日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 江戸外食文化の定着-3


江戸食文化の定着(3)
-居酒屋・小料理屋-


江戸時代末期頃、江戸の町は食べ物を売る屋台で賑わっていた。鮨や蕎麦、鰻などの屋台とともに天ぷらの専門屋台も多数出ており、人々は間食のような感覚で天ぷらを食していた。店の形態が屋台からお座敷店舗などに発展していったように、調理法や食し方も時代とともに変化した。

醤油が庶民の生活にもおなじみになると、それまで屋台経営だった店舗が、そば屋、寿司屋、天ぷら屋、そして煮売り酒屋という店で、つまみを食べながら居座り洒を飲む形式の「居酒屋」などの形態をとる店が増えた。現在のうなぎの蒲焼に近いものも登場し、蒲焼は幕末まで主として屋台で売られていた。

1.居見世(店舗)の出現

■ 居見世(いみせ)の出現

江戸中期の後半から江戸後期にかけては、本格的な居見世(店舗)が現れて、居酒屋、料理茶屋、飲食店が増え始め、代金さえ払えば誰でも自由に飲み食いができた。すし屋やうなぎ屋なども、やや高級な店が宝暦(1751年)から天明期(1781-89年)ごろから増え始めた。
幕末の文久頃(1861~)から天ぷら屋は立食い屋台から座敷を設けた天婦羅屋ができた。また、山海の珍味をそろえ、食器、家具、調度をはじめ、座敷や中庭を置き、離れや二階座敷を設けて独自の空間を演出する高級料理屋(料亭)も生まれた。

宝暦から天明期・化政期には、定食料理屋も出現していた。
喜多村香城の『五月雨草紙(さみだれぞうし)』には、「深川の回向院(えこういん)前の淡雪豆腐、浅草並木の枡屋田楽などいふ見世(店)ありて、一通り食事を弁ずるには銭百文位にて済しなり」とある。
これらの料理屋は、一食、銭百文で食事ができることから 「百膳」と呼ばれた。「百膳」と称する店には、大竹輪・椎茸・青野菜の煮染しめ・つみれ汁と飯・香の物で、一食百文ほどの惣菜料理の定食を出す小料理屋でもあった。
  • 回向院は、明暦の大火(1657年)の焼死者の供養を目的として建立された無宗派の寺院ですが、多くの江戸の人々にとって回向院を訪れる目的の一つが、勧進相撲を見ることでした。江戸時代、相撲興行を行う常設の小屋はなく、寺社の境内において行われていました。
  • 淡雪豆腐は、江戸時代の豆腐料理本『豆腐百珍』にも掲載されている。淡雪豆腐の味付けは大きく分けて2種類あり、豆腐に葛溜りをかけて海苔とわさびを添えたものと、鰹出汁と醤油にすりおろした山芋を混ぜて豆腐にかけたものがあったそうです


■ 煮売り屋

煮売り屋は、魚や野菜などの煮物を食べさせたり、持ち帰りできる店であった。飯屋や居酒屋のようなところもあるし、屋台店もあった。店売りには、煮炊きをした惣菜類を店頭で売る「煮売り屋」と店内で飲食させる「居見世(いみせ)」があった。

江戸初期から、町の辻々に屋台は数多く出ていたが、店舗を構えて営業する飲み食いのできる店、飯屋、煮売り屋、居酒屋などが普及してくるのは、江戸中期以降からである。天明年間(1781~89年)以降には、本格的な居見世(いみせ)の寿司屋、鰻屋、天ぷら屋などの料理屋が出てくる。
 
『鶏声粟鳴子(けいせいあわのなるこ)』一猛斎芳虎(歌川芳虎)画/嘉永4年(1851)より「煮売り屋」
煮売り屋の障子看板の文字は右から、おすいもの、御にざかな、さしみ、なべやき。お吸い物」は「酒の肴として出される汁物」のことを意味していた。



■ 四文屋(しもんや)

煮売り屋は、なんでも一つ四文で売ったことから「四文屋」とも呼ばれた。江戸では手軽な外食が盛んで、江戸後半の文化年間(1804~1817)、江戸では「四文屋」と呼ばれる均一単価の屋台が流行した。今でいう惣菜屋のことで、焼き豆腐、こんにゃく、れんこん、刻みゴボウなどを醤油で煮しめたもの、芋や田楽を煮たものを大皿に盛って屋台に並べ一品四文均一で売っていた。

すべてが四文銭一枚の食べもの屋台「四文屋」について、天保年間(1830~43)に出版された『江戸繁昌記』には、次のように紹介されている。
  • 《読み下し》「一鍋内(いっかない)、数串(すうかん)芋を貫き、豆腐を貫き、種々焉(これ)を蘸(ひた)す。鍋沸(ふっ)して烟馨(かんば)し。一串(一以って之を貫く)四文(文行忠信)。人の択(えら)び食ふに従(まか)す。此を四文屋と曰ふ」 
  • 《現代文》「鍋の中に幾串も、芋をさし、豆腐をさして、いろいろ浸してある。鍋で煮てあり、香ばしい湯気か立っている。一串が四文で、客が勝手に選んで食べる。これを四文屋という」
また、随筆『飛鳥川』(柴村盛方,1804年)には、次のように「四文屋」や「煮売屋」が賑わいを見せたことが出てくる。「煮肴、煮しめ菓子の類、四文屋とて両国は一面、柳原より芝までつゞき大造なる事也。其外煮売茶屋、両国ばかりに何軒といふ数をしらず」。
要約すると、「四文屋という、おでんの具を串にさし、四文均一で売る店(屋台)などが両国界隈をはじめ、神田川の柳原土手より芝まで続き、大にぎわいである。」こうした煮売り屋が、外食文化の「居酒屋」へと発展していった。

 
『近世職人尽絵詞』(しょくにんづくしえことば)文化3年(1806)より、屋台の「四文屋(屋台居酒屋)」、酒の肴として、一串四文均一のおでんの具を食べている。
「四文屋」が流行した背景にあるのは、少額の銭貨に寛永通宝という一文銭があったが、明和五年(1768)に、新たに一文銭よりも少し大型で裏に波模様のある額面四文の貨幣が発行されたことにある。四文銭の出現は、物価にも大きな影響をあたえ、商品の値段が四文の倍数の八文、十二文、十六文、二十四文などか主流となったと云われる。




2.居酒屋・縄暖簾(なわのれん)

■日本酒の飲酒文化

居酒屋の始まりは酒屋で豆腐田楽を焼いて安く提供した神田川沿い鎌倉河岸の豊島屋とされる。現在の居酒屋のように酒と肴を同時に提供する形態は豊島屋が初めてであった。
以下は、『お酒のメディア・コミュニケーション史』伊藤麻耶から引用する。
『江戸時代に入ると酒は完全に嗜好物の一つとして大きな流通をみることになる。1590年徳川家康が江戸入りをし、1635年に参勤交代の制度が敷かれると、江戸は全国最大の消費地となり、新川に酒問屋が数多く出現した。江戸で消費される酒は、「下り酒」と言われる大坂方面からのものが全体の9割を占め、その消費量は年間100万樽といわれている。
(中略)江戸時代では酒の価値も一般市民に手の届くほどのものとなり、人々がわりと手軽に楽しめるものになったといえる。酒屋などで酒を買って帰り家で飲むのはもちろん、この頃から外で酒を出す店も出始めている。日本人にとって酒が大衆化されるのは江戸時代からと言えよう。
(中略) 1750年代、江戸では煮売屋などの飲食店が店を構え、そこで酒もふるまわれた。鎌倉の「豊島屋」では、一杯酒と田楽が2文で売られ、行商人、日雇い、船頭、馬方、奉公人でにぎわった。浅草の盛り場には寿司屋が現れ、茶店では28~32文で酒が販売された。
「手厳しく寒いから弥太一合をはずんで来やした。」(柳亭金鷲『柳之横櫛』1854年 嘉永6)、「弥太一で日を暮らしてぐずになり」(河竹黙阿弥『勧善懲悪覗機関』1863年,文久2)のように、煮売り屋は、「弥太(煮豆腐)と酒一合はいかが」という意味の呼び声「弥太一よう」から弥太一と言われていた。
また、店先に「居酒致し候」という看板をかかげて、隅のほうで酒を立ち飲みできるところがあった。その着想は大いに受けたので、肴に一本二文の田楽も売り、店頭では片手に酒の升、片手に田楽の串を持って立ち飲みする客が絶えなかった。天正年間ではこのような酒屋を居酒屋と呼んでいた。庶民の酒場である居酒屋は煮売屋と酒屋の両方に起源をもっている。


『江戸名所図会』にある「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」 長谷川雪旦/天保5年(1834)~天保7年(1836)画。
毎年2月25日の一日だけ、雛祭の白酒を売ったところ、当日は江戸市中から大勢の客が殺到して大変な騒ぎになった様子を描いたもの。
(豊島屋は江戸での白酒の元祖として知られ、「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われたほど名高かった。中央の立看板には「酒醤油相休申候」(さけしょうゆあいやすみもうしそうろう)とあり、いつもの酒や醤油は販売を止め、白酒のみの販売に専念した。しかも、入口に櫓(やぐら)を建てて、その上では鳶(とび)が店先の客を整理している。)


■居酒屋の誕生と発展

居酒屋は、寛政年間(1789~1802年)頃から店内で居酒ができる「煮売り居酒屋」が繁盛し始める。文化八年(1811)の調査によると、江戸には「1,808軒」の煮売り居酒屋(居酒屋)があったことが分かっている。

居酒屋の発祥は江戸時代の天正年間(1573~1579年)頃、江戸の町や漁港などの酒屋から生まれた。当時の酒屋では、小売りの業態は樽からの量り売りが主流だった。当時の江戸の町には独り暮らしの職人や労働者、浪人などが数多く住み、酒屋の店先に「居酒致し候」という看板をかかげて、隅のほうで立飲みさせ、簡単なつまみなども出すようになった。そのような酒屋のことを「居酒屋」と呼んでいた。

煮売り酒屋には、「七輪・鍋・食器を天秤棒で担いで行商する」「屋台を出して辻売りする」「を構えて商いをする」の三種類があった。享保年間(1716~1735)になると、店先で客に酒を飲ませる「立ち飲み屋台」が出現し、宝暦年間(1751~64年)の頃には、神田・鎌倉河岸の豊島屋という煮売り居酒屋(店)が初めて登場した。

煮売り居酒屋では、煮豆、煮しめ、焼き田楽などを煮売りし、店先に空樽や木の板に足をつけた腰掛の床几(しょうぎ)を置き、腰かけさせて酒を飲酒(居酒といった)をさせるようになった。そういう店は、店先に“居るままで酒を飲ませる”ので、「居酒屋」と呼ばれるようになった。
明和(1764~)に入ると、煮売り居酒屋と飯屋が一緒になった「縄暖簾(なわのれん)」も出現するようになった。縄暖簾では簡単な肴(さかな)で酒も呑ませ、煮魚もあれば芋の煮ころがしなどで、ご飯も食べさせた。


『新版御府内流行名物案内双六』(弘化4~嘉永5)より、「おやぢばし いも酒や」
当時、芋酒屋といわれる居酒屋があったが、これは芋の煮ころがしを売り物にする店のことである。芋の煮ころがしは、里芋を転がしながら汁がなくなるまで煮詰めたもので、文化年間(1804~18)には居酒屋のメニューにみられる。やがて、これを売り物にした居酒屋が現われ、「江戸五高昇薫」(嘉永5年,1852)には5軒の「芋酒屋」の名がみえる。



■居酒屋の酒の肴

〇居酒屋の店先では売り物の魚などを下げていることが川柳などに見られる。明和2~天保11年(1765~1840)刊の『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』には、「居酒見せ切分ケほとな蛸を下ケ」、「居酒屋の軒ゆて蛸の削り懸」、「居酒見せ帯ひろ解の鰒を提け」、「居酒屋は鰓を釣スを見へにする」、といった句が見え、軒先に蛸(タコ)や河豚(フグ)、鮟鱇(アンコウ)などを吊したり、俎板(まないた)に広げたりした。

やがて、寛政年間(1789-1802)になると、江戸市中に「煮売り居酒屋」(居酒屋)が続々と誕生する。
江戸時代の居酒屋では、酒樽を店内に積み上げていた。店先の軒の下には、酒の肴(さかな)の「ゆでダコ」「野鳥」「魚」を吊り下げており、どのような肴が店にあるかを知らせていた。このことは、江戸川柳にも詠まれており、『鶏の羽衣(はごろも)居酒屋の軒へさげ』 とある。


〇江戸後期になると、客の趣向に合わせて、煮込み田楽(おでん)、湯豆腐、ぬた、煮しめ、かづのこ、マグロの刺身、煮芋、魚介類の焼き物や汁物が主なメニューであり、外食店のどぜう鍋、あなご鍋、雁鍋、鶏鍋、ぶた鍋、蛤鍋など、小鍋立の鍋料理の肴も提供するようになった。
この幕末の江戸では、ほとんど居酒屋と煮売り屋が一体となっていたものと考えられている。煮しめもまた、田楽とともに手ごろな酒の肴として屋台や居酒屋で愛された。凍結乾燥させた凍りこんにゃくは、煮しめの代表的な具材で、一時期は凍り豆腐より消費量が多かったという。

また、豆腐、こんにゃくのほか、大根など甘味噌ダレで食べるものすべてが「田楽」と呼ばれていた時代、味噌をそのたびに付けるのを煩わしく思った江戸っ子が、いまの「おでん」の原型を生み出した。濃いめの醤油味のダシ汁に材料すべてを放り込んで味付けするだけだから手間もかからない。やがてそこに、魚肉の練り製品などが加えられ、関東風おでんか誕生した。


『江戸名所道化尽 廿七 芝飯倉通』歌川広景 画/安政七年(1859)



■居酒屋での飲酒

居酒屋に来る客は「荷商人、中間(ちゅうげん)、小者(身分の低い奉公人)、馬士(馬子)、 駕籠の者、船頭、日傭(ひよう)の類」が多く、日傭取り(日雇い)であった。また、下級武士も足を運んだ。江戸では上方の酒が好んで飲まれた。上方の酒造りの中心は、江戸時代前半は伊丹(兵庫県)・池田(大阪府)、江戸時代後半以降は灘・西宮(兵庫県)である。

〇上方の酒の評価
1799年(寛政11)刊『日本山海名産図会』では「今は伊丹、池田、其外同国、西宮、兵庫、灘、今津などに造り出せる物また佳品なり」とされている。そして、江戸末期の喜田川守貞による風俗誌『守貞漫稿』には「今世は摂[州]の伊丹、同池田、同灘を第一の上品とし」とあるように、伊丹・池田の酒だけでなく、灘酒も江戸で高い評価を受けていた。
〇酒の値段
文政年間(1818~29年)の記録によれば、酒の価格は酒一合が上酒(下り酒)で二十文~二十四文、下酒(地廻り酒)で八文~十文、酒の肴(さかな)は、特別なものを除けば一品が八文均一といわれている。このように、酒二、三合に肴が二、三品食べると百文程度となった。腕のよい大工なら払える金額である。居酒屋以外では「飯屋」で飲酒もさせる店が盛んとなったのもこの時期である。
〇酒の飲み方
居酒屋には現在の時代劇にみられるような、四本脚のテーブルや椅子はなく、客は床几(長椅子)に腰かけるか、座敷に上がって酒を飲んだ。酒や肴は、お膳、お敷きという低いお盆のようなものに器をのせて、床几(しょうぎ)や座敷の上に直において座って飲食をした。
酒は燗徳利(かんとっくり)でなく、「チロリ」という容器にお酒を入れ、これを銅壺で湯煎して温め、いい温度になったらチロリを席まで運び、そこから酒を猪口(ちょこ)に注いで飲んでいた。
『守貞漫稿』(天保八年,1837)によると、それまで燗酒を呑むには銚子やチロリを使ったが、幕末の天保年間(1830~43)の中ごろに、燗徳利が登場し江戸で使われるようになったという。銅鉄器ではないため、酒の味が変化せずに美味しく、他の酒器へも移し替えず冷めにくいなどの利点がうけ、しだいに諸国にも広まっていったという。

 
『開化風刺錦絵』より「揚酒屋賑ひの図」/出版年不明、酒を飲んでいる薩摩藩と長州藩の無事がお互いの苦労をねぎらっている風刺画。
二人を中心に座敷の旦那と坊さん、店の板前、女中さん、店を覗く人たちが描かれている。居酒屋の店先には酒の肴の「魚」を軒下に吊り下げている。道路に面した店の板壁には「大極上々吉(だいごくじょうじょうきち)、上酒、壱升に付、八百もん」「隅田川、志ろ酒、壱合、八十文」とあり、店内の壁には「かもうり(冬瓜)葛かけ三十五文」「とうなす(南瓜)煮付け三十六文」「ふぐ鍋六十四文」「大木寸(大鱚(きす))六分」「めし一膳三十文」「鍋るいいろいろ」と書いて張ってある。大極上とは酒の等級(大極上・中汲〈なかぐみ〉・にごり酒)であり、上酒は上方から運ばれる「下り酒」の意味で、「隅田川」は江戸の地酒の銘柄である。



■居酒屋の酒器

『寛天見聞記』(寛政~天保(1789‐1844)頃、燕石十種第 五巻)より、江戸後期の酒器の記述に、「予幼少の頃は、酒の器は、鉄銚子、塗盃に限りたる様なりしを、いつの頃よりか、銚子は染付の陶器(磁器のこと)と成り、盃は猪口(ちょこ・チョク)と変じ…」 と、酒の器は盃から猪口になったと書いてある。

その他にも『守貞漫稿』では、「盃も近年は漆盃を用ふること稀にて磁器を専用とす (中略) 磁盃三都共チョクといふ。近世の猪口薄きこと紙の如く、口径二寸ばかり深さ八寸ばかりなり」と書いている。


黄表紙『磨光世中魂』(みがけばひかる よのなかしょうねだま)出版:寛政二年(1790)
居酒屋店内の床几台(しょうぎだい,長椅子)に腰掛けたり、畳の上に座ったりして、チロリという容器に入れて温めた酒を楽しむ客が描かれている。
客が飲酒する姿として、江戸時代後期の作家、式亭三馬作『客者評判記(かくしゃひょうばんき)』には、「酒の人は片足をあげて片足おろし居る形」と記している。
重ねあげられた酒樽(菰樽,こもだる)は、上方から樽廻船で送られてきた「下り酒」で、菰樽に印された酒の商標は伊丹の「坂上の剣菱」や「木綿屋」,「紙屋の菊」である。
酒樽(菰樽,こもだる)に印された酒の商標



■居酒屋と飯

居酒屋と居飯屋
文化11年(1814)に書きはじめられた『東海道中膝栗毛』からの一場面。…女ぼうおふつ「をや、おめへ、酒計で、おまんまはまだかへ。」、弥次「しれてあることさ、居酒屋へはよつたが居飯屋へはよらなんだ。」とあり、「居酒屋」という呼び方が残されている。
そこには「居酒屋」と「居飯屋」の名が話し言葉のなかに記されている。この頃には、酒を飲むことと御飯を食べることを別けた店が存在したようである。

酒飯屋
居酒屋の数は、寛永七年(1630)に江戸市中に十数軒であったのが、天保元年(1830)には200軒を超す数となった。その後、天保の改革(1841年)の取締りで、居酒屋の大半が菓子屋などに看板替えしたこともあったが、幕末にかけては江戸、大坂のほか全国の主要地で再び激増していった。

この頃から、酒に各種の肴を添える店が多くなる。そのような店にはたいてい「酒めし」とか「酒飯屋」(さかめしや)という看板が下がっていて、縄暖簾や赤提灯も、この幕末頃から軒先に掛けるのが習慣となっていた。
幕末に近いころの居酒屋で飲む酒は、上酒(清酒)、中汲み、にごり酒(どぶろく)といった酒が置いてあり、予算に応じて酒が飲め、客は酒の値段と量を言って注文したという。

江戸歌舞伎役者の〈食乱〉日記(新潮新書)によれば、文政12年-1829年、この年3月に江戸三座が焼けて出番がなくなった大芝居(幕府公認の劇場)の名優の仲蔵は、旅の道中、糸魚川で居酒屋に入り鯛の刺身と潮煮を注文し二人で酒を飲んだところ〆て120文。あまりの安さに驚いて聞いてみると内訳は潮煮はひとり12文、刺身はひとり14文とのこと。なので、酒は68文になる)


『江戸年中風俗之絵(えどねんじゅうふうぞくのえ)』、1840年・天保11年頃の作とされる。
「酒飯屋(さかめしや)」の軒先には、酒の肴の“魚”が吊り下げられ、障子看板には「酒・附け飯・御吸物」の文字がみえる。



■「下り酒」と「江戸の酒」

江戸では酒の消費量も莫大なものだった。かつて江戸の武士が飲んでいたのは、どぶろくに近い濁った酒である。そこへ上方の澄んだ酒、諸白(もろはく)が登場するや大人気となり、江戸へ運ぶ酒「下り酒」の量はみるみるうちに急増していった。これが上方の酒造界の発展の要因ともなり、なかでも伊丹と池田は諸白造りで名をあげた。諸白とは当時、澄んだ酒「清酒」を意味した。
(諸白(もろはく)とは、仕込みに使う麹米・掛米をともに精白した米を使う酒造りのことである)

江戸時代後期の風俗、事物を説明した『守貞謾稿』には、
「伊丹池田灘等より江戸に漕す酒を下り酒と云・・・又別に江戸近国近郷にて醸す物を地廻り酒とす」
「古より清濁あり清酒をもろはくと云諸白也 濁酒を片白と云今江戸の俗の中汲と云も濁酒の一種也」
とある。江戸で呑まれる清酒の大半は大坂(池田・伊丹・灘)などの上方から、樽廻船で運ばれてきた「下り酒」である。その量は年間80~90万樽(1樽=3斗6升)にもなり、江戸の需要の八割を供給した。一説には、江戸に運ばれてきた酒の量を江戸の全人口で割ると、1人あたり1日2合の酒を飲んでいた計算になるという。
江戸時代、伊丹・池田・灘などから江戸へ下ってきた酒を「下り酒」、あるいは富士見酒などと呼び、上質な酒とされた。また、諸白(もろはく)について、江戸時代の中期、1697年(元禄10年)に刊行された『本朝食鑑』にも「酒の絶美なるものを呼びて、諸白といふ」、「近代絶美なる酒」として称賛している。

酒(日本酒)は、濁酒・清酒、そして濁酒の類として中汲(なかぐみ)があった。これは、言い方を変えれば澱(おり)の混じった清酒である。上方の酒造家は優れた濾過装置を備え、原料や人材などにも恵まれ、大量の「澄み酒」(清酒)を醸造できた。一方、関東においても地廻り酒が生産されていた。関東では、幕府主導の上酒醸造政策のもとで酒造家の養成が図られたが、結果は芳しくなく、上方優位の経済構造に変化はなかった。
ただ、江戸時代後期になると、上方酒造業者の生産量増大により、それまで濁り酒しか口にできなかった江戸の庶民も清酒に手が出せるようになり、燗酒を呑む風習が広まることにも繋がったといわれている。
(江戸の地酒には、隅田川、宮戸川、都鳥、漏水などがあった。また、関東の酒の産地には、武蔵、日立、下総、鬼怒川筋、荒川筋などがあった)


■江戸時代の名酒

『守貞謾稿』には酒銘として「剣菱、古今第一トス。七ツムメ(梅)、紙屋ノキク(菊)、三ツウロコ(鱗)、米喜ノヨネ(米)/此他種高名アリ。委ク載スルコト能ハズ。/マサムネ(正宗) 此名、近年江戸ニテ大に行ル」の名を述べている。
江戸後期の『江戸買物独案内』文政七年(1824)にも複数の下り酒問屋が記されている。江戸の酒、その種類は様々である。『江戸買物独案内』には、「中汲 九月より正月まで」と広告があり、流通期間も限られていたようだ。これらは、澱の量による種類の別であった。その他にも、蔵・商標の違いがあって、酒の銘柄としては、瀧水・大国酒・布袋酒・明乃鶴・稲乃露・旭鶴・高砂等の酒名が見える。


江戸地廻り酒「新和泉町 銘酒 瀧水(たきすい) 四方久兵衛」、下り酒「深川八幡通仲町 酒売場 銘酒 剣菱 伊勢屋嘉右衛門」
瀧水の四方屋(四方久兵衛)は、日本橋新和泉町(現在の中央区)で酒売場や醤油・酢問屋を営んでいた商人のようです。


3.小料理屋

■料理屋の登場

〇料理屋については、江戸初期にも、煮売り・焼き売り程度のものであれば、寺社の門前のほか、盛り場や交通の要所で商売が行われていた。江戸の初期には一般にいわれる料理屋は存在していなかった。
はじめは京都の寺院で、飯を丼などに盛り切りにした料理の提供が始まり、やがて町中にも料理茶屋が誕生したものと思われる。これにやや遅れて、江戸でも元禄年間(1688〜1704)になると、市中の各所に料理茶屋が出現した。

〇江戸の町の三分の二を焼き尽くした明暦の大火(明暦3年,1657年)以降、市街の大改造や被災家屋の再建が進み、各地から多くの大工や左官などが江戸に集まった。江戸における料理屋の出現は、そうした建設労働者へ食べ物を提供したのに始まる。
なかでも浅草の金龍山浅草寺の門前には、きれいな器を用いて"奈良茶飯"(煎じた茶で飯と煎り大豆などを炊き、茶をかけて食べる)を豆腐汁・煮しめ・煮豆などといっしょに売り出した「奈良茶飯屋」と呼ばれた店が登場した。

浅草に奈良茶飯屋といわれる簡素な「飯屋」ができ、その後、享保年間に浅草に限らず江戸市中の盛り場の両国や芝神明に腰掛けの小料理屋立ち並ぶようになったが、元禄期頃までの江戸では料理屋といっても奈良茶飯などを供した「茶屋」が主体であった。

やがて、店内で飲食させる「居見世」と呼ばれる"小料理屋"では、畳を敷いた小上がりの座敷に上がって酒や庶民料理を供するようになった。ただ、それが本格化するのは江戸時代後期のことであった。



〇都市の発展や日本料理の完成などと相まって、宝暦から天明期(1751〜1789)には、きちんとした食事ができる本格的な定食料理屋も出現してきた。さらに料理文化が最も発達をみた文化・文政年間(1804〜1830)には、「料理通」を執筆した栗山善四郎の営む高級料理屋「八百善」が、江戸で大繁盛を極めていた。ここには人気を誇る文人や画家のほか、幕府の高級役人から地方の富裕層までがしばしば訪れ、大いに料理を楽しんでいた。

文化・文政期の江戸の食生活は大きく変化した。贅沢な料理が好まれ、外食文化がますます広まり、八百善や平清のような"高級料理店"も多く登場し、全盛期を迎えた。こうした事情は江戸にかぎらない。近郊では一汁一菜程度の食事を供した茶店が、文政頃には料理屋となっていたり、街道の宿場などにも贅沢な酒楼が営業を始めていたりした。
文化・文政期以降、都市の庶民も含めた広い階層が外食に親しむようになると、いわゆる高級料理屋にかぎらず、安直に楽しめる酒場なども増えた。
以下は、「日本の食器-漆器から磁器へ」/神崎宣武 より引用し一部加筆したものである。
【 江戸に料理屋が登場するのは、18世紀の中ごろにかけてである。江戸の風俗・習慣や歌舞音曲等についての風俗事典として評価の高い『嬉遊笑覧』(文政13,1830年)によると、「享保半頃(享保年間:1716~1736年)迄途中にて価を出し食事をせむこと思ひもよらず、一人前、二汁五菜、拾匁、廿匁にて仕出す」とあり、「其後、両国橋詰の茶屋、深川洲崎、芝明神前などに料理茶屋でき、堺町にて一人前百膳(一食百文)といふもの出きてより、是又所々に出たり、湯島の祇園どうふ、女川菜飯、居酒屋の大田楽、湯豆腐始る」とある。
また、青山白峰の『明和誌』(文政5,1822年)にも、宝暦から明和(1751~1764年)のころ、江戸市中の風俗が大きくかわり、料理茶屋がにぎわいをみせだした、とある。さらに、山東京山の『蜘蛛の糸巻』にも、明和(1764~1772年)のころ深川洲崎に升屋という料理茶屋があり、前後して通人が遊ぶ高級料亭がふえた、と記されている。】

「名所江戸百景 上野山した」歌川広重画より一部分



■飯屋・一膳飯屋(縄暖簾)

〇天明年間(1681-83)の頃までは飯屋というものはなかった。17世紀中頃から、どんぶり飯(一膳飯)に簡単な惣菜をつけて食事を提供する「飯屋」も少しずつ現れはじめた。
どんぶり飯に使った丼鉢は、もともと料理を盛るための鉢であったが、江戸では丼鉢に、ごはんを盛る器として定着していた。奈良茶飯に煮しめ、漬物などを添えて出す店や丼鉢にご飯を盛って総菜などと一緒に供する大衆的な「一膳飯屋」(いちぜんめしや)が浅草界隈に現れ、これが江戸市中に普及していった。


『教草女房形気(おしえぐさ にょうぼう かたぎ)』山東亰山 著, 歌川豊国 画、弘化四年(1847年)


〇一膳飯屋は「煮しめ屋・一膳めし屋をさへ兼ぬれば、飲むべく、食ふべく、床台とも飯台ともつかぬ食卓を前にして」とあるように、「煮売り屋」から発展した店で、米飯と簡単な総菜に汁物を一緒に出したり、鍋物・酒・菓子類も提供した。

江戸時代末以降には、一膳飯屋と居酒屋を兼業する店などでは、縄暖簾(なわのれん,一本の横竹に幾筋もの藁(わら)縄を垂らしたもの)を入口にかけたことから、後に「縄暖簾」は、飯屋・居酒屋の代名詞となった。また、『江戸の暖簾』/小泉和子,1987 によれば、
「暖簾(のれん)は営業権そのものの象徴でもあり、暖簾とは町人にとって命をかけるほど大切なものだったのである。
…中略…(縄暖簾は)下級武士相手の給食屋が使いだしたのが最初らしい。炊出しといって見付に詰める諸大名の家来たちの食事を引き受ける店とか、飯屋といって独身の勤番士のために長屋まで弁当を届ける店があったが、寛政期(1789〜1801)以降になると、こういう店へ町人も食事に行くようになり、酒も一緒に出はじめた。
店の中には空けた醤油樽が土間に並べてあり、上に板を渡し、皆そこへ腰掛けて飲食したといい、こうした店にはきまって縄暖簾がかけてあったため、酒と飯を出す店のことを縄暖簾とよぶようになったのだという。」
と説明している。


〇江戸では、江戸後期に一膳飯屋が繁昌していた。玄関土間から入れ込みの床几(しょうぎ)に小あがりの畳座敷がある店構えもあり、行灯看板には「一膳めし」「どんぶりめし」などの文字が書かれていた。


江戸時代の「一膳飯屋」のメニューには、マグロのトロが「猫またぎ」と呼ばれ、嫌われていた当時も「しび(マグロの別称)つけ焼き」とか「しび煮」「しび合わせ炊き」「とろマグロねぎま鍋」などがあり、鍋や焼きで庶民の定番料理として食べられていた。「マグロ」の脂肪分が多い腹身は、安い値段で取引され、佃煮や乾物にしたり、一膳飯屋や居酒屋で飯のオカズや酒の肴に煮炊きされた。江戸で一番人気の佃煮は、昆布でも海苔でもなくて、当時は「マグロの佃煮」であった。



屋台や一膳飯屋でも出される手軽で簡単な食事としては、深川の漁師たちがアサリのむき身、長ネギ、豆腐を煮た澄まし汁を冷や飯にかけて食べた「ぶっかけめし」(深川めし)があった。「ぶっかけめし」は味噌や醤油の汁仕立ての食事であった。


江戸庶民がつくった「ぶっかけめし」(深川めし)


〇うなぎ蒲焼屋
江戸時代後期の初期の“うなぎ蒲焼”は醤油と酒で味付けされていた。そして、一膳飯であるご飯と一緒に鰻を食べる丼飯の「うなぎ飯」が生まれ、ご飯に合う味を追求した結果、醤油と味醂を使った甘口のタレが生まれたともいう。
江戸時代もうなぎ飯は一般的な店で1杯64文と気軽に食べられる値段ではなく、このため庶民はもっぱら屋台で売っている1串16文の蒲焼買っていたという。“うな丼”という呼び方は明治になってからのもので、江戸時代は、うなぎ飯やどんぶりといい、うな重も江戸時代にはなかった。


関東での醤油造りは元和2年(1616)頃に始まっていた。江戸後期には江戸で消費される醤油は、関西産の下り醤油からほぼ関東産の濃口醤油に置き換わった。江戸後期には江戸で消費される濃い口醤油は、香りが強く、生産地も近くて鮮度が落ちず、江戸の食べ物によく合った。そして、「濃口醤油」は「油、脂」モノとの相性がよく、上方の醤油よりも勝っていた。



■料理屋(料理茶屋)

料理茶屋は、常設の店舗を構え酒と調理した数種類の食べ物(料理)または食事を提供する商いである。享保年間(1716〜35年)に刊行された『絵本東わらは』には、当時の江戸の名物・名店が羅列してある。

それによると、「…サァおごらばござれ、深川八幡二軒茶や、向島にあらひ鯉、(王子稲荷前)王子のゑびや、下屋の浜田屋、古川の森月庵、魚藍のゑびすや、江戸橋のますや、中橋綿や、京橋柴屋、新橋の佐倉屋、大和田うなぎ、鈴木の蒲焼、真崎(稲荷)の田楽、洲崎のざるそば、鈴木町のあんかけうどん、両国の油揚酒屋、親仁橋の芋酒屋、水道橋の鯰のかばやき、中橋のおまん酢、吉原の蛇の目酢 … 豊島屋の白酒は節句前に売切れ、稲毛のそうめん、三輪よりほそし」とある。



「料理茶屋」は寛政期(1789〜1800年)以降急激にその数をふやしていった。
寛政年間に刊行された『梅翁随筆(ばいおうずいひつ)』に、「貸座敷,煮売庖,水茶屋,寺社門前地などにて稀にありしが、今は十数倍も其数ふへたり」、あるいは、「町々端々に至るまで、一町内には煮売喰物見世商売店十軒も二十軒も殖へ、繁華の場所は喰もの商売かた多くあるなり」と、寛政の頃の記録では、高級料理屋に限らず飲食店の類の増加が著しかったことを述べている。

嘉永六年(1853)の『守貞漫稿』には天保から嘉永年間(1830〜1853年)に料理茶屋で会席風の食事が銀十匁(銭一貫文)から五、六匁(五、六百文)とある。庶民の中では給金がいい大工の手間賃一日分以上に相当し、けっして安い額ではなかった。


 
料理茶屋『新版御府内流行名物案内双六』一英斎芳艶 画(弘化4~嘉永5)の「くぎだな,むぎめし」と「本銀町,柳川」


同じく料理茶屋の「王子,あふぎや(扇屋)」。この扇屋は慶安元年(1648年)に創業の料理屋で、名物料理は卵焼きであった。扇屋は王子稲荷前「王子,海老屋」とともに「即席会席御料理番付」に掲載されるなど、名高い料亭の一つであった。






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