日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 江戸庶民の食事処(2)


茶漬け屋

茶漬けは、江戸時代には簡素な食事の意にも用いられ、また、簡単な食事の店を「茶漬屋」といった。
茶漬けが食べられるようになったのは、番茶や煎茶(せんちゃ)が一般に普及し、茶が庶民の嗜好品として定着した江戸時代中期以降と言われている。茶漬けは、当時商家に奉公していた多忙な使用人(奉公人)が仕事の合間に短時間で食べることのできる食事として重宝された。元禄時代(1688~1704年)の頃より町や街道沿いに茶漬けを出す店の「茶漬屋」も出現し、庶民に広く親しまれた。


団扇絵 「御茶漬」 歌川国芳

お茶をご飯にかけるよう|こなったのは江戸時代(1603年~1868年)になってからである。本来は、平安時代の水漬け「水飯(すいはん)」や、鎌倉・戦国時代の湯漬けを元にしたもので、冷や飯に茶を炊き出した汁をかけて食べる軽便食である。
【茶漬けは、もともと冷飯に熱湯をかけて掻き込んだのが原型とされる。平安朝時代の貴族たちは、夏は「水飯」と名付けて、水をたっぷりかけて食する習わしがあった。また、鎌倉時代から戦国の末期まで、武士はもっぱら湯漬けが常食とされていた。】
江戸時代初期には、ごはんにお漬物などを乗せて、白湯(さゆ)をかける「お湯漬け」が一般的であった。江戸時代初期のレシピ集である『料理物語』に、「奈良茶」というのが出てくるが、栗や芋などを米と一緒にお茶で煮込んだ雑炊のようなものであった。当時、ご飯を炊くのは基本的に1日に1回だけで、そのため江戸では、朝にご飯を炊き、夜はお茶を沸かして冷えたご飯にかけ、お茶漬けにして食べ、庶民の手軽な料理として広まっていった。

江戸時代中期、元禄時代の頃には、お茶漬けを主として簡単な料理などを出す「茶漬屋」というお店も登場し、手軽に早く食事ができるとして庶民の間で広く親しまれた。江戸時代後期には「茶漬屋」が繁盛して、茶漬けに具材を乗せるのが広まり、梅干や漬物、山葵、昆布や貝、佃煮、塩ざけ、干物など様々な食べ物を具として乗せをのせた。具材だけでなく水にもこだわった本格料理として、豪華なお茶漬けを出していた店もあったと言われている。
ただし、お茶漬け一本で商売していた店はほぼ無く、茶飯、豆腐汁、煮染や煮豆などの比較的調理が簡単な料理を扱う料理茶屋で出されたり、蕎麦屋や酒処で締めの一杯として提供されていた。
江戸時代後期の天保年間に刊行された『江戸名所図会』に、当時、「八八茶漬」の値段が「64文」だったため「看板の八八(はつは)茶漬は人皆の八百八町しれる江戸桝」、「客こんで出す廣ぶたの鉢合せ八八茶漬もうれる江戸桝」がみえ、江戸では六十四文をもじった「八八」が茶漬屋の看板に記され、通称で八八茶漬と呼ばれ繁盛していたが伺える。


黄表紙『二重緞子三徳平(にじゅうどんす さんとくへい)』桜川慈悲成 作/歌川豊国 画 寛政12年(1800)
茶漬屋の看板に「御料理、御三人様 南鐐一片(二朱銀の異称のため、一朱銀が2枚)、御五人様 金百疋(一分銀が1枚)」と書かれているので、この茶漬屋は高級料理屋のようである。(交換比率:小判一両=四分、一分=四朱、一分=金100疋)

一朱銀(表・裏)
1枚=250文
一分銀(表・裏)
1枚=1000文



『東都名物遊覧双六』(1861年)に“てんぷら茶漬”料理と酒の燗徳利が描かれている。飲酒のシメとして茶漬を食べたのだろうか。この頃は、居酒屋や煮売酒屋の他にも専門店化した蕎麦屋、田楽茶屋、天ぷら茶屋、うなぎ蒲焼屋などでも酒が提供されている。また、上方から江戸に天ぷらが伝わったのは天明年間(1781~1789年)といわれている。
天ぷらは屋台で材料を串に刺して揚げ、丼のたれを附けて食べる。一品4文から6文と庶民の手軽な食べ物として定着し、嘉永年間(1848~1853年)には専門店まで登場した。天ぷら蕎麦がいつ頃からあったのかは定かでないが、文政10年(1827)の川柳に「沢(たく)蔵主(ぞうす)  天麩羅そばが 御意に入り」(沢蔵主というのは澤蔵司稲荷に祀られてる狐の意味)と詠まれており、このことから、少なくとも文政10年以前から蕎麦屋で売られていたことがわかる。



茶飯売り

江戸だけに見られたものとして、茶飯売りというものがあり、しょうゆ飯やあんかけ豆腐、けんちん汁などの食事そのものを売る棒手振りも存在した。幕末の風俗百科事典の『守貞漫稿』(嘉永6年,1853年)に茶飯売は茶飯とあん掛け豆腐を売ると記している。『京阪にこれ無。 江戸に夜二更(午後10時~11時)後これ巡り売。 茶飯と餡掛豆腐を売る。 蓋この類に用ふるあんは葛粉醤油烹を云也』と記されている。
茶飯売りも、夜に売り歩かれた食べ物の一つであって、茶飯だけではなく、醤油味の葛餡をかけた豆腐も商うものであった。棒手振りの茶飯売りのほとんどは老人で、『御前、お豆腐で御座い』と売り歩いた。


『大晦日曙草紙』香蝶楼国貞(歌川国貞) 画 天保10年(1839)

棒手振りは厳密に言えば「振売り」で魚売りだけは「棒手振り」と呼ばれる。「棒手振り」や「振売り」とは、天秤棒に商品を振り分けて担いで移動する行商人で、その商いは多種多様であった。元々は野菜や魚、貝類、豆腐や納豆、みそ・しょうゆ・塩などの調味料、のり、漬物など食材を売る商売が、次第に惣菜、飲み物などの加工品も手がけるようになり、買ったその場で食べたいとの需要に応え、焜炉に火を入れて持ち運び、焼いたり温めたりして食事を提供するようになった。そのひとつが「茶飯売り」である。江戸は男性が多く女性が少ないため男性の単身者が多い江戸だからこそ成立する商売であった。


当時描かれた草双紙には、御膳籠にお櫃が入っており、もう片方には鍋から湯気が上っている。


「あんかけとうふ 荼めし」
幕末近くの江戸では夜ふけの町を流し歩く「茶飯売り」というものがあった。茶飯とあんかけ豆腐を売り歩く「棒手振り」もいて、江戸庶民の日常の中でかなり食べられていたようである。
茶飯といっても醤油で味付けされた茶飯が江戸に登場するのは濃口醤油が普及した江戸後期の頃。お茶と同じように色がつき、味もついて手間がかからないので広まったといわれている。当時のご飯料理には、いろいろな具をのせて、汁をかけて食べるスタイルのものが多くみられる。当時は、ご飯を保温することができなかったので、温かい汁を冷えたご飯にかけて食べたとも考えられている。
また、短気な江戸っ子には素早くかき込む事のできる汁かけ飯が受け入れられた。江戸の町では、夜になると「茶飯と餡かけ豆腐」を籠に入れて、売り歩く者がいて、夜食の定番になっていた。



『守貞漫稿』にある「茶飯売」と「稲荷鮨売」には、その装いは同様であるという。
「京坂に無之江戸にて夜二更後売巡之茶飯と餡掛豆腐を売る蓋し此類に用ふるあんは葛粉醤油烹を云也 天保以来江戸にて稲荷鮨と号け油あげ豆腐を中を裂き紙の如くなして内に飯を詰めてうるを始る是も茶飯と同じ荷也」
とあり、茶飯売りも、夜に売り歩かれた食べ物の一つである。茶飯売りとはいうが、飯だけではなく、醤油味の葛餡をかけた豆腐も商うものであったようだ。

《飯煮売り》
川越の担い飯煮売りの記録に『飯煮売仲間願書』文久2年(1862)というのがある。これは、当地の飯煮売り仲間が、町方御役所宛に出したもので、白米が下落しているので、めし代を値下げしたいとの願書だ。「鉢飯 壱人前」これまで四拾八文を四拾文に、「丼飯汁付 壱膳」これまで三拾八文を三拾文に、値下げしたいとある。


鰻屋(蒲焼屋)

江戸前という言葉を最初に使ったのはうなぎ屋だった。 徳川家康は江戸の街づくりに取り組み、石神井川の流れを付替えた。江戸城の前の浅い海を埋め立てて土地を造成した。現在の宮城前、 馬場先門の辺りが沼に変わった。その後この沼でたくさんのうなぎが取れるようになった。江戸(城)前のうなぎの蒲焼の誕生である。そのうちに、「江戸前」の呼称は江戸の前の海で捕れる魚介類の呼称となった。
「江戸前大蒲焼」を看板にして「うなぎ蒲焼」と「付け飯」を売り出している。特に人気のあったのが浅草川(隅田川の吾妻橋から下流の別称)や深川で捕れた鰻。「江戸にては浅草川・深川辺の産を江戸前と称して上品とし、他所より出たるを旅うなぎと称して下品とす」(『本草綱目啓蒙』享和3~文化3年【1803~1806年】)。「深川うなぎ 大きなるは稀なり。中小の内小多し。はなはだ好味なり」(『続江戸砂子』享保20年)。
やがて、蒲焼に飯を付ける「付けめし」を始めることで蒲焼屋はさらに繁盛し、市中いたるところ に蒲焼屋ができていった。


『明烏後正夢』蒲焼屋の二階、付け飯が櫃(上に茶碗)に入れて出されている。


『今様六夏撰 土用牛』歌川国芳 安政2年(1855)
右奥には「大安売・江戸前大蒲焼」の看板。「江戸前」の看板の前で、威勢よく浴衣の袖をたくしあげた女が、目を打った鰻の背中に包丁を入れている。


稲荷鮨の屋台

■稲荷ずし
天明の大飢饉(1782-88年 天明2年-8年)のおり、油揚げの中に飯のかわりに「おから」をつめて屋台で売ったのが始まりと伝えられており、魚を使っていないから、極めて安く人気を呼んだ。稲荷寿司は江戸で大流行し、暮れから夜にかけて往来のはげしい辻々で商われた。当時の流行歌に「坊主だまして還俗させて稲荷ずしでも売らせたや」とあり、堕落した僧侶を稲荷信仰でよみがえらせるという含みがあるという。そして、稲荷ずしは天保15年(1844)頃、江戸での流行により全国に広まった。

稲荷すしの記述として、『近世商賈盡狂歌合』には「天保年中飢饉の時より初まり大いに流行す」と記述がある。江戸末期に書かれた『守貞漫稿』嘉永六年(1853)には、「天保末年(1830~44年)江戸にて/両国等の田舎人のみ専らとす鮨店に従来これあるかなり」とあって、稲荷ずしは天保末年から流行し「最も賤価」で「両国等の田舎人」相手に商われていたという。

また、『守貞漫稿』には、「天保末年江戸にて、油あげ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸(きくらげ)・干瓢(かんぴょう)等を刻み交へたる飯をいれて鮨として売り巡る。日夜これを売れども夜を専らとし、行燈に華表(とりい)を画き、号して稲荷鮨あるひは篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異称)は油揚を好むもの故に名とす。最も賤価鮨なり。 尾の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。 」と記されている。
油揚の片側を切りさき袋にしてキノコ・干瓢等を混ぜた酢飯を詰めるというから、今日と製法は大きく異ならないようである。狐(野干)が油揚げを好むという話を踏まえて「稲荷鮨」。夜中に売り歩かれる、最も安価な寿司であるという。(天保時代、江戸に稲荷鮨 (篠田鮨) という最も安価な鮨を売っているが、以前から名古屋にあった。江戸でもその前から売ってる店があったかも。)

発祥が名古屋とも江戸ともいわれる稲荷寿司は稲荷信仰とからみ、また油っぽいので屋台や振り売りで売られ、わさび醤油で食された。油揚げをキツネが好むとされたことから「お稲荷さん」、「篠田鮨」の名がついた(篠田鮨は安倍晴明を生んだとされる信太(しのだ)の森の女狐「葛の葉」の伝説にちなむ)。
屋台の稲荷寿司がわさび醤油で食されたことが、『藤岡屋日記』に、弘化2年(1845)10月くらいから流行し「去る巳年十月頃より、稲荷鮓流行せり」、1つ8文で山葵醤油で食べる。日暮れから夜にかけて露店で売った、などの記述が見られる。


十軒店(じっけんだな)いなりずし、『新版御府内流行名物案内双六』より、一英斎芳艶,1847~1852年(弘化4~嘉永5)

『近世商賈尽狂歌合』(1852年)の稲荷ずし売りの挿絵には、提灯に「稲荷鮨」の文字、幟に白狐の絵、詞書に「六根消浄」の祓詞と価格などの口上、そして、細長く大きな稲荷ずしを切り売りする屋台の様子が描かれている。
稲荷寿司は好みの量を切って購入することができ、腹具合にあわせてすぐに食べることができた。稲荷寿司は、「一本が十六文、半分が八文、一切れが四文」とあり、まな板の上には包丁も描かれているので、当時は大きく、細長い稲荷ずしを切り売りしていたようである。

 
『近世商賈尽狂歌合(きんせいあきないづくしきょうかあわせ)』1853年
提灯を灯した露天店で、稲荷ずし売りが包丁を前にしながら「一本が16文、半分が8文、ひと切れ4文」と歌う姿が描かれている。
客寄せの口上として「天清浄地清浄 六根清浄 祓いたまえ 清めたまえ、壹本(いっぽん)が十六文、ヘイ~~ ありがたひ、半ぶんが八文、ヘイ~~ ありがたひ、一ト切(ひときれ)が四もん、サア~あがれ~、うまふて大きい~~、稲なりさま~~(稲荷様様)』と記されている。
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「天保年間(1830~44年)の終わりごろには、寿司飯を詰めたいなり寿司を売り歩く行商が増えたようだ。夜には、提灯に赤で鳥居の絵を描いた屋台が、「おいなりさあん」といいながら両国界隈を中心に行商し、庶民から重宝がられた。中でも日本橋の十軒店(じっけんだな)に屋台を構えていた稲荷屋治郎右衛門のいなりずしが大評判だったという。」・・・『江戸風流「食」ばなし』(1997年3月、講談社、2000年12月、講談社文庫)より。


茶屋・茶店(水茶屋・茶見世)

■水茶屋
江戸時代には、江戸の街中に多くの茶屋・茶店があり、庶民にお茶を提供していた。江戸の町にはお茶を提供する「水茶屋」(みずぢゃや)があり、茶は庶民には欠かせない嗜好品へとなっていった。茶屋と言えば一般的に水茶屋のことを云う。水茶屋とは路傍や寺社の境内などで、湯茶、菓子、団子などを提供、往来の人を休息させた店であり「茶見世(茶店)」ともいった。
水茶屋が最も繁栄したのは寛延(1748年)~文化(1804)頃と云われている。江戸時代には、街道筋や町中にお休み処として水茶屋が多く存在していた。水茶屋は葦簀(よしず)張りで、腰掛や縁台を置いて茶を飲ませた。このため「腰掛茶屋」とも呼ばれている。明け六つ(午前6時ごろ)から暮れ六つ(午後6時ごろ)の営業である。茶代は年代によって異なるが、一杯四文から十六文くらいであった。
この頃の茶は、やかん・鍋・釜などで茶葉を煮出し、大振りの茶碗を用い点てて飲まれていました。小振りの茶碗が登場するのは18世紀中ごろで、茶せんは用いられませんでした。


薬缶(やかん)を載せた七輪風の炉が湯吞棚とともに木台の上にあって、薬缶で茶が作られている。

江戸時代18世紀後半になると、江戸では茶店の看板娘が現れる。大田南畝の随筆『半日閑話(はんにちかんわ)』(1772~80年)には「笠森 お仙其外」項があり、次のような記述がある。
谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙十八歳美なりとて、皆人見に行。家名鎰屋五兵衛といふ。錦絵の一枚絵、或は絵草紙、双六、よみ売等に出る。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日之時、人形にも作りて奉納す。明和五年五月堺町にて中島三甫蔵がせりふに云、采女が原に若紫、笠森稲荷に水茶やお仙と云々。是よりしてますます評判あり。其秋七月森田座にて中村松江おせんの狂言大あたり。浅草観音堂の後、いてうの木の下の楊枝見せお藤もまた評判あり。仇名いてう娘と称す。錦絵或は絵草紙手拭等に出。読うり歌にも出る。是より所々娘評判甚しく、浅草地内大和茶屋女蔦屋およし、堺屋おそで錦絵の一枚絵に出る。 童謡「なんぼ笠森お仙でもいてう娘にかなやしよまい、実は笠森の方美なり、どふりでかぼちやが唐茄子だ」といふ詞はやる。
このように笠森稲荷境内の茶店にお仙という娘が美人であると評判となり、錦絵などにも描かれ、歌舞伎で演じられ大当たりとなるまでであった。他にも浅草寺境内の茶店におよし、おそでという女性がおり、錦絵に描かれた。

『鍵屋 お仙』 鈴木春信画 明和(1764〜1772)頃、江戸の谷中(やなか)の笠森稲荷前の水茶屋「鍵屋」と看板娘「お仙」。
掛け行灯には「かぎや・御休所」とあり、店先には長い床几台が並び、その台の一つに簡素な茶棚があり、四角の木枠のへっついの上に茶釜が掛けられている。茶色の小台の上には店の名物の米団子(お仙団子)が描かれている。客に振る舞う茶は茶釜の中で作られ、柄杓で茶碗に直接注がれた。茶碗はいずれもかなり小ぶりに描かれている。


水茶屋、茶見世(茶店)について『守貞謾稿』(1853)は、京坂(京都・大坂)と江戸の茶見世を比較して要約次のように書いている。
「京坂の茶見世には粗末な服装の老婦か中年婦がいて、朝に1度茶を煮出して終日これを用いる。客1人に1椀だけ出し、茶代は5文から10文くらいである。江戸には茶見世が多く、天保の改革以前には16、7から20歳ばかりの美女が化粧をして美服で給仕をした。茶は毎客新しく茶を煮ることもあるが、多くは小ざるの中に茶を入れて熱湯をかける漉茶(こしちゃ)である。 客1人に2,3椀は出し、茶代は30文から50文くらいで、100文出す人もいる」


『茶見世十景(芝)神明』 鳥居清長画 天明3~4年(1783~84)頃、前掛をした水茶屋の娘と茶屋で一服する婦人

江戸風俗大観によれば、
「水茶屋は寛保年代(1741年)までは浅草、神田明神 芝神明 愛宕山あたりにあったのみで街中には絶えてなかった。 時に出茶屋(註釈:出茶屋とは街道のよしず張りの簡単な休み所のこと)があっても、床几十二脚ほどのさみしいありさまで土窯に古い茶釜ををのせ、粗茶を煮出したものにすぎなかった。ところが芝切り通しで、一服一銭にて唐銅の茶釜を店に置いて、その美しさで人目を引く者が現れてから追々贅沢になり茶も良きものを提供するようになった。延享1747年の末ころに芝新橋に 『朝日』、『しがらき』という茶店が出店してからは街中の各所に風流に設えた茶店ができ、ますます繁盛するようになった。」とある。これによれば京坂から江戸に進出した水茶屋が各所に出店して繁栄しはじめたのは延享末1747年から寛延(1748-1750)であることが分かる。 その後も江戸の中心的風俗として発展していき、『笠森お仙』『高島屋おひさ』などを輩出し江戸の華やかな庶民文化の一端を担うことになる。


■茶屋(茶見世=茶店)
江戸時代には、江戸の市中に多くの茶店が登場している。茶屋は都会の盛り場や観光地にある「腰掛茶屋」と街道筋にある「立場茶屋」があり、道に敷物を引いただけの簡単な作りであった。茶以外は団子、餅など菓子類しか出さず人通りがある昼間のみの営業だった。建物がある茶屋は「水茶屋」と呼ばれた。江戸の名所ではその後、次々と水茶屋が建てられ、寛政年間(1789~1801年)には江戸中に二万八千軒ほどあった。江戸中期に喫茶の習慣が定着したことも繁栄の背景にある。
寛政年間(1789~1801)の出来事を記す『梅翁随筆』(享和年間1801年以降)には、「江戸中所々の道端に出せる葦簀(よしず)張りの茶見世、これ迄は運上にも及ばざりしが、此度一々吟味して、一日五文宛の運上納むるよう申渡されける。凡江戸中にて二万八千軒にあまり、九千にも近しとぞ」と記している。



文化二年(1805)頃の『熈代勝覧』絵巻に描かれている屋台の茶屋「腰掛け茶屋」
日本橋大通りに置かれた屋台の茶店(可動式店舗)では湯茶や葛湯などをふるまった。



『十二ヶ月の内 六月門涼(かどすずみ)』 渓斎英泉画、作 江戸後期(1800年代)
暑さを乗り切る江戸庶民の夕涼みの絵。当時の江戸の街頭には照明がなく暗かったので、麦湯の行燈が闇を照らしていたのかも知れません。江戸時代、煎茶は高価でまだ広く普及していなかったこともあり、安価な麦茶は庶民の飲み物として「麦湯」の名で親しまれていました。

江戸後期の風俗を記した『江戸府内風俗従来』には、
「夏の夜、麦湯店の出る所、江戸市中諸所にありたり。多きは十店以上、少なきは五、六店に下がらず。大通りにも一、二店ずつ、他の夜店の間にでける。横行燈に「麦湯」とかな文字にてかく。また桜に短尺(たんざく)の画をかき、その短尺にかきしもあり。行燈の本(もと)は麦湯の釜・茶碗等あり。その廻りに涼み台を並べたり。紅粉を粧うたる少女湯を汲みて給仕す。浴衣の模様涼しく帯しどけなげに結び紅染の手襷程よく、世辞の調子愛嬌ありて人に媚びけるも猥(みだ)りに渡ることなきは名物なり。」
とあるように、江戸時代末期になると、麦湯(麦茶)は町人衆の気軽な飲み物として、今でいう喫茶店のような「麦湯店」があちこちに出来、大いに繁盛したようです。文化文政時代(1813~1830年)になると、「麦湯」と書かれた行燈を掲げる夜店が出現。縁台に座り、暑苦しいときには涼風を求めてやってくる客で、にぎわっていました。
「麦湯店」は麦湯の女と呼ばれる14~15歳の女子が一人で麦湯のみ(食事も何もなく)を4文ほどで売るものでした。また、麦湯店では麦茶以外にも、桜湯、くず湯、あられ湯などもあり、価も安く、家の中の暑苦しさを逃れて涼風を求める客で、夜おそくまで賑わっていました。


豆腐茶屋(豆腐料理屋)

■豆腐で有名な江戸の料理屋
江戸庶民が豆腐を食べられるようになるのは江戸時代中頃からで、江戸や京都、大坂などの大都市に限られていたようである。当時、豆腐は木綿豆腐が一般的で、絹ごし豆腐は高級品とされていた。江戸の庶民に人気があったのは田楽であり、豆腐を串に刺して焼き、赤みそを付けて食べる料理として広まった。そして豆腐料理の人気はさらに高まり、いろいろな豆腐料理の登場となる。(江戸時代の享和三年(1803)頃には、江戸市中の豆腐屋は1,000軒を超えていた)

 

元禄四年(1672)のころ、江戸で初めて「笹の雪の絹ごし」という“絹ごし豆腐”料理の店を構えたのが江戸下谷根岸の「笹の雪」である。豆腐茶屋「笹の雪」では、温めた絹ごし豆腐に葛餡(くずあん)をかけた“あんかけ豆腐”が有名であった。
同じく、江戸、東両国にあり、“淡雪豆腐”で人気を得ていた店が「日野屋」と「明石屋」の茶屋であり、相撲見物の客でにぎわっていたという。
この東両国で淡雪豆腐を売る店の日野屋と明石屋について、安永九年(1780),滑稽本の『古朽木(ふるくちき)』巻二に「両国の明石屋 日野屋が、光を争ふ朝日影、いづれ本家とうたかたの、淡雪の風味さへよくば」とある。この二軒の名店のほかにも、葺屋町の壺屋、浅草雷門前の亀屋、南伝馬町の池田屋なども淡雪豆腐が人気だったといわれる。泡雪豆腐(淡雪豆腐)の誕生は享保年間(1716~36)頃の江戸、両国橋東詰めの日野屋が発祥と思われる。淡雪豆腐は、にがりを使わずにつくるために柔らかく、浅草海苔、わさびを添えて葛(くず)で練った餡(あん)をかけて食べ、舌にのせると淡雪のように柔らかくすぐとけてしまう特製の豆腐で、その口当たりが江戸っ子たちの人気を呼んだ。

  
淡雪豆腐の食べ方は、葛を練った餡を掛けて食べる。餡は葛を水で溶き、味の付いた熱い煮汁に入れて、とろりと仕上げたもので、薬味として生姜を使う。


林春隆『新撰豆腐百珍』の江戸吉原と豆腐より「吉原卯時(午前六時)」の狂歌
「花魁の送るもよしや足引の 山屋豆腐でまた茶屋の酒」/詩舘歌笑、「横雲の山屋豆腐の煮加減に 居つゞけ酒のあとをひきけり」/春江亭梅村、「むかへ酒太鼓の外に明六つの 拍子木にきる茶屋の湯豆腐」/畑持。


遊郭のあった吉原に、大川(隅田川)の水で作った豆腐の「山屋」は、「味わい軽やかで、世に並びなし」と賞賛された吉原名物の“すくい豆腐”があった。その柔らかい豆腐は、歯の悪くなった老人にも好まれていたことから、山屋の豆腐は遊郭に通う老人を冷やかす、格好の材料となっていたようである。ちなみに前述の「笹の雪」も吉原に近かったので、遊里帰りの客も多かった。(吉原名物として、甘露梅・袖の梅・巻きせんべい・最中の月・山屋の豆腐・釣瓶そば などが有名だった)
「女郎屋は夜九つ時(12時)を引けといひ、其の頃迄は郭内(くるわない)往来繁けれど、其れ以後翌日四つ時(10時)頃迄は、水を打たる如く誠に静かなり。客は大概(たいがい)夜の明けぬ内に帰るなり。其の帰りは酒の酔いも覚め、腹もへり懐も手薄となりし故、根岸の笹の雪、又は上野広小路の揚げ出し(豆腐)等、手軽の飯屋へ上がり腹をこしらへ、真締(真面目)顔して我家、又は主家へ帰り働く人もあり」(『幕末下級武士の記録』時事通信社)
江戸時代後期の『馬琴日記』に見る江戸の豆腐 ・・・「江戸の時代って本当はこんなに面白い」/河出書房新社より
「鈴木晋一著『馬琴の食卓』には、彼(『南総里見八犬伝』を書いた戯作者の滝沢馬琴)が食べ物について語っているのは、享和二年(1802)に36歳で京都、大坂を旅した時の記録であると書かれている。京都・丸山の料埋茶屋や賀茂川べりの生簀(いけす)、それに何升入りという大盃で知られた浮瀬などで食事をしている。そして、「京にて味よきもの。麩(ふ)・湯皮(ゆば)・芋・水菜(みずな)・うどんのみ。祇園豆腐は、真崎の田楽に及ばず。南禅寺豆腐は、江戸のあわ雪にも劣れり」と書いて、上方の味をバッサリと切っている。」
このように、豆腐料理は江戸よりも京のほうが有名であったが、滝沢馬琴は南禅寺の湯豆腐を評して、「南禅寺豆腐は江戸の淡雪におとれり」とけなし、また、京の祇園豆腐と江戸、真崎稲荷の田楽茶屋「甲子屋」の田楽をくらべて「祇園豆腐は真崎の田楽におよばず」といっている。

 
「湯やっこ(湯奴、湯豆腐)」 … 『新撰豆腐百珍』著者:林春隆(中公文庫)
八九分ほどの賽の目に豆腐を切るか、または拍子木豆腐として六七分の角(長二三分)に切りおき、葛湯を湯玉のたつほど沸たたしたる鍋の中へ、右の豆腐一人分入れ、さて蓋をせずに見ていると、豆腐は火力のため少し動き出す。暫時して浮き上らんとする景気見ゆる時、すぐにすくい上げる(既に浮き上ればはや加減よろしからず塩梅ものなり)。なお豆腐を盛る時は、前以て器を温めおくをよしとす。
醤油加減は生醤油を沸たたし、これに花鰹を打ち込み、湯を少しばかりさし、また一遍沸立たし、しかる後絹漉しとし、別に猪口に入れ、葱の白味のざくざく、おろし大根、とうがらしの粉など入れたる汁にてこれを食す。
京都にてこれを湯豆腐といい、浪花にて湯やっこという。豆腐の調理において第一の品なるを以て、豆腐百珍にはこれを絶品の部におけり(占き法には、拑水(米のとぎ汁)にて煮るとあれども葛湯にて煮るに若かず)。


田楽茶屋(豆腐料理屋)

田楽茶屋と「豆腐百珍」、江戸庶民の食事処(3) を見る。《新しいウインドウが開きます》




江戸後期の芝居茶屋の食事

芝居茶屋は芝居小屋の周囲にあって、観客のために木戸札を予約したり、飲食の世話をするところであった。芝居茶屋の料理は、当時の最高の料亭にもひけをとらなかった。当時の茶屋には等級があって「大茶屋」「小茶屋」「水茶屋」の区別があった。大茶屋は「表茶屋」ともよび、芝居小屋内の一角にあって富裕な人々に利用された。小茶屋は「出茶屋」といって、中流以下の庶民が利用した。水茶屋は主として場内の飲食物を扱うところであった。
「水茶屋」は、のちに料亭や、相撲茶屋などに発展して分かれていった。建物を持った常設の店になったのは享保九年(1724)のことで、次々と水茶屋が建てられ、寛政年間(1789~1801年)には水茶屋は、江戸中に二万八千軒ほどあったという。

 
『江戸自慢三十六興 猿若街顔見せ』 元治元年(1864)より一部 (国立国会図書館所蔵)

「芝居茶屋は、1624年頃、江戸に雨風をしのいで茶を出す程度の掛茶屋(小屋がけの粗末な茶屋)であった。
明和年間(1764-71)になると、幕府公認の芝居小屋として櫓(やぐら)をあげることができた江戸三座(中村座・市村座・森田座)は、中村座で大茶屋が16軒と小茶屋が15軒、市村座で大茶屋10軒と小茶屋が15軒、森田座で大茶屋7軒があった。元禄時代の江戸三座のほかに小芝居・宮地芝居が多く存在した。

芝居の興行は、明け六つ(午前6時頃)から、暮れ七つ半(午後5時頃)までが原則だったため、芝居見物に行く日は一日がかりだったという。芝居茶屋(一般に芝居小屋と隣接した食事処)は劇場の周りの前後左右に数十件ほどあったという。この座付きの専門業者を通して「桟敷(さじき)専用口」から芝居小屋に入るのは上客で、平土間より高い本舞台をはさんだ左右の桟敷(さじき)席での観劇となる。
一般の客は木戸から入り本舞台の正面にある平土間(ひらどま)の桝席(ますせき)で観るのが普通だった。一桝の定員は六名。芝居見物は、舞台を観る以外にも芝居茶屋での食事も楽しみのひとつであった。 芝居小屋の料金は、江戸後期で「上桟敷」で銀 30匁(銭4,000文=銀 二分)、一般席の「枡席」で銭132文くらいであった。


『東都名所 猿若町芝居』 歌川広重 (天保3年,1832)
江戸市中の芝居小屋が集まる芝居町だった猿若町は、江戸歌舞伎の祖、中村座座長,猿若勘三郎の名から付けられた。






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