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  念仏申す生活 その2



「仏様の願いをいただく」

今日はお念仏ということをテーマに話をしていますが、念仏は、今、私の心に仏様の願いをいただくということです。では、私が仏様の願いをいただくという、まず仏さんの願いは何かということです。摂取不捨と教えられます。全ての人を救いとって、漏れなく、導くということです。決して駄目な人でも捨てることがありません。これが、仏様の願いです。全ての人を救いますということが、仏様の願いです。
 それだけではありません。そう言いますが、仏様は仏様になる手前は法蔵菩薩といって、仏様の願いは48あります。その48の全ての願いの中に、たった1人でも救われなかったら、私は仏といわれる資格はありませんと書いてあります。たった1人でも救われる人がいなかったら、私は仏といわれません、いわれる資格はありませんと言います。これが大事です。仏様は全ての人を救うと言います。分かります。しかし、たった1人でも救われない人がいたら、つまり、私は仏として成就しませんということです。
 それをどのように考えたらいいのかということですが。東日本大震災がありました。この前には、茨城県常総市で堤防が決壊しました。常総市の水害のときに、電信棒につかまっている、おじちゃんがいたではありませんか。あれ、大谷派の門徒さんなんです。近くに東弘寺という寺がありまして、そこの門徒さんでした。タクシーの運転手さんだったか、トラックの運転手さんか忘れましたが、それを聞いていて、「あの人は助かりましたか」と言ったら、助かりました。皆さんも大谷派の門徒さんですが、同じ仲間の人でして、無事に助かりました。
 東日本大震災という、とんでもない地震がありましたが、その前に阪神・淡路大震災というのがありました。阪神・淡路大震災のときに、地震が起きた後、人間というのはこういうときにどういう行動を取るのかを詳しく調べた先生がいまして、ある所に書かれていました。人間には、そのときに、二つの特徴があったということです。この身にの危険がせまったとき。本当に自分が死んでしまうというようなときに、人間はどういう行動を取るかです。
一つは助けてくださいと叫びます。当然です。身が危ないですから。
 二つ目は何かといったら、助けてくださいという叫ぶ自分であっても、自分の近くで助けてくださいという声が聞こえたときに、決してその声を聞こえなかったことにしません。そこへ助けに行きます。これが阪神・淡路大震災のときに、人間が危機に迫ったときに取る行動の大きな特徴で、二つあるということです。この先生が書かれていました。
 驚きました。私たちは、普段、危機に迫ってないということです。自分のことばかりですから、本当の危機に迫ってないということです。よく言うではありませんか。本当に末期のがんになって、お見舞いに行くと、ベッドに座った病気の人が、逆にお見舞いに来た人に、「あなたは大丈夫か」と言われることがあります。皆さん、これをよく聞きませんか。人間というのは、自分が何をしないといけないのかということをとことん考えると、やはりどうしても相手のことが心配になるではありませんか。
 阪神・淡路大震災のときに人間が取る行動が私たちに教えてくれているのは、まず、私たちには助けてくださいと叫ぶことがないということです。そして、本当に助けてくださいと叫び、本当に助けてくださいと言った人は、どこかで誰かが助けてくださいと言ったら、決してその声を見過ごすことはないということです。これが、本当に危機に迫ったときの、人間の大きな行動にあらわれていると書いていました。
 仏さんとよく似ています。本当に私たちが救われたい、助かりたいと思って、お念仏します。しかし、私たちの助かりたいという中身が本当に満足するのは、自分だけが救われていては本当は満足をしないということです。私は病気が治ればいいと思って、私たちがお念仏しても、私の病気が治っても、それだけでは私の、本当の助かる満足にはならないということです。そうなると、自動的に一度、病気、大病を患わられた方は、周りの人が気になって仕方ないと思います。
 仏様の心というのは、どこかで誰か助からない人が1人いたら、私は仏といわれませんということです。仏様の願いです。それを私たちがいただきます。お念仏というのは、そういうことであると私は思います。ですから、よく言われます。お念仏というのは仏様からの呼び声だという、あれです。先ほどと一緒です。私たちからの請求書ではなくて、お念仏は領収書です。仏様の呼び声、おい、おまえ、それでいいかという呼び声に対する、そうだ、私は心配いただいていた仏様という方がいるということです。たった1人でも救われない人がいたら私は仏といわれないと、そこまで人間のことを、人々のことを心配して、とことん救いの道を私たちに与えてくださった仏様という方がいるということに気付かせていただいたときに、領収書になるということだろうと思います。


「長浜ラーメン」

問題はここからです。9月のお彼岸のときに、浅草にあります、坂東報恩寺のお彼岸法要がありました。私は、坂東報恩寺の代表者をしています。お彼岸法要に行くときに、上野に着いて、ちょうどお昼だったので、何を食べようかと思いまして、上野の駅前にラーメン屋があります。長浜ラーメンの小さい汚い店です。長浜ラーメンを久しく食べてないので、食べようと思って、長浜ラーメンを食べに行きました。長浜ラーメンを食べに行きましたら、店の中の壁に長浜ラーメンの効能というのが書いてありました。
 一つ目は、効能ではなくて、特徴です。長浜ラーメンは、麺が細くて硬いということです。ですから、軟らかくないと駄目ということではなく、麺は硬いですということです。
二つ目に、どう書いてあったかというと、「お酒を飲んだときには豚骨ラーメン」と書いてありました。お酒を飲んだ後に、以前は必ず何か食べていましたが、最近、あまりにも太り過ぎなので控えています。しかしこのように書いてありましたので、僕はいいことが書いてあると思って、写メを撮りました。「お酒を飲んだ後は豚骨ラーメンです。お酒を飲んだ後に、ラーメンを食べたくなります。そのときのラーメンのおいしさといったら格別で、それは身体がラーメンを必要としているからです。」これはうちの嫁さんに聞かせたら、本当に言い訳になると思いながら読んでいましたが、「豚骨ラーメンはイノシン酸が多く含まれていて、これがアルコールを中和します。さらに、アルコールは胃の中から脂肪分を取るから、この豚骨は脂肪分を補給することになります。」とありました。
 三つ目は、肌の美容に良いとありました。コラーゲン、カルシウムということです。女性の方は、ぜひ長浜ラーメンを食べてもらいたいと思います。
大切なのは二つ目、「身体がラーメンを必要としている」ということです。本当に、いいことが書いてあります。僕はこれで少し救われました。「大体、酒を飲んだ後に、何か食べるから太るのです」と、よく言われましたので。この身体が必要としているのであって、頭ではありません。頭で考えているのではありません。そういえば、うちの奥さんが子どもがおなかの中にいるときに、チョコレートばかり食べていたので、「チョコレートばかり食べていたら、太ってニキビ出るぞ」と言ったら、「私が欲しいのでなくて、おなかの子が欲しいと言っているの」とよく言っていました。
 これはふざけたことではなくて、身体が欲しているのです。大事です。私たちは頭で考えると、全部、利用します。違います。この身が仏様を必要としているということがあるということです。大体、頭で考えるとろくなことがありません。頭より身が先に仏様を求めているということ、大事なことがあるということを、長浜ラーメンを食べて教えていただきました。私の中に、求めるものがあるということです。その求めるものがなぜあるか、それは私がこの世に命をいただいて、本当にこのいただいた命を満足するためには、本当はどうしたらいいのかというものが、私のこの中にあります。頭の中ではありません。この身の中に、インプットされています。そういうことを教えていただきました。ですから、そこに、仏様の教えがひっつくわけです。


「念仏を称える」

もう一度、お念仏というところに戻りますと、お念仏というのは、本来は仏を思うという意味です。ですから、口でお念仏を申すということではないです。しかし、これが、仏様が亡くなられてから700年ぐらいたつと、念仏を唱えるとなります。ここで、仏教は大乗仏教が栄えます。ここで口称念仏が広まります。
私たちがお念仏といいますと、皆は、南無阿弥陀仏と口で唱えることがお念仏だと思っています。これは大乗仏教の流れが、今まで伝わっているからそうなのです。もともとは、仏を思うということが念仏でした。別に口に出して、念仏を、仏様の名前を唱えることが念仏ではなかったわけです。それが、仏様が亡くなられて、しばらくというのはだいぶたっていますけれども、しばらくたつと、仏教の中に大乗仏教が生まれます。それが生まれると、仏様の名前を口を使って唱える、念仏を唱えるということが、非常に盛んになりました。
 大乗仏教の特徴は何かというと、その名前のごとく、大乗、大きな乗り物でありますから、全ての人が救われる道は一体、何かという仏教です。もともと仏教はそういう仏教ですが、実践的に全ての人が救われていく仏教の道というのがどういうものかと、その中で起こってきたのが大乗仏教といわれています。大きな乗り物ですから、全ての人が救われる方法は何かということです。その中で、生まれてきたのが、仏様の名前を呼ぶ、南無阿弥陀仏と口で唱えることで、私たちが救われているという道が生まれてきたといわれます。
 それは、必然的な理由があったといわれていますが、これをある先生が「他者の発見」というように言いました。つまり、仏教というのは、ずっと、仏様と同じ悟りを私がする、そのために修行するという仏教でした。しかし、私一人が仏の悟りを得る、その悟りを得るときには、私の周りにいる人も一緒に救われている、他者の発見が大乗仏教であるというように言われました。つまり、私たちがいただいているお念仏というのは、私1人の救いではなくて、実は私1人の救いの中に、全ての人の救いが含まれていなくてはならないということです。これが、私たちがいただいているお念仏ということです。こういうようにいわれていまして、これは大事なことだと私は思っていますので、少し話をしたわけです。
 そこで、面倒くさい話になったときは話を変えるというようになっていまして、それまでは仏を憶うから称えるということになりましたが、この唱えるという字は量るという意味が込められます。はかりです。称えるというのは、量るという意味があります。量るというのは、こちらが重いか、こちらが軽いかを測るわけです。しかし、この場合の量るということは、ちょうどぴったりの重さになるという意味です。称えるというのは量るという意味であって、かなう、同じ重さになる、こちらとAとB、こちらの手とこちらがぴったり一つに合わさるというようにいわれます。これを、仏教の言葉で函蓋相称といいます。


「函蓋相称」

 仏様の念仏というのは、仏様を憶うから、ずっとその後、しばらくたって大乗仏教というのが起こって、仏様の名前を称えるということなります。仏様の名前を称えるという背景はなぜそうなるかですが、それは大乗仏教です。大乗仏教というのは、私1人の救いの中に全ての人の救いが含まれる、つまり、他者の発見ということですので、名前を称えるということの必要性です。それをどういうように私たちに教えていただいたかということを、函蓋相称という言葉で、私たちに教えていただいています。
 函蓋というのは、箱とふたということです。ペットボトルとふたも一緒です。箱とふたです。函蓋相称というのは、仏様と私がいる、仏様と私がぴったり一つになるということです。しかし、仏様の教える函蓋相称というのは、このペットボトルのふたが一つになってペットボトルになるとはいきません。このふたである私が仏様と一つになったときに、初めてふたがふたになります。仏様も、たった1人でも救われなかったら、仏といわれませんという願いの持ち主ですので、私と仏様がここで一つにぴったりなったときに、仏は仏となり、私は私となるというように教えました。それを函蓋相称といいます。
 称えるということは、そういうことです。仏様の名前を私たちが口に出してお念仏するというのは、仏様の心を私がいただくということだけれども、その中身は私が本当の私になるということだと教えていただいています。それを函蓋相称という、缶とふたに例えて、私たちに教えていただいています。問題は、私が何か別人の私になるのではなくて、私の、本当の願いは一体、どこにあるのか、私が本当に救われるというのは一体、どういうことなのかということを教えていただくということです。これが函蓋相称、称えるということであるということを教えていただいています。


「お念仏は本当にものに出会わせていただきます」

さて、そこで、先ほども最初に申しましたとおり、身の回りで起きた出来事を大事にしながら、仏様の教えをいただきたいと思っていますが、今年の、お盆のときに、私の村の門徒さんで、年齢が68歳の、女性の方が突然、亡くなられました。入院してから、2週間で、皆は非常に驚きました。入院する前に、元気で旅行に行っていました。「体調が少しおかしい」と言って、病院に行ったら、そのまま、即、入院で、病名は子宮肉腫という病気でした。子宮肉腫もがんのようでがんでないといわれて、がんの薬は効かないといわれています。子宮肉腫だから、悪性腫瘍です。子宮肉腫というので、どうも後で聞くと、このぐらいの、子宮の肉腫だったのが、2週間で、大きいボールぐらいになったということです。亡くなるときは、そのぐらいだったというように、ご主人が言っていました。
 残されたのは、ご主人と3人の息子さんでした。3人の息子さんはそれぞれ仕事をしていまして、結婚は3人ともしません。私もこういうことは初めてでしたが、亡くなったということを聞くと、枕経といいます。まず、枕経というのは亡くなった方の遺体のそばで阿弥陀経を読むわけですが、それが亡くなった人と家族の、最後のお勤めという意味で枕経をします。そのときには当然ご主人と3人の息子もお参りしています。そしてお通夜・葬儀、最後に火葬場へと、
いつも笑顔よしのにこにこした、本当に笑顔を振りまくおばちゃんでしたので、とても悲しいお葬式でした。
 明日がちょうど満中陰になりまして、3週間たった頃に、毎週、お参りに行くわけですけれども、三七日にお参りに行って、ご主人に聞きました。「どうですか」と言ったら、ご主人はやはりショックで外に出ない、「ゲートボール好きでだから行ったら」と言いましたが、入院したときの話が始まります。お医者さんから「これは駄目です」、「余命3カ月」と言われたときには、本当に何でもいいから何とかしてくれと叫びましたという、ずっとその話です。入院してから亡くなるまでの話です。次の週に行くではありませんか。同じ話です。入院したときから、亡くなるまでの話です。その次の週、行くではありませんか。1カ月がたちます。同じ話です。入院したときから、亡くなるまでの話です。つい先週、行っても、また同じ話です。つまり、亡くなったことが、なかなか引き受けられません。
 そこで、僕は、息子さんたちに、きちんとお参りしているかと聞きました。いつも、僕の後ろで3人は正座して、毎週、きちんとお参りしています。お参りして話していますから、毎日、きちんとお参りしているかと聞きました。「お参りしています」。「どのようなお参りしていますか」。「お母さんに対して、何か本当に申し訳なくて」ということです。「なぜ先に逝ってしまったのか、本当にいろいろ思うことあります」。「そうです。手を合わせていますか」と言うと、「きちんと手を合わせています」。こういう話をずっとしていました。そのうち、ご主人がこのようなことを言いだしました。「あのとき、こうしておいたら良かったです。このとき、こうしたら良かったです」と後悔の念ばかりです。これを俗に愚痴といいます。話していました。ああしておいたら良かった。こうしておいたら良かった。そのうち、ご主人が、ああしておいたら良かった、こうしておいたら良かったという話から、最近、どうなったかというと、本当にいろいろないい思い出がたくさんもらってというような話に少し変わっていました。しかし、あれもしておいたら良かった、これもしておいたら良かったという話です。
 私たちは大切な人が亡くなったときに、その方の前で手を合わすときに、どうですか。どうなのかというようなことをいろいろ思いますと、今回の、68歳の方が亡くなり、後に残された方、お父ちゃん、ご主人と3人の息子の話をいろいろ聞いていますと、一つは、特に突然だったので、亡くなったことがなかなか引き受けられません。もう一つが、ああしておいたら良かった、こうしておいたら良かったという後悔の念です。もう一つは、反省です。あのとき言うことを聞いておいたら良かったというような反省です。そのうち、お母さん、ありがとうというように、だんだん変わってきます。
 そこで、どなたもそうと思います。亡くなってみると初めて大切な人の願いを本当にいただくことができるのです。ですから、やはり手を合わすということは、本当のものに出会わせていただくということになると思います。皆さんはいかがですか。お念仏というのは、本当にものに出会わせていただきます。
 手を合わすときに、一体、自分の心の中でどういう動きがあるのかということです。やはり亡くなった人の、本当の願いをいただいていくという心の動きがあります。そしてそれは、自分がこの世で命を終えるまで続くわけです。
こういう言葉があります。「悲しみは人と人をつなぐ糸である」という言葉です。今回の場合でいいますと、亡くなって悲しみに暮れる中で初めて、母と息子が、妻を夫が本当につながるというありさまを見ていると思います。

そこで、そういう私たちでありますけれども、先ほど言いましたように、仏様の心をいただくということがお念仏であるということですが、どっこいそうは簡単に私たちはなっていません。先ほども、私が先だということを言いました。僕もテレビっ子で、よくテレビばかり見ていますが、この間、NHKだったかを見ていましたら、松坂慶子さんが出ていました。この10月から公開されます、『ベトナムの風に吹かれて』という映画の主演を、松坂慶子さんがしているのです。その映画の宣伝もあったかと思いますが、その『ベトナムの風に吹かれて』という映画で、原作があります。その松坂慶子さんが扮する人が、ベトナムの日本人学校で日本語を教える人ですが、自分のお父さんが亡くなって、お葬式に、日本に帰ってきます。年老いたおじいちゃんと、きょうだいはいますが、帰ってしまいます。そして、実は、お父さんと一緒に2人で住んでいた、お母さんが痴呆症でぼけていたのです。その他にきょうだいもいますが、ベトナムで、日本語学校で教えていた、その人が、痴呆のおばあちゃん、母親をベトナムに連れていって一緒に生活するという映画でした。ベトナムの人は非常に温かい人が多くて、快く引き受けて、いろいろな心の葛藤がありますが、力強く生きていくという映画らしいです。ぜひ見に行きたいと思っています。『ベトナムの風に吹かれて』という映画です。
 松坂慶子さんが、そのインタビューの中で、映画の主役を依頼されて、原作も読んで、分かりました、やりますというように言ったものの、なかなかこれだと思うものがなかなかつかめなかったというように言っていました。これだと思うものさえ確かめられれば、どのような映画も演じ切れます。どのような映画でも、頼まれた中で、自分が演じる人がどういう人だった等、いろいろなことを考えたり、調べたりしてですが、必ずそこにこれだと思うものを確かめられたら、女優としてその人を演じ切ることができます。しかし、今回の映画は、なかなかそれが得られなかったというようなことを言っていました。
 私たち一人一人にとってみたら、どうですか。私という1人の人間が命をいただいて、この世を生き切るときにこれだというものが一つ確かめられたら、しっかり私というものを生きていけるというように考えたら、皆さんはどうですか。これだというものが、いっぱいあり過ぎます。松坂慶子さんは、「これだというものが一つ確かめられたら、女優として、その人を演じ切れる」と言います。私たち人間は、どうですか。あれもこれも、どれもこれもと言っているから、なかなかあちらに行ったりこちらに行ったりして定まりません。
 あれもこれもというので、一番はお金です。結局、皆さんは何を頼りにしていますかという話です。最初に、三帰依文の話で言いましたように、仏様の教えを、仏様を大切にしてよりどころとします。よりどころです。私たちが確かなものとして選んだのは仏様というのが、三帰依文です。しかし、実際、そうではありません。僕も、本当にきょうは、皆さんはよくこの因速寺様にお越しになったと思います。もっと他に楽しいことがあったら、これに来ていないと思います。ゴルフに行くか、寺に行くかと、昔からよくいいます。ゴルフをやめて、寺に来ました。すごいです。自分の、選択肢の順序を変えているわけですけれども、皆さんは、人生の中でこれだと、私が生きている分にはこのことさえはっきりしたら自分の人生を全うできるというものはありますか。これが頼りというものもいいです。大体、私たちはお金、健康というようになるわけです。ですから、私たちは、幾つもあるのです。幾つもあるから欲張りで、駄目なのです。生活全部が自分の都合というように、よく言われますが、大体、そのようなものです。
 先ほども言いました。宝くじを仏壇に供えている人はいないと思いますけれども、長生きしたい、僕もそうですし、病気になりたくない、あれも欲しいし、これも欲しいと思います。「寿命の長さが新たな苦をうみ、物の豊かさが恵みを忘れる」というようにいいます。例え話が、そうです。あれも欲しい、これも欲しいというように言っていて、それに苦しんでいるのは私たちです。つまり、仏様の教えだけですというように、私たちはなかなか言えないようなことが問題です。
 きょう、新聞を読んでいましたら、このような話が出ていました。朝日新聞に載っていました。別刷りのほうですけれども、言わせてもらおうという中に、このような話がありました。シートベルトという題が付いていましたが、シートベルト、この夏、山科へバスツアーに行きました。バスの後ろの座席から、親子3人の大きな声の会話が聞こえてきました。結構、ドライなお母さんのようで、サービスエリアで休憩した後、発車する前に、お母さんが娘さんたちに、シートベルトを忘れずに、もし事故したら、保険金の額が違うのだからと話しています。何でもお金に換えます。
 これを読んだときに、思い出しました。今、東京オリンピックのエンブレム、ダメになりました。あれが決まった後も、夜の、何かのテレビで、スポーツ選手が言っていました。「スポーツは公平です。フェアプレーではありませんか。しかし、最近のオリンピックは商業主義で、何でもかんでも全部、お金に換えてしまうから、こうなります」と言っていました。何でもかんでも全部、お金に換えてしまうといいます。なるほどと思って、私たちは一体、何を頼りにしているかということです。
 「ゴールデンタッチ」という話がありまして、有名な話ですが、昔、ある人がいて、子どもがいました。何人か子どもがいて、非常にかわいがっていた人です。ある夢の中に、神様が出てきて、おまえの願い事を一つ、何でもかなえてあげます。その男が非常に欲張りな男だったので、何でもかんでも私が触るものを全て金に換えてくださいというようにお願いしました。目が覚めました。明くる日に、まず、たばこを吸おうと持ったら、金に換わります。次に、灰皿を触ったら、金に換わります。俺は億万長者と喜びました。触るもの、ありとあらゆるものが全部、金に換わってきました。そのとき、とてもかわいがっている息子が、向こうからお父さんと叫んで来て、抱いた途端に、金に換わったという話です。
 ゴールデンタッチという話ですけれども、皆さんはどうですか。何を頼りにしますか。確かなものというのを私たちは何か得ないと、私がいただいた人生を生き切るということは、なかなか難しいということになると思います。


「問題は私」

 そこで、一つ最後に、親鸞聖人のご和讃を紹介して、終わりにしたいと思いますが、親鸞聖人はたくさんの言葉を私たちに残しました。きょう、皆さんが読みました、真宗宗歌の基になる本もそうですが、この後、最後に恩徳讃というのを唱和します。それは、全て親鸞聖人が私たちに残した言葉です。その中で、お念仏というのは、どういうように親鸞聖人はいただいているかということだけ紹介します。
親鸞聖人が、こういう言葉を残しています。
「仏号をむねと修すれども、現世を祈る行者をば、
これも雑修と名付けてぞ、千中無一と嫌わるる」
という言葉があります。仏号をむねと修すれどもというのは、つまり、南無阿弥陀仏というものを称えることを私は大切にしていますというようにしていますが、現世を祈る行者をばということです。現世というのは、この世です。この世を救われたい、つまり、自分の願いがかなったらいいというように願い事をかなえる人は、これも雑修、本当の念仏ではない、それは千の中に一つもないというように嫌うと、親鸞聖人は書いています。簡単に言うと、問題は、私たちがお念仏は大事というように言っていても、自分の願い事をかなうためにお念仏を申していたら、それはお念仏ではありませんということを言っています。
 これを違う言葉で言うと、これを翻訳すると、「わかってはいるけれどもやめられない」ということです。私なりの翻訳をすると、問題は私にあるということです。皆さんは、お彼岸に墓参りをしましたか。行かないと出てきます。
お墓参りです。ここにも、お墓がたくさんありますから、亡き人が呼んでいます。墓参り、合掌した手で蚊を殺すです。分かってはいますが、やめられません。僕も、この間、お墓を直した家があったので、お参りに行きました。お参りに行ったら、ブーンと、大体、蚊が来ます。途端に、僕のお勤めはスピードアップしました。一緒です。お勤めを読んでいるから、パンとできません。お勤めを読んでいるお坊さんが、いくら何でも、その場で蚊をパンとできません。お勤めが終わったらするかもしれませんけれども、一応、これはお勤めしている間だけは駄目だということで、スピードアップするしかありません。「墓参り、合掌した手で蚊を殺す」です。分かってはいますが、やめられません。
 それほど、私たちの、人間のさがというか、そういうものは深いです。それを仏様は散々、私たちに教えていただいています。教えていただければいただけるほど、気付かせていただければいただけるほど、仏様がいかに私たちの救いを大切にしていたか、それを自分の命としていたかということを、教えられていると思います。
 そのときに、私たちは仏様に救われていたというような御礼のお念仏をすると思いますが、問題は私です。しかし、どうにもならないのは私ですが、問題は私です。同時に、仏様の目当ては私です。どうにもならない私ですけれども、仏様の目当ては私です。皆さん、私もそうですけれども、前に、こういうように教えてもらいました。「どいつもこいつも自分が救われないといけないと、誰も思っていません。」どいつもこいつも自分が救われないといけないような人間ですと、絶対に思っていません。仏様は要らないとなるわけです。違います。どうしようもない私ですが、どうしようもない私が目当てでしたというようにいただくことが本当の、私の救いだと、教えていただきます。
 これが、なかなか難しいといいますか。親鸞聖人の言葉で言えば、苦悩の旧里は捨て難くというように教えられます。つまり、どこまでいっても、私の楽しみ、欲望をかなえるというような気持ちのいいことはないという世界を、私たちは捨てられないということです。捨てられないというところに気付けば、まだ救われます。しかし、そのようなことも全く関係なく、私たちは日頃、過ごしていると、私たちは苦しみのるつぼにどんどんはまっていくわけです。決して救われるということはなかなかないということで、どんどん苦しみの中に沈んでいきます。
 仏様は、私たちにそういう姿を知らせると同時に、わたしの、わたしというのは仏様ですが、仏様の、わたしの目当てはあなたですというように教えていただいているということが、私たちのお念仏申すということでないかと思います。「去るべき業縁を催せばいかなる振る舞いもすべし」と教えていただくように、私たちは、条件が整えば何でもしてしまいます。その辺をよくよく心得て、お念仏をいただいていかないといけないと思っています。


   合 掌



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