日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


「黒船来航と開国,日米饗応の宴」Sub Menuに戻る


江戸の外食文化 資料

 黒船来航と開国(3)


続:黒船ペリー再来航(横浜)

5.日米和親条約(神奈川条約)の締結

■日米和親条約の締結
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に、江戸幕府とアメリカ合衆国が横浜村(現・横浜市)の海岸近くで、全12ヶ条からなる日米和親条約(神奈川条約)を締結した。条約の調印は、上陸日を初回として計4回に及ぶ会談と書面による協議を経て、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、事前に双方が署名した「日本国米利堅合衆国(めりけんがっしゅうこく)和親条約」、通称・日米和親条約(神奈川条約)十二箇条を交換し締結された。
日米和親条約締結にあたった日本側全権は儒学者の林復斎町奉行の井戸覚弘、浦賀奉行の伊沢政義、目付の鵜殿長鋭(うどのながとし)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)である。この日米和親条約によって日本は開国した。

条約文には、両国の親睦、下田・函館(当時は箱館)の開港と外国人遊歩区域の設定、米船に対する石炭・薪・水・食料の補給、漂着アメリカ人の保護、片務的最恵国条款、下田に領事を駐在させる等を定めていた。しかし、幕府は通商に関しては認めなかった。それに関してはペリーも強く要求はしなかったが、代わりにアメリカの代表として総領事を置くことを認めさせた。
日本側の記録である『墨夷応接録』(ぼくいおうせつろく,墨夷=アメリカ)は、ペリー来航時に日本側の全権として交渉に当たった林大学頭の詳細な交渉記録である。『墨夷応接録』によれば、ペリーは日本を立ち去る際に林大学頭に手紙を寄越した。それには次のように「今回締結された条約としては甚だ窮屈になってしまい、我が意を得たものではなく、納得しがたい。」と書簡を残している。つまり挫折感をかかえて交渉を終えざるを得なかった。
日米和親条約を締結した後の嘉永7年3月7日(1854年4月4日)、ペリー提督は本条約調印の報告書をアダムス参謀長に託し、旗下のサラトガ号を派遣することで本国首府・ワシントンにいち早く伝えた。


通商規定のない条約-日米和親条約
『忘れられた黒船・アメリカ北太平洋戦略と日本開国』/講談社より以下を引用する。
 日米和親条約には、通商に関する規定がない。・・・その理由は、簡単である。ペリーが、通商の関係を日本と築くことを合衆国政府から期待されながら、その期待に応えられなかったからである。・・・ペリー艦隊の派遣に関しては、すでに多くの研究成果が公表されている。ここでは、簡単にその概要を確認しておきたい。1840年代の東アジア周辺の海域では、アヘン戦争(1840~42年)をきっかけに、欧米諸国の活動が活発になった。そのなかで、アメリカ合衆国内では、今後の発展が期待される対中国貿易を見越し、中国市場へ迅速にアクセスするため、北太平洋を横断する蒸気船航路の開設が求められるようになった。それは、当時世界経済の覇権を握っていたイギリスヘの対抗という意味もあった。
 さらに同時期には、アメリカの太平洋海域における捕鯨活動が全盛期を迎えており、なかには遭難によって日本に漂着する捕鯨船員の事例も増えつつあった。こうした捕鯨船員たちの保護という課題も、アメリカにとって重要となっていた。
 このような状況のなかで、アメリカ政府は、太平洋蒸気船航路の開設による、アメリカの覇権確立を最終目標としつつ、その航路上に位置する日本列島に関して、①蒸気船の石炭補給地、②捕鯨船員たちの避難港、③新たな市場、として、その「開国」を求めるようになった。・・・この三点が同国のペリー艦隊派遣をうながしたということを、まずはおさえておきたい。
 しかし、ペリーは通商の要求を日本に受け入れさせることができなかった。その理由としては、加藤祐三の議論が説得的であろう。加藤によれば、アメリカ側には日本にたいする通商要求に関して、一種の混乱があった。ペリーが日本にもたらした大統領ミラード・フィルモアの親書では、通商は二番目の要求事項に位置づけられ、一見すると優先度が高い。その一方、ペリー艦隊が出航する前に、アメリカの外交を司(つかさどる)る国務省の長官代理チャールズ・コンラッドから海軍長官のジョン・ケネディにあてられた、ペリー艦隊の派遣目的に関する書簡では、通商関係の構築は「困難にも見えるが、しかし、おそらくは不可能な任務ではない」というように、優先度としては低い位置づけが与えられていた。
 そのためペリー自身も、通商要求について確固たる方針を貫くことができなかった。一方、幕府の側は、日本に漂着したアメリカ人たちへの「撫邱」(ぶじゆつ,慈しむという意)は当然のこととして認めるが、通商は人命に関係がないことであり、拒否するという交渉姿勢をとった。ペリーはこの幕府側の論理をくつがえすことができず、その結果、通商規定のない和親条約の締結に落ち着いたのである。



「日米和親条約」(日本国米利堅合衆国和親条約)

  • 第一条〔日米両国の永久和親、差別の禁止〕
  • 日本国と合衆国とは、其人民(そのじんみん)永世不朽の和親を取結び、場所、人柄の差別これなき事。
  • 《日本と合衆国とハ其人民永世不朽能和親を取結ひ場所人柄能差別無之事》・・・日米間は人、場所に関わらず永久的に友好関係にあること。

  • 第二条〔下田・函館両港への来航許可、日本国の価格決定権、支払手段〕
  • 伊豆下田・松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船、薪水(しんすい)・食料・石炭・欠乏の品を、日本人にて調候丈(ととのいそうろうたけ)は給候(きょうしそうろう)為め、渡来の儀差免(ぎさしゆる)し候。 尤(もっとも)、下田港は条約書面調印の上、即時相開き、箱館は来年三月より相始め候事。給すべき品物直段書の儀は、日本役人より相渡し申すべく、右代料は、金銀銭を以て相弁ずべく候事。
  • 《伊豆下田松前地函館能両港ハ日本政府尓於て 亜墨利加船薪水食料石炭欠乏の品を日本人ニ而調候丈者給候多免渡来の儀差免し候 尤下田港者約條書面調印之上 即時相開き箱館者来年三月寄相始候事 給春遍き品物直段書之儀ハ日本役人与り相渡可申 右代料者金銀銭を以て相弁候事・・・下田・箱館の2港を開いて、アメリカ船に燃料・食糧を供給することが書かれている。

    (薪と水は捕鯨船が求めており、欧米各国は灯油や工業油のために盛んに鯨を捕獲していた。船で鯨の皮を煮て油をとる。油をとったあとの鯨は、海に捨てていた。米国の捕鯨船、チャールズ・W・モーガン号は2500頭以上の鯨を捕獲したと云われる。また、下田と函館の両港は、寄港するアメリカ船と上陸するアメリカ人と、一般の日本人がなるべく接触しないよう、慎重に選ばれた場所であり、いわば生麦事件の発生を未然に防ぐための選択であった。)
  • 第三条〔合衆国漂流民の保護、下田・函館への護送、費用求償権の相互放棄〕
  • 合衆国の船、日本海浜漂着の時扶助いたし、其漂民を下田又は箱館に護送し、本国の者受取申すべし。所持の品物も同様に致すべく候。尤も、漂流民諸雑費は、両国たがひに同様の事故、償ひに及ばず候事。
  • 《合衆国ノ船日本海濱漂着之時扶助致し 其漂民を下田又ハ箱館ニ護送致し本国の者受取可申 所持の品物も同様ニ可致候 尤漂民諸雑費者両国互ニ同様之事故不及償候事》・・・アメリカの難破船や乗組員を救助し、アメリカ側に引き渡すこと。その際の費用は請求しないこと。
  • 第四条〔漂流民監禁の禁止、漂流民の遵法義務〕
  • 漂着或いは渡来の人民取り扱いの儀は他国同様緩優に有り、これ閉籠候儀致すまじくながら併せて正直の法度(はっと)には服従致し候事。
  • 《漂着或ハ渡来之人民取扱之儀者他国同様緩優尓有之閉籠候儀致間敷乍併正直能法度ニ者伏従い多し候事》・・・アメリカ人遭難者の権利は他の国においてと同様に自由であること。

  • 第五条〔漂流民の移動の自由、移動範囲〕
  • 合衆国の漂民その他の者ども、当分下田・箱館逗留中、長崎において唐・オランダ人同様、閉じ籠め窮屈の取扱これなく、下田港内の小島周りおよそ7里の内は勝手に徘徊致し、箱館港の儀は追って取極め候事。
  • 《合衆国能漂流民其他の者と者当分下田箱館逗留中長崎尓於て唐和蘭人同様閉籠免窮屈能取扱無之下田港内の小島周リ凡七里の内ハ勝手ニ徘徊以多し箱館港之儀ハ追て取極免候事》・・・下田、函館に居留するアメリカ人は、長崎に居留する他国の人々のように行動を制限されないこと。

  • 第六条〔相談義務〕
  • 必用の品物そのほか相叶うべきことは、双方談判の上取極め候事。
  • 《必要能品物其他可相叶事者双方談判之上取極候事》・・・他に物品のやりとりや取り決めなど必要とされる事態が発生した場合は日米間で協議すること。

  • 第七条〔合衆国船に対する必要品の調達許可、支払手段、日本人の代物弁済拒否権〕
  • 合衆国の船、右両港に渡来の時、金銀銭ならびに品物をもって入用の品相調べ候を差し免じ候。尤(もっとも)、日本政府の規定に相従い申すべく、且、合衆国の船より差出し候品物を日本人好まずして差し返し候時は、受取り申すべく候事。
  • 《合衆国能船右両港尓渡来之時金銀銭并品物を以て入用之品相調候を差免し候 尤日本政府能規定尓相従可申且合衆国能船与り差出候品物を日本人不好して差返候時者受取可申事》・・・下田、函館においては、金貨、銀貨での購買や物々交換をすることができること。

  • 第八条〔通商の禁止〕
  • 薪水、食料、石炭、ならびに欠乏の品を求むる時には、その地の役人にて取扱い、すべて私(わたくし)に取引すべからざる事。
  • 《薪水食料石炭并欠乏能品求時ニ者其地之役人尓て取扱春遍私ニ取引春遍可らさる事》・・・物品を調達する際は日本の役人が世話をすること。

  • 第九条〔片務的最恵国待遇〕
  • 日本政府、外国人へ、当節アメリカ人へ差し免じざりそうろう廉(かど)相免じそうろう節(せつ)は、アメリカ人へも同様差し免じ申すべく、右につき談判猶予致さざり候事。
  • 日本政府外国人江當節亜墨利加人江不差免廉相免し候節亜墨利加人江も同様差免可申右尓付談判猶豫不致候事》
  • ・・・今回の和親条約で日本政府が許さなかった内容(貿易など)を、今後別の国に許可した場合は、アメリカ人へも同様に許可する、ということが取り決められた。これは、アメリカよりも有利な条約を日本と結んだ場合、その内容がアメリカにも適用されることを表しており、アメリカへの「最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)」という。

  • 第十条〔下田・函館両港以外への来航禁止〕
  • 合衆国の船、もし難風に逢わざる時は、下田・箱館両港のほか、猥(みだ)りに渡来致さざる事。
  • 《合衆国能船若強風尓遭候之時下田箱館港能外猥尓渡来不致候事》・・・悪天候など特別な場合を除き、アメリカは下田、函館以外へ来航してはならないこと。

  • 第十一条〔合衆国官吏の下田駐在許可〕
  • 両国政府において、無拠儀これありそうろう模様により、合衆国官吏の者下田に差し置きそうろう儀もこれあるべし。尤(もっとも)、約定調印より18箇月後にこれなくそうらいては、その儀に及ばざり候事。
  • 《両国政府尓於て無処儀有之候模様ニ与り合衆国官吏も能下田ニ差置候儀も可有 之尤約定調印与り十八ケ月後ニ無之候而者不及其儀候事》・・・両国のどちらかが必要とした場合、締結日より18ヶ月以降たてばアメリカ政府は下田に領事を置くことができること。

  • 第十二条〔条約遵守義務〕
  • 今般の約条相定め候上(うえ)は、両国の者堅く相守り申すべし。尤(もっと)も合衆国主に於て長公会大臣と評議一定の後、書を日本大君に致し、このこと今より後18箇月を過ぎ、君主許容の約条取り替わし候事。
  • 《今般能約條相定候上ハ両国之者堅ク相守可申 尤合衆国主ニ於て長公会大臣と評議一定之後書を日本大君ニ致し此事今与り後十八ケ月を過君上許容之約條取替し候事》・・・両国はこの条約を守る義務があること。両国は18ヶ月以内にこの条約を批准すること。

  • 右の条、日本・アメリカ両国の全権調印せしむるものなり。
  • 《右之條日本亜墨利加両国能全権調印せしむる者也》
  • 嘉永七年三月三日
           林  大学頭  花押
           井戸 對馬守  花押
           伊澤 美作守  花押
           鵜殿民部少輔  花押

  • 「日米和親条約」第二条にいう「船中欠乏品」を具体的にいえば、条約にも明記される薪・水・食料・石炭であった。また食料については、米、小麦粉、大小豆類、甘藷、ねぎ類、酒、醤油、砂糖、鮮魚類、海老蟹類、鶏、卵、牛馬・猪・鹿の肉類等を供給した。供給すべき品物の値段は日本の役人から交付し、その代価は金貨または銀貨をもって支払うこと。
  • 第九条にいう「片務的最恵国待遇」の最恵国待遇というのは、他の国と条約を結ぶ際にアメリカより有利な内容が含まれていたら、その内容を自動的にアメリカとの条約にも適用すること。つまり、他の国とアメリカより良い条件で条約は結ばないということである。さらに、この最恵国待遇は日米相互ではなく、あくまでアメリカが優遇される片務的最恵国待遇であった。
    例をあげると、日本は日米和親条約締結のあと、これと同様の条約をイギリスとも結んだ。ついでロシアと結んだ日露和親条約では、ロシアに対して下田、箱館に加え、長崎を開くことも約された。これは対米、対英の条約より有利であったから、最恵国待遇条項により米・英に対しても下田、箱館、長崎の3港が開かれることとなった。

6.黒船で密航を企てた吉田松陰

吉田松陰、密航事件(下田踏海事件)

1854年、日米和親条約を締結したペリー提督は下田に回航し、同地組頭黒川嘉兵衛と条約をどのように実施していくか具体的な事項の交渉を行っていた。そのような中で、艦隊が下田沖に錨泊中の嘉永7年3月27日(1854年4月25日)の夜、吉田松陰と松陰の一番弟子の金子重之助(重輔)の渡米未遂事件「下田踏海(とうかい)事件」が発生した。
この前年の嘉永6年6月3日、マシュー・ペリー率いる旗艦サスケハナ以下4隻のアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が浦賀沖にあらわれた。ペリーはアメリカ大統領フィルモアの開国を迫る親書を幕府に渡す。しかし当時将軍徳川家慶は病床に伏しており、幕府は将軍の病を理由に結論を出すまで1年間の猶予が欲しいと訴える。ペリー艦隊は翌年また来ると約束して引き上げていった。
浦賀に駆け付け黒船を見た吉田松陰は、先に到着していた師の佐久間象山(松代藩士)から日本にも黒船の必要性や造船・操船技術を外国から学び日本の国力を上げる必要性を聞かされた。また一説にこの時、象山は松陰に暗に外国行きを勧めたともいう。象山の言葉に感銘を受けた松陰は、象山のもとでオランダ語と砲術を学び、さらに藩主毛利敬親に軍制を西洋式に改める意見書を提出した。
ペリーが浦賀を去ってから1か月後の7月18日、ロシアのプチャーチン艦隊が長崎を訪れるという話を聞き、吉田松陰は弟子の金子重之助(重輔)と共に密航計画を立てて長崎に駆け付けた。この時、佐久間象山は激励のために「吉田義卿を送る」の詩を松陰に渡した。しかしプチャーチン艦隊はクリミア戦争に参戦するため、予定より早く長崎を引き上げていた。
翌、嘉永7年1月16日、再度ペリー艦隊が江戸湾に入港。3月3日、日米和親条約が結ばれ、下田と函館の開港、下田に領事館を置くこと、アメリカを最恵国待遇とすることなどが定められた。
翌4日、吉田松陰と金子重之助はペリー艦隊を追って横浜へ、のち下田へ移動。弁天島に身を隠して3月27日夜(3月28日午前2時頃)、密航を試みた。旗艦「ポーハタン号」に乗り込んだ2人は、船員に渡航を願い出たが、拒否される。




◇松陰の手紙
長州藩の吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。艦隊が下田沖に錨泊中の3月25日夜、稲生沢川口より伝馬船を漕ぎ出して、米艦への漕ぎつけを図るが、悪天候と高波のため失敗する。
3月26日、吉田松陰から下田の郊外で艦隊乗組員に「投夷書」(渡航嘆願書)が渡される。松陰の渡した手紙は艦隊のW. ウィリアムズ通訳により翻訳されペリー提督に提出された。
投夷書の内容は「貴艦が入航され見ているうちに海外への憧れが断ちがたく、貴国の大臣、将官は仁愛の心の持ち主であることを知った。国禁を犯すことは百も承知の上だが、そのあたりは情熱に免じ貴艦に乗り込ませていただきたい。伏して馳うので決して拒絶されないことを望む。」とあった。
◇決行
艦隊乗組員に「投夷書」が渡され翌日、3月27日の夜、吉田松陰は、門弟金子重輔と共に夜の海岸で小舟をみつけ黒船に向かって漕ぎ出した。ミシシッピー号の当直士官は、舷側についたボートからの声に驚かされた。舷門に行ってみるとすでに船側の梯子を登った二人の日本人(吉田松陰と金子重輔)を発見した。
ミシシッピー号の艦長は、旗艦ポーハタン号を指差し行くようにと指示した。彼らは小舟に引き返して直ちに旗艦へと漕ぎ去った。旗艦ポーハタン号に、小舟で移動して何とかたどり着き、梯子を登るか登らない内に、彼らの小舟は流された。舟には刀と佐久間象山の檄文(げきぶん)の「吉田義卿を送る」の詩が残されていた。このために象山も事件に連座する結果をまねいた。

◇提督の拒絶と理由
士官は彼らが現れたことを提督に報告した。提督は両人と相談させるため、そして訪問の目的を知るために通訳を派遣した。彼らは漢文を流暢に書き、その態度も丁重で極めて洗練されていた。彼らはウィリアムズ通訳と漢文で筆談し、熱心にアメリカへ連れて行ってほしいと懇願した。
そのため、この二人が海岸で士官に手紙を渡した者であると分かったが、艦隊は暫く下田に滞在している予定なので、幕府の許可を求める十分な機会があるとペリー提督に断られる。
二人は提督の回答を聞いて大いに困惑し、もしこのまま陸に戻れば斬首されるとも訴えたが、ペリー提督からはきっぱりと拒絶された。 結局、ポーハタン号から一艘のボートが下ろされ、二人は艦を降り、水兵に海岸まで送り返された。

ペリー提督は外交官でもあった。今二人を受け入れることで、日本と締結したばかりの条約が破棄されるような事態になることは何としても避けたかった。アメリカ側は、この拒絶についてさらに詳しい内容のものを、その正式記録にのせている。
「この処置につき、もし提督が自分だけの感情で事をはこんでいいという立場なら、この気の毒な二人の日本人を、よろこんで艦内にかくまったであろう。しかし、そうもできなかった。
米国はやっと通商条約を日本と結ぶことができた。日本側の条件は、日本の法律を守ってくれということであった。もしここで米国が、この日本人民の逃亡に共謀するとすれば、日本の国法をやぶることになる。日本の国法では、人民の外国ゆきを死刑をもって禁じている。米国人にとってなんの罪もないことだが、しかしこの二人の祖国の法律では重大な犯罪なのである。
さらに彼ら二人は、疑えばきりのないことだが、ひょっとすると間諜 −米国側が日本の法律を守るかどうかということを、日本が試すための道具− として使われているかも知れない。
この事件は、日本人というものが如何に強い知識欲を持っているかということの証拠として非常に興味がある。かれらは知識をひろくしたいというただそれだけのために、国法を犯し、死の危険を辞さなかった。日本人はたしかに物を知りたがる市民である。」

◇捕らわれた二人
二人の荷物を載せた小舟が流され、身元が判明すると観念した吉田松陰は、海外渡航を禁止する「国禁」を犯したため下田奉行所に自ら出頭する。
アメリカ密航に失敗し、罪人となった松陰は、みずからの心境を「かくすればかくなるものとしりながら やむにやまれぬ大和魂」と詠んでいる。下田奉行組頭の黒川嘉兵衛と中台信太郎が、吉田松陰らを尋問した時の文書によると、吉田松陰は密航の目的について「異国之情態」をよく知ることが「公事国家之急務」と考え、「五大洲研究」をする必要があると述べていた。

そして、下田から江戸に護送され、4月15日(1854年5月6日)に江戸伝馬町牢屋敷に入牢された。この時、松陰らが黒船に近づく為の小船に残した荷物から、佐久間象山の檄文(げきぶん)が発見され、象山も4月6日に同じく伝馬町牢屋敷に入牢となった。
同年九月、老中・阿部正弘の計らいで死罪をまぬがれ、長州萩の野山獄に幽閉となった。松陰は萩で2年6ヶ月幽閉、金子は翌年1月岩倉獄にて獄死する。その後、安政四年(1857)、叔父が主宰していた「松下村塾」を引き継いだ。


◇「吉田義卿を送る」の詩 佐久間象山
送吉田義卿
之子有霊骨。久厭蹩躄群。奮衣萬里道。心事未語人。雖則未語人。忖度或有因。
送行出郭門。孤鶴横秋旻。還海何茫々。五州自為隣。周流究形勢。一見超百聞。
智者貴投機。歸來須及辰。不立非常功。身後誰能賓。
この子霊骨(非凡な性)有り、久しく蹩躄(べつへき,才能のない者)の群を厭う。
衣を奮(ふる)う万里の道、心未だ人に告げず。
則ち未だ人に告げずと雖(いへど)も、忖度するに或は因(いん)有り。
行くを送って郭門(かくもん)を出ずれば、孤鶴(こかく)秋旻(しゅうびん)に横たわる。
還海(かんかい)何ぞ茫々(ぼうぼう)たる 五州(世界)自ら隣を為す。
周流して形勢を究めよ、一見は百聞に超ゆ。
智者は機に投ずるを貴び、歸來須(すべから)く辰(丙辰三年)に及ぶべし。
非常の功を立てずんば、身後誰か能(よ)く賓(ひん)せん。
象山平大星(佐久間象山)


◇1858年、井伊直弼は幕府を批判する者を厳しく処罰(安政の大獄)、長州藩士の吉田松陰らが処刑された。吉田松蔭が主宰した松下村塾の塾生には、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、幕末~明治に活躍した人物が多くいた。
1853年 アメリカのペリーが浦賀に来航 / 1854年 日米和親条約を締結
1858年 井伊直弼が大老に就任 / 日米修好通商条約を締結 / 安政の大獄(~1859年) / 1859年 吉田松陰らが処刑
1860年 桜田門外の変 / 1867年 徳川慶喜が15代将軍に、政権を返上(大政奉還)


7.日米修好通商条約と鎖国の終焉

■日米修好通商条約
日米修好通商条約(亜墨利加国条約并税則)は、貿易章程とともに安政5(1858)年6月19日に締結され、その後、オランダ(7月10日,阿蘭陀国条約并税則)、ロシア(7月11日,魯西亜国条約并税則)、イギリス(7月18日,英吉利国条約并税則)、フランス(9月3日,仏蘭西国条約并税則)とも同様の条約が結ばれた。これらは安政の五ヶ国条約と通称される。

日米和親条約によって限定的な開国をした幕府は、1858年7月29日(安政5年6月19日)、日本側全権の井上清直(いのうえきよなお)、岩瀬忠震(いわせただなり)とアメリカ総領事ハリスとの間で、 「日米修好通商条約」全14条に調印した。
本条約で、アメリカ公使の江戸駐在、江戸・大坂の開市、神奈川などの開港、自由貿易、片務的領事裁判の承認、日本の関税を条約で定めること( 「関税自主権の喪失」 )、外国人の遊歩などが規定された。


日米修好通商条約(日本國米利堅合衆國修好通商條約)
①箱館{函館}・新潟・神奈川・兵庫・長崎の開港
第三條
下田箱館の港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし。
 神奈川 午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
 長崎 午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
 新潟 午三月より凡二十箇月の後より 西洋紀元千八百六十年一月一日
 兵庫 午三月より凡五十六箇月後より 西洋紀元千八百六十三年一月一日
  若し新潟港を開き難き事あらは其代りとして同所前後に於て一港を別に撰ふへし。
神奈川港を開く後六箇月にして下田港は鎖すへし。此箇條の内に載たる各地は亞米利加人に居留を許すへし。居留の者は一箇の地を價を出して借り又其所に建物あれは之を買ふ事妨なく且住宅倉庫を建る事をも許すへしと雖之を建るに托して要害の場所を取建る事は決して成ささるへし。此掟を堅くせん為に其建物を新築改造修補なと爲る事あらん時には日本役人是を見分する事當然たるへし。
亞米利加人建物の為に借り得る一箇の場所並に港々の定則は各港の役人と亞米利加コンシュルと議定すへし。若し議定し難き時は其事件を日本政府と亞米利加ヂプロマチーキ、アゲントに示して処置せしむへし。
②江戸・大坂の「開市」
第三條
其居留場の圍に門墻(もんしょう)を設けす出入自在にすヘし。
 江戸 午三月より凡四十四箇月の後より     千八百六十二年一月一日
 大阪 同断凡五十六箇月の後より     千八百六十三年一月一日
右二箇所は亞米利加人只商売を為す間にのみ逗留する事を得へし此両所の町に於て亞米利加人建家を價を以て借るへき相當なる一區の場所並に散步すへき規程は追て日本役人と亞米利加のヂプロマチーキ、アゲントと談判すへし。
③開港場周辺の遊歩規定
第七條
日本開港の場所に於て亞米利加人遊步の規程左の如し。
 神奈川 六郷川筋を限として其他は各方へ凡十里。
 箱館 各方へ凡十里。 
 兵庫 京都を距る事十里の地へは亞米利加人立入さる筈に付き其方角を除き各方へ十里且兵庫に来る船々の乗組人は猪名川より海湾迄の川筋を越ゆへからす。
都て里數は各港の奉行所又は御用所より陸路の程度なり。(一里は亞米利加の四千二百七十五ヤルド日本の凡三十三町四十八間一尺二寸五分に當る)
 長崎 其圍にある御料所を限りとす。
 新潟は治定の上境界を定むへし。
亞米利加人重立たる悪事ありて裁断を請又は不身持にて再ひ裁許に処せられし者は居留の場所より一里外に不可出其者等は日本奉行所より國地退去の儀を其地在留の亞米利加コンシュルに逹すへし。
其者共諸引合等奉行所並にコンシュル糺済の上退去の期限猶豫の儀はコンシュルより申立に依て相協ふへし。尤其期限は決して一箇年を越ゆへからす。
④片務的領事裁判権(治外法権)
第六條
日本人に對し法を犯せる亞米利加人は亞米利加コンシュール裁断所(裁判所)にて吟味の上亞米利加の法度を以て罰すへし亞米利加人へ對し法を犯したる日本人は日本役人糺の上日本の法度を以て罰すへし日本奉行所亞米利加コンシュル裁断所は双方商人逋債等の事をも公けに取扱ふへし。
都て條約中の規定並に別冊に記せる所の法則を犯すに於てはコンシュルヘ申逹し取上品並に過料は日本役人へ渡すへし両國の役人は双方商民取引の事に付て差構ふ事なし。
⑤協定関税とアヘン禁輸
第四條
總て國地に入出の品々別冊の通日本役所へ運上を納むへし。
日本の運上所にて荷主申立ての價を奸ありと察する時は運上役より相當の價を付け其荷物を買入る事を談すへし。荷主若し之を否む時は運上所より付たる價に従て運上を納むへし。承允する時は其價を以て直に買上へし。
合衆國海軍用意の品神奈川長崎箱館の内に陸揚し庫内に蔵めて亞米利加番人守護するものは運上の沙汰に及はす。若し其品を賣拂ふ時は買入る人より規定の運上を日本役所に納むへし。
阿片の輸入厳禁たり若し亞米利加商船三斤以上を持渡らは其過量の品は日本役人之を取上へし。輸入の荷物定例の運上納濟の上は日本人より國中に送すとも別に運上を取立る事なし。亞米利加人輸入する荷物は此條約に定めたるより余分の運上を納る事なく又日本船及ひ他國の商船にて外國より入せる同し荷物の運上高と同樣たるへし。
⑥通貨は同種同量の交換
第五條
外國の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すへし、(金は金銀は銀と量目を以て比較するを云)双方の國人互に物價を償ふに日本と外國との貨幣を用ゆる妨なし。
日本人外國の貨幣に慣されは開港の後凡一箇年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亞米利加人願次第引換渡すへし。向後鋳替の為め分を出すに及はす日本諸貨幣は(銅銭を除く)出する事を得並に外國の金銀は貨幣に鋳るも鋳さるも出すヘし。
⑦米国から軍艦購入、学者・軍人の雇用は随意
第十條
日本政府合衆國より軍艦蒸滊船商船鯨漁船大砲軍用器並に兵器の類其他要需の諸物を買入れ又は製作を誂へ或は其國の学者海陸軍法の士諸科の職人並に船夫を雇ふ事意の儘たるへし。
都て日本政府注文の諸物品は合衆國より送し雇入るゝ亞米利加人は差支なく本國より差送るへし。合衆國親交の國と日本國萬一戦争ある間は軍中制禁の品々合衆國より出せす且武事を扱ふ人々は差送らさるへし。

■アメリカ駐日総領事館と"通商条約"批准
徳川幕府が「日米和親条約」を結んでから2年後の安政3年7月21日(1856年8月21日)、和親条約の11条における米正文に基づいて、アメリカ大統領ピアース(Franklin Pierce)に初代駐日総領事に任命されたタウンゼント・ハリス(Tounsend Harris)を乗せたアメリカ軍艦サン・ジャシント(San Jacinto )号が下田に入港した。
しかし、幕府は日米和親条約の日本側の解釈でハリスとの交渉に難航するが、幕府の老中であった堀田正睦(まさよし)は、下田奉行にハリスの駐在を認める指示を出した。
安政3年8月5日、日本最初のアメリカ駐日総領事館が下田柿崎村の玉泉寺に置かれ、ハリスは幕府と通商条約を結ぶべく交渉を始めた。ハリスは江戸での交渉を求め、これを引き延ばそうとする幕府を相手に孤軍奮闘した。そして来日から一年以上もたった安政四年(1857年)十月、ハリスはようやく江戸に入府し、江戸城への謁見をとげた。
  • 日米和親条約 第十一条 
  • 両国政府に於て無據(よんどころなき)儀有之候時は模樣により合衆国官吏之者下田に差置(さしおき)候儀も可有之(これあるべく)尤約定調印より十八ケ月後に無之候ては不及其儀候(そのぎにおよばず)事
  • Treaty between the United States of America and the Empire of Japan. Article Ⅺ
  • There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the signing of this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.
  • この条項では、領事官派遣に関して、日本側とアメリカ側で解釈の相違が見られる。条約締結18ヶ月後、両国政府が必要と認めた(よんどころなき儀)場合、下田に合衆国官吏を置くとする日本側に対し、アメリカ側は、日米両国政府のいずれか一方が必要と認めた場合、下田居住の領事または代理官を任命することができるとなっている。
日米和親条約の第11条により、アメリカの初代総領事として、"通商条約脇結"のための全権委任を与えられたタウンゼント・ハリスは、通商に後ろ向きな幕府側に国際情勢の変化や貿易による日本の利益を説いて15回も交渉を続けた。

その結果、安政5年6月19日(1858年7月29日)に「日米修好通商条約」が江戸湾小柴沖に浮かぶアメリカ軍艦ポーハタン号の艦上で、幕府側全権の下田奉行の井上清直(いのうえきよなお)、幕府から派遣された海防掛目付・岩瀬忠震とアメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの問で結ばれた。(この時の幕府の最高権力者は大老, 井伊直弼である。この後、わが国の情勢は安政の大獄や桜田門外の変へと向かう)

この条約は日本に関税自主権がなく、アメリカの領事裁判権を認めるという不平等条約であった。(関税自主権の放棄:日本は輸入品に関税をかける権利を持たない, 領事裁判権:在留外国人の截判を本国の領事が行う権利)

日米修好通商条約の締結により「日米和親条約」での下田と函館の開港に加えて、新たに神奈川(横浜),長崎,新潟,兵庫(神戸)の4港も開かれることとなった。そして、徳川幕府はアメリカに次いで、7月にイギリス、ロシア、オランダ、9月にフランスとも同様な条約(いわゆる「安政の五ヵ国条約」)を結び、欧米諸国と自由貿易を開始した。日米修好通商条約は大老の井伊直弼が朝廷(当時の天皇は孝明天皇)の勅許を得ずに勝手に調印した違勅(いちょく)調印であり、安政の五ヵ国条約も無勅許調印だった。

ここに、徳川幕府は二百数十年にわたる鎖国に終止符を打ち、開国することとなった。その後、日本国内は開国による影響を受けて尊王攘夷の動きが強まり、倒幕運動が展開され、1867年に徳川幕府は朝廷に政権を返す「大政奉還」、1868年に明治維新を迎えた。


8.日米修好通商条約と貨幣交換比率

嘉永七年(1854)、日米和親条約が締結されると同条約の条項の一つ下田・函館二港開港と同地での貨幣による物資購入の許可を批准するため、日米間の貨幣交換比率を設定する必要性が生じた。
この比率を取り決めた条約が安政4年5月26日(1857年6月17日)の日米約定「下田協約」である。日米間の貨幣交換比率を巡って両者で激しい駆け引きが展開された。

○下田協約・第三条の貨幣条項
「第三条 亜米利加人持来る所の貨幣を計算するには、日本金壱分或は銀壱分を日本分銅の正きを以て金は金、銀は銀と秤し、亜米利加貨幣の量目を定め、然して後吹替入費の為六分丈の余分を日本人に渡すへし」。(アメリカと日本の貨幣を同種同重量[金は金、銀は銀]で交換し、日本は6%の改鋳費を徴収すること)

日本側は米側貨幣を分析して双替市場の公定価格に基づき公定銀目では双方同程度のものであるとして、米ドル銀貨一枚を一分銀一枚とすることを主張。これに対して米側は双方の銀貨を量目で判断し一分銀は米ドル銀貨の三分の一程度の量目でしかないとして、米ドル銀貨一枚に対し一分銀三枚で譲らない。
日本側の意見の方に理があったが、元貿易商人であった米側代表タウンゼント・ハリスでの硬軟おりまぜた駆け引きに押し切られてしまう。結局、安政5年6月15日(1858年7月25日)「日米修好通商条約」締結にいたった。貨幣条項に勝利したハリスは日記に「従来百ドル支払ったところを三十四ドル五十セントで足ることになった」と書いている。

○通商条約・第五条の貨幣条項
「外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て通用すへし(金は金、銀は銀と量目を以て比較するを云)、双方の国人互に物価を償ふに日本と外国との貨幣を用ゆる妨なし日本人外国の貨幣に慣されは、開港の後凡一箇年の間、各港の役所より日本の貨幣を以て亜米利加人願ひ次第引換渡すへし、向後鋳替の為め分割を出すに及はす、日本諸貨幣は(銅銭を除く)輸出する事を得、竝に外国の金銀は貨幣に鋳るも鋳さるも輸出すへし」。
つまり、貨幣条項である第五条は以下の四点からなっている。
(1)彼我貨幣の同種同量の通用と外国貨幣の国内無制限流通
(2)支払における彼我貨幣の自由使用
(3)改鋳費なしの即時的同種同量交換
(4)金銀(鋳貨・地金)の自由輸出
「下田協約」第三条における幕府が当初固執した六%という改鋳費が「通商条約」第五条で削除されたのは、すなわち貨幣交換は原則的に認めないという点を優先させる幕府の意図に関係した。貨幣交換を認めない以上、改鋳費を求めることは不要というのが、幕府の主張にあった。
しかし現実の「通商条約」第五条では、貨幣の直接交換を拒否するという幕府側の言い分を原則的に認めるとして改鋳費はナシ、ただし相互に不慣れな開港後一年間は内外貨幣の直接交換を例外的に認めるとした。さらには(国際慣習上当然ともいえる)貨幣輸出禁止規定までをも放棄した、誠に不合理・不平等な条項に終わった。

ここにおいて、内外貨幣の交換レートは公式には洋銀100枚=一分銀311枚、一般通用には「一ドル三分替え」が定められ、かつ外国人は金銀貨ともに交換、輸出する自由を得た。
同種同量の外国通貨は、同種の日本通貨と同一の価値を持つ(金は金、銀は銀)という規定である。つまり、外国金貨の日本国内での価値は、その金貨に含まれている金の量の等しい日本の金貨と同じ価値があり、銀貨についても同様(品位は問わない)ということになる。
この規定が我が国幕末の経済を破壊し、財政を揺さぶることになる。
また、米国船が日本の通貨を所持していないときは、幕府から日本通貨の供給が受けられ、それを商品で決済できるということが定まれていた。そして、日本側が、米ドルを溶かして国内通貨に改鋳することは外国通貨の両替商のない状況下で、幕府が両替義務を負担することとなった。
したがって、東アジア貿易の価値基準であり交換手段であった「洋銀」と定位貨幣である「一分銀」とを裸で重量比較を行い、「一ドル=三分替え」が強制された結果、これがドル貨の貨幣価値(すなわち購買力)を一挙に三倍に跳ね上げ、日本の対外物価を一挙に三分の一に切り下げたことである。欧米資本の対日通商貿易の貨幣的基盤はこうして完了した。

そして、鎖国のうちで形成された本位貨の一分判金と定位銀貨の一分銀(あるいは小判一枚と一分銀四枚)とから、人工的に計算された国内の金銀比価1対4.16が、裸で欧米の金銀比価1対15に対峙させられた。

続いて年内にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同内容が締結される。
外交交渉の敗北の結果、金・銀の交換比率の違いによる日本国内から大量の金流出が起こり国内経済は痛撃を負うことになった。外国との貿易での取り引きは、小判の金貨や、銀貨などが使われていた。当時、金と銀の交換比率は、外国で1対15、日本では1対5と著しい差があった。例えば、外国で金1つを銀15と交換する。この銀15を日本に持ち込むと金3つと交換できる。つまり、日本に銀を持ち込めば3倍の金が手に入った。
こうして、海外から多くの銀貨を持ち込み、日本で金貨に交換した外国商人らが海外に大量の金を持ち出した。海外流出した金の量は最低一万両から最大二千万両まで諸説幅があるが、現在では概ね十万両前後であったと推定(クリック、関連ページ)されている。


三上隆三「円の誕生」東洋経済新報社,1975年より次を引用する。
「1853(嘉永6)年、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が来航し、翌年締結した日米和親条約によってわが国が開港を余儀なくされたとき、最大の難問はこの東アジアと国内の基軸通貨の違いから生じる問題であった。

異国間で交易をあらたに開始する際、まずもって決めなければならないことは、相互の貨幣をどのような交換比率で使用するかである。この際、諸外国はすでにメキシコ・ドル(わが国から見れば「洋銀」)という国際通貨をともに使用していたから、問題はわが国のどの通貨を基準に充てるか、であった。

幕府はまず、ペリーからはじめて手渡された洋銀をただちに銀座に分析させ、その地金としての価値が通用銀(天保丁銀)の16匁相当であるとした。これは公定金銀相場(金1両=銀60匁)から、ほぼ金一分に当たるので、当時の主流通「金貨」である天保一分銀1枚と交換することとなった。

ところが、2年後、日本に赴任した初代駐日総領事ハリスと開港にむけての通商交渉に入ると、事態は一変した。洋銀をあくまで銀塊としての価値で評価しようとする日本に対し、ハリスはおなじ銀貨同士、洋銀と一分銀を同重量で交換することを強く要求し、認めさせた。同種同量の原則である。
これによれば、洋銀1枚はおおよそ一分銀3枚に相当した。ちなみに、この原則によれば双方の品位は無関係ではあったが、純銀量は洋銀1枚が6.5匁に対し、一分銀3枚は6.8匁とわずかに日本側に不利なレートとなった。」


■幕末・金銀比価の違いによる大量の金貨流出/進研ゼミより以下を記する。
【質問内容】
 「金と銀の交換比率が、日本が1:5で外国が1:15だと金貨が大量に流出する理由」と「外国人が銀貨を日本に持ち込んで、日本の金貨を安く手に入れた仕組み」について。

【質問への回答】
 「外国では金と銀の交換比率は金1:銀15。それに比べて日本は金1:銀5と銀高でした。簡単に言うと外国では金1gと銀を交換するためには銀15gが必要でしたが、日本では、同じ金1gを5gの銀と交換することができ、外国で交換するよりも銀の量が少なくて済みました。
つまり、日本に銀をもっていくと他の国の3倍の金が手に入る計算になったのです。(言い換えると日本で銀5gで手に入れて持ち帰った金1gが,外国では金1:銀15の交換比率のもとで、銀15gになったのです。)
そのため、1:5の交換比率のもと、少ない量の銀貨で日本の金貨である小判と交換して安く日本の金貨を手に入れることができたので、外国人は多量の銀貨を日本に持ち込んで日本の金貨と交換して巨利を得ることができたのです。こうして、日本の金貨が大量に海外に流出していきました。」

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