日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 黒船来航と開国(1)


黒船来航(浦賀)

1.米国ペリー艦隊/初来航

■黒船来航と国内情勢の変化
江戸末期に来航したペリー艦隊の軍事力によって日本は開国し、幕末維新の動乱の歴史が始 まった。幕末というのは、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督が日本の開国と国交樹立の使命を受けて、浦賀沖(現・横須賀市)に黒船が来航した嘉永6年(1853)から明治元年(1868)までの15年間のことを指す。

 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカ東インド艦隊の巨大な黒船4隻が外交窓口の長崎を避けて江戸湾入口の浦賀沖(神奈川県横須賀市浦賀)に現れ、帆を使わずに黒い煙を吐き、潮や風に逆らって力強く外輪を回して進む2隻の汽走軍艦を含む異国船4隻の噂は日本国中をかけめぐった。(黒塗りの汽走軍艦は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆走軍艦を1艦ずつ曳航、煙突からは煙を上げている様子から、日本人は「黒船」と呼ぶようになった)ペリー艦隊が姿を現した江戸湾では、黒煙を吐いて走る異国船をひと目みようと、黒船見物ブームが起きたという。
「黒船来航風俗絵巻」には、ペリーの軍艦を見物に来た人々のようすが描かれている。最初は黒船を恐れていた江戸の人々も、時間が経つと共に恐怖が興味へと変わって黒船見物に出かけた。


 嘉永6年6月9日(1853年)、老中首座・阿部正弘は「国書受領だけならやむなし」と決断を下し、浦賀の隣にある久里浜に臨時の応接所を急いで造ってアメリカ大統領の国書を受け取った。つまり公式にアメリカ合衆国から日本に開国が要求されたということになった。鎖国政策を押し通そうとした幕府も嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港した。
 安政3年7月21日(1856年8月21日)、和親条約の11条における米正文に基づいて、通商条約を結ぶためにアメリカ総領事として、タウンゼント・ハリスを下田に置いた。老中の堀田正睦は、イギリスの脅威を説く圧力におされて、通商条約の許可を朝廷に求めたが同意を得られなかった。
そして、安政5年(1858年)に、就任後間もない大老・井伊直弼が孝明天皇の許可(勅許)を得ないまま「日米修好通商条約」を結んだ。アメリカに続いてオランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国と修好通商条約(安政の五か国条約)を結び、国内の反対を押し切って、翌安政6年、横浜・長崎・箱館(函館)を開港した。ここに、200年以上に渡って続いた幕府の鎖国政策は終わりを告げた。

 ペリー来航は徳川幕藩体制(幕府のやることに、朝廷や藩、幕臣などは一切口出ししないという体制)に大きな動揺をきたすこととなった。開国に最も強く反対したのが水戸藩と天皇であった。「日米修好通商条約」が調印されると、攘夷に熱心だった孝明天皇が激怒し、尊王論と攘夷論が結びついた反幕府運動「尊皇攘夷」のスローガンが生まれることになる。幕府と諸藩の関係も変化した。国際化する政治状況の中で国益を守る強力な中央政府が求められ、徳川家独尊の幕藩体制では対応できないことが明かになった。諸大名は開国と攘夷との二つに分かれ、幕府はそれを統一する力さえも失った。混迷する政局を切り開き、主導権を握っていくのが、 「尊皇攘夷」をスローガンとして立ち上がった下級藩士を中心とする志士たちであった。 そして日本は明治維新に向けて激動の「幕末」の時代に入ることとなる。(尊王=天皇(朝廷)を尊ぶ、攘夷=外国人を排除する)



1853年にペリーが来航する。ペリーの強硬な態度に江戸幕府は、今までの外国政策を転換し開国する。その後、不平等条約を結び欧米諸国との貿易が始まるが、大量の金貨の流出や多くの品物が輸出されたことにより物価が急上昇し、日本の経済は大混乱に陥る。経済の混乱に伴い、庶民や下級武士の生活はいっそう苦しくなる。その結果、開国による貿易への不満、外国人に対する反感が噴出し、尊皇攘夷運動が高まり、その流れでおよそ260年間続いた江戸幕府は滅亡する。

■ペリー来航と開国(概要)
《黒船初来航》
嘉永6年(1853年)6月3日の午後4時過ぎ、ペリー 提督は「開国と通商(貿易)」を求めたアメリカ大統領フィルモアの親書を携え、アメリカ東インド艦隊の蒸気外輪フリゲート(外洋航行可能な軍艦)のサスケハナ・ミシシッピー、帆走スループ(船団護衛用の軍艦)のプリマス、サラトガを率いて浦賀沖(現在の神奈川県)に現れ錨を下した。これら軍艦4隻の大砲は計73門であり、日本側からの襲撃を想定して臨戦態勢をとっていた。

この当時、将軍徳川家慶は病床にあって国家重大事を決定できる状態ではなく、老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)は幕府の基本方針「避戦」に従い「国書受領だけならやむなし」と結論、ペリーの久里浜(現在の横須賀市)上陸を認めた。同月9日にペリーは浦賀に隣接する久里浜に上陸して、浦賀奉行に「日本皇帝(将軍)」宛のフィルモア大統領の親書(国書)とペリー提督の書簡を渡すとともに、その回答を求めて翌年、再び来航すると予告して6月12日に艦隊は日本を去って行った。

《黒船ペリー再来航》
翌年の嘉永7年1月16日(1854年)、ペリーは軍艦7隻(蒸気船:サスケハナ,ミシシッピ,ポーハタン、帆船:マセドニアン,ヴァンダリア,レキシントン,サウサンプトン)を率いて神奈川沖に再来日した。これは約束した1年より早い来航であった。さらに2月に入って2隻(帆船:サラトガ,サプライ)が加わり9隻の大艦隊となった。
《ペリー艦隊に搭載された艦砲は、日本が持っている大砲に比べ、射程距離、破壊力、命中精度すべてにおいてはるかにすぐれていた。旗艦サスケハナ号の主砲である「パロット砲」の射程は7km以上とされる。先端がとがった細長い砲弾で真っ直ぐ飛ぶように砲身の内側にライフリング(打ち出す弾に回転を与えるためのらせん状の溝)が施されている。
そして着弾すれば炸裂する榴弾 (りゅうだん)である。日本の大砲とは段違いの威力であった。それに加え、ペリー艦隊は「ボートホイッスル砲」という持ち運び可能な小型の大砲も装備していた。これなら軍艦が入り込めないような浅瀬でもカッターボートに載せて運べば、どこからでも砲撃が可能となる。》
前回は国書の受け渡しであったため9日間で去って行ったが、今回は開国に関する協議が行なわれ、横浜で条約交渉に入ったのが嘉永7年2月10日である。幕府とペリーは横浜応接所で交渉を開始し、フィルモア大統領親書への返答、通商の可否、条約内容などについて議論を交わして、ついに、幕府は3月3日、近代的な国際条約である全12箇条に及ぶ「日米和親条約」を神奈川宿近くの横浜村で調印した。
条約の内容は、下田・箱館の二港の開港、アメリカの捕鯨船が日本に漂着した時の救助と薪と水・食料などの必需品の供給、アメリカへの最恵国待遇付与、18ヶ月後の米領事駐在の許可などである。その後、伊豆国下田の了仙寺へ交渉の場を移し、5月25日に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結し、ペリー艦隊は6月1日に下田を去って行った。

《日米修好条約・鎖国体制の崩壊》
 日米和親条約,第11条の規定に基づき、安政3年7月21日に下田に着任した初代アメリカ駐日総領事ハリスは、江戸幕府,老中阿部正弘や大老井伊直弼との間で通商条約締結のため粘り強い話し合いが持たれた。1年以上を経た安政4年(1857)10月21日にハリスの登城と将軍謁見が実現している。
そして同年12月11日より日本側全権の井上信濃守と岩瀬肥後守との間で日米修好条約の交渉が始まり、「日米和親条約」が締結された4年後の安政5年6月19日(1858年7月29日)、大老井伊直弼は、朝廷,孝明天皇の勅許(許可)を得ないまま「日米修好通商条約」を調印した。
条約は14条から成り、日米相互の外交官駐在(第1条)、商業活動のため下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫へ開港場および外国人居留地を設定(第3条)、関税規定(第4条)、領事裁判規定(第6条)、遊歩区域の設定(第7条)、調印から171ヶ月後の見直し(第13条)などが盛り込まれた。

この条約をめぐっては、締結の是非や決定過程をめぐって、幕末政局の大きな争点となった。さらに、幕府はアメリカに続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同一内容の条約(安政の五か国条約)を締結した。こうして、ポルトガル船の入港を禁止した1639年に始まり、日米修好通商条約の締結年である1858年までの219年間に渡って続いた幕府の鎖国体制は崩壊したのである。

2.黒船来航の目的

■ペリー来航の目的
ペリーが来航した目的は日本を開国するためで、その理由は以下の2点である。
  1. 捕鯨をするために寄港地が必要
  2. 中国大陸に進出するための補給基地確保
ペリーが持参したフィルモア大統領の国書には、次のように記されている。

「吾が人民にして、日本沿岸に於て捕鯨に従事するもの甚だ多し。荒天の際には、吾が船舶中の一艘〔いっそう〕が貴国沿岸に於て難破することも屡々〔しばしば〕なり。かかる場合には悉〔ことごと〕く〔中略〕吾が不幸なる人民を親切に遇し、その財産を保護せられんことを願ひまた期待するものなり」(『ペルリ提督日本遠征記』より引用)

このように、ペリーの最大の目的は、日本を開国させて捕鯨船の拠点として活用することであった。また、アメリカとしてはもうひとつ、清との貿易拠点として日本を活用する意図もあった。
しかしアジアに植民地を持っていなかったアメリカは、清への進出においてイギリス、フランス、オランダなどに遅れをとっていた。この遅れを取り戻そうと、いまだオランダ以外が進出していない日本を目指したのである。

 

 アメリカ式捕鯨船がはじめて現れてから太平洋の操業域は飛躍的に広がって、1820年には日本列島・伊豆諸島・ブニン(Bomn, 小笠原)諸島をとりまく海域に達し、以後ここは捕鯨船関係者の間で、「ジャパングラウンド」と呼ばれる好漁場として評判になった。そして、1822年には日本に達した米国籍の捕鯨船は30隻に達したといわれる。1846年の統計によれば、アメリカの出漁捕鯨船数は延べで736隻、総トン数は23万トン、投下資本は7000万ドル。従業員数は7万人である。年間にマッコウクジラとセミクジラを合わせて14000頭を捕獲する乱獲時代を迎えていた。
アメリカ式捕鯨は船に積み込んだ捕鯨用ボートで捕獲したクジラを海の上で解体して、船の上で油をとり樽(たる)に詰めていた。主な捕獲の対象は、脂肪層と鯨油(げいゆ)が多く、捕ったあとに海中に沈まないマッコウクジラであった。

 アメリカ式捕鯨が生産する鯨油は、産業革命による「燃料需要」に応える灯油や機械油として大きな需要があった。石油の採掘が本格化される19世紀後半まで、鯨油はもっとも良質な燃料油と考えられていた。
日本が開国を求められていた当時、太平洋北部は世界でも有名な鯨の漁場として知られていた。最盛期は19世紀の中頃で、ペリー艦隊が来日した時期を含む1840年代から50年代にかけて、米国の捕鯨産業はピー クの隆盛を迎えた。日本へのペリー来航の目的の中には、捕鯨船は船上で鯨油の抽出も行うため、捕鯨船への食糧と大量の薪や水の補給が必要で、捕鯨船団の希望も含まれていた。

 アメリカは西海岸を拠点に、太平洋航路を開拓して清との貿易に取り組もうとしていた。当時の人口は日本が約3000万人だったのに比べ、清では約4億人と、まさに巨大マーケットであった。アメリカが清との貿易のために使っていたルートは「北太平洋から千島列島・津軽海峡」を経由して上海へ向かうというものであった。そのため、寄港地・補給基地として「箱館」の開港が必要であった。

3.黒船来航の情報

■ペリー来航の予告情報「別段風説書」
嘉永5年(1852)6月、当時のオランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスが、長崎奉行に「別段風説書」を提出。内容は、アメリカ合衆国が日本との条約締結を求めるために艦隊を派遣することにはじまり、中国周辺に停留中のアメリカ軍艦5隻の艦名、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名に加えて、司令官のオーリックからペリーへの交代について、また、陸戦用の兵士と兵器搭載の噂、そして出航は4月下旬以降だろうということまで記載されていた。

鎖国体制の中で、米国政府が日本に使節を送る情報(アメリカ艦隊が日本に来航する)は、アヘン戦争後の1842年から毎年、オランダ商館長から幕府に提出していた「阿蘭陀(オランダ)別段風説書」によって、ペリー艦隊の来航する1年前に幕府は来航の目的も、武器・装備のことも事前に知っていた。ペリー来航の前年(1852年嘉永五年)に、オランダからの風説書に「阿蘭陀国王欧羅巴(ヨーロッパ)州中専ら風聞有之(これあり)候事承込候。北亜墨利駕国(アメリカ)共和政治より、軍艦を日本国に差越(さしこし)、商売相遂度(あいとげたく)所存有之(これある)候由」と、日米交易のために軍艦が渡来することが記されていた。

しかし、その情報は老中阿部正弘や老中から特に許された役人しか見ることが許されなかった。鎖国体制下の当時において、風説書は時々刻々流動する世界各地の情勢を知る貴重な情報源であった。1852(嘉永五)年のオランダ風説書に加え『阿蘭陀別段風説書』の写しには、アメリカが日本へ軍艦を派遣する目的について、「天皇に大統領の国書を渡すことの他に、漂流民の保護、開港、良港に石炭貯蔵場を設置すること」などが具体的に記されていた。

江戸幕府は、鎖国政策を採用してからも海外情報の人手に努め、通商関係にあり、毎年長崎の出島に来航する中国船とオランダ船から世界各地の海外情報に関する書類を提出させた。幕府の要請に応えて提出されたその書類は、長崎でただちに翻訳され、密封後江戸に直送される、いわば重要機密書類であった。
中国からのものを「唐風説書」、オランダからのものを「阿蘭陀(和蘭)風説書」と呼んだ。また、オランダ領東インド政庁によってまとめられた「別段風説書」は、中国とイギリスとの間で始まったアヘン戦争を契機として、これまでの阿蘭陀風説書とは別に提出されるようになったものである。
○嘉永三年庚戌 別段風説書(司天台訳)
別段風説書には、「合衆國の北亜墨利加國人は、全世界に航海して弘く交易を為すことを勤る内、近日、風聞に据れは、日本にも到りて、交易を為すの所存ありと云へり。此企は秘書監「カライトン」[人名]の趣意と見へたり」とある。(北アメリカ合衆国では諸国と交易を行っているが、彼等の噂では日本とも交易を行う考えであるという。これは国務長官のカライトンの考えと思われる。)
○嘉永五年壬子「別段風説書」・・・現代訳文
「最近の情報では、アメリカ合衆国より艦隊を派遣し、交易を行うために、日本に渡来すると云う事である。此件に付き以下の事を聞いているが、それは合衆国から日本の皇帝へ使節を送って米国大統領の親書を提出し、又日本の漂流民を連れて来ると云う事である。
此使節は合衆国との民間貿易の為、日本国内の1-2の港の利用許可と、又適当な石炭貯蔵の港を用意してカリホルニアと中国の間を往来する蒸気船の用に立つ事を願いたい由である。

合衆国の軍艦で現在中国周辺に展開しているものは以下の通りである。
・シュスケハンナ(Susquehannna)号 蒸気外輪船
・サラトガ(Saratoga)号 コルベット
・プリモス(Plymouth)号 コルベット
・セントメリー(St. Mary's)号 コルベット
・バンダリア(Vandalia)号 コルベット

上記の船に使節を江戸に送る事を命ぜられた由である。又最近に情報で艦隊指令はオーリックであったがペリーと云者と交代した由である。更に前記五艘の軍艦に加え、次に軍艦を追加するそうである。
・ミシシッピー(Mississippi)号 蒸気外輪船 旗艦艦長 艦隊指令ペリー同乗
・プリンストン(Princeton)号 蒸気スクリュー船 艦長
・ペルリ号 (Perry) ブリック 280トン 砲8 艦長海軍中尉 
・サプライ(Supply)号 輸送船 船長海軍中尉 Arther. Sinclair
或る情報では陸軍及び攻城武器も積込んでいるとの事である。但し1852年4月(嘉永5年3月上旬頃)以前には出帆せず、多分もっと先になるだろう、と聞いている。

「嘉永五年・別段風説書」
一般には風説書写本は長崎奉行配下の通訳がオランダ語から訳出した物の写本が多い。司天台訳というのは、長崎で翻訳(崎陽訳)された風説書に添えられたオランダ語原文を江戸の浅草にあった天文台(司天台といった)で幕府の天文方が翻訳したものである。
風説書が伝える世界情勢の嘉永五年「別段風説書」は、全くの文字情報であった。しかし、ここに記された一部の事物は、翌年の嘉永六年,黒船来航時に日本人が初めて見ることになる。これが、ペリー艦隊に含まれていたサスケハナ号とミシシッピ号の二艘の軍艦である。この二艘の軍艦は、当時の西洋技術の最先端をいく蒸気船軍艦であった。

○嘉永五年壬子「別段風説書」・・・オランダ語原文・江戸の天文方による訳文(司天台訳)
一、近頃風評仕候には、北亜墨利加合衆國政堂より船を仕出し、日本と交易を取結ハんため、御當國江参り申べき由に御座候、此一条に付左の通承ハリ候。
合衆國より、日本帝へ使節差出し、伯理璽天徳[合衆國の國政総管]よりの書簡を奉り、且シ日本の漂客を連参り候由ニ御座候、此使節ハ又北亜墨利加の民人交易のため、日本の一二の港へ出入するを許されん事を願ひ、且又相應なる港を以て、石炭の置場と為すの許を得て、「カリホルニア」と支那との間に往来する蒸気船の用に備へんと欲し候由ニ御座候。
一、北亜墨利加の軍船、當時支那海に繋り居候者左の通ニ御座候。
  一、「シュスケハンナ」[名号]軍用蒸気フレカット舶 一艘。
     但し指揮官「アウリック」支配。
  一、「サラトガ」[名号]コルヘット舶 一艘。
  一、「プリモウト」[名号]コルヘット舶 一艘。
  一、「シント、マリス」[名号]コルヘット舶 一艘。
  一、「ハンダリア」[名号]コルヘット舶 一艘。
右の舶は使節を江戸へ差送り申へき旨命セられ候由ニ御座候。
近頃の風評にては、指揮官「アウリック」[人名]は右諸軍船の総督に御座候虚、指揮官「ペルリ」[人名]と申者これと交代仕べく哉ニ承り申候、且又前文五艘の軍船の外、猶次の軍艦を増加致すべき由承り申候。
  一、「ミスシシッピ」[名号]蒸気船 一艘。 掌旗甲比津比丹[官名]「ム,セ,クリュ子(ネ)イ」支配。但し指揮官「ペルリ」は此舶上ニ罷在候由。
  一、「プリンセトウン」[名号]蒸気船 一艘。 支揮官「シド子イ,スミット,セー」「人名」支配。
  一、「ペルリ」[名号]ブリッキ船 一艘。 海軍ロイテナント[官名]「ハイルハキス」[人名]支配。
  一、「シュプリ」[名号]輜重船 一艘。 海軍ロイテナント[官名]「アルチュル,シント,カライル」[人名]支配。
風評に拠り候得は、陸軍皿陸軍及攻城の諸具をも積込居候由ニ御座候。但し、四月下旬[我か當三月上旬の頃を云か]より前には開帆仕まじく、多分は猶又延引仕へき哉ニ承り申候。
 日本交易総督「フレデリッキ,コル子リス,ローセ」「イ,ハ,ドンケルキュルチウス」
  • ○浦賀附与力樋田多太郎の聞書
  • 浦賀与力の聞書(ききがき)には、ペリーの離日からわずか1月余りのちに、与力が語った率直な感想が記されている。
    『此の度入津の異船、一昨年と覚え候、蘭人を以て申し込みこれ有り候儀にて、石炭置場土地借用、并に交易を通ずることを願うという事、かねて御承知の儀にて候処、ことごとく秘密にのみ成し置かれ、一向御手当ての儀仰せ出されもこれ無く候につき、筒井肥前守(政憲、西丸留守居)殿より、厳重の御手当てこれ無くては相成らざる旨、頻りに申し上げに相成り候処、更に御取上げこれ無く、よふよふ昨暮に至り、四家へ御達しに相成り、浦賀奉行へも同時御達しこれ有り候処、又候奉行秘し置き、与力へは一切通達これ無く、さて当二、三月に至り、追々時節にも相成り候につき、紀伊守殿より御手当て向き御申し出での処、一切御取用ひこれ無き由。恐れながら当時の御役人は、異船何程来るとも、日本の鉄砲にて打ち放さば、直ちに逃げ帰るべし位の御腹合なるか、慨嘆に堪えず候。』
  • ・・・ 与力の樋田多太郎は、幕府はあらかじめ米国使節の来航を知っていながら、手を打たなかった幕府上層の危機感の薄さと秘密主義を指摘している。
  • 《アメリカが石炭貯蔵地の確保と通商の開始を求めて特使を派遣する情報を、すでに一昨年オランダ人から得ていながら、幕府の上層部がこれを秘してしかるべき対策を講じなかったこと。昨年の春ようやくこのことが浦賀奉行に通達されたが、奉行はこれを与力に伝えなかったこと等を批判して、恐れながら、アメリカの軍艦が何隻やってこようと、鉄砲を見せれば怖がって逃げ帰るとでも思っていらっしゃるのだろうか、嘆きを抑えることができない》

4.ペリーが浦賀に来航

■浦賀でペリー艦隊を発見
嘉永6年(1853)6月3日の朝、江戸湾海上は深い霧に包まれていた。城ケ島村(三浦市)の漁師4人が漁業に出掛けたところ、松輪村(三浦市)沖を航行しているペリー艦隊を目撃した。漁師たちは、急いで三崎(三浦市)に詰めていた下田在勤の浦賀奉行所同心に注進した。注進を受けた同心は、早速浦賀奉行へ書状を送った。

○下田在勤の浦賀同心より浦賀御役所への御用状
「浦賀奉行用人宛、今三日朝五つ時頃、異国船大二艘小二艘、都合四艘いづれも帆檣二本建て、遣り出し檣表に立て、尤も鉄砲并に船印等の有無は相分り申さず、戌亥風にて走り参り、間もなく北風に罷り成り候処、四艘共帆を下げ、追々北の方を向け乗通り候旨、同日四時頃、下田町漁船主與八・久次郎・吉平乗組みの者共追々訴へ出で候につき、即刻沖合乗出し見届け候処、もやにて船形一向相分り申さず候につき引取り、猶又訴へのもの共入津の廻船船頭共へ相尋ね候処、前同断の趣相違これ無き旨、一同申し立て候につき、此の段御注進申し上げ候間、宜しく仰せ上げられ下さる可く候。 六月三日 飯田勝郎左衛門,臼井藤五郎」

○江戸在府の浦賀奉行井戸弘道への書状
「嘉永六癸丑年六月三日、 今三日未の上刻、相模國城ヶ嶋沖合二異國船四艘相見え候趣キ三崎詰メの者申出候二付、早速見届ケノ為組の者出張仕らせ、御固メ四家(川越,忍,彦恨,会津の四藩)へ心得ノ為相達シ候ところ、只今千駄崎辺迄迅速二䑺(帆)込ミ候。依て其段御届ケ申上ゲ候。以上。 六月三日 浦賀奉行 戸田伊豆守」

■ペリー艦隊初来航(黒船来航)- ペリーの第一次日本遠征
徳川幕府崩壊の約15年前、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの”開国と通商を求める国書”を携えたマシュー・ペリー提督は、旗艦サスケハンナ号を中心に黒い煙を吐く2隻の蒸気軍艦と帆走軍艦2隻からなる4隻編成の艦隊を率いて、午前4時、伊豆沖を通過していた。江戸湾に入るとペリー司令長官は、全艦隊に対し戦闘準備の命令を発した。
その後も最悪の場合を予想して大砲に弾を込め、哨兵及び戦闘用員たちにも小銃を装備させた「臨戦態勢」に固め、江戸湾を北上して相模国(さがみのくに)、浦賀鴨居(奈川県横須賀市)沖まで艦隊を進めた。4隻の軍艦は砲門を浦賀の町に向け、その日の午後5時、浦賀沖に一列に並び投錨した。
老中・阿部正弘が艦隊来航を知ったのはその夜である。浦賀から早船による報告が江戸在勤の浦賀奉行・井戸弘道の屋敷に着いたのは午後10時、井戸はその報告を直ちに老中・阿部の屋敷に持参した。



ペリー艦隊四隻が投錨した浦賀沖は、江戸湾がもっとも狭くなる観音崎 - 富津間(海防線)のすぐ外洋側に位置する場所であった。(ペリー来航以前から、江戸幕府は江戸湾への敵艦の侵入を防ぐ計画を作成し、観音崎~富津岬を結ぶ 線を最重要防御線としていた。ペリーの第一次日本遠征後、幕府は海防線を観音崎=富津線から後退させ品川沖に移し、品川台場[砲台]を建造する。)

アメリカ合衆国のペリー艦隊の構成は、木造3本マスト・バーク型外輪式蒸気軍艦の旗艦サスケハンナ号(Susquehanna 2,450t,大砲9門)とミシシッピ号(Mississippi 1,692t,大砲12門)、および、木造3本マストの帆走軍艦のプリマウス号(Plymouth 989t,大砲22門)とサラトガ号(Saratoga 882t,大砲22門)であった 。艦隊4隻の乗員総数は988人にものぼる。

 

5.ルビコン川を渡る
 
ペリー艦隊の江戸湾侵入

ペリー艦隊の来航以前に、アメリカ船が浦賀に来航したのは、1845年の捕鯨船マンハッタン号と1946年の米国東インド艦隊のJ.ビッドル提督が率いる二隻の帆船である。これらは、いずれも観音崎=富津線を突破することなく、浦賀沖に停泊した。アメリカはこの一線を越えては問題が大きくなることを知っていたからである。
しかし、浦賀に来航したペリー艦隊は、江戸湾の水深や潮流を測定し、次の来航に備えるため、ミシシッピ号の護衛する測量船が幕府防衛線「観音崎=富津線」を超える「内海侵犯」を行った。

■ペリー艦隊の江戸湾測定
嘉永6年6月3日(1853年1853年7月8日)浦賀沖に停泊したペリー提督は、各艦に対して翌4日早朝までに十分な人員と武器を配備した測量艇を用意するよう命じた。6月4日(7月9日)、夜明けと同時にペリーは艦隊所属の各艦から1隻ずつの武装した測量艇を派遣して、浦賀湊近辺と江戸湾入口の観音埼付近の測量を開始した。浦賀付近の測量は順調に進み6月5日(7月10日)にはほとんど終了した。

この時点でペリー提督は測量を江戸湾内にまで拡張することを決意し、嘉永6年6月6日(7月11)早朝、測量艇隊は相模の観音崎、上総の富津を越えて江戸湾の品川沖にまで侵入し、そこで水深を測ったりした。測量艇隊の護衛には軍艦ミシシッピ号がついていた。品川沖では、空砲ではあるが砲撃を行ない、国書を受けとろうとしない幕府を威嚇した。

この知らせを受けた阿部正弘を首座とする老中たちは、ペリー艦隊の強硬な態度に驚きながらも測量隊を江戸湾内から退去させるために、浦賀の南の久里浜海岸でアメリカ大統領の国書を受け取ることをペリー提督に通告した。しかし、幕府の目論見ははずれ、6月7日,8日(7月12日,13日)もペリー艦隊による江戸湾内の測量作業は精力的に続けられた。

○江戸湾測量「横須賀市企画調整部 文化振興課」平成18年7月発行より、鍵カッコ内を引用転記する。
「ペリー艦隊はどうして浦賀沖に停泊したのでしょうか。 その答えは、浦賀までしか海図がなかったからでした。当時、江戸幕府から、現在の観音崎と千葉県の富津を結んだラインより江戸湾の奥へ入る異国船は打ち沈めよとの命令があり、過去に来航した異国船も浦賀より奥へ入ったことがなく、ペリーも何も情報を得ていなかったのです。

ペリーは、交渉を有利に運ぶためには、より江戸に近いところへ停泊することが必要だと思っていましたので、来航の翌日から「バッテイラ」 と日本側が呼んでいたカッター(小艇)で浦賀港周辺から測量を始めました。測量船の舳(へさき)には白旗、艫(とも)には海軍旗が掲げられていました。この様子を見た浦賀奉行所が「白旗」の意味を尋ねると「平和の意図を示すもの」との説明がありました。

測量は日曜日を除いて毎日行われ、7月11日には観音崎、走水を越えました。幕府にとっても重要なラインでしたが、ペリーもここを越えられるか越えられないかで、この遠征が成功するか、失敗するかを占う重要なポイントでした。そこで走水の旗山崎を、シーザーがローマを攻略した時に、ここを越えられれば勝利が確信できるとしたルビコン川になぞらえて、「ルビコン岬」と名付けました。さらにその先に見えた島、猿島を「ペリーアイランド」と命名しました。測量は羽田沖まで行われ、水深だけでなく海底の様子まで綿密な調査がなされました。」


W・ハイネ画「ルビコンを越える」
江戸の内海に入り、交戦の意思がないことを示す「白旗」を掲げたペリー艦隊使節が「ルビコン岬」を平穏に越えることを日本側と話し合っている絵。

6.黒船と幕府の対応

■ペリー初来航時の浦賀奉行所と幕府の対応
  • 嘉永6年(1853年)
    6月3日 ペリー艦隊4隻浦賀沖来航、与力中島三郎助・通訳の堀達之助がサスケハナ号に乗り込み交渉
    6月4日 与力中島三郎助に代わって、浦賀奉行を演じた与力香山栄左衛門が交渉
    6月6日 ミシシッピー号江戸湾侵入し短艇を使い湾内調査・測量を行う、香山栄左衛門が抗議し引き返す。同日、江戸城大広間にて大評定が開かれ国書受領が決定される。
  • 6月7日 香山栄左衛門、久里浜でのアメリカ大統領の国書を受け取りを伝える
    6月9日 ペリー久里浜に上陸、国書授受の儀式、アメリカ大統領の国書受理
    6月10日 ペリー艦隊、江戸湾内を北上、ミシシッピ号が羽田沖まで侵入
    6月11日 ペリー艦隊、小柴沖停泊
    6月12日 ペリー艦隊帰帆

    6月3日
  • 江戸湾の異国船出入り船を検問する任務を負っていたのが浦賀奉行所である。浦賀沖に錨を下ろしたペリー艦隊は戦闘体制に入っており、浦賀奉行所与力の中島三郎助が、オランダ語通詞の堀達之助を伴って、旗艦のサスケハナ号に乗り込もうとするが拒否された。
  • そこで、堀達之助はペリー提督が乗船する旗艦・サスケハナ号に対して、海上から6~8mほどの高さの甲板を見上げて、英語で最初に発した言葉が “I can spesk Dutch.(私はオランダ語を話すことができる)” であった。
  • この堀達之助の問い掛けに、ペリー側はオランダ語通訳のポートマンが現れて対応を始めた。ポートマンが「提督は高官だけの乗船を希望している」と伝えると、堀達之助が「ここにいるのは浦賀奉行所の副奉行(バイス・ガバナー,副総督)である」と告げると、ようやく乗船が許可された。
  • こうして二人は旗艦サスケハナ号(蒸気軍艦)の艦長室に招かれ、オランダ語を媒介にペリーの副官コンティ大尉と日米初の対話が始まった。アメリカ側の記録によると「提督は長官室にとじこもり副官が応対するという形式を取った」が、これは「実際には提督との会談であった」。
    与力の中島が「浦賀より内は内海(日本の領海)であり、無断で侵入するのは不法である」と抗議する。浦賀奉行所の与力中島三郎助は、近代国際法である「万国公法」を理解しており、「湾口6海里(約11㎞)以内は領土の内水であり、江戸湾に許可なく進入することは認められない」と堂々と外交交渉したといわれる。
  • そして、コンティ大尉は「この艦隊の司令長官は、日本との平和な交渉を開くための任務を帯びて、アメリカ政府から派遣された使節で、大統領から日本皇帝に捧げる国書を携えている。さしあたり、その写しをさし上げるから、対等な地位の高官を艦隊へよこして貰いたい」と告げた。ペリーの来航目的が、アメリカ大統領から日本の皇帝に宛てた親書を手渡すことであることを知った。
  • 「アメリカ合衆国政府仕出し候軍艦にて・・・応接の者寄付き申さず漸く申諭し乗組み相諭し候ところ、國王の書簡護送致し奉行へ直二相渡し申すべき旨申聞き・・・ 六月三日、戸田伊豆守」

  • 浦賀奉行所は在勤の奉行と江戸城詰めの奉行の二員制で、在浦賀の奉行が戸田氏栄、在江戸の奉行が井戸弘道であった)、その下には支配組組頭が2名、その下に与力が20人、その下に同心100名の編成であった。
    浦賀奉行の戸田氏栄(うじよし)は、米艦から戻った与力中島三郎助から艦隊の強硬な態度を聞き、「不容易軍艦にて、此上之変化難計」(容易ならぬ軍艦で、これからどうなるか計り難い)と記した意見書を老中に送った。
  • 当時、老中首座として幕府を率いていた阿部正弘がペリー艦隊の来航を知ったのは6月3日であった。 同日夜10時過ぎ、浦賀奉行の戸田氏栄から江戸在府の浦賀奉行の井戸弘道にペリー来航が報告され、井戸は老中首座阿部正弘にペリー浦賀来航の報告をした。この時の第12代将軍徳川家慶は病床にあり、江戸城内で老中阿部正弘、三奉行、海防掛が集まり評議がなされた。井戸弘道は江戸在府の浦賀奉行として江戸にいたが、同日夜、江戸城で協議した上で、6月8日に浦賀へ帰任した。
  • 6月4日
  • ペリー側が「対等な地位の高官」(総督)を求めたため翌日また出直して、堀達之助がこの方こそ「浦賀の総督(ガバナー)」と、中島の上席の与力香山栄左衛門を紹介する。こうして再びコンティ大尉との話し合いが始まった。 2回目の接触では、与力,香山栄左衛門と通詞の堀達之助・立石得十郎の3名が接触した。香山栄左衛門が浦賀奉行所の総督ガバナー(Governor)になりすましてペリー艦隊と折衝、米大統領国書を受理するか否か3日後までに返答すると約束、すぐ役船に乗って江戸へ向かい、井戸石見守弘道(在府の浦賀奉行)に報告した。
  • ペリーは各艦から一隻ずつのボートを出して、浦賀湾と浦賀港とを測量させた。測量船には、十分に人員が配備され武装が施されており、測量隊は縦横無尽に測深を行い、湾近く約二海里の地点まで行き、午後になって帰艦した。
  • 「・・・是又昨夜大筒打ち、六ツ時頃大の船にて太鼓拍子取リ其後大筒相打ち、尚又同夜明ケ方に同様一度、今日朝四ツ時頃壱度相打ち申し候。且つ、小さき伝馬にて湊口辺より燈明台辺へ乗込み、深浅相計る様子見請け、私共一同心配仕り候。・・・ 浦賀奉行 戸田伊豆守与力 福田七郎」

  • ペリーの強硬な態度に驚愕した幕府は「鎖国」の「祖法」を堅持する方針であったが、友好的にアメリカとの交渉を進めることとなり、6月4日、老中阿部正弘は浦賀奉行に「御国体失わざる様(ように)相心得(あいこころえ)、なるべく丈ヶ(だけ)穏便に出帆候様致すべく候事」と委任する。
  • 6月5日
  • 老中阿部伊勢守正弘、牧野備前守忠雅(長岡藩主)は三奉行、大小目付をはじめ幕府諸有司に、米国国書の受否を諮問したが決着しなかった。この日、米国の測量隊が観音崎で水深の測量を行う。奉行所が抗議するが受け付けなかった。
  • 6月6日
  • ペリー艦隊の測量隊と蒸気船一隻(ミシシッピ号)が、観音崎、猿島を越えて内海、本牧付近に進み、大規模な測量を行う。さらに江戸湾内の羽田沖にまで侵入して、空砲ではあるが砲撃を行ない、国書を受けとろうとしない幕府を威嚇した。 6月6日夜半過ぎに老中、在府の大名と旗本700人が総登城し、善後措置を協議、その結果、国書受理に一決した。幕府はこの決定を在府の浦賀奉行井戸弘道に伝えた。
  • 「六月六日夜 異國船の儀に付、御老中方、若年寄衆只今不時の御登城これ有り候間、小普請奉行始め夫々へ相達す旨。右、御目付一色邦之輔、御小人目付を以て夜四ツ時相達す。」 「夜五ツ時頃、御老若方海防懸リの面々登城、九ツ時頃御退出に相成り候訳は、異國船壱艘神奈川本牧辺へ乗込み候趣き注進これ有リ。即刻御登城に相成り候様浦賀与力理解に及び、漸々浦賀へ帰帆の趣き再度注進これ有リ、御退出に相成り候由に御座候。御坊主申聞き候よし。」
  • また幕府は福井・高松・姫路・阿州・熊本・長州・柳河の七藩に江戸近辺の警備に当たらせ、府内には戒厳を令し、幕臣に出陣の用意を命じた。また、芝や品川付近に藩邸を構える仙台・土州・因州藩に藩邸の警護を命じた。
  • 6月7日
  • 午前10時ごろ、国書を受領せよとの命が幕府から浦賀奉行に伝えられた。そのことと、明8日に在府の浦賀奉行井戸弘道が浦賀に来着し、明後9日に久里浜で国書を受け取る予定であることを知らせるために、奉行所与力の香山栄左衛門がサスケハナ号に向かった。この日も艦隊は一日中測量活動を続けていた。
    老中阿部正弘から「相模国久里浜で国書を受け取り一日も早く退去させよ」との命令が浦賀奉行所に下ったのは6月7日四つ時(午前10時)過ぎであった。
  • 「此度異國船持参の書簡、浦賀にて受取に相成り候旨、尤も明後十日、久里濱に於て右の趣きへ仰渡しこれ有る筈に候間、其節は四家にて同所海陸固向き厳重に差出し候様、且つ退帆の義は別段仰渡されこれ有り候間、其砌其の面々持場斗り御備へ向き厳重心懸け候様、浦賀奉行より昨七日達しこれ有り候段、富津陣屋詰め家来より申越し候。 六月八日 松平肥前守」
       
  • 6月8日
  • 香山栄左衛門は旗艦に全権委任状を持参し、浦賀港の西隣にある久里浜で6月9日に国書を受理すること、さらに国書授受の細目について打ち合わせた。国書受理の際は、その内容に関する協議は行なわず、単なる儀礼的なものとする、この国書の回答は、ペリー艦隊が再度江戸湾を訪れた際になされることが確認された。香山の退去後、ぺリーは艦長会議を開き、当日は艦隊を久里浜海上の艦砲射撃の有効距離内に置くこと、ぺリー上陸の際は300名の兵を上陸させることなどを決定した。
  • ○浦賀奉行戸田伊豆守の老中への届け(6月3日、1回目の報告)
  •  嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、当時の浦賀奉行・戸田氏栄から幕府への報告によると「未上刻」に相模国城ヶ島沖合に異国船が見えたという。 未上刻という時間は、現在の午後2時から2時40分頃となる。
  •  『今三日、未上刻、相模の国城ケ島沖合いに、異国船四艘相見え候趣、三崎詰めのもの注進申し出候につき、早速見届けの為、組のもの出張り仕らせ、御固め四家(井伊掃部頭、松平誠丸、松平下総守、松平肥後守)へ心得の為、早々相達し候処、只今千駄崎まで迅速に走り込み候。 之により此の段御届け申し上げ候。以上』六月三日戸田伊豆守  (この届書は、早船で浦賀より江戸へ送られ、夜十時過ぎ、在府浦賀奉行井戸方へ到来、即刻阿部伊勢守正弘邸へ届けられる)
  • ○浦賀奉行戸田伊豆守の老中への届け(6月3日、2回目の報告)
  • 『先刻、御届け申し上げ候異国船、相糺し候処、アメリカ合衆国政府仕立ての軍艦にて、2艘は大砲20挺余、2艘は惣体鉄張りの蒸気船にて、1艘は大砲3,40挺、バッテーラ7,8艘、是又鉄張りの様子に相見受く、1艘は大砲12挺据え進退自在にて、艪櫂相用いず、迅速に出没仕り、応接の者を寄せ付け申さず、漸く申し諭し、一人乗組に相い諭し候処、国王の書翰を護送したしあり、奉行へ直ちに相い渡し申すべき旨申し受け、組の者の談し等は引受け申さず、既に江戸表へもその旨通じ置き候旨これを申し、泰然自若と罷りあり。猶同様の軍艦数艘渡来いたし候段申し聞け一切の船の近辺へ近寄り候事相断り申候、御国法相い諭し申すべくは候えども、容易ならざる軍艦にて此の上の変化計り難く、ただ今、応接中に御座候へども、先ず此の段早々申し上げ候。以上』

7.ペリー提督,日本初上陸

■ペリー日本初上陸(浦賀,久里浜)
ペリー提督と幕府は、開国と通商(貿易)を求めるフィルモア大統領の国書の受け渡し場所について交渉を重ね、浦賀近くの久里浜となった。海岸には急造の埠頭(土俵で造られた仮設の桟橋)と応接所が設けられた。
幕府は江戸湾の警備を4藩に命じた。浦賀の久里浜海岸(神奈川県)を川越藩が500名、彦根藩が1100余名、他には会津藩・忍藩(おしはん)などの武士が陸上警護にあたり、海上では忍藩(現在の埼玉県北部あたりに位置した藩)に雇われた小船が50余隻(1隻に藩士5人)、会津藩が150隻、四百石船2艘(大砲5門づつ搭載)で海上警備にあたった。
江戸湾周辺は各大名家によって厳重に警備体制が敷かれた。応接所の周辺は浦賀奉行所の役人と西洋式砲術指南役の下曽根金三郎らで守られていた。また、全権を委任された浦賀奉行の戸田伊豆守には、本家筋にあたる大垣藩から援兵が送られ、応接所周辺で戸田の身辺警護にあたっていた。幕府は総勢5000名による警備体制であった。


W・ハイネ画(米艦隊の随行画家)「ペリー提督久里浜上陸の図」、アメリカの公式使節が初めて日本に上陸した歴史的瞬間

ペリー提督は嘉永6年6月9日朝(1853年7月14日)、久里浜を艦砲の射程内に収めたうえで、15隻のカッター(小型船舶)に乗った各艦の士官・水兵・陸戦隊約300名を久里浜の野比海岸に上陸させた。士官は正装し、水兵と陸戦隊は青と白の制服を着た。彼らの全員は武器を持ち、ほとんどの拳銃は装填してあった。
ぺリー提督は参謀長アダムズ中佐以下の幕僚を従えて、自らも沖合の艦隊から13発の礼砲とともに上陸した。また300名の兵員を埠頭から急ごしらえの応接所までの沿道に並ばせて威容を示した。

米国側の記録によるペリー提督の上陸は、「七月十四日(和暦六月九日)早朝には濃霧地をおおうたが、やがて旭日は輝き、大空は晴れ来った。・・・午前八時前にサスケハナ号とミシシッピー号とは、錨を揚げ煙を吐きつつ、浦賀から久里浜の方へ向こうた。無風のため帆前船は加わらなかった。・・・旗艦・サスケハナ号から、ボート集合の信号が上がった。三十分ばかりの内に、約十五艘の大艇小艇は、列を正して堂々と漕ぎ出した。ブカナン艦長は大ボートに乗り込み、先頭に立った。久里浜湾の中央に、当座間に合わせに土俵もて波止場ができていた。艦長ブカナン真っ先に上り、引き続いて百余人の水兵上陸し、両側に並列した。その後からまた百余人の水兵が上陸した。続いて音楽隊が二組上陸した。かれこれ総勢三百人ばかりの米国人・・・ペルリ提督が岸に上がると、随行の士官らは、上陸点の両側に並んで、提督がその中を通り抜けると、いずれも後ろから従うた。一行は直ちに列をなして、香山栄左衛門と通詞とに導かれて、接待所に向こうた。」


【嘉永六年六月久里浜陳営の図-1】 ペリー提督久里浜上陸 幕府諸藩の警備体制。
応接所周辺に幕府の威信を賭けた青い陣幕を鶴翼に配置して旗指物や槍を備えた陣形、浦賀奉行所や彦根・会津・忍・川越各藩の布陣、上陸浜辺には浦賀舟番所の小舟二隻とペリー艦隊の上陸ボート15隻、上陸ペリー陸戦隊の行進、久里浜沖合には黒煙をあげながら停泊する二隻の蒸気軍艦(サスケハナとミシシッピ)、そして浦賀沖合に停泊する帆装軍艦二隻(サラトガとプリマス)の様子が判る。
海上は忍藩と会津藩が警備し、海岸で彦根藩と川越藩が警備しているなかを、ペリー提督一行が蛇行して仮応接所に入場していく様子を図示している。絵図には、「書簡受取之節久里濱浦二出張ノ人数、浦賀奉行所,戸田伊豆守,井戸石見守,与力同心,同勢三百人大垣加セトモ同百人。彦根藩人数二千余人,川越藩同七百余人。会津忍両勢力舟数九百五十艘。上陸之異人三百五十人計リ。彦根一番手 隊長中村小三郎,二番手 同奥山右膳。」とある。


【嘉永六年六月久里浜陳営の図-2】 ペリー提督久里浜上陸 幕府諸藩の警備体制。
応接所周りの警備陣営、陸岸左側には川越藩・忍藩(丸に三つ葵)の陣幕と白抜赤の旗、応接所玄関の両側には、白地に二本黒線(二つ引両紋 )模様の陣幕と奉行陣営の手勢,同心、応接所裏手には浦和奉行,戸田伊豆守の本家,大垣藩(九曜の紋)陣幕、陸岸右側には彦根藩(橘紋)陣幕と赤旗。
海岸線警備には左岸に番船四十七艘、右岸に番船六十八艘と記述。アメリカ先陣五十人・アメリカ船14艘・アメリカ人着陣地より行進と記述。六月九日朝辰下刻アメリカ人上陸人数五百余人と記されている。

8.国書受理の儀式

1853年7月14日(嘉永六年六月九日)、米国フィルモア大統領の「国書等書簡類」受け渡しは、久里浜応接所で終始無言による「国書捧呈の儀式」で執り行われた。国書受理に当たった幕府代表の二名の浦賀奉行は戸田伊豆守(戸田氏栄)、井戸石見守(井戸弘道)である。
終始無言による「国書捧呈の儀式」は、香山栄左衛門が「書簡の受け渡しの時は、一言の問答にも及ばす、ただ書簡を受け渡すのみ」という申し入れをしたためである。


海面:舩手固め松平下総守・松平肥後守。幕張外側には陸固め井伊掃部頭(いいかもんのかみ)・松平誠丸(松平典則)。幕張内側には同心四十八人(黒丸印)、その両側に与力金原と下曽根金三郎(砲術掛・大砲二門)の名がある。
仮屋百畳敷(久里浜応接所)の周囲には戸田采女正家来援兵(黒丸印)、夷人列立(赤丸印)。そして、桟橋から仮屋百畳敷入口までの夷人道筋(蛇行赤点印)、入口の旗持夷人(赤丸印)が記されている。


久里浜応接所内の「奥の間(21畳)」で国書の授受を行った。フィルモア大統領の書簡二箱を前に、幕府側は井戸石見守・戸田伊豆守の名、米国側は主将(ペリー)・副将(ブカナン)・官将(アダムス)・和蘭語通訳(ポートマン)の4名。与力応接掛の5名も「奥の間」の下座に入ったと思われる。通訳の堀達之助の名が見当たらない。

■国書受理・日本開国を要求
嘉永6年6月9日(7月14日)、浦賀奉行の戸田伊豆守(戸田氏栄)・井戸石見守(井戸弘道)が代表としてペリーと会見に臨んだ。ペリー提督は久里浜応接所で浦賀奉行の井戸石見守弘道に、オランダ語と中国語の翻訳が添えられたアメリカ大統領の国書とペリー書簡を収めた二箱を手渡した。幕府はオランダ語訳と中国語訳の二種類を和訳し、一字一句を確認した。(「香山栄左衛門の聞書き」には「国王の書翰二箱いずれも板三重にてねじ鋲にて留める」と記されている。)
この国書捧呈の儀式は、事前の協議に基づいて「無言の授受」で行われた。これは、幕府の鎖国日本の「国法堅持」というスジを通しながら、やむなくフィルモア大統領国書の授受儀式であり、この場所では外交交渉は行わない、あくまでも例外措置であるという江戸幕府の意思を内外に示すために行われた。
  • 浦賀奉行組与力香山栄左衛門の後日の上申書、嘉永6年6月9日(7月14日)
  • 『六月九日 朝五つ時頃、異人案内の為応接掛私始め、与力中島三郎助、近藤良次、佐々倉桐太郎とも都合四人、本船へ罷り越し候処、異船四艘とも、追々脚船相卸し、都合拾三艘、人数凡そ三百人程(其の内船中へ相残り候者も有之)、四つ時頃上陸、御陣中にて応答これ無く、以心伝心の受取り渡し相済み、即刻使節を始め、士卒水夫に至るまで、一同本船へ引き取り相済み申し候。此の節書翰守護の銃陣の行装を以て相察し候処、偽りて深地へ引き入れ、生捕らる可くも計り難しと用心仕り候体にて、実に敵地に入り候心地に相見え、前後銃隊の運動、目を驚かし申し候。巨細の儀は煩わしく存じ奉り候間、相省き申し候』
第13代大統領ミラード・フィルモアが日本国皇帝にあてた国書には、アメリカが日本の宗教や政治に干渉しないことのほか、開国と交易の開始、アメリカ漂流民の救助、中国との貿易船や、当時、灯油として利用されていた鯨油を取るためのアメリカ捕鯨船への燃料(石炭)と真水、食料の供給などの要求が記されていた。

■ペリー提督の強圧的な外交姿勢
ペリー提督は、アメリカ大統領から日本皇帝に宛てた ”国書” の他にも、ペリー自身が日本皇帝に宛てた「ここに国書をお届けする」と述べた手紙と「ペリー第一書簡」の「漢文本書」があって、「漢文本書」の末尾には以下のように書かれている。
  • ①順此誠寔立定和約、則両国免起衅端、故先坐領四小船、来近貴京、而達知其和意、本国尚 有数号大師船、特命馳来、未到日、盼陛下允準。
  • ②如若不和、来年大幇兵船必要馳来、現望、大皇帝議定各条約之後、別無緊要事務、大師船亦不来。
「漢文本書」は、幕府側によって「漢文和解(わげ)」された。「漢文和解」は、次のように日本語として訳してある。
  • ①この理に従い、真実に和約を取極め候えば、両国兵端を引き起し候ことこれなきと存じ候 [和約が成れば、戦争は避けられる]。 これに依りて、四艘の小船を率い、御府内近海に渡来致し、和約の趣意御達し申し候。
  • 本国このほかに数艘の大軍船これあり候間、早速渡来いたすべく候間、右着船これなき以前に、陛下御許容下され候様仕りたく候 [本国の大軍船の到着以前に決断すれば、平和が保たれ、決断がなければ戦争になる]。
  • ②もし和約の儀御承知なくござ候わば、来年大軍船を取り揃え、早速渡来いたすべく候 [万一、和約が成らない場合は、明年大軍船で再度渡来し、成行きでは、戦争になる]。 右につき、ただいま大皇帝の御評議相願い申し候。御承知下され候いて、右条約取極め候えば、ほかに大切の用事これなく、大軍船渡来いたさず候 [和約が成れば、大軍船の派遣は取りやめる]。
  • かつ、またわが国主[大統領]和約規定の書翰持参いたし候。 「四隻の小船を率いて御府内(江戸)近海に渡来いたし、和約の趣意を通達する。本国にはこのほかに数隻の大軍艦があり、早速にも渡来しようとしているので、これが来ない前に陛下がご許容下さるようお願いする。もし和約をご承知されないならば、来年、大軍艦を取りそろえ、早々に渡来する」 と、いった内容である。
このように、ペリーは “この国書の返事を受け取りに、来年の春、再びこの江戸湾に来る” と記した書簡を提出していた。また、ペリーが帰国後監修にあたった『日本遠征記』によれば、「今回は、2,3日中に艦隊を率いて琉球、広東方面に立ち去るが、来春の4月か5月に寄港する予定である」,「今回の来航した艦艇の数は艦隊の一部に過ぎず、次回はさらに大規模な艦隊を率いて来る」 とある。

■再来航の予告
ペリーは日本からの返書を受け取りたかったが、幕府は「将軍が病気のため決定できない」とし、返答に1年の猶予を要求した。ペリーは国書に対する返書への回答に時間を要すると幕府に配慮を示し、国書への即答を求めず、翌年、さらに強力な艦隊を引き連れて再び来航すると宣言し、ペリーは日本から帰帆した。

■黒船来航と品川御台場の築造
ペリー来航に危機を感じた幕府は、海防に力を注ぐことを決めて大船建造禁止を撤廃し、西洋砲術の採用を決定する。幕府は、翌年のペリー再来航に備えて江戸内湾防御の必要性から、品川沖に御台場を築くこととし、築造計画は西洋の築城書・砲術書などを参考にして、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の砲台(台場)を築造することにした。工事は勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月末に着手した。しかし、ペリーの再来航までには6基の台場が完成するのみであった。

9.ペリー艦隊の帰帆

■国書受理直後のペリー艦隊の動き
 6月9日、ペリー艦隊は久里浜で国書授受の儀式を終えて帰艦するや、直ちに全艦隊に抜錨を命じ、浦賀水道を越えて江戸湾に進み、内海を北上して、同日夕刻、停泊地として武蔵小柴沖(現在の横浜市金沢区沖)に仮泊した。
驚いた奉行所は、すぐさまその真意を尋ねるため与力香山栄左衛門を派遣した。香山が艦隊に追いついたのは、金沢小柴沖に錨を下ろしたところであった。サスケハナ号に乗り込んだ香山は、怒りをあらわにした熊度で、「浦賀より内へ乗り入れることは、禁止であると通達しておいたのに、どうしてここまで来たのか」と問いただした。
これに対して、ぺリー側の答えは「浦賀沖は波が高すぎて、安全な停泊地でない。再来する時はこれより大型の船で来るので、良い停泊場所を探すために、3,4日ほど停泊する」というものであった。

 翌日6月10日早朝、ペリー艦隊から二隻の蒸気軍艦が停泊地を離れ、一隻(ミシシッピ号)は羽田(品川)沖まで進み、品川台場(砲台)と幕府警護船を確認して艦隊停泊地戻った。もう一隻の蒸気軍艦(サスケハナ号)からは多くのボー卜が出て、金沢小柴沖周辺の水深、沿岸地形の測量探査を行った。
また、測量隊は川崎大師河原まで川を上がり上陸した。この小柴沖は後の再来航時にもアメリカ艦隊の停泊地となる。(米国は小柴沖を American anchorage:アメリカ錨地 と名付けた) 

 翌6月11日朝、ペリー艦隊は次回の来航予定地の小柴沖視察を終え、猿島(神奈川県横須賀市)付近まで戻るが、なおも湾内の測量を続けた。夜明けと同時に香山栄左衛門が黒船を訪れ出帆を促した。この会談で、ペリーから「明日未明、出帆いたす」という回答を得た。ペリー艦隊4隻は、日本側に十分脅威をあたえたことを確認して、6月12日(7月17日)未明に浦賀沖から去っていった。
《六月十二日、与力香山栄左衛門の報告、早朝より一同番所へ相詰め候ところ、五ッ半時(朝9時)ごろ本船(旗艦)をはじめ四隻とも、無事に退帆仕り候》


ペリー艦隊帰帆までの6月9日から12日までの艦隊行動の記録図

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