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  『元旦』

 子供のころの元旦といえば、目にうつるものすべてが新しくすがすがしく感じられ、またあわただしい年の瀬を越してこころ新たまり、開放感に満ちたり、「今年こそ」の思いが身のうちにみなぎるものであった。
 今年の元旦はどうだろう、年の瀬の恒例のテレビ番組にも、新年のおせち料理にも何も感じない。年末年始も変わらずスーパーは営業、できあいのおせちも売っている。子どもたちはテレビゲーム三昧。凧もあがっていないし、コマも回っていない。まして親戚の家に行って百人一首で坊主めくりなんてない。そしてテロ事件にもめげず家族で海外旅行。いったいどうなっているのだろう。年の節目、かわり目を感動をもって迎えることができなくなった。さらに「おめでとう」なんて言っている自分が何が本当におめでたいのやらわかっていないときている。
 快楽を求めるが故のあまりの物の豊かさは、まちがいなく私たちから感動を奪っていく。水平社宣言には「いたわるがごとき・・・」とあり、このいたわるという言葉に「かすめとる」という意味があるという。とうとう「一年の計は元旦にあり」の正月の感動さえも、知らず知らずのうちに自らの欲望追及のかわりに奪われてしまったのである。


  年賀状をいただいた。
  『ある会話』
    「おやじ、今年はどんな年になるんやろ」
    「それは、どんなおまえになるか、それだけや」
    
    (「サンガ」季節風から)(禿)



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