トップページへ  
  『遠く宿縁を慶べ』

 ある嵐の過ぎ去った朝、練馬にあります真宗会館別館4階のわたしの部屋からは、遠くの富士山が美しく輝いてくっきりと見えました。日々大切な時間を送りながらも、「いったい何をしているのやら」と・・・曇る心と眼でありましたが、その美しくも輝く富士山は私の心と眼を洗うように私の中に飛び込んで「ハッ」とさせたのであります。こんな富士山は初めて見たと一瞬思いましたが、いつも眺めているはずの富士山のはず、嵐の過ぎ去った朝も何度もあったはず、なぜかその日に限っての出来事でありました。もんもんとした日々を送っていても、何故かそのような透き通るほどの曇りのない人生でありたいという願う私が顔をのぞかせた気がしました。

 西洋に次のようなことわざがあります。「一日だけ幸せでいたいなら床屋に行け。一週間だけ幸せでいたいなら車を買え。一ヶ月だけ幸せでいたいなら結婚をしろ。一年だけ幸せでいたいなら家を買え。一生幸せでいたいなら正直でいることだ」。
 私たちの生き方は「正直者が馬鹿を見る」という損得勘定でありますが、逆に「正直の頭(こうべ)に神宿る」という先人の大切な言葉もあります。いったい「正直」とはどのようなことなのでしょうか。

 先日ご門徒のお家にてお子さんが誕生し、お寺からご本山の「誕生念珠」をお送りさせていただきました。お寺へはその念珠をもってお母さんかお祖母さんが抱いてお参りいただけます。さて、この「誕生念珠」の包みには、「遠宿縁慶」の四文字が書かれています。『顕浄土真実教行信証』文類序の「遠く宿縁を慶べ」(遠い過去の世からの仏縁を慶べ)という、親鸞聖人のお言葉です。子供の誕生といいますと北陸地方の「子育ては御佛事である」という言葉も思い出されますが、ひとりの人間の誕生にいたるご縁の不思議さと、誕生したいのちとの出会いの感動を表す教えの言葉であります。
 さて、「正直」とは自分に正直であるということでありましょう。その自分の正直な心とは、透き通るほどの曇りのない人生でありたいという願いでありましょう。そしてそれは、いつもは欲という名の私に隠れていますが、時として私の身の上に現れ出る遠い過去の世から流れる仏さまの願いではないでしょうか。はるかかなたに仏のお姿を見、遠い存在として、なんとかお近くに寄ろうと試みる私でありますが、実はそんな私の奥の奥に仏様は宿っていてくださって、透き通るほどの曇りのない人生でありたいという願いとして表出するのであります。
 仏さまの願いが富士の山と共に私に差してきたのでしょうか。

合 掌(禿)





先頭のページ 前のページ 次のページ 末尾のページ