日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


「江戸時代の外食文化(1)」Sub Menuに戻る


江戸の外食・醤油文化

 江戸時代の食事情/長屋に住む庶民の食事


照明器具と食事習慣の変化

■朝夕2食から“1日3食”の食事習慣は江戸時代中頃から定着した
江戸時代の食事は、江戸時代の初期には1日に朝夕の2食を習慣としていた。一日に朝・昼・晩の三度食事をする習慣が、江戸時代中期の元禄年間(1688-1704)に定着したとみられている。その時期は、ご飯と何種類かのおかずを食べるという食スタイルが定着した頃でもある。

当時の庶民はほとんど行灯(あんどん)を使用していた。蝋燭(ろうそく)もあったが、蝋燭は高価なので庶民の生活にはほとんど使われていない。蝋燭は、ごく限られたところ、大店、遊郭、大きな料理屋などでしか使えなかった。一般庶民が使っていた行灯の火種は、ほとんどが「菜種(なたね)油」である。他には「ごま油」や「くじら油」、臭いがきついが「いわし油」などもあった。

江戸時代中頃、振売り(ふりうり)の「油売り」から油を買い、庶民にも夜の照明用の行灯に菜種油(1合40文)が広く出回るようになった。夜間でも灯りをともす習慣が普及したことで、人々の生活は大きく変化した。そして、物流の発展で高価な菜種油の値下がりにより、夜間でも灯りが用いられ、夜なべ仕事や夜遊びなどで、1日の時間も増えて1日2食ではもたなくなったことも1日3食の食事習慣が定着した一因でもある。
  • (当時の中流階級である大工の日当が500文くらいの時代に、夜の照明用に使う「百目蝋燭」は一本200文であった。庶民が蝋燭を使うのは持ち歩くときなどが主で、日常的に室内照明に使うのは大名の御殿、料亭や遊廓など限られた場所であった。蝋燭を3本立てるだけでも、行灯の約10倍の明るさだった。)


【庶民が主に使っていた夜の照明器具は行灯(あんどん)であった。行灯は受け皿の上に灯明皿(とうみょうざら)をのせて油を入れ、灯芯と呼ばれる撚り紐を芯にして油に浸して、そこに火をつけて灯りをともす仕組み。また、「瓦灯(かとう)」と呼ばれる照明器具もあり、行灯よりも安かったため、貧乏長屋の庶民が使っていたのは、この瓦灯だったのだろう。ただ実際の明るさは、灯火の近くでやっと文字が読める程度であったようである。その薄ぼんやりとした明るさのなかで、庶民は内職をしたり、食事をしていたのである。
「瓦灯」とあるのは、粘土をこねて焼き上げたもので、繊細な手作業を必要とする行灯などに比べると比較的安価であったと思われる。瓦のフードの中に灯明皿があり、普通は灯明皿を瓦灯の上部において、裸火の明りを取り、風があるときや寝るときにフードの中に入れたのではないかと言われている。】
参考:「江戸の庶民の朝から晩まで」、「行灯の明かりと庶民の暮らし」




■庶民の食習慣の定着
庶民の食事は三食とも「一汁一菜」、もしくは二菜といわれるように、ご飯に汁(味噌汁)と漬け物の三点が基本で、ときにはもう1品追加していた。三度の食事は江戸時代に食習慣として広く一般の人々の間に定着していた。江戸時代の初め頃までは、公家・庶民に関わらず午前中と夕方に食事を取ることが一般的で、食事回数は1日に2回だったと言われている。しかし、江戸時代の中期になると正午頃にも食事を取るようになり、現代と同じ1日3回の食事回数に変化した。

江戸の庶民のご飯時間は、朝食は7:00(明け六つ)、昼食は12:00(昼九つ)、夕飯は19:00(暮れ六つ)ごろに大体食事をとっていた。そして、食事中にお茶や白湯(さゆ)を飲む習慣はあまりなく、最後にいただくのが普通であった。
  • 1日に3度食事する習慣が定着するが、食事といっても、あいかわらずの粗食で、庶民の食卓は、ご飯に、味噌汁、漬物である。漬物には、たくあん、梅干し、ぬか味噌漬け、なすび漬け、らっきょう等で、今でも食しているものが多かった。少し裕福な家庭では、煮豆などの副菜(おかず)がついた。
  • 奉公人を抱える町人でも、せいぜい、ご飯と味噌汁に、漬物、おかずの鰯(いわし)一皿といった「一汁一菜」だったという。しかし、主食は徐々に白米が普及するようになっていった。
  • 江戸の商家の丁稚(でっち)は、朝はご飯に味噌汁、漬物。昼はヒジキに少しばかりの油揚げの煮付け。夜はご飯と漬物であった。ただしこれは丁稚だけではなく手代や番頭も同じであった。(丁稚は住込の奉公人で給金は出ない。寝食の保障が給金代わりであった)
  • 武士の中でも下級武士の人々の食生活は、庶民の食事とほとんど変わらず、白米を中心とした食生活であった。魚を口にするのは月に3回程度で、納豆や豆の煮物などをおかずとすることもあった。
江戸時代後期の江戸庶民の食生活は「米飯・味噌汁・香の物」に“おかず”が1~2品つく程度にまで向上していたと考えられている。庶民は、白米を中心とした食生活を送っていて、1日に4~5合の白米を食べることもあった。ご飯は朝のみ炊くものだった。朝食は「温かいご飯・みそ汁・漬物」が定番であった。米は朝のうちに1日分をまとめて炊き、飯櫃(めしびつ)で保存して昼食と夕食は「冷や飯」が食べられていた。夕食は野菜やひじきの煮物などのおかずが添えられた。

江戸の初期は何でも京都・大坂の上方からの下りもので、醤油は高価な下り醤油(薄口醤油)しかなかった。このために江戸の初期の庶民の調味料は手に入りやすい塩と味噌である。江戸初期までは味付けの中心は塩、酢、味噌だったが、江戸時代中期以降、野田や銚子など関東の地廻り醤油(濃口醤油)や砂糖、みりん、かつおぶし等が庶民に普及し、さまざまな煮物料理がつくられるようになった。
肉体労働の多かった江戸庶民はしょっぱい味を好んだ。当初は上方流の薄口醤油しかなく、高価な下り醤油であった。初期にはほとんどの醤油が上方からのものであったが、野田や銚子など関東の地廻り濃口醤油が主流になり、一気に庶民に広がり、江戸好みの濃口醤油が江戸食の基本となった。

江戸庶民のおかずは、鍋で加熱調理する「煮もの、茹でもの、汁」中心であった。また、裕福な家庭でも魚が食べられるのは2週間に1回程度で、まぐろやいわしなどは手に入りやすく、庶民から好まれた。
焼き魚が食卓に上がるのは、“七輪(しちりん)”が登場する江戸時代の後期以降といわれ、移動可能な七輪も必須の調理器具であった。七輪が普及し、夕食の支度のために日々火を使って煮炊きすることが一般的になった。(「七輪」という名前の由来は銀七厘(七文)の炭で煮炊きができると言う意味である)

 
「一汁一菜」 ,畑銀鶏著『日ごとの心得』(天保四年1833刊)/挿絵 長谷川雪貢(せっこう)、本書は飢饉への備えを説いた救荒書、「食を減じて腹減らぬ心得」など14項目がある。


■夜の照明、行灯(あんどん)
江戸を代表する室内の灯火具といえば“行灯(あんどん)”である。行灯は、屋内その他に据え置く灯火具として使用されるようになり、用途にしたがって、構造も多種多様の型が生まれた。灯台(油皿に灯油を入れ、灯心を浸して燃やす台)の火が裸火のため風で消えやすく不安定であったので木で框(わく)を作り、周りに和紙を貼って風を防いだことにはじまる。
しかし江戸時代になると蝋燭(ろうそく)を使う提灯の出現で、行灯は主に室内に置いて照明器具として使用された。
座敷の照明に用いられた行灯にはその形から角形行灯と丸形行灯に大別され、一般に京と江戸では好みに相違があるように、江戸では角形の行灯が多く、京風は華やかさのある丸形が多く見受けられる。座敷行灯の一種で、終夜寝室にともし続け、便所などに携行する行灯を有明(ありあけ)行灯という。

○角形行灯
框(わく)や台座には杉材が使用され、全体に朱が塗られている。和紙を貼った火袋は長方形で前部は上下させて油皿の出し入れ等が容易にできるように工夫されている。台座には灯心や発火道具を入れたと思われる小引き出しがあり、台上には漏れた油を受け止める山水画が描かれた瀬戸物の行灯皿が置いてある。
○丸形行灯
丸形行灯は江戸時代初期に小堀遠州が考案したといわれ、別名遠州行灯ともいう。框や台座の全体に漆が塗られ、定かではないが桐材が使用されているようである。
和紙を貼った火袋は円筒形で台座には溝が刻まれ、円筒形の框を回すことによって明かりを調整することができる。台上には火皿に油を注ぐための油差しが置かれ、台座には灯心や発火道具を入れたと思われる小引き出しがある。火皿は釣り手と同じ鉄製で中心より吊られており、多少ゆれても安定している。
○有明行灯
名称の由来は、夜明けの空に残っている細い月を有明月といい、この言葉が転じて寝室などで終夜点灯し続ける灯火を有明行灯と呼ぶようになったと思われる。有明行灯は蓋と火袋に分かれ、蓋は杉材に煤で黒く塗られた立方体、左右には大小の三日月形、正面は丸く満月を模ったように切り抜かれている。
終夜点灯するときは火袋に蓋をかぶせ、切り抜きから洩れる火の向きを変えることによって灯火の明かりを調整する。また火袋の台として使用する時は、重なる部分を溝でしっかり固定させ、持ち運びもできるように工夫されている。

■行灯の油・竈(かまど)の俵炭・醤油は量り売りで買う
庶民たちは、カマドの炭、調味料の醤油や塩、行灯の油などは、俵炭、醤油樽、油樽ごとに買う余裕はなく、さまざまな行商人の振売り(ふりうり)から一升・二升と、少量ずつ量り売りで購入した。江戸後期の風俗誌『守貞謾稿』巻之六,生業に見る天秤棒で商う炭売り、醤油売り、塩売りなどの記述には、
炭売 古よりある賈(あきない)歟(か)。季寄(きよせ)の書にも売炭翁を載て、ばいたんろうと訓せり。今世、三都とも貧民小戸の俵炭を買得ざる者、一升二升と炭を量り売るのみ。是をはかりずみと云。俵炭は店にて売之のみ。」、
醤油売 前同意。江戸にては酒も兼ね売るあり。」、
塩売 前同意。」
《おおよその意味》 炭売り 昔からある商いか。季寄の書にも売炭翁を「ばいたんろう」と訓読みする。今日、京・大坂・江戸とも、貧民小戸で俵炭を買うことができない者には一升、二升と炭を量り売りするだけだ。これをはかり炭という。俵炭は店で売るのみ。 醤油売り 前(炭売り)と同じ。江戸では醤油と一緒に酒も売ることがある。 塩売り前(醤油売り)と同じ。
と小売りである。
ここにある「前」とは炭売のこと。炭ならば劣化もあまりないが、醤油・酒を使い切れぬほど買い置くのは、現実的ではない。樽買いも邪魔であるし、何より劣化する。塩にしても、当時は塩田で作られた「荒塩(あらじお)」であり、焼塩でなければ潮解してしまう。(荒塩を火にかけて炙り、苦汁を取り除いたものが、「焼塩」と言う)

油売りの記述では「油売は三都其扮装似て専ら藍の織色綿服に渋染の胸ある前垂をしたり(中略)油売の手に携ふるは油さし也銅器あり貧戸にては陶器をも用ゆ」とあって、油売りも、こうした小売りを行い、庶民(貧民小戸)は必要な時に適切な価格で必要な量を購入していた。

振売りの「油売り」は、内側に銅を張った黒塗りの桶に、行灯(あんどん)に使う菜種油や魚油、食用のごま油、整髪用の椿油、紙に油をひいた障子に塗る荏油(えのあぶら)など用途の違う何種類もの油が入った容器を、前後に振り分けて売りにきた。

油売り『北斎漫画』葛飾北斎
油を柄杓(ひしゃく)を使って客の器に入れる。
柄杓から長々と油が糸を引いている。
醤油売り『江戸商売図絵』三谷一馬著
守貞謾稿 に「江戸では醤油と一緒に酒も売る」とある。
関東醤油1升/60文、下り醤油1升/100文



江戸庶民と白米(ご飯)

■白米食の浸透
長屋には表通りに面した「表長屋」と路地を入った「裏長屋」の2種類があった。表長屋は店舗と住居が一体となった形式で、経済力を持った上層の庶民層(町人)が住んでいた。対する裏長屋は一般庶民の住居で、裏店(うらだな)または棟割長屋などといわれる1戸3~17坪ほどの密住のくらしを余儀なくされた。9尺2間の裏長屋の広さは間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)で、1.5畳程の土間を入れても畳6畳分の広さであった。

裏長屋住まいの庶民の台所は狭く、火口は限られており、ご飯を炊く、汁を温めるなどであった。元禄以前の初期江戸食は、雑穀や玄米を中心とする質素な食事であった。それに野菜や海藻、江戸前で漁れる魚介類が並ぶ食事であった。
江戸っ子の自慢のひとつは水道水の産湯と白米である。今まで特権階級しか食せなかった白米が元禄になると庶民にまで拡がった。


江戸時代になると農業技術の発展や新田開発によって米の生産量が増した。江戸中期、「米将軍」と呼ばれた八代将軍の徳川吉宗が行った享保の改革は米の生産量拡大に拍車をかけ、精米技術の向上と経済の発展に伴い米を専門に扱う店が現れた。

米は幕府や大名が年貢として徴収したものの一部を売却するために「札差」「御用商人」の手を経て江戸に運び込まれた「蔵米」の他に、商活動の活発な京・大坂から「問屋商人」によって、「納屋米-なやまい」が船で江戸に大量に運ばれて来た。江戸の人々は貧富の別なく米を入手できた。したがって江戸は「米食い都市」とよばれ、麦を混ぜて炊く階層はあったにしても「米の飯」は、江戸庶民の主食だった。



一方、江戸時代の農民は、常日頃から米をある程度食べていたようである。ただし、日常食べていたのは米が入った「かて飯」や粥や雑炊(ぞうすい)であった。かて飯は少ないお米に稗(ひえ)などの雑穀や大根の根や葉、芋がら(里芋の茎を干したもの)、サツマイモなどの野菜を入れたものをいう。

ある農民の1日の食事は、朝はご飯の残りを小麦粉と混ぜて焼いた餅、昼は雑炊、夕食は大根と小麦粉を練った団子を汁物に入れて煮込んだ粉団子汁というものであった。
雑炊の記述として、越後国長岡藩では「(米か雑穀に)雑炊の捺方ハ大根を竪横に切り鍋へ入其内へぬか味噌入煮立。1805年(文化2)」、伊予国大淵藩では「(雑穀に)雑炊とて菜大根おしなへての野菜を味噌に煮(文化年間,1804-18)」との記録がある。

このように、江戸時代後半の農民は米と雑穀がほぼ半分づつ入った「かて飯」か粥か雑炊を日常食べていた。伊勢国の歴史書『宗国史』(18世紀前半)には、聞いた話として「百姓たちが食べた米は、春夏は砕け米、秋冬は年買に使えない劣等米である」と書かれている。
しかし、当時の米の精搗率は農村が五分程度(5分精米)、都市が六~七分であったともあり、通常米であった可能性が大きいようである。

基本的に江戸という都会に暮らす人たちと、地方に暮らす農民では流通している食材も違うので食生活は異なっている。白米を食する都市部の庶民とは違い、農民は植物の茎や山菜、豆類に至るまで、食べられるものはすべて使って食事を作った。江戸の庶民、町人よりも農民たちの生活は苦しいものだった。


『馬子・米屋(搗(つ)きごめや)』(玄米を精米して売る米屋)/ 「職人尽絵詞」文化3年(1806年)、※江戸の「米屋」は米を仕入れて玄米のまま売っていた。それを精白して白米にするのが「搗き米屋」である。これに対して、手で搗(つ)くのを『拝み搗き』と呼んでいた。(江戸市中の搗き米屋の数は天保五年には2,268軒)


米は、全国各地から江戸に集まった。日本橋伊勢町には米河岸があり、小売専業の「搗き米屋=舂き米」という米屋を通して庶民の食卓に届いていた。当時、江戸以外の地方では玄米食が主流であった。
農村では白米もあまり食べられず、麦、ひえ、芋、干葉、大根などを玄米に混ぜて作る「かて飯」であったが、江戸では庶民も皆そろって1日3度、精米した白いご飯(白米,一升100文)を食べることができた。

食事は、3食とも「一汁一菜」、もしくは二菜が基本で、白米と汁物に漬物や野菜の煮物、魚(その多くは塩干物)などの副菜が付き、わずかな「副菜」で大量の白米を食べる極端な白米偏重の偏った食生活であった。
基本的には、ご飯に味噌汁・漬物を添えた「一汁一菜」であって、肉類や卵黄類を食べるのは、病気をした時などに限っていたようである。味噌は貴重品で、庶民が口にできるようになったのは、江戸中期頃からである。味噌は、今日と異なり漉し味噌が無く、「みそ漉し」を使い朝の味噌汁を作っていた。当時、台所用品になくてはならない道具の一つが「みそ漉し」であった。


■白米とおかず
食事は一汁一、二菜が基本であった。江戸時代は食文化が大きく変容した時代であり、それまで朝夕の一日二回の食事から、現在と同じ一日三回の食事へと変わった。
江戸初期までは味付けの中心は塩や酢、味噌であったが、元禄年間(1688年~1704年)あたりから醤油や砂糖、みりん、鰹節などが普及し、様々な煮物料理が作られるようになった。元禄期ごろには主食が玄米や麦飯から白米になっていき、ご飯(白米)とおかず数種類を食べるのが定着して、一日三食を食べる習慣ができていった。

江戸時代、貧富の差も大きかったため、その内実は一様ではなかった。江戸時代後半の農民の1日の食事の記録によれば、朝は大麦を煎って粉にした香煎(こうせん)と蕎麦粉を固めて焼いた蕎麦もち、昼は四分搗きの米に稗と大根と大根の葉を入れたかて飯、夕食には大根と粉団子の汁物であった。
しかし、江戸市中では質・量ともに豊富な食素材が売買され、一般庶民にいたるまで、米を主食とした「ご飯に味噌汁と漬け物」の三点が基本で、ときにはもう1品追加する各種の鮮魚、塩乾魚、新鮮な野菜類を副食とした食生活が営まれていた。

江戸では朝にご飯を炊き、これに味噌汁。味噌汁の具材として定番だったのは、大根・豆腐・納豆である。漬け物は、沢庵漬、梅干し、ぬかみそ漬など。
白米に合わせたおかずは、きんぴらごぼう,煮豆,切り干し大根の煮物,ひじきの白和え,小松菜おひたし,芋がら(里芋の茎)の煮付などが良く食べられたようで、魚貝を使ったおかずでは、いわし,めざし,蛸(たこ)煮,アサリむき身の煮物なども食されたが、裕福な家庭でも魚を食べるのは月に1,2回ほど、振売りの蜆(シジミ)は時々売りに来る贅沢品であったようである。やはり魚や貝は高級食材だったようで、下級武士でも、魚を食べられるのは月に3回ほどしかなかったようである。

 


■江戸わずらい/白米偏重の偏った食生活
江戸の初期には、まだ玄米に近いものが食べられていたが、後期になると、江戸の町では裏長屋で暮らす人も白米を食べていた。江戸は仙台や北越などから大量の米が流入する大消費地であった。各地に精米のための水車小屋が建てられていて、精白した米を貧乏人まで食し、上方のうどん文化や地方の雑穀食と大きく異なっていた。

江戸っ子の自慢のひとつは水道水の産湯と白米である。白米は美味しいばかりでなく蛋白質のおかずとの相性もいい。主食は白米で、それに味噌汁、漬物、おかずは塩や醤油で味付けした野菜、魚、味噌汁、漬物などであった。
江戸では裏長屋に住むその日暮らしの庶民までが「麦飯食うくれいなら死んだ方がましだ」などと粋がった言い方があったくらいである。この頃の江戸では、白米を食べることが「粋」で、江戸っ子の証とされていた。

ただ白米は旨いが栄養分を捨てているので白米ばかりを常食にしていると脚気、当時の「江戸わずらい」に陥った。
元禄や文化文政といった時代には「玄米」を食べる田舎に比べて、「白米」を食べる江戸では脚気(かっけ)にかかる人が多く「江戸わずらい」と呼ばれるほどであった。江戸を離れると玄米食に戻り脚気は自然に治ったという。この脚気は原因不明の奇病として江戸時代でとても恐れられていた。

脚気は心臓発作を起こすと、二・三日で死亡する怖い病気で、元禄ころから目立ち始めた。白米の普及時期と重なるため、その原因は一般に白米の多食といわれている。(玄米は精米はしていないので、胚芽がまだ残っており、ビタミン、酵素、ミネラル、食物繊維といった豊富な栄養素が含まれている)

黄表紙『大食寿之為(大食らいの寿命のため)』北尾政美画 天明3年(1783) 


■江戸の人は白米を1日ひとり4~5合近く食べていた
江戸の庶民は多くの飯(白米)を食べたようで、1日あたりの食した白米の量は次のようになる。飯は麦などを混ぜない白飯である。菜の内容は上流階層のようなものとはいえないものの、飯・汁・菜・漬物が日常食の基本構成であったと推察される。

また、文政年間(1818~1830年)の江戸庶民の生活を著した『文政年間漫録』(栗原柳庵)に、飯の量の記述があり、大工の家庭では夫婦と小児で1年の飯米が 三石五斗四升 という記述がある。これを大人2.5人として、1人分を算出し、さらにこれを1人1日分であらわしてみると、3.9合となる。
また、やや裕福な例として『柳庵雑筆』(1848年)には、家族が4,5人、奉公人4,5人、計8,9人の1年間の飯米の記述があり、精白米十四石四斗とある。これを9人分とすると、1人1日4.4合になる。現在と比べると、1回の食事に占める飯の量はきわめて多く、飯が文字通主食であったといえよう。』 ・・・日本食生活学会誌 Vol.10 No.4(日本の伝統的食事の形成と変化)より


黄表紙『思事夢濃枕(おもうこと ゆめのまくら)』鳥居清長画 天明1年(1781) 



江戸庶民の食事

■江戸長屋の食事

長屋暮らしの江戸町民は、たいていが朝夕の二食を習慣としており、三食になるのは江戸中期以降である。長屋の朝は明け六つ(午前六時ごろ)に鳴る鐘の音と共に、路地口の木戸が開いてはじまる。
江戸の長屋はまず朝食の支度の音で始まった。長屋の女房は明け六つより、少し早めに動き出し、簡素な朝食の仕度が始められ、朝に一日分のご飯を炊いた。竈(かまど)の燃料は薪や炭だけでなく、使えなくなった雑巾など燃える物は何でも用い、一日分のご飯は、燃料節約のため、朝一度に炊いてしまうのが一般的であった。米を炊くのは朝の1回だけで、家で温かいご飯は朝食のみであった。
江戸の長屋で人々が食事をする時は、箱膳を使った。箱膳に炊きたての米飯に、味噌汁や納豆汁、そして自家製の糠漬けを添えれば朝ご飯の支度は完了した。



裏長屋は、防火対策から家の中の土間に「煮炊き用」の釜を設置してあるだけで、その釜で1日分のご飯を一度に炊きあげ(米代一日三食茶碗3杯で約31文)、それを木製の飯櫃(めしびつ)に移して、昼と夜も食べることができるように保存する。
  • 朝は、炊きたての温かいご飯に、みそ汁、漬物が基本で、少し裕福な家庭では煮豆などの副菜がついた。
  • 昼は、冷やご飯と朝の残りのみそ汁程度。仕事で外出する職人は、ご飯と煮物などが入った弁当を持参した。江戸後期になると、寿司屋、そば屋、天ぷら屋、おでん屋などの屋台の数が増えていたので、外食ですませる人が多くなった。手習い(寺子屋)に通う子供は、昼食を食べるために、家に帰ってきていたようだ。
  • 夜は、冷やご飯、みそ汁に一品か二品のおかずというのが定番で、おかずは、ヒジキやワカメ、イモ、ゴボウ、レンコン、サヤエンドウなど、海藻や野菜の煮物が中心であった。焼き魚などが付く場合もあるが、裕福な家庭でも魚を食べるのは月に二回ほどだった。
江戸の町では、野菜や魚などの食品はもちろん、塩や炭、履物、古着、小間物に至るまで様々な品を、行商人「振売り(ふりうり)」が毎日売り歩いていた。買い置きの必要がなく、その日に必要な分だけ買うことができた。
朝食用の食材は朝早くから物売りが呼び声高く路地を売り歩いた。長屋の住人は豆腐売り、しじみ売り、納豆売りなど、その朝必要なものを棒手振り(振売り)を呼び止めては買い求めた。


■飯を炊たく回数は1日1回
幕末頃は、まず朝に1日分のご飯を炊き、炊き立てのご飯に味噌汁だけ。昼食は冷や飯に魚か野菜を添える程度で、夕食は「夜おかゆ」か「お茶漬け」が一般的で、茶漬けに漬物(沢庵大根1本15文)である。つまり、昼食が一汁一菜(冷や飯に味噌汁、おかず一品と漬物)と最も豪華な食事であった。ちなみに「夜おかゆ」は関東の流儀で、関西ではお昼にご飯を炊き、朝ご飯がおかゆだった。
長屋住まいの庶民の台所は狭く、火口は限られており、ご飯を炊く、汁を温めるなどであった。棒手振りや職人等の庶民の住いは「間口九尺奥行二間」の裏長屋(裏店)。土間には竈(かまど)があり、自前の台所用品は、包丁、まな板、ざる、みそ濾し、皿、茶碗、箸、すり鉢くらい。そして、布団一式である。一般の裏長屋の「へっつい」と呼ばれる竈(かまど)には、煮炊きする鍋用と米を炊く釜用の二穴があるが、単身者の長屋には一穴の竈(かまど)も多い。一穴のものを「一つべっつい」、二穴のものを「二つべっつい」と言う。

江戸中期ごろ元禄の時代から、米の飯におかずという食事を1日3回とることが定着する。しかもそれまで一般的だった麦や玄米ではなく白米の飯が当たり前となり、江戸などの都市部では白米食がほとんどであった。
手間と燃料を節約するには、飯を炊たく回数を1日1回にしたほうがよく、腐りにくい白米を朝に炊いて昼や夜には「冷や飯」を食べた。江戸の庶民の食事は、三食とも基本「一汁一菜」で、ご飯・味噌汁・漬物の“一汁”、おかず一品の“一菜”、もしくは一汁二菜(おかず二品)が基本であった。



江戸時代後期の風俗や事物を説明した『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(1853)によると、「江戸は朝炊き、味噌汁を付ける。昼と夕食は冷や飯を日常とする。昼飯には必ず一菜を付ける。野菜や魚肉なども昼飯に付ける。夕飯は茶漬けに香の物を合わす」と伝えている。漬物は、大根の漬物、とりわけ江戸時代に普及した“たくあん”や“大根の浅漬け”がその中心となっていたと考えられる。



守貞漫稿より『江戸竈図』、へっつい(かまど)の図
「江戸ノ竈(かまど,へっつい)ハ、必ズ場ヲ背ニ床ヲ前ニス。人数ニ三人ノ者、専ラニツ竈ト云、火口ニ所。下図ノ如シ」、江戸の場合、へっついは床の上から座って煮炊きができるようになっていた。へっついは、けやきの台に灰を敷き詰め土竈をのせたもので、台の下には熱源として薪を置いた。


■長屋の女房たちは毎日1日分ずつ食材や惣菜を買っていた
朝食によく登場するのは、納豆(4文)や豆腐(14文)で、路地には朝早くから納豆売りたちが呼び声を上げてやってくる。豆腐屋も天秤棒を担いで売りに来る。豆腐屋が朝食に間に合うよう、一番早く活動を始め、その後納豆売り、惣菜売り、野菜売り、魚売りなどの棒手振り(天秤棒での担ぎ売り)が長屋の路地に次々とやってきた。

長屋の住人は豆腐売り、しじみ売り、納豆売りなど、その朝必要なものを棒手振り(振売り)を呼び止めては買い求めた。蜆(しじみ)は、ほとんどが深川産で、一升六文から十文と安い。蜆売りは、ほかに蛤(はまぐり)、あさり、ばか貝(あおやぎ)なども売ったが、蛤は小粒のものでも蜆の倍くらいの値はした。
食事に欠かせないものが漬物であった。漬物の素材は大根、茄子、蕗、竹の子、土筆などで、沢庵漬、味噌漬、糠漬、粕漬、奈良漬、千枚漬、梅干漬など、さまざまな漬物があった。

“朝食”は温かいご飯と味噌汁に漬物だけというのが普通で、それに納豆でもあればいうことがなかった。味噌汁の具は、「しじみ」「わかめ」「豆腐」「たたき納豆」「野菜」などである。
納豆売りから買い求めた「たたき納豆」は、江戸庶民の朝食には欠かせない食材で、朝一番に野菜などを入れた味噌汁を仕立てておき、納豆売りが来ると呼び止め、その納豆を汁に加えてさっとひと混ぜした。当時は、汁に入れたとき混ざりやすいよう、切り刻んだ納豆を利用したという。納豆の現在のようによくかき混ぜてご飯にかけるという食べ方は、醤油が安価になる江戸時代後半からである。
“昼食”は冷や飯に梅干しや漬物といった簡単なもので、朝の残り物が主流で調理をするほどでもなかった。おかずがほしければ、煮豆屋や総菜屋まで行ったり、行商人である棒手振りから買うことができた。外に出て働く大工・左官・鳶など、賃仕事の出職(でしょく)の亭主は、朝に弁当をもって仕事に行くが、子どもたちは朝に寺小屋へ行き、昼になると家に戻って昼食を食べた。
【江戸は職人の街。江戸には多くの職人が住んでいましたが、仕事場によって「出職(でしょく)」と「居職(いしょく)」の二つに分けられました。出職は、大工や屋根葺きなど外へ出て仕事をするひと、居職は塗物師や畳屋など室内(自宅)で仕事をする職人をそうよんだそうです。
出職の花形は建物の建築・修理をおこなう大工だったといわれます。他に、壁をぬる左官、木材を用材に加工する木挽きなどがあります。
居職は、刀鍛冶、研ぎ師、鞘師など刀関連の職人。桶、桝、指物(家具)をつくる職人、髪結いの職人などがあります。職種によって違いますか、多くの職人は、裏長屋の住まいをそのまま仕事場にしていたといいます。】
“夕食”は、冷や飯を茶漬けにして漬物を添え、余裕があればおかずがつく程度。または、冷や飯に漬物や魚か野菜の煮付けが付く程度で、たまには焼き魚などがつく。
江戸中期も後半、七輪(しちりん)が出現して、戸外で七輪を使って魚を焼いたり、簡単な煮炊きをするようになった。そのほか、煮売り屋がさまざまな惣菜を売りにきたから、これを買ってすませる人が多かった。



七輪が普及した江戸の後期には、夕食の支度のために日々火を使って煮炊きすることも一般的になった。魚や野菜のおかずの下ごしらえは井戸の周りで行い、小さな土間か戸口に置いた七輪の炭火で焼くという調理方法をとっていた。夕食のおかずも野菜の煮物や海藻類が基本で、魚類のイワシやサンマなどの焼き魚が食卓に上がるのは、七輪が登場する江戸後期以降といわれている。


■食事と箱膳
長屋では、土間と一部屋のみの家屋が一般的で、台所・居間・寝所は一つの部屋でまかなっていた。食事をする時に箱膳(はこぜん)を使用した。箱膳を用意すれば台所の食卓となり、しまえば居間・寝室になるということで、収納の面で当時大変重宝した。箱膳は町民も農民もめいめい1つずつ持ち、食事の後はさっと片づけた。

箱膳は蓋のついた四角い箱形になっている膳のことで、1人用の飯茶碗、汁椀、湯飲み茶碗、皿と箸を納めておき、食事をする時には箱膳の木箱の蓋を裏返すと小さなお膳になる。その上に、いつもは箱の中に収めている食器を載せて食事をした。
食事の後には、お茶または白湯(さゆ)を飯茶碗や汁椀にいれて、箸や漬け物(たくわん)で食器を洗って、最後にそのお茶を飲んだ後、布巾(ふきん)などで水分を拭き取って、そのまま箱膳の中にしまい、蓋をして台所の隅に重ねて置いた。食器を洗うのは月に数度のことだったようである。
(箱膳には二種類あり一つは下端に引き出しを作り両側に取っ手の穴をあけたものと、ただ箱だけのものとがある。概して前者は家長など一家の主が用い、他のものは平の箱膳であった)

 



庶民のおかずと行商人

■長屋路地への食材売り
江戸時代、物売りと庶民の生活は密接に絡み合っていた。江戸の町は物売りの声で朝から晩まで賑やかだった。季節の野菜・魚から雑貨品まで耳を澄ませば、家にいて何でも調達できた。その上必需品である灯し魚油、炭や米は少量でも、その日の稼ぎの範囲で買えた。

塩売りは、篭桶に入れた塩を天秤棒で担いで行商した。漬物、嘗物類(なめもの)を売る行商人も天秤棒で担い売りに来た。江戸には天秤棒の両方に品物をつけて担ぎ、売り歩いた行商人(振売り・棒手振りと呼ばれる)が多数いた。長屋の路地には、野菜や魚(鮭の切り身12文、鰯,10尾50文)の他、漬物、煮豆、佃煮、豆腐、油揚げ(1枚2文)、味噌(17文)、醤油(1升60文)、酢、納豆、アサリのむき身、シジミ(1升10文)、蛤(1升,20文)、乾物などの食材、あるいは塩や炭などの日用品売りなど、天秤棒を肩に担いだ行商人のさまざまな振売り(棒手振り)がやって来た。
振売りは、長屋にまで入り込み調理を済ませた惣菜を売る菜屋も重宝がられた。菜売りは小松菜、芥子菜(からしな)、瓜、茄子(なす)など、季節によってさまざまだが値段は三文か四文くらいである。それをうまく値切って買った。夏に枝豆を食べる習慣は江戸後期にはじまったが、枝豆は一束四文から八文程度だった。

初鰹売り(振売り)
『東都歳事記』初夏交加図 斎藤月岑(げつしん) 1838年頃
とうふ売り(振売り)
一日三回、決まった時間に売り歩いた


■行商人(棒手振り)が担ぐ天秤棒荷姿(炭・醤油・塩・嘗物・漬物)

喜田川守貞の『守貞漫稿』(巻之六 生業)嘉永六年(1853),天秤棒荷姿の図

『守貞漫稿』(1867)の記述にある行商人が担ぐ天秤棒〝天秤棒荷姿の図〟の説明は次のとおりである。
  • 炭売り、昔からあるか。季寄の書にも売炭翁を「ばいたんろう」と訓読みする。今日、京・大阪・江戸とも、貧民小戸で俵炭を買うことができない者には一升、二升と炭を量り売りするだけだ。これをはかり炭という。俵炭は店で売るのみ。
  • 醤油売り、塩売りは炭売りと同じ。江戸では醤油と一緒に酒も売ることがある。図中に 「醤油売り、塩売りはだいたい似ている]と記述がある。
  • 嘗物(なめもの)売りは三都ともに、なめものに、さくらみそ、金山寺みそ等あり。
  • 漬物売り、蘿根(大根)全体のまま塩で漬けたるを長漬けという・・・江戸にて沢庵漬けと云う。瓜や茄子などを塩とぬかで漬け、不日(多くの日数を経ない)に漬けるを浅漬けと云う。大根の葉を取り乾して枯らして塩とぬかで漬ける漬物を香の物と云う。粕漬けは三都とも奈良漬けと云う、と記述がある。



■江戸の野菜(青物)売り
江戸の町の野菜(青物=蔬とよばれた)の流通は、店構えの「八百屋」と龍に入れて担いで売る「菜蔬売り」など様々であった。担い売り(菜蔬売り)は、瓜・茄子などの一種を籠に入れて売り歩いた。(大根10本72文、菜もの,1把6文)
 
大根を売る「菜蔬売り(さいそうり)」

江戸っ子の定番野菜は、大根・小松菜・茄子・牛蒡・人参・カボチャ・筍など。薬味では生姜(しょうが)・葱(ネギ)・茗荷(みょうが)など。野菜の中でも特に大根は一年中食べられており、煮物・沢庵漬け・切り干し大根として愛されていた。江戸の沢庵漬けは練馬大根を用いて作られ、武家も庶民も大いに利用している。


野菜売り(前菜売り)、夏の旬野菜、茄子と南瓜を売っている。野菜は青物(あおもの)と呼ばれ、青物市場は、千住、駒込、神田、日本橋などにあった。
『守貞謾稿』(1853)には、瓜や茄子など一、二種だけを売り歩く者を江戸では前菜売り(ぜんさいうり)と呼び、数種を売る者を八百屋と呼ぶが、京坂(京都・大坂)では両方を区別せずに八百屋と呼ぶと記しています。


■江戸の物売りから買う食材
棒手振りの行商人の商う食材は多岐にわたっており、粒納豆(四文)・たたき納豆(八文)・豆腐・あさり・しじみ(一升で六文)・鮮魚(鰯十尾五十文)・乾魚(塩魚・干物)・野菜(水菜や小松菜などは、三文か四文)・根菜の煮物・煮豆・佃煮・漬物などであった。
煮豆売りは、《うぐいす豆に うずら豆 おたふく豆に ぶどう豆 ハリハリ タクアン 紅ショウガ なんでもおいしい 煮豆屋でござい~》と声高らかに知らせて、甘く煮た煮豆や、タクアンや紅生姜のような漬物など、食事にかかせないお惣菜を、荷箱の引き出しに入れて売りにきた。
江戸だけに見られたものとして、茶飯売りというものがあり、しょうゆ飯やあんかけ豆腐、けんちん汁などの食事そのものを売る棒手振りも存在していた。

煮豆売りが担いでいる荷箱に書いてある「座ぜん豆」とは、煮豆のこと。「お坊さんが座禅をする前に黒豆の煮豆を食べた」という説がある。


庶民は、朝夕に長屋の露地の奥まで売りに来る行商人「振売り(ふりうり)」から、その日必要な分だけの食材を買った。
行商は、天秤棒の両端に籠などを提げて売りものを荷い、ゆっさゆっさと振り歩く姿から「振売り」の名が生じたという。行商の「振売り」には、調理を済ませた惣菜を売る“菜屋”もいた。

行商人の振売りは、魚類・野菜・惣菜などを決まった時間に決まった道順で通るから、待っていれば買うことができた。
「豆腐売り」は朝だけでなく、昼も夜も売りに来た。値段は豆腐一丁で五十六文から六十文。これを半丁、あるいは四分の一丁ずつ売った。焼き豆腐や油揚げ豆腐は一個が五文、雁モドキは一個八文から十二文である。
「しじみ売り」も早朝からやってくる。京や大阪では剥き身も売ったが、江戸では必ず貝(蜆 1升10文)のまま売った。しじみ売りといっても、他に蛤(1升20文)、アサリ、バカ貝(青柳)、さるぼう(赤貝の一種)なども売っていた。



野菜売りの「菜売り」も、よく長屋に売りに来る。例えば水菜(京菜)、芥子菜、小松菜など、季節によって様々だが、長屋暮らしの人々はこれを三文か四文くらいで買えた。「魚売り」の秋刀魚は一尾二百文。切り身なら二十四文も出せば三人で食べても余るほどだったという。
【佃煮は、江戸の佃島の漁民たちがつくっていた煮物から発している。江戸の五大食品とは「浅草海苔」「佃煮」「握りずし」「鰻の蒲焼」「てんぷら」のことをいう。 佃煮は江戸前で獲れた小魚などを無駄にしないよう醤油で煮しめたもので、鮒、ハゼ、シラス、うなぎ、小海老、海苔、昆布、アサリ、ハマグリ、ごぼうなど、様々な素材が充てられた。】


むきみ売り (枡での量り売り)
シジミ、アサリ、蛤などの貝類を売る棒手振り商人は、総称して「むきみ売り」と呼ばれた。
『守貞漫稿』(1853)には、江戸の行商人が売る貝には、蛤(はまぐり)・あさり・ばか貝・さるぼう(赤貝の一種)のむき身や、殻つきの殻ハマグリや殻アサリなどがあり、むき身のかきも安いとある。
また、江戸では蜆(しじみ)は殻つきで、むき身はないと記されている。「むきみ売り」と呼ばれたのはアサリ、シジミ、ハマグリなどの貝を売る者で、天秤棒とタライを担いだ棒手振りだった。むき身は手間がかかるぶん、値段は高め。それでも食べやすいので人気があった。


■江戸人気の「たたき納豆」
江戸の庶民はよく納豆を食べたが、文政年間(1818~30)ごろに人気かあったのは、「たたき納豆」だったという。早朝に「納豆売り(たたき納豆)」がやってきて、値段が八文(そば一杯が、十六文)と安かったので江戸庶民は朝食のおかずにした。なお、納豆は包丁で叩いて細かくし、豆腐や菜っ葉を薬味とともに添えた「叩き納豆」が人気で、それを鍋に入れて「納豆汁」にして食べたようである。
納豆売りは天秤棒に振り分けた片方に叩いた納豆「たたき納豆」を入れ、もう一つには、刻んだ野菜や豆腐を入れて売り歩いていた。つまり、味噌だけ溶いておけば、あとは出来合いの具材を入れるだけで、納豆汁が簡単にできたという。

江戸の町では毎朝、夜明けと共に「なっとー、なっとー、なっとウ」の売り声で、納豆売りが朝食用に長屋の隅々までやってきた。納豆は粒納豆を包丁でたたきつぶして固めた「叩き納豆」が売られていた。叩き納豆は、味噌汁の鍋に入れ、ザク切りの豆腐や野菜、刻みねぎを加えて“納豆汁”として食べられおり、当時納豆はご飯よりも汁物として食べるほうが一般的であった。
幕末(1860年)の江戸勤番の和歌山藩士、酒井伴四郎が書き記した 『江戸自慢』という見聞録の一節には『江戸に烏(カラス)の鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地の人の好物なる故と思はる』 との記述があるほど、江戸庶民の朝食にはかかせない食材であった。


写真:「味の素食の文化センター vesta 107号」豆腐と青菜の納豆汁、薬味は刻みネギ。
《江戸期には納豆汁が盛んであった。『料理物語』(1643)、『黒白精味集』(1746)、『料理早指南』(1804)などには、「なっとうじる【納豆汁】 納豆をたたいたりすったりして加えたみそ汁。菜、豆腐、小つみ入れなど取り合せ、吸口にきざみ葱、からしなどを用いる」旨の記述がある》


■たたき納豆と粒納豆
幕末の『守貞漫稿』では、納豆は「納豆売り 大豆を煮て室に一夜してこれを売る。昔は冬のみ、近年夏もこれを売り巡る。汁に煮あるひは醤油をかけてこれを食す。京坂には自製するのみ」と記されている。庶民の間で納豆が幅広く食べられるようになったのは、江戸時代後半になってからである。
1830年代の天保年間になると、江戸では「たたき納豆」ではなく、「粒納豆」だけを売りにくるようになった。醤油が安く手に入るようになり、醤油をかけた粒納豆を熱い飯にかけて 食べたことが、納豆の普及に一役買ったともいわれている。
江戸の随筆に登場する「粒納豆」の記述
『嬉遊笑覧』巻10上(文政13・1830年刊)、「納豆江戸にも近ごろ迄寒き時節のものにて有しに、今は夏も売ありけり。但し粒納豆なり。此ごろは冬も叩納豆稀にて粒納豆を売れり」。 
また、江戸の随筆『世のすがた』(安政末~天保ごろ)には、「たゝき納豆とて三角に切、豆腐菜まで細に切て直に煮立るばかりに作り、薬味まで取揃へ、一人前八ツゝに売り」とあるように、「棒手振り」の納豆売りは納豆汁としてすぐに食べられるように、叩き刻んだ納豆に豆腐や細かく切った青菜をなどを添えて三角や四角に固めた形にして、一人分八文で売り歩いていた。また、「文政の頃まではたゝき納豆とて三角に切、豆腐菜まで細に切て直に煮立るばかりに作り、薬味まで取揃へ、一人前八ツゝに売りしが、天保に至りてはたゝき納豆追々やみて粒納豆計(ばかり)を売来る」と、たたき納豆から粒納豆へと変化がみられる。


納豆売り(振売り)
「なっと〜〜なっとなっとう〜〜なっと!」という呼び声で売り歩く納豆売り。「納豆と蜆(しじみ)に朝寝起こされる」と川柳にもあるように、長屋の住人たちは、納豆を朝食のおかずによく利用した。その値段も四文と極めて安く、庶民の味方であったようだ。


■江戸庶民のおかずと調理法
おかずは塩、味噌、醤油、酢、砂糖などで味をつけた。江戸時代の人々は、日常的に味噌汁を飲み、納豆や酢の物、醤油味のおかずを食べていた。豆腐料理100種類の調理方法を紹介した『豆腐百珍』(天明2年,1782年)の中で、醤油を味付けに使った料理は44品、味噌を使った料理が18品である。これらから、江戸前期までは高級品だった醤油が江戸中期頃には、関東での大量生産で値が下がり、おかずの調味料として醤油が広く使われていたことがわかる。

江戸市中では、江戸周辺のその朝その日に採れたばかりの魚や野菜など豊富な食素材が売買され、一般庶民にいたるまで、米を主食とし各種の鮮魚、塩乾魚、新鮮な野菜類を副食とした食生活が営まれていた。江戸庶民のおかずは、鍋ひとつでできる料理が中心で、鍋で加熱調理する「煮もの、茹でもの、汁」であった。
狭い台所と限られた食品を用いてのおかずを調理するために各家庭に必需だった調理道具には、“鍋・包丁・まな板”のほか、“すり鉢・すりこぎ棒”がある。すり鉢を用いる調理はかなりの頻度で行われていたと思われる。また、移動可能な加熱器具である“七輪”も必須の調理器具であった。

江戸後期の江戸庶民の食生活については「米飯・みそ汁・香の物」におかずが1~2品つく程度にまで向上していたと考えられている。そのおかずの庶民資料として、幕末の天保年間(1830-42年)に作成された『日々得用倹約料理角力取組』の「為御菜(おさいのため)」がある。
利用頻度が高い食品名では豆腐がもっとも多く、その他に、なす,大根,油揚げ,いわし等となっている。干し大根は豆腐に次いで多く、調理法も「煮る・茹でる・おろす・漬ける」と多彩で江戸庶民の日常食に欠かせない重要な位置を占めていた。



『日々得用倹約料理角力取組』の江戸庶民おかずをみると、「八杯豆腐(豆腐のすまし汁)」「目刺しいわし」「昆布油揚げ」「むきみ切干」「 きんぴらごぼう」「芝えびからいり」「煮まめ,焼豆腐吸物,ひじき白和え,切干し煮付,芋がら油揚,油揚げつけ焼,小松菜ひたし」「まぐろ辛汁,小はだ大根,畳みいわし,いわし塩焼,まぐろすきみ,塩かつお,鮭塩びき」を列挙している。
これら番付上位に置かれたおかずは、人々に人気があり、乾物や塩もののように価格的にも季節的にも入手しやすい食品を用いたものが多い。

食材の調理法は、圧倒的に「汁・煮・茄」が多い。調理法では、野菜類は「酢・和・浸」の割合が高く、魚貝類では「焼・蒸」が高い。これは野菜類には独特のあくや苦みがあるため、ごまや豆腐など風味豊かな食品あるいは醤油・みそ・とうがらしなどの調味料・香辛料によって味を高める工夫をしたと考えられる。
逆に魚は塩焼きするだけで充分美味しいため、焼く調理法が発達した。しかし、焼く調理法は家の中では焼きにくいことから日常的に用いれれることが少なく、野菜を煮る調理法を多用したと思われる。
これは、当時の台所事情および経済事情と密接にかかわっている。つまり、狭い台所と限られた食品を用いてのおかずづくりであったから、当然ながら調理器具も少なく、日常食は鍋ひとつでできる料理が中心であった。

利用頻度が高い食品は、豆腐、茄子、大根、干し大根、油揚げ、いわし等である。大根の調理法も「煮る・ゆでる・おろす・漬ける」と多彩で、江戸庶民の日常食に欠かせない重要な位置を占めていた。
魚介には野菜・海藻・大豆加工品などと組み合わせたおかずも多い。当時、魚介に野菜を組み合わせたのは、第一に増量の意味があったと思われる。

江戸庶民の日常の食卓に多用された食品には、豆腐などの大豆加工品、生鮮あるいは干したダイコン、鮮魚や目刺しなどのイワシ類などがあるが、食物繊維の多い植物性食品や良質たんぱく質が豊富な大豆加工品、優秀な成分をもつイワシなど、江戸庶民の食卓を賑わした食品には栄養面でも優れたものが多い。(『江戸時代における食をとりまく諸風俗についての研究』石川寛子)

『日々得用倹約料理角力取組』の江戸庶民おかずランキングは、当サイトの『再現・江戸庶民の料理(おかず)|日本食文化の醤油を知る』を参照ください。


■江戸の漬物
漬け物の糠漬け(ぬかづけ)の始まりは江戸時代であった。庶民にも精米した「白いご飯」が普及すると、精米する時に出る「糠(ぬか)」を利用する漬け物が発達した。江戸時代の食事は「一汁一菜」と言われ、その中身は味噌汁と漬物をさしていて、漬け物は主な副食であり、保存食であった。その代表は「たくあん漬け」で、米の精白が一般化したことで大量に生じた糠が、漬け床として再利用された。

江戸初期の元禄八年(1695)に刊行された『本朝食鑑』には、すでに「糠味噌漬け」が取り上げられており、「糠を大豆の煮汁に入れ、塩を加えて、かき混ぜた中に野菜を漬ける」と書かれている。
そして、江戸も後期になると、野菜の種類も多くなり、味噌、醬油、酒粕(さけかす)、米糠(こめぬか)、麴などの「漬け床(どこ)」が豊富になって漬け物の種類が増え、『四季漬物塩嘉言(しきつけものしおかげん)』には、64種類もの漬け物の作り方が掲載されている。

「大根の糠漬け」は一般的に「たくあん」と呼ばれている。これには諸説があるようで、江戸時代の書物『物類称呼』によれば、「たくあん漬けの名は、武州品川、東海寺開山の沢庵禅師、初めて製し給う、に依ってたくあん漬けと称する」とある。この臨済宗の僧侶・沢庵和尚は、安土桃山時代から江戸時代にかけての名僧であった。
なお、『物類称呼』(1775)には「菜箙漬、だいこんづけ、京にてからづけといふ。九州にてひゃくぽんづけと云う。関東にてたくあんづけという」とあり、 地方によってその呼称が異なっていた。
その後、『四季漬物鹽嘉言』(1836)では、紹介される漬け物の最初が「沢庵漬」 「三年沢庵」となっていることから、近世末には、たくあん漬の呼称が一般に定着していたと考えられている。

江戸での沢庵漬けは、練馬大根などの大振りの大根を20日ほど干して、水分を取った後、四斗樽(容積約72リットル)に百本の大根を漬ける。そこに加える塩や糠の量を加減する事で、三年漬け、五年漬け、七年漬けなど、保存期間を調整する事ができた。

『守貞漫稿』によると、上方は自宅でたくあんを漬けるが、家屋の狭い江戸では、自家製のたくあん漬けは稀であった。比較的裕福な家庭は、練馬の農家と一年間に必要な分を、前払いで年間契約して、定期的に馬で運んでもらい漬けた。裏長屋の貧乏所帯は、漬け物を売る棒手振りから、その都度、必要な分だけを購入した。
〇江戸時代の漬物に用いられた素材は、つぎのように多くある。
「大根、かぶら、なすび、ごぼう、里いも、ふき、うど、みょうが、たで、きゅうり、たけのこ、またたび、しそ、しょうが、ぼうふう、はす、人参、さんしょう、こんぶ、やまもも、小梅、ところ、にんにく、しろうり、からしな、まつたけ、いとな、ささげ、なたまめ、つくし、なし、かき、わさび、すいか、梅、きく、とうふ、らっきょう、からすうり、せり、わらび、きのめ、大豆、みづな、とうがらし」など。
〇江戸時代幕末のおかず番付『日々徳用倹約料理角力取組』にある漬物の名は以下となっている。
番付の真ん中の欄に書かれているのが、行事役になぞらえたおかず。行司を務める漬物の「ぬかみそ漬(糠味噌漬け)、大さかづけ(大坂漬け)、澤庵漬(たくあん)、なすびづけ(なすび漬け)、茎菜(くきな)漬、寺納豆、らっきゃうづけ(らっきょう漬け)、からし漬、梅ぼし(梅干し)、ほそねづけ、ならつけ(奈良漬)、かくや古漬」などで、今日馴染みの漬物も並んでいる。
寺納豆とは煮た大豆に麹をまぶして塩水で発酵させて作った納豆のこと。「かくや」とは古漬けなどの漬物を細かく切ったもののこと。

江戸時代の「しょう油漬」については、書物のすべてに野菜名が併記されている。ナス・キ ュウリ・ダイコン・ウリである。
一流料亭、八百膳四代目主人が著した『江戸流行 料理通』(1822~1835)には「四季香物部、古茄子(ふるなすび)甘(あま)醤油(じやうゆ)づけ」「胡瓜醤油漬」「干大こんひしほしやうゆづけ」とある。『四季献立 会席料理秘嚢抄』(1863)には 「漬物、醤油づけ瓜」とある。

醤油などの液体の調味料で漬物を調製する場合には、概ね素材の半量から同量程度の容積の調味料が必要となる。素材が腐敗する前に塩分が浸透しなくてはならないからである。醤油は近世ではすでに調味料として用いられていたが、漬物の漬け汁に用いるには高価であり、味噌の方が安価なことから、醤油は風味をつける程度に加えられることが多かったと思われる。


■幕末頃の庶民の日常的なおかず
幕末頃のおかず番付『日々徳用倹約料理角力取組(ひびとくようけんやくりょうりすもうとりくみ)』は料理名を1枚の相撲の番付形式で表した一覧表で、その中央には「為御菜(おさいのため)」と大きく書かれている。「御菜(おさい)」とは「おかず」を意味する丁寧語で、野菜料理だけではなく魚料理も含む言葉といわれる。


復刻版おかず番付『日々徳用倹約料理角力取組』

『日々徳用倹約料理角力取組』には、庶民の日常的なおかずの名前がのっている。
“魚貝類のおかず”には、めざしいわし、焼き秋刀魚、ちりめんじゃこ、さば味噌漬け、小あじに三つ葉、芝海老からいり、こはだ煮ひたし、小はだ大根(こはだと大根の煮付け)、たたみいわし、いわしつみれ、いわし塩焼き、まぐろ剥(すき)身、塩かつお茶漬け、にしん塩引き、蒸しはまぐり、赤貝酢の物、なまこ生姜、たらの煮しめ、こはだ煮びたし、まぐろから汁(マグロだけの味噌汁)、いわしぬた、しじみ汁、赤貝酢の物、焼きはまぐり、数の子、するめつけ焼き、牡蠣まなす、酢だこ 等がある。

“野菜物のおかず”には、きんぴらごぼう、小松菜浸し、煮豆、人参の白あえ、蓮の木の芽あえ、ほうれん草ひたし、木の芽田楽、たんぽぽ味噌和え、ささげごぼう和え、かぼちゃごま汁、茄子の揚げ出し、茄子の鴫焼(しぎやき)、冬瓜くず煮、ごぼう太煮、へちま煮ひたし、芋煮ころがし、ふろふき大根、とろろ汁、納豆汁、長芋おでん、かぶ菜汁、こんにゃく白和え、くわい煮付け、焼き生姜、筍あらめ、長芋おでん、ほうれん草ひたし、そら豆煮付け、うど白和え等がある。

その他には、江戸時代の豆腐の食べ方として有名な酒と醤油汁で煮た八杯豆腐や炒り豆腐、湯豆腐、焼き豆腐、山かけ豆腐、あんかけ豆腐、どじょう鍋、くじら汁、ひじき白あえ、切ぼし煮付け、昆布油揚げ、芋がら油揚げ、油揚げつけ焼き、こんにゃくおでん 等がある。
漬物では、沢庵漬、梅干し、ぬか味噌漬、なすび漬、くき菜漬、からし漬、かす漬、かくや古漬などである。


■「醤油の見立番付」と「おかずの見立番付」
江戸時代の醤油はもともと関西の薄口醤油(下り醤油)が一般的であったのが、文化文政頃に野田・銚子で作られるようになった濃口醤油(地回り醤油)が江戸で大流行し、その後関東の主流は濃口醤油になった。
関東の醤油醸造家の番付からは、当時多数の醸造家があったことや、関脇の茂木佐平治(キッコーマン醤油)や行司の廣屋儀兵衛(ヤマサ醤油)、前頭の田中玄蕃(ヒゲタ醤油)など、現代に続く作り手の名前などが読みとれる。これらすべて濃口醤油である。

 
関東醤油醸造家の番付『関東醤油 為便覧(べんらんのため)』天保11年(1840)

天保11年正月に江戸馬喰町吉田屋小吉によって版行された関東の醬油醸造家の番付。両大関は、高梨兵左衛門と柏屋七郎右衛門。高梨兵左衛門は、「野田の高梨」と謳われ、寛文元年(1661)に創業したとされる関東屈指の醸造業家である。現在のキッコーマン株式会社の祖となったのが高梨兵左衛門と茂木七左衞門であった。高梨家は文政12年(1829)に幕府本九・西丸に上十(ジョウジュウ)印醤油を献上して御用醸造となった。

「関東醤油 為便覧(べんらんのため)」とは、関東の醤油醸造家の順位を相撲番付に見立てた「醤油見立番付」で醤油を格付けしたもので、天保期には関東一帯で多数の醸造家による醤油生産が行われていたことが、この番付表からみてとれる。
この天保期の番付を見ると、東の大関として番付上段に花輪「ジョウジュウ印・髙梨兵左衛門」と西の大関として野田「キハク印・柏屋七郎右衛門」が記載されている。また、前頭として銚子のヒゲタ醤油「ヒゲタ印・田中玄蕃」の記載が見られる。行司欄にはヤマサ醤油「ヤマサ印・廣屋儀兵衛」の記載が見られる。
このように、天保前期に髙梨兵左衛門家、廣屋儀兵衛家、田中玄蕃家の名前とその印は高品質の醤油である、ということが江戸市中において認識されていたと考えられる。その他にも関脇の野田「キッコー萬・茂木佐平治」、佐原「カギダイ印・鶴屋弥重郎」など、下総国の野田・銚子・花輪(野田に隣接する上花輪村)・佐原の各醸造家の名前がみられる。
○江戸庶民(江戸後期)の「おかずの見立番付」より醤油を使った料理
芝海老からいり(醤油で味付け)、まぐろ剥(すき)身(醤油煮)、昆布油揚げ(煮物)、そら豆煮付け、まぐろきじ焼き(醤油付焼き)、筍あらめ(煮物)、こはだ煮ひたし、小はだ大根(こはだと大根の煮付け)、たらの煮しめ、八杯豆腐(水6酒1醤油1で煮る)、きんぴらごぼう、小松菜浸し、煮豆、切ぼし煮付け、芋がら油揚げ(煮付け)、油揚げつけ焼(醤油付け焼き)などが見られ、醤油が庶民に広く普及していることがわかる。
○江戸庶民の冬の定番料理
江戸の町民に愛された「ねぎま」は「ねぎとまぐろの鍋」の略称である。当時のマグロは安価で庶民が惣菜にする魚だった。そば一杯が16文の時代に三尺(約90センチ)ほどのものが、200文出せば丸ごと買えるほど安かった。
しかし、当時は新鮮なナマ物よりも、塩を振って仕込んでおいた「塩マグロ」として売られることが多く、一尾を鉈でぶつ切りにした切り身の状態で流通していた。そのため、調理法はおのずとかぎられてくる。煮るか焼くかしかなかった。
そんななかで、当時の文献にかなりの頻度で登場するのが「ねぎま」である。作り方は簡単。脂の多い部分を角切りにし、ネギとともに塩や醤油で味つけした汁を張った鍋に食べたい分だけ入れる。もっとも身近な野菜であったネギと、安価なマグロの取り合わせは、煮るにしても汁に仕立てるにしても手軽だった。

■長屋の食事を支えた振売り、煮売り屋
振売り(棒手振り)は町の隅々まで入り込み、何でも客の注文に応じた。魚屋は魚を注文通りさばいてくれたし、豆腐屋も豆腐を奴切り(冷や奴)やさいの目切り(味噌汁)にするなど、さまざまに切ってくれた。味噌にキザミネギやいろいろな薬味を入れて丸めた味噌玉というのもあった。また、竈(かまど)の炭や米は少量でも、その日の稼ぎの範囲で買えた。

おでん屋の振売りは、おでん鍋と燗鍋を乗せた木箱に天秤棒を渡し「おでん燗酒」の行灯や暖簾をかけ、呼び声「おでん燗酒、甘いと辛い、あんばいよしよし」と売り歩いた。また、外に出ると二八蕎麦、握り寿司、いなり寿司、天ぷらなどの「屋台」が辻々に出ており気ままな外食も楽しんだ。

また、 「煮売り屋」「煮しめ屋」からは、調理済みの茄子の田楽や蛤の煮物など1品、2品程度の惣菜を買ったりして、その日食べる分を上手に求めた。それだけに調理済みの総菜を売る「屋台」や「煮売り屋」はとても重宝だった。


『江戸年中風俗之絵(えどねんじゅうふうぞくのえ)』、1840年・天保11年頃の作とされる。
魚売りは日本橋の魚河岸で仕入れた新鮮な魚を桶に入れ、客の注文に合わせて切り分けた。


『成島司直職人歌合』安永7年・1778年/成島司直:将軍家の侍講を勤めた江戸後期の奥儒者。
豆腐屋(振売り)、一日三回、決まった時間に売り歩いた。


惣菜屋
江戸期の優れた風俗史といわれる「守貞漫稿」の生業の項目には、「菜屋(煮売り屋)」という商売が載っており、『焼き豆腐・蒟蒻(こんにゃく)・くわひ・蓮根・牛蒡(ゴボウ)・刻み牛蒡』などの煮しめを大丼鉢に盛って見世棚(店先)に並べて売っていて『江戸諸処往々これあり』とあるので、庶民は大いにこれらの店を利用した。

田楽(豆腐田楽)
豆腐を短冊に切って竹串に刺し、味付きの味噌を塗って焼いたものが田楽(でんがく)である。現代では、蒟蒻(こんにゃく)田楽が一般的だが、これが流行り出したのは明和期(1765年頃)で、それ以前は豆腐だった。
「守貞漫稿」(嘉永期・1853年頃)の「上燗おでん」売りとして、「燗酒と蒟蒻(こんにゃく)の田楽を売る江戸は芋の田楽も売る也」、「京阪の田楽串は、股あるを二本用ふに、江戸は股なしを一本貫くや。京阪は白味噌を用い、江戸は赤味噌を用う。各々砂糖を加え摺る也。京阪にては田楽に山椒(さんしょ)の若芽を味噌に摺る入れる。江戸は摺り入れずに上に置く。各々 木の芽田楽 という。」という一文があり、田楽には焼き田楽と煮込み田楽とがあって、煮込み田楽(おでん)は幕末頃にできた。
 
焼き田楽の「木の芽田楽」は山椒の若芽を味噌にすり入れるのが京坂で、江戸は豆腐の上に味噌を置くだけと、京阪と江戸の食文化の微妙な違いがあった。
 
芝居絵本『糸廼時雨越路一諷(いとのしぐれ こしじのひとふし)』 - 糸の時雨初編 - の挿絵/柳水亭種清 作/梅蝶樓國貞(二代目歌川国貞) 画 安政5年(1858)
『糸廼時雨越路一諷』に描かれている「おでん燗酒」売りである。その行灯には「おでん 燗(かん)酒」と書かれている。客は右手に酒の猪口を持ち、左手には酒の肴に串に刺した“こんにゃく”を持って食べている。この絵のおでんは「煮込み田楽」である。「おでん」とあるが、これは今日のそれとは異なり、蒟蒻(こんにゃく)・芋の田楽(里芋)のことである。これを肴に燗酒を飲ませたものである。






Copyright(C) 日本食文化の醤油を知る All Rights Reserved.