日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 黒船来航と開国(3)


ロシア船来航と国境画定

1.日米開国と日露和親条約

■日米和親条約の締結が「開国」を進める
嘉永六年(1853),ペ リーが浦賀に来航、長崎にはロシアのプチャーチンが来航した。嘉永七年(1854),「日米和親条約」によって、3代将軍・徳川家光以来、200年以上続いてきた鎖国時代が終わりを告げた。この年、幕府はペリーの動向を窺っていたイギリス・ロシア・オランダとも同様の和親条約を調印し、鎖国の扉はさらに大きく開かれた。(1854年11月に安政と改元)




■日露和親条約 -概要-
1855年2月7日(ロシア暦1月26日、安政1年12月21日)下田で締結された日露の国交を開いた条約。日露修好条約、安政条約などともいう。ロシア側全権の海軍中将プチャーチンは1852年10月出発以来、帰国までに3年2ヵ月を費やして使命を達成した。クリミア戦争の開始や旗艦ディアナ号の沈没などの苦難があったが、平和的な外交交渉に徹して、ペリーの用いた軍事力の誇示も一切行わなかった。日本側全権の筒井肥前守政憲と川路左衛門尉聖謨(川路聖謨)も、幕府内の頑迷論をかわしつつ情理をつくして交渉した。
日米和親条約とほぼ同じ内容で、片務的最恵国待遇が規定されているが、領事裁判権は相互に承認した。エトロフ島とウルップ島の間を国境とし、樺太では国境を分けず従来どおりとした。(世界大百科事典 第2版「日露和親条約」の解説、旺文社世界史事典 三訂版「日露和親条約」より解説の一部分)

■日露和親条約(日露通好条約)
日露和親条約は、伊豆国下田長楽寺(静岡県下田市)において、江戸幕府代表の筒井政憲、川路聖謨とロシア帝国使節のプチャーチンとの間で締結された条約で、「下田条約」、「日露通好条約」とも呼ばれ、前年の「日米和親条約」に準じて結ばれたものであった。
1854年(嘉永7年・安政元年)は「開国の年」でもあった。嘉永7年3月3日(1854年3月31日)にはペリーの再来航があって「日米和親条約」が神奈川で結ばれ、引き続き、嘉永7年8月23日にはイギリスと「日英和親条約」を締結する。そして、ペリー艦隊が嘉永7年6月に帰国して4カ月後の10月15日、ロシア使節の提督プチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って、下田に来航した。ディアナ号は3本マスト、2000トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であった。

日露和親条約交渉は、ロシア側との事前交渉がもたれた後に、第1回日露交渉が嘉永7年11月3日福泉寺(ふくせんじ)にて開かれる。第2回目の日露交渉を約束して別れた次の日、11月4目午前10時頃、安政の大地震(安政東海地震)とともに大津波が下田湾を襲い、津波で下田の街は大きな被害をうけた。津波後3日目の嘉永7年11月7日から、プチャーチンは、副官ポシェートに長楽寺で事務折衝を始めさせる。13,14両日玉泉寺で全権交渉を行い、それから条約草案の事務折衝を続けた。
14日からは高台に位置する長楽寺で全権との交渉が続き、安政元年12月21日(1855年2月7日)に、伊豆の下田長楽寺において、日本(幕府全権・筒井政憲、川路聖謨(かわじとしあきら)、下田奉行・伊沢政義)、ペリー来航の通詞・森山栄之助らと、ロシア帝国・使節プチャーチンの間で「日露和親条約」(日露通好条約)九箇条、付録四則が締結されて国交が開かれた。 その後、幕末の日本とロシアとの間には、1857年10月(安政4年9月)に追加条約が、1858年8月(安政5年7月)には日露修好通商条約がそれぞれ調印された。
《年度の途中で改元される。11月27日(1855年1月15日)に、「内裏炎上、地震、黒船来航の災異」を理由として、安政に改元となった》

日露和親条約(日露通好条約)は日米和親条約に準じて、下田・箱館・長崎を開港した。この長崎は、最恵国待遇によりアメリカ・イギリスにも開かれた。日露間の最初の国境の合意も行われ、千島列島の両国国境を択捉島と得撫(ウルップ)島の間と定め、樺太については国境を定めずロシア人・日本人どちらも住める雑居地とした。

2.ロシア,日本開国を迫る

■ロシアの日本への接近
「18世紀に入り北太平洋が西洋列強の領土分割競争時代に入ると、日露関係は今までとは異なった様相を呈するようになった。すなわち、新しい領土発見の段階から領土の探検、開拓の段階に入ったのである。(中略)18世紀末、イギリス(1791年)、アメリカ(1791年)の交易船が相次いで日本に来航したことからも分かるように、環太平洋に進出しつつあった西洋列強は日本を射程に入れ始めた。植民地維持のための薪水補給地、あるいは市場開拓が西洋列強の目的だった。ロシアも1739年の元文の黒船以来39年ぶりで、1778年、根室に来航し松前藩に交易を申し入れ、1779年には回答を求めて厚岸に来航し、拒否されている。 松前藩は軍備増強や国替えを強要されることを恐れ、ロシア来航の事実を幕府に報告しなかった。シベリアで毛皮をとり尽くしたロシアは、以前から海獣ラッコの毛皮を求めてクリル諸島を南下し、1766年-1769年にはИ. チョルヌイが、ウルップ島、択捉島へ至り、アイヌ人にヤサーク(毛皮税)を課していた」・・・生田美智子著『国後・箱館の日露交渉』より。

■ロシア帝国の対日使節は3回行われた
ロシア帝国ニコライ1世は、かねてから日本沿海への進出を図っており、アメリカがペリー艦隊を日本に派遣するとの情報に接し、ただちにプチャーチン提督を派遣(1853年,長崎に来航・1854年,伊豆国下田に来航)した。ロシアとしてはラクスマン(1792年,根室に来航)、レザノフ(1804年,長崎に来航)に続く三度目の派遣である。

■第一回遣日使節
ロシアは当時、東へと勢力を拡大し、日本の近海にもロシア船が頻繁に現れるようなった。1792(寛政4)年、ロシア使節「アダム・ラクスマン」は、エカテリナ号で日本人漂流者・大黒屋光太夫ら3人を連れて日本との通商を求め、蝦夷地(北海道)の根室に来航した。
漂流民送還をカードに日本を通商関係樹立交渉のテーブルにつかせようとしたが、表向きの来航趣旨は漂流民送還が主目的で、通商関係樹立は副次的だった。ラックスマンのエカテリナ号は日本側の要望で根室から箱館へ回航された。ラクスマンは、ロシアの女帝エカテリーナからの国書を届けるとともに、幕府にロシアとの通商を求めた。
老中松平定信は通商を拒否する。それは鎖国体制を脅かす、重大な出来事であった。幕府はこの時、通商を求めるなら外交の窓口である長崎に向かうことを指示し、ロシア側の国書の受け取りを拒否したものの、ロシア船の江戸湾乗り入れを恐れた幕府は、オランダ船と中国船にしか与えていなかった長崎の入港許可証「信牌」を交付した。ラクスマンは長崎には入港せず、長崎入港の許可証を持ったままロシアに帰国した。(信牌にはキリスト教の像、書物の持ち込みを禁止する旨と寛政5年6月27日の日付、石川将監 林大学の署名印があった)



■第二回遣日使節
第一回遣日使節から12年後の1804(文化元年9月)に新たな使節が訪れた。今度はロシア皇帝アレキサンドル1世のロシア使節「ニコライ・レザノフ」が来航し、ラクスマンの持ち帰った長崎の入港証とロシア皇帝の親書を持ち、日本との通商を求めて長崎に来航した。使節団は仙台漂流民を護送していたが、今回の来航目的は通商関係樹立が第一で、漂流民送還は第二課題であった。レザノフの渡来目的は、国書・献上物を江戸に奉呈し、日本との通商関係樹立することにあるとしていた。
レザノフの場合は交渉地が長崎であったので、日露交渉はオランダ語を通じておこなわれた。レザノフが長崎に来航した1804年9月6日、すでに松平定信は老中を辞任し、幕府は老中土井利厚を中心とした幕閣は通商は断固拒否する姿勢であった。レザノフは翌年3月まで滞在して交渉を求めたが、幕府は通商拒否の理由として「鎖国」の原則を宣言し、「海外無価の物を得て我国有用の貨を失う」とあげ、さらに「長崎奉行申渡」を渡し、1793年に手渡した「異国人に被諭御国法書諭書」で国書持参を禁止しておいたとし、親書を受理することなくロシア船に退去を命じた。

【ロシアは、信牌(一回限りの長崎寄港許可書)を携行しているので通商関係樹立交渉の成功を疑わなかった。幕府は以前に信牌を授与した理由をロシア残留漂流民を長崎に送還するためであったと説明し退帆を命じた。レザノフは国策会社露米会社の総支配人でもあり、日本との交易樹立により露米会社(極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、ロシア帝国の国策会社)が抱える物資補給と海獣ラッコの毛皮販路の開発問題の解決を目論んでいたという。】

フヴォストフ事件(文化露寇)
1805年、長崎を出帆したロシア使節レザノフは帰途、宗谷や樺太を観察し、少しの兵力で日本に開国を強要出来ると判断した。
そのため、帰国したレザノフは部下にロシア軍艦による蝦夷地襲撃を指示し、1806年10月に松前藩の樺太南部の松前藩会所の日本人居留地、久春古丹(クシュンコタン、アニワ湾の大泊)を襲撃し、番人を連行する。翌年1807年4月には択捉島を襲って、南部藩と津軽藩の警備隊200人ほどを敗走させ、さらには1807年5月、得撫島、樺太南部、礼文島、利尻島の日本人居留地を襲撃して幕府の船を焼く。これをフヴォストフ事件(文化露寇,ぶんかろこう)という。(フヴォストフ事件の際、得撫島は襲撃を免れている)
(フヴォストフ事件: このロシアの樺太と択捉島・利尻島への攻撃は、ロシア皇帝アレキサンドル1世に無断で行われたものであった)
この蝦夷地攻撃に対し幕府は態度を硬化させ、オランダ以外のヨーロッパ諸国とは通商しないという「祖法」をさらにおしすすめる。1807年12月、幕府はロシア船が来航した際は打ち払えという「魯西亜船打払令(ロシア船打払令)」を公布した。これは西洋一般を念頭にいれた攘夷令ではなく、ロシアに特化した対露強硬姿勢であった。
ロシアに対する強い脅威を感じた幕府は北方沿岸の警備を東北の大名たちに命じ(樺太の警備は会津藩・津軽藩、択捉島は南部藩・津軽藩に命じた)、樺太南部を含み蝦夷地全土を幕府の直轄地として北方の防備を固めた。 幕府は1807年に松前・蝦夷地の全蝦夷地を幕府の直轄地にするとともに、鎖国体制を維持するために国防強化に努めた。
江戸幕府は、国是としていた「鎖国」を守るためにロシア船は打払うべしと命じたが、「鎖国」とはキリスト教を宣教して国を割った後に日本を占領しようとしたスペイン・ポルトガルの意図を封じるためであった。そのため、キリスト教を禁教したうえで海外貿易を長崎の出島に限定したものであった。ロシアが日本に接近した目的は、交易と国境の画定であった。しかし、二度にわたり使節を送り込んだロシアを江戸幕府は拒絶した。
また、ロシアとの対外関係を契機として、幕府による「蝦夷地」の情報収集が始まった。幕府は最上徳内(もがみとくない)や近藤重蔵間宮林蔵を蝦夷地に派遣し、千島や樺太の調査・探検を行わせた。 間宮は1806年(文化3)、幕命により国後島、択捉島の測量を行うが、その際、択捉島の紗那(シャナ)でロシアのフヴォストフによる襲撃をうけ、紗那会所の指示により国後島に退却をしている。
間宮は1808年(文化5)に松田伝十郎とともに宗谷から樺太の白主(シラヌシ)に渡り、1809年に樺太が大陸と海峡を隔てた島であることを確認した (樺太と大陸を隔てる海は、シーボルトの大著『日本』に掲載され、間宮海峡Str.Mamia(seto)の名が世界に紹介された)。ロシアの探検家ゲンナージ・ネヴェリスコイがそれを追認するのが1849年のことである。

ゴローウニン事件
1811年(文化8)7月、ロシアの軍艦ディアナ号が海図を作成するため南千島に来航した。幕府は択捉島の北端に上陸し、その後、水と食糧を求めて国後島に上陸したロシア軍艦ディアナ号の艦長ヴァーシリー・ゴローウニンをはじめ8人捕えた。副艦長のピョートル・イヴァノヴィチ・リコ ルドは武力による救出を試みたが、勝ち目はないと判断し、いったんオホーツクに引き揚げた。
1812年(文化9),ロシアは交渉材料とするために、ディアナ号副艦長リコルドによって、国後島南方で、択捉島の産物を積んで箱館へ向かう北前船・観世丸を拿捕する。乗船していた廻船業者の高田屋嘉兵衛をはじめ5人を捕えるという事件が起きた。嘉兵衛を含む6名は、カムチャッカ・ペトロパブロフスクへ連行された。嘉兵衛は日本が砲撃するのもゴローウニンが捕らわれたのも、フヴォストフらの襲撃が原因であるということ、幕府へ謝罪をすればゴローウニンたちは釈放されるだろうと伝えた。嘉兵衛は積極的に日露の仲介役を買って出て松前奉行所と連絡をとった。1813年、ロシア側から公式の釈明書が松前奉行に提出され、高田屋嘉兵衛と引きかえにゴローウニンは釈放された。
それ以後、ロシアは政府レベルの動きは見せなかったが、商船レベルでは、開国にいたるまで1816年択捉沖で薩摩永寿丸漂流民を、同年択捉沖で尾張督乗丸漂流民を、1836年択捉沖で越後龍宮丸漂流民を、1843年択捉沖で富山長者丸漂流民を送還し続けた。その送還先はすべて長崎ではなく蝦夷であった。

■第三回遣日使節
ロシアは、三度目の日本への派遣を行った。1852年、ニコライ1世の命を受けたプチャーチン提督が、日本との国交交渉に臨むべく、ロシアを出発した。
プチャーチン提督は、1852年10月イギリス・ポーツマスを出航、喜望峰回りで1853年8月に長崎に到着した。1854年1月から長崎で交渉が始まったが、おりからクリミア戦争に突入し、ロシアは英仏と敵対関係となったため、英国艦隊の動向に備えることもあり一旦、長崎を退去した。 再度、1854年12月(嘉永7年10月)、幕府から交渉の場所に指定された伊豆半島南部の下田に、プチャーチン一行がディアナ号で入港し、およそ二ヶ月に亘って幕府側との交渉に臨み日露和親条約を締結した。


3.幕府の蝦夷地探索

■幕府の蝦夷地探索
ロシアの南下を知ることになった幕府は警戒を強めた。安永七年(1778)ロシア船が根室半島のノカマップに来航して松前藩に交易を求めたあと、寛政四年(1792)にはロシア使節ラックスマンが国交を求めて根室に来航し、文化元年(1804)にはレザノフが長崎に来て通商を求めた。
幕府は鎖国を盾にこれを拒否したが、蝦夷地における海防の必要を感じて、天明六年(1786)最上徳内に、寛政十年には徳内と近藤重蔵に千島を、さらに文化五年から六年には間宮林蔵に樺太や沿海州を探険させた。

 ロシアの船がたびたび蝦夷地近海にあらわれ通商を求めてきた。幕政を担った老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)は、工藤平助・林子平の提案(蝦夷地を本土並に開発することにより、ロシアの侵略政策に対抗し得る)を受け、対露貿易の拠点である蝦夷地を開発してロシア貿易を盛んにしようと考えていた。幕府は天明五年,六年(1785-86年)、最上徳内を東蝦夷地に派遣し、国後島を経て択捉島に行き、更に得撫(ウルップ)島に渡って蝦夷地を調査し、北方地方の露国南下の実情を探った。この年、老中田沼意次の失脚によって幕府による蝦夷地の探検と蝦夷地開発は中止された。

 田沼意次のあとに老中筆頭となったのが「松平定信」(まつだいらさだのぶ)である。ロシアやイギリスの船が活発に来航し国防の緊急性が強まるに及び、寛政十年(1798)、幕府は幕臣の近藤重蔵を筆頭に最上徳内ら80名を再度派遣して択捉島の調査を行い、択捉島北西岸・丹根萌(たんねもい)に標柱「大日本恵登呂府」(だいにっぽんえとろふ)を建て、領有宣言を行った。(近藤重蔵の従者木村謙次の日記によると、国後に3基 、択捉に1基の標柱を建てたという -「千島列島ものがたり/北方山草会」- )そして、幕府は、寛政十一年(1799)に東蝦夷地と千島列島の南部を松前藩の支配から幕府直轄にした。

 また、淡路島出身の商人(廻船業者)高田屋嘉兵衛に命じ、箱館から国後、択捉島に渡わたる択捉航路を開通させ、択捉島に17か所の漁場を開かせるとともに択捉島以南の島々に幕府役人を常駐させた。その後、高田屋嘉兵衛は1800年(寛政12年)、自ら苦心して開拓した航路により再び択捉島に渡り、この時もカムイワッカオイの丘に同じような 「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建て、日本の領土であることを明らかにした。

さらに、幕府は享和元年(1801)6月、幕吏・富山元十郎と深山宇平太を得撫(ウルップ)島に派遣し、オカイワタラの丘の上に「天長地久大日本属島」の標柱をたて、領有宣言をおこなった。享和二年、幕府は択捉に勤番所を設けて南部、津軽両藩を警備にあたらせた。享和3年(1803)には、間宮林蔵が得撫島までの地図を作製し、得撫島も警固の対象となった。1803年、日本側はアイヌのウルップ島渡海を禁止し、アイヌと交易(ラッコの毛皮)ができなくなったロシア人はウルップ島を退去した。

 江戸時代後期、得撫郡域は東蝦夷地に属していた。文化三年(1806)以降は、幕吏たちが南部・津軽の足軽、通辞、番人、蝦夷(アイヌ)たちとともに毎年得撫島の見回りを実施していた。文化元年(1804)に来航したロシア使節レザノフの通商要求を翌年に幕府/老中土井利厚が拒否したことから、彼の部下たちは、文化三年から翌年(1806-1807年)にかけて樺太南部や択捉島の日本人居留地を襲った。これをフヴォストフ事件(文化露寇)と呼ぶ。
これを受けて幕府は、文化四年(1807),松前藩領と西蝦夷地の直轄化を実施、樺太を含む全蝦夷地を勢力範囲として定着させるために、その翌年,文化五年(1808)に間宮林蔵と松田伝十郎を樺太探索に送った。文化六年(1809),間宮は単独でアムール川(黒竜江)河口の対岸に位置する樺太北部のナニオー(現在の北樺太西岸)まで辿り着き、そのまま北上して、樺太が半島ではなく島であることを確認した。

 1811年、ゴローニン事件(ゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換釈放)をきっかけとして、両国は国境を決めるための合議を始め、幕府は得撫(ウルップ)郡域(得撫・新知・占守の三郡)を立入禁止の緩衝地帯にする予定であったが、結局話し合いは成立しなかった。1817年以降、しばらくロシアの日本への接触は影を潜めてしまう。1853年、アメリカのペリー来航に遅れること1ヵ月半、ロシアの海軍中将プチャーチンが通商を求めて長崎に来航するが幕府の拒否で交渉不成立。安政元年(1854)日露和親条約により得撫(ウルップ)島はロシア領とされた。


■蝦夷地探索と幕府の蝦夷地統治
寛政八年(1796)から翌年にかけて、イギリス人ブロートン(Broughton)が蝦夷地の絵靭(室蘭)に来航し、日本近海の海図を作成するために測量する事件がおこった。これを契機に、幕府は寛政十年(1798)、近藤重蔵や最上徳内らに千島を探査させ、その翌年に東蝦夷地を直轄地とし、享和二年(1802)には蝦夷奉行(同年に箱館奉行と改称)が設置された。

 松前藩が作製した天保国絵図(縦6.7m、横5.5mの彩色図)

北大法学論集「徳川幕府による蝦夷地の創造 : 国家、領域及び地図」北海道大学・ボイル, エドワード・キーラン著,2012年より以下抜粋。
「千島列島について最上徳内は、次のように言及している。すなわち、 千島列島の島々は全てカムチャッカ半島ほどに遠方にあるが、「御国内に有之候所」であり、これまでにロシア帝国が千島列島北部にまで完全に支配しており、列島はもはや日本に従わないと思慮され、また、もし何も手段を講じなければ、ロシアはますます勢力を強め、「日本の属嶋を年々諸島を随ひ候」というのである(『別本赤蝦夷風説考』,コラー 2005: 15)。 こうしたロシアの進出に対抗するためにこそ、近藤重蔵は苦難を乗り越え、択捉島が「大日本恵登呂府」であると宣言する標柱を大地に突き立てる偉業を成し遂げたのだった(菊池勇夫 1999: 84)。」
  • 最上徳内は、江戸後期の蝦夷地探検家。1785年(天明5)本多利明にかわって幕吏/青島俊蔵ら5名に随行し蝦夷地に渡り、国後(くなしり)島へと渡 り、同島の東北端であるアトイヤ岬にまで到達する。翌1786年には再度の北行が実施され、徳内は山口・青嶋一行よりも先となる1月20日 に、先渡として単身で択捉(えとろふ)、得撫(うるっぷ)に渡り、ロシア人と接触しロシアの北方進出を知る。
  • 近藤重蔵は、江戸後期の北方探検家,幕臣。1798年(寛政10)には、択捉島が日本の領土であることを示すため、島の北端に国標「大日本恵登呂府」を建てるなど、ロシアの南下政策に対抗する北辺防備に尽力した。翌年,高田屋嘉兵衛に択捉航路を開かせ、島のアイヌに物品,漁具を給し、蝦夷を村方と呼ばせ、日本の風俗を勧めた。

4.日露の国境交渉

<日露和親条約のロシア側との事前交渉>
ゴローニン事件(1811年)を受けて1813年6月と同年9月の日露会談の交渉課題、それは日本との間に国境を画定することであった。ロシア側は常に捕虜解放と並んで国境画定と通商関係樹立を追及していた。国境というヨーロッパ的な認識は希薄な日本であったが、日露に横たわる不安定要因を除去する必要は感じており、幕府は1814年になってから、国境に関する方針を示した。
松前奉行の吟味役である高橋三平の国境画定案は、国境を日本は択捉島、ロシアはシモシリ(新知島)までとし、中間のウルップ島を無人地帯とするというものであった。
幕府は択捉島以南を日本領、得撫島域を漂流民の身柄受取のみおこなう緩衝地帯とし、新知島域以北をロシア領とする案を回答予定であったが、両国の交渉担当者が約束の時期に落ち合えず結局ロシア側に伝達できなかった。 それ以後、国家レベルでは1853年までロシアは日本に通商関係を迫ることはなく、40年間日露関係は沈静化した。

日本側の全権は、筒井肥前守政憲、川路左衛門尉聖謨など4人で、会談は1854年1月7日(嘉永6年12月20日)から長崎奉行所西役所で行われた。第1回の会談で川路は、ロシアの士官ゴローニンの著書を引用し、ウルップ島の中立と択捉島の日本領を主張し、樺太ではロシア守備隊の撤退を要求した。また、第2回には、樺太の国境を北緯50度にすることを主張した。
これに対して、プチャーチンは樺太には日本人が少なく、ロシア人が多く住んでいるから認められない、択捉島は折半にすべきだと主張し、交渉は難航した。会談は6回にも及び、最後の会談でプチャーチンは、次のような条約草案を渡した。
  1. ロシアと日本は永遠に友好関係を保つこと。
  2. 国境は、千島では択捉島、樺太ではアニワ港までを日本領土とする。
  3. 長崎、大阪、函館を開港する。
(4条以下省略)
日本側は、この条約を結ぶことを拒否した。ただ、国境については、択捉島は日本領土であること、樺太は、実地調査の上で決定することなどを回答し、長崎での会談は終った。



「日露和親条約」で初めて日露両国の国境は、択捉島と得撫(ウルップ)島の間に決められ、択捉島から南は日本の領土とし、得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領とした。また、樺太は今までどおり国境を定めずにアイヌ民族やニヴフ民族、ウィルタ民族などの先住民と日露両国民が混住する地と定められた。


■世界がみた日露境界




1854年『蝦夷闔境輿地全図(えぞこうきょうよちぜんず)』版元:播磨屋勝五郎
島名:レフンシリ(礼文島)、イリシリ(利尻島)、シコタン島(色丹島)、クナシリ(国後)、エトロフ(択捉)、ウルッフ(得撫)、ラッコ(クルムセ島)、シモシリ(新知島)。図名の「闔境輿地」は境界内部の全域という意味で、本図では日本の領土を意識したものといえる。実用地図という目的から、図中には海岸線に沿って夥しい注記がみえる。
たとえば、「シコタン島」には「周回十八里、子モロ領也、此島黒狐多シ」、「クナシリ島」には「一名ヲムシヤ、周回凡百里余長五十里、十一月ヨリ三月マテ澗内厚ク氷リテ渡海ナラス」、「エトロフ島」には「此島周回凡二百余里長百里、十月ヨリ三月上旬マテ海水堅氷ニトジテ舟往来ナシ」、「ウルッフ島」には「一名猟虎島又ラクホイ、周回七、八十里、ウルッフト云ヘル魚多キニ因テ名トス、常ハ無人島也、夏ニ至テユトロフ蝦夷猟虎(ラッコ)漁ニ渡海ス、故ニ松前ニテ猟虎(ラッコ)島ト云、蝦夷ノ所謂ラッコ島ハ別地ニテ此島ノ東方ニアリ」、「ラッコ」には「此島クルムセ蝦夷人住ス、皆鼻ニ穴ヲ穿チ環ヲ通ス、即チ蝦夷人の称呼ラッコ島是ナリ」とある。


5.日露和親条約の締結

「日魯通好条約(日露和親条約)」安政元年12月21日(1855年2月7日)
魯西亜国と日本国と、今より後、懇切にして無事ならんことを欲して、条約を定めんが為の、魯西亜ケイヅルは、全権アヂュダント・ゼネラール、フィース・アドミラール・エフィミュス・プチャーチンを差越し、日本大君は重臣筒井肥前守・川路左衛門尉に任して、左の条々を定む
第一条、永世の和親。
「今より後、両国末永く真実懇にして、各其所領に於て、互に保護し、人命は勿論什物(じもつ)に於ても損害なかるべし」
第二条で、国境についての合意がなされた。
「今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間に在るべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫(それ)より北の方クリル諸島は、魯西亜に属す。カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国の間において、界を分たず、是迄仕来(しきたり)の通たるべし」

日露間の国境は、千島列島の択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間(ロシア名:フリーズ海峡=択捉海峡)とすること、また、樺太(サハリン)には国境を設けずに、両国民雑居の地として境界を定めず、『カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国との間において、界(国境)を分たす、是迄仕来の通たるへし』と決められた。すなわち 千島諸島については本条約により解決を見たが、樺太の国境は両者の主張が折り合わず、未解決のまま後日の交渉に委ねられた。
明治新政府の成立(1867年11月9日・慶応3年10月14日,将軍徳川慶喜大政を奉還)とともに、樺太問題は未解決のまま新政府に引き継がれることになった。1872年5月(明治5年)、ロシヤとの交渉を開始し、幕末期以来の樺太問題の最終的解決へ乗り出した。そして、1875年(明治8年)5月7日『樺太千島交換条約」の成立により漸く解決を見たのである。この条約により、日本は樺太[サハリン]全島をロシアに明け渡す代わりにロシア領であったクリル諸島(得撫[ウルップ]島から占守[シュムシュ]島までの18島)を日本の領土として譲り受けた。日露国境はカムチャツカ半島のロパトカ岬と占守島間の千島海峡となった。

第三条、開港地について。
「日本政府、魯西亜船の為に、箱館、下田、長崎の三港を開く。今より後、魯西亜船難破の修理を加へ、薪水食糧、欠乏の品を給し、石炭ある地に於ては、又これを渡し、金銀銭を以て報ひ(むくひ)、若(もし)金銀乏敷(とぼしき)時は、品物にて償うべし。魯西亜の船難破にあらざれば、此港の外、決て日本他港に至ることなし。尤(もっとも)難破船につき諸費あらば、右三港の内にて是を償べし」
第四条、難船漂民に対する規定。
「難船、漂民は両国互に扶助を加へ、漂民はゆるしたる港に送るべし。尤滞在中是を待こと緩優(かんゆう)なりといえども、国の正法をまもるべし」
第五条、滞日時の生活必需品の現地調達について。
「魯西亜船下田、箱館へ渡来の時、金銀品物を以て、入用の品物を弁ずる事をゆるす」
第六条、有事の対処について。
「若止むことを得ざる事ある時は、魯西亜政府より、箱館、下田の内一港に官吏を差置べし」
第七条、第六条に同じく有事の対処について。
「若評定を待べき事あらば、日本政府これを熟考し取計ふべし」
第八条、犯罪人の処理に関する規定。
「魯西亜人の日本国にある、日本人の魯西亜国にある、是を待事緩慢にして、禁固(きんこ)することなし。然れども、若法を犯すものあらば、是を取押へ処置するに、各其本国の法度を以てすべし」
  • 第八条では、両国人が相手の国で犯罪を犯した場合には、本国の法律で裁かれることが定められた。つまりロシア人が日本で犯罪を犯した場合、日本の法律が適用されず、ロシアの領事によって裁かれることになる。いわゆる領事裁判権の先駆けであった。ロシア領事がロシア人の犯罪者をまともに裁くとは考えらられず、これは日本側に一方的に不利な条件といえる。

第九条、最恵国待遇の規定。
「両国近隣の故を以て、日本にて向後他国へ免す処の諸件は、同時に魯西亜人にも差免す(ゆるす)べし」
亜ケイヅルと日本大君と、又は別紙に記す如く取極め、今より九箇月の後に至りて、都合次第下田に於て取替えすべし。是によりて、両国の全権互に名判致し、条約中の事件是を守り、双方聊(いささか)違変あることなし。

安政元年十二月廿一日(魯曆千八百五十五年一月廿六日)
 筒井肥前守
 川路左衛門尉
 エウヒミウス・プチャーチン
 カヒテイン・ポススエット

6.ペリー艦隊の日本動植物調査
-ペリー提督が持ち帰った大豆ー

黒船艦隊が下田から持ち帰った植物
「ペリー艦隊日本遠征隊が下田を訪れたのは嘉永6年(1853)~安政元年(1854)。アメリカ合衆国で「大豆」が知られ始めた時期で,研究者が栽培の可能性について情報を提供し始めていた。この頃,ジャパン・ピー(Japan pea),ジャパン・ビーン(Japan bean),ジャパニーズ・フォダー・プランツ(Japanese fodder plant)なる言葉が農業文献に登場し(Ernst1853, Danforth1854, Victor1854, Pratt1854, Haywood1854, T.V.P.1855, Joynes1857ら),生産の可能性,作物としての有用性が論じられている。ペリー艦隊日本遠征記に出てくるジャパン・ピーは,大豆(Soybean, Soya)であると考えて間違いなさそうだ。ちなみに,醤油(ソヤ)から大豆(醤油豆,Soya Soybean)の英語名が生まれている。」土屋武彦著「伊豆の下田の歴史びと」


ペリー提督の日本遠征の目的
「ペリー提督の日本遠征の目的は、日本を開国し、米捕鯨船の補給地を確保することにあったわけですが、その他にも様々な目的があり、その一つが日本の植物を採集して研究するということでした。そのため黒船艦隊には植物採集の専門家が同行していました。採集は2度行われ、1回目は1853年のペリー提督来航時に、S・ウェルズ・ウィリアムス博士とジェームズ・モロー博士によって、最初の上陸地であった浦賀、横浜、下田、函館の4カ所で合計350種余りの植物が採集されました。その中には横浜のツボスミレ、下田のウンゼンツツジやベニシダ、また各地のスゲなどが含まれています。2回目は1854年から55年にかけてリンゴールド隊長とロジャース隊長率いる黒船艦隊により、沖縄や奄美大島、下田、小笠原、函館などを回り、より大規模な採集が行われました。」(「在ニューヨーク日本国領事館」より引用)


■第一次採集(ペリー艦隊)
1853年7月(嘉永6年6月)、アメリカのペリーが率いる黒船が浦賀沖に出現した。この黒船に日本の農産物や植物の種子を収集する調査団が同行していた。農業調査を担当したジェームス・モロー(James Morrow)は、このとき1500~2000にのぼる農産物の種子を収集したとされている。その中に、日本豆(Japan pea)と呼ばれる奇妙な豆があり、それが大豆であった。 日本の開国に成功し、幕府と1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結んだ後、遠征隊は約3ヶ月間、日本の沿岸を回り、函館、下田等で標本採集を行った。そして6月25日に日本を発ち、中国などを経由しての帰途に就いた。

ペリー艦隊が行った日本の動植物の調査は、1853年(嘉永6)のペリー提督の第一次日本遠征時と翌1854年(嘉永7)の第二次日本遠征時に、ペリー提督自身の黒船艦隊によって行われた。ペリー提督は、大統領の開国・通商を求める親書及びペリー提督の信任状と書簡を日本に渡すほかに「アメリカ北太平洋遠征隊」の名のもとに、在マカオアメリカ領事館員ウイリアム氏とモロー博士(ハーバード大学のエイサ・グレイ博士の友人)等を遠征隊に同行させ、外交交渉の間に江戸湾,伊豆下田,箱館(函館)で植物採集(標本総数353種[内新種34種])や鳥類、魚類、貝類を収集し、その標本をアメリカに持ち帰った。(ペリー艦隊が下田で採集したものは、草木106種、樹木69種、シダ植物16種といわれる)

収集採取は、主として鳥類標本の収集が絵師ハイネ、魚介類標本の収集がペリー提督の監督下で行われ、植物関係の標本は、その収集と保存処理が主任通訳官ウイリアムス(S. Wells Williamas,サスケハナ号)、艦隊付き軍医チャールズ・ファーズ(Charles Fahs,サスケハナ号)とダニエル・グリーン(Daniel Greene,ミシシッピ号)、国務省派遣のジェームズ・モロー博士(James Morrow,ヴァンダリア号)にて行われた。動植物標本の収集地は、浦賀,横浜,伊豆下田,箱(函)館であった。これらペリー艦隊により収集された貴重な標本類は、モロー博士の監督の下に別船で丁寧にアメリカに送られた。

ペリーの遠征はアメリカ合衆国政府によって『ペリー艦隊日本遠征記』として1856(安政三)年に出版された。『ペリー艦隊日本遠征記』の第二巻は、日本産植物図譜の計画をしたモロー博士とペリー提督、第1回及び第2回の調査により持ち帰った植物標本を研究した植物学者エイサ・グレイ博士(Asa Gray)との間のトラブル(新しい科や属の発見がたくさんあったが、国務省がその貴重な調査資料を握ってしまい、第2巻の出版に間に合わなかった)によって原稿の提出が遅れ、かろうじてグレイ博士がまとめた新種記載を含む乾燥標本の目録のみが掲載されたにとどまった。


第2次採集(ロジャース艦隊)は、1854~55年にかけて小笠原諸島,沖縄,奄美大島,九州,下田,箱館,北方諸島など大がかりに行った(採集に関与した黒船は旗艦ヴインセンス号とハンコック号の2隻で、前者にはライト博士Charles Wright、後者にはスモール氏James Smallが乗船して収集にあたった)。下田では、1855年5月13~28日に採集している。第2次採集隊の標本総数は第一次をはるかに上回り、新種63種を同定した。


■横塚 保/「日本の醤油」より
『1854年に日本に来航したペリー提督が日本から持ち帰った2種類の大豆が、アメリカの農業委員会(Commissioner of Patents)に提出されていますが、これには"Soja bean(しょうゆ豆)"との表現が使われています。SoyaあるいはSojaはオランダ語の表現であり、日本語のshouyuがオランダ語のsoya,sojaを経た後、beanとの複合語である英語のsoybeanへとつながったと考えられます。1882年にsoybeanの言葉が出てきて以来、soybeanの呼び方が定着したことが想像されます。いずれにしても、英語のsoybeanは日本語の醤油がそのルーツであることは間違いないでしょう。』大豆は英語では「ソイビーン」。しょうゆ(ソイソース)の原料になる豆(ビーン)の意味です。

■「ペリー艦隊日本遠征記」、第二巻の「日本の農業に関する報告」より
『…日本の豆は数種あり、白い豆や黒い豆、匍匐枝(地面に沿って伸びる種類)を出すものや攀縁性(上に向かって伸びる種類)のもの、ツルナシインゲン、サヤ豆、ササゲ、一般にジャパン・ピー(日本豆=Japan pea)と呼ばれ、茎からのびた枝にできる莢に毛の生えた独特の豆、そしてレンズマメより大きくないごく小さな豆である。この中の一種から、様々な料理に用いられる有名な発酵調味料であるソヤ(醤油)が作られる…』 そのときの記録では大豆のことを"Soja bean"とし、醤油の材料になると説明されている。 (引用:ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」,ペリー艦隊日本遠征記)

■ペリー提督が持ち帰った大豆
黒船で来航したペリー(ペルリとも。Matthew Calbraith Perry,1794-1858)も日本から大豆を持ち帰り、アメリカ合衆国での大豆生産に寄与していたことが知られています。ペリーは日本に開国交渉に訪れましたが、学術調査の命も帯びており、1856年に編纂されたペリー艦隊の報告書は、第2巻が博物学に関する内容となっています。農業に関する報告でJapan peaとされているのがおそらく大豆で、日本の豆の中に有名な醤油の原料になるものがあるとも紹介されています。
(Francis L. Hawks, Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan, performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the Command of Commodore M. C. Perry, United States Navy, by order of the Government of the United States.
なお、嘉永七(1854)年の日米和親条約締結の数日前に日本から受け取った贈答品の中には、「醤油十瓶」が含まれていました(ペルリ(鈴木周作抄訳)『ペルリ提督日本遠征記』 )。

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