江戸の外食文化 <江戸外食文化の定着-1>
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「東都名所 高輪廿六夜待遊興之図」より一部 歌川広重
旧暦の名月の深夜、「廿六夜待」の日に江戸湾外の芝高輪で振るわいを見せる屋台と多くの庶民たち。
屋台として「志るこ、だんご、麦湯、二八そば・うどん、天ぷら、いかやき、寿し、水かし(果物)」が描かれている。

江戸の外食文化
江戸食文化の定着(1) : 江戸初期から江戸中期

江戸前期までは階級に関係なく食事は家で取るのが当たり前で、食事も一汁一菜を基本とした質素なものだった。そんな江戸時代に外食産業が登場するのは、「振袖火事」として有名な1657年に起こった明暦の大火の後である。明暦の大火は江戸市中の三分の二を焼き尽くした。その復旧のために全国から大工、左官、鳶などの職人や土方が集まる。すると職人たちのような独り者を相手に煮売り(惣菜屋)の商人が増えていく。また火事の延焼を食い止めるために、火除け地が設置され、そこが庶民のたまり場にもなり屋台も出る盛り場になっていく。

江戸時代には庶民が住む長屋では本格的な台所は無かった。そのため天秤棒を担いで行商する「棒手振り」とか「振売り」、さらに屋台が発達していった。手軽に始められる「棒手振り」は、天秤棒で担ぎ行商するものであったが、やがて元禄の頃に木炭が普及すると、その場で調理し、焼き魚やそば、おでんなども販売するようになった。
また店を構えるものとして屋台がある。屋台には、簡単に場所を移動できる担ぎ屋台や屋根付きで常設できる立ち売りがあり、後者は人が集まる寺院の境内、門前や船着き場など一定の場所に店を構えた。

外食店である食べ物屋が誕生し発展していくきっかけとなったのが、浅草の浅草寺境内の「茶屋」で茶飯や豆腐汁、煮染め、煮豆などをセットにして「奈良茶飯」として販売されたのが最初と言われている。「奈良茶飯」の飯屋ができ、続く寛文四年(1664年)頃には、麺にした蕎麦を食べる「慳貪(けんどん)蕎麦切」という蕎麦屋ができた。江戸時代も中頃に入ると、更に、諸国から職を求めるものが江戸に流入してきて人口が増えた。それらの大部分は職人たちであった。江戸の職人たちは腹が減るのを紛らわそうと、こまめに間食をするようになった。こうした職人たちの需要にこたえたのが屋台である。屋台の始まりは、江戸の享保年間(1716〜1736)で、天明年間(1781〜1789)以後、さかんになったと言われている。

江戸時代半ば以降に普及した握り寿司やウナギ、天ぷらなども、初めは江戸庶民の手軽なファストフードの屋台として登場した。いずれの料理も当初は、上方(関西)で生まれたものが、江戸において洗練され「江戸前料理」として発展した。江戸には、魚貝の宝庫ともいえる豊潤な江戸前の海と巨大な生鮮市場の魚河岸があったこと、さらには関東風の濃い味を好む味覚形成に大きな影響を与えた関東地廻り醤油(濃口醤油)や味醂、酢、白砂糖などの調味料、鰹を中心とする出汁が普及したことが、江戸前料理の完成に大きな役割を果たした。

関東の地廻り醤油(濃口醤油)は関西の醤油より小麦を多用した香りの豊かさが特徴である。江戸前料理の味の基本になっているのは、関東で醸造された濃口醤油だった。がっしりとした濃さは蕎麦のつゆにむき、鰻の蒲焼きのタレもこってり味になり、天ぷらの「てんつゆ」もできた。寿司の味を引き締め、握りずしが隆盛するなど、江戸の食文化は濃口醤油によって完成されていった。

ちなみに、江戸の四大名物料理といえば、「そば」「うなぎの蒲焼」「天ぷら」「握り寿司」があげられる。これらの料理の書物による初出は、“1614年(慶長) 『磁性日記』 蕎麦切り / 1640年(正保) 『料理物語』 うなぎ蒲焼 / 1748年(寛延) 『料理歌仙の組糸』 天ぷら / 1829年(文政) 『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』 握り寿司の川柳句「鮓のめし 妖術という 身でにぎり」「握られて 出来て喰付く 鮓の飯」” であるが、濃口醤油・酢・白砂糖・味醂などの調味料の普及とともに、江戸中期から後期にかけて、屋台や料理屋などで江戸の味として受け入れられていった。



外食の手段「振売り」と「担い屋台」、「屋台見世(店)」

江戸初期から江戸中期にかけては、外食産業の多くの種類において、簡易な外食手段の「振売り」または「棒手振 (ぼてふり) 」、「担い屋台(天秤棒で担ぐ振り売り)」、「屋台見世(店)」などが見られ、路上で売られた食べ物は、豆腐を串刺にした一串三文のみそ田楽(でんがく)の辻売り、甘酒・ゆで玉子・豆腐・ところてん・どじょう・冷水(砂糖入り)などのさまざまな振売りや担い屋台が繁盛した。

江戸時代には庶民が住む長屋では本格的な台所は無かった。そのため天秤棒を担いで行商する「棒手振り」とか「振売り」、さらに屋台が発達していった。「振売り」とか「棒手振り」は、店を構えず、天秤棒の両端に商品を振り分けにして担いで、町々を商品の名を大声で呼びながら売り歩いた行商人。野菜や魚、納豆といった食材から惣菜や菓子、食べ物ばかりでなく金魚や虫、苗木までとにかく何でも天秤棒に担いで売り歩いた。「屋台」や「屋台見世」は人出のある場所に移動して商売をしていた。「振売り」と違ったのは、食材ではなくてそのまま食べられる料理を売ったこと。天秤棒で担いで売り歩いたのが担い屋台(担いで移動)で、寺院境内や門前の近くで商売をしていた床店(とこみせ)と呼ばれる仮設店舗を屋台見世(担げない)という。

「蕎麦」「寿司」「てんぷら」「うなぎの蒲焼き」は江戸時代の屋台から始まっている。
江戸の四大名物食(すし・天ぷら・蕎麦・うなぎ)の中で、蕎麦屋が出現したのが寛永年間(1748-51)である。蕎麦屋の次にうなぎの蒲焼屋が生まれている。延宝8年出版の小咄本にはうなぎの「かばやき売り」が出ている。担ぎ売りや屋台では、そばと同じで一串16文で売っていた。
江戸前の小魚貝を使った辻売りの天麩羅の屋台は、“土用の丑の日”に鰻を食べる風習が定まった安永年間(1772-81)に現れ、天麩羅一串、四文かろ六文の立ち食いの手軽なファストフードとして江戸市中に広まっていき、蕎麦屋が天ぷらそばも売り出すようになっていく。
「握り鮨」は文政5~6年に華屋与兵衛が酢を合わせたすし飯に魚などの具をのせ販売したことに始まると言われる。当時のシャリは現在より多めで現在のおにぎりに近い。一貫四文か八文で売られていた。



蕎麦

■江戸蕎麦とは
蕎麦は、古くは室町時代に、そば粉を熱湯で練り汁をつけて「蕎麦がき」として食べられてきた。その後、寛文年間(1661-1673)に「蕎麦切り」と呼ばれる細長く切った蕎麦が登場し、蒸して食べる(蒸し蕎麦)ようになった。文化文政期(1661-1673)には、江戸の主流となった濃い口醤油の普及から醤油とカツオ出汁、煮きり酒などを混ぜてつくられる「つけ汁」が発達する。「蕎麦切り」につなぎ(小麦粉)を使うことも蕎麦を茄でる調理法が主流になるのも元禄年間(1688-1704)以降であり、江戸後期には茹でた蕎麦(茹で蕎麦)をつけ汁につけて食べるようになる。やがて「蕎麦」といえば「蕎麦切り」を指すようになった。「蕎麦切り」を如でた汁は「蕎麦湯」と呼ばれる。これを飲む習慣は元禄年間の信濃に始まり、江戸に広まったのは寛延年間(1748-51)といわれている。


■蕎麦切り
江戸で「蕎麦切り」が初めて記されたのは慶長19年(1614)の『慈性日記』とされており、小伝馬町の東光院で蕎麦切りが振る舞われたと記載されている。蕎麦切りとは、つゆを付けてから食べる蕎麦である。
『慈性日記』慶長19年(1614)2月3日に、「常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多く候てもとり(戻り)候。ソハキリ振舞被申(まうされ)候也」とある。
… 近江・多賀大社の(尊勝院)慈性は、常明寺へ行った後、薬樹・東光と三人で(江戸の)町の風呂に入りに行くが、人が多く、入らずに戻り、常明寺でそば切りをご馳走になった。「薬樹」というのは近江・坂本の薬樹院久運のこと、「東光」とは江戸・小伝馬町の東光院詮長のことである。

寛文4年(1664)の江戸および近郊に起こった事柄をまとめた「武江年表」には、蕎麦を器に盛り付けただけの便利で安い「慳貪(けんどん)蕎麦切り」が登場する。四代将軍家綱の寛文年間(1661~73年)に、そば粉をこねて現在のように細長い麺にした蕎麦切(そばきり)ができた。この頃から、一杯ずつ盛切りにした蕎麦を汁につけて食べる「蕎麦切り」は、江戸の外食文化として定着を始めたと推測されている。
新美正朝の『八十翁疇昔話(むかしばなし)』享保十七年(1732)に、「寛文辰年(1664)、けんどんうどん、そば切と云物出来、下々買喰ふ。中々侍衆の見る事もなし。近年は歴々の衆も喰ひ、結構なる座敷へ上るとて、大名けんどん杯と云て、拵へ出る。」とあり、当初、蕎麦は「下々」の庶民が食べるものであったようだ。


■蕎麦切りの”つけ汁”
江戸時代前期1603~1651)の「蕎麦切り」は、つけ汁を用いて(もりそば)食した。
元禄10年(1697)の『本朝食鑑』の蕎麦切りの記述では、「つけ汁を用いる。汁は垂れ味噌汁一升と好い酒五合を拌匀(かきま)ぜ、乾鰹の細片(かけら)四・五十銭(重さの単位)を加え、半時あまり煮る。慢火(ぬるび)では宜しくなく、緩火(とろび)で煮るのが宜しい。煎熟(よくに)たら塩・溜醤油で調和し、それから再び温める必要がある。別に大根汁・花鰹・山葵・橘皮(みかんのかわ)・蕃椒(とうがらし)・紫苔(のり)・焼味噌・梅干などを用意して、蕎切(そばきり)および汁に和して食べる。 大根汁は辛辣いのが一番よい」とある。
つまり、蕎麦切りのつけ汁は垂れ味噌の汁・酒・乾鰹の細片で出汁をとり、塩・溜醤油で味付けをした。そばの薬味は、大根汁・花鰹・わさび・蜜柑の皮・唐辛子・のり・焼味噌・梅干などが用意されて、椀ひとつに蕎麦・汁・薬味を混ぜ合わせて食べる。そばの薬味は辛い大根汁が好まれたと書かれている。

江戸中期の元禄(1688年~)の頃になると、銚子や野田の関東醤油が江戸市中に出回りはじめていた。また、「蕎麦切り」のつなぎに小麦粉が普及するのに従って、蕎麦は茹でて出されるようになり、「だし」の普及とともに、江戸では主に「鰹節」が使われ、上方では主に「昆布」が使われるようになる。濃い「だし」を取るために、江戸では「鰹節」が主に使われるようになったとされている。江戸では「鰹節」のだしのきいたつゆに、「大根おろし」や「陳皮(みかんのかわ)」「とうがらし」の薬味を入れて食べる蕎麦は格別のものだったらしい。

蕎麦つゆは、江戸時代の後期、文化年間(1804年頃)に完成された。江戸の蕎麦つゆの出汁は、主に鰹節(枯れ節)であり、醤油は関東地廻り醤油(濃口醤油)を使用した。蕎麦つゆ(出汁+かえし)が出来てから、「蕎麦と汁とを和える」食べ方から別れて「蕎麦をつゆの出汁につける」食べ方が生まれた。


■かけ・もり・ざるの始まり
蕎麦とは、もともとは汁につけて食べるものであったが、江戸時代中期、元禄(1688〜1704)の頃に、冷たい蕎麦につけ汁をそのままかけた「ぶっかけそば」が広まり、それが「ぶっかけ」となる。江戸時代後期、寛政(1789〜1801)の頃には熱い汁をかけて食べる「かけ」となった。
そして、蕎麦と汁を別々に出して蕎麦を汁に付けて食べる蕎麦は「もり」と呼ばれるようになる。「ざる」は、江戸中期にある店がもりを竹ざるに盛って「ざる」と称して売り出したのが始まりといわれる。



■江戸庶民の蕎麦

『そばうり宗兵衛』/安政5年(1858)歌川國貞 画
歌舞伎忠臣蔵の「夜そばうり」を市川小團次が演じている図




江戸時代、幕府は火災を恐れて「屋台」で火を使い売り歩く「振売り」は原則禁止されていた。貞享三年(1686年)には『饂飩、蕎麦切、其外何に不寄、火を持ちあるき商売仕候儀、一切無用に可仕候、居ながらの煮売り焼売は不苦候.』の禁令が出されている。「うどん、蕎麦など何によらず、火を使う移動販売を禁止する、一定の場所で商売をする場合はかまわないが、火の元には十分に注意をするように」と、うどん蕎麦切りその他火を持ち歩く商売を禁止する御触書が出された。

さらに、元禄二年(1689年)には『頃日、煮売の者火を持あるき商売仕り候よし相聞き候。前廉御触れなされ候通り、饂飩蕎麦切その外何によらず、火を持あるく商売仕り候儀、一切無用に仕るべく候』とうどん・蕎麦・その他の火をもって調理などする行商を禁止した。
これは火事の危険性を考慮したものである。しかし、そば担い屋台は、夜間外出の難しかった当時にあっても夜鳴き蕎麦を売り歩き、人々から重宝された。この頃、蒸し切り蕎麦(もりそば)が一杯六~七文、蕎麦切り(ぶっかけそば)が一杯十六文である。

しかし、江戸庶民の蕎麦の嗜好は押さえられず、元禄期(1688-1703年)には蕎麦の名店もでき、また、行商の担ぎ商いの「夜そぱ売り(※)」も次第にその数を増していったようである。当時は薪代(燃料費が非常に高かったので、自炊するより外食のほうが安上がりで便利であった。また、残り火が火事の原因となることが多く、自宅での火の取り扱いを控えていたことも外食文化が根づいた背景といえる。(※:背丈の半分ほどの高さの縦長の荷箱二つを担ぎ棒の前後に振り分けて担ぐ荷売りで屋台の一種)

このように、江戸中期(1651~1745)の時代は料理を提供する担ぎ商いの行商の振売りや担い屋台、屋台見世が社会的に無視できないほどの規模で存在していたことがうかがえる。また、江戸中期には「だし、醤油」などの調味料の向上もあり蕎麦の普及に拍車をかけることになる。うどん・蕎麦は、屋台の代表でもあった。


■蕎麦屋
居見世(店)の「蕎麦屋」という呼びが一般化しはじめたのは、享保(1717年以降)の頃からといわれ、それまでは「慳貪(けんどん)屋」といい、饂飩(うどん)と蕎麦を一緒に商っていた。神田橋のあたりでは、饂飩を入れる桶へ蕎麦を入れて運んだという。しかし、江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたという。

二八蕎麦切り屋(蕎麦屋)の絵
江戸中期の『絵本江戸土産』宝暦三年(1753年) より「あさ草なみ木町(並木町)」

この絵は浅草「浅草寺」の門前町の並木町で営業する蕎麦屋の尾張屋が描かれている。左上の瓦塀が浅草寺である。
この絵には、次の文字が見られる。
・酒屋の看板に生田諸白(もろはく)」 … 上等の酒を江戸時代は、この名で呼んだ。
・蕎麦屋の看板には「うん(どんや)」と「二八そば切(り)」、店の暖簾には「おわりや(尾張屋)」



文政七年(1824)刊行の『江戸買物獨案内』に掲載されている名店だけでも、料理屋十一軒、蕎麦屋四軒、奈良茶飯屋二軒、鰻屋二軒、汁粉屋二軒(ただし、本店と出店)、寿司屋、菜飯屋、茶屋、茶漬屋各一軒が浅草にあった。






江戸では、享保期の中頃(1720年代)に、蕎麦屋が多数できて饂飩(うどん)よりも蕎麦が好まれた。蕎麦屋がうどん屋を圧倒するようになったのは、寛延年問(1748~1751)とみられており、この時期に屋台の蕎麦屋が急増した。
このことは、安永5年(1776)に刊行された黄表紙(戯作絵本)『饂飩 蕎麦 化物大江山(うどんそば ばけものおおえやま)』/恋川春町 には、「江戸八百八町に蕎麦屋は数え切れないくらいあるが、うどん屋は万に一」とある。この黄表紙には、当時の江戸人の蕎麦・うどんへの価値観の一面を描いていて、うどんが主流だった江戸初期から次第に蕎麦が普及して江戸中期頃には、江戸っ子の嗜好が「うどんから蕎麦」へ変わったようである。また、当時の江戸では蕎麦屋がうどん屋よりも多かったことが分かる。


■蕎麦屋の出前
『そば屋のかつぎ市村羽左衛門』/文久2年(1862) 歌川国貞 画
〝かつぎ〟は蕎麦屋の出前


料理を配達して客前に届け運ぶ人を「かつぎ(出前持ち)」という。「かつぎ」は、天秤で蕎麦を担ぎ町を駆け抜ける威勢のいい粋な姿は江戸の華でもあったと伝えられる。
すでに、享保(1716~36年)の頃は、『蕎麦切りゆでて、紅がら塗りの桶に入れ、汁を徳利に入て添きたる』(還魂紙料)とある。そば屋の「かつぎ」は、茹でた蕎麦・つゆ・薬味などを入れた「慳貪箱」に天秤棒の格好(出前)で運んだ。当時の神田橋のあたりの蕎麦屋では、饂飩を入れる桶へ蕎麦を入れて運んだという。

幕末期の万延元年(1860)には、蒸籠に盛られた蕎麦を座敷で食べさせる江戸市中の蕎麦屋(店)が3,760余軒もあったというから、当時のその盛況ぶりが知られる。蕎麦屋は、1,2町(1町は約109m)ごとに1軒あったと言われている。それとは別に屋台も多く出ていた。それでも江戸の街では、すし屋の方が多く蕎麦屋はその半分の数であったという。


■蕎麦のつなぎ(小麦粉)
『東海道五十三次』「見附」の一部/文化元年(1804)葛飾北斎 画
天竜川の東岸の見附宿(現在磐田市)図。

冷たい蕎麦に醤油味の蕎麦汁を浸して食べる見附の蕎麦は、街道名物のひとつであった。











- 江戸と紀州の蕎麦比べ -
江戸の蕎麦について、紀州田辺藩の医師 原田某が幕末に記した江戸勤番中の見聞記『江戸自慢』で紀州と江戸の食べ物の味くらべを記している。蕎麦では、『(江戸の)蕎麦は鶏卵を用いず 小麦粉にてつなぐ故に 口ざわり剛(こわ)く 胸につかへ 三盃とは食ひがたし 汁の味は至極美にして 若山(和歌山)の蕎麦を江戸汁にて食わば 両美相合して 腹の裂けるを知らず食にや有らん』とある。

このことからも当時の紀州では、蕎麦は玉子つなぎであったこと、一方江戸には「まじりなしの生蕎麦」と言われるような評判の良い蕎麦もあったが、大半が小麦粉つなぎの割合の多い蕎麦で、そば粉一升・小麦粉四升(1対4)や1対3などもめずらしくなかった町場蕎麦屋の時代背景がうかがえる。また紀州の湯浅は、醤油誕生の地ともいわれて江戸時代には92軒もの醸造業者がある醤油の名産地でありながら、まだつゆの味が不味かったこともわかる。江戸のほうはすでに、醤油や味醂を使った洗練された蕎麦つゆが出来上がっていたのである。味醂はもともと蜜淋酒(酎)とも書かれた甘い飲用酒であった。

『守貞漫稿」』はみりんについてこんな記述がある。「美淋酒は多く摂津の伝法村にて醸す 然れども京阪では用いること少なく 多くは江戸に漕して諸食物醤油と煮る」とあって当時流行しだした鰻の蒲焼きのたれや蕎麦つゆなどにも使われだしたことを記している。
さらに、『江戸自慢』には「鉢に入れ 汁をかけしを掛(カケ)と言い 小さき蒸籠に盛り 素麺の如く食うを盛(モリ)という」とある。この文面から、紀州では冷たく食べるセイロに盛ったモリはめずらしかったことがわかる。」
(竹内誠『江戸社会史の研究』弘文堂より)



寿司

『すしは、 古くから日本各地で様々なかたちで作られてきた。塩漬けにした魚を米と漬け込んで発酵させる「熟れ鮨(なれずし)」は、魚を保存するために生まれた寿司のかたちだ。江戸時代に入ってから「酢」が普及し、飯に酢を加えることで、米の発酵を侍たずに作る「早ずし」が考案され、押しずしや箱ずしが作られるようなった。しかし、なれずしは最低3か月、早ずしもできあがるまで数日を要した。より時間をかけずに作り、すぐに食べることができるのが江戸で生まれた「握りずし」だった。 (中略)  すしは、まずは料理屋で作られるようになり、出前で屋敷や宴席に運ばれたようだ。そして屋台でのすし屋が普及し、庶民たちの気軽な食べ物として親しまれるようになる。その後、今に通じる高級すし屋が登場する。』 … 『浮世絵に見る 江戸の食卓』より引用

酢が調味料として一般に広まったのは江戸時代になってからである。酢が味噌、醤油とともに庶民の食生活にも普及し、様々な合わせ酢や、それまでの「なれずし」などの「発酵すし」とは異なった、飯に酢を混ぜて作る上方の「押しずし」や「握り寿司」などの「早ずし」が広まったのが江戸時代中期である。早ずしは穀物を発酵させず代わりに酢で酸味をつけたすしの総称で、押しずしや握り寿司もこれに当たる。
このころは、高価な米酢が一般的であったが、江戸時代末期になって、江戸前寿司の「握りずし」のすし飯に合う酒粕から造った安価な「粕酢(かすず)」(赤酢ともいう)が使われるようになった。

江戸初期の寿司と言えば、寛政期(1790年代)までは大坂から伝来した「押しずし」が主たるものであった。
江戸の習慣、食文化についての記録書の「守貞謾稿」には、「筥鮓(はこずし)」というのは『方四寸ばかりのごとき筥(はこ)に飯と酢と塩を合せ、まづ半ばをいれ、醤油煮の椎茸を細かにきりこれを納れ。また飯を置き。その上に鶏卵やき、鯛の刺身、鮑の薄片を置きて縦横十二に斬る』と説明している。
ここで、「筥鮓」というのは、四角の木枠の中にすし飯を詰めて、具を乗せて、蓋をしめて、手で押さえた寿司である。当時の「押しずし」は、4寸(42.4cm)四方の寿司で48文。小口に切っての販売もされた。寿司の具は鳥貝・卵焼き・鮑・鯛など。酢飯の中に椎茸を混ぜ込むこともあるという。
その他にも「海苔巻」寿司も当時からあり、巻寿司を海苔で巻くようになったのは、江戸の浅草が発祥と考えられている。安永五年(1776)の料理本『新撰献立部類集』には、巻寿司として「すだれに浅草海苔 … を敷いて上に飯を置き、魚を並べて、すだれごと巻く」と書かれている。(文政七年(1824)の『江戸買物獨案内』に浅草海苔の店として、江戸における海苔の名店、6店のうち4店が浅草にあったという)
江戸独特の「握り寿司」も江戸が発祥で、握り寿司が登場するまで「すし」といえば押し寿司であり、振り売りなどで売られていた。

江戸時代の寿司屋は、ほとんどが屋台か担ぎ売りであった。このため、寿司を屋台で売るだけではなく、寿司を箱に入れて担ぎ、売り回る(振売り)こともあった。鮨(すし)の担ぎ売りは、白木の長手の箱を何枚も肩に担いで『すしや、コハダのすウし』と呼び声を上げながら売り歩いた。担ぎ売りの鮨ネタには、まぐろの鮨もあったが、代表的な鮨といえば、コハダの鮨であった。値段も安く一個四文でもあり、庶民は安価なコハダの鮨を買い求めた。
稲荷鮨も担ぎ売りか屋台であった。最初の頃の稲荷鮨の中身は寿司飯ではなくおからであり、後にキクラゲや干瓢を刻んで混ぜたご飯を入れるようになった。 

 
  屋台 幅:六尺、奥行き:三尺             『守貞謾稿』

『守貞謾稿(もりさだまんこう)』に、屋台のすし屋のスケッチと説明がある。屋台とは、屋根があって物を売る台を備え、一応移動が可能な店のつくりをいう。
喜田川守貞の『近世風俗史(守貞漫稿)』嘉永六年(1853)の「出し見世・床見世」の項には、『下図の如き見世及び台のみにて屋根無きをも京坂にてはこれまた出し見世と云う。 江戸にてはヤタイミセ(屋台店)と云ってはなはだ多し 屋体見世すえ みせにて不要の時他に移す … このうらに横木ありて他に移すにはここに拐(げ)を掛けになひ運ぶ京坂にはこれ以上を造らず是より以下の如き台しかの 店多くまた図の如く屋根あるもの往々有し … ここに障子あるははなはだまれなり … 屋体見世は鮓 天麩羅を専とす其他皆食物の店のみ也 粗酒肴(さかな)を売るもあり 菓子飴餅等にあれども鮓と天麩羅の屋体見(世)は夜行繁き所には毎町各三四ケあり』とある。
屋台は据えたままで不要のときには他へ移動する。寿司と天ぷらを売る屋台が多い。その他の屋台もあるが、みな食べ物の屋台だけである。酒肴を売る屋台や菓子や餡餅を売る屋台などもあるが寿司と天ぷらの屋台は、夜でも人の往来の多い所には1町に3、4か所ある。


江戸時代の鮨は今と違って屋台で食べるもので、客は木箱に並べられた作り置きの中から好きなものを選んで食べていた。
その頃の寿司の店は、多くは屋台風で、片流れの屋根をつけ、前と両側に油障子を立て、その中でツケ台に「握りずし」を置いて、客は立食の形式であった。客は握られた寿司を手に取り、大きなどんぶりに入った醤油をつけて、口に放り込んだ。このような屋台の寿司屋が普及し、庶民の気軽な食べ物として親しまれるようになる。

江戸では、寿司の主流が、次第に「押しずし」から「握りずし」へと遷っていった。「押しずし」が、江戸では「握りずし」のみになったことや寿司のネタが、『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という文献で次のように述べられている。
・『すしのこと、三都とも押鮓なりしが、江戸はいつ此(ごろ)よりか押したる筥(はこ)鮓廃し、握り鮓のみとなる。筥鮓の廃せしは五、六十年以来やうやくに廃すとなり。』喜田川守貞著「守貞謾稿 後集 巻之一(食類)鮓」
・『また江戸にても、 原(もと)は京阪のごとく筥(はこ)鮨。近年はこれを廃して握り鮨のみ。握り飯の上に鶏卵やき・鮑・まぐろさしみ・海老のそぼろ、小鯛・こはだ・白魚・蛸(たこ)等を専らとす。その他なお種々を製す。』喜田川守貞著「守貞謾稿 巻之六(生業下)鮨売り」
・『江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼、車海老、海老そぼろ、白魚、まぐろさしみ、こはだ、あなご甘煮長のままなり。 以上、大略、値八文鮓なり、その中、卵焼は十六文ばかりなり。これに添うるに新生姜の酢漬、姫蓼等なり。隔などには熊笹を用い、また鮓折詰などには鮓上に熊笹を斬ってこれを置き鮓となす。京阪にては隔てにはらんを用い、添物には紅生姜といいて梅酢漬を用う。』 
刺ミ
刺身及びこはだ等には飯の上肉の下に山葵を入る


白魚
中結干瓢


海苔巻き
干瓢を巻き込む

玉子巻
飯へ海苔を交え干瓢を入る


江戸時代の代表的な寿司ネタとしては、玉子焼き、まぐろ、車海老、芝海老そぼろ、白魚、鮪、こはだ、あなご、等があった。これらの握りずしの価格は全て1個八文で、玉子焼きのみが十六文であった。生姜の酢漬け”ガリ”も添えられていた。




天麩羅

■天麩羅
寛延元年(1748)の『料理歌仙の組糸』には『てんふらは何魚にても饂飩(うどん)の粉まぶして油にて揚げる也』とあるのが天ぷらの文献上の初出とされる。江戸の町に天ぷらの屋台が登場するようになったのは、天明年間(1781~89)とされている。てんぷらの「天麩羅」という漢字の表記は、天保七年(1836)頃に編纂された『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)に、天麩羅という漢字表記が江戸後期(天明初期頃の1781年)~幕末に生まれたと書き添えられている。

天ぷらは、慶長年間(1596~)には京都で非常に流行っており、庶民の口には入らぬ高級料理であった。江戸幕府の開祖、徳川家康が鯛の天ぷらを食べ過ぎて病気となり、それが死の引き金になったと伝えられている。しかし、江戸の初期には油を使ったいろいろな南蛮料理の揚げもの総称を「天ぷら」と呼んでおり、その形態、調理法も種々あったが、江戸時代中期以降になると、江戸前でとれた小魚を使った「魚の衣揚げ」を「天ぷら」と呼ぶようになった。

 

■屋台の天ぷら
天ぷらは、路上での辻売り屋台の立食い見世(店)である。江戸前で取れた芝エビや貝柱、穴子、コハダなどの魚介類を油で揚げた「天ぷら」が人気であった。特に江戸では江戸前の魚を使ったものを「天ぷら」と呼び、それ以外の野菜を揚げた料理は、上方では「あげもの」、江戸では「胡麻あげ」と呼ばれて区別された。(文久頃の天婦羅の種(ネタ)としては、当時の風俗を描いた大津絵に、蛤むきみ、貝柱、あなご、こはだ、するめいか、海老、等が書かれている)
天ぷらは、屋台の中でも蕎麦・寿司と並んで人気が高く、江戸の三味と呼ばれたそうである。天ぷら屋という立売りの屋台見世(店)の天ぷらは、一串、四文程度の手頃な価格で売られており、江戸前のネタに竹串を刺して揚げ、大根おろしや壺に入った天つゆ(醤油をだしで割り、大根おろしを入れたもの)をつけて立食いする大衆的な庶民料理であった。今の天ぷらと少し違ったのは竹串に刺して揚げていたことである。
天ぷらは、高温の胡麻油による火災を心配して、屋内ではなく屋台で売られた。守貞謾稿の『近世風俗史』には、「屋台見世は鮨・天麩羅を専らとす。其の他、皆、食物の店なり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に置く」とある。このように、庶民は日々の食事に必要なものを購入して食していた。こうした、移動せずに売るのを「立売り」と言い、「屋台見世(鮨や天ぷらといった立ち食いの店)」と「乾見世(ほしみせ:台付きの板を広げて商品を並べる店)」とがあった。

■天ぷら屋台と居見世(店)の天ぷら屋
江戸で天ぷら屋台を出すようになったのは、江戸中期の天明五年(1785)からである。天ぷらは当初、屋台料理(屋台見世)として江戸で成立した。江戸の天ぷら屋は幕末になるまで辻売り屋台の立食いだけで、ちゃんと座る場所を設けた本格的な居見世の「天ぷら屋」ができたのは、文化頃(1804~)からである。慶応頃(1865~)以後には、庭もあり、畳に座って食える高級料理屋の「天ぷら屋」が登場してきた。
そして、天ぷらの流行を支えたのが、江戸中期以降の菜種油・胡麻油の食用油や小麦粉の生産増であり、江戸中期頃から庶民の食べ物として普及していった。天ぷらが豪商や上流の武士が利用する高級料亭で、座敷でも食されるようになったのは、高級食材を取り入れた天ぷら(金ぷら)が登場した文化期(1804~18)頃から江戸時代末期のことである。

 
『園中八撰花・松』/歌川国芳 弘化末1847年頃(海老天ぷら) 『風俗三十二相』「むまそう」/月岡芳年 嘉永年間(鱚(きす)天ぷら)


■京・大坂の天ぷらと江戸の天ぷら
守貞謾稿『近世風俗史』(1837年)によれば、『京坂にててんぷらと云、油をもちざるを半片と云也。江戸には此天麩羅なし、他の魚肉、海老等に小麦粉をねり、ころもとし、油揚げにしたるを天ぷらと云。此天麩羅京坂になし。有、之はつけあげと云』、『この天麩羅一つ四文にて、毎夜売り切れるほど也、さて、一月も経たざるうち近所処方に天麩羅の店できて』と記されている。
このように、上方では魚のすり身を丸めて揚げたものを「はんぺん」といって「天ぷら」と呼ばれていた。それに対して、江戸では江戸前の海や河川で採れた魚介類を「すり身」にせず、衣を付けて油で揚げた「天ぷら」を食していた。



屋台見世(立ち食い)から居見世(店舗)へ

享保年間(1716~35年)に刊行された『絵本東わらは』には、当時の江戸の名物・名店が羅列してある。
それによると、『…サァおごらばござれ、深川八幡二軒茶や、向島にあらひ鯉、王子のゑびや、下屋の浜田屋、古川の森月庵、魚藍のゑびすや、江戸橋のますや、中橋綿や、京橋柴屋、新橋の佐倉屋、大和田うなぎ、鈴木の蒲焼、真崎の田楽、洲崎のざるそば、鈴木町のあんかけうどん、両国の油揚酒屋、親仁橋の芋酒屋、水道橋の鯰のかばやき、中橋のおまん酢、吉原の蛇の目酢、…豊島屋の白酒は節句前に売切れ、稲毛のそうめん、三輪よりほそし』とある。

店売りには、煮炊きをした惣菜類を店頭で売る「煮売り屋」と店内で飲食させる「居見世(いみせ)」があった。江戸初期から、町の辻々に屋台は数多く出ていたが、店舗を構えて営業する飲み食いのできる店、飯屋(めしや)、煮売り屋(にうりや)、居酒屋などが普及してくるのは、江戸中期以降からである。天明年間(1781~89)以降には、本格的な居見世(いみせ)の寿司屋、鰻屋、天ぷら屋などの料理屋が出てくる。

「煮売り屋」
店頭の文字は右から、おすいもの、御にざかな、さしみ、なべやき



煮売り屋は、なんでも一つ四文で売ったことから「四文屋(しもんや)」とも呼ばれ、焼き豆腐、こんにゃく、アワビ、スルメ、れんこん、刻みごぼうなどを醤油で煮染め、大皿に盛って並べて売っていた。煮売り屋は、魚や野菜などの煮物を食べさせたり、持ち帰りできる店であった。飯屋や居酒屋のようなところもあるし、屋台店もあった。





屋台の「四文屋(屋台居酒屋)」 酒の肴として、一串四文均一のおでんの具を食べている。
『近世職人尽絵詞』(しょくにんづくしえことば)文化3年(1806)

江戸後半の文化年間(1804~1817)、江戸で「四文屋」という均一単価の店が流行した。今でいう惣菜屋のことで、焼き豆腐、こんにゃく、れんこん、刻みごぼうなどを醤油で煮しめたものを大皿に盛って屋台に並べて売っていた。
すべてが四文銭一枚の食べもの屋台の「四文屋(しもんや)」について、天保年間(1830-43)に出版された『江戸繁昌記』には、つぎのように紹介されている。
『鍋の中に幾串も、芋をさし、豆腐をさして、いろいろ浸してある。鍋で煮てあり、香ばしい湯気か立っている。一串が四文で、かってに選んで食べる。これを四文屋という』。また、「四文屋」という、おでんの具を串にさし、四文均一で売る店(屋台)などが両国界隈をはじめ、神田川の柳原土手より芝まで続き、大にぎわいであると、随筆『飛鳥川』(柴村盛方、1804年)にある。(随筆『飛鳥川』、『煮肴、煮しめ菓子の類、四文屋とて両国は一面、柳原より芝まで続き……』)こうした煮売り屋が、外食文化の「居酒屋」へと発展していった。

「四文屋」が流行した背景にあるのは、明和五年(1768)に、新たに額面四文の貨幣が発行されたことにある。四文銭の出現は、物価にも大きな影響をあたえ、商品の値段が四文の倍数の八文、十二文、十六文、二十四文などか主流となったと云われる。



鰻屋

■ 鰻屋・うなぎ床見世(店)
江戸時代の前半までは、蒲焼きは、「うなぎの丸焼きのぶつ切りを串にさしたもの」で、塩焼きや味噌焼きにして食べるもので、その「 姿形 」が「 蒲( がま )の穂 」に似ており、その蒲( がま )が蒲( かば )に代わり「 蒲焼き 」とよばれた。また、そうした食べ物は、下賤の食べ物として、武士やそれなりの家の人間は食べなかった。
うなぎが、多くの庶民の口に入り始めたのは、元禄期(1688-1707年)に流通しつつあった濃口醤油の「掛け焼き」からのようである。現在の鰻の蒲焼に近いもの(丸焼きだけではなく、裂いて売る)が元禄時代から享保時代に出てくる。享保13年(1728年)に出版された『料理網目調味抄」の中に、醤油や酒を使ったウナギ串が記されており、味は現在の味に近かったとされている。

上方(関西)で刊行された林鴻作著の『好色産毛(こうしょくうぶげ)』(元禄時代 1688-1707)という本には、京都四条河原の夕涼みの画に、「うなぎさきうり/同かばやき」と記した行灯を置いた露店が描かれているという。ウナギを串に刺した蒲焼きらしきものと「うなぎさきうり」という看板、露店のうなぎ売りの行灯が本の挿絵に見られる。この時期から、丸焼きだけではなく、裂いて売ることも始まっているようだ。


うなぎの蒲焼きの初出は、正保年間(1640年代)に書かれた『料理物語』である。江戸時代のうなぎの値段は、「屋台で売られていた蒲焼は一串16文であったが、料理茶屋で食べれば一皿200文であった」とされている。担ぎ売りや屋台では、そばと同じで一串16文で売っていた。また宝永6年頃には江戸に、うなぎ蒲焼専門店が現れてきている。うなぎ蒲焼の価格は、客が二階に上がって座敷で食べるような場合は一皿(大串なら一本,小串の場合は4〜5本)で200文が相場であった。ご飯の上に鰻をのせた「どんぶり」も登場するようになり、値段は同じく200文。しだいに庶民的な食べ物から、贅沢なご馳走となっていった。

辻売り鰻屋の図
辻売りの蒲焼売りは「江戸前蒲焼」の看板を掲げて、蒲焼を焼いているが、傍らに(丸い網状の)笊(ソウ=かご)が積み重ねられ、半切桶の上には庖丁とまな板が置かれている。この蒲焼売りは鰻をその場で裂いて蒲焼にしている。














1700年頃、ウナギを開いて焼いて醤油と酒で味付けする「うなぎ蒲焼き」が上方(関西)で発達し、正徳年間(1711-15年)に江戸に伝わったといわれている。鰻のさばき方や調理法は関西では、鰻の腹から開いて焼くのが主流だったが、江戸では背中から開き、蒸してからタレをつけて焼く。身はふんわりとやわらかく、外は香ばしく仕上げるのか江戸流である。
うなぎ蒲焼きの味付けに、醤油と酒、そして、味醂という甘みのある調味料を使うようになったのが「江戸前のうなぎ蒲焼き」である。正徳2年(1712)発刊の『和漢三才図会』には次のように記してある。「馥焼(かばやき):中ぐらいの鰻をさいて腸を取り去り、四切れか五切れにし、串に貫いて正油(醤油)あるいは味噌をつけて、あぶり食べる。



近藤清春『神社仏閣 江戸名所百人一首』/享保13年(1728年)

深川八幡社の画
行燈に「めいぶつ大かばやき」と書かれた鰻売りの床見世(露店)で鰻串を食べる庶民の姿が描かれている。










江戸前大蒲焼きの先駆けとなったのは、江戸の真ん前ともいえる深川あたりのようで、深川八幡を中心とした門前町屋には早くから、「江戸前大蒲焼き」を名乗ったうなぎを専門に扱う鰻屋が数店、並んでいた。

江戸前うなぎを、蒲焼きにして食べるのは、江戸初期のころから行われていた。「江戸前」鰻は、深川、神田川、蔵前でとれた天然うなぎのことをいった。 江戸の外でとれた鰻は「旅うなぎ」と言って、「旅うなぎ」や「江戸後」(えどうしろ)として江戸前の鰻より安かった。

『近世職人尽絵巻』文化3年(1806年)刊
1800 年初め頃の鰻屋の様子。(店でのうなぎ蒲焼売り)
奥には、出前用の岡持も見える。書入れには、「妾が許には旅てふ物は候はず」、皆江戸前の筋にて候」
とある。つまり、この店では、「旅うなぎ」などと呼ばれる地方産のうなぎではなく、江戸前のものを使っているということだ。















元禄前後(1688)の頃に、江戸の町にはうなぎ蒲焼の小屋掛け程度の屋台店が登場したと思える。享保年間から寛永年間頃には、辻番小屋風の粗末な店構えの鰻屋が登場しているが、まだ、鰻屋というものが無かった。そして、天明から寛政の時期になっていよいよ、本格的な「江戸前の大蒲焼き」が登場する。座敷のある店舗の形態を構えた「鰻屋」が登場するのは天明年間(1764-81年)の初めごろである。天明年間には、蒲焼単体の販売であったものが、しだいに飯をそえて売るようになった。江戸の鰻は辻売り(屋台店)が盛んで、当初は辻売りばかりで定まった家に店を構えた鰻屋というものは、天明年間(1781~)まで無かった。その後にできた鰻屋としては、尾張町すゝき、牛込赤城前木村屋、同所裏門前神田屋、などの名前が見える。

安永六年(1777)刊の三都の名物評判記『富貴地座位(ふきじざい)』には、江戸名物料理の部に『江戸前鰻、やげん堀深川』とあり、両国の薬研堀(やげんぼり)に店構えの鰻屋があったと考えられる。この時代の鰻屋はあまり料理をしなっかた。せいぜい肝吸物ぐらいであった。寛政・享和の頃(1789~1804)には、江戸回りや江戸市中にも鰻屋は少なかった。



小料理屋

■ 居見世(いみせ)
江戸中期の後半から江戸後期にかけては、本格的な居見世が現れて、居酒屋、料理茶屋、飲食店が増え始め、代金さえ払えば誰でも自由に飲み食いができた。また、山海の珍味をそろえ、食器、家具、調度をはじめ、座敷や中庭を置き、離れや二階座敷を設けて独自の空間を演出する高級料理屋(料亭)も生まれた。

『江戸に料理屋が登場するのは、18世紀の中ごろにかけてである。風俗事典として評価の高い『嬉遊笑覧』(文政13=1830年)によると、「享保半頃迄途中にて価を出し食事をせむこと思ひもよらず」とあり、「其後、両国橋詰の茶屋、深川洲崎・芝明神前などに料理茶や出きてより、是又所々に出たり」とある。また、青山白峰の「明和誌」(文政5=1822年)にも、宝暦から明和のころ(18世紀中ごろ)江戸市中の風俗が大きくかわり、料理茶屋がにぎわいをみせだした、とある。さらに、山東京山の『蜘蛛の糸巻』にも、明和のころ深川洲崎に升屋という料理茶屋があり、前後して通人が遊ぶ高級料亭がふえた、と記されている。』(日本の食器-漆器から磁器へ/神崎宣武 より引用)


    「おやぢばし いも酒や」         「くぎだな むぎめし」       「四ッ谷 太田屋」(俗称馬方蕎麦)

『寛天見聞記』(寛政~天保(1789‐1844)頃、燕石十種第 五巻)より、江戸後期、酒の器や蕎麦の器と箸についての記述に、「予幼少の頃は、酒の器は、鉄銚子、塗盃に限りたる様なりしを、いつの頃よりか、銚子は染付の陶器と成り、盃は猪口(ちょこ・チョク)と変じ、(略)、蕎麦屋の皿もりも丼となり、箸のふときは蕎麦屋の様なりと譬(たとえ・ヒ)しも、いつしか細き杉箸を用ひ」(陶器と記しているのは磁器のこと) と、酒の器は盃から猪口になった、蕎麦屋はどんぶりを使い箸は細い杉箸を用いると書いてある。
その他には、『守貞漫稿』では、「盃も近年は漆盃を用ふること稀にて磁器を専用とす、(中略) 磁盃三都共チョクといふ。近世の猪口薄きこと紙の如く、口径二寸ばかり深さ八寸ばかりなり」という。また、滝沢馬琴『けんどん考釈詰』には、「そば切の器物は、予が小児の頃は皿也、今は多くは平をも用ひ、小蒸篭、又丼鉢をも用れど」と書いてある。


■ 料理屋(即席会席料理屋)
幕府の役人や各藩の外交担当を務める「留守居役(るすいやく)」が交渉の席を設けるために利用したり、文化人が狂歌の会を開いたりするようになると、料理だけでなく、座敷や庭にまで贅(ぜい)を尽くすような料理茶屋が次々とできた。江戸の町には手の込んだ本格的な料理を供し、器も吟味され、蒲・ヨシ・竹・杉皮などの天井や化粧屋根裏天井の数奇屋(すきや)造りの座敷や庭を持つ、今日の高級料亭に相当するような料理茶屋が、明和年間(1764~71年)の頃に数多く生まれた。料亭の元祖といわれる深川洲崎の「升屋」は、明和八年(1771年)に生まれたとされる。江戸随一と称された八百善の開店は、その三十数年後の享和(1801年)のころである。江戸時代の中期ごろ、料理茶屋の双璧といわれたのが、浅草山谷の「八百善(やおぜん)」と深川の「平清(ひらせい)」だという。
 
安政六年(1859)に刊行された料理茶屋の番付「即席会席 御料理」には、相撲の番付に見たてた江戸で評判の料理茶屋183軒が掲載されている。見立番付の勧進元(主催者)には深川「平清」・山谷「八百善」・浮世「百川(ももかわ)」・向島「大七」・山下「がん鍋」などの名が見られる。

宝暦から天明期・化政期には、定食料理屋も出現していた。喜多村香城の『五月雨草紙(さみだれぞうし)』には、『深川の回向院(えこういん)前の淡雪豆腐、浅草並木の枡屋田楽などいふ見世(店)ありて、一通り食事を弁ずるには銭百文位にて済しなり』とある。これらの料理屋は、一食、銭百文で食事ができることから 「百膳」と呼ばれた。「百膳」と称する店には、大竹輪・椎茸・青野菜の煮染しめ・つみれ汁と飯・香の物で、一食百文ほどの定食を出す料理屋もあった。

(回向院(えこういん)は、 明暦の大火(1657)の焼死者の供養を目的として建立された無宗派の寺院ですが、多くの江戸の人々にとって回向院を訪れる目的の一つが、勧進相撲を見ることでした。江戸時代、相撲興行を行う常設の小屋はなく、寺社の境内において行われていました。)
(淡雪豆腐は、江戸時代の豆腐料理本『豆腐百珍』にも掲載されている。淡雪豆腐の味付けは大きく分けて2種類あり、豆腐に葛溜りをかけて海苔とわさびを添えたものと、鰹出汁と醤油にすりおろした山芋を混ぜて豆腐にかけたものがあったそうです)



居酒屋・一膳飯屋

■ 居酒屋・一膳飯屋
煮売り酒屋には「七輪や鍋、食器を天秤棒で担いで行商する」「屋台を出して辻売りする」「店を構えて商いをする」の三種類があった。
宝暦年間(1751~64年)の頃には、「煮売居酒屋」が登場し、煮売居酒屋で、煮豆、煮しめ、焼き田楽(おでん)などを煮売りし、 店先に空樽や木の板に足をつけた腰掛の床几(しょうぎ)を置き、腰かけさせて酒を飲酒(居酒といった)をさせるようになったのが「居酒屋」の原型と云われている。そういう店は、店先に“居るままで酒を飲ませる”ので、「居酒屋」と呼ばれるようになった。

17世紀中頃から、簡単な惣菜で盛切りのどんぶり飯(一膳飯)に副食をつけて売っていた「飯屋」も少しずつ現れはじめた。奈良茶飯に煮しめ、漬物などを添えて出す「一膳飯屋」が浅草界隈に現れた。「一膳飯屋」は、煮売り屋から発展した店で、米飯と汁ものを一緒に出したり、鍋物・酒・菓子類も提供した。

明和(1764~)に入ると、煮売居酒屋と飯屋が一緒になった「縄暖簾(なわのれん)」も出現するようになった。縄暖簾では簡単な肴で酒も呑ませ、煮魚もあれば芋の煮ころがしなどでご飯も食べさせた。お銚子2~3本と肴(さかな)を注文して100文くらいになり、腕のよい大工なら払える金額である。
 
江戸時代の居酒屋では、酒樽を店内に積み上げていた。店先の軒の下には、酒の肴(さかな)の「ゆでダコ」「野鳥」「魚」を吊り下げており、どのような肴が店にあるかを知らせていた。このことは、江戸川柳にも詠まれている。『鶏の 羽衣(はごろも)居酒屋の 軒へさげ』 。江戸後期になると、客の趣向に合わせておでんや煮芋、魚介、鶏などの肴を提供するようになった。

酒や肴は、お膳、お敷きという低いお盆のようなものに器をのせて、床や床几(しょうぎ)の上に直において座って飲食をした。酒は燗徳利(かんとっくり)でなく、「チロリ」という容器にお酒を入れ、これを銅壺で湯煎して温め、いい温度になったらチロリを席まで運び、そこから酒を注いで飲んでいた。燗徳利は天保年間(1830-43)の中ごろ、江戸で使われるようになったという。金属製てないため、酒の味がよく、冷めにくいなどの利点かあり、しだいに諸国にも広まっていった。








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