日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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 黒船来航と開国

黒船ペリー来航と開国

1.米国ペリー艦隊 初来航

幕末というのは、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督が日本の開国と国交樹立の使命を受けて、浦賀沖に黒船が来航した嘉永6年(1853)から明治元年(1868)までの15年間のことを指す。

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカ東インド艦隊の巨大な黒船4隻が外交窓口の長崎を避けて江戸湾入口の浦賀沖(神奈川県横須賀市浦賀)に現れ、帆を使わずに黒い煙を吐き、潮や風に逆らって力強く外車を回して進む2隻の汽走軍艦を含む異国船4隻の噂は日本国中をかけめぐった。ペリー艦隊が姿を現した江戸湾では、黒煙を吐いて走る異国船をひと目みようと、黒船見物ブームが起きたという。
「黒船来航風俗絵巻」には、ペリーの軍艦を見物に来た人々のようすが描かれている。最初は黒船を恐れていた江戸の人々も、時間が経つと共に恐怖が興味へと変わって黒船見物に出かけた。


嘉永6年6月9日、急いで設けられた久里浜応接所で、アメリカ大統領フィルモアの国書が、幕府の浦賀奉行に渡された。鎖国政策を押し通そうとした幕府も嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港した。そして、「日米修好通商条約」が締結された安政5年(1858年)、ついに幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国と修好通商条約を結び、200年以上にわたる幕府の鎖国政策は終わりを告げた。
ペリー来航は徳川幕藩体制に大きな動揺をきたすこととなった。幕府と諸藩の関係も変化した。国際化する政治状況の中で国益を守る強力な中央政府が求められ、徳川家独尊の幕藩体制では対応できないことが明かになった。諸大名は開国と攘夷との二つに分かれ、幕府はそれを統一する力さえも失った。


■ペリー来航と開国の概要
嘉永6年(1853年)6月3日の午後4時過ぎ、ペリー 提督は「開国と通商(貿易)」を求めたアメリカ大統領の親書を携え、アメリカ東インド艦隊の蒸気外輪フリゲート(外洋航行可能な軍艦)のサスケハナ・ミシシッピー、帆走スループ(船団護衛用の軍艦)のプリマス、サラトガを率いて浦賀沖(現在の神奈川県)に現れ錨を下した。
この当時、将軍徳川家慶は病床にあって国家重大事を決定できる状態ではなく、老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)は幕府の基本方針「避戦」に従い「国書受領だけならやむなし」と結論、ペリーの久里浜(現在の横須賀市)上陸を認めた。同月9日にペリーは浦賀に隣接する久里浜に上陸して、浦賀奉行に「日本皇帝(将軍)」宛のフィルモア大統領の親書とペリー提督の書簡を渡すとともに、その回答を求めて翌年、再び来航すると予告して6月12日に日本を離れた。

 翌年の嘉永7年1月16日(1854年)、ペリーは軍艦7隻(蒸気船:サスケハナ,ミシシッピ,ポーハタン、帆船:マセドニアン,ヴァンダリア,レキシントン,サウサンプトン)を率いて神奈川沖に再来日した。さらに2月に入って2隻(帆船:サラトガ,サプライ)が加わり9隻の大艦隊となった。
横浜で条約交渉に入ったのが嘉永7年2月10日、幕府とペリーは横浜応接所で交渉を開始し、フィルモア大統領親書への返答、通商の可否、条約内容などについて議論を交わして、ついに、三代将軍徳川家光の寛永期以来つづけてきた鎖国体制を維持することができず、幕府は3月3日、近代的な国際条約である「日米和親条約」を神奈川宿近くの横浜村で調印した。条約の内容は、下田・箱館の二港の開港、アメリカの捕鯨船が日本に漂着した時の救助と薪と水・食料などの必需品の供給、アメリカへの最恵国待遇付与、18ヶ月後の米領事駐在の許可などである。

 日米和親条約の規定によって、安政3年7月に下田に着任した初代アメリカ駐日総領事ハリスは、江戸幕府,老中阿部正弘や大老井伊直弼との間で通商条約締結のため粘り強い話し合いが持たれた。その結果、「日米和親条約」が締結された4年後の安政5年(1858年)、大老井伊直弼は、朝廷,孝明天皇の勅許(許可)を得ないまま「日米修好通商条約」を締結し、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫を開港し、下田は閉鎖する、江戸・大坂の開市、外国人居留地の設置、アメリカの領事裁判権、自由貿易の原則などであった。さらに、幕府はアメリカに続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同じ内容の条約(安政の五か国条約)を締結した。こうして、ポルトガル船の入港を禁止した1639年に始まり、日米修好通商条約の締結年である1858年までの219年間に渡って続いた幕府の鎖国体制は崩壊したのである。


■ペリー来航の予告情報
鎖国体制の中で、米国政府が日本に使節を送る情報が、ペリー艦隊の来航する1年前に江戸幕府へ予告されていた。この日本への黒船来航の情報は、長崎・出島のオランダ商館長を通して幕府に渡していた「阿蘭陀風説書」と呼ばれる文書に書かれていた。しかし、その情報は老中阿部正弘や老中から特に許された役人しか見ることが許されなかった。
 オランダ風説書とは、オランダ船が長崎の出島に来航する度にオランダ商館長から幕府に提出された海外情報をまとめた書物をいう。鎖国体制下の当時において、風説書は海外の情勢を知る貴重な情報源であった。1852(嘉永五)年のオランダ風説書に加え『別段風説書』の写しには、アメリカが日本へ軍艦を派遣する目的について、「天皇に大統領の国書を渡すことの他に、漂流民の保護、開港、良港に石炭貯蔵場を設置すること」などが具体的に記されていた。

○嘉永五年壬子別段風説書
「最近の情報では、アメリカ合衆国より艦隊を派遣し、交易を行うために、日本に渡来すると云う事である。此件に付き以下の事を聞いているが、それは合衆国から日本の皇帝へ使節を送って米国大統領の親書を提出し、又日本の漂流民を連れて来ると云う事である。
此使節は合衆国との民間貿易の為、日本国内の1-2の港の利用許可と、又適当な石炭貯蔵の港を用意してカリホルニアと中国の間を往来する蒸気船の用に立つ事を願いたい由である。 (日本の開国のほかに、使節派遣の目的の一つには、太平洋横断のため、石炭の補給港が途中にないと来られない。そのために沖縄の近くに石炭を確保できる貯炭港が欲しいが含まれている) 合衆国の軍艦で現在中国周辺に展開しているものは以下の通りである。 シュスケハンナ(Susquehannna)号,蒸気外輪船、サラトガ(Saratoga)号,コルベット、プリモス(Plymouth)号,コルベット、セントメリー(St. Mary's)号,コルベット、バンダリア(Vandalia)号,コルベット。
上記の船に使節を江戸に送る事を命ぜられた由である。又最近に情報で艦隊指令はオーリックであったがペリーと云者と交代した由である。更に前記五艘の軍艦に加え、次に軍艦を追加するそうである。 ミシシッピー(Mississippi)号,蒸気外輪船,旗艦艦長,艦隊指令ペリー同乗、プリンストン(Princeton)号,蒸気スクリュー船,艦長、ペルリ号(Perry),ブリック号 280トン砲8,艦長海軍中尉、サプライ(Supply)号,輸送船,船長海軍中尉Arther. Sinclair。
或る情報では陸軍及び攻城武器も積込んでいるとの事である。但し1852年4月(嘉永5年3月上旬頃)以前には出帆せず、多分もっと先になるだろう、と聞いている。」

  • ○浦賀附与力樋田多太郎の聞書
  • 浦賀与力の聞書(ききがき)には、ペリーの離日からわずか1月余りのちに、与力が語った率直な感想が記されている。
    『此の度入津の異船、一昨年と覚え候、蘭人を以て申し込みこれ有り候儀にて、石炭置場土地借用、并に交易を通ずることを願うという事、かねて御承知の儀にて候処、ことごとく秘密にのみ成し置かれ、一向御手当ての儀仰せ出されもこれ無く候につき、筒井肥前守(政憲、西丸留守居)殿より、厳重の御手当てこれ無くては相成らざる旨、頻りに申し上げに相成り候処、更に御取上げこれ無く、よふよふ昨暮に至り、四家へ御達しに相成り、浦賀奉行へも同時御達しこれ有り候処、又候奉行秘し置き、与力へは一切通達これ無く、さて当二、三月に至り、追々時節にも相成り候につき、紀伊守殿より御手当て向き御申し出での処、一切御取用ひこれ無き由。恐れながら当時の御役人は、異船何程来るとも、日本の鉄砲にて打ち放さば、直ちに逃げ帰るべし位の御腹合なるか、慨嘆に堪えず候。』
  • ・・・ 与力の樋田多太郎は、幕府はあらかじめ米国使節の来航を知っていながら、手を打たなかった幕府上層の危機感の薄さと秘密主義を指摘している。
  • 《アメリカが石炭貯蔵地の確保と通商の開始を求めて特使を派遣する情報を、すでに一昨年オランダ人から得ていながら、幕府の上層部がこれを秘してしかるべき対策を講じなかったこと。昨年の春ようやくこのことが浦賀奉行に通達されたが、奉行はこれを与力に伝えなかったこと等を批判して、恐れながら、アメリカの軍艦が何隻やってこようと、鉄砲を見せれば怖がって逃げ帰るとでも思っていらっしゃるのだろうか、嘆きを抑えることができない》

■浦賀でペリー艦隊を発見
嘉永6年(1853)6月3日の朝、江戸湾海上は深い霧に包まれていた。城ケ島村(三浦市)の漁師4人が漁業に出掛けたところ、松輪村(三浦市)沖を航行しているペリー艦隊を目撃した。漁師たちは、急いで三崎(三浦市)に詰めていた下田在勤の浦賀奉行所同心に注進した。注進を受けた同心は、早速浦賀奉行へ書状を送った。

○下田在勤の浦賀同心より浦賀御役所への御用状
「浦賀奉行用人宛、今三日朝五つ時頃、異国船大二艘小二艘、都合四艘いづれも帆檣二本建て、遣り出し檣表に立て、尤も鉄砲并に船印等の有無は相分り申さず、戌亥風にて走り参り、間もなく北風に罷り成り候処、四艘共帆を下げ、追々北の方を向け乗通り候旨、同日四時頃、下田町漁船主與八・久次郎・吉平乗組みの者共追々訴へ出で候につき、即刻沖合乗出し見届け候処、もやにて船形一向相分り申さず候につき引取り、猶又訴へのもの共入津の廻船船頭共へ相尋ね候処、前同断の趣相違これ無き旨、一同申し立て候につき、此の段御注進申し上げ候間、宜しく仰せ上げられ下さる可く候。 六月三日 飯田勝郎左衛門,臼井藤五郎」

○江戸在府の浦賀奉行井戸弘道への書状
「嘉永六癸丑年六月三日、 今三日未の上刻、相模國城ヶ嶋沖合二異國船四艘相見え候趣キ三崎詰メの者申出候二付、早速見届ケノ為組の者出張仕らせ、御固メ四家(川越,忍,彦恨,会津の四藩)へ心得ノ為相達シ候ところ、只今千駄崎辺迄迅速二䑺(帆)込ミ候。依て其段御届ケ申上ゲ候。以上。 六月三日 浦賀奉行 戸田伊豆守」


■ペリー初来航(黒船来航)- ペリーの第一次日本遠征
徳川幕府崩壊の約15年前、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの”開国と通商を求める国書”を携えたマシュー・ペリー提督は、旗艦サスケハンナ号を中心に黒い煙を吐く2隻の蒸気軍艦と帆走軍艦2隻からなる4隻編成の艦隊を率いて、伊豆沖を通過し江戸湾に近づく際、艦隊の各艦に信号を発し「敵と対戦する前になされる一切の準備」を行わせていた。
その後も最悪の場合を予想して大砲に弾を込め、哨兵及び戦闘用員たちにも小銃を装備させた「臨戦態勢」に固め、江戸湾を北上して相模国(さがみのくに)、浦賀鴨居(奈川県横須賀市)沖まで侵入した。4隻の軍艦は砲門を浦賀の町に向け、浦賀沖に一列に並び投錨した。

ペリー艦隊4隻が投錨した浦賀沖は、江戸湾がもっとも狭くなる観音崎 - 富津間(海防線)のすぐ外洋側に位置する場所であった。(ペリー来航以前から、江戸幕府は江戸湾への敵艦の侵入を防ぐ計画を作成し、観音崎~富津岬を結ぶ 線を最重要防御線としていた。ペリーの第一次日本遠征後、幕府は海防線を観音崎=富津線から後退させ品川沖に移し、品川台場[砲台]を建造する。)

アメリカ合衆国のペリー艦隊の構成は、木造3本マスト・バーク型外輪式蒸気軍艦の旗艦サスケハンナ号(Susquehanna 2,450t,大砲9門)とミシシッピ号(Mississippi 1,692t,大砲12門)、および、木造3本マストの帆走軍艦のプリマウス号(Plymouth 989t,大砲22門)とサラトガ号(Saratoga 882t,大砲22門)であった 。艦隊4隻の乗員総数は988人にものぼる。

 
■ペリー艦隊の江戸湾測定
嘉永6年6月3日(1853年1853年7月8日)浦賀沖に停泊したペリー提督は、各艦に対して翌4日早朝までに十分な人員と武器を配備した測量艇を用意するよう命じた。6月4日(7月9日)、夜明けと同時にペリーは艦隊所属の各艦から1隻ずつの武装した測量艇を派遣して、浦賀湊近辺と江戸湾入口の観音埼付近の測量を開始した。浦賀付近の測量は順調に進み6月5日(7月10日)にはほとんど終了した。
この時点でペリー提督は測量を江戸湾内にまで拡張することを決意し、嘉永6年6月6日(7月11)早朝、測量艇隊は相模の観音崎、上総の富津を越えて江戸湾の品川沖にまで侵入し、そこで水深を測ったりした。測量艇隊の護衛には軍艦ミシシッピ号がついていた。品川沖では、空砲ではあるが砲撃を行ない、国書を受けとろうとしない幕府を威嚇した。
この知らせを受けた阿部正弘を首座とする老中たちは、ペリー艦隊の強硬な態度に驚きながらも測量隊を江戸湾内から退去させるために、浦賀の南の久里浜海岸でアメリカ大統領の国書を受け取ることをペリー提督に通告した。しかし、幕府の目論見ははずれ、6月7日,8日(7月12日,13日)もペリー艦隊による江戸湾内の測量作業は精力的に続けられた。

○江戸湾測量「横須賀市企画調整部 文化振興課」平成18年7月発行より、鍵カッコ内を引用転記する。
「ペリー艦隊はどうして浦賀沖に停泊したのでしょうか。 その答えは、浦賀までしか海図がなかったからでした。当時、江戸幕府から、現在の観音崎と千葉県の富津を結んだラインより江戸湾の奥へ入る異国船は打ち沈めよとの命令があり、過去に来航した異国船も浦賀より奥へ入ったことがなく、ペリーも何も情報を得ていなかったのです。
ペリーは、交渉を有利に運ぶためには、より江戸に近いところへ停泊することが必要だと思っていましたので、来航の翌日から「バッテイラ」 と日本側が呼んでいたカッター(小艇)で浦賀港周辺から測量を始めました。測量船の舳(へさき)には白旗、艫(とも)には海軍旗が掲げられていました。この様子を見た浦賀奉行所が「白旗」の意味を尋ねると「平和の意図を示すもの」との説明がありました。
測量は日曜日を除いて毎日行われ、7月11日には観音崎、走水を越えました。幕府にとっても重要なラインでしたが、ペリーもここを越えられるか越えられないかで、この遠征が成功するか、失敗するかを占う重要なポイントでした。そこで走水の旗山崎を、シーザーがローマを攻略した時に、ここを越えられれば勝利が確信できるとしたルビコン川になぞらえて、「ルビコン岬」と名付けました。さらにその先に見えた島、猿島を「ペリーアイランド」と命名しました。測量は羽田沖まで行われ、水深だけでなく海底の様子まで綿密な調査がなされました。」



■ペリー初来航時の浦賀奉行所と幕府の対応
  • 嘉永6年(1853年)
    6月3日 ペリー艦隊4隻浦賀沖来航、与力中島三郎助・通訳の堀達之助がサスケハナ号に乗り込み交渉
    6月4日 与力中島三郎助に代わって、浦賀奉行を演じた与力香山栄左衛門が交渉
    6月6日 ミシシッピー号江戸湾侵入し短艇を使い湾内調査・測量を行う、香山栄左衛門が抗議し引き返す。
  • 6月7日 香山栄左衛門、久里浜でのアメリカ大統領の国書を受け取りを伝える
    6月9日 ペリー久里浜に上陸、国書授受の儀式、アメリカ大統領の国書受理
    6月10日 ペリー艦隊、江戸湾内を北上、ミシシッピ号が羽田沖まで侵入
    6月11日 ペリー艦隊、小柴沖停泊
    6月12日 ペリー艦隊帰帆

    6月3日
  • 異国船応接の任務を負っていたのが浦賀奉行所である。浦賀沖に錨を下ろしたペリー艦隊は戦闘体制に入っており、浦賀奉行所与力の中島三郎助が、オランダ語通詞の堀達之助を伴って、旗艦のサスケハナ号に乗り込もうとするが拒否された。そこで、堀達之助はペリー提督が乗船する旗艦・サスケハナ号に対して、海上から6~8mほどの高さの甲板を見上げて、英語で最初に発した言葉が “I can spesk Dutch.(私はオランダ語を話すことができる)” であった。
  • この堀達之助の問い掛けに、ペリー側はオランダ語通訳のポートマンが現れて対応を始めた。堀達之助が「ここにいるのは浦賀奉行所の副奉行(バイス・ガバナー,副総督)である」と告げると、ようやく乗船が許可され、中島らはブキャナン艦長室でオランダ語を媒介にペリー副官コンティ大尉と日米初の対話が始まった。
    その与力の中島が「浦賀より内は内海(日本の領海)であり、無断で侵入するのは不法である」と抗議する。浦賀奉行所の与力中島三郎助は、近代国際法である「万国公法」を理解しており、「湾口6海里(約11㎞)以内は領土の内水であり、江戸湾に許可なく進入することは認められない」と堂々と外交交渉したといわれる。
  • そして、コンティ大尉は「この艦隊の司令長官は、日本との平和な交渉を開くための任務を帯びて、アメリカ政府から派遣された使節で、大統領から日本皇帝に捧げる国書を携えている。さしあたり、その写しをさし上げるから、対等な地位の高官を艦隊へよこして貰いたい」と告げた。ペリーの来航目的が、アメリカ大統領から日本の皇帝に宛てた親書を手渡すことであることを知った。
  •  「アメリカ合衆国政府仕出し候軍艦にて・・・応接の者寄付き申さず漸く申諭し乗組み相諭し候ところ、國王の書簡護送致し奉行へ直二相渡し申すべき旨申聞き・・・ 六月三日、戸田伊豆守」

  • 浦賀奉行の職制は奉行が2人(1人が浦賀に、もう1人が江戸に在勤し、在浦賀の奉行が戸田氏栄、在江戸の奉行が井戸弘道であった)、その下には支配組組頭が2名、その下に与力が20人、その下に同心100名であった。
    浦賀奉行の戸田氏栄(うじよし)は、米艦から戻った与力中島三郎助から艦隊の強硬な態度を聞き、「不容易軍艦にて、此上之変化難計」(容易ならぬ軍艦で、これからどうなるか計り難い)と記した意見書を老中に送った。
  • 当時、老中首座として幕府を率いていた阿部正弘がペリー艦隊の来航を知ったのは6月3日であった。 同日夜10時過ぎ、浦賀奉行の戸田氏栄から江戸在府の浦賀奉行の井戸弘道にペリー来航が報告され、井戸は老中首座阿部正弘にペリー浦賀来航の報告をした。この時の第12代将軍徳川家慶は病床にあり、江戸城内で老中阿部正弘、三奉行、海防掛が集まり評議がなされた。井戸弘道は江戸在府の浦賀奉行として江戸にいたが、同日夜、江戸城で協議した上で、6月8日に浦賀へ帰任した。
  • 6月4日
  • ペリー側が「対等な地位の高官」(総督)を求めたため翌日また出直して、堀達之助がこの方こそ「浦賀の総督(ガバナー)」と、中島の上席の与力香山栄左衛門を紹介する。こうして再びコンティ大尉との話し合いが始まった。 2回目の接触では、与力,香山栄左衛門と通詞の堀達之助・立石得十郎の3名が接触した。香山栄左衛門が浦賀奉行所の総督ガバナー(Governor)になりすましてペリー艦隊と折衝、米大統領国書を受理するか否か3日後までに返答すると約束、すぐ役船に乗って江戸へ向かい、井戸石見守弘道(在府の浦賀奉行)に報告した。
  • ペリーは各艦から一隻ずつのボートを出して、浦賀湾と浦賀港とを測量させた。測量船には、十分に人員が配備され武装が施されており、測量隊は縦横無尽に測深を行い、湾近く約二海里の地点まで行き、午後になって帰艦した。
  •  「・・・是又昨夜大筒打ち、六ツ時頃大の船にて太鼓拍子取リ其後大筒相打ち、尚又同夜明ケ方に同様一度、今日朝四ツ時頃壱度相打ち申し候。且つ、小さき伝馬にて湊口辺より燈明台辺へ乗込み、深浅相計る様子見請け、私共一同心配仕り候。・・・ 浦賀奉行 戸田伊豆守与力 福田七郎」

  • ペリーの強硬な態度に驚愕した幕府は「鎖国」の「祖法」を堅持する方針であったが、友好的にアメリカとの交渉を進めることとなり、6月4日、老中阿部正弘は浦賀奉行に「御国体失わざる様(ように)相心得(あいこころえ)、なるべく丈ヶ(だけ)穏便に出帆候様致すべく候事」と委任する。
  • 6月5日
  • 老中阿部伊勢守正弘、牧野備前守忠雅(長岡藩主)は三奉行、大小目付をはじめ幕府諸有司に、米国国書の受否を諮問したが決着しなかった。この日、米国の測量隊が観音崎で水深の測量を行う。奉行所が抗議するが受け付けなかった。
  • 6月6日
  • ペリー艦隊の測量隊と蒸気船一隻(ミシシッピ号)が、観音崎、猿島を越えて内海、本牧付近に進み、大規模な測量を行う。さらに江戸湾内の羽田沖にまで侵入して、空砲ではあるが砲撃を行ない、国書を受けとろうとしない幕府を威嚇した。 6月6日夜半過ぎに老中、在府の大名と旗本700人が総登城し、善後措置を協議、その結果、国書受理に一決した。幕府はこの決定を在府の浦賀奉行井戸弘道に伝えた。
  • 「六月六日夜 異國船の儀に付、御老中方、若年寄衆只今不時の御登城これ有り候間、小普請奉行始め夫々へ相達す旨。右、御目付一色邦之輔、御小人目付を以て夜四ツ時相達す。」 「夜五ツ時頃、御老若方海防懸リの面々登城、九ツ時頃御退出に相成り候訳は、異國船壱艘神奈川本牧辺へ乗込み候趣き注進これ有リ。即刻御登城に相成り候様浦賀与力理解に及び、漸々浦賀へ帰帆の趣き再度注進これ有リ、御退出に相成り候由に御座候。御坊主申聞き候よし。」
  • また幕府は福井・高松・姫路・阿州・熊本・長州・柳河の七藩に江戸近辺の警備に当たらせ、府内には戒厳を令し、幕臣に出陣の用意を命じた。また、芝や品川付近に藩邸を構える仙台・土州・因州藩に藩邸の警護を命じた。
  • 6月7日
  • 午前10時ごろ、国書を受領せよとの命が幕府から浦賀奉行に伝えられた。そのことと、明8日に在府の浦賀奉行井戸弘道が浦賀に来着し、明後9日に久里浜で国書を受け取る予定であることを知らせるために、奉行所与力の香山栄左衛門がサスケハナ号に向かった。この日も艦隊は一日中測量活動を続けていた。
    老中阿部正弘から「相模国久里浜で国書を受け取り一日も早く退去させよ」との命令が浦賀奉行所に下ったのは6月7日四つ時(午前10時)過ぎであった。
  • 「此度異國船持参の書簡、浦賀にて受取に相成り候旨、尤も明後十日、久里濱に於て右の趣きへ仰渡しこれ有る筈に候間、其節は四家にて同所海陸固向き厳重に差出し候様、且つ退帆の義は別段仰渡されこれ有り候間、其砌其の面々持場斗り御備へ向き厳重心懸け候様、浦賀奉行より昨七日達しこれ有り候段、富津陣屋詰め家来より申越し候。 六月八日 松平肥前守」
  • 6月8日
  • 香山栄左衛門は旗艦に全権委任状を持参し、浦賀港の西隣にある久里浜で6月9日に国書を受理すること、さらに国書授受の細目について打ち合わせた。国書受理の際は、その内容に関する協議は行なわず、単なる儀礼的なものとする、この国書の回答は、ペリー艦隊が再度江戸湾を訪れた際になされることが確認された。香山の退去後、ぺリーは艦長会議を開き、当日は艦隊を久里浜海上の艦砲射撃の有効距離内に置くこと、ぺリー上陸の際は300名の兵を上陸させることなどを決定した。
  • ○浦賀奉行戸田伊豆守の老中への届け(6月3日、1回目の報告)
  •  嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、当時の浦賀奉行・戸田氏栄から幕府への報告によると「未上刻」に相模国城ヶ島沖合に異国船が見えたという。 未上刻という時間は、現在の午後2時から2時40分頃となる。
  •  『今三日、未上刻、相模の国城ケ島沖合いに、異国船四艘相見え候趣、三崎詰めのもの注進申し出候につき、早速見届けの為、組のもの出張り仕らせ、御固め四家(井伊掃部頭、松平誠丸、松平下総守、松平肥後守)へ心得の為、早々相達し候処、只今千駄崎まで迅速に走り込み候。 之により此の段御届け申し上げ候。以上』六月三日戸田伊豆守  (この届書は、早船で浦賀より江戸へ送られ、夜十時過ぎ、在府浦賀奉行井戸方へ到来、即刻阿部伊勢守正弘邸へ届けられる)
  • ○浦賀奉行戸田伊豆守の老中への届け(6月3日、2回目の報告)
  • 『先刻、御届け申し上げ候異国船、相糺し候処、アメリカ合衆国政府仕立ての軍艦にて、2艘は大砲20挺余、2艘は惣体鉄張りの蒸気船にて、1艘は大砲3,40挺、バッテーラ7,8艘、是又鉄張りの様子に相見受く、1艘は大砲12挺据え進退自在にて、艪櫂相用いず、迅速に出没仕り、応接の者を寄せ付け申さず、漸く申し諭し、一人乗組に相い諭し候処、国王の書翰を護送したしあり、奉行へ直ちに相い渡し申すべき旨申し受け、組の者の談し等は引受け申さず、既に江戸表へもその旨通じ置き候旨これを申し、泰然自若と罷りあり。猶同様の軍艦数艘渡来いたし候段申し聞け一切の船の近辺へ近寄り候事相断り申候、御国法相い諭し申すべくは候えども、容易ならざる軍艦にて此の上の変化計り難く、ただ今、応接中に御座候へども、先ず此の段早々申し上げ候。以上』

■ペリー日本初上陸(浦賀,久里浜)
ペリー提督と幕府は、開国と通商(貿易)を求めるフィルモア大統領の国書の受け渡し場所について交渉を重ね、浦賀近くの久里浜となった。海岸には急造の埠頭(土俵で造られた仮設の桟橋)と応接所が設けられた。
幕府は江戸湾の警備を4藩に命じた。浦賀の久里浜海岸(神奈川県)を川越藩が500名、彦根藩が1100余名、他には会津藩・忍藩(おしはん)などの武士が陸上警護にあたり、海上では忍藩(現在の埼玉県北部あたりに位置した藩)に雇われた小船が50余隻(1隻に藩士5人)、会津藩が150隻、四百石船2艘(大砲5門づつ搭載)で海上警備にあたった。
江戸湾周辺は各大名家によって厳重に警備体制が敷かれた。応接所の周辺は浦賀奉行所の役人と西洋式砲術指南役の下曽根金三郎らで守られていた。また、全権を委任された浦賀奉行の戸田伊豆守には、本家筋にあたる大垣藩から援兵が送られ、応接所周辺で戸田の身辺警護にあたっていた。幕府は総勢5000名による警備体制であった。


W・ハイネ画(米艦隊の随行画家)「ペリー提督久里浜上陸の図」、アメリカの公式使節が初めて日本に上陸した歴史的瞬間

ペリー提督は嘉永6年6月9日朝(1853年7月14日)、久里浜を艦砲の射程内に収めたうえで、15隻のカッター(小型船舶)に乗った各艦の士官・水兵・海兵隊約300名を久里浜の野比海岸に上陸させた。彼らの全員は武器を持ち、ほとんどの拳銃は装填してあった。ぺリー提督は参謀長アダムズ中佐以下の幕僚を従えて、自らも沖合の艦隊から13発の礼砲とともに上陸した。また300名の兵員を埠頭から急ごしらえの応接所までの沿道に並ばせて威容を示した。

米国側の記録によるペリー提督の上陸は、「七月十四日(和暦六月九日)早朝には濃霧地をおおうたが、やがて旭日は輝き、大空は晴れ来った。・・・午前八時前にサスケハナ号とミシシッピー号とは、錨を揚げ煙を吐きつつ、浦賀から久里浜の方へ向こうた。無風のため帆前船は加わらなかった。・・・旗艦・サスケハナ号から、ボート集合の信号が上がった。三十分ばかりの内に、約十五艘の大艇小艇は、列を正して堂々と漕ぎ出した。ブカナン艦長は大ボートに乗り込み、先頭に立った。久里浜湾の中央に、当座間に合わせに土俵もて波止場ができていた。艦長ブカナン真っ先に上り、引き続いて百余人の水兵上陸し、両側に並列した。その後からまた百余人の水兵が上陸した。続いて音楽隊が二組上陸した。かれこれ総勢三百人ばかりの米国人・・・ペルリ提督が岸に上がると、随行の士官らは、上陸点の両側に並んで、提督がその中を通り抜けると、いずれも後ろから従うた。一行は直ちに列をなして、香山栄左衛門と通詞とに導かれて、接待所に向こうた。」


【嘉永六年六月久里浜陳営の図-1】 ペリー提督久里浜上陸 幕府諸藩の警備体制。
応接所周辺に幕府の威信を賭けた青い陣幕を鶴翼に配置して旗指物や槍を備えた陣形、浦賀奉行所や彦根・会津・忍・川越各藩の布陣、上陸浜辺には浦賀舟番所の小舟二隻とペリー艦隊の上陸ボート15隻、上陸ペリー陸戦隊の行進、久里浜沖合には黒煙をあげながら停泊する二隻の蒸気軍艦(サスケハナとミシシッピ)、そして浦賀沖合に停泊する帆装軍艦二隻(サラトガとプリマス)の様子が判る。
海上は忍藩と会津藩が警備し、海岸で彦根藩と川越藩が警備しているなかを、ペリー提督一行が蛇行して仮応接所に入場していく様子を図示している。絵図には、「書簡受取之節久里濱浦二出張ノ人数、浦賀奉行所,戸田伊豆守,井戸石見守,与力同心,同勢三百人大垣加セトモ同百人。彦根藩人数二千余人,川越藩同七百余人。会津忍両勢力舟数九百五十艘。上陸之異人三百五十人計リ。彦根一番手 隊長中村小三郎,二番手 同奥山右膳。」とある。


【嘉永六年六月久里浜陳営の図-2】 ペリー提督久里浜上陸 幕府諸藩の警備体制。
応接所周りの警備陣営、陸岸左側には川越藩・忍藩(丸に三つ葵)の陣幕と白抜赤の旗、応接所玄関の両側には、白地に二本黒線(二つ引両紋 )模様の陣幕と奉行陣営の手勢,同心、応接所裏手には浦和奉行,戸田伊豆守の本家,大垣藩(九曜の紋)陣幕、陸岸右側には彦根藩(橘紋)陣幕と赤旗。海岸線警備には左岸に番船四十七艘、右岸に番船六十八艘と記述。アメリカ先陣五十人・アメリカ船14艘・アメリカ人着陣地より行進と記述。六月九日朝辰下刻アメリカ人上陸人数五百余人と記されている。



海面:舩手固め松平下総守・松平肥後守。幕張外側には陸固め井伊掃部頭(いいかもんのかみ)・松平誠丸(松平典則)。幕張内側には同心四十八人(黒丸印)、その両側に与力金原と下曽根金三郎(砲術掛・大砲二門)の名がある。
仮屋百畳敷(久里浜応接所)の周囲には戸田采女正家来援兵(黒丸印)、夷人列立(赤丸印)。そして、桟橋から仮屋百畳敷入口までの夷人道筋(蛇行赤点印)、入口の旗持夷人(赤丸印)が記されている。


久里浜応接所内の「奥の間(21畳)」で国書の授受を行った。フィルモア大統領の書簡二箱を前に、幕府側は井戸石見守・戸田伊豆守の名、米国側は主将(ペリー)・副将(ブカナン)・官将(アダムス)・和蘭語通訳(ポートマン)の4名。与力応接掛の5名も「奥の間」の下座に入ったと思われる。通訳の堀達之助の名が見当たらない。

■国書受理・日本開国を要求
嘉永6月9日(7月14日)、浦賀奉行の戸田伊豆守(戸田氏栄)・井戸石見守(井戸弘道)が代表としてペリーと会見に臨んだ。ペリー提督は久里浜応接所で浦賀奉行の井戸石見守弘道に、オランダ語と中国語の翻訳が添えられたアメリカ大統領の国書とペリー書簡を収めた二箱を手渡した。幕府はオランダ語訳と中国語訳の二種類を和訳し、一字一句を確認した。(「香山栄左衛門の聞書き」には「国王の書翰二箱いずれも板三重にてねじ鋲にて留める」と記されている。)
この国書捧呈の儀式は、事前の協議に基づいて「無言の授受」で行われた。これは、幕府の鎖国日本の「国法堅持」というスジを通しながら、やむなくフィルモア大統領国書の授受儀式であり、この場所では外交交渉は行わない、あくまでも例外措置であるという江戸幕府の意思を内外に示すために行われた。
  • 浦賀奉行組与力香山栄左衛門の後日の上申書
  • 六月九日 朝五つ時頃、異人案内の為応接掛私始め、与力中島三郎助、近藤良次、佐々倉桐太郎とも都合四人、本船へ罷り越し候処、異船四艘とも、追々脚船相卸し、都合拾三艘、人数凡そ三百人程(其の内船中へ相残り候者も有之)、四つ時頃上陸、御陣中にて応答これ無く、以心伝心の受取り渡し相済み、即刻使節を始め、士卒水夫に至るまで、一同本船へ引き取り相済み申し候。
  • 此の節書翰守護の銃陣の行装を以て相察し候処、偽りて深地へ引き入れ、生捕らる可くも計り難しと用心仕り候体にて、実に敵地に入り候心地に相見え、前後銃隊の運動、目を驚かし申し候。巨細の儀は煩わしく存じ奉り候間、相省き申し候』
第13代大統領ミラード・フィルモアが日本国皇帝にあてた国書には、アメリカが日本の宗教や政治に干渉しないことのほか、開国と交易の開始、アメリカ漂流民の救助、中国との貿易船や、当時、灯油として利用されていた鯨油を取るためのアメリカ捕鯨船への燃料(石炭)と真水、食料の供給などの要求が記されていた。
ペリーはこのまま日本からの返書を受け取りたかったが、幕府は「将軍が病気のため決定できない」とし、返答に1年の猶予を要求した。ペリーは国書に対する返書への回答に時間を要すると幕府に配慮を示し、国書への即答を求めず、翌年、さらに強力な艦隊を引き連れて再び来航すると宣言(ペリーは親書受け渡しの場で、「今回は、2、3日中に艦隊を率いて琉球、 広東方面に立ち去るが、来春の4月か5月に寄港する予定である」と述べた。また「今回の来航した艦艇の数は艦隊の一部に過ぎず、次回はさらに大規模な艦隊を率いて来る」ことを予告)した。


■国書受理直後のペリー艦隊の動き
6月9日、ペリー艦隊は久里浜で国書授受の儀式を終えて帰艦するや、直ちに全艦隊に抜錨を命じ、浦賀水道を越えて江戸湾に進み、内海を北上して、その日の停泊地として武蔵小柴沖(現在の横浜市金沢区沖)に針路をとった。驚いた奉行所は、すぐさまその真意を尋ねるため与力香山栄左衛門を派遣した。香山が艦隊に追いついたのは、金沢小柴沖に錨を下ろしたところであった。サスケハナ号に乗り込んだ香山は、怒りをあらわにした熊度で、「浦賀より内へ乗り入れることは、禁止であると通達しておいたのに、どうしてここまで来たのか」と問いただした。これに対して、ぺリー側の答えは「浦賀沖は波が高すぎて、安全な停泊地でない。再来する時はこれより大型の船で来るので、良い停泊場所を探すために、3,4日ほど停泊する」というものであった。
 翌日6月10日早朝、ペリー艦隊から二隻の蒸気軍艦が停泊地を離れ、一隻(ミシシッピ号)は羽田(品川)沖まで進み、品川台場(砲台)と幕府警護船を確認して艦隊停泊地戻った。もう一隻の蒸気軍艦(サスケハナ号)からは多くのボー卜が出て、金沢小柴沖周辺の水深、沿岸地形の測量探査を行った。また、測量隊は川崎大師河原まで川を上がり上陸した。この小柴沖は後の再来航時にもアメリカ艦隊の停泊地となる。(米国は小柴沖を American anchorage:アメリカ錨地 と名付けた) 
 翌6月11日朝、ペリー艦隊は次回の来航予定地の小柴沖視察を終え、猿島(神奈川県横須賀市)付近まで戻るが、なおも湾内の測量を続けた。夜明けと同時に香山栄左衛門が黒船を訪れ出帆を促した。この会談で、ペリーから「明日未明、出帆いたす」という回答を得た。ペリー艦隊4隻は、日本側に十分脅威をあたえたことを確認して、6月12日(7月17日)未明に浦賀沖から去っていった。
《六月十二日、与力香山栄左衛門の報告、早朝より一同番所へ相詰め候ところ、五ッ半時(朝9時)ごろ本船(旗艦)をはじめ四隻とも、無事に退帆仕り候》



■ペリー提督の強圧的な外交姿勢
ペリー提督は、アメリカ大統領から日本皇帝に宛てた ”国書” の他にも、ペリー自身が日本皇帝に宛てた「ここに国書をお届けする」と述べた手紙と「ペリー第一書簡」の「漢文本書」があって、「漢文本書」の末尾には以下のように書かれている。
  • ①順此誠寔立定和約、則両国免起衅端、故先坐領四小船、来近貴京、而達知其和意、本国尚 有数号大師船、特命馳来、未到日、盼陛下允準。
  • ②如若不和、来年大幇兵船必要馳来、現望、大皇帝議定各条約之後、別無緊要事務、大師船亦不来。
「漢文本書」は、幕府側によって「漢文和解(わげ)」された。「漢文和解」は、次のように日本語として訳してある。
  • ①この理に従い、真実に和約を取極め候えば、両国兵端を引き起し候ことこれなきと存じ候[和約が成れば、戦争は避けられる]。これに依りて、四艘の小船を率い、御府内近海に渡来致し、和約の趣意御達し申し候。本国このほかに数艘の大軍船これあり候間、早速渡来いたすべく候間、右着船これなき以前に、陛下御許容下され候様仕りたく候[本国の大軍船の到着以前に決断すれば、平和が保たれ、決断がなければ戦争になる]。
  • ②もし和約の儀御承知なくござ候わば、来年大軍船を取り揃え、早速渡来いたすべく候[万一、和約が成らない場合は、明年大軍船で再度渡来し、成行きでは、戦争になる]。右につき、ただいま大皇帝の御評議相願い申し候。御承知下され候いて、右条約取極め候えば、ほかに大切の用事これなく、大軍船渡来いたさず候[和約が成れば、大軍船の派遣は取りやめる]。
  • かつまたわが国主[大統領]和約規定の書翰持参いたし候。「四隻の小船を率いて御府内(江戸)近海に渡来いたし、和約の趣意を通達する。本国にはこのほかに数隻の大軍艦があり、早速にも渡来しようとしているので、これが来ない前に陛下がご許容下さるようお願いする。もし和約をご承知されないならば、来年、大軍艦を取りそろえ、早々に渡来する」といった内容である。
このように、ペリーは “この国書の返事を受け取りに、来年の春、再びこの江戸湾に来る” と記した書簡を提出していた。
また、ペリーが帰国後監修にあたった『日本遠征記』によれば、「今回は、2,3日中に艦隊を率いて琉球、広東方面に立ち去るが、来春の4月か5月に寄港する予定である」「今回の来航した艦艇の数は艦隊の一部に過ぎず、次回はさらに大規模な艦隊を率いて来る」とある。


2.ペリー艦隊 二度目の来航

■ペリーの第二次日本遠征
ペリー艦隊が、日本開国への条約締結のために、ふたたび江戸湾に現れた。嘉永7年の1月14日(1854年2月11日)、ペリー艦隊の1隻が江戸湾外に姿を現わし、「午刻」頃に、帆装武装補給艦サウサンプトンが浦賀沖に乗り入れたことが目撃される。上総鶴牧藩主,水野壹岐守忠実への報告に《異國船渡来の件、一昨十四日午刻頃、異國船壹艘浦賀之方江向乗入候趣ニ付》とある。
続いて1月16日(1854年2月13日)、ペリーは旗艦蒸気軍艦サスケハナ号に乗じ、蒸気軍艦ポーハタン号、同ミシシ ッピ号、帆船軍艦ヴァンダリア号、同マセドニアン号、帆装武装補給艦レキシントン号の6艦を率いて江戸湾内に進み、先着し、待っていた補給船・帆走艦サウサンプトン号と合流すると、縦列をつくって国書授受の地であった浦賀沖の久里浜を通過して直航を続け、午後3時、前年彼等が“アメリカ錨地(American anchorage)”と名付けた小柴沖に7隻の軍艦が投錨した。
第一次日本遠征に比して軍備がより強大なものとなっており、補給艦に燃料や食料を搭載して交渉の長期化にも備えていた。そして、艦隊は、前回の浦賀沖よりさらに江戸に近い小柴沖すなわち「アメリカ停泊地,アメリカン・アンカレッジ」に投錨していた。


横浜の南・金沢小柴沖「アメリカ停泊地,アメリカン・アンカレッジ」に停泊するペリー艦隊

「黒船来航絵詞」西村正信/誌 嘉永7年(1854)
『去る丑の年(嘉永六丑年,1853)来航せし北亜墨利加(アメリカ)合衆国といふ所乃使節…睦月(1月)…』に浦賀沖に乗り入れ、武州(武蔵国)金澤沖に艦隊7隻が停泊した。そして『神奈川本牧沖の横浜といふ所の仮屋』の横浜応接所で、日米和親条約の締結に携わった幕府の交渉役の大命を受けた五人が、神奈川本牧、横浜(村)の仮家(久里浜の応接所を急遽、横浜に移設)で應接又饗座(応接と饗応)したとある。
大命を受けた五人の名として、浦賀奉行/伊澤美作守(政義)、主席応接掛/林大学頭(輝)、江戸町奉行(次席応接掛)/井戸対馬守(覚弘)、外国掛目付/鵜殿民部少輔(長鋭)、幕府儒学者/松崎満太郎らが記されている。蒸気軍艦「黒船」の画は、1854年1月16日に再来航したペリー艦隊の旗艦「鮑厦旦(ポーハタン)号」と思われる。


■ペリー提督、二度目の来航で開国を迫る
当初は1年後の再来航を予定していたペリーであった。しかし、嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、ロシア使節エフィム・プチャーチン率いるロシア艦隊4隻が国書を携えて、日本で唯一の対外国窓口である長崎に入港して日本と交渉していることを知る。ペリーは予定を変更し、わずか半年後の嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリー艦隊が日本開国への条約締結のため、第一次日本遠征を上回る大部隊の蒸気軍艦3隻・帆船軍艦4隻からなる7隻の軍艦で再び来航 し、浦賀を経て武蔵小柴沖に投錨した。

その第二次日本遠征の陣容は、蒸気軍艦のポーハタン(Powhatan 旗艦2415t、大砲9門、乗員300人)、サスケハンナ(Susquehanna 2450t、大砲9門)、ミシシッピ(Mississippi 1692t、大砲12門)、帆船軍艦のマセドニアン(Macedonian 1341t、大砲22門)、ヴァンダリア(Vandalia 770t、大砲20門)、そして、帆装武装補給艦のレキシントン(Lexington 691t、大砲6門)、サウサンプトン(Southampton 567t、大砲2門)の7隻もの軍艦からなる世界最大級の艦隊であった。大砲の数は全部で80門。総乗員数は1500人。江戸の市中を破壊するに十分な装備を持っていた。

徳川幕府はこれに対応するため、江戸湾を囲む伊豆、相模、武蔵、下総、上総、安房の6力国の海岸線を中心に、全国の42大名に命じて準備していた約47万にのぼる兵力を動員して、伊豆(現在の静岡県)から 安房(現在の千葉県)にかけての江戸湾岸一帯に防衛ラインを展開した。




■幕府は開国の方針を固める
「安政元年1月14日、ペリー艦隊は江戸湾外に姿を現わし、次いで16日には浦賀沖からさらに縦列をつくって江戸湾を溯航し、前年彼等が"アメリカ碇泊所"と名付けた小柴沖に投錨した。この時のペリー艦隊は旗艦サスケハナ号をはじめポーハタン号・ミシシッピー号(以上フリゲート艦)、マセドニアン号・ヴァンダリア号(以上スループ型砲艦)、レキシントン号・サウサンプトン号(運送船)を加えた計7艘であった。
幕府は、1月15日急遽応接掛林大学頭(林復斎)、北町奉行の井戸対馬守(井戸覚弘)、目付の鵜殿民部小輔(鵜殿長鋭)、儒者の松崎満太郎に浦賀出張を命じ、彼等は18日江戸を発し浦賀に向った。しかし、この時彼等は、幕府より応接のための具体的方針は何一つ示されていなかった。まず艦隊の碇泊地と応接場所をめぐって交渉が開始された。この交渉は、主としてアダムスと浦賀奉行配下の幕吏(のち浦賀奉行)との間で行なわれた。」(函館市史・ペリーの再来と幕府の回答,より)


「小柴濱より見物の図」 小柴沖,20丁(2,182m)に投錨したペリー第二次日本遠征艦隊
黒船体〇印が蒸気外輪フリゲート型砲艦、黒船体が帆走スループ型砲艦、白船体が帆走スループ型武装補給艦




二度目の来航をしたペリー側と幕府は会談場所をめぐって交渉が難航していた。幕府側は浦賀奉行所の支配組頭,黒川嘉兵衛が折衝に当たっていた。しかし、ぺリー側は前回来航の際の香山栄左衛門が一度も姿を見せないことを不審に思い、香山を出せと要求した。そこで幕府は、すでに浦賀奉行所の職務から離れていた香山を急いで呼び戻し、もう一度《総督》として交渉の席につかせることにした。
 交渉のための上陸地として、ペリーは前回の久里浜よりもっと江戸寄りの地点の神奈川・川崎・品川を、幕府はかつての応接場所で既に米使応接掛が赴いていた浦賀を主張した。このため、前回同様に会見場所の決定にまず時間を要することとなる。しかし、嘉永7年1月28日(1854年2月25日)、ペリーの江戸入府を危惧した幕府は、三浦半島に見張りを置く浦賀奉行支配組与力,香山栄左衛門を蒸気軍艦ポーハタンに派遣した。与力香山栄左衛門はアメリカ側で交渉に当たっていた参謀長ヘンリー・アダムス(Henry A. Adams)に、最初に鎌倉、次に浦賀を提案したが、江戸に近い場所を希望するアメリカ側に拒まれた。
 ペリーは、全艦隊を率いて北上させ、江戸市中が見える品川沖まで進める威嚇策をとった。その効果もあり、幕府は応接場所に、これまで主張していた浦賀に代わって、住民の少ない寒村(戸数約90)で江戸からは離れていない武蔵国海辺の「横浜村」を候補地として提示した。アメリカ側は、これを受け入れた。(武蔵国久良岐郡横浜村は戸数90ほどの平均的規模の半農半漁の村、東海道神奈川宿から直線で約4キロ南に位置する)

2月4日、幕府は神奈川より林大学頭と井戸対馬守を召還した。幕府は応接の方針を論議し、対米交渉の方針が決った。その内容は、漂流民の救助・炭水の補給は認めるが、通信・交易は拒否するというものであった。 そして、交渉が行われている最中の2月6日(1854年3月4日)、将軍への献上品47点を搭載した帆走軍艦サラトガ(Saratoga 882t、大砲22)が入港した。米国艦隊は合計8隻となる。
ペリーは8隻からなる艦隊(レキシントン,サスケハナ,ポーハタン,マセドニアン,ミシシッピ,ヴァンダリア,サウザンプトン,サラトガ)を神奈川沖の1海里以内に横一列に停泊させ、5海里(9.26km)にわたる海岸を大砲の射程距離内に入れるように命令した。
この2月6日、幕府は徳川斉昭も含めた幕議で、米国に通商を許さないことに決し、林大学頭、井戸対馬守は再び神奈川に赴いた。


ペリーは、2月7日(1854年3月5日)、横浜村応接所のことを知らせるために訪れた神奈川奉行支配組頭・黒川嘉兵衛に、「近海へ軍艦五十隻」カリフォルニアに「五十隻」と「廿日之程には百隻之軍艦は相集ま」る、と脅しながら全権団の委任状の件を確かめた。
応接地として決定された2月8日、浦賀奉行所与力・香山栄左衛門がブキャナン艦長やアダムズ参謀長らを候補地の横浜村へ案内した。これ以後、アメリカ側の艦上員は、準備や調査のために横浜にたびたび上陸していた。しかし、未だ日本全権との間では、正式な日本への上陸は認められていなかった。

第二回目のペリー訪日は、1月16日(1854年2月13日)に汽走艦三艦を含めた7艦をもって行われたが、その後、2月6日に8隻目の帆走軍艦サラトガが到着、そして、全艦隊の9隻目となる帆装武装補給艦のサプライ(Supply 547t、大砲4門)が2月21日に到着して、艦隊乗組員,総勢1775人が揃った。それをもってペリーは横浜応接所における日米談判の期間を通じて、全艦隊を横浜前面沖に横列して停泊させて、その要求を貫徹するために絶えず幕府方を牽制威圧していた。



■ペリー横浜上陸
鎖国政策堅持の徳川幕府と、開国断固要求のアメリカという厳しい対立の構図の中で幕府は開国和親という方針を採り、嘉永7年2月10日(1854年3月8日)、ペリー提督は前回を大きく上回る約500人ものアメリカの海軍士官・水兵・海兵隊員たちを従えて武蔵国横浜村に初上陸した。

ペリー提督は27艘のボートに将兵を乗せ、上陸後は小銃とピストルで武装させた銃隊兵士を中心に隊列を組み、会談場までの道の両側に一列に並ばせた。ペリー提督はすでに上陸を終えたアメリカ将兵が浜辺に整列したことを確認したのち、旗艦ポーハタン号から一艘の白いボートを発進させて上陸する。こうして上陸した大礼服姿のペリー提督を参謀長アダムスら三人の士官が出迎えた。来訪いらい、ペリー提督が日本人の前に姿をみせるのは、これが最初であった。
この時、沖合に横一列に並ぶアメリカの軍艦八艘が祝砲を発射し、岸辺にいたボートからも祝砲が発射された。 この日、ペリー提督は礼砲・祝砲の名目で55発の礼砲を轟かせるなど軍事的な威圧を加えながら横浜村での歴史的な会談が開始された。


W・ハイネ画(米艦隊の随行画家)「ペリー提督・横浜上陸の図」嘉永7年2月10日(1854年3月8日)の上陸の光景を描く。
上陸の図の右端が水神社の祠、左端に見えるのが、二日前(2月8日)に完成したばかりの仮設館の横浜応接所で、応接所の建物は前年の浦賀の久里浜応接所の建造物を解体移築して中心に配置し、周囲を増築した5棟からなる木造平屋である。ペリー提督一行の前に白地に赤色の三階菱家紋の旗は警固にあたっていた小笠原藩。海岸沖の黒船の手前に見える朱塗りの大型船は、幕府の御座船「天地丸」で、その左手に小旗をたてた小舟は会津および忍藩の海上警備船である。



■日米会談の開始
嘉永7年2月10日(1854年3月8日)に、ペリー提督が横浜に上陸し条約交渉に入る。第1回の日米条約交渉が武蔵国横浜村で開かれた。日米会談は計4回、横浜の応接所で開かれた。第1回日米会談に、嘉永7年2月10日早朝より応接掛の林大学頭・井戸覚弘・伊沢正義・鵜殿長鋭・松崎満太郎は横浜応接所におもむいた。

応接所周辺では、浦賀奉行所や江戸町奉行所の与力と同心200人が警備した。その外側の警備は小倉・松代両藩は陸上を警備し、小倉藩は洲乾弁天のあたりに本陣を置き、松代藩は交渉場所の中央に配置された。因州藩(いんしゅうはん,鳥取藩)は海上の警備を固めた。
そして、午後、アメリカ使節ペリー提督と兵士一行約500人が殷々たる礼砲のうちに上陸し、ペリー提督以下約30名が武蔵国の横浜応接所へ入り、これより第1回日米会談が開始された。



 

横浜応接所は、前年の久里浜応接で使った中心となる「奥の間(21畳間)」を移築し、それに双方トップの秘密会談のための「内座(8畳間)」や玄関、御賄御料理所(調理場)など関連施設を増設して4日間で完成させた。日米の会談は移設増築した五棟(約100畳分)からなる横浜応接所の増築された「内座」と呼ばれる部屋で開かれた。
挨拶が終わると、双方から5名が「内座」へ移り、日米交渉が始まった。日本側の交渉全権・林大学頭は、ペリー提督に、アメリカが求する如く、欠乏する薪水食料や石炭などアメリカ船が必要とし日本で調えられる物品は供給すると明言した。更に、アメリカの難破船乗組員の救助や親切な対処はこれまで通り行うとも伝えた。従って来春より長崎に来て石炭薪水等を求めれば供給するし、その様子を見て、5年後には別の地に港を指定しアメリカ船を受け入れる。これらをまとめて別紙の如く取決め条項を決めたいと、日本側の草案書を渡した。(2月6日,徳川幕府は対米譲歩案を応接掛に秘密訓令している)
ペリー側は、日米修好通商条約草案を提出した。しかし、通商問題については応接掛・林大学頭と意見が対立した。



日米正式交渉の会談には、アメリカ全権使節ペリー提督、アダムズ参謀長、中国語・日本語通訳のウィリアムズとオランダ語通訳ポートマン、秘書のO・Hペリー(ペリーの息子)の5名、そして、日本側交渉全権である林大学頭(林復斎)以下5名の応接掛とオランダ通詞・森山栄之助、堀達之助、名村五八郎との間で、前年の親書への返答、通商条約の可否、「日米和親条約(神奈川条約)」に向けての会談が行なわれた。ペリーはこの交渉過程で得た感触から、通商条約の締結交渉を後年にするべきであるとの決断を下した。

日米間の交渉を円滑にすすめるため長崎通詞(通訳)も活躍した。正式の会談ではオランダ語が使われ、幕府側主席通詞は森山栄之助(首席通訳には長崎のオランダ通詞・森山栄之助が就き、前年に務めた堀達之助は次席に回った)ほか3名、ペリー側は若いポートマン1名であった。
幕府側とペリーのやりとりは次ように行われた。 「日本語 ←→ オランダ語 ←→ 英語」、 「日本語 ←→ 漢文 ←→ 英語」。2回目の来港時に通詞の名村五八郎が会見に間に合わなかったため、中国人・羅森が英語を漢文に直して江戸幕府役人に意志の伝達をした。
会談記録は日本語・漢文・オランダ語・英語の各言語で作成された。この2月10日の第1回会談を終わり引き続き幕府は贅を凝らした昼食「饗応の膳」を開き、林大学頭を除いた各応接掛はペリー以下米国側を接待した。


■日米双方の寄贈品
日米条約交渉が行われる一方、嘉永7年2月15日(1854年3月14日)に、アメリカ大統領から将軍(徳川家定)への献上品が、27艘の端艇に分乗した士官・陸戦隊員・楽隊に護られて横浜に荷揚げされ、応接所において首席委員林にたいして贈品目録を添えて手交された。アメリカ側の記録にはマセドニアン号艦長であったアボット大佐がペリー代行として横浜村に出向いたと記されている。

アメリカ大統領から将軍への贈り物は、4分の1スケールの蒸気機関車、炭水車、客車、レイル等一式、電信機二組、電線四束、外(ほか)電信用品一式、ホール社製ライフル銃五挺、メイナード社製小銃三挺、コルト社製ピストル二十挺、騎兵軍刀十二口(ふり)、砲兵軍刀六口、弾薬箱二個、衣裳箪笥(たんす)一個、香料二包、ウヰスキー、葡萄酒一樽、シエリー酒・シヤンペン酒各若干、台付望遠鏡一個、柱時計数個、フランス式救助船三隻、オーデユボン著「アメリカの鳥類図」四巻、同「アメリカの獣類」三巻の書籍、アイルランド馬鈴薯八籠(かご)、ストーヴ三個、合衆国の秤桝尺度(はかりますものさし)、海図、農機具、農産物の種子(たね)類などであった。


(嘉永7年2月16日(1854年3月14日)、朝の7時過ぎ頃から、横浜村応接場では、20人ほどのアメリカ人が、幕府への献上品の組立に従事していた。なかでも電信機2台の電線は、応接所と洲干弁財天前の民家(吉右衛門宅)に電線を約一哩(マイル:1.609km)架設して通信実験を行なった。
蒸気機関車と客車と炭水車とをつけた汽車の大型模型は応接所の建物が建っている裏の麦畑に円形に線路が施設され、その後、23日に幕府応接掛や多くの日本人の前で運転が行われた。特に蒸気機関車は模型とはいいながら精巧に作られていた。蒸気車、炭水車、客車の3両は円形に敷かれたレールの上を人を乗せて蒸気の力で走った。この近代科学の成果は日本人に驚きを与えた。)

第2回日米会談は嘉永7年2月19日(1854年3月17日)に行われ、ペリーは長崎以外の諸港の開港を強く要求し、神奈川・下田・松前の開港を要求する。2月22日、幕府はペリーから出された神奈川ほか数港の開港要求を検討するため、林大学頭と井戸対馬守が登城し、老中阿部伊勢守はじめ水戸藩主,徳川斉昭等と論議をもつ。徳川斉昭は下田開港にも懸念を示したが、結局下田開港、箱館開港に決定し、両応接掛全権は神奈川に帰着する。
そして、第3回日米会談が2月26日(1854年3月24日)に開催された。この日の会談において条約の骨格が決められ、懸案の避難港は下田と函館の開港を確認して終了した。その後、先にアメリカ側から贈呈された献上品の返礼として幕府側から大統領をはじめペリー以下に返礼品の授受が2月26日(1854年3月24日)がおこなわれた。

返礼品の内容は次のとおり。
アメリカ大統領には、梨地松竹梅蒔絵硯箱(すずりばこ)、梨子地蒔絵塗文庫、机黒蝋色桐鳳凰蒔絵(漆塗り黒塗机)、書相同銀金昇給吉野山(漆塗り黒塗書棚)、置物金銀牛二花鰭卓子共胡蝶蒔(牝牛の香炉)、手焙黒四季折松韻並蒔絵(火鉢)、花生銀地黒竹雀蒔絵(花生け置台附) 以上 各一個。広蓋(漆塗り)花火蒔絵盆一揃え、花模様縮緬(ちりめん)、赤色模様縮緬、無地の絹布 以上 各五疋(ひき)。 大老から赤絹(もみ=緋紅色に染めた絹織物)十疋。 および、林大学頭ら五人の米使応接掛から縞絹物十疋づつを贈呈。 その他には、
 ・主席応接掛/林大学頭からは、漆塗硯箱、漆塗文庫、枝珊瑚(えださんご)と銀細工の箱、漆塗重箱 以上 各一個。
  漆塗三組(みつぐみ)台附杯一揃え。
  小箱(こばこ)二個。貝殻百個入四箱。手箱五個。猪口(ちよこ)、匙(さぢ)、螺鈿(らでん)の杯、台附杯等揃七箱。
 ・次席応接掛(江戸町奉行)/井戸対馬守からは、漆塗盆二枚入、雨傘二十本入、棕箒(しゆろばうき)三十本入 以上 各二箱。
 ・浦賀奉行/伊澤美作守からは、赤絹(もみ)、無地の絹布 以上 各一疋。 竹細工籠(かご)、竹製置台 以上 各一個。
  人形十三個(人形ナリ日本昔ヨリ秀テタル人ノ姿ヲ武者ナドニシタ細工)入八箱。
 ・外国掛目付/鵜殿民部少輔からは、磁器の猪口(ちよこ)二箱、縞(しま)縮緬三疋、「醤油」十陶入一箱
 ・幕府儒学者/松崎満太郎からは、花莚(はなむしろ)一箱、磁器の台附猪口三箱、樫炭(かしはずみ)三十束(そく)。

ペリー提督には、幕府から漆塗硯函、漆塗文庫 各一個。無地絹布二疋。赤絹(もみ)、花模様縮緬、友禅縮緬などを、そして、日本の金貨幣二組、鉄砲 四十匁玉・三十匁玉・二十匁玉の日置流火縄銃 三挺、刀剣二振(二尺六寸三分,二尺四寸五分)を贈呈した。艦隊乗組員へ幕府からの贈呈品として白米二百俵 但し五斗入り、鶏三百羽なども用意された。

幕府は日本人の力を誇示するためにアメリカ人に相撲を見せることにした。その際、幕府側が用意したペリー一行への贈答品の5斗入り米200俵、鶏300羽を相撲力士に運ばせ、ぶつかり稽古や取組をペリー達のまえで披露する余興がおこなわれた。この時、江戸からやってきた力士は、大関小柳,鏡岩を筆頭に、関脇常山、小結雲龍以下30数名が動員された。
《二月二十六日御公儀ヨリ彼国王並(ならび)使節へ被進(しんせられ)候物品ノ内米弐百俵船中へ被遣(つかわさる)。此持込応接場ヨリ波止場迄持運ビヲ相撲力士共御呼寄セ命セラル。依之(これによって)角力年寄重立候者九人並(ならび)東西大関以下出張セシ、名前左ノ通、番附帳元,根岸治右衛門、東ノ方大関,小柳常吉、西ノ方大関,鏡岩浜ノ助・・・》
米俵を運んだ後、稽古相撲や取組も披露されペリー艦隊の乗組員が相撲を取りたいと願い出た。大関,小柳常吉はアメリカの水兵三人を一度に相手にし、一人を差し上げ一人を小脇に抱え、一人を脚下に踏みつけ、彼等の度胆を奪ったという。
 


■日米和親条約の締結
条約の調印は、上陸日を初回として計4回に及ぶ会談と書面による協議を経て、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、事前に双方が署名した「日本国米利堅合衆国(めりけんがっしゅうこく)和親条約」、通称・日米和親条約(神奈川条約)十二箇条を交換し締結された。
条約文には、両国の親睦、下田・函館(当時は箱館)の開港と外国人遊歩区域の設定、米船に対する石炭・薪・水・食料の補給、漂着アメリカ人の保護、片務的最恵国条款、下田に領事を駐在させる等を定めていた。しかし、幕府は通商に関しては認めなかった。それに関してはペリーも強く要求はしなかったが、代わりにアメリカの代表として総領事を置くことを認めさせた。
日米和親条約を締結した後の嘉永7年3月7日(1854年4月4日)、ペリー提督は本条約調印の報告書をアダムス参謀長に託し、旗下のサラトガ号を派遣することで本国首府・ワシントンにいち早く伝えた。

これによって、3代将軍・徳川家光以来、200年以上続いてきた鎖国時代が終わりを告げた。この年、幕府はペリーの動向を窺っていたイギリス・ロシア・オランダとも同様の和親条約を調印し、鎖国の扉はさらに大きく開かれた。(1854年11月に安政と改元)

  • 「日米和親条約」
  • 第一条〔日米両国の永久和親、差別の禁止〕
  • 日本国と合衆国とは、其人民(そのじんみん)永世不朽の和親を取結び、場所、人柄の差別これなき事。

  • 第二条〔下田・函館両港への来航許可、日本国の価格決定権、支払手段〕
  • 伊豆下田・松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船、薪水(しんすい)・食料・石炭・欠乏の品を、日本人にて調候丈(ととのいそうろうたけ)は給候(きょうしそうろう)為め、渡来の儀差免(ぎさしゆる)し候。 尤(もっとも)、下田港は条約書面調印の上、即時相開き、箱館は来年三月より相始め候事。給すべき品物直段書の儀は、日本役人より相渡し申すべく、右代料は、金銀銭を以て相弁ずべく候事。
  • 《伊豆下田松前箱館の両港は日本政府に於て亜米利加船薪水食料石炭欠乏の品を日本人にて調候丈は給し候為め渡来の儀差免し候尤下田港は約條書面調印の上即時にも相開き箱館は来年三月より相始候事、給すへき品物直段書の儀は日本役人より相渡可申右代料は金銀銭を以て可相弁候事》

  • 第三条〔合衆国漂流民の保護、下田・函館への護送、費用求償権の相互放棄〕
  • 合衆国の船、日本海浜漂着の時扶助いたし、其漂民を下田又は箱館に護送し、本国の者受取申すべし。所持の品物も同様に致すべく候。尤も、漂流民諸雑費は、両国たがひに同様の事故、償ひに及ばず候事。

  • 第四条〔漂流民監禁の禁止、漂流民の遵法義務〕
  • 漂着或いは渡来の人民取り扱いの儀は他国同様緩優に有り、これ閉籠候儀致すまじくながら併せて正直の法度(はっと)には服従致し候事。

  • 第五条〔漂流民の移動の自由、移動範囲〕
  • 合衆国の漂民その他の者ども、当分下田・箱館逗留中、長崎において唐・オランダ人同様、閉じ籠め窮屈の取扱これなく、下田港内の小島周りおよそ7里の内は勝手に徘徊致し、箱館港の儀は追って取極め候事。

  • 第六条〔相談義務〕
  • 必用の品物そのほか相叶うべきことは、双方談判の上取極め候事。

  • 第七条〔合衆国船に対する必要品の調達許可、支払手段、日本人の代物弁済拒否権〕
  • 合衆国の船、右両港に渡来の時、金銀銭ならびに品物をもって入用の品相調べ候を差し免じ候。尤(もっとも)、日本政府の規定に相従い申すべく、且、合衆国の船より差出し候品物を日本人好まずして差し返し候時は、受取り申すべく候事。

  • 第八条〔通商の禁止〕
  • 薪水、食料、石炭、ならびに欠乏の品を求むる時には、その地の役人にて取扱い、すべて私(わたくし)に取引すべからざる事。

  • 第九条〔片務的最恵国待遇〕
  • 日本政府、外国人へ、当節アメリカ人へ差し免じざりそうろう廉(かど)相免じそうろう節(せつ)は、アメリカ人へも同様差し免じ申すべく、右につき談判猶予致さざり候事。
  • 日本政府外国人へ当節亜米利加人へ不差許候廉相許し候節は亜米利加へも同様差許可申右に付談判猶予不致候事》

  • 第十条〔下田・函館両港以外への来航禁止〕
  • 合衆国の船、もし難風に逢わざる時は、下田・箱館両港のほか、猥(みだ)りに渡来致さざる事。

  • 第十一条〔合衆国官吏の下田駐在許可〕
  • 両国政府において、無拠儀これありそうろう模様により、合衆国官吏の者下田に差し置きそうろう儀もこれあるべし。尤(もっとも)、約定調印より18箇月後にこれなくそうらいては、その儀に及ばざり候事。
  • 《両国政府に於て無據儀有之候時は模樣により合衆国官吏之者下田に差置候儀も可有之尤約定調印より十八箇月後に無之候ては不及其儀候事》

  • 第十二条〔条約遵守義務〕
  • 今般の約条相定め候上(うえ)は、両国の者堅く相守り申すべし。尤(もっと)も合衆国主に於て長公会大臣と評議一定の後、書を日本大君に致し、このこと今より後18箇月を過ぎ、君主許容の約条取り替わし候事。

  • 右の条、日本・アメリカ両国の全権調印せしむるものなり。
  • <以下省略>
  • 「日米和親条約」第二条にいう「船中欠乏品」を具体的にいえば、条約にも明記される薪・水・食料・石炭であった。また食料については、米、小麦粉、大小豆類、甘藷、ねぎ類、酒、醤油、砂糖、鮮魚類、海老蟹類、鶏、卵、牛馬・猪・鹿の肉類等を供給した。供給すべき品物の値段は日本の役人から交付し、その代価は金貨または銀貨をもって支払うこと。
  •  第九条にいう「片務的最恵国待遇」の最恵国待遇というのは、他の国と条約を結ぶ際にアメリカより有利な内容が含まれていたら、その内容をアメリカにも適用すること。つまり、他の国とアメリカより良い条件で条約は結ばないということである。さらに、この最恵国待遇は日米相互ではなく、あくまでアメリカが優遇される片務的最恵国待遇であった。

■日米の饗応の宴
日本側は、嘉永7年2月10日(1854年3月8日)、最初の会談の後、幕府御用達の料理屋にアメリカ側の300人、それを接待する日本側の役人200人、合計500人分の「料理一人前金三両」の昼食を用意させ、「饗応の膳」を開いた。
「嘉永七年二月十日アメリカ人へ御料被下候献立」によると、そこで出された料理の数は1人前90品で、吸物、硯蓋、丼、大平、茶碗、焼肴、刺身、香物など、純然たる日本料理が御膳になって出されており、その内容が克明に記されている。そして最後に次のように記している。「御菓子をも被下候由縁定府蒸菓子をも両方被下輸筈異人共著取る事不相叶菓子を見苦しく指にてはさみ食べ侯由又みやげに持帰り候者は頭上之巾中二人候由給り候者といえ共包候てこの送り物之内へ押し込候由」。

アメリカ側では、2月29日(1854年3月27日)、日米和親条約妥結の見込みがつくと、ペリー提督が日本側交渉団の約70人を宴会に招いた。日本人一行は食事の前にマセドニアン号とポーハタン号の艦内を見学した。その後、旗艦ポーハタン号で、日本人一行はふた手に分かれて各宴会場に赴いた。林大学頭ら代表団5人の委員はペリーの船室に案内されたが、その他の高官や随行者らは甲板後方に設営した天幕の下へと連れていかれる。ポーハタン号の甲板上にはアメリカの士官らが集まり、日本人の接待を行った。料理はペリーが随伴してきていたパリ生まれの料理長が腕をふるい、牛肉、羊肉、鶏肉の料理が準備され、スープやシチューが用意され、ハムも出され、酒はワイン、シャンパン、リキュールなどが出された。

『ペリー艦隊日本遠征記』には次のように書かれている。
「提督は艦隊の四人の艦長、通訳ウィリアムズ氏と自分の秘書を招いて委員たちと食卓をともにした。日本の通訳栄之助は上司の特別のはからいで、この部屋の隅のテーブルに着くことを許された。そんな下座にいても、栄之助は平静さも食欲も失う気配はなかった。
常に荘重にして威厳のある態度を保持している林は、控えめに飲食していたが、すべての料理を賞味し、あらゆる種類のワインをすすった。他の委員たちはすばらしい大食漢ぶりを発揮して、首席委員よりも腹いっぱいに饗宴を楽しんだ。
 甲板の日本人一行は、各艦船から集まった大勢の士官に歓待され、シャンペン酒、マディラ酒、パンチを浴びるほど振舞われて、すっかりにぎやかになった。彼らはこれらの酒が大いに気に入ったようだった。日本人たちは率先して健康を祝う乾杯の音頭をとり、斗酒猶辞せず( 一斗の酒も辞退しないで飲む・多量の酒も断らずに飲むの意)飲み干した。
彼らの張り上げる声のけたたましさたるや、勇壮で軽快な曲を奏で続けて宴を盛り上げている軍楽隊の音楽もかき消してしまうほどだった。要するに、それは賑やかな歓楽の光景であり、お客に大いに楽しんでもらえたということだ。食べ物も飲み物と同じく日本人の口に合うらしく、テーブルに満載した大量の珍味佳肴がたちまち消えてなくなるのには、いちばん大食いのアメリカ人でさえびっくり仰天させられた。」
最後には、日本人はご馳走の残り物をふところにいれて持って帰り、酔っ払ってペリーに抱きついた人もいたことも記録されている。


■吉田松陰、密航事件
艦隊が下田沖に錨泊中の嘉永7年3月26日、長州藩の吉田松陰から下田の郊外で艦隊乗組員に「投夷書」(渡航嘆願書)が渡される。松陰の渡した手紙は艦隊のW. ウィリアムズ通訳により翻訳されペリー提督に提出された。
投夷書の内容は「貴艦が入航され見ているうちに海外へのiれが断ちがたく、貴国の大臣、将官は仁愛の心の持ち主であることを知った。国禁を犯すことは百も承知の上だが、そのあたりは情熱に免じ貴艦に乗り込ませていただきたい。伏して馳うので決して拒絶されないことを望む」。
その翌日、3月27日(1854年4月25日)の夜、松陰は夜の海岸で小舟をみつけ黒船に向かって漕ぎ出した。ミシシッピー号の当直士官は、舷側についたボートからの声に驚かされた。舷門に行ってみるとすでに船側の梯子を登った二人の日本人(吉田松陰と金子重輔)を発見した。ミシシッピー号の艦長は、旗艦ポーハタン号を指差し行くようにと指示した。彼らは小舟に引き返して直ちに旗艦へと漕ぎ去った。旗艦ポーハタン号に、小舟で移動して何とかたどり着き、梯子を登るか登らない内に、彼らの小舟は流された。舟には刀と象山の檄文(げきぶん)が残されていた。
士官は彼らが現れたことを提督に報告した。提督は、両人と相談させるため、そして訪問の目的を知るために通訳を派遣した。彼らは熱心にアメリカへ連れて行ってほしいと懇願した。そのため、この二人が海岸で士官に手紙を渡した者であると分かったが、艦隊は暫く下田に滞在している予定なので、幕府の許可を求める十分な機会があるとペリー提督に断られる。もしこのまま陸に戻れば斬首されるとも訴えたが、ペリー提督からはきっぱりと拒絶された。 結局、ポーハタン号から一艘のボートが下ろされ、二人は送り返された。ペリー提督は外交官でもあった。今二人を受け入れることで、日本と締結したばかりの条約が破棄されるような事態になることは何としても避けたかった。

その後、吉田松陰は海外渡航を禁止する「国禁」を犯したため下田奉行所に自首、下田から江戸に護送され、4月15日(1854年5月6日)に江戸町奉行所の牢獄に入った(同年九月に萩の牢獄に幽閉)。その後、安政四年(1857)、叔父が主宰していた松下村塾を引き継いだ。
下田奉行組頭の黒川嘉兵衛と中台信太郎が、吉田松陰らを尋問した時の文書によると、吉田松陰は密航の目的について「異国之情態」をよく知ることが「公事国家之急務」と考え、「五大洲研究」をする必要があると述べていたことがわかる。


■日米和親条約の締結が「開国」を進める
1854年(嘉永7年・安政元年)は「開国の年」でもあった。嘉永7年3月3日(1854年3月31日)にはペリーの再来航があって「日米和親条約」が神奈川で結ばれた。
引き続き、嘉永7年8月23日にはイギリスと「日英和親条約」を締結、そして、安政元年12月21日(1855年2月7日)には、伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本(徳川幕府)とロシア帝国の間で「日露和親条約」(日露通好条約)九条、付録四則が締結されて国交が開かれた。日露通好条約は日米和親条約に準じて、下田・箱館・長崎を開港した。この長崎は、最恵国待遇によりアメリカ・イギリスにも開かれた。国境の合意も行われ、千島は択捉・得撫島を国境、樺太は国境を定めず雑居地とした。


「日露和親条約」で初めて日露両国の国境は、択捉島と得撫島の間に決められ、択捉島から南は日本の領土とし、得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領とした。また、樺太は今までどおり国境を決めず両国民の混住の地と定められた。

「日露和親条約」
第一条に永世の和親。
「今より後、両国末永く真実懇にして、各其所領に於て、互に保護し、人命は勿論什物(じもつ)に於ても損害なかるべし」
第二条で、国境についての合意がなされた。
「今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫(それ)より北の方クリル諸島は、魯西亜に属す。カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国の間において、界を分たず、是迄仕来(しきたり)の通たるべし」
日露間の国境は、千島列島の択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間(ロシア名:フリーズ海峡=択捉海峡)とすること、また、樺太(サハリン)には国境を設けずに、両国民雑居の地として境界を定めず、『カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国との間において、界(国境)を分たす、是迄仕来の通たるへし』と決められた。
第三条で、三港の開港を受け入れる。
「日本政府、魯西亜船の為に、箱館、下田、長崎の三港を開く。今より後、魯西亜船難破の修理を加へ、薪水食糧、欠乏の品を給し、石炭ある地に於ては、又これを渡し、金銀銭を以て報ひ(むくひ)、若(もし)金銀乏敷(とぼしき)時は、品物にて償うべし。魯西亜の船難破にあらざれば、此港の外、決て日本他港に至ることなし。尤(もっとも)難破船につき諸費あらば、右三港の内にて是を償べし」


3.不平等条約・日米修好通商条約締結と鎖国の終焉

■日米修好通商条約
日米和親条約によって限定的な開国をした幕府は、1858年7月29日(安政5年6月19日)、日本側全権の井上清直(いのうえきよなお)、岩瀬忠震(いわせただなり)とアメリカ総領事ハリスとの間で、 日米修好通商条約に調印した。本条約で、アメリカ公使の江戸駐在、江戸・大坂の開市、神奈川などの開港、自由貿易、片務的領事裁判の承認、日本の関税を条約で定めること( 「関税自主権の喪失」 )、外国人の遊歩などが規定された。

日米修好通商条約(1858年)
①箱館{函館}・新潟・神奈川・兵庫・長崎の開港
②江戸・大坂の「開市」
③開港場周辺の遊歩規定
④片務的領事裁判権
⑤協定関税とアヘン禁輸
⑥通貨は同種同量の交換
⑦米国から軍艦購入、学者・軍人の雇用は随意

■アメリカ駐日総領事館と条約批准
徳川幕府が「日米和親条約」を結んでから2年後の安政3年7月21日(1856年8月21日)、和親条約の11条における米正文に基づいて、アメリカ大統領ピアース(Franklin Pierce)に初代駐日総領事に任命されたタウンゼント・ハリス(Tounsend Harris)を乗せたアメリカ軍艦サン・ジャシント(San Jacinto )号が下田に入港した。しかし、幕府は日米和親条約の日本側の解釈でハリスとの交渉に難航するが、幕府の老中であった堀田正睦(まさよし)は、下田奉行にハリスの駐在を認める指示を出した。安政3年8月5日、日本最初のアメリカ駐日総領事館が下田柿崎村の玉泉寺に置かれ、ハリスは幕府と通商条約を結ぶべく交渉を始めた。
  • 日米和親条約 第十一条 
  • 両国政府に於て無據(よんどころなき)儀有之候時は模樣により合衆国官吏之者下田に差置(さしおき)候儀も可有之(これあるべく)尤約定調印より十八ケ月後に無之候ては不及其儀候(そのぎにおよばず)事
  • Treaty between the United States of America and the Empire of Japan. Article Ⅺ
  • There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the signing of this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.
  • この条項では、領事官派遣に関して、日本側とアメリカ側で解釈の相違が見られる。条約締結18ヶ月後、両国政府が必要と認めた(よんどころなき儀)場合、下田に合衆国官吏を置くとする日本側に対し、アメリカ側は、日米両国政府のいずれか一方が必要と認めた場合、下田居住の領事または代理官を任命することができるとなっている。
日米和親条約の第11条により、アメリカの初代総領事として、"通商条約脇結"のための全権委任を与えられたタウンゼント・ハリスは、通商に後ろ向きな幕府側に国際情勢の変化や貿易による日本の利益を説いて15回も交渉を続けた。
その結果、安政5年6月19日(1858年7月29日)に「日米修好通商条約」が江戸湾小柴沖に浮かぶアメリカ軍艦ポーハタン号の艦上で、幕府側全権の下田奉行の井上清直(いのうえきよなお)、幕府から派遣された海防掛目付・岩瀬忠震とアメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの問で結ばれた。(この時の幕府の最高権力者は大老, 井伊直弼である。この後、わが国の情勢は安政の大獄や桜田門外の変へと向かう)
この条約は日本に関税自主権がなく、アメリカの領事裁判権を認めるという不平等条約であった。(関税自主権の放棄:日本は輸入品に関税をかける権利を持たない, 領事裁判権:在留外国人の截判を本国の領事が行う権利)

日米修好通商条約の締結により「日米和親条約」での下田と函館の開港に加えて、新たに神奈川(横浜),長崎,新潟,兵庫(神戸)の4港も開かれることとなった。そして、徳川幕府はアメリカに次いで、7月にイギリス、ロシア、オランダ、9月にフランスとも同様な条約(いわゆる「安政の五ヵ国条約」)を結び、欧米諸国と自由貿易を開始した。日米修好通商条約は大老の井伊直弼が朝廷(当時の天皇は孝明天皇)の勅許を得ずに勝手に調印した違勅(いちょく)調印であり、安政の五ヵ国条約も無勅許調印だった。

ここに、徳川幕府は二百数十年にわたる鎖国に終止符を打ち、開国することとなった。その後、日本国内は開国による影響を受けて尊王攘夷の動きが強まり、倒幕運動が展開され、1867年に徳川幕府は朝廷に政権を返す「大政奉還」、1868年に明治維新を迎えた。


4.日米修好通商条約と貨幣交換比率

嘉永七年(1854)、日米和親条約が締結されると同条約の条項の一つ下田・函館二港開港と同地での貨幣による物資購入の許可を批准するため、日米間の貨幣交換比率を設定する必要性が生じた。この比率を取り決めた条約が安政4年5月26日(1857年6月17日)の日米約定「下田協約」である。日米間の貨幣交換比率を巡って両者で激しい駆け引きが展開された。

○下田協約・第三条の貨幣条項
「第三条 亜米利加人持来る所の貨幣を計算するには、日本金壱分或は銀壱分を日本分銅の正きを以て金は金、銀は銀と秤し、亜米利加貨幣の量目を定め、然して後吹替入費の為六分丈の余分を日本人に渡すへし」。(アメリカと日本の貨幣を同種同重量[金は金、銀は銀]で交換し、日本は6%の改鋳費を徴収すること)

日本側は米側貨幣を分析して双替市場の公定価格に基づき公定銀目では双方同程度のものであるとして、米ドル銀貨一枚を一分銀一枚とすることを主張。これに対して米側は双方の銀貨を量目で判断し一分銀は米ドル銀貨の三分の一程度の量目でしかないとして、米ドル銀貨一枚に対し一分銀三枚で譲らない。日本側の意見の方に理があったが、元貿易商人であった米側代表タウンゼント・ハリスでの硬軟おりまぜた駆け引きに押し切られてしまう。
結局、安政5年6月15日(1858年7月25日)「日米修好通商条約」締結にいたった。

○通商条約・第五条の貨幣条項
「外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て通用すへし(金は金、銀は銀と量目を以て比較するを云)、双方の国人互に物価を償ふに日本と外国との貨幣を用ゆる妨なし日本人外国の貨幣に慣されは、開港の後凡一箇年の間、各港の役所より日本の貨幣を以て亜米利加人願ひ次第引換渡すへし、向後鋳替の為め分割を出すに及はす、日本諸貨幣は(銅銭を除く)輸出する事を得、竝に外国の金銀は貨幣に鋳るも鋳さるも輸出すへし」。
つまり、貨幣条項である第五条は以下の四点からなっている。
(1)彼我貨幣の同種同量の通用と外国貨幣の国内無制限流通
(2)支払における彼我貨幣の自由使用
(3)改鋳費なしの即時的同種同量交換
(4)金銀(鋳貨・地金)の自由輸出
「下田協約」第三条における幕府が当初固執した六%という改鋳費が「通商条約」第五条で削除されたのは、すなわち貨幣交換は原則的に認めないという点を優先させる幕府の意図に関係した。貨幣交換を認めない以上、改鋳費を求めることは不要というのが、幕府の主張にあった。
しかし現実の「通商条約」第五条では、貨幣の直接交換を拒否するという幕府側の言い分を原則的に認めるとして改鋳費はナシ、ただし相互に不慣れな開港後一年間は内外貨幣の直接交換を例外的に認めるとした。さらには(国際慣習上当然ともいえる)貨幣輸出禁止規定までをも放棄した、誠に不合理・不平等な条項に終わった。
ここにおいて、内外貨幣の交換レートは公式には洋銀100枚=一分銀311枚、一般通用には「一ドル三分替え」が定められ、かつ外国人は金銀貨ともに交換、輸出する自由を得た。
同種同量の外国通貨は、同種の日本通貨と同一の価値を持つ(金は金、銀は銀)という規定である。つまり、外国金貨の日本国内での価値は、その金貨に含まれている金の量の等しい日本の金貨と同じ価値があり、銀貨についても同様(品位は問わない)ということになる。
この規定が我が国幕末の経済を破壊し、財政を揺さぶることになる。
また、米国船が日本の通貨を所持していないときは、幕府から日本通貨の供給が受けられ、それを商品で決済できるということが定まれていた。そして、日本側が、米ドルを溶かして国内通貨に改鋳することは外国通貨の両替商のない状況下で、幕府が両替義務を負担することとなった。
したがって、東アジア貿易の価値基準であり交換手段であった「洋銀」と定位貨幣である「一分銀」とを裸で重量比較を行い、「一ドル=三分替え」が強制された結果、これがドル貨の貨幣価値(すなわち購買力)を一挙に三倍に跳ね上げ、日本の対外物価を一挙に三分の一に切り下げたことである。欧米資本の対日通商貿易の貨幣的基盤はこうして完了した。そして、鎖国のうちで形成された本位貨の一分判金と定位銀貨の一分銀(あるいは小判一枚と一分銀四枚)とから、人工的に計算された国内の金銀比価1対4.16が、裸で欧米の金銀比価1対15に対峙させられた。

続いて年内にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同内容が締結される。外交交渉の敗北の結果、金・銀の交換比率の違いによる日本国内から大量の金流出が起こり国内経済は痛撃を負うことになった。外国との貿易での取り引きは、小判の金貨や、銀貨などが使われていた。当時、金と銀の交換比率は、外国で1対15、日本では1対5と著しい差があった。例えば、外国で金1つを銀15と交換する。この銀15を日本に持ち込むと金3つと交換できる。つまり、日本に銀を持ち込めば3倍の金が手に入った。
こうして、海外から多くの銀貨を持ち込み、日本で金貨に交換した外国商人らが海外に大量の金を持ち出した。海外流出した金の量は最低一万両から最大二千万両まで諸説幅があるが、現在では概ね十万両前後であったと推定されている。

三上隆三「円の誕生」東洋経済新報社,1975年より次を引用する。
「1853(嘉永6)年、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が来航し、翌年締結した日米和親条約によってわが国が開港を余儀なくされたとき、最大の難問はこの東アジアと国内の基軸通貨の違いから生じる問題であった。
異国間で交易をあらたに開始する際、まずもって決めなければならないことは、相互の貨幣をどのような交換比率で使用するかである。この際、諸外国はすでにメキシコ・ドル(わが国から見れば「洋銀」)という国際通貨をともに使用していたから、問題はわが国のどの通貨を基準に充てるか、であった。
幕府はまず、ペリーからはじめて手渡された洋銀をただちに銀座に分析させ、その地金としての価値が通用銀(天保丁銀)の16匁相当であるとした。これは公定金銀相場(金1両=銀60匁)から、ほぼ金一分に当たるので、当時の主流通「金貨」である天保一分銀1枚と交換することとなった。
ところが、2年後、日本に赴任した初代駐日総領事ハリスと開港にむけての通商交渉に入ると、事態は一変した。洋銀をあくまで銀塊としての価値で評価しようとする日本に対し、ハリスはおなじ銀貨同士、洋銀と一分銀を同重量で交換することを強く要求し、認めさせた。同種同量の原則である。これによれば、洋銀1枚はおおよそ一分銀3枚に相当した。ちなみに、この原則によれば双方の品位は無関係ではあったが、純銀量は洋銀1枚が6.5匁に対し、一分銀3枚は6.8匁とわずかに日本側に不利なレートとなった。」


■幕末・金銀比価の違いによる大量の金貨流出/進研ゼミより以下を記する。
【質問内容】
 「金と銀の交換比率が、日本が1:5で外国が1:15だと金貨が大量に流出する理由」と「外国人が銀貨を日本に持ち込んで、日本の金貨を安く手に入れた仕組み」について。

【質問への回答】
 「外国では金と銀の交換比率は金1:銀15。それに比べて日本は金1:銀5と銀高でした。簡単に言うと外国では金1gと銀を交換するためには銀15gが必要でしたが、日本では、同じ金1gを5gの銀と交換することができ、外国で交換するよりも銀の量が少なくて済みました。
つまり、日本に銀をもっていくと他の国の3倍の金が手に入る計算になったのです。(言い換えると日本で銀5gで手に入れて持ち帰った金1gが,外国では金1:銀15の交換比率のもとで、銀15gになったのです。)
そのため、1:5の交換比率のもと、少ない量の銀貨で日本の金貨である小判と交換して安く日本の金貨を手に入れることができたので、外国人は多量の銀貨を日本に持ち込んで日本の金貨と交換して巨利を得ることができたのです。こうして、日本の金貨が大量に海外に流出していきました。」

5.ペリー提督が持ち帰った大豆

「ペリー提督の日本遠征の目的は、日本を開国し、米捕鯨船の補給地を確保することにあったわけですが、その他にも様々な目的があり、その一つが日本の植物を採集して研究するということでした。そのため黒船艦隊には植物採集の専門家が同行していました。採集は2度行われ、1回目は1853年のペリー提督来航時に、S・ウェルズ・ウィリアムス博士とジェームズ・モロー博士によって、最初の上陸地であった浦賀、横浜、下田、函館の4カ所で合計350種余りの植物が採集されました。その中には横浜のツボスミレ、下田のウンゼンツツジやベニシダ、また各地のスゲなどが含まれています。2回目は1854年から55年にかけてリンゴールド隊長とロジャース隊長率いる黒船艦隊により、沖縄や奄美大島、下田、小笠原、函館などを回り、より大規模な採集が行われました。」(「在ニューヨーク日本国領事館」より引用)


■第一次採集(ペリー艦隊)
1853年7月(嘉永6年6月)、アメリカのペリーが率いる黒船が浦賀沖に出現した。この黒船に日本の農産物や植物の種子を収集する調査団が同行していた。農業調査を担当したジェームス・モロー(James Morrow)は、このとき1500~2000にのぼる農産物の種子を収集したとされている。その中に、日本豆(Japan pea)と呼ばれる奇妙な豆があり、それが大豆であった。 日本の開国に成功し、幕府と1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結んだ後、遠征隊は約3ヶ月間、日本の沿岸を回り、函館、下田等で標本採集を行った。そして6月25日に日本を発ち、中国などを経由しての帰途に就いた。

ペリー艦隊が行った日本の動植物の調査は、1853年(嘉永6)のペリー提督の第一次日本遠征時と翌1854年(嘉永7)の第二次日本遠征時に、ペリー提督自身の黒船艦隊によって行われた。ペリー提督は、大統領の開国・通商を求める親書及びペリー提督の信任状と書簡を日本に渡すほかに「アメリカ北太平洋遠征隊」の名のもとに、在マカオアメリカ領事館員ウイリアム氏とモロー博士(ハーバード大学のエイサ・グレイ博士の友人)等を遠征隊に同行させ、外交交渉の間に江戸湾,伊豆下田,箱館(函館)で植物採集(標本総数353種[内新種34種])や鳥類、魚類、貝類を収集し、その標本をアメリカに持ち帰った。(ペリー艦隊が下田で採集したものは、草木106種、樹木69種、シダ植物16種といわれる)

収集採取は、主として鳥類標本の収集が絵師ハイネ、魚介類標本の収集がペリー提督の監督下で行われ、植物関係の標本は、その収集と保存処理が主任通訳官ウイリアムス(S. Wells Williamas,サスケハナ号)、艦隊付き軍医チャールズ・ファーズ(Charles Fahs,サスケハナ号)とダニエル・グリーン(Daniel Greene,ミシシッピ号)、国務省派遣のジェームズ・モロー博士(James Morrow,ヴァンダリア号)にて行われた。動植物標本の収集地は、浦賀,横浜,伊豆下田,箱(函)館であった。これらペリー艦隊により収集された貴重な標本類は、モロー博士の監督の下に別船で丁寧にアメリカに送られた。

ペリーの遠征はアメリカ合衆国政府によって『ペリー艦隊日本遠征記』として1856(安政三)年に出版された。『ペリー艦隊日本遠征記』の第二巻は、日本産植物図譜の計画をしたモロー博士とペリー提督、第1回及び第2回の調査により持ち帰った植物標本を研究した植物学者エイサ・グレイ博士(Asa Gray)との間のトラブル(新しい科や属の発見がたくさんあったが、国務省がその貴重な調査資料を握ってしまい、第2巻の出版に間に合わなかった)によって原稿の提出が遅れ、かろうじてグレイ博士がまとめた新種記載を含む乾燥標本の目録のみが掲載されたにとどまった。


第2次採集(ロジャース艦隊)は、1854~55年にかけて小笠原諸島,沖縄,奄美大島,九州,下田,箱館,北方諸島など大がかりに行った(採集に関与した黒船は旗艦ヴインセンス号とハンコック号の2隻で、前者にはライト博士Charles Wright、後者にはスモール氏James Smallが乗船して収集にあたった)。下田では、1855年5月13~28日に採集している。第2次採集隊の標本総数は第一次をはるかに上回り、新種63種を同定した。


■横塚 保/「日本の醤油」より
『1854年に日本に来航したペリー提督が日本から持ち帰った2種類の大豆が、アメリカの農業委員会(Commissioner of Patents)に提出されていますが、これには"Soja bean(しょうゆ豆)"との表現が使われています。SoyaあるいはSojaはオランダ語の表現であり、日本語のshouyuがオランダ語のsoya,sojaを経た後、beanとの複合語である英語のsoybeanへとつながったと考えられます』。大豆は英語では「ソイビーン」。しょうゆ(ソイソース)の原料になる豆(ビーン)の意味です。

■「ペリー艦隊日本遠征記」、第二巻の「日本の農業に関する報告」より
『…日本の豆は数種あり、白い豆や黒い豆、匍匐枝(地面に沿って伸びる種類)を出すものや攀縁性(上に向かって伸びる種類)のもの、ツルナシインゲン、サヤ豆、ササゲ、一般にジャパン・ピー(日本豆=Japan pea)と呼ばれ、茎からのびた枝にできる莢に毛の生えた独特の豆、そしてレンズマメより大きくないごく小さな豆である。この中の一種から、様々な料理に用いられる有名な発酵調味料であるソヤ(醤油)が作られる…』 そのときの記録では大豆のことを"Soja bean"としています。 (引用:ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」,ペリー艦隊日本遠征記)

■黒船で来航したペリー(ペルリとも。Matthew Calbraith Perry,1794-1858)も日本から大豆を持ち帰り、アメリカ合衆国での大豆生産に寄与していたことが知られています。ペリーは日本に開国交渉に訪れましたが、学術調査の命も帯びており、1856年に編纂されたペリー艦隊の報告書は、第2巻が博物学に関する内容となっています。農業に関する報告でJapan peaとされているのがおそらく大豆で、日本の豆の中に有名な醤油の原料になるものがあるとも紹介されています。
(Francis L. Hawks, Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan, performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the Command of Commodore M. C. Perry, United States Navy, by order of the Government of the United States.
なお、嘉永七(1854)年の日米和親条約締結の数日前に日本から受け取った贈答品の中には、「醤油十瓶」が含まれていました(ペルリ(鈴木周作抄訳)『ペルリ提督日本遠征記』 )。






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