日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-
江戸の外食・醤油文化 | ||
江戸外食文化の定着-5 |
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江戸食文化の定着(5) -鍋料理屋・肉料理屋- 日本の料理といえば、米を中心とする穀物、野菜、豆腐、あるいは魚からなる料理がイメージされますが、日本においても肉が全く食されてこなかった訳ではありません。古来より狩猟・採集が盛んで、農耕が始まった後も、獣肉食の習慣は続きました。仏教伝来により、肉食が禁忌されるようになったものの、冬季には農業が困難となる山間部の寒冷地などでは、貴重なタンパク源として「獣肉」「山肉」といった山の幸が鍋料理として食べられました。 江戸時代に花開いた日本の鍋文化、鍋の利用法に変化が生じるのは江戸時代のことです。鍋料理の調理器具は鍋と火鉢・七輪だけですので、火鉢をテーブル代わりに囲み、そのまま食べるスタイルが生まれたのです。 鍋が食器兼用になった理由のひとつは、庶民の生活にあります。都市部の人口が非常に多くなり、狭い長屋に住む人が増えていきます。狭い長屋にはカマドは一つしかありません。そこで、比較的容易に持ち運びできる「七輪」が大きく貢献しました。庶民の生活はとても質素であり、薪や水も無駄にはできないものでした。 加えて、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉にもある通り、木製の長屋は非常に燃えやすく、火事は常に心配されていました。おかずやみそ汁を作るたび、何度も火を起こしたくありません。だからこそ「鍋」が普及したのです。鍋料理は水と食材を入れ、火鉢や七輪にかける(木炭を使用)だけで簡単に作れるわけですから、長屋暮らしの人々に広まっていきます。 小鍋を食卓で少人数、もしくは一人で食べる鍋料理のことは、囲炉裏にかける「大鍋」に対して、食卓に持ちだす鍋物を「小鍋膳立て」、略して「小鍋立て」と呼ばれました。やがて、塩や味噌に加えて、醤油やみりんといった調味料が加わり、鍋料理の種類は増えていきます。 それに伴い、「煮込みながら食べる」鍋料理の店も登場し、1801年(寛政13年)、浅草に開店した、どじょう鍋の店「駒形どぜう」をはじめ、「田楽鍋」「あさり鍋」「ねぎま鍋」「湯豆腐店」、そして幕末には「牛鍋」といった鍋専門店が数多く出店しました。江戸の食文化は大きな発展を遂げます。 なお、鋤焼(すきやき)は現在では鍋料理ですが、江戸時代には、農耕用の鋤(すき)を鍋のかわりにして魚鳥などの肉を焼く焼き物でした。また、牛肉のスキ焼きを長崎で食べたとの記録が残っています。嘉永七(1854)年『西征紀行』には、プチャーチンとの対露交渉の幕府特別随員であった蘭学者箕作阮甫が長崎でロシアから牛肉をもらい、もらった牛肉をスキ焼きで喰ったと記録されています。 鍋料理屋 ■ 鍋料理の誕生鍋料理が囲炉裏の無い町屋や料理屋で、座敷に七輪や「小鍋立て」という鍋を持ち出して食べるようになったのは、文化が爛熟した江戸時代後期とされる。七輪の火はそれほど強くないから、大ぶりの鍋はかけられない。もっぱら小鍋や行平鍋、浅鍋をかけて、小鍋でちょっとした料理を作っていた。作りながら食べる鍋料理にぴったりの道具が七輪だったのである。 「小鍋立て」というものは、座敷に持ち出す鍋料理の「小鍋膳立て」の略で、小さな土鍋を七輪や長火鉢などの火にかけて、「あさりと小松菜の煮物」「いわしの生姜煮」などを煮ながら一人か二人くらいで食べる(そして酒を飲む)ものだった。これが今にいう「鍋料理」である。小鍋とは囲炉裏にかける鍋と区別する呼び名で囲炉裏にかける鍋を大鍋と呼んだ。小鍋立てで、どじょう鍋、湯やっこ(湯豆腐)、ねぎま鍋、アンコウ鍋、シャモ鍋などをしていたとされる。 この頃には、調味料の主体であった塩や味噌の他に“醤油”や“みりん”が加わって鍋料理が確立していく。当時は肉食が禁止されていたが、「薬食い」として「ぼたん(イノシシ)鍋」「もみじ(シカ)鍋」を提供する獣肉料理屋(ももんじ屋)や、茶飯屋では、コンニャク田楽(でんがく)やさまざまな食材を醤油だし汁で煮込む「おでん(煮込み田楽)」が生まれ、定番の「湯やっこ(湯豆腐)」、「ねぎま鍋」、「鮟鱇(あんこう)鍋」、「どじょう鍋」の店などで、鍋料理を一人膳で出す様々な鍋物屋が出現するなど鍋料理も多様化が起きた。 ![]() ![]() 『東京美女そろひ 柳橋きんし』 歌川国貞 明治元年(1868)、幕末期の鍋料理(小鍋立て)の絵 ひとり酒の美女がコタツを背に長火鉢の小鍋(小鍋立て)に張った汁に具材(魚か肉)を入れて煮ている。傍らの膳には徳利と料理が並んでいる。 囲炉裏端の鍋から、座敷に七輪や鍋を持ち出して食べるようになったのは、文化が爛熟した江戸時代後期である。 ■ 鍋料理の専門店の登場 当時の鍋料理で一般的だったのが、泥鰌(どじょう)鍋である。江戸初期の料理書『料理物語』は、どじょうの用途を「汁 すし」と記述しており、『守貞鏝稿』には土鍋の絵も描かれ、どじょう料理が「昔は丸煮と云ひて、全体のまゝ臓俯(ぞうふ)も去らず味噌汁に入れ、泥鰌汁と云ふ」と書いている。「どじょう汁」や「どじょう鍋」は泥鰌を骨ごと食べるのか一般的だったようである。 江戸後期に入った享和元年(1801年)には、浅草にどじょう鍋店「駒形どぜう」が開店する。泥鰌を開いて骨や内臓を取り除き、笹掻きにしたゴボウを味醂と醤油の割下で煮て鶏卵でとじる「柳川鍋(やながわなべ)」は、天保初年(1830年)に江戸の柳川屋が始めたといわれる。 ただし少し高価な料理で、庶民や下級武士が口にする“どじょう料理”といえば、泥鰌を丸ごと味噌汁に入れた「どじょう汁」や「丸煮(尾頭付き姿の醤油煮)」が一般的であった。この「小鍋立て(鍋料理)」の「どじょう鍋」「湯豆腐」「アサリ鍋」「ねぎま鍋」などの鍋料理を出す専門店も多くあった。中でも、江戸料理のひとつ「ねぎま鍋」は、まぐろトロ、長ねぎ、セリをカツオの酒だしでじっくりと煮たもので、魚の臭みが抜けて庶民の間で鍋人気を集めた。 ![]() ![]() 幕末の江戸勤番の紀州藩士、酒井伴四郎の『酒井伴四郎日記』には、どじょう鍋の丸煮(内臓を取らない調理)は、どじょう汁十六文、どじょう鍋が四十八文。また、どじょう店では、なまず鍋、アナゴ蒲焼、アナゴ鍋も商っていたとある。 また、次のような鍋料理の記述がある。「京橋之手前ニ而(にて)かしわ鍋喰に這入り、扨(さて)かしわを出し候処、大にこわく、其上腐り候ト見へ大にくさく、油気ハ聊(いささか)も無之、誠つまらん物出し一口喰て返し蛤鍋ト替、夫ニ而一盃呑申候」とある。鶏鍋を食べようと店に入ったのは良いが、固くて臭くて脂気もない。一口食べて突き返し、かわりに蛤鍋で杯を傾けた。その代わりハマグリ鍋を注文し、それで一杯呑む。(かしわ鍋は、鶏の肉をねぎなどと一緒に味噌や醤油とで煮て食べる料理のこと。) ![]() ![]() 料理茶屋「新版御府内流行名物案内双六」より、「りうかんばし どぜう」,「はま川 あなご」 画:一英斎芳艶(弘化4~嘉永5年) ■ 薬食いという「肉鍋」も登場する 日本食生活学会誌『江戸時代における獣鳥肉類および卵類の食文化』には、「肉食が日本で注目されたのは織田信長の時代で、南蛮料理が始まって西洋人が肉食の生活を持ち込んでからである。貴族や武士などの支配階級の間には「薬食い」と称して肉食はしていた。 江戸時代,寛永20年(1643),『料理物語』に、鹿,狸,猪,兎,川獺,熊,犬などの料理法を記載した文献がある。また、元禄20年(1843)、人見必大著者『本朝食鑑』には、牛,羊,豚を上食としている。牛肉の利用法については牛胆を薬に用いる。牛肉の薬効は筋肉や腰脚を強くする。また、白乾した黄牛肉を水煮して煎じて服用するとあり薬効として用いている。正徳4年(1714),『当流節用料理大全』には川獺は「熱病に吉」、狐は「きもを焼いて風邪を直す」など薬効についての記載がある。古代から肉食を忌む風習があった。そのために、鳥獣の肉食は病人の養生や健康回復を目的として薬代わりに「薬食い」として食べられていた。」とある。 ももんじ屋は、文化・文政時代(1804~30年)になると店の前に「山くじら」と書いた行灯や、牡丹や紅葉を描いた戸障子や旗を目印としてかかげていた。 ![]() 江戸時代において殺生を嫌う文化などから獣肉は表向き禁忌とされてきたが、江戸の人々は、滋養強壮のため「薬を食う」とこれを称し、獣肉に舌鼓を打った。獣肉を商う店の「山鯨(やまくじら)」は、猪肉または一般に獣肉の異称で、獣肉を売る店を「ももんじ屋」といった。 獣肉の異称として、馬肉を「さくら」、猪肉を「ぼたん」または「山鯨」、鹿肉を「紅葉(もみじ)」、鶏肉を「柏(かしわ)」などと称していた。ちなみに、「さくら」は馬肉の色が桜の色に似ていることから、「ぼたん」はお皿に盛った肉の形が牡丹(ぼたん)の花に似ていることから、「もみじ」は『奥山にもみじ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき』の和歌から称された名前である。 ももんじ屋の料理は獣肉に葱を加えて煮る鍋物が主で、紅葉鍋、牡丹鍋と呼ばれていて、『江戸繁昌記』(1832)では獣肉の中で最も美味なのは牛肉とある。淡泊なものを食べてきた江戸時代の庶民にとって、高タンパク質の獣肉は活力を上む食べ物、つまり、健康食として考えられていた。たとえば、江戸時代の食べ物百科事典といわれる『本朝食鑑』(1697年)は、“牛肉”をこう記している。「気を補い、血を益し、筋骨を壮んにし、腰脚を強くし、人を肥健にする」。つまり、「薬食い」とは、獣肉を食べるための単なる言い訳とは言い切れなかった。 江戸時代、「牡丹」と称されて薬として食された猪肉に次のような狂歌がある。旬の味を誇る初鰹では『空を行く山ほととぎすそれならで地にもはねある初鰹かな《空飛ぶ山ホトトギスには羽があり、地面に置かれた初鰹は羽が生えて高く売れる》』があり、猪肉では『初鰹より初牡丹羽が生え』と詠まれていた。 肉料理屋 日本には、古代から仏教的不殺生に依拠した獣肉食を忌む風習があったが、江戸時代、野生の獣肉は一般的な食材ではなく病人の養生や健康回復を目的として薬代わりに「薬食い」と称して折に触れて食べられていた。肉食に対する禁忌が最も強かったといわれる江戸期において「聞く、天武帝の四年、天下に令して始めて獣食を禁ず。病に餌ふにあらざるよりは、輙くらく瞰ふことを許さず。世因つて謂ひて薬食ひと日ふ」というように、肉食はおもに薬食という名目の下でなされていた。薬食は、将軍家や諸大名に献上された彦根藩の牛肉の味噌漬に代表される社会的上層によるものと、江戸などの都市における庶民層の薬食との二つに分けられる。 江戸期も獣肉食を忌む風習が続いていたが、庶民は広く肉を食していた。江戸初期の代表的な科理書『料理物語』(1643)には「狸汁、野はしり(狸)は皮をはぐ。(中略)味噌汁にて仕立て候、妻は大根ごぼうその他いろいろ。吸口、にんにく、だし、酒塩」とある。 江戸後期の国学者喜多村信節は著書『嬉遊笑覧』の中で、元禄前の延宝~天和(1672-1683)の頃には江戸四谷あたりで獣市があったという。同じく、『嬉遊笑覧』には当初、山鯨(獣肉店)の風情よりあさましき売物に見えたすっぽんも幕末には一般に親しまれ、高値で商われたと記される。 獣肉店、すっぽんの両者がともに粗末な「簀張」の形態をとり、次第に固定の店舗やうなぎ屋等で供されたことからは、江戸時代の人々の食の禁忌に対する意識の変化が見て取れる。
『守貞謾稿』後集巻之一「食類」に、「横濱開港前より、所々豕(ぶた)を畜ひ、開港後弥々多く、又、獣肉店民戸にて之を売ること専也。開港後は、鳥鍋、豕鍋(ぶたなべ)と記し、招牌(しょうはい=看板)を出し、鍋焼に煮て売る店も所々に出たり」との記述がある。(安政元年(1854)に日本の開国を約した日米和親条約が締結される。そして、安政6年(1859)に横浜が開港した) ■ 野獣肉屋(ももんじ屋) 江戸末期の享保3年(1718年)には、獣肉の専門店の「豊田屋」が江戸の両国で開業している。このような野獣肉屋(ももんじ屋と総称)では、紅葉(鹿肉)、牡丹(猪肉)など隠語名を使い獣肉の種類別に薬効を表示して販売している。江戸の人はここでイノシシ、シカなどの肉を買って鍋料理にして食べていた。 享和4年(1804)には、浅草山谷の「八百善」が開業し、葛飾北斎や狂歌の太田南畝などが客として話題になった。「薬食い」といって肉料理が食膳に出されていたという。 また、江戸時代後期の雑学本『松屋筆記』小山田与清(1815-46年)によれば、文化・文政年間(1804-1830)より、クマ・オオカミ・キツネ・タヌキ・ウサギ・イタチ・キネズミ・サル・ヒキガエル等の肉類を売る獣店(けものだな)が多数あったという。こうした獣店が増えて「けだもの屋」「ももんじ屋」「山奥屋」と呼ばれた。 ![]() ![]() L.クレポン画 「江戸の獣肉屋」(1870年)/Aimé Humbert Le Japon Illustré, t. 2. Libr. de L. Hachette, 1870
「獣肉の鍋料理」の昧は鰻に匹敵するおいしさともいわれて繁盛したという。獣肉店が降盛を迎えたのは、江戸後期の文化・文政期(1804~30年)頃からといわれる。1829年(文政12年)完成の地理書『御府内備考』には麹町平河町や神田松下町に「けだもの店」があった旨が書かれている。麹町のほかには、東両国の「豊田屋」や北紺尾町の「尾張屋」などがあったといわれている。 「ももんじ屋」と呼ぱれる獣肉屋が軒を連ねていたという江戸の麹町。後世の研究などによると、江戸の第一号店とされるのが、麹町の「山奥屋」(甲州屋という説もある)である。天保年間(1830~44年)の頃になると、ももんじ屋では売るだけでなく、店内で飲食もできた。「山奥屋」は“獣肉店”と“料理店”をかねており、猪、鹿、兎などの獣肉を扱っていた。客が買求めた獣肉を包む油紙は、リサイクル行商人「古傘買い」から買い求めて使っていた。 「古傘買い」とは、破れたり骨が折れた傘を状態に応じて1本四文・八文・十二文で買い取り、集めた傘は骨と油紙に分けられて、骨は傘屋に、油紙は味噌・魚・ももんじ屋(獣肉屋)に包装紙として売られた。 幕末の風俗記『守貞謾稿』には「三都ともに獣肉売店には異名して山鯨と記すこと専ら也。又、猪を牡丹、鹿を紅葉と異名す」 、加えて、「江戸は麹町に獣店と云て一戸あるのみなりしが、近年諸所これを売る」、「天保以来、簀張店等にて之を烹売る也。今世、京坂ともに端街に専ら之を売る。今は葭簀張店のみに非ず。小店にて烹売する由也。江戸には特に多く之を売る。三都ともに葱を加へ鍋煮也」とあって、三都とも獣肉売店は異名として山鯨と記している。 獣肉店には当初、町はずれで簀張りの店であったのが、今では少しまともな小さな店でも売るようになり、江戸は獣肉を売る店が特に多く、三都ともネギを加えた鍋物にして食すると書いている。さらに、「横浜開港前より所々豚を畜ひ(養い)、開港後弥々(いよいよ)多く、又、獣肉店、民戸にて之を売ること專也。開港後は鳥鍋豚鍋と記し招牌を出し鍋焼に煮て売る店も所々に出たり」とあって、幕末期には鳥鍋・豚鍋と記した看板を出して鍋煮で売る店もあり、豚も食べられていたと、その様子を伝えている。 このように、江戸時代において獣肉を食すことは表向き禁忌であったにもかかわらず、獣肉を商う店のあったことがわかる。とはいえ獣肉店が当初「端街」つまり町外れに「簀張り」という粗末な店舗をかまえたのは、獣肉食に対しての禁忌が意識され、堂々とそれらを食すことが憚られたためと考えられる。 ![]() 上図は江戸末期の町並みを描いた維新前後風刺画『当時流好諸喰商人尽 山くじら』 、絵師不明。 ももんじ屋の看板に「山くじら」と猪肉の異称「牡丹の花」が描かれている。『当時流好諸喰商人尽』の絵に書かれているセリフは次のとおり。《猪"あんまりでてあるくと みんな子どもがいやがるからよそう"、商人(客)"どうせやけだ、ふだでもしめろへ、一ばいやらかせ"、官軍"イヤどこを見ても、にもつをはこぶてナア"、天秤棒かつぎ"なんでも本所のしんるいへ、あづけるがよかろう"》。 ぶた=徳川慶喜(15代将軍の慶喜は豚肉好きだったことから、「豚一殿」と呼ばれていた)、子供は菊紋(朝廷)を意味する。 ■肉食の広まり 肉食が蘭学者たちの間で次第に広まり、秘かに食する獣肉に対して江戸後期の国学者・小山田与清(おやまだ ともきよ)は雑学百科事典のような随筆(※)『松屋筆記』の中で、
※:『松屋筆記(マツノヤヒッキ)』 明治41年(1908)刊。 文化末年(1818)から弘化2年(1845)頃までの約30年間にわたり、古今の書物の記事を抜き書きし、考証・論評などを加えた随筆。120巻。 ■ 肉鍋料理 寺門静軒の著『江戸繁盛記』(1832‐36年)にも、「山鯨のこと」と題して肉食の事を書いてあり、大名行列が麹町平河町にあった「ももんじ屋(獣肉店)」の前を通るのを嫌がったことが書かれ、獣店での食べ方では、「凡(およ)そ肉は葱に宜し。一客に一鍋。火盆(ひばち)を連ねて供具す」とあるように鍋料理として食していた。 江戸末期の『江戸繁昌記』(1832)には、猪肉はネギが合うと書かれていて、酒の好きな人は一杯やりながら、酒が苦手な人はご飯と一緒に食べる、とも記され「然れども其の味甘脆(かんぜい)なり」と旨くて歯ぎれがよいと書かれている。
鍋の値段には、小は五十文、中は百文、大は二百文の三段階がある。近年は肉の値段がだんだん高くなり、うなぎと匹敵する。けれどもその味はうまく、かつすぐ精気に効き目があるから値段など問題ではない」とあり、江戸では肉食の風習があって、肉料理は病気療養のための「薬食い」と称して、猪肉や鹿肉を味噌仕立てや醤油仕立ての鍋物とし、一人の客に火鉢でひとつの鍋を用意して客に出していたことがわかる。ちなみに、猪肉の効能は「癲癇を直し肌膚を補い五臓を益する」とあり、薬として食されていた。 ![]() ![]() 歌川豊国(三代)「両国夕景一ツ目千金」安政ニ年(1855)より、両国・隅田川沿いの料理茶屋(ももんじや)での遊興を描いた浮世絵で、火鉢にはイノシシ肉(猪肉)とネギを使った小鍋立ての「牡丹(ぼたん)鍋」がかかっている。 ■ 鶏肉と卵 鳥肉に関しては、鶏(にわとり)をはじめ野鳥の雁、鴨、鳩、雉などが食された。『合類日用料理抄』(1689)には焼鳥の調理方法が描かれている。「鳥を串にさし、薄霜ほどに塩をふりかけ焼き申し候。よく焼き申し時分、醤油の中へ酒を少加え、右の焼鳥をつけ、又一変付けて其の醤油の乾かぬ内に座敷へ出し申し候」とあり、江戸時代の初期には焼鳥の料理法はほぼ完成していたようである。 ![]() 一般的に鶏(にわとり)というと真っ白なものをイメージするが、日本在来種の鶏(和鶏)は羽根が茶褐色であった。例えば現在でも地鶏として有名な「名古屋コーチン」などはその典型的なもので、羽根が茶褐色である。鶏肉料理が庶民層で食されるようになるのは文化期(1804~18)以降である。 また、鶏卵が庶民の身近な食物に成ったのは鶏卵問屋や(※)ゆで卵売りが登場する幕末の事である。それまで卵と言えば滋養豊富な高級食材であり、ここ一番の時か病気に成った時くらいしか、庶民は中々食べる事ができなかった。 ※:「卵百珍」とも呼ばれる料理本『万宝料理秘密箱』(1795年)に「煮貫」(にぬき)という名で登場する「ゆで卵」は、当時は行商人によって売られていた。 『守貞漫稿』(1853年)には、次のように記述されている。「湯出鶏卵(ゆでたまご)売り」について「鶏卵の水煮を売る。価大約二十文、詞(ことば)に“たあまご たあまご”という。必ず二声のみ、一声も亦(また)三声もいわず」とある。同書には、うどんやかけ蕎麦は1椀十六文とあり、当時のゆで卵が1個20文はかなり高価なものであった。 ■汁かけ飯 -芳飯(ほうはん)- 「芳飯のごはんは白飯が普通のようですが、江戸時代中期以降の料理書を見ると、炊き込み飯の上にさらに具を飾る場合も出てきます。『料理網目(もうもく)調味抄』享保十五年(1730)刊に出ている芳飯の飯には「鶏飯(けいはん)」が使われています。 雄の若鶏をまるゆでにして、そのゆで湯で飯を炊き、鳥肉は細かく裂いて飯にのせます。具は鶏のほか、うこぎの干葉(ひば)とねぎを「酒」と「醤油」で煮てのせ、薬味に粒こしょう、辛味大根(薬味用の辛い大根)を用いています。これは鶏だけではなく、鴨(かも)や雉(きじ)でも作るとあります。 芳飯のかけ汁は味噌味ではなく、醤油味のすまし汁に変化しています。そして夏には「いもだし」の冷やし汁を使っています。いもだしというのは、山芋を薄く切って一晩水につけて粘りのある汁を作り、煮立てずにそのまま使うものです。山芋のとろみをうまく利用した例で、精進用のだしとしても使われたようです。 また、『料理伊呂波(いろは)包丁』安永二年(1773)刊の「鶏飯(にわとりめし)」は、カツオ節のだしで飯を炊きますし、『素人包丁』二編文化二年(1805)刊では、かけ汁は鶏のゆで汁ではなく、カツオ節だしの醤油味で、ぐっと日本料理らしくなっています。」 ・・・ 『江戸料理百選』/著者、島崎とみ子 ![]() ![]() 「鶏に餌をやる男女」鈴木春信筆 江戸時代・18世紀 日本では古くから野生のキジが食用とされ、鶏(ニワトリ)は食用の対象ではなかった。鶏は家畜というより鑑賞用で羽の色と鳴き声を楽しみ、闘鶏用または時を告げる鳥として飼育されていた。飛鳥時代の「食肉禁止令」の影響もあって、鶏肉を食べる習慣が一般的になったのは江戸時代後期で、鶏が食用になったのは明治になってからである。 ■鶏鍋・軍鶏鍋 幕末に江戸や大坂で鶏肉料理が庶民層で食べられるようになって、鶏肉屋(とりや)・軍鶏屋(しゃもや)の店ができ、葱鍋にして食べさせるようになった。 江戸時代の風俗を詳細に記載した『守貞漫稿』(1853年)によると「鶏 鴨以下鳥を食すは常のこと也。然れども文化以来、京坂はかしわと云 鶏を葱鍋に烹て食す事専也、江戸はしゃもと云 闘鶏(とうけい)を同製にして之を売る」とあるように、京や大阪ではかしわ(黄鶏)を葱と一緒に鍋にして食べるが、江戸は軍鶏を同じようにして食べた。 上方では身近な鶏(にわとり)が、江戸では軍鶏(シャモ)が一般的に食べられていた。また、鶏肉以外にも江戸時代後期(文政年間 1818~29)に書かれた「今治夜話」には「川鳥を煮て食べると神のごとく痢病(りびょう-赤痢の類)を治す」と書かれている。
![]() ![]() 江戸の食文化であ った軍鶏鍋を再現した幕末の軍鶏鎬。 鶏ガラでとった出汁に醤油と味酬で味を付け、軍鶏(シャモ)の肉と内臓、ささがきのゴボウ、ネギを鉄鍋で煮込む。栄養価が高く、精をつける目的で食べられることも多かったという。江戸時代後期になると、座敷や縁側などへ鍋を持ち出したり、料理店で鍋料理が出されるようになった。囲炉裏用の大鍋ではなく、手軽に持ち運べる小さな鍋を用いた【小鍋立て】が流行した。江戸時代後期の浮世絵には、茶屋や小鍋立てを楽しむ武士や町人の姿が多く描かれている。 ■ 豚肉・牛肉 江戸時代、日常の肉食タブー(仏教伝来による殺生禁断や肉食禁止令による禁忌)はゆきわたっていて、日本にきたフランスの牧師J・クラッセの『日本西教史』は、その消息を次のように残している。 「日本人は牛肉、豚肉、羊肉を忌むこと我が国人の馬肉に於けるに同じ。又牛乳を飲むは生血を吸ふが如として敢て用ひず。牛馬極めて多しといえども、牛は農事に用ひ、馬は戦場に用ゆるのみなり」。 しかし、江戸時代後期に、両国と麹町に、けだもの屋として肉屋が存在していた。肉はだいたいが鍋にして食べ、野鳥類は現在のように焼いて食べていた。肉は精をつける薬と考えられ、病気上がりの身体によいとされていた。 1827年(文政10年)に出版された佐藤信淵の『経済要録』に「豕(豚)は近来、世上に頗る多し。薩州侯の邸中に養ふその白毛豕は、殊に上品なり」と書かれているように、一部では豚の飼育も行われていた。 佐藤信淵はこの著作で畜産の振興と食用家畜の普及を提言しているが、牛馬に関しては全く食用の可能性に言及していない。とはいえ獣肉店が当初「端街」つまり町外れに「簀張」という粗末な店舗をかまえたのは、獣肉食に対しての禁忌が意識され、堂々とそれらを食すことが憚られたためと考えられる。 しかし後に小店で商売する者が現れた頃にはその禁忌が薄れ、それを好き好んで食べる客がある程度いたのである。また、当時の日本人には馴染みのなかったと思われる「豚鍋」を商う店が横浜開港以後に増えたという記述もある。
幕末に至ると「豚肉食の流行」とよびうる状況もあらわれた。江戸は上野の広小路に店ができ、ブタ鍋が天保銭一枚。つまりは百文であった。嘉永(1848〜1854年) 以降になると 「琉球鍋」として豚肉を食べさせる店が現れる。この「琉球鍋」屋の中には他の獣肉やシャモも扱う店もあり、豚肉が猪,鹿,兎などの狩猟獣肉と並列の扱いであった。
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(1908年,明治41年に刊行された石井研堂『明治事物起原』によると、横浜の居酒屋「伊勢熊」が外国商館から臓物を安く仕入れて串に刺し、味噌や醤油で煮込んで売り出し、繁盛したと記されている)
![]() ![]() 『牛店雑談 安愚楽鍋(うしやぞうだん・あぐらなべ)』から「牛鍋屋」内の様子 牛鍋屋を舞台に滑稽本風の手法で、あぐらをかいて牛鍋をつつきながら気楽な会話を交わす庶民の生態を凝縮して再現した作品。登場人物は田舎(いなか)武士、職人、生(なま)文人、芸者、商人など。戯作者の假名垣 魯文(かながきろぶん)は江戸京橋鎗屋町に生まれる。 『安愚楽鍋』に「十人寄れば十種の注文。昨晩もてたる味噌を挙。たれをきかせる朝帰り。」とあって、牛鍋の煮方・焼き方・付け合わせなどは、注文をするその場で客が女中に指示し、それに従って板場が即席調理をする。また、牛鍋の味付けは、味噌味と醤油のタレとが両方行なわれていたことを示している。 ■ すき焼き(鳥獣・魚・鯨肉・牛肉の焼肉) 江戸時代のすき焼きは、現代の焼肉や鉄板焼きのようなもので、関西風すき焼きにその名残をとどめている。 (関東風すき焼きは、だし汁としょうゆ、みりんなどを合わせた割り下で煮る、関西風すき焼きは牛肉を焼き、野菜を足しながら砂糖やしょうゆなどの調味料を加えていく) 「すき焼き」の語源は、獣肉を鋤(すき)の上で焼いた料理からとする説、杉の薄板に食材をはさんで焼いた杉焼きが転訛したとする説、魚肉のすき身焼きからとする説など、諸説ある。 すき焼きの前身の「鋤焼き」に関する記述は、江戸時代の料理書にはいくつか見られる。日本では幕末になるまで、牛肉を食ぺることは一般には行われていなかったが、別に「すさやき」と称された料理は存在していた。古くは寛永20年(1643年)刊行の料理書『料理物語jに「杉やき」が登場しており、これは鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする科理である。さらに享和元年(1801年)の料理書「料理早指南」では、鋤焼きが「農具の鋤を熱し、その上で肉を焼く料理」として紹介されている。他にも、薄切り肉を意味する「剥身(すきみ)」から「すき焼き」となった説もある。この魚介類の味噌煮の「杉やき」と、鳥類・魚類の焼肉という「鋤やき」という二種類の料理が、「すき焼き」のルーツとして挙げられている。 ![]() -------------------------------- 「文献にみる牛鍋とスキ焼きの歴史について」 松尾雄二,畜産の研究第 69巻 第9号 (2015年)から「牛・スキ焼き系料理(料理法)」を長文となるが以下の通り抜粋する。 『スキ焼きのスキとは何であろうか。従来より、いくつかの説がある。一つは農具のスキ。二つめに薄切肉のスキミ、これは大槻文彦編の『新編大言海』が有名である。三つめに「杉焼」料理のスギ(後,スキに転靴)がある。新村出の『南蛮更紗』の鋤焼物語にはこれらの説を紹介し、農具のスキ説を採っている。以下の文献により、ここでもその説を採る。 なお、農具のスキとは『日葡辞書』には「Isuqi 鉄刃のついたシャベル状の鋤の一種」とある。農具のスキには鋤,鍬,犁,鉏などとされるが、『和漢三才図会』には鍬を「和名は久和。今,須木」といい、鋤を「和名は須岐。今,久波」というとされる。よって、時代によって異なり、鍬焼きはどのように読まれたかは不明である。(中略) ここで、その起源を探ってみる。『料理談合集』(1804年)名目のやきものの部には、「鋤(すき)やき,雁 鴨 かもしかのるい,つくりたまりにつけおき,古く遣ひたるからすきを火の上に置,柚のわ(ユズの輪切り)を跡先におきて,鋤のうへェ右の烏るいをやく也,いろかはるほどにて,しょくしてよし」とある。鳥獣の肉をたまりにつけ置き,スキを火の上に置き,肉を焼いて肉色が変われば食べてもよい、とある。 ここではからすき(犁か)と鋤とあるが、シャベル状のもので、よく使い古したものを使うとされる。いわゆる鉄板焼き(焼肉)とも考えられる。 『料理早指南』(1801年)二編には、「鋤のうへに右の鳥るい(雁,鴨,かもしかの類)をやく也,色かはるほどにてしょくしてよし」とある。ほぼ『料理談合集』と同内容である。 『素人庖丁』初編(1803年)には、「同(はまち)鋤焼 常のごとく三枚におろし,小口より二分ほどに作り,唐すきを火の上にかけ,よく焼し時油にてぬぐひ,其上へ右の作りたる身をならべて焼くなり。あまりに火通りすぎては悪るし,大こんおろし,しゃう油(醤油),とがらしなどにて席上にて焼くべし,からすきなき時は薄鍋いたら貝の類にてもよし。柚せう油わさひせう油(ゆず醤油ワサビ醤油)いずれもよし」とある。唐すきとあるが、一般には犁(すき)と解されるが、これもシャベル状の農具のスキと考えられる。ここでは醤油ダレで味付けをしている。 ![]() 『鯨肉調味方』(1832年)には、「鋤焼とは古き鋤のよく摩て鮮明なるを樴火の上に置きわたし,それに切肉をのせて焼をいふ。鋤にもかぎらず鉄器のよくすれて鮮明なるを用ふべし」とあり、鯨肉をスキ焼き(焼肉)で食べている。スキ焼きにははじめにタレで味付けをして焼くものと、そのまま焼いて、その後にタレにつけて食べるものがある。 なお、牛肉のスキ焼きを早い時期に長崎で食べた記録がある。『文献にみる長崎の江戸時代の牛肉食について』では、嘉永六(1853)年十二月二十七日に幕府の勘定奉行川路左衛門尉聖謨は対露交渉のために長崎に来て、ロシアのプチャーチンの饗応を受け、牛肉料理を食べた記録を紹介した。川路聖謨の『長崎日記』には、「晦日 晴(中略)魯西亜船,近く新春を御重役の人々迎えらるる故に,新春の賀として,牛を新に宰して,其肉を奉らるべし,と申来る。酒并に肴を遣し候て,返礼いたし候積り。戎狄の意に,わずかなることにて背くは,無益なれば也。魯戎にて牛を宰するは,殊礼の由也。国君故なければ牛を殺さず,いうこと礼記にみえたり」と あり、ロシア側から申し出どおり年賀に日本側に牛肉が贈呈された。 このロシアから牛肉をもらい、この対露交渉の幕府特別随員であった蘭学者箕作阮甫は、長崎においてそのもらった牛肉をスキ焼きで喰っている。嘉永七(1854)年正月五日の彼の『西征紀行』に以下のとおり記録されている。 「夜十一時比,反訳清書成り司農(勘定奉行川路聖謨)に上る。用人部屋に退きしに,冨塚(順作)松邨 (量右衛門)の二人,俄羅斯(オロシア)より上れる牛肉を余輩のために松前の犁(すき)にて烹て一盃を進む。江戸より来りて俄羅斯牛肉を松前の犁にて烹るとは,人生の一奇事なるべしと松邨いへり。」 彼はロシアからもらった牛肉を「松前の犁(林善茂の『北海道の踏鋤』によれば、鉄板の様なシャベ ル状の歯に木製の曲がった柄がある)にて烹」て喰ったといっている。この頃には牛肉のスキ焼きが定着していたと想像される。この中で箕作阮甫がおもしろがっているのは、(北海道の)松前はロシアの隣国であり、その外交窓口であった。そこで、わざわざ江戸から長崎(外交の総合窓口)に来て、「松前の犁」で交渉相手のロシア牛肉を喰い、ロシアを料理(始末)して「人生の一奇事なるべし」と悦に入っているのである。 これを長崎のスキ焼きではないかと推測されるのは、古賀十二郎の『長崎市史風俗編』に、「鋤焼は安政元(1854)年の頃までは左迄繁昌しなかったが、同五六 (1858・59)年頃からぼちぼち開店する者が増して荒木周蔵氏談鎮西日報今日にては多数の鋤焼屋繁昌するに至り鋤焼は長崎の名物の一に数へらるるやうになった」とある。しかし、長崎の鋤焼屋は鶏のスキ焼きが有名であった。 また、宮本常ーの『食生活雑考』の中に、「牛肉を一箱お送り下され,まことに珍しいもので多謝する。ちょうど加賀侯の医者で西洋書の読み方の指導をうけた黒川氏が来たので,お送りいただいた肉をあぶり酒をすすめ賞味し,大いに興をそえました」とある。牛肉の贈答も行われていたことがわかるとあり、幕末の佐久間象山も牛肉を贈られたことを記している。これにより、江戸時代の牛肉は箱(杉の木箱か)に入れられ、牛肉は炙って食べられたようで、これもスキ焼きかもしれない。』 ![]()
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