理書」や「類聚近世風俗志」などには垂れ味噌、溜り、薄垂れと記載され、味噌を希釈したものや味噌から分離した液状の調味料であった。

醤油が普及する前の室町時代中期の料理書「四条流庖丁書」長亨3年(1489年)には、刺身の鯉、鯛、鱸(スズキ)を食べる調味料に“塩・酢・みそ”がみられる。また、鯖、鯵、鰯などの魚を煮るとき、最後に酢を入れて生臭さを消す「酢煎(すいり)」という調理法が室町時代にはすでにあった。料理書「四条流庖丁書」には、『鯉ニテモ鯛ニテモ差(サシ)ミノ如ニ作リテ……煮テ参ラセザマニ酢ヲ指シテ参スル也』とある。
酢煎(すいり)という調理法以外にも「四条流庖丁書」の中には『ウシホ(潮)ヲ汲テ先ず煎ジテ』と海水を煮詰めて作る液状の塩「水塩(みずしお)」の調味料や前述の『スズキの刺身など、すべからく魚料理には、この蓼(たで)酢を添ふるべし...』,『ナマス(魚の酢の物)には蓼が合う』と書かれている。また、垂れ味噌(薄垂れ)から造るしょうゆ状のもの「味噌一升に水三升五合を混ぜ、煮詰めて三升とし袋に入れ、それを締めて垂らした液体」という液体調味料の記述が残っている。
この液体調味料の「薄垂れ」は、『四条流庖丁書』の他に『山内料理書』明応6年(1497)、『庖丁聞書』(室町末頃)、『山科家礼記』明応元年(1492)などの諸史料に数多く見られる。

刺身の調味料の変遷
室町後期の「四条流庖丁書」には、鯉は山葵酢、鯛には生姜酢、鱸(スズキ)ならば蓼酢など、それぞれの魚に適した「調味酢」があげられていて、江戸時代、刺身に添える調味料の多くには、「煎酒(いりざけ)」や蓼酢、山葵酢、生姜酢、辛子酢、生姜味噌、蓼酢味噌などが用いられていました。煎酒は古酒に削り鰹節や梅干し、たまり(味噌から取るうま味の強い液。のちのたまり醤油)を少量入れて、煮詰めて濾したものです。江戸時代の後期になると梅干しの代わりに酢が用いられるようになりました。その後醤油が普及すると“酢で食べるものは鱠”、“醤油で食べるものは刺身”と区別されるようになります。


<庖丁式>

■庖丁の語源
庖丁の語源について、宝暦13年(1763)以降の成立とされる『貞丈雑記』巻六は、魚鳥を切る刀が庖丁で、野菜を切る刀は菜刀であるから、「庖はくりやとよみて台所の事なり、丁は仕丁の丁にてめしつかひの事也、台所のめしつかひと云事也」としている。そして寛政六年(1774)に没した百井塘雨の『笈埃随筆』巻12には、「料理の始は、魚名公の男、四条中納言政具卿より庖丁起れり、爰を以て四条流などいへり。別て伝授とするは五魚三鳥也」などとある。

庖丁式とは
日本古来より伝わり、庖丁師により執り行われる儀式で、鳥帽子・垂直、又は、狩衣を身にまとい、大まな板の前に座り、食材に直接手を触れず、右手に庖丁、左手に箸を持ち、食材を祝の型や、法の型に切り分け、並べる儀式の事を庖丁式と言う。

庖丁式に使う道具と衣裳
庖丁式を執り行う道具は、庖丁・真奈箸(まなばし)・大まな板・板紙など、庖丁式専用と言える道具が必要である。
衣裳・着物は、宮中・公家では、当時着用されていた直垂・狩衣などで執り行われていたが、武家では上下着用でも執り行われた。

真魚箸(まなばし)
庖丁式に用いられる式正箸で、昔は、魚鳥など、生臭物は直接手をふれることを忌み嫌い、左手にまな箸、右手に式正庖丁を持って、その家の主人が料理を作ってもてなした。竹や木製の長さ一尺八寸(百八煩悩)の箸が使われていたが、後に木の柄がついた金属製の箸になった。

庖丁式の流派の誕生と家系図
昔の日本では、天皇を神とし、天皇中心の考え方が基本であった。行事などを初め、決まり事など、天皇家の執り行うことを公家はもちろん、武家までも真似た。料理も例外でなく、公家や武家の料理人達は、天皇家の料理技法・作法・味付なども天皇家料理番である高橋家に習い、高橋家に弟子入りし、儀式の執り行い・料理・調理法・技法・庖丁式の伝授をうけた。伝授をうけた中から流派が生まれる事となる。
現在、現存する庖丁式流派として、生間流・四條流・大草流があげられるが、本家である高橋家は、今はない。


<四条流庖丁書>

庖丁流派と料理書
室町期には、本膳料理に示されたような料理技術を体系化するために、いくつかの庖丁流派が生まれた。
かつて料理流派といえば、平安貴族の大饗料理の系譜を引く四条流のみであったが、本膳料理が発展を見ると、将軍などに使える有力武家のなかに包丁を担当する料理流派が登場し、これを秘伝書という形で体系化し、派内で伝承するということが行われた。
こうした料理書の成立は、日本料理の成熟を示すものでもあった。本膳料理の料理人は、日本料理の伝統である切るという技術を強調することもあって、庖丁人と呼ばれた。

四条流庖丁書
四条流とは、古い日本料理の流名の一つ、始祖は光孝(こうこう)天皇に仕えた、四條中納言 藤原山陰(ふじはらやまかげ)卿で、種々と料理に関することを制定した人である。その後、四条流も二派に分かれて、一つは四条園流(しじょうそのりゅう)、もう一つは四条家園部流(しじょうけそのべりゅう)で、後の徳川家の善部もこの流派によって司られたとある。

下の絵は、庖丁刀と真魚箸(まなばし)を使って鯉をさばく庖丁師。
『七十一番職人歌合』五十七番「庖丁師」より,明応9年(1500)頃(室町時代)


『四条流庖丁書』は室町時代中期(長享三年(1489年))に四条流の大意をまとめた料理書として書かれた。
歴史的に今の日本料理の基礎が出来上がったのは、鎌倉・室町時代といわれている。
室町以前も公家などの間では刀などで魚をさばいていたが、庶民にも包丁や鍋などが行き渡るようになったのは室町時代である。

室町時代に入ると宮中の料理は、料理流派(四条流,大草流など)が武家にも採り入れられ、庖丁人(料理人)をかかえ、食礼式が発達した。武家社会では公家社会と共に飲食の形式を重んじられた。この時代、食作法が1人分の料理を膳の上に組む「本膳の形式」(本膳料理)による料理が形成された。






■「四条流庖丁書」には、四条中納言藤原山蔭(ふじはらやまかげ/824年-888年)卿が鯉を包丁したことから庖丁の儀式の切形が始まったと記してある。庖丁式とは料理の包丁さばきを客の前で行う芸能的儀礼である。
藤原山蔭が光孝天皇の命によって料理の新式を定めて四条流を開いたとされている(長享三年奥書の多治見貞賢「四条流庖丁書」)。朝廷の料理は宮内省内膳司の主管であったが、唐から伝えられた食習慣、料理法、作法に通じた識者として、藤原山蔭が本膳料理の形に結実させる新しい料理作法「四条流庖丁式」を編み出した。四条流庖丁書では、タイの刺身の盛り付け方やそれに使う調味料を生姜酢と指定している。
この四条流は、その後多くの分派を生み出しながらも公家・武家の間に広くひろまっていった。この当時、調理法の発達や茶、禅の影響もあって、調理技術、配膳や飲食の作法、食事の席上の礼儀作法等を示した庖丁家の料理流派が現われた。この頃、四条流から「四条流庖丁書」という包丁のさばき方や盛り付け方などが細かく規定し格式を保つために秘伝書なるものがあった。

室町時代初期、藤原山蔭は庖丁の家として著名であり、四条流の口伝を書きつけた室町時代の料理書『四条流庖丁書』からは、室町時代の料理の様を窺うことができる。
・「鳥といえば雉のこと也」
・「魚は鯉を一番とし、その後に鯛などを出すべし」
・「鯉に上する魚なし。鮒又は雑魚以下の川魚には海の物下とすべからず」
・「美物上下之事。上は海のもの、中は河のもの、下は山の物である。河の物といっても、鯉にまさる魚はない。しかし、鯨は鯉より先に出しても苦しくはない。また、鯉以外の河の物はすべて海の物より下る」
・「スズキの刺身など、すべからく魚料理には、このたで酢を添ふるべし…」


■庖丁家には、公家を対象に調理する四条流と生間流、武家の調理専家である進士流・大草流があった。
四条流 (1116~1185年頃、藤原魚名の子孫、四条隆秀)
生間流 (1196年頃、藤原山蔭正朝の直系である小野田兼廣が源頼朝に仕えた事から)
大草流 (1380年頃、大草三郎左衛門が足利義満の料理人として仕えた事から)
進士流 (1380年頃、大草流の話が出てくる文献に進士流の記述があり、大草流と同門と思われる)
薗流 (1600年頃、別堂入道基氏が百日間、鯉を切って練習した『百日鯉』の話が有名になり流派の誕生)
薗部流 (1630年頃、薗部新兵衛が四条隆重より庖丁式の伝授されて発祥した流派)

1600年代後期に庖丁式は全盛期と思われ、その後、進士流・薗流は仕えていた大名や公家の消滅により無くなる。
1700年代に大草流は継承者の突然死によって、弟子たちが他の流派に移った事で消滅。四条流は薗部流が継承を引き継ぎ、四条流として現在まで伝わる。


<庖丁師と庖丁式>

庖丁師と庖丁式の出現
客をもてなす際に、主人自りが客の前で調理した食事習慣から始まったものの一つに「庖丁儀式」があった。庖丁式は普通鯉を使うが、昔は天皇の前でのみ許された「鶴の御前庖丁式」というものもあった。いずれにしても、庖丁式は王朝時代の殿上人の間で優雅に行われた。

「庖丁(ほうちょう)」という名が登場するのは、平安時代後期である。包丁はもともと「庖丁」と書いていた。「庖丁」とは、厨房の仕事に従事する者、つまり料理人のことを指していた。
「庖丁式」の基は、宮中行事で公家料理人・武家料理人に伝授された。中世前期の武家社会になると鳥獣を調理する行為自体が儀礼化して定着した。そして、室町時代には「庖丁師」なる専門職人が輩出し、調理法も単に「割(かつ)」(切る)だけから、「割」と「烹(ほう)」(煮る)による調理へと拡がった。
この「庖丁師」による儀礼化の元祖といわれるのが、『四條流庖丁書』である。この書は、延徳元年(1489)に、四條中納言藤原山蔭(やまかげ)が定めた庖丁式を多治見(たじみ)備後守(びんごのかみ)貞賢(さだかた)が編纂したものとされている。これにより、調理が儀式的な作法により”切る様式調理”だけではなく“見せる様式調理”に変化したと考えられる。

『七十一番職人歌合』 (江戸前期と江戸後期の模本)
 
『七十一番職人歌合(しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ)』 五十七番 庖丁師(はうちやうし)

「職人歌合」は様々な職業の人物を組み合わせて、対になる両者の和歌を載せたもの。各番2首ずつ、142種の職業にちなんだ歌を合わせ、判者が歌の優劣を判定して述べる判詞を添えて計71番の歌合としている。
57番「庖丁師」の絵図は、烏帽子、直垂、袴姿で、右手に庖丁、左手に真魚箸を持ち、まな板の上の魚(鯉)を料理するところ。まな板の横に、皿鉢と水瓶が描かれている。

「明暦三年版」と「弘化三年版」 57番の「和歌2首と判詞」
   
「五十七番」の和歌2首
『おほ鯉のかしらを三にきりかねて(大鯉の頭を三枚におろし損ね)、かたわれしたるあり明の月(切り損ねた大鯉の頭のように、半分に割れた有明の月)、夜もすからあすのてんしんいそくとて(夜どおし明日の点心を急いで作る)、こゝろもいらぬ月をみるかな(気もそぞろで月を見る)』

「左右ともに、吹毛の難(些細な欠点)も侍れは、哥から(歌全体の品格のこと)させる事なきによりて、為持。」

『こい(恋・鯉)ゆへに(故に)はうちやうかたなは(包丁刀)をみれは、ほろ/\とこそねもなかれけれ(ぼろぼろと庖丁の刃が欠け落ちる)、いかにせむ こしき(蒸す道具)にむせる(蒸せる)まんちう(饅頭)のおもひ(思ひ)ふくれて人の恋しき』

「左歌、庖丁には、魚も鳥もいくらもよせ、ありぬへきを、二首なから鯉をよめる、才学(才覚)なきに似たり。せめて、こしきのまむちう(饅頭)のふくるらむは、才学(才覚)すこし侍り。可勝。」


<四条流庖丁儀式>

四条流庖丁書には、四條中納言 藤原山陰(ふじはらやまかげ)卿が、鯉を包丁したことから、庖丁儀式の切形が始まったと記録されています。
「庖丁儀式」は、日本王朝時代の厳粛な儀式であり、古典文化生活のひとつです。四條流の名は平安朝の初期、五十八代光孝天皇の勅命により庖丁式(料理作法)の新式を定めたことに由来すると伝えられ、平安朝時代の宮廷や大名家で貴賓客を招いた際に、歓待するおもてなしとして包丁さばきを見せ、料理を饗したのが始まりとされています。
四條家からは、山蔭卿以後も多くの流派が継承されています。鎌倉、室町時代に武家料理が盛んになり、生間流、進士流、大草流、四條園流、四條園部流などの日本料理の流派が多数生まれましたが、大半は四條藤原山蔭卿の流れをくむものです。

平安時代の光孝天皇の命により様々な料理をまとめて、後世に伝えたのが四條流の祖といわれる四條中納言藤原山陰卿でした。光孝天皇の時代から朝廷を始め、貴族社会の人々により、宮中行事の一つとして行われてきたのが「庖丁儀式」です。
平安朝の時代の装束、烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)をまとった姿で、庖丁刀と真魚箸(まなばし)のみを用いて、まな板の上の鯉・真鯛・真魚鰹など、素材に一切手を触れることなくさばいていく。これは、神が食す物への儀式なのです。古式に則った所作とその包丁さばきは、熟練の技。日本料理の伝統を今に伝える厳粛な儀式です。

庖丁儀式『鯉の庖丁式』の切形は40種以上もあり、「洗鯉」「竜門の鯉」「長久の鯉」「神前の鯉」「馬場の鯉」「出陣の鯉」「梅見の鯉」「二唯の鯉」「宝の入船」 「花見の鯉」等々があります。庖丁式の素材は三鳥五魚と云い、鶴・雁・雉・鯉・鱸・真鰹・鯛・鮒を用います。
昔は、『鶴の御前庖丁式』というものがあって、正月二十八日に、宮中の清涼殿で行なわれ、天皇の御前でなければ許されない、おごそかなものでありました。「鶴の庖丁式」の切形にも「式鶴」「真千年」「草千年」「舞鶴」「鷹鶴」という名称の切り型がありました。



「鯉の庖丁式」の切形<長久の鯉>尾を立てないでヒレと骨で長久の文字をかたどる。


写真は「鯉の庖丁式」の切形「長久の鯉」である。尾を立てないでヒレと骨で長久の文字をかたどる。



「四條流 鯉切汰図」
食材である、魚類や鳥類を切り分ける事を切汰と言う。切り分けた頭や身、骨をまな板の上に並べ、並べ終 わった物を図にした物を切汰図(図8)と言う。この切汰図が、各流派共残っており、秘伝として弟子へ伝承 された。







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