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  『功』

 人間だれしも年をとっていきます。年齢を重ねるというのは人生経験を積むということですが、世阿弥はこれを「功」といい、人はこの功を積んで老いていくといい、あわせて、その功に安住すると人はまったく進展がなくなり、それを「住功」といって嫌っています。苦しみ悲しみながらひとつひとつ乗り越えてきたこの人生の経験に固執することを強く戒めています。

 進展の「展」とは展開するということで、開かれていくということです。これはごつごつした人生という道を、あっちにぶつかりこっちにぶつかり転がりながら生きていき、その人生の痛み苦しみ悲しみのひとつひとつが、実は人の心の眼(まなこ)を開いていくということを意味しています。

 しかし、おおむね私たちはその人生経験に固執するがあまり逆に心の眼を閉じることとなっているのです。なにか生きることを勘違いしているようで仕方がありません。

  高見順の詩「われは草なり」から。
  「われは草なり緑なり
   全身すべて緑なり
   毎年かはらず緑なり
   緑のおのれにあきぬなり
   われは草なり緑なり
   緑の深きを願うなり」。

はてさて、私はいったい何色に変身しようと願ったのか。

       (「サンガ」季節風から)(禿)



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