江戸の外食文化 <江戸幕府用意の饗応料理
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江戸の外食文化 資料
江戸幕府用意のペリー提督 饗応(きょうおう)料理

ペリー艦隊 初来航

幕末というのは、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督が来航(黒船来航)した嘉永6年(1853)から明治元年(1868)までの15年間のことを指す。
徳川幕府崩壊の約15 年前の嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカ大統領フィルモアの開国と通商を求める国書を携えたペリー提督は、旗艦サスケハンナ号を中心に黒い煙を吐く2隻の蒸気軍艦と帆走軍艦2隻からなる計4隻のペリー艦隊「黒船」を率いて、香港から沖縄経由で、江戸湾の入り口浦賀鴨居(神奈川県)沖に現れた。
ペリー艦隊の構成は、木造3本マスト・バーク型外輪式蒸気フリゲート(Frigate)の旗艦サスケハンナ(Susquehanna 2,450t)とミシシッピ(Mississippi 1,692t)、および、木造3本マスト横帆船スループ(Sloop)のプリマス(Plymouth 989t)とサラトガ(Saratoga 882t)であった 。艦隊4隻の乗員総数は988人にものぼる。

W・ハイネ画(米艦隊の随行画家) 「ペリー提督 久里浜上陸の図」、アメリカの公式使節が初めて日本に上陸した歴史的瞬間

浦賀の久里浜海岸(神奈川県)を五千人を越す武士が警護する中で、ペリー提督は6月9日(7月14日)、久里浜を艦砲の射程内に収めたうえで、士官・水兵・海兵隊約300名を上陸させ、自らも沖合の艦隊から13発の礼砲とともに上陸した。
ペリー提督は、浦賀奉行の井戸石見守弘道にアメリカ大統領の国書を渡すと、国書に対する返書の即答を要求することもなく、翌年、さらに強力な艦隊を引き連れて再び来航すると宣言し、6月12日(7月17日)に、浦賀沖から去っていった。国書には開国と交易、アメリカ漂流民の保護、中国との貿易船や捕鯨船への燃料(石炭)と真水、食料の供給などの要求が記されていた。

ペリー艦隊 二度目の来航




「黒船来航絵詞」西村正信/誌 嘉永7年(1854)
「去る丑の年(嘉永六丑年、1853)来航せし北亜墨利加(アメリカ)合衆国といふ所…睦月(1月)…」に浦賀を通り越して武州(武蔵国)金澤(藩)の沖に、そして、神奈川本牧沖に艦隊7隻が碇をおろした(停泊)こと。また、日米和親条約の締結に携わった幕府の交渉役の大命を受けた五人が、神奈川本牧、横浜(村)の仮家(久里浜の応接所を急遽、横浜に移設)で應接又饗座(応接と饗応)したとある。大命を受けた五人の名として、浦賀奉行/伊澤美作守(政義)、主席応接掛/林大学頭(輝)、江戸町奉行(次席応接掛)/井戸対馬守(覚弘)、外国掛目付/鵜殿民部少輔(長鋭)、幕府儒者/松崎満太郎らが記されている。蒸気軍艦「黒船」の画は、1854年1月16日に再来航したペリー艦隊の旗艦「鮑厦旦(ポーハタン)号」と思われる。


翌年、嘉永7年/安政元年の1月16日(1854年2月13日)に、ペリー艦隊が日本開国への条約締結のために、ふたたび、蒸気軍艦3隻・帆船軍艦4隻からなる7隻の軍艦(一時9隻になる)が江戸湾に現れた。
その陣容は、蒸気船のポウハタン(Powhatan 旗艦2415t、備砲9)、サスケハンナ(Susquehanna 2450t、備砲9)、ミシシッピ(Mississippi 1692t、備砲12)、帆船スループのマセドニアン(Macedonian 1341t、備砲22)、ヴァンダリア(Vandalia 770t、備砲20)、そして、帆装補給艦のレキシントン(Lexington 691t、備砲6)、サウサンプトン(Southampton 567t、備砲2)の7隻もの軍艦からなる世界最大級の艦隊であった。大砲の数は全部で80門。総乗員数は1500人。江戸の市中を破壊するに十分な装備を持っていた。
一回目の遠征に比して軍備がより強大なものとなっており、補給艦に燃料や食料を搭載して交渉の長期化にも備えていた。そして、艦隊は、前回の浦賀沖よりさらに江戸に近い武蔵小柴沖に停泊していた。



交渉地として、ペリーは停泊地付近の海岸を、幕府はかつての応接場所で既に米使応接掛が赴いていた浦賀を主張した。このため前回同様に会見場所の決定にまず時間を要することとなる。しかし、1月28日(2月25日)、ペリーの江戸入府を危惧した幕府は、浦賀奉行支配組与力 香山守左衛門をポウハタンに派遣して、アメリカ側で交渉に当たっていた司令官アダムス(Henry A. Adams)に、当時寒村だった横浜村を候補地として提示した。アメリカ側は、これを受け入れた。そして、2月6日(3月4日)、将軍への贈り物を搭載したサラトガ(Saratoga 882t、備砲22)が入港した。
鎖国政策堅持の日本と、開国断固要求のアメリカという厳しい対立の構図の中で、幕府は開国和親という方針を採り、嘉永7年2月10日(1854年3月8日)に、第1回の日米条約交渉が武蔵国横浜村で開かれた。この後、交渉は難渋を極め、途中、帆装補給艦のサプライ(Supply 547t、備砲4)が2月21日(3月19日)に到着している。

アメリカ全権使節ペリー提督と日本側交渉全権である林大学頭(はやし だいがくのかみ)との間で「日米和親条約(神奈川条約)」に向けての日米正式会談が行なわれた。日米の会談は計4回、横浜の応接所で開かれ、毎回の会談記録は日本語・漢文・オランダ語・英語の各言語で作成した。
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、約1ヵ月の協議を経て、下田・函館(当時は箱館)の開港、石炭・水・食料の補給、漂着アメリカ人の保護、片務的最恵国条款、下田に領事を駐在させる等を定めた「日米和親条約(神奈川条約)」十二箇条が結ばれた。
これによって、3代将軍・徳川家光以来、200年以上続いてきた鎖国時代が終わりを告げた。この年、幕府はペリーの動向を窺っていたイギリス・ロシア・オランダとも同様の和親条約を調印し、鎖国の扉はさらに大きく開かれた。(1854年11月に安政と改元)



W・ハイネ画(米艦隊の随行画家) 「ペリー提督神奈川上陸図」
嘉永7年2月10日(太陰暦1854年3月8日)、ペリー提督を先頭に約500人ものアメリカの海軍士官・水兵・海兵隊員たちを従えて武蔵国横浜村に初上陸した。 この日、ペリーは礼砲・祝砲の名目で55発の大砲を発射するなど軍事的な威圧を加えながら横浜村での歴史的な会談が開始された。上陸の図の左手に見えるのが、二日前に完成したばかりの仮設館の横浜応接所であって、浦賀の久里浜応接所を解体して移設したものである。


「日米和親条約」を結んでから2年後の安政3年8月5日(1856年8月21日)に、日本最初のアメリカ駐日総領事館が下田に置かれた。日米和親条約の第11条により、アメリカの初代総領事として、通商条約脇結のための全権委任を与えられたタウンゼント・ハリスが着任した。
安政4年(1857)7月アメリカ軍艦が下田に入ると、幕府はアメリカ軍艦が江戸湾に回航するの恐れて、八リスの江戸城登城を許可した。この年の10月、アメリカ総領事ハリスが将軍徳川家定との謁見に望むため、下田街道を使って天城峠を越え、三島から箱根を経由して江戸城に登城し、将軍に大統領からの親書を提出した。安政5年6月19日(1858年7月29日)、日米修好通商条約が神奈川県沖のアメリカ軍艦ポーハタン号艦上で、幕府側全権の下田奉行の井上信濃守(清直)、海防掛目付・岩瀬肥後守(忠震)とアメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの問で結ばれた。
次いで7月10日(1858年8月18日)にオランダ、11日ロシア、18日イギリス、そして、9月3日(1858年10月9日)にフランスとも同様な条約(安政の五か国条約)を結び、欧米諸国と貿易を開始した。ここに、日本は二百数十年にわたる鎖国に終止符を打ち、開国することとなった。その後、日本国内は動揺を続け、1867年に徳川幕府は大政奉還、1868年に明治維新を迎える。


ペリー提督が持ち帰った大豆

■横塚 保/「日本の醤油」より
『1854年に日本に来航したペリー提督が日本から持ち帰った2種類の大豆が、アメリカの農業委員会(Commissioner of Patents)に提出されていますが、これには"Soja bean(しょうゆ豆)"との表現が使われています。SoyaあるいはSojaはオランダ語の表現であり、日本語のshouyuがオランダ語のsoya,sojaを経た後、beanとの複合語である英語のsoybeanへとつながったと考えられます』 
大豆は英語では「ソイビーン」。しょうゆ(ソイソース)の原料になる豆(ビーン)の意味です。

■「ペリー艦隊日本遠征記」、第二巻の「日本の農業に関する報告」より
『…日本の豆は数種あり,白い豆や黒い豆,匍匐枝(地面に沿って伸びる種類)を出すものや攀縁性(上に向かって伸びる種類)のもの,ツルナシインゲン,サヤ豆,ササゲ,一般にジャパン・ピー(日本豆=Japan pea)と呼ばれ,茎からのびた枝にできる莢に毛の生えた独特の豆,そしてレンズマメより大きくないごく小さな豆である。この中の一種から,様々な料理に用いられる有名な発酵調味料であるソヤ(醤油)が作られる…』 そのときの記録では大豆のことを"Soja bean"としています。 (引用:ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」,ペリー艦隊日本遠征記)


横浜村応接所での饗応料理の宴

 
「武州横浜於応接所饗応之図」嘉永7年 木版画(横浜市中央図書館)

嘉永7年2月10日(1854年3月8日) 、横浜村応接所で第1回目の日米和親条約会談が行われた日に、先ず、日本側が昼食に、最初は鮑を乾燥させて作った長爽斗敷紙三方(ながのししきがみさんぽう)による儀式膳で始まり、食事前の酒宴、食事の二汁五菜の「本膳料理」による祝賀の饗宴を開いてもてなした。伝統的な形式による日本料理の本膳料理は、鯛鰭肉の吸い物や、 結び昆布の干肴、豚の煮物、平目の刺身、鮑や貝の膾(なます)などの様々な食材を使った贅沢なものであった。



料理は幕府御用達、江戸の日本橋浮世小路の卓袱料理(しっぽくりょうり)を看板にした会席料理茶屋(料亭)「百川(ももかわ)」が二千両で、黒船艦隊の将兵約300人分の膳を請け負ったと言われている。酒と鯛(たい)ひれ肉の吸い物に始まり、刺身や煮物など50種類の肴(松葉スルメ、長芋、サザエ、車海老、白魚…)、本膳では、一の膳、二の膳、三の膳、最後が海老糖の菓子と計100種類を越える料理が出された。
素材は産地・品質・鮮度の吟味を重ねた新鮮な魚介類、山菜等が用いられ、大鯛の姿焼を始めとする各種鯛料理は圧巻であったと言われる。鯛は魚の王様と評されるが、大鯛の姿焼を始めとする各種鯛料理は圧巻であったと言われる。


「横浜応接場秘図」高川文筌/画 江戸時代末期 - 長野市真田宝物館 蔵
絵図で、右側の天幕に描かれた家紋「三つ寄せ笠」は、浦賀奉行/伊澤美作守(政義)の紋である。

『此図は最初茶菓を供する光景なるべく。次に長熨斗、銚子盃から酒三献、取肴、本膳、二ノ膳等純日本料理にして江戸日本橋浮世小路料亭百川の仕出しであった伝えてゐる。客席前列右より提督ペルリ、アボット、アタムス以下の面々なるべく、饗應掛は右より林大学頭輝、井戸対馬守覚弘、伊澤美作守政義、鵜殿民部少輔長鋭、一席離れて松崎満太郎が羽織小袴にて腰をかけ、何れも太刀持を後方に控えさせてゐる。』 … 『米国使節 彼理(ぺルリ)提督来朝図絵』の「横濱村應接場米使饗應の光景」より引用

ペリーの方も、幕府側を招いて饗応の場を設けている。ペリーは条約の調印日を前にした嘉永7年2月29日(1854年3月27日)、旗艦ポーハタン号の後甲板に日本側の関係者を招いて午餐会を催した。艦上には米国国旗と徳川家の葵紋の旗を立て、音楽隊が演奏して幕府側を迎えた。この日招かれたのは全権の林大学頭をはじめ、四名の応接掛(交渉委員)、通訳、浦賀奉行所の役人、それに従者たちなど総勢約70名で、牛肉、羊肉、鶏肉の料理とワイン、シャンパン、リキュールの酒類が用意された西洋風の宴席に出席した。


幕府の饗応料理、本膳料理の昼食献立







式三献という作法による儀礼的な酒宴に使われた「曇土器(くもかわらけ)」と銚子。
三献盃「雲土器」は、盃に酒を注ぐと中央部に雲が浮かび上がるように見える。






嘉永年間ペルリ提督が久里浜より上陸したる節、幕府の命に依りて一行を饗応せしが当時の献立は左の如くなりしと云ふ
嘉永七寅年(嘉永7年/安政元年)二月十日亜墨利加(アメリカ)人へ御料理被下書付写
(アメリカ人へ御料理下され侯献立書 三百人前、控二百人前)…応接掛は饗応料理300人分の献立を用意したが、アメリカ側の上陸者は446 人であり、不足分を急遽追加したとある。

一、長熨斗敷紙 三賓(ながのししきし さんぽう)…桧の白木づくりの台に敷紙を折りたたみ、干した鮑(あわび)を長く伸ばしたものを載せる
一、盃内曇土器(くもかわらけ) 三ツ組
一、銚子
一、吸物 鯛鰭肉(鯛のひれ肉)
一、干肴 松葉するめ、結び昆布
一、中皿肴 はまち魚肉、青山椒
一、猪口 唐草かい(唐草模様の切り口をつけた貝)、防風、山葵せん(わさびせん切り)

献 立

一、吸物 花子巻鯛(小鯛の形づくり)、篠大根(大根しの切り)、粉山椒
一、硯蓋 紅竹輪蒲鉾(魚すり味の色付ちくわ形かまぼこ)、伊達巻鮨、花形長芋(長芋の切り方の称)
     緑昆布、九年母(柑橘類の果物)、河茸(こうたけの別称)
一、刺身 平目生作り、かじめ大作(めじまぐろのさしみ)、鯛小川巻(たいの小川巻のつくり)、若じそ、生海苔、花わさび
一、猪口 土佐醤油、いり酒(刺身や膾などの味つけ用)、辛子(辛子菜味噌、からし味噌)

すまし

一、吸物 鞍掛平貝(たいら貝の鞍かけ切り)、富貴の頭線(ふきのとうのせん切り)

ぶた煮

一、丼 車海老、押銀杏、精松露、目打白魚、しのうど

鶏卵葛引

一、大平 肉寄串子海鼠、六ツ魚(鮭)小三本、生椎茸、細引人参、
     火取(火にあぶる、煮る)長芋、霞(しぼり汁の意の当て字)山椒
一、鉢肴 鯛筏(いかだやきのたい)、友身二色蒸(鯛のすり身の一部に色づけしたものをつくり、重ねて蒸す)
     風干妨鱗(ほうぼうの生干し)、自然生土佐煮(自然薯をかつお節だしで煮たもの)、土筆からし漬、酢取生姜
一、茶碗 鴨大身、竹の子、茗荷竹(鴨大身、たけのこ、みょうがの筑前煮)

二汁五菜本膳

本膳
一、鱠 鮑笹作り、糸赤貝、しらが大根、塩椎茸、割栗(栗生姜)、葉つき金柑
一、汁 米摘入(つみれ)、千鳥ごぼう、布袋〆治(ほていしめじ)、ふたば菜、花うど
一、香の物 奈良漬瓜、花塩、味噌かぶら、房山椒、しの葉菜
一、煮物 六ツ花子(鯥の子)、煮抜き豆腐、花菜 (真子(むつの卵)と豆腐の炊き合わせ)
一、めし

二之膳
一、蓋 小金洗鯛、よせ海老、しらが長芋、生椎茸、揃三ツ菜 (焼鯛と海老の炊き合わせ)
一、汁 甘鯛背切、初霜昆布
一、猪口  七子いか、鴨麩、しのごぼう (鴨と麩の炊き合わせ)
一、台引 大蒲鉾(お土産用、紅白蒲鉾)
一、焼物 掛塩鯛(お土産用、鯛の姿焼き)

吸物膳(三之膳)
 <下官之部、右ハ(吸物膳)下士一同へ被下(くださる)・・・「亜米利加船渡来日誌(添田日誌)」の一文>
一、吸物 吉野魚、玉の露(卵のつゆ)
一、中皿肴 平目作り身(ひらめ刺身)、花生姜
一、盃
一、銚子
一、飯鉢
一、通い(配膳、給仕用の道具)
一、湯
一、水

菓子 三百人程
四拾五匁形
一、海老糖
一、白石橋香(しろしゃっきょうこう)
一、粕庭羅(カステラ) 寸法 長さ 三寸五分、巾 一寸七分、厚 一寸三分

(参考:(ペルリ提督饗応の献立「国民新聞」明治34年7月3日号、東京大学史料編纂所編「大日本古文書」幕末外国関係文書之五、「亜米利加船渡来日誌(添田日誌)」、日本における食事様式の伝承と明治の断層 児玉定子)



<卓袱料理>
卓袱(しっぽく)料理は、江戸時代に中国から伝わって日本料理風の中国風料理。卓袱は食卓にかける布の意味で、転じて食卓を指し、卓袱台(食卓)にのせて供する料理を卓袱料理と呼びました。また、精進懐石料理の卓袱料理は普茶(ふちや)料理と呼びました。長崎奉行所の記録には「しっぽく」は広南・東京(トンキン)方面(現在のベトナム中部、北部)の方言と記されてます。

<会席料理茶屋(料亭)「百川(ももかわ)」>
日本橋浮世小路の料理屋百川が出来たのは明和・安永(1764-81)の頃といわれています。天明(1781-87)の頃には文人墨客が書画会などを催す名の知られた卓袱料理屋となり、文化・文政(1804-30)頃には高級店として繁盛しました。嘉永年間の百川の1人分の食事代金は、上が200疋(銀二分)、中が150疋(銀一分と二朱)、下が100疋(銀一分)だったようです。

百川繁栄図 五渡亭国貞(のちの三代豊国) 文政8年(1825)

(参考:中央区観光協会特派員ブログ – 浮世小路 高級料亭・百川」、江戸食文化紀行 NO.180百川の卓袱料理)







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