日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


「黒船来航と開国,日米饗応の宴」Sub Menuに戻る


江戸の外食文化 資料

 開国と日本金貨の流出


金貨流出の対応貨幣発行

維新の気運が頂点に達した万延年間。1853年、黒船に乗ったペリーがアメリカから浦賀に来航し、徳川幕府は横浜、長崎、函館を開港した。日米和親条約で部分的に自由化された交易の結果、鎖国体制は崩壊し、金銀比価の違いから海外へ金貨が大量に流出し、幕府財政は困窮を極めた。

「幕末の開港による金貨流出の対応策として発行された貨幣」
万延小判は江戸幕府最後の小判で、幕府が消滅する慶応3年(1867年)8月6日まで製造された。金の海外流出を食い止めるための万延小判は、金品位も低下し大きさも小さくなり、別名「小判、姫小判」とも呼ばれた。二分金・二朱金も同様に小型化された。



開国と幕末日本金貨の流出

江戸時代末期、日本の鎖国体制が崩れ、欧米列強との貿易が始まり、その中で当時の日本の主要通貨の一つであった金貨が海外へ大量に流出していった。この金貨流出の原因は、一般に、日本国内と国外との「金銀比価の差」であると説明されている。

安政5年6月19日(1858年7月29日)の日米修好条約交渉では、外国通貨との交換比率は「同種同量」の原則(自国金貨と相手金貨の同量交換、銀貨と相手銀貨の同量交換)に基づくと合意された。
国際的に当時は金も銀もそれぞれに本位貨幣であり、アジアの貿易取引に使われているのは銀貨で、銀貨の交換比率を基準にした「銀本位制度」である。

ところが、日本においては、「金本位制度」であった。
日本では銀貨が計数貨幣として発行されるようになった後は、金を本位貨幣とする通貨制度で、一分銀は国内市場の素材価値でみても約二倍で通用する実質的な「補助貨幣」で、補助貨幣の銀貨に、この原則(「同種同量」の原則)の適用は不合理であった。

これが、内外金銀比価格差から生ずる洋銀(メキシコドル Mexican Dollar)流入・金貨流出の原因となった。日本ではメキシコ・ドルを一般に洋銀と呼んだ。また、墨銀、ドル銀、ドルラルとも称された。

この幕末の金貨流出額については、「通説100万両」とも言われたが、近年の研究では、少なくて「10数万両台」、多くても「50万両」といわれている。



当時の貿易通貨は、1535年いらい世界第一の銀産出国であるメキシコで鋳造された「メキシコドル」であった。日本人はこれを「洋銀」と呼んでいた。
洋銀(メキシコドル)は南北アメリカ両大陸はもとよりフィリピン(スペイン)、海峡植民地(イギリス)、フランス領インドシナ、中国などアジア各地に流入し、貿易通貨として使用された。洋銀は16世紀いらい数世紀の長期間にわたり、メキシコドルの品位・量目が長期にわたって安定していたことから国際通貨の役割を果たした。】



幕末日本,金貨流出の仕組み

1858年7月29日、日米修好通商条約が結ばれた。同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだので安政五ヶ国条約とも言われている。

『通商条約には「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし」「双方の国人互に物価を償ふに日本と外国との貨幣を用ゆる妨なし」「日本人外国の貨幣に慣ざれば開港の後凡一箇年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亜米利加人願次第引換渡すべし」(以上は日米修好通商条約第5条)との諸規定があり、また金貨・銀貨の輸出も認められていた。

そこで運上所(税関)ではハリスとの下田以来の交渉に基づき、外国人が持ち込む洋銀(メキシコ銀)1枚につき一分銀3枚の比率で両替に応じた。
ところがこれは市場での実勢(洋銀1枚に対し一分銀2枚)に比べ洋銀を持ち込む側に有利な比率であったので、外国商人のみならず外国の官吏や軍艦の乗組員までもが大量の洋銀を運上所に持ち込み、交換差益を得た。』・・・「横浜開港150年の歴史(平成19年)」より引用。

この当時、(※)世界の金銀交換比率は1:12が一般的であった。一方日本の交換レートは1:4であった。日本では銀の価値を、国際相場より3倍も高く見積もっていた。
下田米国領事タウンゼント・ハリスは、互いの金銀貨同士を地金価値で評価するよう要求し、その結果1ドル銀貨1枚=1分銀3枚となり、1ドル銀貨4枚で一分銀12枚と定められた。

当時の幕府の定めた交換レートは、金1両(天保小判)=銀4分(一分銀4枚)だったので、1ドル銀貨4枚=金3両(天保小判 3枚)となった。
外国商人たちは、貿易決済手段としてアジアで広く流通していたメキシコ・ドル銀貨(洋銀)を日本に持ち込み、金貨に替えて海外に持ち出し、上海などで再び洋銀に替えるとおよそ3倍の洋銀を手にすることが可能であった。
つまり、貿易そのものよりも為替による多額の利益が得られる仕組みがあった。これを繰り返せば、もうけは莫大となるために日本の金貨が大量に流出した。



(※)『江戸時代末期における金銀比価について』/松山大学 井上正夫(2012年 )
『わが国の金銀比価が当時の通用貨(天保一分銀と天保金)のなかで、金1対銀5.9 (中略) という極端に銀高の比価になっていた・・・当時、西欧の金銀比価は金1対銀15~16程度であったから、わが国の比価は2倍以上の銀高となっていた。・・・こうした理解は、高等学校の地理歴史科用教科書にも踏襲されており・・・「金銀の交換比率は、外国では1:15、日本では1:5と差があった」(石井他2011)としている。
さらに、学界においても、例えば、近世貨幣史研究の第一人者である岩橋勝氏は、この問題について、「近世当初、わが国の金銀比価は11から14のあいだを変動していたが、これは中国よりもつねにやや銀安で推移した。・・・その後・・・日本のみ今度は銀高に向かい、幕末期には国際比価が、15.5に対し、わが国は4.5という驚くべき格差が生じるにいたった。」としている(岩橋2002)。
こうした5対1説に対して、三上隆三氏は、金銀比価について、「欧米の比価1対16に対しわが国のそれは1対13であって、決して(※1)1対4.64ではなかったことは銘記されてしかるべきである」(三上1989)と述べている。以上のように、幕末の金銀比価については、5対1説を通説とし、一方で13対1説が存在していることになる。 (中略)
天保一分銀の地金価値は、金銀比価を13対1で金量に換算した場合、同じ交換価値(あるいは購買力)を付与されている天保小判と比較して地金価値が非常に低い。1両あたりの金量は2.63gであり、天保小判1両に含まれる金評価の地金価値6.76gの約3分の1である。・・・この天保一分銀4枚(1両)の交換価値と金量2.63gの地金価値との差額は、天保一分銀が地金価値で評価され流通するものではなく、「信用部分」を持つ貨幣として授受されていたことを示す。 (中略)
列強は、天保一分銀が信用部分をもって使用され、その信用部分の存在の上で1両の小判と交換されていることを認めずに、同種同量条項に基づき洋銀1枚と天保一分銀3枚との交換を強要したのである。・・・つまり、天保一分銀が大きな信用部分をもって日本国内で流通していることを逆手にとり、地金価値に近い交換価値しかもたない洋銀を持ち込んで、同種同量条項を武器にして、非常に有利な条件で金貨を持ち出したことを意味する。』
※1:天保期の一分判金(純金量1.598g+純銀量1.200g)と一分銀(純銀量8.528g+純金量0.019g)との金銀比価を取れば「1:4.641」である。山本有造『両から円ヘ-幕末・明治前期貨幣問題研究』(ミネルヴア書房、1994年)

〇幕末の金流出(NICHIGIN 2009 NO.18,東京大学 武田晴人)
『1858年に日本初の通商条約「安政の五力国条約」が締結されて・・・同条約とそれに基づく翌年の開港により、海外の銀貨と引き替えに大量の金貨が流出 ・・・ アメリカが主張するやり方を強引に押し付けられたことが、巨額の金貨流出を招き、幕末の経済的な混乱を激しいものにしました。
開港時の条約交渉では、外国通貨との交換比率は「同種同量」の原則に基づくことが最終的に合意されました。
当初の和親条約では(※1)洋銀1ドルは一分銀と等価とされていました。当時国際市場において洋銀1ドルで買える金の重量は、小判一両に含まれる金の約1/4で(一両=4ドル)、しかも江戸幕府の通貨制度からいうと一両は一分銀4枚と等価でしたから、これは理に適った取り決めでした。
ところが、ハリスは、国際市場では一分銀に含まれる銀素材の価値が1/3ドル分しかないことを基準にして銀貨同士の交換比率を決めるように改めることを主張しました。金に換算するのでなく、あくまでも含まれる銀を基準にしようというのが同種同量の意味です。
銀貨では含有量と貨幣重量がほとんど変わりませんから、実際には洋銀1ドル貨と一分銀との交換数量が決まっていきます。
こうした基準が採られた理由は、これ以外に通貨価値の標準を求めようがなかったからです。しかし、これは本位貨幣にだけ適用されるものです。国際的には当時は金も銀もそれぞれに本位貨幣で、アジアの貿易取引に使われているのは銀貨でしたから(アジア市場の銀本位)、銀貨の交換比率を基準にしようとしました。
これに対して日本では銀貨が計数貨幣として発行されるようになった後は金を本位貨幣とする通貨制度で、一分銀は国内市場の素材価値でみても約二倍で通用する実質的な補助貨幣ですから、補助貨幣の銀貨にこの原則の適用は不合理なのです。
日本側は抵抗を試みますが、結局押し切られてしまいます。こうして銀貨の交換比率は一分銀3枚と洋銀1ドルとの交換になります。ハリスの強引さの前に道理が引っ込められたことになりました。
その結果、洋銀4ドルを金貨換算で計算するとすでに説明したように、小判一両と等しく、4枚の一分銀と等価になります。
しかし、銀換算では洋銀4ドルは一分銀12枚相当になり、金貨で計算した場合の3倍となります。この金銀比価の差を利用したからくりにより、下図のように洋銀と交換で金貨を日本で手に入れて海外に持ち出し、これを銀と交換する取引を繰り返すだけで、莫大な利益が外国商人たちの手に転がり込むことになりました。それが金流出の原因でした。』



※1:ペリー来航と1ドル=一分替え「欠乏品交易とその貨幣問題」/大阪経済大学 山本有造(2016年)より、
『嘉永七年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)神奈川において調印された「日米和親条約」は、その名の通り日米両国の「永世不朽の和親」を取り結ぶことを目的とする条約であり、いわゆる「通商開港」を目指すものではなかった。
貨幣問題に関する談判は、「日米和親条約附録協定」の締結のために下田に入ったペリー艦隊(の主計官)と下田奉行所(の支配組頭)との間で、5月17日(6月12日)から下田・了仙寺において行われた。
幕府側は、「長崎表唐紅毛引合之銭相場」すなわち長崎における中国・オランダ交易における相場を参考とし・・・神奈川で艦隊の物資代金として受領していた350ドルの金銀貨を江戸で分析した結果を踏まえて次のように主張した「貴国銀位之義、銀目方拾匁に付、日本にては日本銀弐拾弐匁五分、一ドルラル日本銀拾六匁(1ドル銀貨=16匁)之積」。これについてはアメリカ側・・・「承知致し候」ということになって決着がついた。』

〇「近世・近代日本貨幣史の基礎的研究」/秀明大学 小林延人(2015年)
『17世紀初頭において約1:10であった国内金銀両貨の比価は、元禄期以降、貨幣改鋳の都度に変化していく。開港直前の時期に流通していた保字小判一枚 1両 と天保一分銀 四枚(= 1両は、おおよそ地金 1 :地銀 4. 6)の金銀比価であった。
当時の国際比価ロンドン銀塊相場が 1:15.6 であったことを鑑みると 、国内金相場は著しく低かったと言える 。安政5年 (1858)6月19日、日米修好通商条約が締結されると、第五条により同種同量交換の原則が定められた。
これは、金貨は金貨と、銀貨は銀貨と、その量目重さのみによって関連付け、自由な取引を承認するものである。
当時、国際取引で主に用いられた貨幣は洋銀と呼ばれる 1ドル銀貨である。うち横浜に流入した洋銀は、量目 416.5グレイン 約7.2匁 、品位 898/1000 、純銀量 374グレインのメキシコドルであった。
対して、国内銀貨の主流であった天保一分銀は、量目 2.3 匁 (133.4グレイン 、品位 989/1000 、純銀量 2.27匁であったので、洋銀 100 枚=天保一分銀 311枚 おおよそ(※)洋銀 1枚≒一分銀 3 枚と交換される取り決めとなった。
金貨で言うと、アメリカの1ドル金貨が量目 25.8グレイン (0.4匁 、品位 9/10 であったのに対し、保字小判は量目 3匁、品位 568/1000 であった。
すなわち、アメリカ国内では洋銀100枚=100ドル=金 40匁 地金 36匁 にしかならないが、日本で、洋銀 → 天保一分銀 → 保字小判へと交換すると、 77.75両 地金 132.486匁となる。そのため、外国商社は競って洋銀を持ち込み、金貨を流出させた。これが、開港直後に金流出が起こったメカニズムである。』 
保字小判は天保小判を意味する。 流出金の価値増加=132.486匁÷36匁=3.68倍となる》 
『その後、万延元年4月、新貨を鋳造し、万延の幣制改革が完了する。これによって、金銀貨の比価は 1:15.29 となり、金貨流出の根源は除去された。』
(※)「幕末・横浜洋銀相場の経済学」/東北学院大学 高橋氏 には、「メキシコ銀1ドル=一分銀 3.11個、実務的には、メキシコ銀1ドル=一分銀 3個(45匁)の固定された交換比率で貿易等が行われることとなったのであった。
しかしながら、この期間においても、実際上は、洋銀の自然相場が形成され、万延元(1860)年4月には、「メキシコ銀1ドル=一分銀2枚半(37.5匁)」となっていた。』とある。
「シュリーマン旅行記 清国・日本」にも、メキシコ・1ピアストル(訳注より:メキシコドル)=天保1分銀 2.2個~2.5個の兌換率、実際には1ピアストル=天保1分銀 3.1個とある。


幕末,天保一分銀貨の推敲

■弗銀(ドル銀貨)と洋銀(メキシコ銀貨)
ペリーが下田で日米和親条約を結んだとき、日本からペリーの艦隊に提供した石炭などの料金支払いは、「1ドル銀貨は、銀目16匁替え」でおこなわれた。
銀目16匁は、ほぼ一分銀に相当するから、「1ドル=一分銀1枚」の交換レートが正しいとの日本側の主張でもあった。日本側の主張は「洋銀1ドル=一分銀等価」で外国通貨との交換は「同種同量」の原則に基づいていた。
(その3年後、安政三年、下田の玉泉寺(幕末にアメリカが日本で初の総領事館として使った寺)でアメリカ合衆国総領事の任についたタウンゼント・ハリスはこれに猛反対して「1ドル銀=一分銀 3枚」となった。これは江戸幕府の通貨制度、「金一両=一分銀4枚」に齟齬が生じた

また、次の文献は、「洋銀(メキシコ銀貨1ドル)=弗銀(1ドル銀貨)=天保一分銀」となる江戸幕府の通貨制度(一両は一分銀4枚と等価交換)の検証である。
〇「幕末明治期におけるわが国通貨主権と外国資本(上)」/長崎大学 立脇和夫(1986)より、
ペリーの艦隊都の貨幣交換、『幕府は1ドル銀貨を銀16匁,銭1貫600文と主張し、これを米国側も了解したのであった。
その根拠は、弗銀(米ドル銀貨)の平均重量を7.12匁、品位(千分比、以下同じ) 865、従って(※2)純銀6.16匁とし、これを当時わが国の地銀買上価格10匁につき(※3)通用銀26匁(1両=60匁として)を基準として換算したものである。
したがって、1ドル(銀貨)=16匁は、ほぼ1両の銀相場60匁の4分の1に当り、銀15匁と等しいとされたのである。』・・・弗銀(米1ドル銀貨)=一分銀(銀貨)の意、江戸幕府の通貨制度からいうと一両は一分銀4枚と等価交換である。
※2:アメリカ1ドル銀貨にて、平均重量を7.12匁は純銀量は7.12匁(重さ)×0.865(銀品位)=6.1588匁。(平均重量を、7.12匁(26.7g)、品位 86.5%とし、これは、含銀量 6.1588匁(23.1g)となる。
天保一分銀の含銀量が2.274匁のため、1ドル銀貨=天保一分銀3枚=2.274匁×3=6.822匁となる。これがタウンゼント・ハリスが唱えた理論である。
※3:通用銀とは丁銀や豆板銀のように重さ(匁)で換算される貨幣である。
アメリカ1ドル銀貨すなわち洋銀は地金と見做されるため純銀量6匁2分(23.1g)に対し「二六双」替である通用銀(天保丁銀)16匁と評価される。
実際に流通する形での16匁の通貨はなく、近似の貨幣は15匁の一分銀である。これは1両の約1/4であるから1ドル=1分である。
(銀1匁=丁銀2.6匁。1ドルの銀量6.1588匁には、6.1588匁× 2.6(二六双)=丁銀16.016匁 ≒ 16匁。となり、”洋銀”1枚は”丁銀”で16匁となる。これは、幕府公定レート”一両=銀60匁”、つまり、丁銀60匁のほぼ 1/4。1両の1/4は、一分であるので、1ドル銀貨1枚は、一分銀1枚にあたる)
上述「幕末明治期におけるわが国通貨主権と外国資本(上)」は弗銀(米ドル銀)の説明あるが、もうひとつの国際通貨であった「洋銀」の検討として、メキシコドル(メキシコ銀貨1ドル)がある。
当時の貿易通貨は、1535年いらい世界第一の銀産出国であるメキシコで鋳造された「メキシコドル」であった。日本人はこれを「洋銀」と呼んでいた。こちらも、江戸幕府の通貨制度の一両は一分銀4枚と等価交換となった。


「幕末・横浜洋銀相場の経済学」/東北学院大学・髙橋秀悦(2015年)に、メキシコドル(洋銀)の検証として次がある。
『幕府が銀地金を買い上げる価格を双替相場というが、当時の相場は、「二十六双」、すなわち、重さ10匁の銀地金の買い上げ代金が通用銀26匁であった。この双替相場でメキシコ銀貨1ドルの純銀量(6.12匁)を評価すると、16.016匁(=純銀量6.12匁×2.6)となることから、端数を切り捨て、「1ドル=16匁」としたのである。
従って、洋銀(メキシコ銀貨1ドル)の重さ1匁当たりでは、価額16匁÷平均重量7.12匁=価額2.25匁(精確には価額2.247匁)となるのである。ここに、洋銀1枚(1ドル)は、(価額で)銀16匁相当となり、(公定の価額で)銀15匁とされていた「一分銀」1枚とほぼ同じ価値とされたのである。
嘉永年間に流通していた「一分銀」の多くは、天保8(1837)年11月以降に鋳造された「天保一分銀」 である。この「天保一分銀」の量目(重さ)は、2.3匁,品位(千分比)988.6であったことから、純銀量は、2.274匁であった。
従って、「純銀量6.12匁のメキシコ銀貨1ドル」と「純銀量2.274匁 の天保一分銀」との「1枚対1枚」の交換ということになる。「計数貨幣」である洋銀1枚は、「計数貨幣」である一分銀1枚と等置されることになったのである。』



幕末、金貨流出額の検討

■海外に流出した金貨額の検討と推計
開港直後の金貨流出額については100万両から10万両まで諸説がある。これらの説について、石井寛治[1984]は流出額を10万両程度との推定を行い、新しい史実の発見に伴い50万両説を修正して30万両説を唱えていた石井孝氏もこれを支持している。
また、髙橋秀悦氏による金貨流出推計額は2015年には13万両説に2018年には12-21万両と推定額が変化しているが、同じように通説の100万両説を否定している。
○安政六年(1859)の開港とともに、大規模な金貨流出が始まった。
その流出量は、「半年間で10万両とも50万両」とも言われている。(NICHIGIN 2009 NO.18,東京大学 武田晴人)
また、流出金貨の推計額として、10万-15万両説(マックマスター,石井寛治,石井孝-1984年)、50万両説→30万両説に修正(石井孝-1959年)、80万両説(三上隆三-1989年)、100万両説(ラートゲン,竹越与三郎-1920年)、858万両説(藤野正三郎-1994年)などの諸説があり、推計値の乖離幅が非常に大きい。
(藤野の858万両説は幾人かの学者が独自の視点で見直しを行い、適正な推計額の論文展開をおこなっている)

○幕末期の流出金貨の推計額について、「東北学院大学経済学論集 第185号, 幕末・金貨流出の経済学(2015年)」/髙橋秀悦に、以下の考察がある。
髙橋秀悦氏は10万両から858万両の各推計額を検討し、史実と髙橋氏の推測を交えて、最終的な流出金貨が13万両であったと帰結定義している
『経済分析の観点からは、石井孝(旧推計)の30万両説と三上の80万両説は、(推計値は異なるが)一分銀交換高に着目する点で共通点をもっており、同じ分析フレームによる「上限(80万両)」 と「下限(30万両)」と捉えることができよう。
石井孝自身は、新推計の10万両説を展開する中で、 旧推計の30万両説が「安政6(1859)年の貿易額の過少推計」によるとの認識に立って、新推計の10万両説を展開している。
(中略) 藤野の858万両説は、基本的には、明治2(1869)年と安政5(1858)年の貨幣鋳造用の「銀」 数量の差異を、貿易等による洋銀流入量等(国際収支差額等)、国際収支以外の洋銀流入量(金貨流出高)、国内銀生産量の合計として把握する考え方に基づいている。
(中略) 藤野推計(858万両説)では、石井孝が長年の研究から整備した貿易データ『横浜市史 第2巻』を利用しているが、データの信頼性に欠ける面があることから、貿易データに大胆な仮定をおいて金貨流出額の推計を行う。これにより、金貨流出額は、13万両台まで激減する
髙橋秀悦の考察の終盤に、858万両説の藤野推計は、石井孝「新・旧推計」に比べて、経済学的知見・統計データと膨大な計算を必要とするが、推計自体が、金貨流出額の最大値を推計する手法となっている。 (中略) 藤野推計〈858万両〉に対しては「居留地経済」の概念を導入すると・・・13万両余の金貨が流出した。と(髙橋氏が)まとめている
(中略) 本稿の目的を達成するために ・・・ 「同種同量の原則」による「通貨の交換比率」の決定までの簡単な経緯説明と金貨流出額の諸説の紹介を行う。 ・・・ 「石井寛治・石井孝(新推計)の10万両説」 と「石井孝(旧推計)の30万両説」等を詳細に紹介するとともに、両者の説の金貨流出額の収束可能性を検討する。 ・・・ 結論として、「石井孝(旧推計)」,「石井寛治・石井孝(新推計)」,「藤野推計」のいずれの推計に対しても適度の修正や貿易収支のキャ リブレーションが許されるならば、金貨流出額は、13万両台となることを示す。

(中略) 竹越の100万両説では、若干の論拠が示されているが、データに基づいて金貨流出額を推計した本格的な研究は、石井孝(旧推計)の30万両説、三上の80万両説、石井寛治や石井孝(新推計)の10万両説、藤野の858万両説の4つである。本章では、これらの諸説を整理・紹介するとともに、石井孝推計(新・旧推計)の修正を行い、13万両説を提示する
本稿の第1章「海舟日記」、第2章「金銀の内外比価の相違と金貨流出」、第3章「万延小判・万延二分判の発行の幕末経済への影響」、第6章「金貨流出額の推計:居留地経済の推計」、第7章「金貨流出額の推計とキャリブレーション」を省略し、「第4章:金貨流出額の推計:石井孝推計(新・旧推計)の修正」から以下に髙橋氏の推敲を概要を記述する

「金貨流出額の推計:石井孝推計(新・旧推計)の修正」(第4章)
本稿のメイン・テーマに戻って、幕末の金貨流出額について検討することにしよう。
この幕末の金貨流出額については、本稿の冒頭で述べたように、阪谷芳郎の2,000万両説から山崎覚次郎の1万両説まで極端なひらきがあって、正確なところは不明であり、定説がない。この両極の2つの説は、経済学的根拠をまったく示すことなく、単なる推量を述べるにとどまっている。
竹越の100万両説では、若干の論拠が示されているが、データに基づいて金貨流出額を推計した本格的な研究は、石井孝(旧推計)の30万両説、三上の80万両説、石井寛治や石井孝(新推計)の10万両説、藤野の858万両説の4つである。
本章では、これらの諸説を整理・紹介するとともに、石井孝推計(新・旧推計)の修正を行い、13万両説を提示する。

「阪谷説、山崎説及び竹越説 幕末の金貨流出について」(第4章)
最初にその数量を示したのは、明治23(1890)年の阪谷芳郎の1億円(2000万両)説である。・・・ このデータ的に根拠が明白ではない説に比して、大正9(1920)年の竹越与三郎の100万両説は、ブラックやラトーゲンの資料に基づき推論を行っている。
・・・ ラトーゲンの「実際輸出せられし金の量は知り難きも、慎重に考察せば、多くも小判一百萬個を出でず」を引用しているのである。竹越説に関しては、山口和雄(1943)が「竹越氏もこれらの説に準據し、金貨流出額は約百萬両とされて居る。
勿論、正確な流出高を示すことは殆んど不可能と思ふ。」と述べていることが、竹越説をほぼ通説=100万両としたのである。(石井寛治,1984年)。

「石井孝推計(旧推計)と三上推計」(第4章)
幕末の金貨流出についての明治・大正期の議論の展開は、前節の通りである。近年でも「大は800万両から小は10万両まで、ずいぶんと開きがあるが、妥当なところは30万両~40万両というところだろう(東野治之(1997))」のように推量をもって自説とする専門家が多い中で、早い段階(昭和15(1940)年)からデータに基づいて推計を行っていたのは、石井孝である。
金貨流出推計額は、石井孝(1940a)(1940b)では50万両内外、また『横浜市史 第2巻』では30万両内外である(『横浜市史 第2巻』の該当箇所の執筆者は、石井孝なので、本稿では、石井孝(1940a,,1940b)と石井孝(1959)を「旧推計」と呼び、石井孝(1987)を「新推計」と呼ぶことにしよう。
・・・ 石井孝(旧推計)では、まず、金貨流出額を推計するための基礎的数字として、安政6年7月から安政7年1月までの「洋銀と交換された一分銀の数量」を推計する。この基礎的数字は、洋銀と一分銀の一日の交換限度額4,000両をベースとして推計した結果、石井孝(1940b)では、84万両とされたが、石井孝(1959)では、51万7,500両に修正されている。・・・「石井孝(1959)では、30万両内外」を結論としているのである(先行研究の石井孝(1940b)では、・・・ 50万両内外を結論としているのである)。
ところで、石井孝(1987)では、ほとんど言及されていないが、『横浜市史 第2巻』の「第58 表各港貿易価額」と石井孝(1987)の「第6表 1859~67年輸出(入)超過額」 とを比較すると、1859年の輸出入額のデータが修正されているのである。(中略)この変更された数字をもとに、石井孝(旧推計)を適用すると、金貨と交換された額(=基礎的数字-横浜輸出額)は、15万3,600両(=51万7,500両-36万3,900両)となる。 (中略) これがメキシコ・ドルと交換される一分銀15万3,600両である。
石井孝(1959)では、この一分銀のすべてが等価で金貨に交換されたと想定していたのであるが・・・石井孝(1987)では、外国人が「一分銀」を「金貨(小判)」と交換する際のレートは、「1両=2.5ドル(従って1両=一分銀7.5枚)」 と内容が変更されているのである。(中略) 輸入代金の全額が金貨で支払われたと仮定することには無理があることは、明らかであるので、 輸入代金10万1,100両のうち半分(5万550両余)が金貨で支払われたと仮定すると、これを含めた金貨流出額の合計は、13万2,000両程度になる。

「石井寛治推計と石井孝推計(新推計)」(第4章)
(略) 幕末期のジャーディン=マセソン商会(Jardine, Matheson & Co.)は、デント商会(Dent & Co.)と並んで、イギリスを代表するアジア貿易を中心とする巨大商社であった。
(中略) 石井寛治は、この期間に船積みされた4万5400ドルの金貨は、McMaster(1960)の「小判1個=2.6 ドル」を暗黙裡に想定し、「小判にして2万両足らず(石井寛治(1984))」の実績に終わったことから、デント商会をはじめとする欧米商社による金貨輸出やアメリカ軍艦ポーハタン号乗組員による狂乱的な金貨購入等を勘案しても、10万両台(仕入れ額20 ~ 40万ドル)と推計しているのである。
この石井寛治推計に対して、石井孝(1987)は、「大枠からいえば、これでよいと思うが、著者はさらに流出額を限定してみたい」として、次の議論を展開する。
まず、ジャーディ ン=マセソン商会の金貨輸出額を、石井寛治(1984)と同額の4万5,400ドルとする。次に、1860年の横浜の輸出額データから、これに占めるジャーディン=マセソン商会のシェアを21.3%と推計する(1859年下半期データは不正確なので採用しない)。
この2つから、横浜のすべての商社の金貨輸出額は、21万3,146ドル(=4万5,400ドル/0.213)となる。これに「小判1個=2.5ドル」の調達コストを想定すると、8万5,258両となる。
これを基礎的数字として、初めは調達コストが2.5ドルよりも安かったこと、長崎からの金貨輸出、船員・領事館員による金貨輸出等を考慮すると、「金貨流出額は10万両内外」となり、「いくら大きく見積もっても、15万両を越えることはあるまいと思う」となる(石井孝(1987))。
(中略) このようにジャーディン=マセソン商会文書を解釈すると、先の石井寛治推計の「金貨流出額は10万両台」や石井孝推計(新推計)の「10万両内外」には、オランダ商人の金貨7万8,000ドル(古い債権の清算金として受け取った銀貨をつかって獲得した金貨)を加算しなければならないことになる。McMaster(1960)の「Table」を参照すると、Carthage号の(金貨)積荷コスト7万8,000ドルは、金貨3万個(3万両)とされていることから、これをも含めた金貨流出額は、およそ13万両内外ということになる。
このように、石井寛治推計や石井孝推計(新推計)に対してこのような修正を行うと、13万両内外ということなり、前節の石井孝推計(旧推計)に対する修正値13万2,000両程度とほぼ一致することになる。

「金貨流出額の推計:藤野推計の検討」(第5章)
前章で整理したように、金貨流出額は2,000万両説から1万両説まで極端なひらきがあったものの、いったんは100万両説が通説的な地位を占めるに至ったが、石井孝推計(旧推計)の50万両説(のちに30万両説)からその見直しが始まり、ジャーディン=マセソン商会文書に基づく 10万両説 も登場するまでになった。
(中略)これに一石を投じる 新推計が最近に現れた。藤野正三郎教授による820万両強というきわめて大胆な推計がこれである(山本(1994))」、あるいは、「最近発表された藤野正三郎の研究では、貿易・貿易外・ 資本の各収支等という広範囲の条件を視野にしつつ、開港時の金貨流出を第1次のそれと規定し、およそ820~860万両と推定している(三上(1991)」」のである。
・・・ 藤野(1994)に所収された最終結論は、「第1次金貨流出額858万両」である。(以下「藤野推計の方法」「藤野推計と幕末経済データの検討」を省略する)

「むすび」…「東北学院大学経済学論集 第185号, 幕末・金貨流出の経済学(2015年)」
幕末の金貨流出額は、1890年の阪谷芳郎のセンセーショナルな2,000万両説に始まり、長年、さまざまな議論が展開されてきたが、多くの場合、経済学的根拠はまったく示さずに、単なる推量を述べるにとどまっていた。
こうした中にあって、石井孝は、1940年頃から、一貫して、経済データに基づいて金貨流出額を推計してきた。石井孝の「旧推計」は、50万両に始まり、のちに30万両に修正され、ジャーディン=マセソン商会資料に基づく「新推計」では、金貨流出額10万両内外となった。
これを受けて、金貨流出は、それほどセンセーショナルではなかったとする方向に傾いていたが、これに一石を投じたのが、藤野正三郎の858万両説である。藤野推計は、石井孝「新・旧推計」に比べて、経済学的知見・統計データと膨大な計算を必要とするが、推計自体が、金貨流出額の最大値を推計する手法となっている。
本稿では、石井孝「新・ 旧推計」に対しては適度の修正を行い、藤野推計に対しては「居留地経済」の概念を導入するとともに、(石井孝が作成した)貿易収支データのキャブリブレーションを行った。いずれの方法においても、金貨流出額は13万両台となった。

「近代日本における貨幣統一について」/随清遠・平本雅久の中では、次のような一文が提示されている。
(横浜市立大学論叢社会科学系列 2019年度:Vol.71 No.2)
流出金貨の推計値の乖離幅が非常に大きい事に関して、『その規模については、明治期の阪谷芳郎(1890) 推計の2000万両をはじめ、石井孝(1959) の30万両、石井寛治(1984) の10万両、藤野正三郎(1994) の858万両など各研究から得られた推計値の乖離幅が非常に大きい。
近年、高橋(2018) はそれに関する新しい推計を試みているが、依然として推計方法によって結果が大きく異なっている。アプローチによって結果が異なる数値に対して、高橋は金の流出規模が12-21万両とみている。』
これは、石井孝「新・旧推計」に対して適度の修正を行い、藤野推計に対しては「居留地経済」の概念を導入するとともに、貿易収支データのキャリブレーションを行った。その結果、金貨流出額は十二万両から二十一万両の範囲となった。」からの推論である。2015年論文では流出金貨13万余、2019年は、12-21万両と変化している。



金貨流出の期間
京都大学経済学会 1958年『日本におけるメキシコドルの流入とその功罪(3)』小野,一一郎より以下記する。
『金貨流出の期間については種々なる説がある。たとえば、遠藤氏はこの期聞を大体開港直前から万延元年一月まで、少くとも、八、九ヵ月間であるとし、石井教授は最大限開港後七ヵ月間、つまり安政六年六月開港以後金貨値上となった万延元年二月一日までであり、流出のことに盛んであったのは、安政六年八月の内外貨交換がやや便利となってから十月下旬の江戸城本丸炎上を理由とする内外貨変換停止にいたる二ヵ月余の間であるとされている。
なお、E・ラトーゲンは安政元年十一月まで最大限、四ヵ月間と推定している。いずれにせよ流出期間が比較的短期であったことは疑いない。なお金貨流出額についても種々の見解が発表されている。ラートゲンはほぼ百万両と推定し、石井教授は精密な推計の上に、これを五十万両内外(保字金・正字金で)とされている。』
※:保字金は「天保小判」を正字金は「安政小判」であり、小判の裏側の刻印が「」「」であることを意味する。



金貨流出の防止(貨幣改鋳)

■安政・万延の貨幣改鋳の目的
貨幣改鋳とは、貨幣の品位・名称を変更し、旧来の貨幣を回収して新しい貨幣に鋳直し、 市場に流通させるまでの一連の事業を指す。
幕末に行なわれた二つの改鋳、安政ならびに万延の改鋳は、幕末、アメリカをはじめとして各国と修好通商条約(安政の五ヵ国条約)が結ばれて、外国との貿易が始まった時に起こった金銀比価の乖離への対応策である。

安政元年(1854)幕府は欧米諸国の圧力に屈し和親条約を結び、以来日本の金貨は大量に海外へ流出しはじめる。それら金貨の流出を阻止するために安政小判が造られた。
安政6年5月25日(1859年6月25日)から鋳造が始まり同年6月1日(1859年6月30日)より通用開始された。(安政小判の発行枚数は351000枚)しかし、その攻防も結局欧米の強い反対にあい、わずか20日間という短い使用期間で幕を閉じた。

安政六年(1859)の開国以来、外国との金銀比価の違いから、日本における銀高金安を利用して、外国の貿易商会や外交官たちは洋銀(欧米の銀貨)を日本に持ち込み、日本の金貨の「小判」や「二分判金」に換えて海外に持ち出して多量の金貨が海外に流出した。

こうした金貨流出を防止するため、まず安政7年(1860)1月、幕府は天保・安政小判の銀貨に対する価値を約3倍に引き上げる「直増通用令」を発した上で、万延元年(1860)4月には、1両当たりの純金量を1/3に減らした「万延小判」を発行した。
この結果、国内の金銀比価は国際基準にようやく平準化し、金貨流出は収束に向かっていった。


■金貨流出の問題は解決した
『江戸時代末期における金銀比価について』松山大学井上正夫,2012年
「万延元年(1860)4月には、金量1.87gの「万延小判」が発行された。これにより、洋銀4枚が一分銀12枚(3両)に交換されても、金1両との交換により入手できる金地金は5.61g(1.87g×3)となり、国外での金銀比価15対1で洋銀に交換しても84.15gの銀地金つまり洋銀約3064枚を得るのみとなる。こうして、金貨流出の問題は解決したのである。」

幕末に実施された万延の改鋳は、江戸期の貨幣史において再三にわたってみられたような、幕府財政の立直しや財政資金の調達を主たる目的としたものではない。

日米和親条約で部分的に自由化された交易により小判(金貨)が大量に流出したため、従来より金の含有量を落とした小判を鋳造したものであった。つまり、この小判金は世界の荒波にさらされた時代背景を物語っており、1両あたりの金量を国際基準に近付け、海外に対抗しようという目論みがあった。



江戸時代最後の万延小判金(品位は金574/銀426、量目は3,30g)は、品位は天保小判金(品位は金568/銀432、量目は11,20g)・安政小判金(品位は金570/銀430、量目は8,97g)と同じ約57%であったが、大きさは安政小判の約1/3と著しく小型化され、純金量はわずか1.9gと最初の慶長小判金(純金量:15,19g)の約1/8まで減少した。

しかし、当時流通したのは「万延小判金(金一両)」より品位の低い「万延二分判金」(品位は金229/銀771、量目は3,00g)で、文久、元治、慶応年間を通し本位貨幣の万延小判の新鋳額64万両に対し5,320万両という膨大な額が発行され幕府に出目益をもたらしたと言われている。


参考資料:
日本銀行金融研究所「改鋳の歴史」「金融研究」「貨幣博物館」 ,小学館「日本歴史観」 ,日本銀行金融研究所「NICHIGIN 2009 NO.18」(武田晴人,2009),京都大学「日本におけるメキシコドルの流入とその功罪(3)」(小野,一一郎,1958),日本銀行金融研究所「江戸時代における改鋳の歴史とその評価」(大塚英樹,1999) ,青山学院大学「万延の改鋳における新旧金貨引替え・引替元金・御手当被下金」(須賀博樹,2016),東京大学「幕末の金流出」(武田晴人) ,慶應義塾大学「幕末期貨幣流出高の藤野推計について:批判的覚書」(西川俊作,1994),東北学院大学「幕末・金貨流出の経済学」(髙橋秀悦,2015),東北学院大学「幕末・横浜洋銀相場の経済学」(髙橋秀悦,2015),横浜市立大学「近代日本における貨幣統一について」(随清遠・平本雅久,2019),松山大学「江戸時代末期における金銀比価について」(井上正夫,2012),秀明大学「近世・近代日本貨幣史の基礎的研究」(小林延人,2015)




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