江戸の外食文化 資料 | ||
黒船来航と開国(1) |
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黒船来航(浦賀) 1.米国ペリー艦隊/初来航 ■黒船来航と国内情勢の変化江戸末期に来航したペリー艦隊の軍事力によって日本は開国し、幕末維新の動乱の歴史が始まった。幕末というのは、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督が日本の開国と国交樹立の使命を受けて、浦賀沖(現・横須賀市)に黒船が来航した嘉永6年(1853)から明治元年(1868)までの15年間のことを指す。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカ東インド艦隊の巨大な黒船4隻が外交窓口の「長崎」を避けて、江戸湾入口の浦賀沖(神奈川県横須賀市浦賀)に現れ、帆を使わずに黒い煙を吐き、潮や風に逆らって力強く外輪を回して進む2隻の汽走軍艦を含む異国船4隻の噂は日本国中をかけめぐった。(黒塗りの汽走軍艦は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆走軍艦を1艦ずつ曳航、煙突からは煙を上げている様子から、日本人は「黒船」と呼ぶようになった)ペリー艦隊が姿を現した江戸湾では、黒煙を吐いて走る異国船をひと目みようと、黒船見物ブームが起きたという。 「黒船来航風俗絵巻」には、ペリーの軍艦を見物に来た人々のようすが描かれている。最初は黒船を恐れていた江戸の人々も、時間が経つと共に恐怖が興味へと変わって黒船見物に出かけた。 ![]() 嘉永6年6月9日(1853年)、老中首座・阿部正弘は「国書受領だけならやむなし」と決断を下し、浦賀の隣にある久里浜に臨時の応接所を急いで造ってアメリカ大統領の国書を受け取った。つまり公式にアメリカ合衆国から日本に開国が要求されたということになった。鎖国政策を押し通そうとした幕府も嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港した。 安政3年7月21日(1856年8月21日)、和親条約の11条における米正文に基づいて、通商条約を結ぶためにアメリカ総領事として、タウンゼント・ハリスを下田に置いた。老中の堀田正睦は、イギリスの脅威を説く圧力におされて、通商条約の許可を朝廷に求めたが同意を得られなかった。 そして、安政5年(1858年)に、就任後間もない大老・井伊直弼が孝明天皇の許可(勅許)を得ないまま「日米修好通商条約」を結んだ。アメリカに続いてオランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国と修好通商条約(安政の五か国条約)を結び、国内の反対を押し切って、翌安政6年、横浜・長崎・箱館(函館)を開港した。ここに、200年以上に渡って続いた幕府の鎖国政策は終わりを告げた。 ペリー来航は徳川幕藩体制(幕府のやることに、朝廷や藩、幕臣などは一切口出ししないという体制)に大きな動揺をきたすこととなった。開国に最も強く反対したのが水戸藩と天皇であった。「日米修好通商条約」が調印されると、攘夷に熱心だった孝明天皇が激怒し、尊王論と攘夷論が結びついた反幕府運動「尊皇攘夷」のスローガンが生まれることになる。 幕府と諸藩の関係も変化した。国際化する政治状況の中で国益を守る強力な中央政府が求められ、徳川家独尊の幕藩体制では対応できないことが明かになった。諸大名は開国と攘夷との二つに分かれ、幕府はそれを統一する力さえも失った。混迷する政局を切り開き、主導権を握っていくのが、 「尊皇攘夷」をスローガンとして立ち上がった下級藩士を中心とする志士たちであった。 そして日本は明治維新に向けて激動の「幕末」の時代に入ることとなる。(尊王=天皇(朝廷)を尊ぶ、攘夷=外国人を排除する) ![]() 1853年にペリーが来航する。ペリーの強硬な態度に江戸幕府は、今までの外国政策を転換し開国する。その後、不平等条約を結び欧米諸国との貿易が始まるが、大量の金貨の流出や多くの品物が輸出されたことにより物価が急上昇し、日本の経済は大混乱に陥る。経済の混乱に伴い、庶民や下級武士の生活はいっそう苦しくなる。その結果、開国による貿易への不満、外国人に対する反感が噴出し、尊皇攘夷運動が高まり、その流れでおよそ260年間続いた江戸幕府は滅亡する。 ■ペリー来航と開国(概要) 《黒船初来航》 嘉永6年(1853年)6月3日の午後4時過ぎ、ペリー 提督は「開国と通商(貿易)」を求めたアメリカ大統領フィルモアの親書を携え、アメリカ東インド艦隊の蒸気外輪フリゲート(外洋航行可能な軍艦)のサスケハナ・ミシシッピー、帆走スループ(船団護衛用の軍艦)のプリマス、サラトガを率いて浦賀沖(現在の神奈川県)に現れ錨を下した。これら軍艦4隻の大砲は計73門であり、日本側からの襲撃を想定して臨戦態勢をとっていた。 この当時、将軍徳川家慶は病床にあって国家重大事を決定できる状態ではなく、老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)は幕府の基本方針「避戦」に従い「国書受領だけならやむなし」と結論、ペリーの久里浜(現在の横須賀市)上陸を認めた。同月9日にペリーは浦賀に隣接する久里浜に上陸して、浦賀奉行に「日本皇帝(将軍)」宛のフィルモア大統領の親書(国書)とペリー提督の書簡を渡すとともに、その回答を求めて翌年、再び来航すると予告して6月12日に艦隊は日本を去って行った。 《黒船ペリー再来航》 翌年の嘉永7年1月16日(1854年)、ペリーは軍艦7隻(蒸気船:サスケハナ,ミシシッピ,ポーハタン、帆船:マセドニアン,ヴァンダリア,レキシントン,サウサンプトン)を率いて神奈川沖に再来日した。これは約束した1年より早い来航であった。さらに2月に入って2隻(帆船:サラトガ,サプライ)が加わり9隻の大艦隊となった。
条約の内容は、下田・箱館の二港の開港、アメリカの捕鯨船が日本に漂着した時の救助と薪と水・食料などの必需品の供給、アメリカへの最恵国待遇付与、18ヶ月後の米領事駐在の許可などである。その後、伊豆国下田の了仙寺へ交渉の場を移し、5月25日に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結し、ペリー艦隊は6月1日に下田を去って行った。 《日米修好条約・鎖国体制の崩壊》 日米和親条約,第11条の規定に基づき、安政3年7月21日に下田に着任した初代アメリカ駐日総領事ハリスは、江戸幕府,老中阿部正弘や大老井伊直弼との間で通商条約締結のため粘り強い話し合いが持たれた。1年以上を経た安政4年(1857)10月21日にハリスの登城と将軍謁見が実現している。 そして同年12月11日より日本側全権の井上信濃守と岩瀬肥後守との間で日米修好条約の交渉が始まり、「日米和親条約」が締結された4年後の安政5年6月19日(1858年7月29日)、大老井伊直弼は、朝廷,孝明天皇の勅許(許可)を得ないまま「日米修好通商条約」を調印した。 条約は14条から成り、日米相互の外交官駐在(第1条)、商業活動のため下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫へ開港場および外国人居留地を設定(第3条)、関税規定(第4条)、領事裁判規定(第6条)、遊歩区域の設定(第7条)、調印から171ヶ月後の見直し(第13条)などが盛り込まれた。 この条約をめぐっては、締結の是非や決定過程をめぐって、幕末政局の大きな争点となった。さらに、幕府はアメリカに続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同一内容の条約(安政の五か国条約)を締結した。こうして、ポルトガル船の入港を禁止した1639年に始まり、日米修好通商条約の締結年である1858年までの219年間に渡って続いた幕府の鎖国体制は崩壊したのである。 2.黒船来航の情報 ■幕府の情報収集力鎖国政策をとりながら徳川幕府は、日本は阿蘭陀風説書(定時)、別段風説書(新商館長着任時)によって常に海外の正確な情報を入手しており、ペリー来航の情報も事前に把握していた。 特に1852年、クルチウス新商館長着任時に提出された風説書により、アメリカ合衆国が日本遠征隊の派遣を決めたこと、司令官が当初のオーリックからペリーに変更になったこと、日本遠征には蒸気船サスケハンナ号(中国海域に停泊中)やミシシッピ号(米本土から回航)が使われる予定といった詳細まで幕府は把握していた。 また中国語に翻訳されていた近代国際法(「万国公法」と呼ばれていた)も日本にもたらされており、それによれば当時すでに湾口7キロ(約4海里)の江戸湾内は公海ではなく「領土」であり、ペリー檻隊の江戸湾侵入は他国領土への不法侵入にあたり、国際法違反であることも日本側は把握していた。 ■ペリー来航の予告情報「別段風説書」 嘉永5年(1852)6月、当時のオランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスが、長崎奉行に「別段風説書」を提出。内容は、アメリカ合衆国が日本との条約締結を求めるために艦隊を派遣することにはじまり、中国周辺に停留中のアメリカ軍艦5隻の艦名、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名に加えて、司令官のオーリックからペリーへの交代について、また、陸戦用の兵士と兵器搭載の噂、そして出航は4月下旬以降だろうということまで記載されていた。 鎖国体制の中で、米国政府が日本に使節を送る情報(アメリカ艦隊が日本に来航する)は、アヘン戦争後の1842年から毎年、オランダ商館長から幕府に提出していた「阿蘭陀(オランダ)別段風説書」によって、ペリー艦隊の来航する1年前に幕府は来航の目的も、武器・装備のことも事前に知っていた。 ペリー来航の前年(1852年嘉永五年)に、オランダからの風説書に「阿蘭陀国王欧羅巴(ヨーロッパ)州中専ら風聞有之(これあり)候事承込候。北亜墨利駕国(アメリカ)共和政治より、軍艦を日本国に差越(さしこし)、商売相遂度(あいとげたく)所存有之(これある)候由」と、日米交易のために軍艦が渡来することが記されていた。 しかし、その情報は老中阿部正弘や老中から特に許された役人しか見ることが許されなかった。鎖国体制下の当時において、風説書は時々刻々流動する世界各地の情勢を知る貴重な情報源であった。 1852(嘉永五)年のオランダ風説書に加え『阿蘭陀別段風説書』の写しには、アメリカが日本へ軍艦を派遣する目的について、「天皇に大統領の国書を渡すことの他に、漂流民の保護、開港、良港に石炭貯蔵場を設置すること」などが具体的に記されていた。 江戸幕府は、鎖国政策を採用してからも海外情報の人手に努め、通商関係にあり、毎年長崎の出島に来航する中国船とオランダ船から世界各地の海外情報に関する書類を提出させた。幕府の要請に応えて提出されたその書類は、長崎でただちに翻訳され、密封後江戸に直送される、いわば重要機密書類であった。 中国からのものを「唐風説書」、オランダからのものを「阿蘭陀(和蘭)風説書」と呼んだ。また、オランダ領東インド政庁によってまとめられた「別段風説書」は、中国とイギリスとの間で始まったアヘン戦争を契機として、これまでの阿蘭陀風説書とは別に提出されるようになったものである。
![]() 「嘉永五年・別段風説書」 一般には風説書写本は長崎奉行配下の通訳がオランダ語から訳出した物の写本が多い。司天台訳というのは、長崎で翻訳(崎陽訳)された風説書に添えられたオランダ語原文を江戸の浅草にあった天文台(司天台といった)で幕府の天文方が翻訳したものである。 風説書が伝える世界情勢の嘉永五年「別段風説書」は、全くの文字情報であった。しかし、ここに記された一部の事物は、翌年の嘉永六年,黒船来航時に日本人が初めて見ることになる。これが、ペリー艦隊に含まれていたサスケハナ号とミシシッピ号の二艘の軍艦である。この二艘の軍艦は、当時の西洋技術の最先端をいく蒸気船軍艦であった。
3.ペリーが浦賀に来航 ■浦賀でペリー艦隊を発見嘉永6年(1853)6月3日の朝、江戸湾海上は深い霧に包まれていた。城ケ島村(三浦市)の漁師4人が漁業に出掛けたところ、松輪村(三浦市)沖を航行しているペリー艦隊を目撃した。漁師たちは、急いで三崎(三浦市)に詰めていた下田在勤の浦賀奉行所同心に注進した。注進を受けた同心は、早速浦賀奉行へ書状を送った。 ○下田在勤の浦賀同心より浦賀御役所への御用状 「浦賀奉行用人宛、今三日朝五つ時頃、異国船大二艘小二艘、都合四艘いづれも帆檣二本建て、遣り出し檣表に立て、尤も鉄砲并に船印等の有無は相分り申さず、戌亥風にて走り参り、間もなく北風に罷り成り候処、四艘共帆を下げ、追々北の方を向け乗通り候旨、同日四時頃、下田町漁船主與八・久次郎・吉平乗組みの者共追々訴へ出で候につき、即刻沖合乗出し見届け候処、もやにて船形一向相分り申さず候につき引取り、猶又訴へのもの共入津の廻船船頭共へ相尋ね候処、前同断の趣相違これ無き旨、一同申し立て候につき、此の段御注進申し上げ候間、宜しく仰せ上げられ下さる可く候。 六月三日 飯田勝郎左衛門,臼井藤五郎」 ○江戸在府の浦賀奉行井戸弘道への書状 「嘉永六癸丑年六月三日、 今三日未の上刻、相模國城ヶ嶋沖合二異國船四艘相見え候趣キ三崎詰メの者申出候二付、早速見届ケノ為組の者出張仕らせ、御固メ四家(川越,忍,彦恨,会津の四藩)へ心得ノ為相達シ候ところ、只今千駄崎辺迄迅速二䑺(帆)込ミ候。依て其段御届ケ申上ゲ候。以上。 六月三日 浦賀奉行 戸田伊豆守」 ■ペリー艦隊初来航(黒船来航)- ペリーの第一次日本遠征 徳川幕府崩壊の約15年前、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの”開国と通商を求める国書”を携えたマシュー・ペリー提督は、旗艦サスケハンナ号を中心に黒い煙を吐く2隻の蒸気軍艦と帆走軍艦2隻からなる4隻編成の艦隊を率いて、午前4時、伊豆沖を通過していた。江戸湾に入るとペリー司令長官は、全艦隊に対し戦闘準備の命令を発した。 その後も最悪の場合を予想して大砲に弾を込め、哨兵及び戦闘用員たちにも小銃を装備させた「臨戦態勢」に固め、江戸湾を北上して相模国(さがみのくに)、浦賀鴨居(奈川県横須賀市)沖まで艦隊を進めた。4隻の軍艦は砲門を浦賀の町に向け、その日の午後5時、浦賀沖に一列に並び投錨した。 老中・阿部正弘が艦隊来航を知ったのはその夜である。浦賀から早船による報告が江戸在勤の浦賀奉行・井戸弘道の屋敷に着いたのは午後10時、井戸はその報告を直ちに老中・阿部の屋敷に持参した。 ![]() ペリー艦隊四隻が投錨した浦賀沖は、江戸湾がもっとも狭くなる観音崎 - 富津間(海防線)のすぐ外洋側に位置する場所であった。(ペリー来航以前から、江戸幕府は江戸湾への敵艦の侵入を防ぐ計画を作成し、観音崎~富津岬を結ぶ 線を最重要防御線としていた。ペリーの第一次日本遠征後、幕府は海防線を観音崎=富津線から後退させ品川沖に移し、品川台場[砲台]を建造する。) アメリカ合衆国のペリー艦隊の構成は、木造3本マスト・バーク型外輪式蒸気軍艦の旗艦サスケハンナ号(Susquehanna 2,450t,大砲9門)とミシシッピ号(Mississippi 1,692t,大砲12門)、および、木造3本マストの帆走軍艦のプリマウス号(Plymouth 989t,大砲22門)とサラトガ号(Saratoga 882t,大砲22門)であった 。艦隊4隻の乗員総数は988人にものぼる。 ![]() ![]() 4.ルビコン川を渡る しかし、浦賀に来航したペリー艦隊は、江戸湾の水深や潮流を測定し、次の来航に備えるため、ミシシッピ号の護衛する測量船が幕府防衛線「観音崎=富津線」を超える「内海侵犯」を行った。 ■ペリー艦隊の江戸湾測定 嘉永6年6月3日(1853年1853年7月8日)浦賀沖に停泊したペリー提督は、各艦に対して翌4日早朝までに十分な人員と武器を配備した測量艇を用意するよう命じた。6月4日(7月9日)、夜明けと同時にペリーは艦隊所属の各艦から1隻ずつの武装した測量艇を派遣して、浦賀湊近辺と江戸湾入口の観音埼付近の測量を開始した。浦賀付近の測量は順調に進み6月5日(7月10日)にはほとんど終了した。 この時点でペリー提督は測量を江戸湾内にまで拡張することを決意し、嘉永6年6月6日(7月11)早朝、測量艇隊は相模の観音崎、上総の富津を越えて江戸湾の品川沖にまで侵入し、そこで水深を測ったりした。測量艇隊の護衛には軍艦ミシシッピ号がついていた。品川沖では、空砲ではあるが砲撃を行ない、国書を受けとろうとしない幕府を威嚇した。 この知らせを受けた阿部正弘を首座とする老中たちは、ペリー艦隊の強硬な態度に驚きながらも測量隊を江戸湾内から退去させるために、浦賀の南の久里浜海岸でアメリカ大統領の国書を受け取ることをペリー提督に通告した。しかし、幕府の目論見ははずれ、6月7日,8日(7月12日,13日)もペリー艦隊による江戸湾内の測量作業は精力的に続けられた。 ○江戸湾測量「横須賀市企画調整部 文化振興課」平成18年7月発行より、鍵カッコ内を引用転記する。 「ペリー艦隊はどうして浦賀沖に停泊したのでしょうか。 その答えは、浦賀までしか海図がなかったからでした。当時、江戸幕府から、現在の観音崎と千葉県の富津を結んだラインより江戸湾の奥へ入る異国船は打ち沈めよとの命令があり、過去に来航した異国船も浦賀より奥へ入ったことがなく、ペリーも何も情報を得ていなかったのです。 ペリーは、交渉を有利に運ぶためには、より江戸に近いところへ停泊することが必要だと思っていましたので、来航の翌日から「バッテイラ」 と日本側が呼んでいたカッター(小艇)で浦賀港周辺から測量を始めました。測量船の舳(へさき)には白旗、艫(とも)には海軍旗が掲げられていました。この様子を見た浦賀奉行所が「白旗」の意味を尋ねると「平和の意図を示すもの」との説明がありました。 測量は日曜日を除いて毎日行われ、7月11日には観音崎、走水を越えました。幕府にとっても重要なラインでしたが、ペリーもここを越えられるか越えられないかで、この遠征が成功するか、失敗するかを占う重要なポイントでした。そこで走水の旗山崎を、シーザーがローマを攻略した時に、ここを越えられれば勝利が確信できるとしたルビコン川になぞらえて、「ルビコン岬」と名付けました。さらにその先に見えた島、猿島を「ペリーアイランド」と命名しました。測量は羽田沖まで行われ、水深だけでなく海底の様子まで綿密な調査がなされました。」 ![]() W・ハイネ画「ルビコンを越える」 江戸の内海に入り、交戦の意思がないことを示す「白旗」を掲げたペリー艦隊使節が「ルビコン岬」を平穏に越えることを日本側と話し合っている絵。 5.黒船と幕府の対応 ■ペリー初来航時の浦賀奉行所と幕府の対応
6.ペリー提督,日本初上陸 ■ペリー日本初上陸(浦賀,久里浜)ペリー提督と幕府は、開国と通商(貿易)を求めるフィルモア大統領の国書の受け渡し場所について交渉を重ね、浦賀近くの久里浜となった。海岸には急造の埠頭(土俵で造られた仮設の桟橋)と応接所が設けられた。 幕府は江戸湾の警備を4藩に命じた。浦賀の久里浜海岸(神奈川県)を川越藩が500名、彦根藩が1100余名、他には会津藩・忍藩(おしはん)などの武士が陸上警護にあたり、海上では忍藩(現在の埼玉県北部あたりに位置した藩)に雇われた小船が50余隻(1隻に藩士5人)、会津藩が150隻、四百石船2艘(大砲5門づつ搭載)で海上警備にあたった。 江戸湾周辺は各大名家によって厳重に警備体制が敷かれた。応接所の周辺は浦賀奉行所の役人と西洋式砲術指南役の下曽根金三郎らで守られていた。また、全権を委任された浦賀奉行の戸田伊豆守には、本家筋にあたる大垣藩から援兵が送られ、応接所周辺で戸田の身辺警護にあたっていた。幕府は総勢5000名による警備体制であった。 ![]() W・ハイネ画(米艦隊の随行画家)「ペリー提督久里浜上陸の図」、アメリカの公式使節が初めて日本に上陸した歴史的瞬間 ペリー提督は嘉永6年6月9日朝(1853年7月14日)、久里浜を艦砲の射程内に収めたうえで、15隻のカッター(小型船舶)に乗った各艦の士官・水兵・陸戦隊約300名を久里浜の野比海岸に上陸させた。士官は正装し、水兵と陸戦隊は青と白の制服を着た。彼らの全員は武器を持ち、ほとんどの拳銃は装填してあった。 ぺリー提督は参謀長アダムズ中佐以下の幕僚を従えて、自らも沖合の艦隊から13発の礼砲とともに上陸した。また300名の兵員を埠頭から急ごしらえの応接所までの沿道に並ばせて威容を示した。 米国側の記録によるペリー提督の上陸は、「七月十四日(和暦六月九日)早朝には濃霧地をおおうたが、やがて旭日は輝き、大空は晴れ来った。・・・午前八時前にサスケハナ号とミシシッピー号とは、錨を揚げ煙を吐きつつ、浦賀から久里浜の方へ向こうた。無風のため帆前船は加わらなかった。・・・旗艦・サスケハナ号から、ボート集合の信号が上がった。三十分ばかりの内に、約十五艘の大艇小艇は、列を正して堂々と漕ぎ出した。ブカナン艦長は大ボートに乗り込み、先頭に立った。久里浜湾の中央に、当座間に合わせに土俵もて波止場ができていた。艦長ブカナン真っ先に上り、引き続いて百余人の水兵上陸し、両側に並列した。その後からまた百余人の水兵が上陸した。続いて音楽隊が二組上陸した。かれこれ総勢三百人ばかりの米国人・・・ペルリ提督が岸に上がると、随行の士官らは、上陸点の両側に並んで、提督がその中を通り抜けると、いずれも後ろから従うた。一行は直ちに列をなして、香山栄左衛門と通詞とに導かれて、接待所に向こうた。」 ![]() 【嘉永六年六月久里浜陳営の図-1】 ペリー提督久里浜上陸 幕府諸藩の警備体制。 応接所周辺に幕府の威信を賭けた青い陣幕を鶴翼に配置して旗指物や槍を備えた陣形、浦賀奉行所や彦根・会津・忍・川越各藩の布陣、上陸浜辺には浦賀舟番所の小舟二隻とペリー艦隊の上陸ボート15隻、上陸ペリー陸戦隊の行進、久里浜沖合には黒煙をあげながら停泊する二隻の蒸気軍艦(サスケハナとミシシッピ)、そして浦賀沖合に停泊する帆装軍艦二隻(サラトガとプリマス)の様子が判る。 海上は忍藩と会津藩が警備し、海岸で彦根藩と川越藩が警備しているなかを、ペリー提督一行が蛇行して仮応接所に入場していく様子を図示している。絵図には、「書簡受取之節久里濱浦二出張ノ人数、浦賀奉行所,戸田伊豆守,井戸石見守,与力同心,同勢三百人大垣加セトモ同百人。彦根藩人数二千余人,川越藩同七百余人。会津忍両勢力舟数九百五十艘。上陸之異人三百五十人計リ。彦根一番手 隊長中村小三郎,二番手 同奥山右膳。」とある。 ![]() 【嘉永六年六月久里浜陳営の図-2】 ペリー提督久里浜上陸 幕府諸藩の警備体制。 応接所周りの警備陣営、陸岸左側には川越藩・忍藩(丸に三つ葵)の陣幕と白抜赤の旗、応接所玄関の両側には、白地に二本の黒線(二つ引両紋 )模様の陣幕と奉行陣営の手勢,同心、応接所裏手には浦和奉行,戸田伊豆守の本家,大垣藩(九曜の紋)陣幕、陸岸右側には彦根藩(橘紋)陣幕と赤旗。 海岸線警備には左岸に番船四十七艘、右岸に番船六十八艘と記述。アメリカ先陣五十人・アメリカ船14艘・アメリカ人着陣地より行進と記述。六月九日朝辰下刻アメリカ人上陸人数五百余人と記されている。 7.国書受理の儀式 1853年7月14日(嘉永六年六月九日)、米国フィルモア大統領の「国書等書簡類」受け渡しは、久里浜応接所で終始無言による「国書捧呈の儀式」で執り行われた。国書受理に当たった幕府代表の二名の浦賀奉行は戸田伊豆守(戸田氏栄)、井戸石見守(井戸弘道)である。終始無言による「国書捧呈の儀式」は、香山栄左衛門が「書簡の受け渡しの時は、一言の問答にも及ばす、ただ書簡を受け渡すのみ」という申し入れをしたためである。 ![]() 海面:舩手固め松平下総守・松平肥後守。幕張外側には陸固め井伊掃部頭(いいかもんのかみ)・松平誠丸(松平典則)。幕張内側には同心四十八人(黒丸印)、その両側に与力金原と下曽根金三郎(砲術掛・大砲二門)の名がある。 仮屋百畳敷(久里浜応接所)の周囲には戸田采女正家来援兵(黒丸印)、夷人列立(赤丸印)。そして、桟橋から仮屋百畳敷入口までの夷人道筋(蛇行赤点印)、入口の旗持夷人(赤丸印)が記されている。 ![]() 久里浜応接所内の「奥の間(21畳)」で国書の授受を行った。フィルモア大統領の書簡二箱を前に、幕府側は井戸石見守・戸田伊豆守の名、米国側は主将(ペリー)・副将(ブカナン)・官将(アダムス)・和蘭語通訳(ポートマン)の4名。与力応接掛の5名も「奥の間」の下座に入ったと思われる。通訳の堀達之助の名が見当たらない。 ■国書受理・日本開国を要求 嘉永6年6月9日(7月14日)、浦賀奉行の戸田伊豆守(戸田氏栄)・井戸石見守(井戸弘道)が代表としてペリーと会見に臨んだ。ペリー提督は久里浜応接所で浦賀奉行の井戸石見守弘道に、オランダ語と中国語の翻訳が添えられたアメリカ大統領の国書とペリー書簡を収めた二箱を手渡した。幕府はオランダ語訳と中国語訳の二種類を和訳し、一字一句を確認した。(「香山栄左衛門の聞書き」には「国王の書翰二箱いずれも板三重にてねじ鋲にて留める」と記されている。) この国書捧呈の儀式は、事前の協議に基づいて「無言の授受」で行われた。これは、幕府の鎖国日本の「国法堅持」というスジを通しながら、やむなくフィルモア大統領国書の授受儀式であり、この場所では外交交渉は行わない、あくまでも例外措置であるという江戸幕府の意思を内外に示すために行われた。
■ペリー提督の強圧的な外交姿勢 ペリー提督は、アメリカ大統領から日本皇帝に宛てた ”国書” の他にも、ペリー自身が日本皇帝に宛てた「ここに国書をお届けする」と述べた手紙と「ペリー第一書簡」の「漢文本書」があって、「漢文本書」の末尾には以下のように書かれている。
■再来航の予告 ペリーは日本からの返書を受け取りたかったが、幕府は「将軍が病気のため決定できない」とし、返答に1年の猶予を要求した。ペリーは国書に対する返書への回答に時間を要すると幕府に配慮を示し、国書への即答を求めず、翌年、さらに強力な艦隊を引き連れて再び来航すると宣言し、ペリーは日本から帰帆した。 ■黒船来航と品川御台場の築造 ペリー来航に危機を感じた幕府は、海防に力を注ぐことを決めて大船建造禁止を撤廃し、西洋砲術の採用を決定する。 幕府は、翌年のペリー再来航に備えて江戸内湾防御の必要性から、品川沖に御台場を築くこととし、築造計画は西洋の築城書・砲術書などを参考にして、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の砲台(台場)を築造することにした。工事は勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月末に着手した。しかし、ペリーの再来航までには6基の台場が完成するのみであった。 8.ペリー艦隊の帰帆 ■国書受理直後のペリー艦隊の動き6月9日、ペリー艦隊は久里浜で国書授受の儀式を終えて帰艦するや、直ちに全艦隊に抜錨を命じ、浦賀水道を越えて江戸湾に進み、内海を北上して、同日夕刻、停泊地として武蔵小柴沖(現在の横浜市金沢区沖)に仮泊した。 驚いた奉行所は、すぐさまその真意を尋ねるため与力香山栄左衛門を派遣した。香山が艦隊に追いついたのは、金沢小柴沖に錨を下ろしたところであった。サスケハナ号に乗り込んだ香山は、怒りをあらわにした熊度で、「浦賀より内へ乗り入れることは、禁止であると通達しておいたのに、どうしてここまで来たのか」と問いただした。 これに対して、ぺリー側の答えは「浦賀沖は波が高すぎて、安全な停泊地でない。再来する時はこれより大型の船で来るので、良い停泊場所を探すために、3,4日ほど停泊する」というものであった。 翌日6月10日早朝、ペリー艦隊から二隻の蒸気軍艦が停泊地を離れ、一隻(ミシシッピ号)は羽田(品川)沖まで進み、品川台場(砲台)と幕府警護船を確認して艦隊停泊地戻った。もう一隻の蒸気軍艦(サスケハナ号)からは多くのボー卜が出て、金沢小柴沖周辺の水深、沿岸地形の測量探査を行った。 また、測量隊は川崎大師河原まで川を上がり上陸した。この小柴沖は後の再来航時にもアメリカ艦隊の停泊地となる。(米国は小柴沖を American anchorage:アメリカ錨地 と名付けた) 翌6月11日朝、ペリー艦隊は次回の来航予定地の小柴沖視察を終え、猿島(神奈川県横須賀市)付近まで戻るが、なおも湾内の測量を続けた。夜明けと同時に香山栄左衛門が黒船を訪れ出帆を促した。この会談で、ペリーから「明日未明、出帆いたす」という回答を得た。ペリー艦隊4隻は、日本側に十分脅威をあたえたことを確認して、6月12日(7月17日)未明に浦賀沖から去っていった。 《六月十二日、与力香山栄左衛門の報告、早朝より一同番所へ相詰め候ところ、五ッ半時(朝9時)ごろ本船(旗艦)をはじめ四隻とも、無事に退帆仕り候》 ![]() ペリー艦隊帰帆までの6月9日から12日までの艦隊行動の記録図 -------------------------- 次のページ「黒船<再>来航・横浜」に進む ![]()
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