日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 黒船来航と開国(5)


ペリー提督の日本遠征の目的

1853年の7月8日(嘉永6年6月3日)、黒船4隻が来航する。そして、7月14日(嘉永6月9日)にペリー提督が、開国を求めるアメリカ大統領の親書をたずさえ、浦賀(現在の神奈川県久里浜)に初上陸した。親書には、開国と交易、漂流民の保護、石炭や水の供給といった、アメリカの要求が記されていた。江戸幕府に親書が渡ると、ペリーはいったん退去する。
幕府は翌1854(嘉永7)年、再び現れたペリーと交渉を行い、嘉永7年3月3日(洋暦3月31日)、横浜にて、不平等条約と言われる「日米和親条約」が締結された。これにより、下田と函館の2港が開港された。日本は、215年にわたる「鎖国政策」をやめ、開国することになった。この年、幕府はペリーの動向を窺っていたイギリスやロシアとも和親条約を調印し、鎖国の扉はさらに大きく開かれた。

1.ペリー艦隊来航の目的

■東アジア情勢と江戸幕府
 ペリーは1852年に東インド 艦隊司令官に任ぜられ、議会の決議に基づきミラード・フィルモア第13代大統領から日本遠征の命が下された。その頃、東アジアでは中国がイギリスと戦ったアヘン戦争に敗れたことから、1842年の南京条約によって5港を開港し、香港もイギリスに割譲していた。以後、中国にはフランスなどヨーロッパの勢力が進出し、アメリカも権益を得るようになっていた。
 わが国の徳川幕府は、鎖国体制をとりながらも毎年オランダから来航する出島商館長が、海外情報を記述して提出する『風説書』や、1842(天保13)年以降はより詳しい内容を求めた『別段風説書』、さらには中国船による『唐船風説書』を通じて、東アジアの動向を把握していた。また、1844(弘化元)年には、オランダ国王の親書を携えた使節が来日し、世界の動向を踏まえ開国することを勧められていた。

 この時代になると、わが国近海に外国船が数多く出没し、アメリカ船籍では1837(天保8)年に江戸湾に入ろうとしたモリソン号が、異国船打ち払い令によって撃退され、また1846(弘化3)年には、東インド艦隊司令官のジェームズ・ビッドル提督がヴィンセンス号とコロンビア号で開国を求めて浦賀に現れ、退去させられていた。さらに、この他にも難破船の漂着や他国からの来航があったが、幕府は同様の措置をとっていた。

 ペリーの日本遠征は、アメリカからの使節ビッドル提督に続いて2度目であったが、カリフォルニアから日本まで18日、中国へは20日程度で到達できるなど、 ビッドル提督が来航した頃と比べて蒸気船の発達が東アジアへの時間を短縮していた。また、中国貿易の進展や捕鯨漁の増加もあって 太平洋航路を航行する艦船が増え、日本の港湾を燃料や食料補給のために使いたいとする声が産業界にも高まっていた。こうした背景をもとに、アメリカは産軍一体となって和親・通商に関する条約の締結を目指していた。


■ペリー来航の目的
ペリーが来航した目的は日本を開国するためで、その理由は以下の2点である。
  1. 捕鯨をするために寄港地が必要
  2. 中国大陸に進出するための補給基地確保
ペリーが持参したフィルモア大統領の国書には、次のように記されている。

「吾が人民にして、日本沿岸に於て捕鯨に従事するもの甚だ多し。荒天の際には、吾が船舶中の一艘〔いっそう〕が貴国沿岸に於て難破することも屡々〔しばしば〕なり。かかる場合には悉〔ことごと〕く〔中略〕吾が不幸なる人民を親切に遇し、その財産を保護せられんことを願ひまた期待するものなり」(『ペルリ提督日本遠征記』より引用)

このように、ペリーの最大の目的は、日本を「開国」させて「捕鯨船の拠点」として活用することであった。19世紀にはいると捕鯨産業は大いに繁栄する。ニューイングランド地方では経済の基幹をなすまでに発展していた。そして、日本近海にも鯨を求めてアメリカ船が頻繁に出没し、飲料水や薪炭を補給する寄港地を求めるようになる。

また、アメリカとしてはもうひとつ、「清との貿易拠点」として日本を活用する意図もあった。しかしアジアに植民地を持っていなかったアメリカは、清への進出においてイギリス、フランス、オランダなどに遅れをとっていた。この遅れを取り戻そうと、いまだオランダ以外が進出していない日本を目指したのである。


■アメリカの捕鯨産業
アメリカ式捕鯨船がはじめて現れてから太平洋の操業域は飛躍的に広がって、1820年には日本列島・伊豆諸島・ブニン(Bomn, 小笠原)諸島をとりまく海域に達し、以後ここは捕鯨船関係者の間で、「ジャパングラウンド」と呼ばれる好漁場として評判になった。そして、1822年には日本に達した米国籍の捕鯨船は30隻に達したといわれる。



1846年の統計によれば、アメリカの出漁捕鯨船数は延べで736隻、総トン数は23万トン、投下資本は7000万ドル。従業員数は7万人である。年間にマッコウクジラとセミクジラを合わせて14000頭を捕獲する乱獲時代を迎えていた。
アメリカ式捕鯨は船に積み込んだ捕鯨用ボートで捕獲したクジラを海の上で解体して、船の上で油をとり樽(たる)に詰めていた。主な捕獲の対象は、脂肪層と鯨油(げいゆ)が多く、捕ったあとに海中に沈まないマッコウクジラであった。



アメリカ式捕鯨が生産する鯨油は、産業革命による「燃料需要」に応える灯油や機械油として大きな需要があった。石油の採掘が本格化される19世紀後半まで、鯨油はもっとも良質な燃料油と考えられていた。
日本が開国を求められていた当時、太平洋北部は世界でも有名な鯨の漁場として知られていた。最盛期は19世紀の中頃で、ペリー艦隊が来日した時期を含む1840年代から50年代にかけて、米国の捕鯨産業はピークの隆盛を迎えた。日本へのペリー来航の目的の中には、捕鯨船は船上で鯨油の抽出も行うため、捕鯨船への食糧と大量の薪や水の補給が必要で、捕鯨船団の希望も含まれていた。


■中国の豊かな産物と大きな市場が狙い
19世紀当時のアメリカの最大のライバルは大英帝国で、アメリカは西海岸を拠点に、太平洋航路を開拓して清との貿易に取り組もうとしていた。当時の人口は日本が約3000万人だったのに比べ、清(中国)では約4億人と、まさに巨大マーケットで、お茶や絹をはじめとする中国の豊かな産物と大きな市場が狙いであった。
アメリカが清との貿易のために使っていたルートは「北太平洋から千島列島・津軽海峡」を経由して上海へ向かうという太平洋航路であった。そのため、日本という中継基地が必要で、寄港地・補給基地としての「箱館」の開港が必要であった。


2.ペリー艦隊の日本動植物調査
-ペリー提督が持ち帰った大豆ー

■ペリー提督の日本遠征の目的
『ペリー提督の日本遠征の目的は、日本を開国し、米捕鯨船の補給地を確保することにあったわけですが、その他にも様々な目的があり、その一つが「日本の植物を採集して研究する」ということでした。
そのため黒船艦隊には植物採集の専門家が同行していました。採集は2度行われ、1回目は1853年のペリー提督来航時に、S・ウェルズ・ウィリアムス博士とジェームズ・モロー博士によって、最初の上陸地であった浦賀、横浜、下田、函館の4カ所で合計350種余りの植物が採集されました。その中には横浜のツボスミレ、下田のウンゼンツツジやベニシダ、また各地のスゲなどが含まれています。2回目は1854年から55年にかけてリンゴールド隊長とロジャース隊長率いる黒船艦隊により、沖縄や奄美大島、下田、小笠原、函館などを回り、より大規模な採集が行われました。』(「在ニューヨーク日本国領事館」より引用)


■黒船艦隊が下田から持ち帰った植物
「ペリー艦隊日本遠征隊が下田を訪れたのは嘉永6年(1853)~安政元年(1854)。アメリカ合衆国で「大豆」が知られ始めた時期で,研究者が栽培の可能性について情報を提供し始めていた。この頃,ジャパン・ピー(Japan pea),ジャパン・ビーン(Japan bean),ジャパニーズ・フォダー・プランツ(Japanese fodder plant)なる言葉が農業文献に登場し(Ernst1853, Danforth1854, Victor1854, Pratt1854, Haywood1854, T.V.P.1855, Joynes1857ら),生産の可能性,作物としての有用性が論じられている。ペリー艦隊日本遠征記に出てくるジャパン・ピーは,大豆(Soybean, Soya)であると考えて間違いなさそうだ。ちなみに,醤油(ソヤ)から大豆(醤油豆,Soya Soybean)の英語名が生まれている。」土屋武彦著「伊豆の下田の歴史びと」


■第一次採集(ペリー艦隊)
1853年7月(嘉永6年6月)、アメリカのペリーが率いる黒船が浦賀沖に出現した。この黒船に日本の農産物や植物の種子を収集する調査団が同行していた。農業調査を担当したジェームス・モロー(James Morrow)は、このとき1500~2000にのぼる農産物の種子を収集したとされている。その中に、日本豆(Japan pea)と呼ばれる奇妙な豆があり、それが大豆であった。 日本の開国に成功し、幕府と1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結んだ後、遠征隊は約3ヶ月間、日本の沿岸を回り、函館、下田等で標本採集を行った。そして6月25日に日本を発ち、中国などを経由しての帰途に就いた。

ペリー艦隊が行った日本の動植物の調査は、1853年(嘉永6)のペリー提督の第一次日本遠征時と翌1854年(嘉永7)の第二次日本遠征時に、ペリー提督自身の黒船艦隊によって行われた。ペリー提督は、大統領の開国・通商を求める親書及びペリー提督の信任状と書簡を日本に渡すほかに「アメリカ北太平洋遠征隊」の名のもとに、在マカオアメリカ領事館員ウイリアム氏とモロー博士(ハーバード大学のエイサ・グレイ博士の友人)等を遠征隊に同行させ、外交交渉の間に江戸湾,伊豆下田,箱館(函館)で植物採集(標本総数353種[内新種34種])や鳥類、魚類、貝類を収集し、その標本をアメリカに持ち帰った。(ペリー艦隊が下田で採集したものは、草木106種、樹木69種、シダ植物16種といわれる)

収集採取は、主として鳥類標本の収集が絵師ハイネ、魚介類標本の収集がペリー提督の監督下で行われ、植物関係の標本は、その収集と保存処理が主任通訳官ウイリアムス(S. Wells Williamas,サスケハナ号)、艦隊付き軍医チャールズ・ファーズ(Charles Fahs,サスケハナ号)とダニエル・グリーン(Daniel Greene,ミシシッピ号)、国務省派遣のジェームズ・モロー博士(James Morrow,ヴァンダリア号)にて行われた。動植物標本の収集地は、浦賀,横浜,伊豆下田,箱(函)館であった。これらペリー艦隊により収集された貴重な標本類は、モロー博士の監督の下に別船で丁寧にアメリカに送られた。

ペリーの遠征はアメリカ合衆国政府によって『ペリー艦隊日本遠征記』として1856(安政三)年に出版された。『ペリー艦隊日本遠征記』の第二巻は、日本産植物図譜の計画をしたモロー博士とペリー提督、第1回及び第2回の調査により持ち帰った植物標本を研究した植物学者エイサ・グレイ博士(Asa Gray)との間のトラブル(新しい科や属の発見がたくさんあったが、国務省がその貴重な調査資料を握ってしまい、第2巻の出版に間に合わなかった)によって原稿の提出が遅れ、かろうじてグレイ博士がまとめた新種記載を含む乾燥標本の目録のみが掲載されたにとどまった。



第2次採集(ロジャース艦隊)は、1854~55年にかけて小笠原諸島,沖縄,奄美大島,九州,下田,箱館,北方諸島など大がかりに行った(採集に関与した黒船は旗艦ヴインセンス号とハンコック号の2隻で、前者にはライト博士Charles Wright、後者にはスモール氏James Smallが乗船して収集にあたった)。下田では、1855年5月13~28日に採集している。第2次採集隊の標本総数は第一次をはるかに上回り、新種63種を同定した。


■横塚 保/「日本の醤油」より
『1854年に日本に来航したペリー提督が日本から持ち帰った2種類の大豆が、アメリカの農業委員会(Commissioner of Patents)に提出されていますが、これには"Soja bean(しょうゆ豆)"との表現が使われています。SoyaあるいはSojaはオランダ語の表現であり、日本語のshouyuがオランダ語のsoya,sojaを経た後、beanとの複合語である英語のsoybeanへとつながったと考えられます。1882年にsoybeanの言葉が出てきて以来、soybeanの呼び方が定着したことが想像されます。いずれにしても、英語のsoybeanは日本語の醤油がそのルーツであることは間違いないでしょう。』大豆は英語では「ソイビーン」。しょうゆ(ソイソース)の原料になる豆(ビーン)の意味です。

■「ペリー艦隊日本遠征記」、第二巻の「日本の農業に関する報告」より
『…日本の豆は数種あり、白い豆や黒い豆、匍匐枝(地面に沿って伸びる種類)を出すものや攀縁性(上に向かって伸びる種類)のもの、ツルナシインゲン、サヤ豆、ササゲ、一般にジャパン・ピー(日本豆=Japan pea)と呼ばれ、茎からのびた枝にできる莢に毛の生えた独特の豆、そしてレンズマメより大きくないごく小さな豆である。この中の一種から、様々な料理に用いられる有名な発酵調味料であるソヤ(醤油)が作られる…』 そのときの記録では大豆のことを"Soja bean"とし、醤油の材料になると説明されている。 (引用:ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」,ペリー艦隊日本遠征記)

■ペリー提督が持ち帰った大豆
黒船で来航したペリー(ペルリとも。Matthew Calbraith Perry,1794-1858)も日本から大豆を持ち帰り、アメリカ合衆国での大豆生産に寄与していたことが知られています。ペリーは日本に開国交渉に訪れましたが、学術調査の命も帯びており、1856年に編纂されたペリー艦隊の報告書は、第2巻が博物学に関する内容となっています。農業に関する報告でJapan peaとされているのがおそらく大豆で、日本の豆の中に有名な醤油の原料になるものがあるとも紹介されています。
(Francis L. Hawks, Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan, performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the Command of Commodore M. C. Perry, United States Navy, by order of the Government of the United States.
なお、嘉永七(1854)年の日米和親条約締結の数日前に日本から受け取った贈答品の中には、「醤油十瓶」が含まれていました(ペルリ(鈴木周作抄訳)『ペルリ提督日本遠征記』 )。

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