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  虫さんと葉っぱさんとお盆

 先日、箱根湯本の温泉に宿泊いたしました。初日はお風呂に入りそびれてしまいましたので、翌日の朝早く、最上階の大浴場に入りました。浴場の外には露天風呂もあり、早速外へ出てみると、人一人が入れる大きな陶器のおわん(手水鉢)のような風呂桶が二つ。これは風情のある粋な趣向であると感心しながらドボンとつかると、なんと心地よいことか。眼前に広がる青空とそよぐ木々。浴場にはまだ誰もいないこともあり、独り占めしているような、ゆったりした気分で、私一人の世界に入り込んでしまいました。

 しばらくすると、ふと目の前にある「お願い」の札に目が止まりました。「このお風呂には、虫さんも葉っぱさんも入ります。どうしてもお気になられる場合は、この網ですくってあげてください。」と。あまりの心地よさに、お風呂を独占し、自分一人の世界に入り込んでいた私に、清涼飲料水のような、心優しい旅館の方の志が飛び込んでまいりました。この言葉は、まさに、虫も葉っぱもゴミとして追い出し、わがもの顔で入っていた自分の醜い姿をそこに映し出し、同時に、「そうなんだ、このお風呂は虫さんのお風呂だし、葉っぱさんのお風呂でもあるんだ」と気づかせ、そして、さらに心まで温まる温泉といたしたのであります。

 さて、お盆が近づくと同時に、亡き人(ご先祖)が私に近づいてきてくれます。ご先祖の供養を行うことがお盆であり、お坊さんにお参りしていただくことや、お墓参りをいたすことを思いますと、お盆は私たちが大切にしてきた仏教行事であります。または長い間培ってきた文化といってもいいのではないでしょうか。
さて、その大切なお盆の行いの中で、実は私に近づいてきてくれたご先祖は、こうささやいておられるのです。「なにか困っていることはないか」「おまえの人生、本当にそれでよいのか」などと・・・。亡き人の「いのち」と「人生」が、残された私たちの生き方を問うことばとなってささやいているのです。

 露天風呂の言葉が私に飛び込んできたように、お盆には亡くなっていかれたご先祖さまたちが、仏様として私に近づいてささやき、自らの欲望のおもむくまま他者を排除し、逆にそのことで苦しんでいる私の姿を見せようとしてくれているのではないでしょうか。
先祖を供養するとは、実は救われなければならないのは私であったことを気づかしめることであり、餓鬼のような自らの有様に痛みを感じることによって、やさしさを培うことであったのです。そしてそのことが、亡くなった人を大事にすることでもあったのであります。

 お盆をご縁に、「虫さんも葉っぱさんも入ります」、そんなやさしさあふれる家庭や社会にしていきたいものです。

     禿 信敬


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