日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食・醤油文化

 地廻り醤油と江戸食文化


地廻り醤油と刺身料理

江戸時代の後期には、江戸前四大料理と言われる「蕎麦」「鰻の蒲焼」「天ぷら」「握り寿司」も完成する。これらの料理は屋台で気軽に食べられて、忙しい江戸っ子の気質と生活に合っていた。これらの料理は、上方の「下り醤油」に供給を仰いでいた江戸の醤油が、江戸周辺の醤油生産によって江戸の需要を賄うことができるようになった「関東地廻り醤油」(濃口醤油)の発展流通に大きく関係していた。
江戸では塩味調味料の醤油、江戸の味覚に合わせた「蕎麦つゆ」「鰻の蒲焼のタレ」「握り寿司のつけ醤油」など江戸の濃い味つけの料理が完成した。同時に「関東地廻り醤油」は刺身料理に使う調味料の変化にも影響を与え、現在の「刺身」が完成した。


■刺身(さしみ)
現在の「刺身」は、生の魚を酢で食べる鱠(なます)から始まった。刺身が文献上初めて登場するのは室町時代。『鈴鹿家記』という書に「指身 鯉 イリ酒 ワサビ」と書かれており、これが刺身の最古の記録である。刺身は鱠の一種として室町時代に始まり、獣肉や魚介類を細く刻んで、生のまま酢を加えて食べたもので、鱠よりも厚く切って調味料を添えて出すものを刺身と呼ぶようになったといわれている。

刺身の語源は、切るという言葉を忌みて刺すというとか、その魚の鰭(ひれ)を切り身に刺して、魚の種類が特定できるようにしたなどの説があり、漢字も刺身のほかに、古くは指身、指味、差味、魚軒など様々な漢字が当てられていた。魚軒(さしみ)の字は、「切る」を忌み詞(いみことば)としたため刺身の意のタチミの転である「魚軒(さしみ)」の字を当てたとされている。

江戸時代、刺身に添える調味料の多くには、煎酒(いりざけ)や蓼酢、山葵酢、生姜酢、辛子酢、生姜味噌、蓼酢味噌などが用いられていた。煎酒は古酒に削り鰹節や梅干し、たまり(味噌から取るうま味の強い液。のちのたまり醤油)を少量入れて、煮詰めて濾したもの。
江戸時代の後期になると梅干しの代わりに酢が用いられるようになり、その後、醤油が普及すると酢で食べるものは鱠醤油で食べるものは刺身と区別されるようになった。


■刺身につける調味料の変化
「調味料と調味の特徴:刺身の調味料は、現在醤油とわさび、醤油としょうがなどが一般的な調味料であるが、時代とともに調味にも変化がみられる。江戸時代の料理書の刺身の調味料を調査してみると、初期の料理書では、酢にわさび、しょうが、からしなどの辛みを組み合わせた調味料が多く使われている。
また、次に多く使用された調味料は「煎り酒」と呼ばれるもので、酒に梅干し、鰹節を加えて煮つめたものである。関東醤油が量産されて、一般に広まる江戸時代中期以降には、醤油にわさびをつけるなどの現代につながる調味が行われるようになる。」(引用:「調理と地域性」江原絢子)

江戸時代には、刺身に合わせる調味料として「煎り酒」が登場し、酢以外のさまざまな調味料が使われ始めた。そして江戸時代中期ごろから、醤油が普及し始め、保存のしやすさなどの利点から煎り酒にとってかわったことから、徐々に醤油が刺身につける調味料として普及していった。

江戸時代、刺身や鱠(なます)を庶民が盛んに食べるようになった。当時の生魚の食べ方としては、「鱠はショウガ、タデ、芥子、ワサビなどをつけて、酢を和して食べる」と1695年に刊行された『本朝食鑑』にある。一方、「刺身にもこの数品を用い、煎り酒を和して食べる」とある。
刺身の調味料は「酢」を主体にした、わさび酢、生姜酢、たで酢であったが、酒に削り鰹節と梅干を入れて煮詰め漉して作る「煎り酒」が加わり、さらに、江戸初期「たまり醤油」から、醤油が庶民にも普及した江戸後期には煎り酒から濃口醤油(地廻り醤油)に置き換わる。そして、江戸ではカツオやマグロの刺身を専門に扱う「刺身屋」という屋台もでるほど流行した。



江戸時代初頭までは、日本の醤油の主流は大豆でつくる「たまり醤油」に近いもので、生産は上方に集中していた。江戸時代中期頃から清酒を漉(こ)す技法を転用した醤油の諸味(もろみ)を漉し取った「澄み醤油」へ移行し生産が増大していった。江戸では、これらの上方の「下り醤油」が流通するが、非常に高値で庶民の手には届かなかった。
江戸時代後期に入ってからは、関東で製造されはじめた「濃口醤油」が関西でも作られるようになり、「薄口醤油」とともに主流となることで「澄み醤油」は姿を消していった。


「天保年間深川かるこ(軽子)の風ぞく」座敷へ酒肴を運ぶ女(軽子)、膳の上には煮物の大鉢と、熊笹を添えた刺身の大皿が見える。

『日本人と刺身』(2011年)水産大学校食品科学科/芝 恒男より「近代の生食」の一部を引用する。
「江戸時代、刺身や鱠を庶民が盛んに食べるようになった。(中略)刺身の調味料は酢を主体にしたものであったが、酒に削り鰹節と梅干を入れて煮詰め漉して作る煎酒が加わり、さらに醤油に置き換わる。江戸時代初期までは、日本の醤油の主流は大豆でつくる、たまり醤油で、生産は上方に集中していた。江戸ではいわゆる上方の「下り醤油」が流通するが、非常に高値で庶民の手には届かなかった。
慶安(1648~1652年)頃には米一升の値段が26文なのに対し、下り醤油が一升78~108 文であったと言う。亨保(1716~1736年)ごろは江戸に入荷する醤油の内の7~8割は下り醤油であったが、次第に銚子や野田で大豆と小麦からつくられる濃口醤油(いわゆる地廻り醤油)が増えて、1821年には江戸への入荷量が亨保の頃の10倍に増え、地廻り醤油の割合が98%にまでなった。」


■刺身料理の普及は「濃口醤油」に関係していた
一般庶民に刺身料理が広まったのは、銚子や野田で大豆と小麦からつくられる「地廻り醤油」(濃口醤油)が増えて、下り醤油から置き換わった濃口醤油が庶民にも普及した江戸時代の末期からである。江戸前の海で取れる魚は青魚や赤身の魚などで、白身魚よりも臭みのある魚が多く、新鮮な魚の切り身を生で食べるときには香り高い濃口醤油(地廻り醤油)がよく合った。




■関東と関西で異なる魚類のおろし方
魚のおろし方には地方性があり、江戸おろしと、関西おろしがある。
江戸おろしというのは、自分から見て、魚の頭が右、尾が左、手前に背中、向こうを腹にして、右の頭のつけ根から左に捌(さば)くのが江戸おろしである。穴子や鰻ばかりでなく、鯛なども関東は背からおろしていく。一方、関西は腹からおろしていった。

江戸おろしは、魚の表身を尊重し、魚の頭を右にして進行方向の左側を上にすると、かならず手前に背がくる。頭に近い背側からおろす、腹側からはおろさない。そういう決まりは、江戸時代に江戸の日本橋魚河岸で作られた。


■刺身は猪口(ちょく)の醤油につけて食べた
刺身を醤油につけて食べる習慣は、文化文政に入ってから、1800年代の初め頃に出てくる。
そのころの江戸の料理を解釈した本には、『つけじょうゆをのぞきに入れて食べた。のぞきとはなんぞや』と書いてある。「のぞき」というのは、蕎麦猪口(そばちょこ)のような形で、刺身用に醤油を入れて添える小さく深い陶磁器(刺身猪口)をいう。(猪口は、陶磁器製で、猪の口に似ていることから、この名で呼ばれる)

江戸での刺身は、鯛、平目は辛味噌かわさび醤油、マグロとカツオは大根おろしと醤油で食べ、数種類のつまを組合わせていた。刺身に添えるのは、「絲切大根(大根のつま)」、千切りにした「ウド」、「生の海苔」、「浜防風」(セリの一種)、タデの芽の「姫蓼(ひめたで)」をつけたのが上等な刺身であった。安いものでは「黄菊」海藻の「ウゴ」、「大根おろし」をつけた。


■刺身とわさびと醤油
魚の生食(刺身)は世界でも珍しく、日本特有の食文化といえる。魚を刺身で食べるには鮮度が大切であった。日本では鮮度が長持ちするよう、刺身に殺菌効果のあるワサビや醤油が使われた。
日本各地の渓流に自生するわさびは、古くから抗菌作用や消臭効果を持つ薬草として知られ、わさびは飛鳥時代から利用され、醤油は室町時代から使われ始めたとされる。江戸中期には庶民の間にも醤油が広まったが、現在のように刺身や寿司に使われるようになったのは江戸時代後期といわれている。
これは江戸前で採れる新鮮な魚が江戸市中に流通し始めたこと、握り寿司が考案されたことで、江戸の町でブームが起こり、わさびが庶民の間に広まった。冷凍や冷蔵の設備がなかった時代、人々は経験からわさびや醤油が細菌やカビの増殖を抑え、食中毒の予防に役立つことを知っていたと考えられている。


■江戸時代の刺身の毒消し法について
小学館『サライ』“江戸時代に「魚の毒を消す」と信じられていた意外な食品とは”より、以下を一部を引用する。
「江戸後期に書かれた『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には「鯛・鮃(ひらめ)には辛味噌あるいはわさび醤油を用い、鮪・鰹等には大根卸しの醤油を好しとす」と書かれている。江戸っ子は、刺身にも大根おろしを添えていた。江戸時代に「魚の毒を消す薬味」と考えられていたのは「大根おろし」や「山葵(わさび)」であった。
また、守貞謾稿には「江戸、刺身添え物、三、四種を加う。糸切大根、糸切うど、生紫海苔、生防風、姫蓼(ひめたで)。粗なる物には、黄菊、うご(海藻のオゴノリの異名)、大根卸し等を専らとす」と書かれていることから、江戸時代にはつまを数種類組み合わせており、臭みを取り、消化を促し、毒を消す効果を狙っただけでなく、箸休めとして楽しんでいたことがわかる。醤油では『本朝食鑑』の醤油の項に、《一切の飲食および百薬の毒を殺す。台所には一日たりとも無くてはすませることはできないものである》とある。」


『当世娘評判記』三代歌川豊国 文政11年(1828)-天保13年(1842) より一部(刺身とつま・のぞき=刺身猪口)
刺身の皿、浅い大皿の上に、すだれをのせて刺身とつま(添え物)を盛っている。


『見立源氏はなの宴』三代歌川豊国 安政2年(1855) より一部(刺身とつま・のぞき=刺身猪口)
大皿に載せられた赤身と白身の刺身盛り合わせ。


■刺身の盛り付け,つまと醤油
『守貞謾稿』の「刺身」には、「夏は血水底に溜まる故に、江戸にては、葦簾(よしず)あるいは硝子簾(がらすすだれ)を敷きて、その上にさしみを盛る」とあるように、江戸時代の錦絵を見ても、刺身とつま(海藻らしき絵)は、皿の上のクマザサの葉や巻き簾の上に盛ってあって、当時から刺身は皿からとって、調味料に漬けて食べていたことがわかる。

江戸時代の刺身には、つまを数種類組み合わせて臭みを取り、消化を促し、毒を消す効果を狙っていた。また、わさび、生姜、葱、梅干し、紫蘇、蓼、胡椒、辛子などの薬味も、古くから毒消しの効果があるとされていた。

江戸時代に「魚の毒を消す薬味」の筆頭と考えられていたのは、「大根おろし」である。元禄10年(1697)に刊行された『本朝食鑑』という食材事典には、「大根は……(中略)……魚肉の毒・酒毒・豆腐の毒を解する」という記述がある。江戸時代は、魚の毒を消す薬味として刺身に大根おろしを添えていた。そして、前述した『本朝食鑑』の醤油の項には、「一切の飲食および百薬の毒を殺す。台所には一日たりとも無くてはすませることはできないものである」と記されている。


喜田川守貞『守貞謾稿』(後集 巻之一)の刺身盛りの図説


■刺身魚と合わせ醤油
江戸時代のどの錦絵を見ても、刺身は皿の上のクマザサの葉や巻き簾の上に盛ってあって、当時から刺身は皿からとって、タレに漬けて食べていたことがわかる。江戸後期に醤油が普及するまでは膾(なます)や刺身に欠かせない調味料として「煎り酒」があった。
刺身料理に醤油が使われた記述として、喜田川守貞の近世風俗志『守貞漫稿』によると、江戸での食べ方は、「鯛・鮃(ヒラメ)には辛味噌あるひはわさび醤油を用ひ、まぐろ・鰹等には大根おろしの醤油を好しとす」とある。辛味噌は塩気の強い味噌のことで、必ずすり鉢で辛味噌を摺ってから使った。

 
喜多川歌麿『刺身のつま』(1789-1801)より、刺身(鰹)の大皿とつまの大根を下ろす美人絵
この絵は、刺身(鰹)のつまの大根を下ろす若い女性と、それを見つめる母親の姿を描いた作品。江戸っ子は鰹を好んだ。特に歌麿が活躍した頃には、人々は競って青葉が美しくなる時期の初鰹を求め、刺身にからしや大根おろしを合わせて食べた。


また、『守貞謾稿』の「刺身」には、次のように書かれている。
「江戸、剌身添へ物、三、四種を加ふ。糸切大根、同うど、生紫海苔、生防風、姫蓼。粗なる物には、黄菊・うご・大根卸し等を専らとす。けだし江戸には剌身一種を生業とする小店あり(冊子上の註釈:小店にて魚多き日は四十八文、あるいは百文ばかりよりこれを売る)。 近年、この小店にて制す物、二、三種を添うるにより、嘉永の今はかえって精製の割烹店などには、刺身更に添え物なく、別に卸し大根を持ち出して取り分けて後、これを置くなり。また江戸は鰹の剌身を用ふ。四月の初鰹を賞味すること、最もはなはだし。中昔までは四月初鰹、一尾価金二、三両に至る。近年はなはだ劣れりといへども金二、三分」

「又、三都ともに洗ひというあり。作り身、剌身の類を冷水にて洗ひ食す。是は江戸も不列に盛る。あらひには鱸(スズキ)を好しとす。又、鯉の刺身も洗ふ。其の他、惣じて鮮なるは洗いて可なり。けだし洗いは夏用なり」 「刺身も古よりこれを称すなり。『中原康富記』に文安元年十二月十五日の所に、二献、冷麺これをすえ、鯛指身これをすう、云々」。


写真は刺身「鯉の洗い」、 魚洗いは魚を薄いそぎぎりや糸作り、はね作りにし、冷水(氷水)に潜らせ身を引き締めて食べさせる調理法。酢味噌、梅醤油、山葵醤油で食べることが多く、魚は鯉の他にも、鱸(すずき)、黒鯛、平目など鮮度のよい白身の魚が多い。
江戸時代に書かれた『本朝食鑑』には、「まず城州の淀川の産が第一とされ、宇治川、勢多川、琵琶湖の産がこれについで良い … 今江都(江戸の異称)で賞味しているものは、浅草川、常州の箕輪多の鯉である」とあり、清浄な川に育つ鯉が尊ばれた。


鮪(まぐろ)

■マグロの名前の由来
マグロの語源には、目が黒いことから「眼黒(まぐろ)」​の意味とする説と、背が黒く海を泳ぐ姿が真っ黒な小山に見えることから「真黒(まぐろ)」の意味とする説がある。 


■マグロの刺身
マグロは現代では高級魚の感が強いが、江戸時代は、ナマよりも塩まぐろが多かった。江戸前期、マグロの食材としての評価は低いものであった。これは当時、マグロは江戸、京、大坂などの消費地から遠く離れた五島列島、三陸海岸などで漁獲され、輸送に時間がかかり、さらにマグロには脂分が多かったため、加工が難しかったからである。
そのような事実から、江戸期全体を通してマグロの利用法は加工が単純な塩マグロが主流となっていた。安価な塩マグロも下品な魚で長屋などに持ち込まれた。『江戸風俗誌』によると、「さつまいも、かぼちゃ、まぐろなどは、甚だ(はなはだ)下品にて、町人も表店(おもてだな)住まいの者は食することは恥ずる躰なり」とあり、塩漬マグロは長屋暮らしの人々や山村生活者たちの食べものだった。

江戸中期に至り、定置網漁が発達するとマグロが本格的に漁獲されるようになった。同時期に江戸近郊で関東地廻り醤油が発達し、マグロの赤身を濃口醤油に漬けて「ヅケ」で食べるようになり、マグロの消費が拡大していく。江戸末期になると、海況変化のため、紀伊半島から三浦半島にかけてマグロが大量に漁獲されはじめ、マグロは江戸前ずしの種に加わり、また刺身としても食べられようになった。
江戸では鯛よりまぐろの刺身が好まれていて、『守貞謾稿』の「刺身」の項には、まぐろは、京阪では「下卑の食として、中以上および饗応にはこれを用ひず。また更に鮪、作りみ(刺身)にせず」だが、「江戸は大礼のときは鯛を用ひ、平日は鮪を専らとす」(後集巻之一<食類>)とある。

文化年間(1804~18)になると多くの人がマグロを食べるようになった。為永春水の『春色梅児誉美(しゅんしよくうめごよみ)』(天保三年,1832)に、「天麹羅か、黒漫魚(マグロ)のさしみで、油の乗った、あいさつが聞きてえの」とあり、マグロの刺身が食膳に供せられるようになった。また、天保2年(1831)刊行の随筆『宝暦現来集』(山田桂翁)の文政年頃より天保2年までの流行の条にも「塩鮪を止めて、すき身が売れる」とあるから、この頃から、マグロの刺身が庶民の間に広がった。


■マグロの魚売り
江戸時代の終わり頃から駿河湾で大量のマグロが獲れた時期があった。駿河湾沿岸などで獲れるマグロは、江戸の魚河岸に運ばれるうちに傷み始めて身崩れするために、イワシやサンマなどと同様に下魚(げぎょ)として扱われた。マグロが頻繁に食べられるようになったのは、江戸時代のこと。ただ、江戸初期まで、武士の間では鮪の旧名であるシビが「死日」に通じるために忌み嫌われた。
また、「塩まぐろ取り巻いている嬶(かか)ァたち」,「鮪売り 安いものさと 鉈(ナタ)を出し」という川柳があるように、棒手振(ぼてふり)の魚売りは客の要望に応じて、低級魚の扱いのマグロをナタでたたき切って売っている様子を詠んでいる。
当時は「塩マグロ」として売られることが多く、一匹をナタでぶつ切りした切り身の状態で流通しており、調理法は煮るか焼くかであった。ナタでぶち切った切り身だったので、川柳「煮なさるか焼きなはるかとまぐろ売り」と、刺し身で売らなかった状態をしめす句もあった。このように、マグロは安く大衆魚の代名詞でもあった。

江戸時代の川柳に『まぐろ売り 生きているとは いいにくい』(明和二年,1765)がある。
マグロを売っている魚売りは「さっきまで海で泳いでいて、まだ生きてるよ」なんて威勢のいいことを言ってアジやイワシを売って歩く。しかし、そういう台詞も通じないのが、マグロや鯨だ。「古くはないかい」と聞かれて、冗談じゃねえ。この通りまだピンピン生きている……わけじゃないけどね。」というように、生きのいいナマ物よりも塩まぐろが多かった。


■下魚マグロの高級化
江戸後期になると、天保時代、江戸近海で獲れたマグロの大漁がきっかけとなって、江戸前の握り寿司のネタとしてマグロの「づけ」(醤油漬け)が登場する。
マグロの鮮度が落ちるのを防ぐ目的で、マグロの切身(赤身)を塩気の強い醤油や酒に漬け込んだものが、江戸っ子の間で評判となり、マグロも徐々に高級魚になっていった。随筆『飛鳥川』(文化七年,1810刊)に「昔はまぐろを食いたるを、人に物語するにも、耳に寄せて、ひそかに咄したるに、今は、歴々の御料理に出るもおかし」とあるように、江戸後期になって高級化していった。


『天保三年伊豆紀行画帖』の「長浜村漁猟場の景」絵図 (幕府浜御殿奉行 木村喜繁、1832年) 
建切網漁:駿河湾で船と網でマグロの群れを浜に追い込み、漁師がシビカギという手鉤でマグロを引っ掛けて水揚げするマグロ漁の図。網小屋の背後の山には梯子をくくりつけた魚見櫓が描かれている。

『此辺ヘは江戸并(ならびに)駿府甲州より魚商ふもの参り居て、魚取れたりと聞と直に其処へ来り、夫々の漁師頭へ直段の押合する由』とあるように、マグロは、江戸、駿府、甲府などの魚商人が買い付け、馬や船を利用して各地に輸送された。
文化七年(1810)の冬や天保三年(1832)の春先には、伊豆半島から三浦半島にかけて、黒潮に乗って回遊してくるマグロの大群が押し寄せたと記録が残されている。豊漁つづきのマグロは、日本橋にあった魚河岸にあふれかえった。さばききれない大量のマグロは塩漬けや醤油漬けにした。魚河岸では中くらいのマグロが約二百文という安値で取引され、二十四文の切り身で二、三人が食べても残るというくらいだったと云われる。(「何れも中型鮪にて小田原河岸の相場は二尺五・六寸から3尺ばかりのもの一尾が二百文、飯の菜(=おかず、惣菜)には二十四文の切身で二・三人で食べても残る」と兎園小説余禄にある。小田原河岸は江戸日本橋にあった)



江戸の「さしみ屋」

■「さしみ屋」の専門店と屋台が登場
刺身が広く食べられるようになったのは、江戸時代後期から。当時、濃口醤油が誕生したことによって、醤油をつけると魚の生臭さが気にならないと評判になり、そんな中、登場したのが「刺身屋」である。「刺身屋」では、カツオやマグロを刺身にして販売していたようだ。庶民にとっては、魚をさばく手間が省け、手軽に買えるとあって、客はお皿を持参して購入していた。

江戸ではマグロは不人気な魚であった。江戸時代中期までは、刺身といえば、鯛や平目といった透き通った魚がよいとされ、マグロのような赤身の魚は下魚として扱われていた。
マグロの刺身の記述として『宝暦現来集』天保二年(1831)に「塩鮪を止めて、すき身が売れる」とある。この頃からマグロの刺身が庶民の間に広がったようである。もっとも、この時代に食べられたのは赤身だけである。
江戸末期の風俗記『守貞漫稿』(1853年)は、江戸だけにある商売として刺身屋をあげて、「刺身屋」なる刺身一種を盛業としている屋台(惣菜屋の一種)が登場したことを記しており、次の記述がある。
『鰹及まぐろの刺身を專らとし、此一種を生業する者諸所に多し、銭五十文百文ばかりを売る、粗製なれども料理屋より下直なる故に行る、蓋沽魚の類少づヽ兼ね売り、或は鮮魚も格別下直の日は売る』。
つまり、刺身屋で売っているのはおもに鰹と鮪の刺身で、料理屋のものより品質は劣るが、刺身を50文、100文という値段で売り、値段が安いので売り魚の種類を兼ねて売り、よく売れている。と書いており、庶民たちに歓迎されていたようである。

江戸時代末期、大衆に刺身文化が広まった頃、江戸の町には、刺身を専門に食べさせる店も多く誕生し、1食100文程度で利用できる刺身屋は料理屋より安く評判であった。この時、お皿持参で買いに行き、好みの刺身を盛ってもらったことにより、刺身盛り合わせと言う形式が誕生し、一器一種が基本だった刺身の盛り付けに変化が訪れた。魚を売る棒手振りもまた、魚だけでなく包丁とまな板を持ち歩き、生魚を刺身にして売ることもあった。
(刺身の盛り付け方は、もともと「一器一種」という決まりごとがあった。これは一つ器に数種の魚を盛り付けると、魚の匂いが移り素材そのものの味を美味しく味わう事ができなくなるので、一つの器に一種類の魚しか盛らないということであった)


「浮世五色合 赤尽くし」 歌川国貞(歌川豊国三代) 弘化元年(1844)
絵には鮪などの赤身魚の刺身を皿に並べている女性が描かれている。画題に「浮世五色合,赤(うきよごしきあわせ、あか)」とあるように、刺身は鮪の赤身、女性は緋鹿子の髷結(まげゆい)、着物の衿や袖口に赤色などが使われている。

■カツオの江戸時代の食べ方
かつおは現在は、生姜醤油で食べる人が多いが、江戸時代は辛子醤油か辛子味噌または大根おろしで食べるのが一般的だったようである。辛子でかつおの生臭さを消す効果があった。大根おろしも江戸のものは辛いので効果があった。『守貞謾稿』には大根卸しと醤油がよいとある。「初かつお辛子がなくて涙かな」という川柳があり、初かつおと辛子は付き物だった。

刺身といえば、「薬味」や「つま」が付くが、江戸時代は、千切りにした「ウド」、「生の海苔」、防風の芽(浜防風)、タデの芽の「姫蓼」をつけたのが上等な刺身であった。安いものでは「黄菊」海藻の「ウゴ」をつけたそうである。


写真:早稲田大学「気仙沼復興塾」震災復興のまちづくり(JA共済寄附講座)


■江戸っ子と初鰹
江戸時代にはさしみ・鱠(なます)など生食が主流となり、1700年代後半、江戸市中では「初カツオ」が異常な人気を呼んで価格が高騰し、幕府が度々禁令を出した程であった。享和元年(1801)の『料理早指南(りょうりはやしなん)』では、「春にはかつお を酢醤油でたべ」たり、「霜降りさしみでからしみそで食べたり むして くずかけわさびで食べる」とある。

江戸時代、江戸っ子達を熱狂させた初鰹は、鎌倉河岸から入荷したものである。江戸では「鰹は刺身・刺身は鰹」といってカツオを珍重し、カツオをたたきではなく、そのまま刺身にして酢醤油で食べるのが一般的であった。現在のカツオの食べ方は火に炙ったたたきだが、当時は三枚におろした半身を腹と背に切り分け、背身は炙って冷水に浸して焼霜造りにして、腹身はそのまま刺身にして食べていた。
なお、カツオは京都では余り食べられなかったようで、本朝食鑑(1695年)は「京師は海から遠く、生鰹は到来しない。また紀州・勢州に多く獲れるといえ、都からはなれすぎているので鮮鰹は至り難い。そこでマナカツオの鱠を鰹の鱠に学び擬えて賞美している。ここから学鰹と名づけるのであろうか」と述べている。


「卯の花月(うのはなづき)」歌川豊国画 嘉永頃(1848~1854)
作品名に「卯の花月」とあるように、陰暦4月(新暦では5月)の江戸の町の様子を描いた作品。
粋な初鰹売りの棒手振りは、町中でカツオをさばき、庶民は切り身を買った。鰹をさばく魚屋のところに、大皿を差し出す常磐津(ときわず)の師匠、常磐津の稽古に来た二人の町娘、子供を背負った長屋のおかみさん、桶を肩に下げた丁稚たちが描かれている。初夏の到来とともに、江戸っ子は初鰹を好んで食べた。



「十二ヶ月の内四月 ほととぎす・かつほ」 溪斎英泉画 江戸後期


■初物(はつもの)食い
初物を重宝する伝統そのものは長いが、江戸後期には奢侈傾向が強まり、とくに初鰹には異常ともいえるような人気が集まった。江戸の一部の富裕な町民らが法外な値段をもってこれを買い求めた様子は、いくつもの随筆に書きとめられている。初物には祝祭的な意味が付与され、そのことから初物を口にすると七十五日ずつ寿命が延びるとの俗説が流布した。
なかでも初鰹は「750日長生きする」と10倍ものご利益があるとされていた。江戸っ子は特に「初物食い」を珍重し、その中でも有名なのが初鰹である。初鰹は富裕層だけでなく、長屋の所帯も共同で購入し、切り身を分け合って初物の昧を楽しんだ。初物は、「勝つ魚」に通じる初鰹や、初茄子、新茶などが人気であった。
初物文化が広まった江戸時代、江戸で一番珍重されたカツオは相模湾で獲れたもの。相模湾で獲れたカツオは、約10mの船体に3つの帆と漕ぎ手8人が備わった高速船「押送船(おしおくりぶね)」で江戸の日本橋の魚市場まで運ばれた。



「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」(江戸中期の俳人・山口素堂,1678年)にあるように、鰹の刺身は5、6月に旬を迎える。この句が一躍有名となり、初物食いに意地をみせる江戸っ子の間では、初夏に出回る「初鰹」を食べるのが粋の証であった。
血の気の多い喧嘩早い江戸っ子は、青葉の季節になると、寒い間着ていた「どてら(綿人れ)」もいらなくなるから、これを質屋に入れて、鰹を食べて自慢した。この時代は今日と違いマグロは安い魚で、カツオの方が高級魚として扱われた。

初物志向のあまりの過熱ぶりに、幕府はたびたび御触書を出し、風紀を糺そうとするほどだった。
時期的に早いものは貞享三年(1686)五月の御触書であり、ここでは「生椎茸・土筆・防風・ 蕨・蓼・葉せうか・ねいも・竹の子・茄子・越瓜・枇杷・真瓜・さゝけ・りんこ・梨子・めうと・ 松茸・蒲葡・御所柿・蜜柑・九年母」の21品の売買取引について開始可能な月を定めている。
また売買が可能な期間においても、「過分ニ直段高商売」してはならないと戒めている。また寛保二(1742)年六月の御触書ではほかにも「ます・あゆ・かつほ・なまこ・さけ・あんかう・生たら・まて・白魚・あいくろ・ほとしき・かん・かも・きし・つぐみ(以下省略)」など項目に魚類鳥類が加わっている。
初物を極端に愛好するこの風潮は江戸に特有のものであったことが大坂町奉行に在職した久須美祐雋の随筆『浪華の風』(安政三年~文久三年)頃の記述からうかがい知れるが、それも長くは続かず、『守貞漫稿』に「又、鰹ノ刺身ヲ賞ズ。四月初日以後、初鰹ヲ特ニ賞シ、一尾價金二三分也。中古迄ハ、金一二両ニモ賣リシト也。近年漸クニ下直也。」 とあるように、天保年間(1831〜45)の頃には下火になったようである。






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