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  「浄土か天国か」?

 葬儀のときのお別れの言葉は、故人の人となりをよく表し心のこもる言葉が多い。涙をさそうことも多く。私の田舎では村人からの弔句も披露され、見送る人々の悲しい心音を響かしている。
 まさに「寂しさは、もらった愛情の裏返し。懐かしさは、充実していた思い出の裏返し」であります。
 ただ真宗の土徳の厚い土地でも、近年、最後の施主の会葬御礼に気になる言葉が多くなってきた。「草葉の影で」「あの世で」「安らかにお休みください」等々。さらにテレビを見るに、「天国にいって」「お星さまになって」、最後は「ご冥福をお祈りします」となります。浄土も天国も冥土も、同じような意味で使われています。
 あらためて、浄土真宗の宗風がなくなりつつある、いや、なくなっている現実と、「○○寺の門徒・檀家です」、「真宗門徒です」というところに落ち着いている現実、そして浄土真宗の「浄土」「念仏」ということを伝えていない僧侶の責任を痛感いたします。あわせて僧侶と門徒の感覚のズレ・すれ違いを感じます。
 最近「お念仏で救われるということはどういうことか」という思いがずっとあります。
「お念仏」を疑っているといえばそうなのかもしれないし、「救われる」ということは具体的にどういうことなのかはっきりしたいということもあります。当然、聞けば「わたしたちはいつも、自分にとって都合よい願いがかなうことを救われると感じているのです」と指摘されますが、どうにも上滑りしている。?

 こういうときは、やはり繰り返し原点に帰るしかありません、法蔵菩薩の四十八の願がすべて備わる国、「浄土」は、自分自身のみの幸せを得ることが出来るところではなく、?仏さまと一緒になって、悩み苦しむ人びとを、一人も漏らさず救う働きに、わたしも参加できるところであります。「私を幸せにして下さい」という願いでなく、すべての人の苦しみ悩みを取り去るために、働き続けられる仏様の大事業にわたしも仲間として参加させていただくのであります。
 どうも「救われたい」と思う出発点でわたしたちは間違っているようですが、その「救われたい」という思いをきっかけとして、そこで仏法にご縁をいただくならば、「天国から浄土へ」の展開への道が開かれてくるのでありましょう。まさに行ったり来たりの繰り返し、「仏法は聴聞にきわまれり」であります。

合掌(禿)





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