江戸の外食文化 資料 | ||
ペリー提督への饗応料理 |
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1.ペリー饗応の宴 幕府主催のペリー饗応の宴嘉永7年/安政元年の1月16日(1854年2月13日)、ペリー艦隊が日本開国への条約締結のため、第一回を上回る大部隊の蒸気軍艦3隻・帆船軍艦4隻からなる7隻の軍艦(その後、2隻が加わり艦隊は9隻になる)が再び来航 し、浦賀を経て武蔵小柴沖に投錨した。 嘉永7年2月10日(1854年3月8日)の昼前、ペリー提督の一行約300人が武蔵国の横浜応接所へ案内された。日米の会談は久里浜に設けられた設備を解体し、横浜に運んで4日間で完成させた五棟(約100畳分)からなる応接所の増築された「内座」または「内儀所」と呼ばれる小部屋で開かれた。 横浜応接所で第1回目の日米和親条約会談が行われた同日に、日本側によるペリー饗応の宴が開かれた。饗応の宴は、最初に鮑(あわび)を乾燥させて作った長爽斗敷紙三方(ながのししきがみさんぽう)による儀式膳で始まり、食事前の酒宴、食事の二汁五菜の「本膳料理」による祝賀の饗宴を開いてもてなした。 伝統的な形式による日本料理の本膳料理は、鯛ひれ肉の吸い物や、結び昆布の干肴、豚の煮物、平目の刺身、鮑や貝の膾(なます)などの様々な食材を使った贅沢なものであった。 饗宴は酒と鯛ひれ肉の吸い物に始まり、刺身や煮物など50種類の肴(松前スルメ、長芋、サザエ、車海老、白魚…)、本膳では、一の膳、二の膳、三の膳、最後が海老糖、カステラの菓子と計100種類を越える料理が出された。 素材は産地・品質・鮮度の吟味を重ねた新鮮な魚介類、山菜等が用いられ、大鯛の姿焼を始めとする各種鯛料理は圧巻であったと言われる。 幕府側「饗応の宴」の給仕は10人で通訳も饗応にたちあった。日本側交渉全権・林大学頭の従者の日記によれば、乗組員たちはスプーン・ナイフ・フォークを持参とあり、料理の刺身には手をつけず、甘くて味の濃いものばかりを食したと記している。酒については焼酎、日本酒、味醂酒が供されたが、乗組員は味醂酒ばかりを飲んだとある。 ![]() ![]() 「武州横浜於応接所饗応之図」嘉永7年 木版画(横浜市中央図書館) ![]() 「武州横浜於応接所饗応之図」という瓦版に、江戸浮世小路 百川茂左衛門とあり、会席料理茶屋「百川」の名がある。 料理は幕府御用達、江戸の日本橋浮世小路の卓袱料理(しっぽくりょうり)を看板にした会席料理茶屋(料亭)「百川(ももかわ)」の 百川茂左衛門が二千両で、黒船艦隊の将兵約300人分の膳を請け負ったと言われている。 (『亜墨利加人へ御料理被下候献立書 三百人前 控え二百人前』とあり、アメリカ側の300人、それを接待する日本側の役人200人、合計500人分が用意されたとある。) 百川茂左衛門は直ちに横浜や浦賀などにある旧知の料理屋の主人たちを集めて献立をつくり、山海の珍味や鴨や豚などの肉類もとり入れた「料理一人前金三両」の料理を黒船艦隊らに振舞ったのである。 因みに3両は今の金額にして約30万円で、これを500人分で1億5000万円である。そこで出された料理の数は1人前90品で、少なくとも一人に使う食器は100を超えていた(総計5万器)ことなどが事実として書き残されている。 ペリー側返礼の宴 ○『ペリー艦隊日本遠征記』,「藤岡屋日記」の記録 横浜応接所のペリー饗応の宴から一ヶ月半後の四回目の会談の前日、条約締結交渉も大詰めを迎えた嘉永7年2月29日(1854年3月27日) 、ペリーは幕府側の折衝担当団を招いて大宴会を開催した。
この日招かれたのは全権主席の林大学頭をはじめ、四名の応接掛(井戸対馬守、伊澤美作守、鵜殿民部少輔、松崎満太郎)、通訳、浦賀奉行所の役人、それに従者たちなど総勢約70名が西洋風の宴席に出席した。 料理はペリー専属の料理長が調理した。艦内で飼育されていた家畜の牛肉、羊肉、鶏肉などが用いられ、さらにはハムや牛舌、魚、野菜、果物などを使った料理が提供され、特上のワインが肉料理に添えられた。 応接掛五人と通詞の森山栄之助はペリー司令長官室で饗応を受けた。ペリー提督は、アダムズとリー、アボットとウォーカーの各艦長を相対して座らせ、子息のペリー秘書も同席させて日本側理事者らを迎え饗宴に及んだ。林大学頭は控えめに飲食しつつも、すべての料理と、あらゆる種類の酒を賞味した。 ポーハタン号の後部甲板上では各艇から集められた士官が幕府の役人を接待した。シャンパン、マデイラワイン、リキュール(蒸溜酒)、マラスキーノ酒(サクランボを原料とするイタリア産の酒)の酒類なども用意され、大量の料理がたちまちのうちに無くなった。 大宴会の時にアメリカ側は、アトラクションを披露した。それはミンストレルという歌や踊りを中心とする演芸で、黒人に扮した隊員によって演じられた。
なお、「饅頭、カステラ、野菜」が日本のものと同じだと日記は記している。幕府の役人たちは、大いなる好奇心をもって、すべての料理を食し、残ったものは懐紙に包み、広い袖の中に入れて持ち帰ったという。 その様子を『ペリー艦隊日本遠征記』の中で、ペリーは、「日本人は料理の選択やコースの順番にはおかまいなく、魚と煮た肉などを一緒にして腹に詰め込んだ」、酒に酔った代表団の一員松崎満太郎がペリーの首に抱きつき 「日米同心、日本とアメリカ心はひとつ」と繰り返したと言う。この言葉は通訳により 「Nippon and America all the same heart」 と訳された、と記している。 また、帆走軍艦マセドニアン号のプレブル大尉は、その日の日記に、松崎に抱きつかれたペリーが、彼(松崎)が条約に調印するなら「キスさせても良い」と語ったことや、「この日はすべて楽しく活気にあふれた光景で、アメリカを離れて以来、これほど心から笑ったことはなかった」と書き記している。 ![]() 西洋の饗応料理、ポーハタン号上後甲板での宴会の様子(ペリー提督日本遠征記) ○甲寅(安政元年)春三月,松代,高川惟文識(絵師)の記録 「二月戊戌(ぼじゅつ,甲寅年戊辰月戊戌日、安政元年2月29日)、ペリーは我が五君を饗したいと、火舩(蒸気軍艦・ポーハタン号)と軍艦(帆走軍艦・バンダリヤ号)に迎えた。自分も又それに従った。この日は東北の風が烈しく、波が頗る高かった。 この舩の船尾の一方に、幃(とばり,テント)を張り杯盤の席を設け、中に大机を二卓置き、屈曲させて使い、机の廻りには全て椅子を置いてあるが、混雑によるものである。先ず杯觴(さかずき)を受け、各々に一礠盆(一皿)、一組の刀匕(ナイフとフォーク)があり、肉を取るためである。 豚牛や菜菓の類が、卓上に所狭しと並び、その間に所々に焼き物の瓶があり、桃やスモモの花を生け、椿の花もある。これは昨日我々に頼んだものである。牛肉豚肉になり、ようやく股肉(ハム)になり、鶏の丸焼きになり、これを大皿に盛り、各々の皿に切り分ける。希望するだけ分けると次第に骨が現れる。又祝い我慢せずこれも食べる。 各種の酒が出された。やや酸味を帯びたところは良くないが、葡萄酒と呼ぶものは、味は良く且まろやかで、オランダの烈酒(ダッチ・ジン、イェネーファ)の比ではない。これは普通の物でないと言うが、極ていねいに仕込んだものである。 又本来 彼等は羮(あつもの)や豆豉(とうち)の味を知らないので、海塩だけで全ての味を調える。その調理の一例は一箇の器に肉を入れ、焼いて蒸したものである。我が衆は頻りに杯を傾ける以外は肉に手を付けなかった。 彼等が教えるには、これは牛豚鶏である。何故手を付けないのかと。しかしまだどんな肉をも疑わしく思い、各々先ず鶏のもも肉にナイフを入れ、これを切って口に入れた。味は非常に良かった。 そこで外の肉にも手を付けてみた。まだまだ沢山盛られている。又一切れを取り皿にのせた。更に乾杯の音頭があった。彼等も我々も共に酒に酔い心持が良くなり宴が盛り上がった。」 2.幕府の饗応料理 ■幕府主催「ペリー饗応の膳」の再現料理![]() ![]() ■饗応料理の数と調理人 安政元年(嘉永7年にあたるこの年を改元1854年)旧暦2月10日(太陽暦3月31日)、この日横浜に上陸したペルリ(ペリー)一行は総数446人、そのうち新造した応接場に着座するものはペルリ提督以下約35人で、氏名と役柄が全員について幕府側に判明していた (このほか本船との連絡用の艀[はしけ]に残るもの200人)。 このうち料理の準備は300人前、控として200人前、計500人分であった。 幕府は江戸日本橋浮世小路百川楼百川茂右衛門〔茂左衛門という記録もある由〕に命じて料理を調整させたとのことであるが、この記録の編纂者注によれば、異説としては、浦賀宮の下岩井屋富五郎が、百川の弟子6人、ほかに堀の口六間町の万久の弟子2人その他1人、計10人で御用を勤めたとも言われている。 ■使節ペリー横浜応接の図 嘉永7年(1854) ペリー一行の再来航に際し、幕府による饗応の宴の様子を描いたもの。 ![]() 「横浜応接場秘図」松代藩絵師・高川文筌(たかがわぶんせん)画 江戸時代末期 - 長野市真田宝物館 蔵 ![]() 上の絵図で、右側の天幕に描かれた家紋「三つ寄せ笠」は、饗應掛,浦賀奉行/伊澤美作守(政義)の紋である。 嘉永7年2月10日、横浜応接所で最初の会談が行われた日の午後、日本側は遅めの昼食(宴席)に300人前の献立を用意した。以下は、米国使節彼理(ぺルリ)提督来朝図絵の「横濱村應接場米使饗應の光景」より引用。 『此図は最初茶菓を供する光景なるべく。次に長熨斗、銚子盃から酒三献、取肴、本膳、二ノ膳等純日本料理にして江戸日本橋浮世小路料亭百川の仕出しであった伝えてゐる。 客席前列右より提督ペルリ、アボット、アタムス以下の面々なるべく、饗應掛は右より林大学頭輝、井戸対馬守覚弘、伊澤美作守政義、鵜殿民部少輔長鋭、一席離れて松崎満太郎が羽織小袴にて腰をかけ、何れも太刀持を後方に控えさせてゐる。』 ■饗応料理の記録に残る「石川本」の饗応料理献立 ![]() 上の献立は「亜墨理駕(アメリカ)船渡来日記(石川本)」の饗応料理献立の記録である。しかし、「亜米利加船渡来日誌(添田本)」と献立はほぼ同じであるが若干の違いが見られる。 「亜墨理駕船渡来日記」には献立(前述)が収録され、出された料理の材料が記されている。これまでに料理の献立はいくつかの資料に収録されてきたが、それらを比較してみるとそれぞれの献立に違いがある。今となってはどの献立が正しいものかを知ることはできない。 また、日記に収録された料理の材料についても、当て字や誤記などがあるようで、現在、すべての材料を確定することは大変難しい。 しかし、いくつかの料理については、その概要を知ることができそうである。たとえば、鱠(なます)と記された料理の材料には、鮑(あわび)と赤貝が使われているから、この膾は魚介類を使った「二色膾」と思われる。 また、牛蒡やうどの汁物、奈良漬や蕪の味噌漬けなどの漬物がある。さらに、煮物としては「六ツ花子」がみられ、魚のムツの卵を豆腐と一緒に炊合せたものが出されたようである。このほか、焼き物として塩鯛があり、現在の結婚式などで出される鯛の姿焼きが供されている。 ![]() 式三献という作法による儀礼的な酒宴に使われた「曇土器(くもかわらけ)」と銚子。三献盃「雲土器」は、盃に酒を注ぐと中央部に雲が浮かび上がるように見える。饗宴は長熨斗敷紙三方(ながのししきがみさんぽう)による儀式膳から始まった。
3.饗応料理の献立(本膳料理)
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------------ 右は下士一同へ被下(くださる)・・・「亜米利加船渡来日誌(添田本)」にある記述である。 ------------ 東京大学出版会『大日本古文書』幕末外国関係文書之五,大正三年刊の嘉永七年二月十日、によると「百川」がペリー一行に出した献立では「菓子」の記述は以下となっている。
4.現代から見たペリー饗応料理 ■現代から見たペリー饗応料理の構成
5.日本上陸の絵巻,饗応の宴 ■ペリー提督の日本上陸絵巻より「晩餐会」![]() ブラウン大学図書館には、無名の日本人絵師によって描かれたペリー提督の日本上陸の絵巻がある。中国の学者、王冶本によって1906年に書かれた表紙と後書きがあるため、絵巻はペリー上陸の1854年から1906年の間に描かれたと思われる。 上の絵は「晩餐会」の一部で宴会と交渉の2つの対照的な場面である。前景に描かれた動的なアメリカ将校の饗応の宴の場面とは対照的に、アメリカ海軍提督ペリーが江戸幕府の応接掛 林大学頭と会談している場面を描いた交渉の場は緊張感を漂わせる静で描かれている。異なる場面を1つの画に入れるスタイルは、日本の伝統的な絵画でよく使われた。 日本料理を食べる列に並んだアメリカ将校の白木の酒饌膳には吸物・酒肴(笹葉上に魚切身?)・漬物が、幕府側五名(一名は薄紅色の木机に腰かけている)の接待(給仕)役が描かれ、内ひとりの武士の手には酒銚子が、床にはいくつかの炭火鉢が置いてある。 食事をするアメリカ将校の手には手前から、赤い盃・両手に箸・吸物椀に刺し箸・食べかけの餡入菓子(饅頭?)・ナイフとフォーク・丸菓子・両手に盃と酒銚子などが描かれ、日本の伝統的な食事を食べる姿や表情は困惑したようにも見える。 描かれたアメリカ将校が着用している服は大型の肩章がついたネイビーブルーの礼服(燕尾服)である。つまり、ここに描かれているアメリカの人たちは、皆海軍の人間である。 ![]() 中央に三名の将校が描かれており、菓子か果物らしきものを持ち談笑するふたり、一人は制帽を脱ぎサーベルを背後でしっかりと掴み、脇差でなく刀大小二本差しの給仕役武士と険しい顔つきで互いに対峙しているようにも見える。 また、右側奥の武士のひとりは抜刀できるかのように太刀の上方を握りしめて座っている(太刀控え武士の持ち方ではない)。穏やかな宴の中にも緊張感が見られる描写である。 横濱応接所の「内座」(記録によれば紫幕・金屏風・畳敷-8畳・紅毛氈敷の間)で実際に会談に臨んだ人数は、アメリカ側はペリー提督、参謀長アダムス、通訳のウィリアムズとポートマン、秘書のペリー(息子)の5名である。 一方の日本側は、幕府の応接掛である儒者 林大学頭(復斎)、町奉行 井戸対馬守(覚弘)、浦賀奉行 伊沢美作守(政義)、目付 鵜殿民部少輔(長鋭)、オランダ通詞 森山栄之助、儒者(認役)松崎満太郎の6名である。 会談の絵では、ペリーがグラスを持ち、テーブルの上には洋酒(ギヤマンの瓶)、菓子(羊羹・黒カステラ・落雁等?)や果物か饅頭らしきものが描かれているが、日米首脳会談の日本側記録図絵は、「内座」には火鉢、煙草盆、茶の文字があるのみである。 ![]() 6.会席料理茶屋「百川」 ペリー饗応の料理は幕府御用達、江戸の日本橋浮世小路の卓袱料理(しっぽくりょうり)を看板にした会席料理茶屋(料亭)「百川(ももかわ)」が幕府の命により、二千両で、黒船艦隊の将兵約300人、日本側200人、総計500人分の「饗応の膳」を請け負ったと言われている。 この饗応、給仕役を務めた日本側の役人が記録しているところによると、「彼らは甘たるく重い味のものを好み、淡白なものは嫌ったようで、士官たちは刺身には手をつけなかった」という。味に関しては、物足りなさを感じたようだ。 ペリー一行をもてなすために500人分の饗応料理を準備し、その宴を取り仕切るほど幕府からの信頼もあつかった百川は、天明年間に江戸・日本橋で創業し、幕府終焉と同時の慶応4年(明治元年)に忽然と姿を消したという。 <卓袱料理> 卓袱(しっぽく)料理は、江戸時代に中国から伝わって日本料理風の中国風料理。卓袱は食卓にかける布の意味で、転じて食卓を指し、卓袱台(食卓)にのせて供する料理を卓袱料理と呼びました。 また、精進懐石料理の卓袱料理は普茶(ふちや)料理と呼びました。長崎奉行所の記録には「しっぽく」は広南・東京(トンキン)方面(現在のベトナム中部、北部)の方言と記されてます。 ○江戸の食文化エッセイ『幻の料亭・日本橋百川』(小泉武夫/新潮社)から、「百川」の料理を以下に記する。 料理茶屋「百川」に入ると入り口すぐ近くの階段から二階に案内され、お茶と切子の小皿に盛った練羊羹、そして煙草盆が運ばれてきた。奥座敷、畳の上には二間に九尺ばかりの紅緞通が敷かれている。丸い黒漆の卓台があって台の真ん中にはギヤマンの瓶に入った薄荷(はっか)酒と保命酒(ほうめいしゅ)が置かれ、切子の蓋物に砂糖が入っている。 料理の献立は、次の通り。
百疋は千文で、当時は一両が約六千文であるから、一両を十万円とすれば、千文(百疋)は一万六千七百円。 百疋半は二万五千円、二百疋は三万三千四百円となる。 吉原の花魁(おいらん)の揚代が一両なのだから、「百川」の料金はかなり高いことになる。 参考:ペルリ提督饗応の献立「国民新聞」明治34年7月3日号、東京大学史料編纂所編「大日本古文書-幕末外国関係文書之五-」、「亜米利加船渡来日誌(添田本)」、「亜墨理駕船渡来日記(石川本)」、「日本における食事様式の伝承と明治の断層」児玉定子、神奈川新聞社「亜墨理駕船渡来日記-横浜貿易新聞から-」、横浜「開国博Y150」、横浜市広報課「ペリーが見た横濱・JAPAN,2004年夏号」、御食国若狭おばま食文化館、ブラウン大学図書館-Perry in Japan a visual histoy-、横浜黒船研究会HP、名古屋外国語大学論集「村上範致,安政乙卯聞見雑録二」、東京大学出版会「大日本古文書」幕末外国関係文書之五、児玉定子「日本における食事様式の伝承と明治の断層」、「幻の料亭・日本橋百川」小泉武夫/新潮社 〇「江戸時代の貨幣制度」・・・日本開国と日本金貨の国外流出・・・を見る。 ![]()
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