日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 黒船来航と開国(2)


黒船ペリー再来航(横浜)

1.ペリー艦隊,二度目の来航

■ペリーの第二次日本遠征

ペリー艦隊が、日本開国への条約締結のために、再び江戸湾に現れた。嘉永7年の1月14日(1854年2月11日)、ペリー艦隊の1隻が江戸湾外に姿を現わし、「午刻」頃に、帆装武装補給艦サウサンプトンが浦賀沖に乗り入れたことが目撃される。
上総鶴牧藩主,水野壹岐守忠実への報告に《異國船渡来の件、一昨十四日午刻頃、異國船壹艘浦賀之方江向乗入候趣ニ付》とある。

続いて1月16日(1854年2月13日)、ペリーは旗艦蒸気軍艦サスケハナ号に乗じ、蒸気軍艦ポーハタン号、同ミシシ ッピ号、帆船軍艦ヴァンダリア号、同マセドニアン号、帆装武装補給艦レキシントン号の6艦を率いて江戸湾内に進み、先着し、待っていた補給船・帆走艦サウサンプトン号と合流すると、縦列をつくって国書授受の地であった浦賀沖の久里浜を通過して直航を続け、午後3時、前年彼等が“アメリカ錨地(American anchorage)”と名付けた小柴沖に7隻の軍艦が投錨した。

第一次日本遠征に比して軍備がより強大なものとなっており、補給艦に燃料や食料を搭載して交渉の長期化にも備えていた。
そして、艦隊は、前回の浦賀沖よりさらに江戸に近い小柴沖すなわち「アメリカ停泊地,アメリカン・アンカレッジ」に投錨していた。


横浜の南・金沢小柴沖「アメリカ停泊地,アメリカン・アンカレッジ」に停泊するペリー艦隊


「黒船来航絵詞」西村正信/誌 嘉永7年(1854)
『去る丑の年(嘉永六丑年,1853)来航せし北亜墨利加(アメリカ)合衆国といふ所乃使節…睦月(1月)…』に浦賀沖に乗り入れ、武州(武蔵国)金澤沖に艦隊7隻が停泊した。そして『神奈川本牧沖の横浜といふ所の仮屋』の横浜応接所で、日米和親条約の締結に携わった幕府の交渉役の大命を受けた五人が、神奈川本牧、横浜(村)の仮家(久里浜の応接所を急遽、横浜に移設)で應接又饗座(応接と饗応)したとある。

大命を受けた五人の名として、浦賀奉行/伊澤美作守(政義)、主席応接掛/林大学頭(輝)、江戸町奉行(次席応接掛)/井戸対馬守(覚弘)、外国掛目付/鵜殿民部少輔(長鋭)、幕府儒学者/松崎満太郎らが記されている。蒸気軍艦「黒船」の画は、1854年1月16日に再来航したペリー艦隊の旗艦「鮑厦旦(ポーハタン)号」と思われる。


■ペリー提督、二度目の来航で開国を迫る

当初は1年後の再来航を予定していたペリーであった。しかし、嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、ロシア使節エフィム・プチャーチン率いるロシア艦隊4隻が国書を携えて、日本で唯一の対外国窓口である長崎に入港して日本と交渉していることを知る。
ペリーは予定を変更し、わずか半年後の嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリー艦隊が日本開国への条約締結のため、第一次日本遠征を上回る大部隊の蒸気軍艦3隻・帆船軍艦4隻からなる7隻の軍艦で再び来航し、浦賀を経て武蔵小柴沖に投錨した。

その第二次日本遠征の陣容は、蒸気軍艦のポーハタン(Powhatan 旗艦2415t、大砲9門、乗員300人)、サスケハンナ(Susquehanna 2450t、大砲9門)、ミシシッピ(Mississippi 1692t、大砲12門)、帆船軍艦のマセドニアン(Macedonian 1341t、大砲22門)、ヴァンダリア(Vandalia 770t、大砲20門)、そして、帆装武装補給艦のレキシントン(Lexington 691t、大砲6門)、サウサンプトン(Southampton 567t、大砲2門)の7隻もの軍艦からなる世界最大級の艦隊であった。大砲の数は全部で80門。総乗員数は1500人。江戸の市中を破壊するに十分な装備を持っていた。

浦賀から予想外のアメリカ艦隊再来航の急報を受けた江戸城は大騒ぎとなった。徳川幕府はこれに対応するため、江戸湾を囲む伊豆、相模、武蔵、下総、上総、安房の6力国の海岸線を中心に、全国の42大名に命じて準備していた約47万にのぼる兵力を動員して、伊豆(現在の静岡県)から 安房(現在の千葉県)にかけての江戸湾岸一帯に防衛ラインを展開した。



第二回目のペリー訪日は、1月16日(1854年2月13日)に汽走艦三艦を含めた7艦をもって行われたが、その後、2月6日に8隻目の帆走軍艦サラトガが到着、そして、全艦隊の9隻目となる帆装武装補給艦のサプライ(Supply 547t、大砲4門)が2月21日に到着して、艦隊乗組員,総勢1775人が揃った。
それをもってペリーは横浜応接所における日米談判の期間を通じて、全艦隊を横浜前面沖に横列して停泊させて、その要求を貫徹するために絶えず幕府方を牽制威圧していた。




2.日米会談場所の交渉

■会談場所の交渉

以下は、「函館市史・ペリーの再来と幕府の回答」から一部を引用する。
「安政元年(嘉永7年)1月14日、ペリー艦隊は江戸湾外に姿を現わし、次いで16日には浦賀沖からさらに縦列をつくって江戸湾を溯航し、前年彼等が"アメリカ碇泊所"と名付けた小柴沖に投錨した。
この時のペリー艦隊は旗艦サスケハナ号をはじめポーハタン号・ミシシッピー号(以上フリゲート艦)、マセドニアン号・ヴァンダリア号(以上スループ型砲艦)、レキシントン号・サウサンプトン号(運送船)を加えた計7艘であった。
幕府は、1月15日急遽応接掛林大学頭(林復斎)、北町奉行の井戸対馬守(井戸覚弘)、目付の鵜殿民部小輔(鵜殿長鋭)、儒者の松崎満太郎に浦賀出張を命じ、彼等は18日江戸を発し浦賀に向った。
しかし、この時彼等は、幕府より応接のための具体的方針は何一つ示されていなかった。まず艦隊の碇泊地と応接場所をめぐって交渉が開始された。この交渉は、主としてアダムスと浦賀奉行配下の幕吏(のち浦賀奉行)との間で行なわれた。」

○品川台場(砲台)建築に人足を出していた赤尾村名主の史料、川越藩領入間郡赤尾村(現埼玉県坂戸市)名主,林信海「役用向諸記録」には、高輪台場建築から戻った者の話として、
「異国船相州浦賀ニ着ニ付御大名方并大筒追々彼地へ御差送りニ付高輪海辺通行無絶聞御台場御築立御休ミニ成り(中略)十四日夜不意ニ本牧迄六艘乗込し」「当節異国船当国久良岐郡金沢辺夏嶋沖ニかかり居候処猶三艘跡船来ル趣ニ而待居候よし」
と、記録されている。

(幕府は嘉永六年(1853)にペリーから開国を迫られると、江戸を防衛するために、伊豆韮山代官江川英龍に命じて、品川沖に、石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台を8つ建造した)


「小柴濱より見物の図」 小柴沖,20丁(2,182m)に投錨したペリー第二次日本遠征艦隊
黒船体〇印が蒸気外輪フリゲート型砲艦、黒船体が帆走スループ型砲艦、白船体が帆走スループ型武装補給艦


左の軍艦からは白い煙が上がっている。これは入港する時に放つ空砲だと思われる。


■難航する応接場所の決定

二度目の来航をしたペリー側と幕府は会談場所をめぐって交渉が難航していた。幕府側は浦賀奉行所の支配組頭,黒川嘉兵衛が折衝に当たっていた。
しかし、ぺリー側は前回来航の際の香山栄左衛門が一度も姿を見せないことを不審に思い、香山を出せと要求した。そこで幕府は、すでに浦賀奉行所の職務から離れていた香山を急いで呼び戻し、もう一度《総督》として交渉の席につかせることにした。

交渉のための上陸地として、ペリーは前回の久里浜よりもっと江戸寄りの地点の神奈川・川崎・品川を要求、幕府はかつての応接場所で既に米使応接掛が赴いていた浦賀を主張した。このため、前回同様に会見場所の決定にまず時間を要することとなる。

しかし、嘉永7年1月28日(1854年2月25日)、ペリーの江戸入府を危惧した幕府は、三浦半島に見張りを置く浦賀奉行支配組与力,香山栄左衛門を蒸気軍艦ポーハタンに派遣した。与力香山栄左衛門はアメリカ側で交渉に当たっていた参謀長ヘンリー・アダムス(Henry A. Adams)に、最初に鎌倉、次に浦賀を提案したが、江戸に近い場所を希望するアメリカ側に拒まれた。

ペリーは、全艦隊を率いて北上させ、江戸市中が見える羽田沖まで進める威嚇策をとった。江戸の近くから黒船が見えるほど接近させた効果もあり、幕府は応接場所に、これまで主張していた浦賀に代わって、神奈川宿の対岸で江戸からは離れていない武蔵国海辺の寒村「横浜村」を候補地として提示した。
アメリカ側は、これを受け入れた。ペリーは、金沢の小柴沖に停泊していた艦隊を神奈川沖に移した。
(武蔵国久良岐郡横浜村は戸数90ほどの平均的規模の半農半漁の村、東海道神奈川宿から直線で約4キロ南に位置する)



〇2月4日(1854年3月2日、幕府は神奈川より林大学頭と井戸対馬守を召還した。幕府は応接の方針を論議し、対米交渉の方針が決った。その内容は、漂流民の救助・炭水の補給は認めるが、通信・交易は拒否するというものであった。
〇2月6日(1854年3月4日)、交渉が行われている最中、将軍への献上品47点を搭載した帆走軍艦サラトガ(Saratoga 882t、大砲22)が入港した。米国艦隊は合計8隻となる。
ペリーは8隻からなる艦隊(レキシントン,サスケハナ,ポーハタン,マセドニアン,ミシシッピ,ヴァンダリア,サウザンプトン,サラトガ)を神奈川沖の1海里以内に横一列に停泊させ、5海里(9.26km)にわたる海岸を大砲の射程距離内に入れるように命令した。
この2月6日、幕府は徳川斉昭も含めた幕議で、米国に通商を許さないことに決し、林大学頭、井戸対馬守は再び神奈川に赴いた。
〇2月7日(1854年3月5日)、ペリーは、横浜村応接所のことを知らせるために訪れた神奈川奉行支配組頭・黒川嘉兵衛に、「近海へ軍艦五十隻」カリフォルニアに「五十隻」と「廿日之程には百隻之軍艦は相集ま」る、と脅しながら全権団の委任状の件を確かめた。
〇2月8日応接地を横浜村にすることが決定された。浦賀奉行所与力・香山栄左衛門がブキャナン艦長やアダムズ参謀長らを候補地の横浜村へ案内した。
これ以後、アメリカ側の艦上員は、準備や調査のために横浜にたびたび上陸する。しかし、未だ日本全権との間では、正式な日本への上陸は認められていなかった。


3.ペリー横浜上陸

■ペリー横浜上陸

鎖国政策堅持の徳川幕府と、開国断固要求のアメリカという厳しい対立の構図の中で幕府は開国和親という方針を採り、嘉永7年2月10日(1854年3月8日)、ペリー提督は前回を大きく上回る約500人ものアメリカの海軍士官・水兵・海兵隊員たちを従えて武蔵国横浜村に上陸した。浦賀来航の翌年のことである。



ペリー提督は27艘のボートに将兵を乗せ、上陸後は小銃とピストルで武装させた銃隊兵士を中心に隊列を組み、会談場までの道の両側に一列に並ばせた。
ペリー提督はすでに上陸を終えたアメリカ将兵が浜辺に整列したことを確認したのち、旗艦ポーハタン号から一艘の白いボートを発進させて上陸する。この時、沖合に横一列に並ぶアメリカの軍艦八艘が祝砲を発射し、岸辺にいたボートからも祝砲が発射された。



こうして上陸した大礼服姿のペリー提督を参謀長アダムスら三人の士官が出迎えた。来訪いらい、ペリー提督が日本人の前に姿をみせるのは、これが最初であった。
上陸したペリー提督は、浜辺に急造された横浜応接所に入った。 この日、ペリー提督は礼砲・祝砲の名目で55発の礼砲を轟かせるなど軍事的な威圧を加えながら横浜村での歴史的な会談が開始され、ここで日米和親条約の会談が行われた。
横浜応接所は久里浜に設けられた設備を解体し、横浜に運んで4日間で完成させたもので5棟からなるこの応接所をアメリカ側は条約館と呼んだ。


W・ハイネ画(米艦隊の随行画家)「ペリー提督・横浜上陸の図」嘉永7年2月10日(1854年3月8日)の上陸の光景を描く。
上陸の図の右端が水神社の祠、左端に見えるのが、二日前(2月8日)に完成したばかりの仮設館の横浜応接所で、応接所の建物は前年の浦賀の久里浜応接所の建造物を解体移築して中心に配置し、周囲を増築した5棟からなる木造平屋である。
ペリー提督一行の前に白地に赤色の三階菱家紋の旗は警固にあたっていた小笠原藩。海岸沖の黒船の手前に見える朱塗りの大型船は、幕府の御座船「天地丸」で、その左手に小旗をたてた小舟は会津および忍藩の海上警備船である。


ペリー提督の一行が横浜に上陸し、米国旗を掲げ、交渉場所となった横浜応接所に向かって行進する様子である。

4.日米会談が始まる

■第1回日米会談

嘉永7年2月10日(1854年3月8日)に、ペリー提督が横浜に上陸し条約交渉に入る。第1回の日米条約交渉が武蔵国横浜村で開かれた。
日米会談は計4回、横浜の応接所で開かれた。第1回日米会談に、嘉永7年2月10日早朝より応接掛の林大学頭(復斎)・町奉行の井戸対馬守・浦賀奉行所の伊沢美作守・目付の鵜殿民部少輔・儒役の松崎満太郎の5名は横浜応接所におもむいた。



応接所周辺では、浦賀奉行所や江戸町奉行所の与力と同心200人が警備した。その外側の警備は小倉・松代両藩は陸上を警備し、小倉藩は洲乾弁天のあたりに本陣を置き、松代藩は交渉場所の中央に配置された。因州藩(いんしゅうはん,鳥取藩)は海上の警備を固めた。

そして、午後、アメリカ使節ペリー提督と兵士一行約500人が殷々たる礼砲のうちに上陸し、ペリー提督以下約30名が武蔵国の横浜応接所へ入り、これより第1回日米会談が開始された。その後、両者の間で約1か月にわたる「日米和親条約(神奈川条約)」の締結交渉が始まった。


横浜応接所に入るペリー提督一行(ペリー提督日本遠征記)
ペリーの右手横に描かれている白い袴姿の武士が浦賀奉行組与力,香山栄左衛門である。

横浜応接所は、前年の久里浜応接で使った中心となる「奥の間(21畳間)」を移築し、それに双方トップの秘密会談のための「内座(8畳間)」や玄関、御賄御料理所(調理場,幅2間×長さ10間)など関連施設を増設して4日間で完成させた。
日米の会談は移設増築した五棟(約100畳分)からなる横浜応接所の増築された「内座」と呼ばれる部屋で開かれた。

 

ペリーや将校はサーベルに短銃の正装で椅子に座り、幕府側は台座上に正座して脇差を左脇に置き、大刀は後ろに構える家来が捧げ持った。挨拶が終わると、双方の首脳各5名が隣室「内座」へ移り、茶菓が出て会談となった。会談は森山栄之助とポートマンによるオランダ語を介した二重通訳である。
この時の会談情景を描写した文章がある。『横浜応接場秘図』を描いた松代藩絵師,高川文筌である。
「二月巳卯、五君及び官吏は横浜に集まり、アメリカ人の到着を待った。既に海面には上陸用の小艇が浮び、合計廿有八隻。その仕掛けを働かせ、恰も天魚が水中を游(およぐ)ごとく、一時に皆が着岸した。各々が小旗を揚げていたが、一艇の舩体が全て白く、直ぐに使節が乗舩すると判った。
 紅の羽毛付き冠をかぶった者が、先ず上陸し、銃隊数百人を統率するのに、直抜きの剱で指揮をした。その場の左側に整列し、鼓吹者(=⿎笛隊)十有五人が、その背後に集まった。是は水軍である。
次に羽付き冠をかぶった者が上陸し、同様に銃隊を指揮し、その場の右側に整列し、鼓吹者十有六人が又その背後に集まった。これは陸軍である。水陸両隊が相対し、その後隊長がこれを点検した。この時突如鼓吹の演奏が始まり、其節回しは非常にゆっくりし、その曲は非常にひなびたものである。使節の上陸の合図である。
 次に黒の制服に金飾りを付けた一隊が続き、先に掲げた五曜紋の小旗(筆者注:星をデザインした艦首旗。アメリカ海軍では星条旗の星の部分を使い、碇泊中に艦首に掲揚する。)が続き、こうして中隊がやって来た。 中でも一人容貌が優れ威厳があり、正面を見据える人物が、使節のペリー提督である。従者五人が付いたが、躰が殊に大きく、皮膚の色は黒く、銃を持っていた。歩みにリズムが有り、応接場内に入った。
ペリー以下合計三十有六人は、部屋の上座まで入り、我が代表の五君は立って迎え、アメリカ人の列の最後まで会釈をした。訳官の森山が双方の言葉を通訳した。五君は南向きに着座し、彼等は北向きに腰かけた。先ず茶菓と煙草が出された。
その後五君が入室し、ペリー以下五人を内席に案内した。一人は副使、一人はペリーの息子、一人は蘭語の通詞、一人は日本語の通詞である。
しばらくして、我が五君が再度出て一行と対座したが、この時紫幕が降ろされ、内外を幕で仕切られたが、紫幕は伊沢の君家の物である(筆者注:三ッ寄せ笠紋が付いていた)。この件を担当する官吏と言えども、外席から入る事が許されなかった。」
日本側の交渉全権・林大学頭(復斎)は、ペリー提督にアメリカが求する如く、欠乏する薪水食料や石炭などアメリカ船が必要とし日本で調えられる物品は供給すると明言した。更に、アメリカの難破船乗組員の救助や親切な対処はこれまで通り行うとも伝えた。

従って来春より長崎に来て石炭薪水等を求めれば供給するし、その様子を見て、5年後には別の地に港を指定しアメリカ船を受け入れる。これらをまとめて別紙の如く取決め条項を決めたいと、日本側のオランダ語と中国語の草案書を渡した。(2月6日,徳川幕府は対米譲歩案を応接掛に秘密訓令している)

ペリー側は、日米修好通商条約草案を提出した。しかし、通商問題については応接掛・林大学頭と意見が対立した。

ペリーは「本官はアメリカと中国が結んだ望厦条約と同じ通商条約が、日本との間でも結ばれることがベストだと考えている。本官は条約を結ぶために派遣されたのだから、条約が結ばれないなら、遠からず軍艦が五十隻やって来るだろう。だが、何もかもが友好的に解決されて、軍艦が来航しないですむことを願っている」と言い、条約案を林大宇頭に渡した。
日本側はこれを理解するため退席したが、皆が四書五経の素読で育っているので条約案は簡単に読めて理解できたが、内容は受け入れられないもので、日本側はこれを断つた。


■1854年6月13日,ニューヨーク・タイムズから"ペリー上陸と日米会談の始まり"の情景
「横浜の海岸からHALL(応接場)まで張りめぐらし大衆の凝視から遮断するスクリーンを、ペリーは撤去せよと主張した。11時と12時の間に、ZEILIN少佐、PEGRAM大尉両名率いる各部隊が29隻のボートで海岸に運ばれペリー一行を待つ。この一行とは、アダムズ艦長、O・H・ペリー秘書、通訳のウイリャムズ及びポートマンである。
隊列が前進し、バンドはコロンビア万歳、大統領マーチを演奏しつつ行進した。ホールに入場すると、四人の理事者(林、井戸、井沢、鵜殿)に迎えられた。高位理事者(林大学頭)は通訳を介しペリー、随員ヘの感謝と歓迎の意を表し特に提督の健康を気づかった。
合図により、その場にいた召使が茶、、SWEETMEAT(甘いもの)、CONSERVES(砂糖漬)を漆塗り高杯で運んで各人のわきにおいた。REFRESHMENT(軽い食事)が済み、提督、属僚は後方の別室に案内された。
会談は三時間続いたが、大統領への返答は大変、好ましいものだったと報じた。」


■日米会談に臨んだ両国首脳と通訳

日米正式交渉の会談には、アメリカ全権使節ペリー提督、アダムズ参謀長、中国語・日本語通訳のウィリアムズとオランダ語通訳ポートマン、秘書のO・Hペリー(ペリーの息子)の5名、そして、日本側交渉全権である林大学頭(林復斎)以下5名の応接掛とオランダ通詞・森山栄之助、堀達之助、名村五八郎との間で、前年の親書への返答、通商条約の可否、「日米和親条約(神奈川条約)」に向けての会談が行なわれた。
ペリーはこの交渉過程で得た感触から、通商条約の締結交渉を後年にするべきであるとの決断を下した。

日米間の交渉を円滑にすすめるため長崎通詞(通訳)も活躍した。正式の会談ではオランダ語が使われ、幕府側主席通詞は森山栄之助(首席通訳には長崎のオランダ通詞・森山栄之助が就き、前年に務めた堀達之助は次席に回った)ほか3名、ペリー側は若いポートマン1名であった。
幕府側とペリーのやりとりは次ように行われた。 「日本語 ←→ オランダ語 ←→ 英語」、 「日本語 ←→ 漢文 ←→ 英語」。2回目の来港時に通詞の名村五八郎が会見に間に合わなかったため、中国人・羅森が英語を漢文に直して江戸幕府役人に意志の伝達をした。会談記録は日本語・漢文・オランダ語・英語の各言語で作成された。

この2月10日の第1回会談を終わり引き続き幕府は贅を凝らした昼食「饗応の膳」を開き、林大学頭を除いた各応接掛はペリー以下米国側を接待した。


■幕府の饗応の宴(概要)

嘉永7年2月10日(1854年3月8日)、最初の会談の後、応接所付設の料理所で、日本側はペリー提督一行に祝賀の饗宴を催した。
饗応の膳は、幕府御用達の料理屋にアメリカ側の300人、それを接待する日本側の役人200人、合計500人分の「料理一人前金三両」の昼食(本膳料理)を用意させ、当時の日本では考えられない量・質の料理の「饗応の膳」を開いた。



「嘉永七年二月十日アメリカ人へ御料被下候献立」によると、そこで出された料理の数は1人前90品で、吸物、硯蓋、丼、大平、茶碗、焼肴、刺身、香物など、純然たる日本料理が御膳になって出されており、その内容が克明に記されている。
そして最後に次のように記している。「御菓子をも被下候由縁定府蒸菓子をも両方被下輸筈異人共著取る事不相叶菓子を見苦しく指にてはさみ食べ侯由又みやげに持帰り候者は頭上之巾中二人候由給り候者といえ共包候てこの送り物之内へ押し込候由」。


■ペリーと士官たちが幕府側の饗応に招かれた際の「ペリー提督日本遠征記」にある「饗応膳」の記述。
「……接待の大広間には食卓が拡げられた。 (中略) それは赤い縮緬で覆われ、賓客と主人側との位階に応じて整然と並べられ、上上席にあって他よりもやや高くなった食卓は、提督、上席の士官および委員たち〔幕府側〕にあてられた。
全部着席すると、下僕が次々に速かに御馳走を運んできた。
主として濃いスープ或はむしろシチュー(味噌汁や出汁)から成り、大抵は主として鮮魚でつくったもの(鯛や平目の吸物やすまし汁)であった。それは小さい土製の壷(鉢)又はカップ(椀)に入れて供せられ、四方約14吋(36センチメートル)高さ10吋(約25センチメートル)の漆塗りの台に載せて運ばれてきて、賓客1人1人の前の食卓の上に置かれた(料理を乗せた一人用の銘々膳)。
皿毎に醤油或はその他の調味料(土佐醤油や煎り酒、辛子味噌)が供せられたが、食事中は特別の瓶に入れた日本国の飲料酒、すなわち酒(日本酒や保命酒)、つまり米から蒸溜した一種のウイスキー(焼酎)も多量に供せられた。色々の甘い糖菓(落雁や海老糖,南蛮菓子)、多くの種類の菓子が、他の物と一緒に豊富に食卓のここかしこに置かれた。
宴会が終りに近づくと、焙ったザリガニ(焼いた伊勢エビ)を入れた皿、或る魚の揚げ物(焼塩鯛)、煮た小海老2,3(ゆでたエビ二、三尾)、白いジェリー・クリームのような凝固物のついている小さな四角なプディング(カステラ)が各人の前に置かれた。
これらのもの(台引,引き菓子)は賓客達の後から艦に送られる筈のものだとほのめかされた(賓客が帰還したあとで艦に届けられるはずだと告げられた)。そして後からそれらのものが送られてきて、然るべく受領せられた。
(中略) 主人側の丁重と甲斐甲斐しい深切ぶりは、礼儀遺漏がなかった。けれども賓客たちは自分等の前に設けられた異様な饗応によってほんの僅かしか満足させられない食欲を抱いたまま立ち去ったことを白状しなければならない。
(中略) 一言もって言えば、日本人の饗応は、非常に丁重なものではあったが、全体として、料理の技量において好ましからざる印象を与えたに過ぎなかった。琉球人〔ペルリは日本に来る前に琉球に立寄った〕は明らかに日本人よりもよい生活をしていた。……」(ペルリ前掲書第3巻245~6頁)

ペリーは、日本の最高の料理である「本膳料理」に不満を抱いた。
ペリー達が食した本膳料理は、品数は多くても量が少なく貧相な料理であると評価している。アメリカ人にとっては、肉類が少なく魚介類の刺身や吸物、煮物、焼物、山海の珍味など、異文化の料理(日本料理)が口に合わず、不味かったらしい。


■米国から幕府への贈答品

〇亜墨理駕船渡来日記に「二月十五日、今日再応接トシテ異人四百人程上陸行列等先日ノ如シ、此日ハ公儀ヘ献上物品々陸揚ス」とある。

日米条約交渉が行われる一方、嘉永7年2月15日(1854年3月14日)に、アメリカ大統領から将軍(徳川家定)への献上品が、27艘の端艇に分乗した士官・陸戦隊員・楽隊に護られて横浜に荷揚げされ、応接所において首席委員林にたいして贈品目録を添えて手交された。
アメリカ側の記録にはマセドニアン号艦長であったアボット大佐がペリー代行として横浜村に出向いたと記されている。

アメリカ大統領から将軍への献上品は
4分の1スケールの蒸気(機関)車、炭水車、客車、レイル等一式、電信機二組、電線四束、外(ほか)電信用品一式、
ホール社製ライフル銃五挺、メイナード社製小銃三挺、コルト社製ピストル二十挺、
騎兵軍刀十二口(ふり)、砲兵軍刀六口、弾薬箱二個、
衣裳箪笥(たんす)一個、香料二包、ウヰスキー、葡萄酒一樽、シエリー酒・シヤンペン酒各若干、
台付望遠鏡一個、柱時計数個、フランス式救助船三隻、
オーデユボン著「アメリカの鳥類図」四巻、同「アメリカの獣類」三巻の書籍、
アイルランド馬鈴薯八籠(かご)、ストーヴ三個、
合衆国の秤桝尺度(はかりますものさし)、海図、農機具、農産物の種子(たね)類
などであった。さらに、アメリカーメキシコ戦争の状況を描いた絵画も十二枚贈られた。
《ペリーが別段風説書に記された発明品などを献上品としたのが偶然であったのか、文明国の威力を誇示することにあったかは判らない。さきのパナマ地峡における鉄道敷設計画について、ペリー艦隊が再度来航したとき、オランダ通詞の一人として交渉に当った浦賀奉行所の森山栄之助は、ペリーらに対し、「パナマ地峡に建設されている鉄道は完成したのか」と質問し、アメリカ側を驚かせ、日本人が海外事情に疎いという考えは誤っていたことを認識させている。》



〇亜墨理駕船渡来日記に「二月十六日火輪車電信機工匠ノ異人十人程上陸ス組立ニ着手ス」とある。

嘉永7年2月16日(1854年3月14日)、朝の7時過ぎ頃から、横浜村応接場では、20人ほどのアメリカ人が、幕府への献上品の組立に従事していた。なかでも、エンボッシング式モールス電信機2台の電線は、応接所と洲干弁財天前の民家(吉右衛門宅)に電線を約一哩(マイル:1.609km)架設し、「YEDO(江戸)」と「YOKOHAMA(横浜)」という文字を送信する通信実験を行なった。
エンボッシング式モールス電信機は、送信側の電信機上の電鍵でモールス符号を打つと、受信側の電信機の紙テープにエンボス(凹凸の傷が付く)されて、信号を送ることができる。ペリーは、電線や電池など装置一式を持参した。


蒸気機関車と客車と炭水車とをつけた汽車の大型模型は応接所の建物が建っている裏の麦畑に円形に線路が施設され、その後、23日に幕府応接掛や多くの日本人の前で運転が行われた。
特に蒸気機関車は模型とはいえ精巧に作られていた。蒸気車、炭水車、客車の3両は円形に敷かれたレールの上を人を乗せて蒸気の力で走った。この近代科学の成果は日本人に驚きを与えた。

○嘉永七年、ペリー二度目の来航のときに将軍や幕府高官に対して持参した献上品の中に、オランダ「別段風説書」に記されていたものが含まれている。ドーバー海峡の海底に敷設された電信は、電信機として将来され、実際に操作実験が行われた。また、鉄道についても、嘉永四年別段風説書では、パナマ地峡に鉄道を敷設する件が報じられており、献上品の中の4分の1スケール蒸気車模型が試運転されている。
嘉永四年辛亥 別段風説書(嘉永四年七月別段風説書)
「此以前の風説には、パナマ[地名]の峡に轍路漕路を設け度所存の由に候。其以来、北アメリカ合衆國とメキシコ[地名]との取極いたし候には、アトランッセ海と南太平海との通路便利のため、テヒュアインパイン[ハナマの一名歎]の峡に轍路を設け候由に候。又右同様の趣意にて、合衆國にエゲレス國と判談いたし候」
嘉永四年辛亥 別段風説書の大意。
以前の風説書に記載したパナマの地峡に鉄道を敷設する件で、計画以来アメリカ合衆国とメキシコの間で協議している。大西洋と太平洋の交通の短縮の為パナマに鉄道を設ける事を合衆国とイギリスとも相談している。

○嘉永六年1853年の風説書では、パナマ鉄道からパナマ海峡へと計画が変更されたことが記されている。
嘉永六年癸丑 別段風説書(嘉永六年十二月別段風説書)
「アメリカ州北方と南方続居候パナマ峡を切通しの義、ロンドンエゲレス国の都府ニおいて一統評決いたし候。此切通しハ大船の通行弁利の為、幅広く底深く致べく候、是ニ而北アメリカ州東西の債互ニ往返自由を得、又欧羅巴州并アメリカの東方より唐国印度渡海の通路格別近く相成候故、通商の為極而肝要の事ニ相見申候」
(南北アメリカ州を繋いでいるパナマの地峡を切り通す件で、ロンドンで会議が開かれ決定した。この切り通しは大船も通行できる様に幅広く、底深いものになる。これで北アメリカの東西の貨物の往来が自由になり、又ヨーロッパ及びアメリカ東海岸から中国やインドへの航路が特に近くなる。これは通商にとって極めて有意義な事に思われる)


■第2回日米会談

第2回日米会談は嘉永7年2月19日(1854年3月17日)に行われ、ペリーは長崎以外の諸港の開港を強く要求し、神奈川・下田・松前の開港を要求する。
2月22日、幕府はペリーから出された神奈川ほか数港の開港要求を検討するため、林大学頭と井戸対馬守が登城し、老中阿部伊勢守はじめ水戸藩主,徳川斉昭等と論議をもつ。徳川斉昭は下田開港にも懸念を示したが、結局下田開港、箱館開港に決定し、両応接掛全権は神奈川に帰着する。


■第3回日米会談

第3回日米会談が嘉永7年2月26日(1854年3月24日)に開催された。この日の会談において条約の骨格が決められ、懸案の避難港は下田と函館の開港を確認して終了した。
その後、先にアメリカ側から贈呈された献上品の返礼として幕府側から大統領をはじめペリー以下に返礼品の授受が2月26日(1854年3月24日)がおこなわれた。

【幕府から米国への返礼品】

嘉永7年2月26日、幕府から米国への返礼品は次のとおり。
〇アメリカ大統領には
梨地松竹梅蒔絵硯箱(すずりばこ)、梨子地蒔絵塗文庫、机黒蝋色桐鳳凰蒔絵(漆塗り黒塗机)、書相同銀金昇給吉野山(漆塗り黒塗書棚)、置物金銀牛二花鰭卓子共胡蝶蒔(牝牛の香炉)、手焙黒四季折松韻並蒔絵(火鉢)、花生銀地黒竹雀蒔絵(花生け置台附) 以上 各一個。
広蓋(漆塗り)花火蒔絵盆一揃え、花模様縮緬(ちりめん)、赤色模様縮緬、無地の絹布 以上 各五疋(ひき)。
大老から赤絹(もみ=緋紅色に染めた絹織物)十疋。 および、林大学頭ら五人の米使応接掛から縞絹物十疋づつを贈呈。
その他に、
 ・主席応接掛/林大学頭からは、漆塗硯箱、漆塗文庫、枝珊瑚(えださんご)と銀細工の箱、漆塗重箱 以上 各一個。
  漆塗三組(みつぐみ)台附杯一揃え。
  小箱(こばこ)二個。貝殻百個入四箱。手箱五個。猪口(ちよこ)、匙(さぢ)、螺鈿(らでん)の杯、台附杯等揃七箱。
 ・次席応接掛(江戸町奉行)/井戸対馬守からは、漆塗盆二枚入、雨傘二十本入、棕箒(しゆろばうき)三十本入 以上 各二箱。
 ・浦賀奉行/伊澤美作守からは、赤絹(もみ)、無地の絹布 以上 各一疋。 竹細工籠(かご)、竹製置台 以上 各一個。
  人形十三個(人形ナリ日本昔ヨリ秀テタル人ノ姿ヲ武者ナドニシタ細工)入八箱。
 ・外国掛目付/鵜殿民部少輔からは、磁器の猪口(ちよこ)二箱、縞(しま)縮緬三疋、「醤油」十陶入一箱
 ・幕府儒学者/松崎満太郎からは、花莚(はなむしろ)一箱、磁器の台附猪口三箱、樫炭(かしはずみ)三十束(そく)。

〇ペリー提督には
幕府からの贈呈品として、漆塗硯函、漆塗文庫 各一個。無地絹布二疋。赤絹(もみ)、花模様縮緬、友禅縮緬などを、
そして、日本の金貨幣二組、
鉄砲 四十匁玉・三十匁玉・二十匁玉の日置流火縄銃 三挺、
刀剣二振(二尺六寸三分,二尺四寸五分)。

〇艦隊乗組員には
幕府からの贈呈品として、白米二百俵 但し五斗入り、鶏三百羽なども用意された。

■横濱村応接所の興業・江戸相撲

幕府は、第3回日米会談の同日の嘉永7年2月26日(1854年3月24日)、日本人の力を誇示するためにペリー提督以下、艦隊の乗組員達に江戸相撲を見せることにした。
その際、幕府側が用意したペリー提督一行への贈答品の5斗入り米200俵、鶏300羽を幕府から要請を受けた江戸の力士に運ばせた。アメリカ水兵達は2~3人がかりで米俵,1俵を運んでいたが、力士達は1人で2~3俵を軽々と運びペリー提督一行を驚かせた。

その後、土俵入りや稽古相撲、取組をペリー達のまえで披露する余興がおこなわれた。この時、江戸からやってきた力士は、大関小柳,鏡岩を筆頭に、関脇常山、小結雲龍以下30数名が横浜に招集された。
《二月二十六日御公儀ヨリ彼国王並(ならび)使節へ被進(しんせられ)候物品ノ内米弐百俵船中へ被遣(つかわさる)。此持込応接場ヨリ波止場迄持運ビヲ相撲力士共御呼寄セ命セラル。依之(これによって)角力年寄重立候者九人並(ならび)東西大関以下出張セシ、名前左ノ通、番附帳元,根岸治右衛門、東ノ方大関,小柳常吉、西ノ方大関,鏡岩浜ノ助・・・》
幕府側の余興相撲について、福山藩士の儒学者,江木鰐水(がくすい)が記した見聞録によると、「彼理(ペリー)ハ深沈トシテ、二度程笑ヒテ黙々トシテ居タリ、音色モ温ナリ」と記述、副官(参謀長)のアダムスについては「軽率ニ見エ終始笑ヒテ」と記し、嫌悪を覚えた様子であったと書き記している。
以下に『ペルリ提督日本遠征記』にある相撲の一部を記述する。ただし、以下に示す相撲の記述中に度々表現される嫌悪感の文言には、
①巨体同士が激しくぶつかり合う様を見て、力士を野蛮人といい、力士を見た時も "a body of monstrous fellows" と言っている。
②ペリーの見た相撲(力士)は、怪物的で動物的、野蛮で暴力的な、ある意味「人間離れ」した「人間以下」の生物だったと書いている。
③力士の身体描写においても、その形容を monster(怪物)、ox(雄牛)、elephant(象) など動物(野獣)という単語が頻出する。
ペリー観覧相撲の力士の対決で、差別的の表現(…の箇所)を除いて、ペルリ提督日本遠征記の相撲を整理すると、ペリー達は、相撲という「蛮行」を見下しながらも、日本の相撲をよく観察していることがわかる。
 向かい合って着席している呼び出しが合図をすると  二人は一人一人幕の背後から入ってきて  中央に歩いてきた。それから二三ヤードの間隔を置いて互いに相対して並んだ。一寸腰をかがめて、あたかも両者が相手のすきを捕らえる機会を覗っているように、油断のない様子で互いに睨んだ。  互いに睨み続け、互いにあらゆる挙動を注視しており、遂に一瞬にして、両者一時に厖大(ぼうだい)な身体をあげて牛をも気絶せしめるような勢いで身体と身体とをぶつけた。  二人が組み合うと、互いに頑丈な腕を廻し、さて互いにからみ合って猛烈な格闘をやった。両者とも相手を投げつけようと、力を尽くして戦った。  遂に相手の一人が、ひどい重みでどしんと地面に倒れ、敗けたことを宣言されると、助手の手を藉(か)りて起き上がり、リングからつれて行かれた。  この胸の悪くなるような演技は、二十五人全部が一組ずつ強大な力と野性とを見せるまでは終わらなかった。』
(ペルリ提督日本遠征記に、横浜の応接所で行われた相撲見物では、力士同士が立ち合いの時に激しく頭でぶつかり合い、額から血が流れる取り組みがあって、「残忍な見世物」であったと記述されている。)

■大関,小柳常吉“KOYANAGI”

幕末の力士に名大関「小柳常吉」がおり、当時の最高位、大関を勤め、40歳で現役を引退するまで幕内在位17年、戦積は213戦131勝、優勝6回、全盛期5年間の勝率は8割を超え、名実ともに江戸相撲で活躍した力士の一人であった。

日本人力士のしこ名が海外で紹介されたのは、大関「小柳常吉」が第一号である。ペリー提督へ御進物の米俵を運んだ後、稽古相撲や取組も披露されペリー艦隊の乗組員が相撲を取りたいと願い出た。大関,小柳常吉はアメリカの水兵三人を一度に相手にし、一人を差し上げ一人を小脇に抱え、一人を脚下に踏みつけ、彼等の度胆を奪ったという。


  • 『ペルリ提督日本遠征記』の「陸上での余興」には、相撲の余興の記述がある。しかし、乗組員と力士の勝負についての記載はないが、小柳の名は記載されている。
  • 谷口公逸著『房総大相撲人國記』彩流社刊同書において、「海外に初めて紹介された力士」である小柳常吉について「腕自慢の艦隊員を次から次へと組み伏せた」とある。
  • 『ペルリ提督日本遠征記』の第20章で、唯一、“KOYANAGI” と紹介された力士である。ペリーは小柳に目がとまり、自らの所へ呼び寄せ、腕や首を触って感嘆している記述はある。大関の座に上ったのは嘉永5年(1852)11月である。しかし、年齢はすでに数え36歳になっていた。日米間で和親条約の締結交渉中の2月26日、神奈川に設けられた接見所で、ペリー提督へ御進物運搬及び相撲を披露するため、会所は大関小柳、鏡岩を筆頭に力士を送り、幕府の要請に一役買って出たのである。
  • 『徳川實紀・巻三「温恭院殿御實紀」』2月16日の項に簡単な記述があり、これが一級資料として諸書に流用されていったようである。 要約すると、「浅草御蔵前から廻船し、横浜に運んだ5斗入り米200俵、鶏300羽を力士50人が積み入れたが、その際小柳に注目が集まり、白真弓が米8俵を担ぎ、ある者は頭に乗せ、銜えたりして運んだ。 その後、船内にいる大力大兵の者が小柳に試しに相撲を取りたいと願い出て対戦。小柳は一人を脇へ掻き込み、一人を押し伏せ、一人差し上げた。艦隊員みな喝采を送った。通訳の森山榮之助を通じて、『どうやってこんなに強くなったのか?』と質問あり、小柳は『日本のおいしいご飯(米)を食べ、うまい酒を飲んでいるからだよ』と答えたという。

幕府は大統領やペリーへの絹織物、硯箱、書棚、紙、漆器、炭などがペリーへの答礼品として用意され、江戸から横浜村へ運ばれた。また、艦隊乗組員全員への贈り物として米200俵と鶏などが用意された。
米俵の運搬には江戸から力士が呼び寄せられ、横浜村の砂浜では力士によって米俵が積み上げられた。米俵は1俵が60キログラムあったが、力士は一人で2俵の米俵を軽々とアメリカ船へ運んだ。ペリー側の記録に『巨象のように海岸を踏みつけながら歩いてくる巨漢の一団に釘付けになった』という記述が残されている。

徳川慶勝の御手許文庫の「亜墨利加一条内密書」にある記述。
『右船中之惣異人ヘ被下品之内、御米五斗入俵之由、弐百俵程仮家前左り脇小土手際ヘ積上ケ有之候由之処、異人上中官応接所ヘ通り候以後ニも候哉、兼テ御呼寄ニ相成居候相撲共、素裸取廻シニテ出立、右弐百俵程之御米、壱人弐俵ツヽ両手ニ携、或ひハ肩ニ懸、又モ御米積上ケ候俵抔ヘ上リ、陸地ニ罷在候相撲共之内ヘ投与へ抔致、皆々異人乗来候ハツテイラ際浜手迄運送いたし、異人ヘ相渡候由之処、右異人共壱俵ニ両三人懸りニテ端船ヘ釣込候由』


5.黒船・ポーハタン号の宴会

■ペリー,幕府への返礼の宴

「第3回日米会談」の翌日の嘉永7年2月27日(1854年3月25日)に、ペリーから、明後日(2月29日)、艦隊にご招待したい、その時に祝砲を打ちたいと提案があった。了承した幕府はすぐに祝砲の触を出す。

嘉永7年2月29日(1854年3月27日)、日米和親条約妥結の見込みがつくと、ペリー提督らアメリカ側は、日本側の折衝担当委員、幕府、親藩の重臣など、約70人を宴会に招いた。日本人一行は、ポーハタン号に乗船するに先立ち砲艦マセドニアン号に招じられ、一歩、艦上に歩を移すと、傍に碇泊中のミシシッピ号から17発の礼砲で迎えられた。
日本人一行をもてなす意味で艦砲、小銃が発射されると、折衝担当委員は多勢の随行と共にポーハタン号に向った。マセドニアン号は、委員と多勢の随行らが離艦しようとする時、敬意を表して礼砲を発射した。

日本人一行は、宴会の前にマセドニアン号とポーハタン号の銃砲や機関等、艦内を丁寧に検分した。旗艦ポーハタン号に到着すると、祝宴はペリーの船室と後部甲板に設けられた二つの宴会場で催された。

旗艦ポーハタン号で、日本人一行はふた手に分かれて各宴会場に赴いた。ペリーは、提督の室にアダムズや艦長4人、自身の秘書、通訳のウィリアムズを着席させて、案内された日本側代表団5名の委員(林大学頭のほか、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔(うどのみんぶしょうゆう)、松崎満太郎)を迎え、テーブルを共にした。日本の通詞、森山栄之助は提督室内の側机坐った。
その他の高官や随行者らは後甲板に設営した天幕の下へと連れていかれる。ポーハタン号の甲板上にはアメリカの士官らが集まり、日本人の接待を行った。

甲板の宴席ではすでにテーブルに料理が並べられていた。甲板の宴席料理は、パリで修行した総料理長が腕をふるい、牛肉、羊肉、鶏肉の料理が準備され、テーブルにはシチューや生ハム、チキンのスープなど豪華な料理が用意され、酒はワイン、シャンパン、リキュールなど各種アルコールが出された。

この正餐会の料理についての日本側の記録は、奉行所役人による「種々厚き馳走の由 酒肴等ハ多分 豚抔の類ひなるべし」がある。また、水戸藩の重臣・菊池富太郎が残した記録には、「料理は、牛肉、牛舌、豚肉などの塩煮などがあり、薄赤色で甘酢味の酒、焼酎のごときもの等が出された。牛肉、牛の舌肉が最もよい味がした」とある。


『Dinner given to Japanese commissioners on board theUssf Powhatan』
西洋の饗応料理、ポーハタン号上後甲板での宴会の様子(ペリー提督日本遠征記)

『ペリー艦隊日本遠征記』には、ポーハタン号,上後甲板での正餐会の様子を次のように書いている。
「パリ仕込みのコックは、この一週間夜もなく昼もなく働いて、ニューヨークのデルモニコの料理にもひけをとらない、多種多様の豪華な料理を準備した。提督は艦隊の四人の艦長、通訳ウィリアムズ氏と自分の秘書を招いて委員たちと食卓をともにした。
日本の通訳(森山)栄之助は上司の特別のはからいで、この部屋の隅のテーブルに着くことを許された。そんな下座にいても、栄之助は平静さも食欲も失う気配はなかった。
常に荘重にして威厳のある態度を保持している林(大学頭)は、控えめに飲食していたが、すべての料理を賞味し、あらゆる種類のワインをすすった。他の委員たちはすばらしい大食漢ぶりを発揮して、首席委員よりも腹いっぱいに饗宴を楽しんだ。
 甲板の日本人一行は、各艦船から集まった大勢の士官に歓待され、シャンペン酒、マディラ酒、パンチを浴びるほど振舞われて、すっかりにぎやかになった。彼らはこれらの酒が大いに気に入ったようだった。日本人たちは率先して健康を祝う乾杯の音頭をとり、斗酒猶辞せず( 一斗の酒も辞退しないで飲む・多量の酒も断らずに飲むの意)飲み干した。
彼らの張り上げる声のけたたましさたるや、勇壮で軽快な曲を奏で続けて宴を盛り上げている軍楽隊の音楽もかき消してしまうほどだった。要するに、それは賑やかな歓楽の光景であり、お客に大いに楽しんでもらえたということだ。
食べ物も飲み物と同じく日本人の口に合うらしく、テーブルに満載した大量の珍味佳肴がたちまち消えてなくなるのには、いちばん大食いのアメリカ人でさえびっくり仰天させられた。」 最後には、日本人はご馳走の残り物を紙に包んでふところに入れて持ち帰り、酔っ払ってペリーに抱きついた人(松崎満太郎)もいたことも記録されている。



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