日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 料理本と江戸の味再現料理(2)


1.江戸の味と料理本(2)

■料理本「百珍物」が出版界を席巻した
江戸時代中期の天明二年(1782)、江戸時代のベストセラー『豆腐百珍(とうふひゃくちん)』という料理本が発行された。版元は大坂春星堂の藤原善七郎で、江戸・大坂を席巻した珍書である。身近にある豆腐という食材で100通りの料理をつくる遊び精神が、当時の人々に受け入れられた。この新しい編集・構成が好評を博し、以降は江戸・大坂では“百珍物”と呼ばれる1種類の素材で100通りの調理法を紹介する料理本が一大ブームとなった。
『豆腐百珍』は当時画期的であり、続いて『鯛百珍』、『甘藷百珍(いもひゃくちん)』、『蒟蒻百珍』、『玉子百珍』など「百珍物」が多く生まれた。その他にも、天明五年(1785)には『大根一式料理秘密箱』、『万宝料理秘密箱 卵百珍』や『鯛百珍料理秘密箱』が出版された。米飯に関しても例外でなく、『名飯部類(めいはんぶるい)』(1810)では上下巻で148品目の飯の料理があり、中には33種類の鮨の作り方ものっている。
一方で「万家至宝都鄙安逸伝(ばんけしほうとひあんいつでん)」(1833)には数々の米飯食が記載されているが、農村的な食生活で米の増量効果を期待できる食品の紹介が多くなされ、飢饉に際しての救荒書的性格が強いものもあった。

■料理本が流行った背景
  • 寺子屋の存在
    江戸後期には庶民のための教育機関として寺子屋が普及していた。江戸時代の日本では、識字率が高かったといわれている。男子で50%近く、女子でも15%にのぼったという。この高い識字率の背景として、「寺子屋」の存在があった。江戸の文化は庶民の文化と呼ばれるが、庶民が文化を享受できた背景には、「寺子屋」を中心とする庶民教育の普及により識字率が向上し同時に大衆の文化レベルが向上したことがあげられる。さらには、商家の丁稚たちは、寺子屋に通うような年齢で奉公に出ることになるため、無給の住み込みながら、謝礼を払わずに読み書きや算盤(そろばん)などの指導を受けつつ、商人としての基礎を学んでいた
  • 江戸地本
    上方で起こった出版は、江戸時代中期以降は江戸独自の出版物(江戸地本)として栄えた。さらに、江戸地本以外に「貸本屋」も出版物の普及を支え、挿絵がふんだんに入った草双紙や読本がベストセラーとなって、庶民の娯楽となっていった。
  • 貸本と庶民
    「貸本屋」の歴史は古く、日本では江戸時代にまで遡ることができる。文化五年(1808)の記録によると、貸本屋は地域ごとに組をつくっており、江戸では日本橋南組、本町組、神田組、その他あわせて12組、合計人数約650人、大坂でも約300人という人数が貸本屋を営んでいた。また、天保年間(1830年代)の『江戸繁昌記』という文献では、江戸の貸本屋は八百軒とあり、その盛んな様子が伺える。当時、貸本業は庶民の生活に完全に溶け込み、店を構えるだけではなく、お得意先を廻る行商も大いに持てはやされた。貸本屋では、170~180軒ほどのお得意先があり、江戸だけで10万軒に及ぶ貸本読者がいたと考えられている。
 
草双紙『寺子短歌』宝暦12年(1762)から寺子屋の教育画
子供たちは、朝5つ(午前8時前後)から昼8つ(午後2時前後)まで寺子屋で勉強した。昼飯は、家ですませ、食べ終わると、すぐに寺子屋にいくのが常だった。寺子屋は、江戸時代に普及した「読み・書き・そろばん」などを教える庶民の教育の場で長屋住まいの町民であっても学ぶことができた。寺子屋で教える教師を師匠と呼び、師匠の多くは僧侶,神官,医者,浪人等であった。寺子屋は、江戸では普通 「手習所」と呼んでいた。



 
文化二年(1805)頃の『熈代勝覧』に描かれている本屋の図、店の前には「書肆(しょし)・本屋」の看板、暖簾には「須原屋」の屋号が見える。
本屋はできるだけ店内を往来からよく見えるようにするため、長暖簾でなく短い軒暖簾(のきのれん)にして、そこに屋号や店の別名である堂号(どうごう)、商標(店のマーク)などが染め抜かれていた。また、江戸時代には古本屋という独立した店はなく、古本は本屋(書物屋、書林、書肆(しょし)などともいう)の業務の一部であった。


■江戸時代の日本の識字率は世界一
貸本や瓦版は共に当時の識字率の高さを示す。嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は70~86%にも上り、長屋住まいの貧乏人であっても、手習いへ行かない子供は男女共に殆んどいなかった。
江戸時代に日本を訪れた多くの西洋人が日本人の識字率の高さに衝撃を受けたことを文書に残している。
 ① 嘉永3年(1853年)に日本を訪れたペリー提督は「日本遠征記」に、「日本では読み書きが普及し、見聞を得ることに熱心で、田舎にまで本屋がある」と日本人の識字率の高さに驚嘆している。
 ② 万延元年(1860年)に通商条約締結に訪れたラインホルト・ヴェルナー(プロイセン海軍エルベ号艦長)も、その航海記で「民衆の学校教育は中国よりも普及し、召使い女が互いに親しい友に手紙を書くために余暇を使い、ボロを纏った肉体労働者でさえ読み書きができる。」、「民衆教育について我々が観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」と驚きを記している。
 ③ 文久元年(1861年)に来日した宣教師ニコライは、帰国後に雑誌「ロシア報知」に、「国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育が行き渡っている。(中略)読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にもひけをとらない。日本人は文字を習うに真に熱心である」と日本滞在8年間の印象を記している。


■料理本と醤油の使われ方
「日本食生活学会誌」より一部を引用する。
  • 江戸初期から後記までの江戸時代全般に渡る料理本76冊で使われた醤油の種類と調理方法の特徴は次のとおりであった。
  • 江戸期料理本の料理方法を読むと、たまりやしょうゆの記述に加えて「うすしょうゆ」や「きしょうゆ」の表記が見受けられる。これらの多くは料理の色を意識して、色のうすいしょうゆが用いられたものと推察された。
  • 料理別にみると「しょうゆ」は煮物に最も多く、次いで焼物、和え物(浸し物・和え物・酢の物)、汁物、蒸物に多く使われていた。「たまり(しょうゆ)」は焼物と煮物に多く使用され、「煎り酒」は大半がなま物(刺身・膾)に使用されていた。以上のことから、しょうゆは煮物。たまりは焼物と煮物に多く使用され、煎り酒はなま物料理に多いという特織がみられる。
  • 「うすしょうゆ」は煮物で約半数を占め、次いで揚物、焼物、汁物に使われていた。「きしょうゆ」は煮物と和え物が多く、次いで揚物、焼物、なま物に使われていた。「その他しょうゆ(山椒しょうゆ・酢しょうゆ・合わせしょうゆ・出汁しょうゆ)」は、煮物と焼物に多く使用されていた。「煎り酒」は、しょうゆやたまりとは異なり、なま物や和え物によく合う調味料として江戸中期頃まで、主として刺身や膾などに使用された。
  • 「濃口しょうゆ」は、塩味や旨味、香りを付与し、過熱による照りや生臭みを消す効果もあり、このようなしょうゆの調理効果から、あらゆる食材に有効な調味料として江戸中期以降には幅広く料理に使用されるようになり、たまりや煎り酒を凌駕していった。
  • 「うすしょうゆ」「きしょうゆ」「その他の醤油」は、関東(江戸)よりも関西(京都・大坂)の料理本の方が、しょうゆの使い分けの出現が多いのが特徴である。同じ材料でも料理によって「うすしょうゆ」と「きしょうゆ」が使い分けされていた。「うすしょうゆ」は汁物と煮物に、「きしょうゆ」は和え物に多く使われた。たまり(しょうゆ)は関西の料理本中の出現数は関東に比べて極端に少ない。


2.江戸時代後期の料理本による再現江戸料理(2)

『名飯部類(めいはんぶるい)』享和2年(1802) …再現料理:「鰮魚飯(いわしめし)」、「筍めし」、「木の葉めし」、「ことり雑炊」
  • 『名飯部類』享和二年(1802)版・近世後期写、杉野権右衛門著本書は炊飯を扱った料理書、飯、粥(かゆ)、鮓(すし)など米の調理だけの専門書である。現在、版本は残っおらず、版本を手書きで書き写した転写本が3点伝わっている。
  • 本文は2巻に分かれており、上巻は尋常飯の部・諸菽飯(まめめし)の部・菜蔬飯(なめし)の部・染汁飯(そめめし)の部・調魚飯(うおめし)の部・烹鳥飯(とりめし)の部・名品飯の部に分けた87品である。下巻は雑炊の部・糜粥(かゆ)の部・鮓(すし)の部・完魚鮓(まるずし)の部と調理法別に分けた62品の作り方が掲載されている。
『万宝料理秘密箱』補刻本 (俗称『玉子百珍』)寛政7年(1795) … 再現料理:「黄身返し卵」、「卵膾(たまごなます)」、「利休卵(りきゅうたまご)」
  • 江戸初期の寛永20年(1643)刊行の『料理物語』に卵の料理法が出ているが、卵料理が広まったのは江戸中期以降で、江戸時代後期には採卵を目的として鶏が飼育され始められ、家庭の食生活の中にも卵を食べる習慣が普及していった。
  • 『万宝料理秘密箱』は、鶏と卵の料理集で、前編には29種類の鶏料理、後編の「卵之部(たまごのぶ)」には103種類に及ぶさまざまな玉子料理が器や用途などとともに掲載されている。「卵之部」の記載部分は「玉子百珍」と呼ばれた。本書の刊行により玉子料理は、養鶏の発達と相まって当時の食生活のなかに広まっていった。
『鯛百珍料理秘密箱』 器土堂(かわらけどう)主人 天明5年(1785)  … 再現料理:「鯛飯」、「鯛丸あげ煮」
  • 江戸時代、鯛は魚類の格付中でも第一位であり、「諸魚の冠(かしら)」などと表現されるほど珍重され、赤い色が邪気を払い、災厄を退け、さらに「めでたい」に通じることから、縁起の良い魚とされた。江戸後期の俳文集『鶉衣』(うずらごろも)の百魚譜には「人は武士、柱は檜(ひ)の木、魚は鯛」として鯛を魚のなかで最上のものと絶賛している。また、慶祝事の際には頭から尾まで完全に揃った尾頭付きが「終わりを全うし、人生を全うしうる」縁起の良いものとして饗された。
  • 『鯛百珍料理秘密箱』は、上巻46種、下巻56種と鯛料理ばかり102種類の料理法が載っている。料理名は、紅粉鯛 山吹鯛 せんべい鯛 とろろ鯛 あらひ鯛 塩やき鯛 長崎糟煮鯛 土佐麦焼鯛 小笠原漬煮鯛 佐渡芋汁鯛 さらさ鯛 豆腐むし鯛など。
『甘藷百珍(いもひゃくちん)』寛政元年(1789)  … 再現料理:絶品「かば焼きいも 」、奇品「衣かけ芋」
  • これは天明2年(1782年)に刊行され、百珍ブームを作った『豆腐百珍』のシリーズ物とも呼べる本である。『豆腐百珍』と同じく、尋常品、奇品、妙品、絶品の四等品に分類されており、薩摩芋の料理品目は全部で123品にも及ぶ。
  • 「絶品」妙品の更に上をいく極上級の料理11品、「妙品」形が珍しく味が奇品より優る料理28品、「奇品」形が珍しく人の意表をつく料理63品、「尋常品」どこの家庭にも日常みられる料理21品の料理法が載っている。
『料理物語』寛永20年(1643)  … 再現料理:「小川たたき 」、「くじら汁」
  • 江戸時代初期の代表的な料理書。作者は武蔵国狭山の住人と云うだけで作者名は不詳であるが、料理材料や調理法を簡潔ではあるが具体的に書かれ、実用的な内容としては最も古い。『料理物語』は、その頃の全ての食材に言及しており、料理人が後進の為に残した書と言われている。


〇名飯部類:享和2年

■鰮魚飯(いわしめし) 『名飯部類』1802年
『名飯部類』は、享和二年(1802)に杉野権兵衛が刊行した米飯料理本の転写本で、上巻の「調魚飯(うおめし)之部」に、イワシを使った「鰮魚飯(いわしめし)」がある。

 
『鰮魚飯(いわしめし)』(「調魚飯(うおめし)の部」)

料理レシピ:新鮮なイワシを水洗いして鱗をとり、再びよく水洗いします。次にご飯をいつもどおり炊き、火を止める直前にご飯に穴をいくつもあけて、頭を上にしたイワシを差し込みます。ご飯とイワシをよく蒸らしたのち、イワシの頭を指でつまんで引っ張り、骨とはらわたを一緒に取り除きます。そののち、イワシの身とご飯をよく混ぜ合わせ、お茶碗に盛り、だし汁と加薬(ネギ・青海苔・唐辛子・おろし大根・柚子など)をかけて召しあがります。
(料理レシピ:http://iwasebunko.com/contents/library020.html、Library020 名飯部類、ようこそ「岩瀬文庫の世界」へ)


翻刻『料理献立早仕組』/ 風羅山人(江戸末期)の「飯之部」にある“鰯飯(いわしめし)”の記述は以下の通り。
「火を引んとする前かた いわしの頭(かしら)をさりて よくあらひて逆(さかさ)に飯へさし込て 其の後火を引べし それより能(よく)むれたるとき さし込たるいわしの尾を引立れば骨はことごく付て抜るなり 飯は上より下へよくまぜて出すべし すまし汁 やくみいろいろ仕立べし」
  • 江戸期の写本で、原奥書に天正八年庚辰(1580) 信州山家住人 折井内近助人道源祐閉による料理書では、「鰯飯 飯を焚火をひかんとする時鰯の頭を去り能洗上置て右の飯へ逆に差込 其後火を引べし 夫より能むれし時差込たる鰯の尾を引立れば 骨はことごとく付きて核るなり 飯は上より下へ能まぜべし すまし汁役味有べし」とある。
  • 以下は、「古典料理の研究(1)」松下幸子/吉川誠次(農林省食品総合研究所)より引用する。 「料理献立早仕組」は江戸時代料理書の中でも長期間にわたって版を重ね、広く読まれたもののようである。(中略)大江文庫本「料理伊呂波庖丁」を見ると、序があること、凡例が異なること、目録と本文が一の巻から五の巻までに分けて書かれていること以外、「料理献立早仕組」と全く同じである。1759年、或はさらに古く1751年に「料理伊呂波庖丁」二冊として刊行された本が、1773年に五巻となり再刊され、つぎに「料理献立早仕組」と改題して1833年または文化文政の頃にも刊行され、さらに万延元年(1860年)の版もあり、明治に入っても目黒十郎書店が発売しているという。本書は100年以上にわたってほとんど内容に変化なく、そのまま時代に適応し通用しつづけた料理本といえよう。

■筍飯 『名飯部類』1802年
江戸時代の料理書『名飯部類』/享和二年(1802) の筍飯の作り方は次のようなものです。「筍の柔らかな部分を塩ゆでにしてから小さく切る。飯は普通に炊き、沸騰がおわり弱火にする時に飯の上に筍を置き炊き上げる。筍飯を器に盛り、吸物味のだし汁をかけ、浅草海苔や山椒を添える。」


『名飯部類』より再現「筍飯」料理、写真:江戸料理・文化研究家 車 浮代

「筍飯の仕方」原文
『淡竹筍(はつちく)用ひ、苦竹筍(またけ)を用ゆへからす、味ひ少し苦(にか)く、簽(あく)うしてあくつよし、末凡三四寸柔(わ)らか成ル所を切取、塩湯をたきらせ、其中に入淪(ゆに)し切て、飯を常のことく炊薪(たきき)を断(ひき)て後、飯上(うへ)に置熟(うま)す、達矢汁(だししる) 加料、紫蘇苗(めしそ)、花蜀椒(はなさんせう)、浅草紫菜(あさくさのり)よろし』

-原本現代訳-
淡竹(はちく)の竹の子を用いる。苦竹(まだけ)の竹の子を用いてはならない。味わいが少し苦く、えぐくてあくも強い。先端の三、四寸(11,2cm)の柔らかな部分を切り取って塩湯をたぎらせ、その中に入れてよくゆがいてから切る。飯が炊き上がってから飯の上において蒸らす。だし汁、加薬は、芽紫蘇(めじそ)、花山椒、浅草海苔がよい。新鮮な淡竹はアクが少ないので、ゆでなくともよい。 『名飯部類』教育社新書


■木の葉めし 『名飯部類』1802年
『名飯部類』上巻の「名品飯(めいはん)の部」の一品
 
『名飯部類』より再現「木の葉めし」料理、写真:『名飯部類 原本現代訳』/訳・福田浩、島崎とみ子

料理レシピ:
一, 具の用意をする。
生椎茸は、軸を切り、水洗いして、分量の水で下ゆでする。ていねいにあくを取り、醤油を差し、火を止める。冷めてから、5ミリ角に切る。木の芽は、葉だけつみとって、水に放しておく。
二, かけ汁を作る
だしに、塩、醤油で吸物よりやや濃いめに仕立てる。
三,飯を炊き、火を引く前に、一,の椎茸の汁を切って入れる。飯ができ上がったら、二,の木の芽を入れ、混ぜ合わせ、器に盛り、一,のだし汁を温めてかける。


■小禽雑炊(ことりぞうすい) 『名飯部類』1802年
 
『名飯部類』より再現「ことり雑炊」料理、写真:サライ.jp(再現!江戸飯レシピ)

「小禽(ことり)ぞうすい」
小鳥を洗って俎板(まないた)にのせ、庖丁でよく叩く。手のひらに酒を塗り、むくろじ(羽子板の玉)くらいに丸める。味噌仕立ての雑炊に鳥団子を入れ、一吹き二吹きさせる。器に盛り、芹の茎のみじん切りを上に置く。

小鳥の種類と調理法>(2013,日本食生活学会誌 Vol.23より一部引用)
「鳥類には鶏,カモのほかに、小鳥の種類では雀・雲雀・鶉(うずら)・ツグミ・ムクドリなどが用いられた。変わり飯にも小鳥飯が使われている。鳥肉はよく叩くことが原則で、今でいうひき肉のようにするので、粗く叩かないなどが記載されている。」「味付けには塩,醤油,味噌などを用い味を整える。」
かけ汁の「だしの調味料には、醤油味が文献『料理伊呂波包丁』『素人包丁;小鳥飯,小鳥粥』にみられる。味噌味は文献『名飯部類;小鳥雑炊』にみられる。だしは土佐のカツオ節を使うことが『料理伊呂波包丁』に記載されている。ほかは塩味で味付けている。」

小鳥粥」の料理について、『素人包丁』二編文化二年(1805)刊のかゆは、すべてが味つけなしのかゆに汁をかけて食べる汁かけがゆである。その一つ「小鳥粥」は「小鳥の類、何にても(どんな鳥でも)随分こまかくたゝき扨(さて)、前のごとく焚きたるかゆの中に入れ、よくまぜ合し、直に盛て出す」、かけ汁は「かつを出し醤油、かけんよくすべし(カツオ節だしと醤油の割合を加減よくすること)」と記されている。そして、かゆにのせる薬味として「さんせう(山椒)、こせう(胡椒)、ねぎ、ちんぴ、大こん(大根)、此中(このうち)見合せ遣ふ(つかう)べし。<この中からとり合わせて使うとよい>」と書き添えてある。


■青菜めし 『名飯部類』1802年

『名飯部類』より再現「青菜めし」料理(かぶの葉の”青菜めし”)、料理写真:白ごはん.com https://www.sirogohan.com/

『名飯部類』(めいはんぶるい)には、「わが国では、大根、かぶ、にんじんなど、その他の野菜の葉をひっくるめて菜と呼ぶものが多い。すべて飯に炊きこんで、青菜飯という」とある。
青菜めしの作り方は、「どの菜も葉だけをとり、よく洗い、細かに刻み、ざるなどにとって水を切り、熱湯をかけるか、煮え立った湯にそのまま浸して、すぐに引き上げる。淡塩を混ぜてご飯を炊き、飯器(おひつ)に移し、葉を混ぜて出来上り」とある。



〇万宝料理秘密箱:寛政7年

■利休卵(りきゅうたまご) 『万宝料理秘密箱』補刻本1795年
 
『万宝料理秘密箱』より再現「利休卵」料理、写真: 写真集食堂 めぐたま http://megutama.com/

「利休卵の仕方」原文
「是は 白胡麻一合を 油をとり よくすりて さて 古酒五才ほどいれ よくすり 此中へ卵を 十ヲわりこみ よくよくとき合セ 是も箱か鉢かに入レて 蒸へし」
(白ゴマをよく摺って、酒を加えてさらによく摺り、卵を割って入れてよく掻き混ぜる。これを、鉢に入れて蒸す) 



〇鯛百珍料理秘密箱:天明5年

■鯛飯 『鯛百珍料理秘密箱』1785年
 
『鯛百珍料理秘密箱』より再現「鯛飯」料理、写真:「料理昔ばなし 再現!江戸時代のレシピ」里見陽子(キッチンスタジオヨーク)

「鯛飯の仕方」原文
「鯛を三枚にをろし、ゆで候て、乾かし右ゆで湯に而めしを焚くなり。 米は大びね三年米か、六年米かを焚申候。 めしのふき候せつに。鯛をむしりて飯の上にをき。よくむまし釜もりにする也。 器にうつせば。なまぐさけ出るゆへ也。汁は見合いにして。 少し陰葛を引也。かやくは何にても見合にすへし。」

-原本現代訳-
鯛を三枚におろし、茹でてから乾かす。その茹で汁で飯を炊く。 古米がよい。 ご飯がふいてきたら、鯛の身をむしってご飯の上に置き、よく蒸して、釜に盛ったまま出す。 器に移すと生臭気が出る。汁を添える。 汁には目立たぬように少し葛を入れる。
(だし汁は塩、醤油で調味し、薄葛を引き、鯛飯を器に盛ってかけ、木の芽を置く)


■鯛丸あげ煮 『鯛百珍料理秘密箱』1785年
 
『鯛百珍料理秘密箱』より再現「鯛丸あげ煮」料理、写真:「江戸料理百選」http://www.asahi-net.or.jp/~UK5T-SHR/welcome.html

「鯛丸あげ煮」原文
「小鯛のうろこをふき はらを明け ゑらわたをとり 水にてあらひ 雫をたらし 半時ほども醤油につけ 白たうふをしほり 葛をあはせて鯛のはらへ しっかりとつめ まん中を ひもにてかるくくゝり ごまの油にてあげ 外の小鍋にて醤油を煮て かけ出す かやくは をろし大こんとうがらし ねぎの白根こまこまにして出す 小鯛のほねまでも やわらかになり申候」

-原本現代訳-
小鯛の鱗、えら、内臓を取り、水洗いして醤油で下味をつける。葛を混ぜた豆腐を鯛の腹につめ、真中を木綿糸でしばる。ごま油を中熱し、表面がからりとするまで揚げる。揚げたてを器に盛り、醤油をかけて食す。薬味は、大根おろし、唐辛子粉、ねぎのみじん切りを用意する。



〇甘藷百珍:寛政元年

■樺(かば)焼いも<絶品> 『甘藷百珍(いもひゃくちん)』寛政元年1789 年
 

『甘藷百珍』より再現「かば焼いも」料理、写真:「江戸の美味しさいただきます」岩瀬文庫

百十六、「樺焼いも」原文
「生にて擦し、三分ほどにのばし、蒸熟(むしあけ)て、直に紫(あさくさ)苔(のり)の上へならべ、しばらく置、よくひつつきたるとき、よきほどにきりて、麻油少引、泰椒豆油(さんせうじゃうゆ)付やきにする」

-原本現代訳-
116:樺焼(かばやき)いも
生で擦りおろし、三分(1cmほど)に伸ばし、蒸しあげて、直に浅草海苔(あさくさのり)の上へ並べ、しばらく置いて、よくひっついた時に適当な大きさに切り、麻油少し引き、山椒醤油の付け焼きにする。


■衣かけいも<奇品> 『甘藷百珍(いもひゃくちん)』寛政元年1789 年
『甘藷百珍』の「奇品」部門の30番に載っている「衣かけ芋」
 
『甘藷百珍』より再現「衣かけ芋」料理、写真:ダイヤモンド・オンライン(江戸料理・文化研究家 車 浮代)

三十、「衣(ころも)かけいも」(さつまいも天ぷら)原文
「生薯(いも)を生で切り、うどん粉を水で溶いて、豆油(醤油)を少し入れ、切った薯(いも)にまぶし、油で揚げる。 又、いもと生姜を同じく細切りにして、取り合わせ、同じように衣をかけて揚げてもよい。」

※:『大和本草』宝永五年(1708)の「豆油(シャウユ)」の項には『豆油ハ大麦大豆ニテ作ル製法アリ又小麦ニテモ作ル』、豆油=現在の醤油の意。
※:川越で生産された甘藷(いも=さつまいも)は、新河岸川から荒川、隅田川へと運ばれ、大消費都市である江戸の神田市場で売買された。



〇料理物語:寛永20年

■小川たたき 『料理物語』寛永20年(1643)
当時、腐敗の早いカツオは熱湯に通したり、湯をかけたり、酒に浸すなどの工夫がされた。 『料理物語』指身(さしみ)の部 に見られる小川たたきも火を通す料理である。また、小川たたきは江戸時代に料理にしばしば登場する有名料理であった。
 
『料理物語』より再現「初鰹の小川たたき」料理、写真:NHK「お江戸の味を食べづくし」

「小川だゝき」原文
「生がつほをおろし、よくたゝき、杉いたにつけ、にえ湯をかけ、臼(しら)めて作りたたみ候。掻鯛(かきだい)に盛合せよし、鯉にても仕(つかまつ)り候也、同煎(いり)酒」。 掻鯛の項には盛り合わせに「煎り酒よし、からしもおく也、けんはよりがつほ(鰹節)、九年母などよし」とある。

(「小川たたき」とは、生の鰹肉の切り口の表面を、熱湯をかけることによって白くした刺身のことである。「鯉」は「鯉にても」とあるように、主は「鰹」の刺身である。)

『料理の栞』 明和八年(1771)頃には以下のようにある。
「小川たゝき。古実の料理とす。鰹のかき身を杉板に付、かまぼこのごとくならして、湯に入て、霜ふりにして、水にひやし、右の白めよりを壱分位の切重にして、さしみの置合にする。小形してよし。又一種鯉のかき身を以右の通にも致す也。」



■くじら汁 『料理物語』寛永20年(1643)
江戸時代の人々は、鯨を大きな魚だと思っており、知識人でさえもそう考えていた。『料理物語』の中でも、鯨は「海の魚の部」で紹介されている。

写真:日本捕鯨協会(習慣化する鯨食)

日本で刊行された最初の料理書である『料理物語』には、たまり醤油か味噌仕立ての鯨汁が記されています。ごぼう、大根、野菜の茎、竹の子、茗荷など季節の野菜を加え、さっと煮え湯をかけてから鯨肉を使う、とあります。

一般的に食べられていた鯨は、黒い皮付きの脂肪層を塩蔵した「皮鯨」と呼ばれるもので、この皮鯨を薄く切って湯で塩と脂を抜いて料理に用いた。
『料理物語』では、鯨料理「汁、さしみ、すい物、あへもの、かすにつけて、うちの物いろ/\、 同かぶらほね、水あへ、肴々」と数種の料理が紹介されている。鯨汁は、江戸時代に家庭でも普通に食べられていたようで、天保年間版行とされる『日用倹約料理仕方角力番附』というおかずの番付では、夏の前頭十六枚目に位置付けられている。



〇八百屋集・中巻:元禄6年
『八百屋集』は、当世風料理の製法や実用的なコツを懇切に記した全三巻の料理本。上巻47品目、中巻72品目、下巻29品目からなる元禄6年(1693)に書写された古書。

■蛸南蛮煮(たこなんばん煮) 『八百屋集・中巻』元禄6年(1693)

『八百屋集』より再現「蛸南蛮煮」料理

五十四、「たこなんはん煮」 -原本現代訳-
「蛸を、普段のように洗い、板の上ですり、木で叩いて柔らかくし、適当な大きさに切り、酒だけで長く煮ると柔らかくなる。仕上がりに醤油を加え、小さく切り、汁無しで盛り付ける。山椒酢、生姜酢をかけるもよい」
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「南蛮煮」とは普通、油で炒めて煮る。あるいは、葱や唐辛子を加えて煮ることをいうが、この料理法はむしろ「江戸煮=蛸の小口切りを酒と煎じ茶で煮、醤油で味付け」に近い。木で叩き、酒で煮た蛸はたいへん柔らかく仕上がる。






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